死んだ君のこと

 「行ってくるよ」
冷えたフローリングにぺたりと足を張り付けて座り込む彼女に、やっと掛けられた言葉がそれだった。
下を向いているせいで顔はまったく見えなかったが、彼女が笑っていないことは想像に容易い。
口の中が切れているわけなんてないのに、じわりと血の味がする気がした。

 僕の日常は特別に何か変わったりはしない。
クラスメイトに痣が残るまで殴られても、就職活動がどんなにうまくいかなくても、それは微々たるもので、たとえば虫に刺されたとしてもその刺激に違いなんてないのだ。
ただ、彼女の存在は、僕の日常を小さくだが変えた。
僕は生きた人形のような、名前もない彼女を猫でも拾うようにほいと部屋に連れてきた。
彼女は明らかに生きていて、最初は生命すら危惧したが問題はなく、ただ意志疎通ができなかった。
大学病院に連れて行ったら脳神経外科では異常なしと、精神科では失語症、あるいは統合失調症の可能性があると言われた。
入院を勧められたが断り、代わりに処方された大量の薬を持ち帰って彼女と膝を突き合わせて話し合い―――もとい僕の独り言に終わったのだが―――をした結果、生命に問題がなさそうなので服薬もしないことにしたし、次の診察も断ることにした。

 あれからもう三年が経つ。
彼女の声は今も聞いたことがないし、表情の変化もないし、今も意思疎通は取れない。
それでも僕が仕事に行っている間にゴミがなくなっていたり、気が付けば毎日が埃もない部屋になっていたり、溜まってしまう前に服が洗濯されていたりする。
僕が見る限りでは、彼女は決して自発的に動かない。
寝るよ、と言えば寝室にやってきて、おはようと言えばリビングのソファーに座る。仕事から帰ってくると、真っ暗な中で相変わらず彼女はソファーに座っている。
もちろん本やパソコンやゲーム、ありとあらゆる暇を潰せそうなものを与えてみたが、何ひとつとして触った形跡すらなかった。

だから彼女は死んでいるのだと、僕は思っている。
それでも今日、僕がコートを正して鞄を持ち上げて、じゃあ行ってくるよ、といつもの挨拶をしたら、彼女はいきなり立ち上がり僕の目の前まで駆けてきて、そして崩れ落ちた。
聞き間違えかと何度も耳を疑ったが、床に座り込んだ彼女は確かに言った。
「行かないで」



fin.

死んだ君のこと

死んだ君のこと

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-04-06

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