卯月の恋
TOSHIXXX渾身のラブストーリー
( 1 )
その寝顔は、正に観音菩薩のようだった。
死期が近いから、ということではない。祖母の吉枝は、いつも優しい笑顔がよく似合う人だった。そして、凛とした美しさをいつまでも纏った女性だった。肺炎が悪化して、呼吸用のマスクが口元を覆ってしまった今も、それは変わらない。
ここは千葉県の市民病院の入院病棟の個室。季節は4月を迎え、街は満開の桜に沸き立っていた。
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。ありさは、コンビニでおにぎりとお茶を買ってきた母親の美佐子に揺り起こされた。
「こんなところでうたたねしてたら、ありさまで風邪ひくよ」
ごめん、と言いながらありさはあくびをして、そのまま軽くのびをした。
「ママももう少し、外でゆっくりしてきたら良かったのに」
「やっぱりおばあちゃん、気になるからさ。でもありさのおかげで気分転換できた。ありがとう」
ありさは、屈託のない笑顔を浮かべた母親をまじまじと見つめる。今でも趣味のママさんバレーを続けているおかげか、実際の年齢より10歳は若く見える。それでも後30年もすれば、彼女との別れも経験するのだろう。
ありさは一人っ子だ。父親はまだありさが10歳の時に他界した。それ以来、母と祖母と共に暮らしてきた。身内で早く亡くなる人間が多かったけれど、美佐子だけは、これからもずっとそばにいてくれるような気がしていた。
「まあ、それにずっと油を売ってる訳にもいかないでしょ。だって貴女、本当に今日の昼から、静香さんのところに行くつもりなんだから」
ベッドのシーツの乱れを直しながら、美佐子に軽く言い放たれてありさはぎくりとした。今、母はどんな気持ちでいるんだろう。動揺を悟られないように、ありさは大声を張り上げた。
「もう分かっちゃったんだし、今更、ずっと知らないふりはできないよ。まあ、会ってどうにかなるのかって話だけど、向こうが会いたいって言うんだし、ケジメ―付けないとさ」
それは多分、誰のためでもなく、本当は自分自身のためなのだ。
「ホントに、何にも持っていかないつもり?」
そんなの当たり前じゃん。死別した夫のかつての不倫相手に、しょぼい菓子折持ってこられても、喜ぶ女なんていないだろう。下手すりゃ、そこでゲームオーバーだ。
軽い調子で深刻な話をする娘と孫のそばで、吉枝は年老いた眠り姫のごとく、ずっと寝息を立てている。
「おばあちゃんの容態が落ち着くまで、もう少し待ってほしいところだけど、そういうわけにもいかないのね」
美佐子はありさの方に向き直り、腰を自分で軽くマッサージしながらしかめ面をしてみせた。もしも静香がこの様子を見たならば、この母にしてこの娘ありときっと軽蔑するのだろう。
美佐子はまっすぐありさに歩み寄り、しっかりと両手で肩をつかんだ。
「顔だけ見せたらすぐに戻ってきて。ママはいつでも、貴女の味方なんだから」
本当は泣きたいくらい不安なのだが、そこはぐっとこらえて、ありさは不謹慎な微笑み返しをしてみせた。
美佐子に促されて、今度は入れ替わりにありさが病室を後にした。
ありさはまっすぐ、分煙スペースに向かった。丁度昼ご飯時だったせいか、スペース内には誰も人がいなかった。別に病院なんだから全面禁煙にすりゃあいいのだが、ただでさえいい気分で病院に来る人なんていないので、息をつける場所は必要なのだ。ありさは沈み込むように、古びたソファーに腰を下ろした。
セーラムを取りだして、少しはすっぱに口にくわえてみる。100円ライターで火を付け、半分遊ぶように次々と煙を吐き出した。
静香から、連絡があったのは数日前のことだった。ずっと、迷っていたらしい。でも、きっとばれると思っていた。真意を悟られぬように、ごくごく平凡な涙を浮かべて参列した、通夜の時からずっと、そんな予感がしていた。
今日の天気は、夕方までずっと晴れるらしい。夜からは雨で、今日が最後の桜日和になるかもと、若い気象予報士がテレビで言っていた。少し陰のある美女が麗らかな春の日の桜並木を歩く。うん、きっとそれは絵になる情景だ。
段々と、張り詰めていた気分がほぐれてきた。もう何も考えまい。いくら計らってみたところで、なるようにしかならないのだ。ただ、逃げるのは嫌だ。
向き合わないのが、一番嫌なのだ。
もうぐずぐずしていられない気分になってきた。5分ほど休んだ後で、ありさはこのまま出かけると静香に一方的にメールして、病院を出た。
( 2 )
初めて訪れた晃のマンションは、満開の桜並木に面していた。少し車を飛ばせば24区に入る、千葉県浦安市の閑静な住宅街。品のいい子供達の笑い声が、マンション内に造られた小さな公園から高らかに響いていた。
久方ぶりに顔を合わせた静香は、化粧もせず、髪もひっつめにしたままで、かなりやつれて見えた。
静香の娘で、高校生の由香は、ありさの姿を見るなり、顔をひきつらせて戸惑いながらも軽く会釈した。
8畳程の居間に通され、ありさは所々にコーヒーの染みが残る、古びたクロスが掛かったテーブルに付いた。
能面のように無表情なまま、静香はリプトンのティーバックで入れた紅茶を、ありさに供した。
ティーカップはナルミだった。静香は平静を装っているが、射抜くようにありさを見つめる様からは、言いようのない感情が透けて見えた。二人は重苦しい沈黙に包まれて、無言のまま向き合った。
新聞の集金がやって来なければ、永遠に二人は石像のように時間を止めたままだったかもしれない。他愛のない世間話を切り上げて居間に戻った静香は、ようやく平静さを取り戻したようだった。
