左の目ぇ
ジャンル選択ではホラーにチェックを入れましたが、「怖い話」というよりは「少し不思議な話」です。大して怖くはありません。安心してお読み下さい。
一、
左目に、一月ほど前から、自分にしか見えない得体の知れない「何か」が棲んでいる。そのことに気付いた当初は、恐怖心で夜も満足に眠れないほどだった。が、「それ」が棲んでいても痛くも痒くもなかったから、恐怖心は日が経つごとに徐々に薄れ、「それ」に愛着を抱くようになって行った。
一週間ほど経つと、「それ」に名前まで付け、成長を見守るようにまでなっていた。ところが、「それ」は十日ほど前に突然姿を見せなくなった。「それ」が現れなくなって、心から安堵したのは確かだ。しかし、その反面少し寂しくもあったのだから、人の心とは不思議なものだ。
ともかく、その日以来、以前と同じ平穏無事だが退屈な生活に戻っていたのだが……。昨日の夜、左目の奥が急に激しく脈打ち出した。痛みなどはなかったが、不安感に苛まれ、なかなか寝付けなかった。眠りに就いたのは、左目がいつもの状態に戻った、明け方頃だった。
そして今朝は、悪夢にうなされて目覚めた。体中が汗でビッショリ濡れている。夢の内容は思い出せないが、恐怖だけは覚えていた。枕元の時計を見ると七時ちょうど。出かける時間までは間があるが、眠れるような気分ではない。しばらくTVを見て時間をつぶしてから、出かける用意を始めることにする。
トイレで用を足し、手を洗うために洗面台の前に立ったとき、ドクッ! ドクッ! ドクッ! 左目の奥がうずき出した。「イテテテテテ……」咄嗟に洗面台の鏡を覗き込む。鏡の中の左目は、細かく左右に震えている。(何が起きている?)口を開けたまま、痛みも忘れて、しばらくその様子を眺めていた。
そのうち――ジョボジョボジョボジョボジョボ――音が聞こえて来た。最初、下水に水が流れて行く音だと思った。しかし、蛇口を見ると水は流れていない。トイレの水はとうに流れ切っている。音がどこから聞こえて来るのか疑問に思い、耳を澄ました。ジョボジョボジョボジョボジョボ……。
段々大きくなっているその音は、耳の奥から聞こえて来る。「そんな! まさか?」自分ではかなり大きな声を出したつもりだったが、ほとんど耳には届かなかった。ジョボジョボジョボジョボジョボ……。もう周囲の音もほとんど聞こえない。近くを通っている電車の音も、近くの国道を走る車の音も。
恐怖心を紛らわすため、左手の人差し指をかなり強く噛んだ。パニック状態に陥ったときに、いつも取る行動だ。それで少し落ち着くと、とにかく何かしようと思った。何もしないままでいると、恐怖心でおかしくなってしまいそうだったからだ。「――日記」
そのとき、思い出した。机の引き出しに入れてある、「それ」の成長を記した『観察日記』のことを。机のある場所まで走って行く。引き出しを開け、日記帳を取り出す。ペン立てから鉛筆を取り、日記帳のページをめくる。そして、前の続きに書き始める。と、間もなく、ドンッ!
左目の奥から、何かが突き上がって来る衝撃を感じた。同時に、左目の奥に猛烈な痛みが走る。吐き気をもよおし、机に突っ伏す。手探りで机の上に置いてあったコンパクトミラーを探し当て、それを顔に近付ける。見ると、左目が浮き上がって来ているのが分かった。
目は、すでに半分ほどが外に飛び出している。必死になって、左の手のひらを左目に押し付ける。ジョボジョボジョボジョボジョボ……。音はさっきよりさらに大きくなり、周囲の音は全く聞こえなくなっている。目玉は勢いを増し、突き上がって来る。
日記を書くのを諦め、鉛筆を指の間に挟んだまま、右手を、左目を押さえている左手に重ね合わせる。目玉はさらに勢いを増す。そのあまりの勢いに、左目から両手を離してしまったとき、ジュポッ! 目玉が飛び出した。――残った右目を疑った。
当然だ。自分の目玉が飛び出しただけでも信じられないのに、その目玉が空中を自由自在に動き回っているのだから……。目玉には羽が生えていた。いや、その表し方は正確ではない。目玉の裏側に細長い胴体が付いていて、そこに羽が生えているのだ。十センチ程度の胴体の真ん中辺りに三対、六枚の羽が。
目玉は悠々と頭上を旋回し始めた。透き通ったその羽は、一見したところ、トンボの羽に似ている。小学生時代の夏休みに家族で登った山で見た、鬼ヤンマを思い出す。街中では見られない大きなトンボ、鬼ヤンマ。そのあまりの大きさに、驚いて泣き出したのを覚えている。
そのときの自分を、今の自分に重ね合わせる。――違う。あのときは、大きな驚きと少しの恐怖を感じただけだった。今は、多くの感情が複雑に入り交じっている。驚き、恐怖、悲しみ、憎悪……。そんな感情とは全く関係なく、目玉は空中を飛んでいる。ゆっくり、ゆっくり、ゆっくりと――。
恐る恐る鏡で自分の顔を確認する。当然のことだが、そこに映っている左目には、目玉がなかった。「ウオオオオオーーッ! 目玉を、目玉を返せぇーー!」目から涙が流れ出す。目玉をなくした左目からも涙は流れ出している。
そのことに気付き、こんなときだというのに感心した。そして、そんな自分に驚いた後、なぜか笑いが込み上げて来た。「フッフッフッフッフッ……」目玉はまだ部屋の中を飛び回っている。ゆっくり、ゆっくり、ゆっくりと――。
二、
僕が彼に会ったのは、六月の終わり頃、梅雨の真っ只中の時季だった。――ジリリリリリーッ! 午前九時ちょうど。目覚まし時計が鳴り始めた。僕は、いつものように目を閉じたままそれを止め、伸びをして起きた。ウーッ、アッアー。「今日からまた学校かぁ……」また退屈な一週間が始まる。
(しかし、月曜の朝というのは、何でこんなにだるいんだろ)カーテンを開けると、眩しい日光が射し込んで来る。この三日ほど続いていた、ぐずついた天気が嘘のようだ。(心も晴れ晴れしてくれたら良いんだがな……。ま、雨が降るよりはよっぽど良いか)
