ランスという青年

[ランスという青年]Un jeune homme appele Lance 20110524

<1>

 淡い空は白昼夢のようだ。白の雲は絹の様であり、柳はゆらりと撫で揺れている。石畳の小高い場から街並を見渡していた。
どこにいるのやら、猫の鳴き声が挨拶でも交し合っているようで、犬の遠吠えも加わった。黒いラブラドールが歩いてきては、毛足の長い灰色の猫が逃げる様に煉瓦の道を走って行き、横を通りすがって行った。犬は背後にあるハーブ(Herbe)石鹸専門店の客が連れているようで、ワイヤー(un fil)リード(Une ficelle)にそれ以上は行動を阻まれ、ラブラドールにしては険しい顔を通常に戻していた。引き返していき繋がれている緑の街路灯下に座った。
また空を見上げる。
鳥の名には詳しくは無いが、美しい声で鳴くためにしばらくは居場所も掴めないままに空だけを見上げていた。水色に溶け込むように、透き通る声は響いている。
「サイビリンブルーボビン(Un rossignol)」
振り返ると、足許にあの黒いラブラドールを連れた飼い主が立っていた。
「鳥の名前。淡い水色のスラッとした綺麗な小鳥で、腹部が真っ白い」
そう説明してくれた。
「先ほどはいきなりこいつが咆えたから驚いたでしょう。部屋によく野良猫が入るから過敏で」
当の先ほどの猫は、白猫と共に柳の横の平らな岩に眠っていた。
「そうか。それは番犬にし甲斐がある」
「ええ」
水色の小鳥は姿が見えないまま、柳の何処かにいるのかも知れずに、空の色に溶け込んでいるのかもしれない。
「ここには散歩で?」
「娘の習い事の迎えだ。いつも三時に終わり、あの漆喰の建物からでてくる」
「歌の教室」
「ああ」
「日曜日なのにお父さんが来てくれると、喜ぶでしょう。そろそろその時間か。僕は行きます。僕はバルト。ランス・バルトといいます」
金の懐中時計を見ては、一度微笑み真っ直ぐと見て来た。そして犬を連れ歩いて行った。それがランス・バルトとのはじめての出会いだ。爽やかな好青年。その印象の。

 「あなた。休憩になさって下さい」
妻がアトリエ(Un atelier)に来ると、珈琲を円卓に置いた。
アンティーク(Une curiosite)風の装飾品を手がける仕事をする傍ら、金属で作られた創作楽器での作曲も行なっている。半ば民族的な風雅が強い楽調だ。今は五名体制で行なっている。元々妻は卸した装飾品を身につけていた依頼者側の専属モデル(Un modele)だった。七年前に婚姻を結び、今では五歳の娘がいる。二人とも、楽団の団員でもあった。そしてあとは友人の二人がいた。一人は珈琲豆屋で、一人は装飾品店の主人をしている。この珈琲も贔屓にしているその店のものだった。カップ(Une tasse)を傾け、薫り高さに目を綴じた。
「張り紙を見ましたが……」
目を開いた。妻の背が歩いて行った。しばらくして、客が進んできてはアトリエ(Un atelier)を見回した。
「ランス・バルト」
「この前の。あなたのアトリエ(Un atelier)でしたか。楽団の張り紙に興味を持ちました」
椅子から立ち上がり進んだ。
「バンダ・レイだ。彼女は妻のシャナ。彼は小鳥になかなか博識でね」
「大学で生物学を専攻して」
妻は微笑み握手を交わし、私はその一瞬で交わされた若い二人の視線に、不安を感じた。