「つまらない前置きは、もうこれで充分。まあ、心配しないで。貴女に今更慰謝料を請求するつもりなんてないから。私達は、全然お金には困ってないわ。ただ、話がしたかったの」
はあ、と答える訳にもいかず、ありさは無言のままティーカップに視線を落とした。
唇にはリップクリームすら塗られておらず、静香は完全なすっぴんだ。彼女は白髪の目立つブラウンのロングヘアーをぐしゃぐしゃに掻きあげた。
以前の静香は、歳を経るごとに艶を重ねていく、健康的な色気のある女性だった。今はもう、住む人を無くした住処のごとく、荒れるに任せたままだ。
かくいうありさも、もう30歳を過ぎてしまった。幼い頃から散々持ち上げられた美貌のおかげで、彼女に言い寄る男は今も少なくないが、自分もこれからは下り坂に入ることをしっかり認識していなければならない。やっぱり花盛りは、20代でおしまいなのだ。
―どうして、同じ男を愛してしまったのだろうか。
「貴女も、もういい歳よね。大切な時間を未来のない快楽に費やすなんて、ホントに馬鹿なことよ。アラサーブームなんて、真に受けてると、痛い目に遭うんだから」
静香は鷹揚にティーカップを手に取る。泥棒猫とは違う、正妻の自分は、形のある確かな物を、今も沢山手にしてるんだと言いたげだった。
紅茶の茶色の水面に、ありさの顔が映る。確かに自分は、もう若くはないと思う。
「そう言えば、吉枝さんの方は大丈夫なの? もう、かなり悪いと聞いたけど」
ご心配なく。そう言ってやりたかったが、実のところありさにも自信はなかった。実際、病院からはいつ危篤状態になってもおかしくないと言われていたのだ。
「正直、もう長くはないのかもしれません。でも、今なら祖母も悔いはないと思います」
「どうして?」
「今は桜が満開です。祖母は、桜が大好きだったから」
桜ね。冷笑を浮かべながら、静香は紅茶を一気に飲み干した。
決して目を逸らすまいと、ありさは静香の憎悪に満ちた視線を受け止めた。居間にはまた、気まずい沈黙が降りてきた。
( 3 )
吉枝は、不思議な光景の中にいた。
中国山脈のふもとの盆地に開けた、小さな町。町の中央をN川が流れ、高台の上に立つ町役場を中心に、同心状に町は広がっている。
―ここは、私の故郷だ。
吉枝は、町役場の脇にある小さな公園で、目を覚ました。麗らかな春の陽気に包まれた、心地よい眠りだった。公園には満開の桜が何本も植えられていて、木製のベンチの上で目を覚ました時も、桜色の花弁がひらひらと吉枝の頬を撫でていた。
吉枝は高台の上から、町を見下ろした。N川の川岸には桜並木が続き、狂おしく咲き乱れている。元々この町は備中地方の桜の名所として知られていた。平安時代末期には、有名な歌人がこの地の桜の美しさを愛でた歌も残されているくらいであった。
遥か南方に、この町のはずれにある国鉄の駅が見えた。駅舎の周りにもソメイヨシノが植えられていて、線路の中まで花弁が舞っていた。この町で、吉枝は16歳まで暮らしていた。青春を過ごした町並みを見下ろしている内に、吉枝の胸中には言いようのない懐かしさが溢れた。
―何故、私はここにいるのだろう。私は肺炎で入院していて、もう余命いくばくもないはずだったのに。それに、見渡す限りまるで人の気配がしない。
とにかく町に出よう。そう思い、高台からふもとに続く階段を降りようと、町役場に向かった吉枝は、建物の窓ガラスに映った自分の姿に驚愕した。
信じられない思いで、吉枝は顔に手を当てた。全く皺は無く、逆に肌には強い弾力と潤いがある。白いブラウス姿に、紺のロングスカート。肩に掛る艶やかな黒髪。間違いない。老婆だった吉枝は、この町を出た16歳の姿に若返っていた。
大きく嘆息して、吉枝は町役場の脇にある長い石段を下り始めた。足元には、桜色の花弁が溢れている。吉枝の足音が、柔らかく響いた。
町に降り立ち、澄んだ春の空を見上げると、ぴーひょろろと鳴きながら、鳶がゆっくりと旋回しているのが見えた。どうやら、この町にいないのは人だけ
のようだ。
この状況を、完全に受け入れたわけではない。でもいつまでもぼんやりしている訳にもいかなかった。
まず吉枝は、N川のほとりに建つ自分の生家を目指すことにした。それは土塀に藁ぶきの屋根の昔ながらの家屋で、裏手には急斜面の山がそそり立っている。がけ崩れが起きたらひとたまりもない、そんな小さな家だった。
この町を出たのは、太平洋戦争が終わり、父親が大阪の兄の事業を手伝うようになったからだった。それ以来、墓も大阪に移し、この町を訪ねることはほとんどなかった。
どうやら、町全体が吉枝が若かりし頃に戻ってしまっているようだった。昭和の終わり頃、この町に高速道路が通り、大きなサービスエリアができた。勿論今はそんなものは見当たらず、コンビニすら見えない。続いているのは、どこまでも吉枝が青春時代を過ごした町並みだけだった。
深呼吸してみる。温かい春の空気が肺の隅々まで満たしてくれる。もしこの町にずっと残っていたなら、私はどんな人生を送っていたのだろう。
歩いている内に、吉枝は報恩堂の前に来た。
目にしたのは久しぶりだが、やっぱりとんでもなく大きなお屋敷だ。立派な瓦造りの屋根に美しい白塗りの壁は、紛れもなくこの家の主がこの町の名士であることを示している。吉枝はしげしげと白壁を眺めた。この建物を見上げたのは、本当にいつ以来だろう。
その時、吉枝は誰かに強く肩をつかまれた。振り向いて、相手が誰かが分かった瞬間、吉枝の瞳は大きく見開かれた。
( 4 )