通学途中の雨ほど、鬱陶しいものはない。バスや電車の中で、他の人の濡れた傘が自分の体に触れたりすると、朝からとても嫌な気分になる。また、自分の濡れた傘が他の人の体に触れないように気を遣うのは、煩わしい。居間に行ってテレビを付けると、画面の時刻はすでに九時十分になっていた。
共働きの両親はとっくに家を出た後だ。(トイレに行って、ごはんを食べて、歯を磨いて、顔を洗って……と、二十分もあれば充分だろ)僕が通っているS大学への道のりは、長い。まず家からバス停までが徒歩三分。バスで駅まで十五分。電車に乗って四十分。そこからさらにバスで十五分。
待ち時間を含めると、家を出てから教室に入るまで、一時間二十五分~三十分ほどかかる。二時間目は十一時に始まるので、九時半には家を出ないと間に合わない。サッサと準備を済ますと、僕はいつものように家を出た。そして、いつものようにバスに乗り、電車に乗り、またバスに乗って学校に向かった。
僕はバスや電車に乗車中、外の風景を眺めるより車内の人々を眺める方が好きだ。外の景色は前日と急激に変わることは少ないが、車内の人々の様子は、同じ人でも毎日異なって見えるから飽きることがない。その際、怪しまれないよう観察するにはコツが必要なのだが、もちろん、僕はそれを身に付けている。
「人間観察」を十年も続けていれば、自然とできるようになるものだ。いつものように今日も、外を見たり本を見たり人を見たりしているうちに、学校に着いていた。バスを降りようとしたとき、誰かに凝視されているような気配を感じた。すぐに辺りを見回したのだが、僕の方を見ている人など誰もいない。
多分、他人を観察することへのちょっとした罪悪感が、僕を自意識過剰にさせたのだろう。あまり気にすることもなく、僕は教室へと向かった。僕が月曜日の二時間目に取っている講義は「哲学」。一般教養の選択科目の一つで、三百人以上は入る大教室で行われる。
しかし、授業開始のベルが鳴る直前に僕が教室に入ったとき、(テストまであと二~三回しかないのに)席は半分も埋まっていなかった。講義を受け持つ立川助教授が、学部で一、二を争うほど人気がないためだ。ボソボソと話すので聞き取りにくいし、聞こえても、話は全く面白くないから当然だと言える。
それでも三百人近くの学生がこの講義に登録しているのは、「単位が取りやすいから」という理由に他ならない。前方の出入り口付近からザッと見渡したところ、学校の友達で唯一この講義を取っている、「兄貴」こと大桑義和は見当たらなかった。どうやら、まだ来てはいないようだ。
いつも通り僕は、黒板正面の中央よりやや前の席に座った。ほとんどの学生が後方の席を好むため、前の方は空席が目立っており、僕より前方の席となると、チラホラとしか人はいない。僕だって、決して前の方が好きなわけではない。目が悪くて見えにくいから、仕方なくこの辺りに座っているにすぎない。
僕が席に着くと、程なくしてベルが鳴り、先生が来て講義が始まった。いつも通り全く面白くない。少なからず私語も聞こえるが、いつものことなので、先生も注意する気はないようだ。あまりにもつまらないので、そのうち、僕は頬杖を突きながらウトウトし始める。と、「すんません」前の方から声がした。
しかしそのとき、自分が話しかけられているのだとは、僕は思っていなかった。「すんませんけど」再び前の方から声がする。さっきより大きくなっている。(僕に話しかけてるのか? 誰だ、僕の眠りを妨げるやつは? 「兄貴」か? まさか先生?)僕はハッとして目を開けた。
さっきは誰もいなかった真ん前の席に、見たことのない男子学生が一人、座っていた。上半身を捻ってこちらに顔を向け、僕に話しかけている。彼は講義を受けるには派手過ぎる格好をしていた。――金髪に近い茶髪の長髪、緑地に黄色いパイナップル柄のアロハシャツ、屋内だというのに濃いサングラス――。
「ハワイ帰りかよっ!」と突っ込みたくなるその格好は、教室の中で一番目立っている。と言うか、この学校は地味な学生が多いから、学校中探しても、彼より派手な人物はまずいないだろう。「ノート見してもらえません?」関西風のアクセントだ。「あっ、はい。良いですけど、いつの分からですか?」
僕は慌てて口の周りのよだれを拭きながら、そう答えた。「最初から全部お願いできますか?」僕がルーズリーフをバインダーから外して渡すと、彼は礼を言って前を向き、それを書き写し始めた。この講義は板書の量はそれほどでもないのだが、先生が言ったことをちゃんとノートに取ると、結構多くなる。
僕は腕時計を見た。十一時五十分。(あと四十分か。前の席の彼は全部書き写せるかな? 十ページはあるから、よっぽど速く書かないとダメだろな。テストのとき、ノートは持ち込み可でも、ノートのコピーは不可だからな。ま、コピーでもバレることはないと思うけど。見かけによらず真面目な人なんだな)
講義の後半は腕時計を見ながら過ごした。残り時間が十分を切っても、「兄貴」は現れない。(あいつ、いつになったら来るんだ? 貸した本、今日返してもらう約束なのに)結局、講義が終わっても、「兄貴」は教室に姿を見せなかった。(全く、あいつ、またサボりかよ)
「兄貴」に文句を言ってやろうと、僕が鞄から携帯電話を取り出したとき、「よし、できた」と前の席の彼が大きな声を出した。「ありがとう」彼はわざわざ立ち上がって僕にノートを返すと、「お礼に昼飯おごるわ」と言ってきた。「そんな、いいですよ。ノートを見せただけですし」
僕はそう言って断ったのだが、彼は僕の両肩に手を載せ、「遠慮せんでええから」と言って、ニッコリと笑った。もちろん、彼は濃いサングラスをしているので、目の表情までは分からないが……。立ち上がった彼は一八〇センチ台の後半はあるだろう長身で、肩幅が広くてガッシリした体格をしている。
アロハシャツに濃いサングラス、ショートパンツにビーチサンダルという格好と相まって、見た目は「怖いお兄さん」だ。もし、町中で彼のような人が前から歩いて来たら、僕はサッと横に避けるだろう。特に断る理由もなかったので(一度断ったのはマナーとしてだ)、僕は彼と食堂に行くことにした。