 一時間して、妻とランスが共に娘の迎えから帰って来た。
「最近、仲がいいようだが」
「ああ……」
不安など、とうに的中していた。ランスは妻と不倫をしては、娘まで連れて三人で遊園地や映画館、サイクリング(Faire du velo)など、しまいにはキャンプ(Camper)にまで出かけ、夏休みは一週間帰らなかった。
「ランスが来て半年だが、大学生にしては自由だねえ」
珈琲屋はパイプ(Une pipe de la cigarette)を離しながら目を細めた。
「うちの家内も十年前出てったが、似たような奴が現れたもんさ。今や仲間疑いつけるわけじゃ無いが、あの坊や、詳しいことは分からないんだ。注意しておいた方がいい」
ドア(Une porte)の先からは、楽しげに買い物までして来た声が聞こえていた。娘も飛び跳ねるような声をしている。ランスは日曜日の私の楽しみを奪うように言ってきた。練習に励むように自分が娘を迎えに行く事を。しばらくすれば六歳の誕生日だ。それまでには……。

 目を覚ますと隣りは空だった。
溜息を尽き、髪を掻き上げ卓上の楽器を手にした。窓からは月光が伸び、海の底の様な静けさと青さを室内に湛えている。まるで海月でも浮遊しているような音が響く。金属音に限らない宇宙を想像するような温かい音が。目を明ける。静かな金に月光が射し、繊細な小振りの楽器を美しくする。口にくわえ鍵盤を弾き唇で音を調節するものだ。
「バンダ」
静かにドア(Une porte)が開けられ、ランスが立っていた。
「泣いているのか? バンダ」
暗がりの中では不安げな表情のランスは進み、ここまで来た。
「君が家族を私から奪うために……」
楽器を見つめ、静かに弄んだ。膝に影が落ち白い部分は眩しく月光をおろしている。
「半年前に来たんだな」
「バンダ。誤解だ」
「楽団からも身を引いてくれ。娘の誕生日までに君にいてほしくはない」
「僕は男じゃ無い。バンダが思っているような事など無理だ」
「………」
ランスを見上げ、視線が固まり口が開いた。
「おやすみなさい……」
身を返し出て行った。ドア(Une porte)が閉ざされ、窓の外、夜に鳴く鳥の声がした。

 妻は娘と共にまたランスと出かけて行く。行き先などは不明で、その後の話で聞く。
アトリエ(Un atelier)で彫刻刀を置き、窓から外を見た。三人は仲良く歩いていき、擦れ違いで装飾品屋が来た。背を見ながら歩いてきては、この建物に入って来る。植木蜂の花は、風に揺れそして陽を浴びて可憐だ。実に。白の花を愛するのは妻と同じで、清らかな純白と共に娘の好きな薄桃色と藤色の花も揃っていた。水色の淡い花は、ランスの花だ……。
「今回も小鳥かい?」
装飾品屋がアトリエUn atelierに入り、金属の小鳥を見た。彼のところにはこの場で創り出されたアンティーク(Une antiquite)調の装飾品を置かせてもらっている。
「バンダ。最近心配されてるぞ。自分と同じ様に妻に逃げられやしないかってね」
「その問題は無くなったようだ……」
「なんだ。ぼうっとしてるじゃないか。お前もまだ四十も二だ。痛い目を見る前に、一度探偵にあの坊やを調べさせたらどうだい」
装飾品屋の顔を見て、苦笑しては首を横に振った。
「そういうことは好きでは無い」
「また控えめな事言って。だから奥さん若い小僧に走るのさ」
装飾品屋はもって来た袋からチーズ(Fromage)と赤ワイン(Vin rouge)を出して飲み始めた。私は再び作業に入る。
「今回は何の鳥だい」
「こまどり(Un rouge-gorge)……」
木に沢山群生していた鳥は、あの坊やを装う不可解なランスがやはり言ってきた。元から、囚われていたのかもしれない感覚はある。鳥籠のように次第に、ランスという爽やかさに。

 妻と娘が帰って来なくなった。ランスは行方不明となり、警察がいくら調べても、そんな名前の人間は存在しないという調べだった。
気が付けば私の周りは金属の小鳥たちばかりになっていた。そして、小鳥の声を発する楽器ばかりに。
「哀れになあ。奥さんの手紙じゃあ、バンダのやつがあのランスに元から執心なんじゃないかって怪しんで、あの坊やを無理に旦那から離す為に引っ張り回してたらしいぞ」
「今じゃあ小鳥しか見えていないんだろうな。花も淡い水色のばかりだ」
「本人は、あれで幸せなのかもな」
淡い水色の空の季節が来た。今年も。
窓の景色から、柳の下に黒い影を見た気がした。黒いラブラドールの幻までも。
私は微笑み、見ていた。