6畳の仏間に、チーンという音がしめやかに響いた。鼻腔の奥に、線香の煙がすうっと入り込んでくる。ありさは、無心で位牌に手を合わせた。すぐ後ろにいる静香がどんな表情でいるのかは、想像もつかない。
遺影は無く、戒名もどういう意味で付けられたのかはまるで分からない。ただ、手を合わせることができた安堵感だけが残った。
少し外の空気を吸わないかと静香に誘われ、二人はバルコニーに出た。春の日差しが二人を照らし、微風がうなじをそっと撫でていく。静香は手すりに手を掛けて、3階にあるこの部屋の、丁度正面に立つ桜の木に目を遣った。
「桜は、日本人なら、きっと皆好きね。桜が嫌いなんてのは、下手したらカレー嫌いよりも、遥かに少ないんじゃないかしら」
桜の花が咲くのは、せいぜい2週間。それなのに日本人の心の中には、古来より桜が息づいている。
「靖男さんも、桜が好きだったの?」
不意に、静香はありさの父親のことを尋ねた。さて、どうだったんだろう。父が亡くなってから、20年を過ぎた。月日が経ったということもあるが、元々父親のことは良く知らない。
「父のことは、あまり良く覚えていません。正直、父のことを意識する思春期の前に、別れてしまったって感じで」
そう。でも貴女は間違いなくお父さん似なんだけどな。そう言って、静香はありさの方に向き直った。
「正直、私は靖男さんに憧れた時期もあったわ。ハンサムだったし、才能もあった。ホントに素敵な人だった。でも、ほとんどの人間は理性が働くから、夢は夢で終わるものなのよ」
ゆっくりと、断罪の幕が上がろうとしていた。
「許されぬ恋をして、それに浸るというのは、果たしてどんな気分なのかしら。優しくて誠実だった、靖男さんが今の貴女を見たら、どう思うのかしらね」
「何が言いたいんですか?」
「決まってるじゃない。私は貴女を絶対に許せないし、何より可哀そうだと思う。ただ、それだけよ」
室内からは、流行りのダンスミュージックが響いていた。由香が聴いているのだろう。今時の中学生なら、こんな修羅場にも大して動揺しないのかもしれない。
またありさに横顔を向けて、静香は大きく深呼吸をした。仏壇で手を合わせることを許したのは、結局は哀れみからなのか。涼しい瞳で毒を吐き続ける彼女の横顔からは、真意はまるで読み取れなかった。
( 5 )
「アンタは―」
吉枝は自分の肩をつかんだ相手の姿を目にした瞬間、言葉を失った。
180センチはあろうかという、長身で引き締まった細身の身体。色白で、眉が濃く優しげな表情。この顔を、この姿を忘れるはずがない。
「浩ちゃん、何で―」
吉枝の眼前の青年の姿は、吉田浩一郎。備中では知らぬ者のない有名な和菓子屋の報恩堂の次男坊で、吉枝より二つ年上の幼馴染だった。白い開襟シャツと、ハイカラだったタータンチェックのモスグリーンのパンツ。若返った吉枝と同じように、浩一郎も18歳の若かりし姿のまま、微笑を浮かべていた。
「久しぶりだな、吉枝」
低くて落ち着きのある懐かしい声が、誰もいない春の町に響いた。少し茶色がかった澄んだ瞳に、戸惑う吉枝の姿が映っていた。
風が強くなり、吉枝の黒髪が激しく揺れた。吉枝は堪らず目を細めた。困惑と疑念は消えないものの、たちまちの内に吉枝の胸には言いようのない懐かしさが溢れた。
「浩ちゃん、これはどういうこと? 何で?」
「不思議に思うのも無理ないな。でも大丈夫。後でおいおい説明はするさ」
浩一郎の少しはにかむような、優しげな微笑はあの頃のままだ。吉枝は、浩一郎と一緒だといつも穏やかな気持ちになれた。
「立ち話もなんだ。ウチで桜餅でも食べよう。長いこと食べてないだろ。きっと美味いぞ」
そう言って、浩一郎は報恩堂に吉枝を招き入れた。
報恩堂は玄関口は店舗になっているが、それ以外は完全な住居だった。吉枝は、1階の一番奥の部屋に通された。そこは20畳はあろうかという大広間だった。吉枝は杉の木をくりぬいて作られた、見事な黒机で再び浩一郎が戻ってくるのを待った。程なくして浩一郎が、桜餅の入った皿と、玉露を入れた湯呑を乗せた丸盆を持って現れた。
「お腹空いてないか? とにかく食べよう。実は俺も、ウチの桜餅は久しぶりだ」
お盆を机の中央に置いて、行儀よく浩一郎も正座した。今度は吉枝がそれぞれの手前に湯呑を置いた。天井近くの台輪には、ずらりと報恩堂歴代当主の写真が飾られていた。
浩一郎は嬉しそうだ。吉枝は何故浩一郎が、久しく実家の桜餅を口にしていなかったのかを知っている。何故なら、浩一郎は―。
何十年ぶりに味わった桜餅は、やはり格別だった。軽い塩気と、甘過ぎず、それでいて肌理が細かく繊細な味の餡が口一杯に広がった。
「浩ちゃん、ここはどこなの?」
「どこって、変なこと聞くんだな。俺達の生まれた町じゃないか」
涼しい表情で、浩一郎は湯呑に口をつけた。
「ホントに? じゃあ何で私達以外には誰もいないの? 後は、私はお婆ちゃんだった。それなのに、何で今若返っているの?」
矢継ぎ早に問いかける吉枝に対して、浩一郎は相変わらず悠然とした様子だった。
「まあ、それは気になるだろうな。でも俺も吉枝に聞きたいことが、沢山あるよ」
喉に詰まりそうになり、吉枝は堪らず食べ掛けの桜餅を玉露で流し込んだ。
「浩ちゃんは、何を聞きたいの?」
「まあ、俺の方は後にするさ。先に吉枝の質問の答えだ。吉枝、ここは―。お前の夢の中だ」
「夢!? でもそれにしては、いやに何もかもはっきりしているよ。夢なら、何ていうか、もっとぼんやりしているんじゃないかな」
浩一郎の表情から、微笑が消えた。