僕たちは、いつもは比較的空いている食堂に向かった。しかし、その食堂も今日に限っては混んでいたため、トレーを持ったまま、歩き回って席を探さなくてはならなかった。しばらく歩き回った末、奥の方に空いている席を見つけることができた僕たちは、急いで座り、改めてお互いに自己紹介をした。
彼の名前は大和弘志。出身はやはり関西(京都)で、学校近くの親戚の家に下宿しているらしい。学科は違うが僕と同じく文学部で、年上だけど学年も同じ一年生だということだ。野球が好きだったり、漫画が好きだったり、他にも意外な共通点があったりした僕たちは、昼食を食べるのも忘れて会話に没頭した。
昼休みが終わる間際、すでに冷え切った親子丼をかき込みながら、僕はふと疑問に思った。(そう言えば、こんなにも目立つやつなのに、一度も見たことがない。学科は違うとは言え、同じ学部だから共通科目も多いはず。見かけたことぐらいはありそうなもんだけど……)「もしかして、ずっと休んでた?」
僕がその疑問を口にすると、今まで笑顔を絶やさなかった大和くんが、急に真顔になって、言った。「何でそう思たん?」「だって、今まで一度も見かけたことがないから……」「話すと長なんで。今日、これから時間あんの?」「うん、まぁ」ハッキリ言って暇だった。
次の三時間目は休講なのだが、四時間目には講義のある僕は、帰るわけにもいかない。いつもは「兄貴」が良い話し相手なのだが、今日は学校に来ていないだけでなく、電話をしても出ないし、メールの返事もない。「それやったら、喫茶室でも行かへん? そこで話すわ」
昼休み中は混雑している喫茶室も、授業が始まる時間になると、さすがにほとんどの席が空いていた。にも関わらず、大和くんは足早に一番奥の席に歩いて行くと、ドスンッ! とイスに腰を下ろし、手招きする。僕が向かいの席に座ると、彼はズボンのポケットから煙草を取り出し、ライターで火を付けた。
彼は「ちょっと待ってな」と言って、旨そうに煙草を吸い始めた。煙草を一本吸い終わるまで、大和くんは一言も喋らなかった。僕が少し気まずさを感じ、何か話し出そうとしたとき、ちょうど彼の煙草が灰になった。彼は吸い殻を備え付けの灰皿に押し付けると、話し始めた。彼の奇妙な体験について……。
三、
俺なぁ、ゴールデンウィークの頃、入院しとってん。そこの県立病院や。ほら、こっから見えるやろ? 何で入院しとったかって? バイクで事故ったんや。ま、そんなに大したことはなかってんけどな。ほんでも、一週間ぐらいは入院しなあかんかってん。――藤元くんは入院したことあんの?
ないんか……。一回してみたら分かるけどな、とにっかく暇やねん。ほんまに。見舞いもほとんどなかったしな。俺が入院してたんは六人部屋やってんけど、ラッキーなことにベッドはちょうど窓際やったし、その頃はよう晴れとったから、ボーッと、窓から空ばっかり見とったわ。
俺なぁ、こう見えても結構ロマンチストやねんで(大和くんは照れ臭そうに微笑んだ)。冷房が入る時季ではないんで、窓は開けっ放しにしとってん。爽やかな風が入って来て、肌に当たんのが気持ち良かったわ。でもなぁ、入って来んのは風だけとちゃうねん。いろんな虫も入って来よんねん。
それにはあんまりええ気持ちはせんかったわ……。入院してから二~三日は何も起こらんかった。暇を持て余して、ボーッと空を見て過ごしとった。変化が現れたんは、ハッキリとは覚えてへんねんけど、――確か、入院して四日目のことや。その日も窓から空を見とったんや。
ほんならなぁ、空に、何か動いてるもんがあんねん。小ちゃくて、黒っぽくて、透き通ってるやつやった。ほら、小学生か中学生んとき、顕微鏡でミジンコとか見たことあるやろ? あんな感じのやつや。ほんで、まるで水ん中を泳いでるような動きをしよんねん。空でやで。
そいつは昆虫や鳥なんかとは違って、羽があらへんかった。それやのに、自由自在に空を動き回ってんねんで。(変な生きもんもおるもんやなぁ)て思たわ。(なんやこれ? 目の錯覚か?)思て、何回も目をこすったりまばたきしたりしてんけど、そいつはまだ消えよらへん。
(まぁ、もう少し様子見とこ)思て、俺はしばらくそいつを観察することにしたんや。なんせ、暇やったからな。そういうわけで、しばらくの間、俺はそいつを観察しとったんやけど、そのうちあることに気ぃ付いたんや……。俺はアレルギー体質やから、鼻水がよう出るし、よう目もかゆなんねん。
そんときも左目がかゆなって、ほんまはあかんねんけど、左手の甲でゴシゴシこすったんや。ほんならなぁ、例の生きもんが見えんようなってん。(あれっ? あいつおらんようなったんか?)思て、目をこするんを止めて、両目をパチパチしたんや。ほんなら、やっぱりやつはおんねん。
俺は(おかしいな?)思て、左の目ぇだけを、ゆっくり閉じたり開いたりしてみたんや。するとな、やつは左目を開けてるときは見えてんのに、閉じてるときは見えんようなんねん。(たまたまかもしれへん)思て、何度も何度も試してみたんやけど、何べんやっても同じなんや。それで俺は思たんや。
(やつは俺の左目の中におるんやないか?)てな……。けどな、夕方になるとやつは見えんようなった。(やっぱり夢か幻やったんや)思て、俺は胸をなで下ろした。それでもなぁ、その晩は不安でなかなか寝付けんかったんを、よう覚えとるわ。俺なぁ、こう見えてもほんまは結構ビビリやねん。
次の日の朝んなって目ぇ開けたときには、そいつはおらんかった。そんで安心して朝メシを食べとったらなぁ、急にそいつが、そいつが現れたんや! ほんっまに怖かった。そんとき、よっぽど青ざめとったんやろな。隣のベッドのおっちゃんに、「兄ちゃん顔色悪いよ、大丈夫?」って言われたぐらいやからな。
やつはその日も晩になったらおらんようなってんけど、次の日の朝起きたら、また現れよってん。その次の日も、またその次の日も同じことが起きよんねん……。俺はなぁ、退院する前の日になってようやく、医者に言う決心がついたんや。退院したら医者に会う機会が少ななるやろ?
