我は信念に満たされて

宇久盛敦

  1. 愛国者の定義
  2. 新しい番組についての怒り

世の中の出来事について思いついたこと、心に思っていることを書いて追加するエッセイです。

愛国者の定義

私は極悪な犯罪を許しはしない。どんな国が祖国であっても許しはしないだろう。愛国無罪などこの世にはないのであり、本当に愛国心があるのならば祖国の法に裁かれてこそ、真の愛国者(あいこくしゃ)だと言える。

「愛国者とは、その国の国民に感動を与え、親しまれ、この国がその人物を産んだのだと世界に誇れる存在の事だ」

と私は定義している。

自ら名乗る称号ではない。自ら名乗る奴は近現代史、そして古代史でも傲慢である。どんな称号で呼ばれようと、私は私が望むことをしたい。私に愛国心はあるかもしれないが、愛国者であると名乗ったことは一度もなかった。故郷の長崎県を活性化させ、そして返す刀で国をも盛況にする。それが私の目的であり、売国奴や愛国者の概念など介在できないはずだ。
何か騒ぎになるたび愛国者かそうでないかを判断することは時期尚早と言えよう。そんな判断をする暇があれば、その人の著書でも広めればいいのにと毎回感じる。
ネトウヨだろうが左翼だろうが私の目的の前には知ったことではなく、ただ誠実にひたすらに故郷の発展を夢見て活動しているだけだ。自分の住んでいるところが、貧弱だとバカにされるのは我慢ならん。
善意から誘惑されるのか義憤(ぎふん)から促されるのかはわからないが、決して愛国心ではない。そもそも、愛国心とはそんな安っぽいものではなく、国を紹介しただけで高めることはできぬ。
私は、「愛国者の称号が最近安っぽいものになった」とこれからも警鐘をならす。愛国者とは、そんな条件ですぐなれるわけではなく、ましてや人を傷つけておいて、起源を主張したり、偽ったり、仏像を盗んだりすることが愛国者ではないと私は断言する。

新しい番組についての怒り

有名な番組が終わった後の新しい番組というものは、何かと実験台と言いたくなるものだ。しかし、某番組は実験台とはいいがたい出来になってしまった。
どこかで見たような組み合わせ、どこかでみたようなコーナー、どこかで見たようなVTR、それぞれが噛み合わさって視聴率6パーセントに落ち込むという快挙を某テレビ局にもたらした。
スポンサーもテレビ局も視聴者をバカにしているとしか思えない構成である。このような構成を後世に残して恥ずかしいと思わないのか。番組を見てから言えということだが、番組を見てしまった以上愚痴る権利はあるはずだ。
さすがに、有名人がご退場した後の番組は悲しいものだが、絶対生放送でやる番組ではないし、明らかに深夜枠である。実験台とは新しいものを作るための土台であり、古いものをコピペする番組が実験台とはとうてい思えぬ。
表現に気を付けてもらいたい。追いかけた挙句捕まえられなかったり、そんなものをVTRで見せる価値があるのか。こんなにイラッとくるテレビ番組は久しぶりだ。
何も真昼間から見せる内容ではなく、検索ランキングも某携帯電話事業の回し者としか思えず、インターネットに媚びを打っているだけの放送作家至上主義な番組であった。
どんな番組の事を言っているかはお察しいただくとして、他のテレビ番組の組み合わせをそのまま持って来たりするのは、実験台にしてはあんまりであろう。
「酷い政党だからと他の政党にしたらもっとひどかった」みたいなフラグをたてており、終わるのも時間の問題だ。始まる以前から視聴者に喧嘩を売っているのでは擁護のしようがない。
何度やれば懲りるのだろうか。酷い番組を下げたからって素晴らしい番組が生まれるわけではない。そのテレビ局は何度もやらせ疑惑を疑われているため、怪しい行為はしにくいということなのか。
エイプリルフールと重なったため、視聴率もエイプリルフールかと思ったが事実だったようだ。まさに奇妙な現実である。何度も言いたい。酷い番組を下げたらいい番組ができるわけではないと。さらにひどくなることもあると。

我は信念に満たされて

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我は信念に満たされて

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
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