「確かにそうだな。でも、それには訳がある。この夢は―覚めない。今お前が見ているこの夢は、覚めないんだ」
「覚めない? それってどういうこと? 覚めないなんて、そんな夢はないよ」
浩一郎は吉枝から視線を逸らし、台輪に飾られた先祖の写真を見つめた。
「吉枝、人はいつか死を迎えるよな」
穏やかだったが、低く重く響くその声に吉枝は息が苦しくなった。
「吉枝、この夢は、お前が見る、最後の夢なんだ」
「最後の、夢―」
ゆっくりと吉枝の脳裏に、この故郷で目覚めるまでの日々が蘇る。肺炎になって、地元の総合病院に入院していた。数十年連れ添った夫は既になく、娘がずっと付き添っていてくれた。
そういうことか。もうすぐ自分は逝くのだ。
だから、この町に舞い戻り、若かりし姿で浩一郎にもう一度出会えたのだ。浩一郎は、終戦間近の昭和20年の春に学徒出陣し、沖縄戦で戦死していた。
( 6 )
許されぬ恋。それが分かっていたからいつかは終わりが来ることは覚悟していた。でも、それは余りに唐突な幕切れだった。
鎌倉の海沿いの国道134号線。2月の真夜中、ガードレールに晃が運転していた乗用車が激突した。中にいた晃は即死。ひどく泥酔しており、とてもまともに運転ができる状態ではなかったのことだった。
二人の関係は、誰にも知られていなかったから、警察の照会に立ち会うこともなく、間抜けなことにその死を知るのは順番で言えばかなり後の方だった。インテリアデザインの仕事が立て込んでいたから、連絡がない。その程度にしか、考えていなかった。結局は都合のいい不倫関係とはそんなものなのだと、最後の最後で思い知らされた。
ありさは、元々感情が表に出る方でなかったから、通夜に参列した際も誰にも悟られることはなかったはずだ。冷静だったありさをよそに、他の人間は明らかに自殺と分かる死に方だったせいで、皆動揺していた。冷たいみぞれが降り続いた夜だった。ありさは目を真っ赤にした静香と由香を見て、今更ながらに鈍痛のような罪悪感を覚えた。
その後しばらくは心の整理が付かず、気力を振り絞って何とか自宅と職場を往復するだけの日々が続いた。食事を取るのが億劫で、ろくに眠ることさえできなかった。そのせいで、本来は丈夫なはずのポトスの鉢を枯らせてしまった。
季節が巡り、春が来た。テレビで桜日和を告げるニュースを目にすることが多くなった頃、ようやくありさは止まったままの時計を動かす気持ちになった。平日に有給を取り、彼女はレンタカーを借りて鎌倉を訪れた。
海開きはまだ数カ月先だ。シーズン中は混雑で泳ぐどころではない稲村ケ崎も、その日は貸し切り状態だった。湘南の海を見下ろすレストランの駐車場に軽自動車を停めて、ありさは浜辺に降り立った。
風が強いせいで、いつもより波が強かった。晃は海が好きで、よく二人は泳ぎにこの場所に来た。今は、誰もいない。遠くでシェパードにフリスビーを投げている家族が一組いるだけだった。
今日はベージュに水玉模様の下ろしたてのワンピース。この春に備えて、冬の間に晃と買いに行った一品だった。もう、今日はこの姿を見てくれる人は誰もいない。ありさは、砂浜にしゃがみ込み、組んだ腕に顔を埋めた。
目を閉じると波音しか聞こえない。優しい音だ。もう少しで、ようやく泣けそうな気がした。
―ごめんね、きっと耐えられなかったんだよね。あなたは、神経が細いから。
恵比寿にある行きつけのイタリアレストランで、子供が出来たと告げた時、晃はほとんど表情を変えずに、ただそうなのかと呟いてうつむいた。
あの情景が、ずっと脳裏から消えない。思えば、あの夜から恋の観覧車は、ゆっくりと下降し始めた。
満潮が近くなったのか、いつしか波がありさの足元を洗っていた。慌ててありさは目を開いて立ち上がった。辺りは水浸しだ。もしこの砂浜が渇いた私の心なのだとしたら、時間の波は心の傷は癒してくれても、決して過去までは運んでくれないのだろう。
回想から覚めた時、目の前では入れ直した紅茶のカップが目の前に置かれ、ありさは再び元の居間で、静香と向き合っていた。
「貴女、子安地蔵にも通ったんですってね。それはいい心がけだと思うわ、でもどうしてなんでしょうね。そんなに賢明なのに―。勿体ない」
それなのにどうして肝心なことはこんなに馬鹿なのか、本当はそう言いたいのだろう。子安地蔵は、千葉県にある水子供養で有名な場所だ。
「あの人がこの世からいなくなった理由、それはもう考えないことにしてるのよ。不思議なものね。まあ、そうじゃなければ貴女に会う気も起らなかったでしょうけど」
誰もいない鎌倉の海で、一人ドライブをしてから丁度一年。お互いその間にそれぞれ傷を癒した。だけどまた、ここできっと血を流す。目的を無くした不毛な戦いの結末は、まだ見えなかった。
( 7 )
二人は、再び春の町に足を踏み出した。相変わらず誰もいない。二人は、報恩堂を後にして、N川の上流に向かって歩いていった。その場所は、二人にとっては思い出深い場所だ。
元々吉枝も口数が多い方ではなく、浩一郎に至っては完全な口下手だった。二人は自然に無言になった。
濡れた土、柔らかな春草、足の裏に刺さるような小石、それらの感触が靴から伝わる度に、青春の記憶が鮮やかに蘇る。吉枝は16歳でこの町を後にした。あの時は今とは全く逆だった。担任の教師や級友が皆総出で、別れを惜しんでくれた。ただ、そこに浩一郎の存在だけがなかった。あの良く晴れた朝は、皆の優しい表情に救われた。それでも、心に負った深い傷は癒えなかった。
浩一郎は、無口で、少し気弱だったけれど、いつもそばにいるだけで、吉枝を安心させてくれた。