せやから、(今しかない)思たんや。ほんで、回診しに来た医者に言うたんや。「左の目が何か変なんですけど……」てな。その医者はほんのちょっと俺の左目を覗き込んで――どう言うた思う? 「一見したところでは、別に何ともありませんよ。心配でしたら、眼科の先生に見てもらいますか?」やと。
今のん物まね入ってんねんけど、分かるかなぁ……て、分かるわけないか。ま、それは置いといて、とにかく、そんとき俺は「嘘やろ! んなアホな!」って叫びたかってんけど、声も出んかった。十数秒後、やっと出た言葉は、「いえ、いいです」の一言だけやった。
その日、俺はそいつに気ぃ付いてから初めて、鏡を見た。で、どうやった思う? 俺がな、何べん鏡を覗いてみてもな、いつも通りの俺の目ぇが見えるだけなんや。変な生きもんなんてかけらも見えへん。(自分でも見えへんもんが他人に見えるはずないな)思て、もう二度と医者には言わんかった。
次の日は退院の日やったし、精密検査とか大事んなって、入院が伸びんのも嫌やったんや。ほんで、ついに退院の日が来た。ほんまやったら退院すんのは嬉しいはずやねんけど、正直言うてな、不安やった。せやけど俺は信じてた、いや、信じ込もうとしてた。(これは目の錯覚や。そうに違いない)ってな。
でもな、退院してからも、やつの姿は目の前から消えへんかった。俺にはずっと、やつが見えとったんや……。左目の中に何かがおるようや言うても、日常の生活にはこれといった影響はなかった。俺の左の目ぇは、痛くもかゆくも、ましてや気持ち良くもなかったからな。鼻炎の方がよっぽど影響あったで。
退院してからは毎日何べんも鏡を覗き込んどってんけど、いっつも、何も映ってへんかった。せやけど、目の中に何かがおるいう感じは、いっつもしとった。日常生活の一コマ――トイレで用を足してるとき、風呂に入ってるとき――目の奥で何かがピクピク動くんや。
その感覚はな、しいて言うたら、耳の奥や喉の奥がこそばゆいときの、何とも言えん不快感と似てる。かきたくてもかけへん、みたいなな。さっきは何も影響なかったって言うたけど、そいつが目の前で動くたんびに、何か気になって、物事に集中できひんようになるという面はあったな。
でもな、変なもんやで、しばらくするとな、もちろん、怖い、気色悪いっていうんはあんねんけど、それと同じぐらい、いや、それ以上にな、そいつに対しての好奇心が強なって来たんや。そいつが何もんなんかがどうしても知りたなった俺は、いくつもの図書館や本屋を回って調べた。ネットも駆使した。
特に寄生虫については詳しく調べたで。せやけどな、そんな生きもんは、どんな本やサイトにも載ってへんかった。(もしかしたら新種の生きもんとちゃうか? 世紀の大発見かもしれへん)そう思た俺は、自分でやつのことを観察して、毎日ノートに書くことにした。いわゆる、『観察日記』っちゅうやつやな。
もちろん、その変な生きもんのことはずっと調べ続けてた。せやから、なかなか学校にも来れへんかった、っちゅうわけや。――そこまで言い終わると、大和くんは二本目の煙草に火を付けた。「それって、本当の話? それとも、僕をからかってるわけ?」半信半疑の僕は、彼に尋ねた。
「信じるか信じひんかは、藤元くんの自由や。けど、まだ話の途中やで、最後まで聞いてから判断したらどうや?」大和くんはニコリとして話す。「それはそうだね……」とにかく最後まで聞いてみよう。判断するのはそれからでも遅くはないだろう。「ほな話すけど、これ吸い終わるまで、ちょっと待ってな」
大和くんが煙草を吸い終えるまでの間、僕はジックリと彼を観察した。サングラスをしていることもあって、表情は読みづらい。僕の長年の趣味である「人間観察」の経験の中でも、最も表情が読みにくい部類に入る。さっきから、僕は大和くんの目をジッと見ている(もちろん、サングラス越しにだが)。
しかし、彼が動じる様子はない。たいていの人は、目をジッと見られると動揺するのだが。単に気付いていないだけなのか、目をつぶっているのか、それとも……。煙草を吸い終えると、大和くんは再び話し始めた。
四、
以下の文章は、大和弘志の『観察日記』より抜粋したものである。
五月九日(金)
「そいつ」が現れてから、今日で一週間。「そいつ」が何ものなのかは未だに分からない。気付いた当初、「そいつ」の体長は二センチ程度だったが、この一週間で三倍以上にまで成長している。最初透明だった「そいつ」の体は、最近茶色っぽく色付いて来た。が、まだ内臓が見えるほどには透き通っている。
今日から、「そいつ」について分かったことや気付いたことを、順次書き記していこうと思う。――「そいつ」について分かっていることは、次の通りだ。
*形状
現在の体長は約六センチ。もっとも、ジッとしていることが少なく、体が丸まっていることも多いので、正確な長さは分からない。太さは普通サイズのミミズ程度。胴体には細い足が何十本も生えている。一対の触角が生えている方が前だろう。なぜなら、触角のない方を左右に振って(前方に)進むからだ。
*生態
たいていはゆっくりと空を泳いでいる(ように見える!)が、時に素早く動く。夜になると、必ず姿が見えなくなる。また、昼間でも急に姿を見せなくなることがある。だが、次の日の朝には必ず現れている。
五月十一日(日)
いつまでも「やつ」や「そいつ」などと呼ぶのも何なので、名前を付けようと思う。左目に棲んでいるから――レフト。う~ん、どうもピンと来ない。左、ひだり、ヒダリ、ヒダリー……ヒラリー。うん、なかなか良い名前じゃないか? オスでもメスでもいけるし。よし、これからは「ヒラリー」と呼ぼう。
五月十五日(木)
「ヒラリー」に羽(らしきもの)が生えて来た。全部で六枚ある。「ヒラリー」は目の中にいるのだから、飛ぶ必要はないはずなのだが……。いや、深く考えるのはよそう。
五月十七日(土)
「ヒラリー」の体が全く透けなくなった。透けなくなった「ヒラリー」の体色は、基本的には茶色っぽい。だが、俺がしばらく何かを見ていると、そのものの色に変化する。今現在の色は青。俺が窓から空を見ているうちに、徐々に変わって行ったのだ。
五月二十一日(水)
「ヒラリー」は順調に成長し、現在の体長は約十二~三センチになっている。今では「ヒラリー」の羽も五センチ以上はある。もう少し長くなれば飛べそうだ。目の中にいるというのに、一体、どこを飛ぶつもりなのだろう? ――羽が生えているのに気付いたときから、ことあるごとにある考えが頭をよぎる。
あえて考えないようにして来たのだが、ここまで羽が大きくなれば、考えざるを得ない。(「ヒラリー」は俺の目から飛び出すつもりではないのか?)ということを……。そのことを考えると、背筋がゾクッとする。そう、しょせん俺は「ヒラリー」にとっては宿主でしかないのだ。
俺がどれだけ親近感を持っていようが関係ない。俺から栄養分を吸収して成長したら、捨て去るつもりに違いない。おそらく、俺の目玉を突き破って……。俺はまだ左目を失いたくはない。嫌だ、嫌だ、嫌だーっ! 神様、助けて下さい! ――もうやめよう、こんなことを考えるのは――。
五月二十四日(土)
今日は「ヒラリー」の姿を一度も見ていない。こんなことは、「ヒラリー」が現れて以来初めてだ。昨日まで見えていたのは幻だったのだろうか?