<2>

 「ねえ。素敵」
「え? 誰?」
「ほら。黒髪で長身の。淡い水色の瞳をしていて」
「あの黒のスラックス(Un pantalons)と白いワイシャツ(Une chemise)の彼? 本当。素敵」
「ウォン! ウォン!」
「きゃ! 犬? 驚いたわ……」
「ね。カフェ(Un cafe)にでも誘わない?」
黄緑が細い枝から揺れてしなだれている。明るい陽が、ベルギーの街並に射している。二人は歩いていき、黒い犬をみながら近付いた。リード(Une corde)は青年の白い手に繋がっていて、その彼は崩れかけの古い教会と墓石の並ぶ間、濃い芝に横たわる白灰色の石を積み重ねた柵の上に座っていた。柳の下、教会先に臨む豊かな緑の街並を風をゆったり受け眺めている。瞳は透明度が高くキラキラ光り、極めて爽やかな青年だ。何系だろうか。ベルギー系ではない。オランダ語もフランス語もドイツ語も通じなかったり、北欧系やラテン系(Systeme latin)なら話し掛けても通じない。
「こんにちは(Bonjour)。何を見ているの?」
ランスは顔を上げ、同年代ほどの二人の女の子を見た。
「鳥の群」
「可愛い。鳥が好きなのね」
「そう」
しかし、鳥は今見当たらない。
「ほら。聴こえる」
二人は微笑み目を合わせ、耳を欹てた。
「どこ? 小さいのかしら」
「聴こえないわ」
「もっと耳を澄まして。目を綴じてごらん。聴こえてくるから」
二人は目を綴じ、一人が開いた。
「………」
彼女は目を見開き、消えている青年のいた場所を見た。見回してもいない。友人が目を閉じている内に青年とキス(Un baiser)をしようとしたのに。黒いラブラドールは、猫の存在に気を取られて見ている。リード(Une corde)はなく、首輪さえない。顔を上げて、首を傾げた。二人は見回し、顔を見合わせた。