この町を出て、強く生きていこう。この町を出れば、時間はかかってもきっと忘れられる。あの頃は、そんなことしか考えられなかった。
今は違う。誰もいなくなったこの町に、浩一郎だけが存在している。この世で見る最後の夢の中で、浩一郎だけがそばにいる。
二人は川の上流に向かって歩いた。やがて二人は、小さな滝壺に辿り着いた。
「浩ちゃん、この場所を覚えてる?」
浩一郎は無言で頷いた。目の前にあるのは名もなき小さな滝だが、その短い流れは荒々しく、この町を覆う静寂を見事に破っている。浩一郎は、憂うような表情で滝を見上げていた。
「ここには龍神さまがいるって言われてた。だからこの場所で、約束したよね」
必ず帰ってきて。必ずこの町に戻ってきて。その先は言えなかった。自由な恋愛など一般的ではなかったあの時代、その先の約束を交わすには、まだ二人は若すぎた。どうしてと聞き返す浩一郎に、吉枝は彼の白いシャツの袖を引っ張り、どうしてもと言い返すのが精一杯だった。浩一郎は少し戸惑う仕草を見せたが、すぐにまっすぐ吉枝を見つめて、無言で頷いた。
あの約束から、60年以上の歳月が流れた。もう、忘れたはずだった。何より、二度と会うことは叶わない、そう覚悟していたはずだった。
「ねえ、浩ちゃん。どうして、浩ちゃんは―」
「吉枝、今だから思うんだ。沖縄戦で生命を落として、そこで俺の人生は終わってしまったけれど、それで良かったんだって。もう少し歳を取ってたら、きっともっと早くに兵隊に取られて、中国大陸の戦地で人を殺して、他にもたくさんむごいことをして、それでまたどんな顔をしてここに帰ってこれたんだろうと、そう思うんだ」
「でもそれが戦争だから、皆お国のために戦ったんだから。そんなこと、浩ちゃんは考えなくていいよ」
果たして浩一郎が無事に帰還していたら、傷ついた彼の支えになれていただろうか。今さらながら、吉枝の胸はキリキリと痛んだ。
すぐそばの、この町で一番高い場所にある桜並木も花盛りだ。故郷の桜はどこも満開だ。二人を激しい水音が包んでいる。
「俺の時間は、ずっと止まったままだった。吉枝、お前の人生はどうだったんだ?」
吉枝は、桜の木の下に歩を進め、桜色の花弁が舞う中で、浩一郎と死別してからの自分の人生について話をした。大阪に出てから程なくして見合い結婚をしたこと。二人の息子と一人娘を設けたが、息子達には先立たれてしまったこと。その代わりに孫達は皆元気に成長していること。一通り話し終えた後で、吉枝は様々なことがあったように思えた自分の人生が、実は簡単に400字詰め原稿用紙1枚に収まる程度のものであったことを思い知らされた。
―何より、自分の人生で今日以上の日は、一日たりともなかった。
浩一郎は桜の木の幹に背を預けて、大きく伸びをした。
「吉枝、最初に話したとおりこれは、お前の最後の夢だ。決してこの夢は、覚めることはない。このままお前の人生は、終わりを告げる」
改めて死の宣告を受けると、相手が死神でなく浩一郎であっても、じとりと嫌な汗が出る。
浩一郎は吉枝に向き直り、まっすぐ視線を向けた。
「どうして俺がここにいるか、分かるか?」
うまく答えることができない。本当は、全て分かっているのに。浩一郎が言葉を継いだ。
「吉枝、迎えにきたよ。俺と一緒に、来てほしいんだ」
その瞬間、木立に突風が吹きこんで来て、吉枝のスカートを激しく巻き上げた。それは、この町を出た日から、決して夢想してはいけないと、封印した情景だった。
「今すぐに返事をしてくれとは言わない。あの駅で待ってる、そこから出発するんだ」
浩一郎は一瞬厳しい表情を浮かべたが、すぐにまたいつもの穏やかな微笑を取り戻した。
「この日を待ってたよ。吉枝、俺はずっと……お前が好きだった」
これは夢だ。ただ覚めないだけの夢だ。分かっているのに、眠りに落ちた瞬間に自分の人生は終わったことは分かっているのに、吉枝は何も答えることが出来なかった。
先に行ってる。もし答えがノーなら、また高台の町役場に戻って、目を閉じればいい。そうすれば、また別の”最後の夢”を迎える。もうそこには、俺はいない。それだけ言うと、浩一郎は足早に山道を駆け降りて行った。激しい滝の水音が、昂ぶる吉枝の鼓動に重なった。
すっかり浩一郎の姿が見えなくなった後で、吉枝は桜の木を見上げた。
浩一郎の戦死の報を聞いたのも、丁度この頃だった。あの日からこの場所は、何も変わっていない。滝から響く水音がゆっくりと、吉枝の記憶を呼び起こす。
遅過ぎたけれど、失ってはっきりと理解できた。幼馴染でもなく、友達でもなく、未来を共に生きる人として浩一郎を想っていたことを。肩を並べて歩きながら、交わしていた何気ない言葉が紡いでいた絆の意味を。幼いもの、小さなものを共に見て微笑み合っていた二度と帰らない日々を。
あの日も、町は桜一色で、この滝のほとりで、吉枝は泣いた。出征前に撮影
した浩一郎の写真を胸に抱き、花弁が舞う、満開の桜の下で、いつまでも吉枝は泣きじゃくった。
結婚した夫は、優しい人だった。愛らしい子供達にも恵まれた。暮らしに大して困ることもなく、二人の息子と夫には先立たれてしまったけれど、今日まで吉枝は穏やかな人生を歩むことができた。
―この夢を拒絶したら、私は最後にどんな夢を見るのだろう。
少しずつ地面に桜の花弁が積もり、滝壺では白い飛沫が弾けては消えていた。
「母さん、最後は自分で決めていいんだよ」
不意に吉枝の背後で甲高い声がした。子供の声だ。吉枝が振り向くと、視線の先には半袖シャツに短パン姿の、二人の少年の姿があった。
( 8 )