五月二十七日(火)
「ヒラリー」が目の前から消えて、すでに四日目だ。目の奥で何かが動く感じもしない。どうやら、俺は長い間幻覚を見ていたようだ。事故で頭を強く打ったからだろう。そうに違いない。だとしたら、この日記を書く意味はなくなる。俺は今日でこの日記を終えることにする。もう、開くこともないだろう。
了
六月四日(水)
俺は二度とこの日記を開くつもりはなかった。だが、今日の俺の左目は何か変なので書き記すことにする。「ヒラリー」が現れたわけではない。ただ、左目の奥が急に激しく脈打ち始めたのだ。何なんだこれは! 痛みはない。が、ものすごく不安だ。鏡を見ているが、見た目には何の変化も感じられない。
六月五日(木)
現在の時刻、午前八時十五分。さっき急に左目の奥がうずき出し、それと前後して耳の奥から音が聞こえ出した。ジョボジョボジョボジョボジョボ……。水が下水に流れて行くような音だ。それは最初小さな音だったのだが、徐々に大きくなり、今では、周囲の音がほとんど聞こえないほどの大きさになっている。
何かが俺の目の奥から突き上がって来ている。衝撃がすごい。鏡を見ると、左目が浮き上がって来ているのが良く分かる。まるで出目金だ。手で押さえているのだが、勢いは止まりそうにない。*****(判読不可能)*****やばい、(以下判読不可能)********************
「――これがその日記や」大和くんはそう言うと、隣の空席に置いてあった自分のショルダーバッグから、一冊の大学ノートを取り出し、僕に手渡した。ノートに目を通すと、今、彼から聞いた話と同じ内容が書かれていた。「それからどうなった思う?」大和くんはニッコリ笑いながら、僕に話しかける。
「ちょっと分からないな……」僕は大和くんの笑顔を見て、なぜかゾッとした。根拠はないのだが、サングラスの奥の目は笑っていないように感じる。「分からへんなりに予想ぐらいしてくれよ」「そう言われても、想像力がないもんで……。ごめん」「別に謝らんでもええよ。ところで、喉渇かへん?」
大和くんが二人分の飲み物を買いに行っている間に、僕は考えた。(さっきまでの話は本当だろうか?)考えられる可能性は三つある。一つ目は、彼の話が真実である場合。――にわかには信じがたいが、この世の中では信じられない出来事が、時には起こるものだ。
二つ目は、彼が大嘘つきである場合。――作り話でノートまで書くなんて凝り過ぎているとは思う。しかし、有り得ないわけではない。世の中には、「人が驚いている様子を見るのが、三度の食事よりも好きだ」という人もいたりする(「兄貴」もそんなやつの一人だ)。
三つ目は、彼自身は真実だと思い込んでいる出来事が、実際には、彼本人にしか見えない幻覚である場合。――ある意味、これが一番怖い。いずれにしても、あまり深く関わらない方が賢明だろう。(話を聞くだけなら害はないとは思うんだけど……。住所を教えたのは失敗だったかな?)などと考えていると、
トントン。急に後ろから左肩を叩かれた。僕がビクッとして振り向くと、大和くんが自分のオレンジジュースと僕のアイスコーヒーを乗せたトレーを持って、立っていた。「驚き過ぎとちゃう? 自分」笑いながら言う彼に、僕はぎこちない笑みを返した。
席に着くなり、大和くんはオレンジジュースを一気に飲み干し、グラスの中の氷を口の中に含むと、バリバリと噛み砕いた。そして、すぐに続きを話し始めた。
五、
どこまで話したんやっけ? あっ、そうそう、俺の左の目ぇが飛び出したとこまでやったな。俺の左目を乗っ取って飛び出した「ヒラリー」のやつはな、しばらくの間は部屋ん中を飛び回っとったんやけど、曇ってた空の合間から日光が射し込んで来たら、急にあるべき場所に戻って来たんや。
せやから、「やつが日光に弱いようや」いうのが分かったんや。ホッとしたで、目玉が乾燥したら困るからな(大和くんは笑った)。それから晩になるまでは、左目はいつも通り俺のもんやった。自由に、上にも下にも左にも右にも向けることができた。
けどな、午前零時頃、俺が寝ようとしてベッドに横んなってすぐ、左目は勢い良く飛び出しよった。手で押さえる暇もなかったわ。「ヒラリー」のやつはな、開け放しとった窓の網戸をしっぽで器用に開け閉めして、夜空に向かって飛び立って行ったんや。
どうすることもできひんかった俺は、(無理やりにでも寝よ)思て、目ぇつぶった。ほんならなぁ、何と、隣の山田さんとこの屋根が鮮明に見えたんや。驚いて目ぇ開けたんやけど、暗い自分の部屋が見えるだけやった。俺はもう一度目ぇつぶってみた。近くの川を上から見た映像が見えた。
そんとき思たんや。(これは「ヒラリー」――つまり俺の左目――が見てる映像が、頭ん中に入って来てるんちゃうか、いや、そうに違いない)ってな。そんとき頭に入って来たんは、少し離れたとこにある、S公園の映像やった。普段の俺では見えへんはずの暗い場所も、クッキリと見えた。
(「ヒラリー」のやつ、どこに向かって飛んでんのやろか? このまま戻って来ぉへんのとちゃうやろな?)思た俺は、心配んなって、心臓の鼓動が速なった。と、次の瞬間、急に頭がボーッとして……、それからの記憶はあらへん。ふと気付いたら、もう朝やったんや。
目の前の景色は両目で見たときのもんやったけど、俺は慌てて左の目ぇ触って確認した。ちゃんとあった。念のために鏡見たら、やっぱり左目はちゃんとある。ジックリ見ても異常はあらへん。俺は、(昨日のことは全て夢かもしれへん)思た。いや、思い込もうとした。(あれは夢や、あれは夢や……)てな。
せやけどな、俺の淡い期待はすぐに裏切られた。そうや、その日の晩にもまるで同じことが起きたんや。俺の左目は、晩になると外に飛び出して行きよった。今度はちゃんと、窓閉めて鍵もかけといたっちゅうのに、「ヒラリー」のやつはどうにかしてそれを開けて、出て行きよったんや!