 ランスは街角を歩き、路地裏へ入って行った。
「ランス」
叫びそうになり、振り向いてから息をついた。とはいえ、ランスを呼ぶ人間はこのところ一人しかいない。伯父のアルバイダン伯爵だ。伯爵といっても愛称にしか過ぎないほど既にその統治の時代から何百年も過ぎていた古い時代の事だ。
「若い女の子の香りがするな。迂闊に近寄らせるな」
女性と言う物は嗅覚が鋭くて、一瞬見ただけで性別を見抜いてくるものだ。同年代では特に。
「分かってる」
原因不明の年齢が止まる遺伝子を持つ彼等の一族は、ランスを二十二の若さに見せた。その年齢でランスの場合は年齢が止まった。伯父の場合は五十語の年齢で止まった。その血筋の母は症例が現れず、ランスの妹は十七で止まり十年後に発狂した。その内にも細い血筋は続いていたが、これまでに二十三名の同じ遺伝子の者達が今は森をつくり育て護っている。大お婆様と呼ばれる方がいるのだが、今は元気にヒマラヤ(Le Himalaya)に登り続けている。
「また恋をするつもりのようだな」
「恋は不可抗力です。避けられない物だ。絶対に」
バンダ・レイのあの静かな優しい眼差しを思い出す度に、伯父には見抜かれているのだ。男性のように装うのも、こいを発展させない為だった。
「今日は城に帰ったらお前が食事を用意しなさい」
アルバイダンは颯爽と帰って行った。あまり出歩かせないためだ。分かっていても街中へ進んでいた。
夜の静かな朽ち果て行く城は、ランスを人恋しくさせるから。静寂は小夜啼鳥が心潤してくれる。しかし、恋は? 人を思い切り愛したい衝動や寂しさをなくしたら、伯爵のように厳しい人になってしまうのだろうか。
黒い犬を見つけて首輪とリード(Une corde)を嵌め、共に歩いて行く。また猫を見て気が行っている。いつでも古城のランスの部屋には野良猫がたくさんたまり、犬は毎回吠えていた。
「……ランス!」
いきなり腕を強い力で引かれ、驚き目を見開いた。
「ウォン! ウォン!」
「静かに……」
ランスはバンダに肩を引かれ強く抱きしめられた。バンダの整えられた清潔な首筋の髪を見て、ランスは女性のままの言葉で言っていた。
「久し振りなのに……」
バンダはきつく抱き締めながら首を振り、ランスの顔を見つめた。
「まだ男の様な装いをして」
それでもやはり体や肌はとても滑らかで柔らかく、引き寄せた時の軽さも、角など無い体も女性だ。互いがあまりにも緊張して、動く事など出来ずにいる。抱き締めあうなどまさか無い事だった。
「奥さんと娘さん、戻って来てくれた?」
「連絡はあった……。まだ怒っている」
「楽団は?」
「三人で続けている」
小さな歌姫の無い中なのだろう。ランスは視線を落とした。
「そう……今さら、戻れないよね。家族が今は離れ離れになってしまったから」
その原因を作ったのが自分で、自分達がその張本人になるわけには行かないのだ。その結果を毎回回避させる為に伯父は厳しく恋に規制を強いてきてもいることは充分分かっていた。それに新しく無闇に血族を増やす結果に繋がる事も厳しい規制が敷かれている。恋愛は全てその前述になってしまう。
ランスは女性の口調なら実にそれも自然で、やはり美しい。黒いラブラドールはいきなり情熱的になった静かな性格のバンダを見上げて、ランスの顔を見上げた。
「歩こう」
二人は歩き出し、そして路地裏の壁際で愛しい視線を交わした。水色の淡い瞳は初対面の空を思い出す。白い光を受けている。黒い睫は艶掛かり。
アルバイダン伯爵の存在が無いかを注意しながら、ランスは歩いた。明るい路地に来て、煉瓦の道を進んだ。
「君に服を贈りたい」
「今のままでいい」
確かに、城での二人きりの晩餐会ではメイクも施し、女性の綺麗なドレスを身に纏う。大お婆さまが加わる際は特に厳しい。女性のらしさが無ければヒマラヤ(Le Himalaya)に連れて行かれる。それでも今の時をランスは女性らしい装いをしてみたかった。
「明日の晩、初めて会った場所で私は待っている。君によく似合う服と、装飾品を持って、待っている」
風の流れていく街並は、髪を靡かせてはまどろわせた。

 ランスは雨の中、ずっと待ちつづけた。再会したバンダのことを。
贈り物をと言ってくれた。待っていると。
雨は冷たくて、シャツ(Une chemise)の腕を冷やした。あの見つめ合ったことを、キス(Un baiser)を必死に思い出して心の温かな拠り所に、望みにして、それでも悲しい涙は雨に濡れて止まりはしなかった。長い指先が撫でた黒髪も冷たくて滴り、昼の時間は雨などの気配も無かった空は今、鳥達も塒へ帰り、雨がふりしきり厚い雲が現実を報せた。それほどに違うのだろう。彼等と、特殊な自分達との間は覆う厚い雲ほどの距離があり、先など見えなくて、そして冷たくてあの熱い包括の記憶さえ奪い尽くす頃になってようやく、理解する。理解しなければならないのだ。
きっと、奥さんと愛らしい娘さんが帰って来たのかもしれないし、いきなり楽団公演の話が舞い込んだのかもしれない。
冷たい雨に打たれて、小夜啼鳥になってしまいたかった。まぶたに降りしきる雨は、癒してはくれなかった。鳥の声ならば、彼は聴いてくれる。耳を欹てて聴いてくれる。大切に。初対面のあの時の素敵な横顔、思い出す。そして鳥の名前を聞くあの静かな口許が好きだった。
「幻だったのかな、彼は……あのキス(Un baiser)は」
自分こそが幻のような存在なのに、悲しくて、声に出し泣いていた。夜にソプラノ(Un soprano)の泣き声で、恋に泣いていた。