今目にしているのは見慣れた道だ。龍神滝からふもとに続く山道は、生まれてこのかた数えきれない程行き来した。それでも今日、まるで見える景色が異なるのは、きっと初めて浩一郎の背中におぶさったままこの道を通るせいだろう。
吉枝の脂汗のせいで、浩一郎の白いシャツはすっかり濡れてしまっている。申し訳なく思うのだけれど、今は一歩たりとも自分の足で歩けそうにない。
龍神が遂に現れたとの噂を聞きつけて、浩一郎を誘って滝壺まで来たのは良かったのだが、突然下腹部に激しい痛みを覚え、そこからはふもとの病院を目指すべく、浩一郎が吉枝をおぶった。それからもう、十分近くは山道を下っているはずだった。
「浩ちゃん、ごめんね、私が誘っておきながらこんなことになって」
「まあ、仕方ないよ。それより痛いんだろ、あんまりしゃべるな」
二人にとってせめてもの救いは、噂の龍神の正体が判明したことだった。確かにあんなに大きな青大将を見たのは、お互い生まれて初めてだった。その姿を見た直後に腹痛になったのだから、案外それは本物の龍神様なのかもしれなかった。
季節は初夏で、山道の脇を流れるせせらぎの音が涼しげに耳に響いていた。まだ、太平洋戦争はミッドウェー海戦前の日本有利な戦況で、町には穏やかな日常が残っていた。
小さい頃に、浩一郎にふざけておんぶしてもらったことがあったけれど、女学生になってからこんなことになるとは思ってもみなかった。両親がこの姿を見たら、嫁入り前の若い娘がなんて恰好してるんだと、きっと叱られてしまうだろう。
「しかし、あれは大きな蛇だったな。最近は食糧難だってのに、一体あいつは何食ってるんだろな」
いつもは寡黙な浩一郎が珍しく軽口を叩く。少しでも気を紛らわせようとしているのが、吉枝には嬉しかった。
二人の前にアマガエルが飛び出してきた。すると浩一郎は、そのまま立ち止り、アマガエルが二人の目の前を通り過ぎるのを待った。その律儀さに吉枝は吹き出しそうになったが、すぐにとんでもない腹痛に悲鳴をあげた。
どうしてなんだろう。どんなに時代の先行きが暗くても、どんなに自分が苦しくても、浩一郎を見ていると、吉枝の心は穏やかになり、明るい気分になれるのだ。
「浩ちゃん。浩ちゃんって、本当に分かりやすい人だよね」
「なんだよ、俺のこと、馬鹿にしてるのか」
背中越しに聞こえる浩一郎の低い声が、少しぶっきらぼうに響いた。
「違うよ、褒めてるんだよ。いいじゃない、何考えてるか分からない人より、そっちの方が、ずっといい」
浩一郎は腰を下ろして、吉枝を再び背負い直した。白シャツ越しでも彼の両腕が赤くなっているのが分かる。居たたまれない気持ちを覚えながらも、吉枝はずっと浩一郎の背中に揺られていたい気持ちでいた。
いつもなら、山菜を摘みに行く子供達や薪を取りに行く若い衆とすれ違うはずなのだが、今日に限っては誰も滝に来ない。二人は山道をどんどん下っていた。
「そう言えば、一度だけ、浩ちゃんのことが、分からなくなったことがあったな」
それはまだ二人が尋常小学校の頃、突然吉枝が浩一郎に髪の毛を引っ張られて大泣きした事件のことだった。教諭に理由を聞かれても浩一郎は何も答えず、とうとう仕舞いには理由はありませんと言い放つ始末。結局浩一郎は罰として教諭に往復ビンタを受けて、午後の授業中ずっと、廊下に立たされたのだった。
随分古い話を持ち出すんだな。背中越しにぼやいて見せながらも、浩一郎は当時の真相を告白した。
「あれはな、お前の髪の毛を引っ張ったんじゃない。ただお前の髪を、結おうとしただけなんだ」
「結う? 」
「少し前に、姉ちゃんが母さんに髪の毛を結ってもらってるの見て、一度俺も真似してみたいと思ってたんだ。そしたらお前に髪の毛引っ張られたって大泣きされてさ。そうなりゃ今更髪の毛を結ってみたかったなんて、恥ずかしくて言えないじゃないか」
何だそれは。ただ今度は吹き出さないようにぐっとこらえた。
「まあ、あの時はいつもお前と遊んでたし、きっと分かってくれると、勘違いしてたんだよな。本当は、思ってることなんて言葉にしなきゃ、何も伝わらないのな」
ようやく、二人の前にふもとの町並みと、白いモルタル造りの病院が見えてきた。
吉枝をおぶったままの浩一郎が、病院の前で大声を上げると、すぐに中年の看護婦が飛び出して来て、吉枝を抱きかかえた。
「あー、こりゃあ虫垂炎だね、きっと。浩ちゃん、あんたお手柄だ。よっちやん一人だったらこれは危なかったかもしれないね」
浩一郎はその言葉にそうかと頷いて、肩で息をしたまま、白シャツの袖口を捲りあげて赤く腫れあがった腕を手でさすった。
看護婦はにやりとして少し茶化すような口調で、一言付け加えた。
「まあ、あんたの大事な未来のお嫁さん、死なす訳にはいかないか」
何言ってるんだ、冗談はやめてくれよと浩一郎は今度は顔を真っ赤にした。そして、すっかり動揺した浩一郎はそのままふらふらと後退して、あろうことが入口のすぐ横にある池に落っこちてしまった。
ざぶんと勢いよく水しぶきが辺りに散って、中の鯉が一匹外に飛び出してしまった。慌ててそれを手を伸ばして捕まえた浩一郎は再びバランスを崩して、池の中に舞い戻った。再び豪快な水しぶき。
看護婦と吉枝はその間の抜けた様子に笑い転げた。不思議とその間だけは、痛みを忘れることができた。
いつまでも、あの日のような情景が続くと思っていた。それから何年も経たない内に二度と会えなくなるなんて、思いもしなかった。
目の前の小さい息子達に、若かりし頃の思い出を話していると、吉枝は先立たれた彼らに再び会えたことよりも、浩一郎に再会できた喜びが先に立つのを自覚しないわけにはいかなかった。