俺はすぐに目ぇ閉じた。眠るためにやない。左目が見てる映像を、俺も見るためにや。するとな、近くのH神社を上から見た映像が、頭に入って来た。神社の鳥居が段々大きなって来る。鳥居をくぐる。と、同時に頭が真っ白んなった。最後に頭に入って来たんは、樹齢何百年もある御神木の映像やった。
俺は次の日の晩、目にタオルを、鉢巻き状に何重にも巻き付けた。思いっ切り抵抗することにしたんや。(これで簡単には出て行かれへんはずや)そう思て、俺はいつものように午前零時頃ベッドに入った。(今日は大丈夫、今日は大丈夫……)て、自分に言い聞かしながらな。
けどな、その考えは安もんのモンブランケーキよりも甘かった。ベッドに入って数分後、ドスン!(ここで大和くんはテーブルを叩いた)という衝撃。左目が飛び出そうとした。せやけどタオルで阻まれて飛び出せへん。ドスン!(ここでも彼はテーブルを叩いた)二度目の衝撃。上半身が浮かび上がった。
それでも俺は、タオルを思いっ切り握って離さんかった。俺は、次の衝撃に耐える心の準備をした。三度目の衝撃!(大和くんはテーブルを叩く――寸前で止めた)はなかった。せやから俺は、(今日は諦めたようやな)思て、「ザマアミロ。いつまでもお前の思い通りになってたまるか……」て呟いたんや。
けど、その呟きが終わるか終わらへんかのうちに、俺の上半身が起き上がった。自分の意志とは関係あらへん。両足が床に下り、立ち上がった。体が勝手に動くんや。目に巻き付けてたタオルを外した。頭では抵抗してんのに、体は抵抗できひんのや。窓に向かって歩き出した。
「足動くな!」って口に出しても、動作は止まらへん。指先が窓の鍵を外し、開け放った。と、同時に左目は俺から飛び出して、夜空に向かって飛んで行ってもうた。俺は目玉の飛んで行った方を見つめながら、窓と口を開けっ放しにしたまま、突っ立っとった。
外に飛び出して以来、「ヒラリー」は夜行性に変わったようでな、昼間に出て来ることはのうなってた。せやからその次の日、俺は昼の間に「ヒラリー」の飛んで行った場所に行って、調べてみることにしたんや。「ヒラリー」が何もんなんか、少しでもええから手掛かりが欲しかったからな。
意識を失う直前に頭に入って来た映像はな、三日間全部ちゃうかった。初日は家から少し離れてるS公園、二日目は近くのH神社、ほんで、三日目は結構遠いA山やからな……。家から見た方角もバラバラやねん。――俺はまずH神社に向かった。もちろん、そこが家から一番近いからや。
H神社はな、古くからある町やったら、どこにでもあるような小さな神社や。初詣のとき以外、お参りする人の姿を見ることはほとんどない。十年以上前に俺がこの辺に住んどった頃は、周り全部田んぼやってんけど、今では、そのほとんどが駐車場や住宅地に変わってる。
小ちゃい頃、バッタやザリガニやカブトエビなんかを捕った田んぼは、ほとんど残ってへん。時代の流れでしゃあないんやろけど、やっぱり寂しいもんやで。けどな、周りは急激に変わってんのに、H神社自体はまるで変わってへん。境内に入るとな、今でも、小ちゃい頃遊んだときと同じ風景が広がってる。
その風景だけは、これから何十年何百年経っても変わらへんのとちゃうやろか……。すまん、ちょっと感傷的になってもうたわ。――俺はな、H神社の境内にある木の中で、一際巨大な御神木に向かった。二日前の晩、記憶がなくなる直前に見えたんが、その木やったんや。
せやから、木の周りを何べんも回って調べてみたんやけど、何も変わったとこなんかあらへん。木に登ってもみた。けど、やっぱり何もない。(この場所に手掛かりはあらへんようやな……)思た俺は、諦めて、少し離れたとこにあるS公園に向かった。
S公園はその辺りで一番大きな公園や。俺が行ったんは日曜の昼間やったから、公園内は家族連れで賑わっとった。公園に付きもんのハトと、それにポップコーンをやってる老人もおった。俺は目ぇ閉じて、三日前の晩、頭に入って来た映像に思いを馳せた。ほんで、ベンチが見えたことを思い出した。
公園の真ん中には小さな池があって、周りを青や赤に塗られた木のベンチが囲んでんねんけど、そのベンチの一つが見えたことを思い出したんや。せやから、俺はベンチの周りを片っ端から探した。ベンチに座ってた人に嫌な顔をされたけど、俺は「落とし物を探してるんです」言うて、ごまかして調べ続けた。
せやけど、どんだけ調べてみても、結局そこには何もなかった。A山は全く逆方向やし、自転車で行くには遠過ぎた。バイクがあったらすぐなんやけど、事故で使いもんにならんようなってもうてる。それに、一度も行ったことがない場所やから、下調べもせずに行っても、無駄骨になる可能性が高そうやろ?
せやから、何の成果もなかったけど、俺は家路に就いたんや。家に帰って、俺はベッドに寝転んで考えた。(やっぱり晩に行かなあかんようや。せやけど、晩になると「ヒラリー」の天下やしな……。どうしたらええもんやろか?)てなことを考えとったらな、いつの間にか外が暗なっとった。
その晩俺は、目玉が飛び出したら後を追うつもりで待っとったんやけど、夜遅うなっても、飛び出す気配はない。俺はどうしたらええかちょっと迷たけど、意を決して家を飛び出して、H神社に向かったんや。神社に着いた俺はな、例の御神木の根元に夜間撮影可能なビデオカメラをセットして、ジッと待った。
俺の心ん中では(何か起こって欲しい)という思いと、(何も起こって欲しない)という思いが錯綜してた。一時間ほどその場所におったけど、何も起こらんかったんで、(ビデオだけ置いて一旦帰ろ)思て立ち上がったとき、耳のすぐ側で羽音がした。ブ~ン(大和くんは口で音を出した)こんな感じの音や。
(もしかして……)思て、俺は恐る恐るその方向に手ぇ伸ばした。手が何かに触れた。湿ってた。プヨプヨしてた。まるでクラゲのようやった。普通の虫では有り得へん感触や。俺はビデオカメラ越しに羽音のする方を見た。それはやっぱり目玉やった。虫に寄生された目玉が、空を飛びながらこっちを見てた。
予想はしとってんけど、実際に見てまうと、驚きと恐怖で声も出ぇへん。俺はその場にヘタヘタと座り込んでもうた。クェチクェチクェチクェチクェチ……(ここでも、大和くんは音を出した)目玉は鳴き出した。その直後、俺の周囲からいくつもの鳴き声が聞こえて来た。
クェチクェチクェチクェチクェチ……クェチクェチクェチクェチクェチ……クェチクェチクェチクェチクェチ……クェチクェチクェチクェチクェチ……クェチクェチクェチクェチクェチ……クェチクェチクェチクェチクェチ……クェチクェチクェチクェチクェチ……。クェチクェチクェチクェチクェチ……。
クェチクェチクェチクェチクェチ……クェチクェチクェチクェチクェチ……クェチクェチクェチクェチクェチ……クェチクェチクェチクェチクェチ……クェチクェチクェチクェチクェチ……クェチクェチクェチクェチクェチ……(大和くんの出す音は、セミの鳴き声を思い起こさせた)。
持っとった懐中電灯で周りを照らすと、十数個の目玉が空に漂ってんのが分かった。俺は逃げ出そうとしたんやけど、体が動かへん。クェチクェチクェチクェチクェチ……(大和くんはまた音を出した)俺の体の内部からも音が聞こえて来た。それに反応してやろな、周囲の目玉たちが、一斉に俺の方を見た。
――恥ずかしいんやけど、そんとき、俺は小学生以来初めてションベンをちびった。(大和くんは苦笑した)そんな俺の様子は無視して、目玉たちは、鳴きながら活発に空中を飛び回っとった。クェチクェチクェチクェチクェチ……クェチクェチクェチクェチクェチ……クェチクェチクェチクェチクェチ……。
クェチクェチクェチクェチクェチ……クェチクェチクェチクェチクェチ……クェチクェチクェチクェチクェチ……クェチクェチクェチクェチクェチ……クェチクェチクェチクェチクェチ……クェチクェチクェチクェチクェチ……クェチクェチクェチクェチクェチ……クェチクェチクェチクェチクェチ……。
クェチクェチクェチクェチクェチ……クェチクェチクェチクェチクェチ……クェチクェチクェチクェチクェチ……クェチクェチクェチクェチクェチ……(大和くんは音を徐々に大きくし、それから徐々に小さくして行った)「――というわけや。お終い」そう言うと、彼は煙草に火を付け、それを吹かし始めた。
「それで終わりなの?」僕は拍子抜けして、尋ねた。「そ、お終い……にしとくわ」後ろの方の言葉はとても小さかったので、危うく聞き逃すところだったが、僕の地獄耳にはちゃんと届いていた。「え、今のどういう意味?」「聞こえてたん? 自分、耳ええな。ほんまはな、まだ続きがあんねん」
「けど、聞いたら後悔するかもしれへんで。それでも聞きたいん?」僕はうなずく。ここまで聞いたら、最後まで聞かないとイライラする。大和くんは吸いかけの煙草を灰皿に押し付けると、「しゃあないなぁ」と言いながら、サングラスを外した。映画の一シーンにしても良いぐらい、とても様になっている。
僕は露になった大和くんの左目を注視した。彼の左目は――ちゃんとある。変わった所も別にない。(なんだ普通じゃないか。驚かすなよ。この人、やっぱり嘘言ってたんじゃないの……)などと考えていると、彼は僕の目をジッと見て言った。「ところで藤元くん、大量に現れた目玉たちは、どうした思う?」
「さぁ……」僕は首を傾げるしかなかった。「そいつらはなぁ、ペアんなって交尾をし始めたんや」大和くんはそう言うと、ニヤリと笑った。「目玉同士の交尾なんて見んのは初めてやったし、オスとメスの区別も付けへんかったけどな、何となく分かるもんやで。(ああ、やってんねんな)ってことはな」
「想像も付かないな……」「せやろな。俺も自分の目で見てへんかったら、思いも付かへんかったやろし」僕は横目で腕時計を見た。休み時間まで、もうすぐだ。それを目ざとく見つけた大和くんは、「もうすぐ時間か? 急がんとあかんな」と幾分早口になって、話を続けた。
「そのうちな、空を漂ってた目玉たちの中の一体が、俺に近付いて来た。それでな、俺の頭の周りを鳴きながら回り始めたんや。するとな、いきなり俺の左の目ぇ――つまりは『ヒラリー』やな――が飛び出したんや。ほんで交尾を始めよった。もちろん空でやで」
「そんときはまだ分からへんかってんけど、そん後すぐ、あることから『ヒラリー』がメスやって分かったんや」大和くんはそこで一端言葉を切ると、新しい煙草を口にくわえ、火を付けようとした。しかし、ライターのガスが切れていたようで、何度やっても火は付かない。
彼はイライラした様子でライターをテーブルの上に置き、煙草を箱に戻した。「あることって、何?」僕がそう尋ねると、一瞬、大和くんは真剣な表情で僕の目を見たが、すぐに微笑みの表情に変わって、言った。「『ヒラリー』が産卵したことや」「それって、やっぱり……」「そ、もちろん人の目玉に、や」