長男の靖男は、目を閉じて母親の話に耳を傾けていた。下の子の方は、何を考えているのかまるで読み取れない無表情で、突っ立っているだけだった。
「話を聞いてると、もう母さんの心は決まっている気がした。良かったじゃないか。それだけ想っていた人に、迎えに来てもらえて」
「でも、あんた―」
吉枝には、気がかりなことが一つあった。それを察したのか、靖男は吉枝に背を向けて、弟の手を引いて滝壺の方へ歩いていった。
「母さん、俺達は母さんを迎えに来たんじゃないよ。ただ、見送りに来たんだ。二人とも、先に逝ってしまった親不孝者だからさ。最後位は、親孝行したいんだ」
二人とも浅黒く日に焼けて、健康優良児そのものだ。二人の後ろ姿からは死の影など、微塵も感じられない。靖男は続けた。
「心配しなくても、母さんがどんな選択をしても、俺達や美佐子が消えたりはしない。過去は、決して変わることはない。変わるのは、未来だけだ」
再び風が強くなり、三人を桜の花吹雪が包んだ。死はけして終わりではなく、そこから、また新しい旅が始まる。今は、これから誰と歩んでいくか、それを決断する時なのだ。
―もう、迷わない。
吉枝も二人と同様に滝壺まで足を運んだ。毬栗頭の二人の頭をぐしゃぐしゃに撫でながら、吉枝は滝を見上げた。陽光が激しい流れに反射して、三人を神々しく照らした。
「あんた達、本当にありがとうね。今私、決めたよ。これから歩いていく、新しい道を」
( 9 )
少しはマシになったけれど、それでも春の日差しは長くは続かない。少しづつ、夕暮れが近付いてきた。まさか夕食まで共にするつもりはないだろう。解放される時が近付いている。もはやありさのティーカップには茶色の染み以外、何も残っていなかった。
ずっと思いつめたように俯いていた静香が、再び敵意に満ちた表情でありさを見つめた。
「忘れないで。どんなに若くて美しくても、貴女は人の道に外れることをした。いくらそれは愛だと弁解したところでも、それは不倫でしかない。しかも貴女は―。実の叔父と関係してたのよ。犬畜生にも劣る所業だわ」
そう、私はとんでもないひとでなしだ。静香の表情が少しずつ、均衡を崩し始めていた。
「ねえありさちゃん。教えて。貴女は私のことを馬鹿にしてるんでしょ? 私は自由奔放な恋愛には到底縁のない、つまらない女だってね」
ありさは力なく首を振った。絶望した静香の瞳に、確かに狂気が宿り始めていた。
「貴女は私を、晃さんと条件だけで結婚した打算的な女だと思ってるんでしょう、違う?」
もはや静香は、ありさの反応などどうでもいいようだった。
「教えてあげるわ。私だってあの人を愛していたの! あの人と由香と三人、
仲良く幸せに生きていきたかった。貴女だけじゃないわ」
私は男には不自由しなかった。それなのにこんな馬鹿なことをした。どうしてなんだろう。それは、晃が父の弟だったから。それ以外にきっと、どんな理由もありはしない。ほとんど記憶のない父に、もう一度触れてみたかった。顔の髭を無邪気に撫でて、お返しに抱きしめてほしかった。ただ、もうその時私は、一人の女になってしまっていた。
最後は金切声を上げ、ありさに自分のティーカップに残っていた冷たい紅茶を浴びせて、静香は慟哭した。手負いの熊が吠えるような低く重い声が、居間中に響き渡った。
堪りかねて自分の部屋から飛び出してきた由香を、構わないでと静香は一喝した。濡れて汚れた服を拭うことなく、ありさはただただ裁きを受け入れるのみだった。
「帰って! それからもう二度と私の前に顔を見せないで!」
理不尽にも思えるが、これが自然な反応というものだろう。それだけ言うと静香は、呆然と立ち尽くす由香の元までふらふらと歩み寄り、自分より少し背の高い娘の胸で号泣した。
幕は下りた。拍手などまるでない、夕闇迫るカーテンコール。この部屋に、もはやありさの居場所はなかった。
( 10 )
昔から、足は速かった。徒競争では男子にも、ほとんど負けた記憶がなかった。龍神滝からふもとに降りた後、無人の町を、吉枝は全力で駆け抜けた。目指すのはこの町の南のはずれの国鉄の駅だ。浩一郎がそこで、きっと満開の桜の木の下で、吉枝を待っているはずだった。
急ぐ必要はないのかもしれない。でも、のんびり歩いて向かう気には、到底なれなかった。
―きっとこれが最後の夢なら、私はこの夢を見るために、生きてきたのだろう。
吉枝の脳裏に、走馬灯のように自分の人生の情景が、幾つも浮かんでは消えた。若かりし頃の浩一郎との日々。大阪に出てきてからの結婚、出産、家族との日々。全てが自分自身にとって、かけがえのない日々だった。
後悔はない。思い返せば吉枝はいつも、いつも平凡ながらも全力で生きてきた。そして今、吉枝は最後の目的地に向かっている。ずっと心の奥底で思い続けた、あの人の元に。
駆け出してから、20分と掛らなかった。国鉄の駅が見えてきた。ホームでは青い車体に白ストライプの入った車両が一つしかない電車が、ちょこんと出発の時を待っていた。
この駅の桜並木も、今が満開だ。浩一郎の姿が見えた。彼は思いつめた表情で、プラットフォームの中程にあるペンキがところどころ禿げた、古びた白いベンチに掛けていた。
他に、何もいらない。浩一郎の横顔が見えた瞬間、吉枝の瞳にうっすらと涙
が滲んだ。
プラットフォームに足を踏み入れた吉枝は、浩ちゃんと大声を張り上げて手を振った。その声に弾かれたように立ち上がった浩一郎は、吉枝の方を見て一瞬目を見開いたが、すぐに心から安堵した笑顔を浮かべて、少し恥ずかしげに手を振った。桜の花弁がひらひらと何枚も舞って、浩一郎の白い開襟シャツに降りかかっていた。