大和くんはそう言いながら身を乗り出し、僕の目を覗き込むと、目を見開いた。背筋がゾクッとした。嫌な予感がする。僕は彼に会ってから初めて、逃げ出したい衝動に駆られた。大和くんは再び目を細め、話し続ける。「薄々気付いてるかもしれへんけど」(言うな)
「『ヒラリー』が卵を生み付けた、目玉の持ち主いうんはな」(聞きたくない)「君や。藤元くん」大和くんはサラリと言うと、白い歯を見せて満面の笑みを浮かべた。彼の笑顔は爽やかそのものだった。が、それが怖い。嘘だと思っているはずなのに、僕の心臓の鼓動は速まっていた。
「ま、またぁ、冗談ばっかり言って」と笑いながら口にした僕の顔は、引きつっていたに違いない。目の下がピクピクしているのは自分でも分かっていた。「ま、冗談やと思てんねやったら、今はそれでもええけどな。どうせそのうち分かることやし。お、もうこんな時間か。俺先行くわ。じゃあな」
腕時計を見てそう言うと、大和くんは彼と僕のグラスが乗ったトレーを持ち、立ち上がった。彼が僕の横を通り過ぎようとしたとき、クェチクェチクェチクェチクェチ……例の音が聞こえた。が、彼は口を開いてはいない。疑問に思った僕は尋ねた。「あのさ」「何や?」「その音、どうやって出してるの?」
「さあな。俺が出してんのとはちゃうからな」「えっ?」「こいつが出してんねや」大和くんは自分の左目を指差した。僕は彼の左目を凝視する。黒目の奥で何かが動いた(気がした)。僕は目を細め、さらに凝視しようとしたが、そこで彼は再びサングラスをかけた。
彼は微笑みながら僕の耳元に顔を近付け、「ま、覚悟だけはしとけよな」と囁くと、軽く左手を挙げ、去って行った。僕は呆然として、大和くんの後ろ姿を見送った。しばらくしてテーブルの方を向くと、彼の座っていたイスの上に、一枚の紙片が残っているのに気が付いた。
手に取って、見ると、そこにはこう書かれていた。「ここに俺のケータイの番号を書いておく。困ったことがあったら、いつでもかけて来てくれ。TEL(090―****―****) by大和弘志」僕はその紙をクシャクシャに丸めた。けど、どうも捨てられない。
結局、僕はそれをそのままズボンのポケットに突っ込んだ。大和くんの話は真実なのだろうか? それともただのホラ話なのか? あるいは、彼は電波系の人なのだろうか? 僕には判断できなかった。
六、
「彼がその患者かね?」白衣を着た頭髪の薄い初老の男が、同じく白衣を着た、隣のまだ若い男に尋ねた。「はい、そうです」若い方の男は、ずり落ちそうな眼鏡を、右手の人差し指で押し上げながら答える。「彼は、『目玉が自ら外に飛び出して行った』と言うのです。とても信じられるものではありません」
「しかしねぇ、現に彼の左目は失われているんだろ?」「ええ……」「彼は二ヶ月ほど前にも、うちの病院に入院していたんだよね?」「はい」「そのときは、目には何も異常はなかったんだよね?」「はい。――あ、いえ、軽い飛蚊症にはなっていました」
「ですが、網膜剥離を起こすような状態ではありませんでしたので、そのままにしておきましたが……」飛蚊症とは、何らかの理由により眼球のガラス体が混濁し、その混濁が網膜に映って、眼前に蚊が飛ぶように見える(人によって様々なものに見える)症状のことである。
そのほとんどが無害であり、病気とは言えないものなのだが、時には網膜剥離の前兆のこともあるので、注意しておくに越したことはない。――二人の眼前にある病室に入院している患者は、自虐傾向のある若い男性で、過去に何度か自殺を試み、この病院に運ばれて来ていた。
二月ほど前にも、カッターナイフで左手の手首を切り、救急車でこの病院に運ばれて来た。傷自体は大したことはなかったのだが、精神的に不安定だったため、安定するまで一週間ほど入院していた。今回その男性は、住んでいる家のベランダから飛び下り、両足を骨折している。
とは言え、彼は積極的に自殺しようと考えているわけではない。近くにカッターナイフやハサミなどがあれば、何となく自分の体を傷付けてしまうし、高い所から下を見ると、なぜだか飛び下りたくなるらしいのだ。彼が入院している個室には大きな窓があるが、金網がかかっているので飛び下りる心配はない。
大きな窓の上方にある小窓には金網がかかってはいないが、小さ過ぎて飛び下りられるはずもない。その上、彼は両足を骨折していて動けないのだ。だから、若い方の医者=塚原も安心して担当していたのだが……。塚原と、初老の医者=芦沢が彼の病室に入ったとき、彼はおとなしくベッドに横たわっていた。
芦沢は患者の左目を覗き込んだ。確かにそこには目玉がなかった。無理やりえぐり出された形跡はない。きれいになくなっていた。「どうしました? 昨日までは何ともなかったんでしょう?」芦沢は努めて冷静に、患者に尋ねた。「あそこから飛んで行って、戻って来ないんです」
芦沢の方に顔を向けたまま、男性は小窓を指差した。昨日の夜、確かに閉まっていたその窓からは、生暖かい風が吹き込んで来ている。
七、
ンフフフフフ。ンハハハハハ。上手くだませたな。まさか、あんな嘘話にだまされるやつがいるなんてな。あいつの驚く顔ときたら……。ククククク。人の驚く顔はいつ見ても楽しい。笑いが止まらない。目玉が飛び出したのは本当だが、戻って来ないというのは真っ赤な嘘なのに。
もう、目玉に操られたくはなかった。体の主導権を自分自身に取り戻す。それが一番の、そして唯一の望みだった。そのためには、少しぐらいの犠牲はやむを得ない。だから、決心した。――外から戻って来た目玉はいつも、眼窩に収まる寸前に、空中でほんの一瞬静止する。
今朝、その刹那、冷静に背後から目玉を捕まえ、右手でギュッと握り潰すと、口に運び、粉々に噛み砕いた。そして、一気に飲み込んだ。こうして、ようやく自分の体が自分の元へと戻って来たのだ。だから僕は、「これで自由の身になったーーっ!」ほくそ笑みながら、そう叫ばずにはいられなかった。
了
左の目ぇ
最後まで読んで頂いて、ありがとうございます。