吉枝は再び駆け出した。もう迷わない。まっすぐ私はあの人の元へ行く。私は、この日のために、この瞬間のために生きてきた。浩一郎の姿がどんどん大きくなってくる。そのまま吉枝は、浩一郎の胸の中に飛び込んだ。浩一郎を彩っていた桜の花弁が、吉枝の衝撃ではらはらと散った。
ずっと、この胸に顔を埋めて、思い切り泣きたかった。白いシャツは、石鹸のいい匂いがした。不意に風が強くなり、浩一郎の腕の中で、吉枝の長い黒髪が揺れた。
「浩ちゃん、私決めたよ。私、浩ちゃんと一緒に行く。だからずっと、ずっと一緒にいてね」
浩一郎は答える代りに、強く吉枝を抱きしめた。長い別離の時を埋めるように、二人は長い間、満開の桜の木の下で固く抱き合った。
程なくして、二人の息子も吉枝に追いついた。二人は迷いを捨てて裸の心になった吉枝を、ただ温かいまなざしで見つめた。見られていたことに気付いて、赤面した吉枝を見て、二人は顔を見合わせてゲラゲラと腹を抱えて笑った。
旅立ちの時が来た。吉枝と浩一郎は、一両だけの、小さな青い電車に乗り込んだ。
「母さん、今までありがとう」
長男の靖男は素直な性格そのままに、吉枝に笑い掛けた。その明るい表情に、吉枝は心から救われる思いだった。
対称的に、先程ようやく笑顔を見せた二男の晃は、再び暗い表情になり、遂には顔をくしゃくしゃにして泣き始めた。戸惑う吉枝に、心配いらないとばかりに靖男は晃の丸刈りの頭に手を置いた。
「母さん、こいつは別れが辛くて泣いてるんじゃないんだ。こいつは一つ、母さんを悲しませることをした。ずっとそのことを言えなくて、謝れなくて、それで泣いてるんだ」
靖男は弟の頭から手を離して、今度は彼の肩を力強く抱いた。
「でも、こいつには俺がついてるから大丈夫。だから、理由は聞かないでやってくれ」
泣き濡らした瞳で晃がまっすぐ吉枝を見つめた。吉枝は何も言わずに、乗車口から身体を伸ばして、晃の顔を撫で、小さなその身体を抱きしめた。
発車を告げるベルが高らかに鳴った。子供達とはここでお別れだ。同時に吉枝の人生が今、終わろうとしている。
名残惜しさを残しながら、吉枝は車内に戻った。ゆっくりと、電車が動き始める。吉枝の肩を後ろから浩一郎が支えた。
二人の息子は小走りで電車を追いかけて、大きく手を振った。桜舞う中で二人の姿はだんだん小さくなっていった。
いつしか雲は消えた。春の青空の下、電車はどんどん速度を上げて、桜並木を駆け抜けた。
( 11 )
春の夕焼けを目にすると、自然と懐かしい気持ちになる。夕日に、桜並木が照らされている。長くなった影を引きずりながら、ありさは駅まで続く長い坂道をゆっくり下っていった。
今日は、思っていた通りの無様な一日になってしまった。でも、後悔はない。傷付くことは分かっていても、やはりあの場所には足を運ぶべきだった。
晃のマンションを出て程なくして、母から吉枝の容体が急変したとの連絡が携帯に入った。本来なら、この坂を駆け降りないといけないのだろうけど、とてもそんな気分にはなれなかった。放心状態だったこともあるし、多分間に合わないだろうという予感がしていた。
人は死した後に、どこに行くのだろう。死後の世界で、あの人には会えるのだろうか。そんなことを考えて、ありさは胸ポケットから一枚の写真を取りだした。随分古ぼけたその白黒写真には、一人の青年が映っていた。
おばあちゃん子だったありさは、晃の名を伏せたまま、許されぬ恋の悩みを吉枝に話したことがあった。その時にありさは、この写真の人物の話を聞いた。
若かりし日を共に過ごし、心から慕ったその人は、先の大戦で戦死して、二度と会うことが叶わないとのことだった。でも、会えるならもう一度会いたい。それから時が経ち、自分の死を悟ってから、吉枝はこの写真をありさに託したのだった。
写真の中の男性は、凛々しく、唇を真一文字に結んでいる。出征前に撮ったというから、この時、生命を賭けて国を、故郷を、そして愛する者を守る決意をしていたことだろう。この人物は今の自分よりずっと年下だけど、平和ボケした現代で、ありさの容姿と身体が目当てで言い寄る同年代の軽い男達より、よほど大人に見えた。
無口だけど、優しい人だったと祖母は言っていた。不意に、その写真の中の人物がぼやけた。雨だ。夕闇迫る街に、気まぐれな春の雨が降り始めた。
ありさは慌てて写真を胸ポケットに直した。薄暗くなったこの坂には、ありさ以外に人の気配はなくなった。坂の両脇に立ち並ぶマンションの部屋には、次々と明りが付いた。少しずつ、眩しかった桜の花弁が見えなくなる。この雨がもう少し強くなれば、きっと桜は完全に散ってしまうだろう。
最後まで、吉枝には晃のことは話せなかった。もしその事実を知ったら、吉枝はどんな顔をしただろうか。
再び携帯が鳴り始めた。用件は分かっている。でも、もう今は何も聞きたくなかった。
桜並木が霞む。雨のせいでも夕闇のせいでもない。目頭が熱い。いつしかありさは泣いていた。
一人で鎌倉を訪れたあの日も、結局涙は出なかった。それが今、ようやく泣けた。ただ悲しいのか、悔しいのか、それがまるで分からない。ありさは、もう一度胸ポケットから写真を取り出した。心なしか、写真の中の男性は、少し微笑んでいるように見えた。
―おばあちゃん、この写真は棺に釘を打つ時に、菊の花と一緒に納めてあげるからね。
雨に濡れたありさは、写真を胸に押し当て、それから祈るように目を閉じた。
(完)
卯月の恋