 ランスはその日の昼も同じ場所で待ってみた。
犬は吠えるので、置いて来た。猫を噛まないように広い檻に餌と共にいれた。そうするといつも大人しくなる。
「ラララン ララ」
聴きなれた声に風吹く方向を見た。
バンダの娘が走って白い建物のドア(Une porte)へ消えて行った。黒い装飾的なフェンス(Un grillage)のドア(Une porte)で、奥へ走って行く小さな背がいつまでも見えていた。バンダはランスを見て、ゆっくりと歩いて来た。
「こんにちは」
ランスはそう言い、微笑んだ。
「金曜日はすまない。約束をしておきながら果たせずに」
「いいんだ。娘さん嬉しそう」
バンダは一度そちらを振り返り、横顔は微笑んでいた。このまま消えてしまうか、空に溶け込む鳥になれたならいいと思いながら、ランスは街を見渡した。
「共に鳥になれたなら、愛を歌うか子に食事を与えるか……」
ランスの歌声に、バンダは横顔を見た。
「先なんて無いよね。これからの関係になんの未来も無い。帰るべき場所はあるならそちらを選ぶしかなくて。バンダ」
一時の熱で全てを終らせる事など出来ない。残酷な事なんか。
「水曜の昼から、会おう。君と共にいたいんだ。その時間が尊い。夜は、ナイチンゲール(Un rossignol)の声を聴きながら君を想うかもしれない……」
ランスはバンダを見て、見つめ合った。水色の空がどこまでも続く……。
「いいよ」
そう、囁いていた。愛しい指がまた彼へと向かって熱くなり、心は熱をもって微笑みに変った。それでもどんなに体が熱くなろうと細胞は成長を促さず、留まらせる。同じ時間と感覚を完全には過ごさせないかのように。それでもいい。今はただ、バンダという個人を心に受け止め、まだ恋に浸っていたい。
静かに会う時間に、心が喜びに取り囲まれるから。
「約束」
爽やかに微笑んだランスの白い頬に、光が乱舞した。

<3>

 あたしはアルバイダン伯爵をホール(Un couloir)まで送り届け、「いいご旅行を」と言った。
伯父は二ヶ月間留守にするから、古城はあたしは護らなければならない。
国からは特殊な症例の存在であって、生活も長期にわたっていつでも完全には整ってばかりもいられないために、様々な事が免除されてもいた。理解力の無い事が普通の為に、面倒な戸籍さえ役所には無い。
新しい事を始める医者や研究者が現れるたびに解明してもらおうとどこ国だろうとあたし達は治療や検査に向かった。遺伝子の関係なんだとようやく知ったのも現代医学がなした検査結果だ。半永久的に再生し続ける分子レベル(Un niveau)の植物があり、同じ様な染色体の形状が見つかったという。それが肉体レベル(Un niveau)であたし達には起きている。あたし達は遺伝子を止める為に、絶対に子孫を作らないように努めていた。
代わりに、野良猫たちが沢山いるし、犬もいるし、綺麗な可愛い小鳥たちもたくさんいる。
青いチョーク(Craie)で今日も石の床に鳥を描き始めた。陽が差し込んで影が差している。ふと顔をあげた。
小鳥がとまり、あたしはパン粉をばら撒いた。とうもろこしの種とか、いろいろ。木漏れ日は流れていき、森の全体を光らせていた。歌う。今日も水源の様な空に。あの繊細な金属の楽器を奏でることにした。あたしは立ち上がり、青のチョーク(Craie)を持ち走って行った。
「ランス」
風だろうか。振り向くと、本当に彼がいた。
「バンダ」
火曜日なのに、来てくれたなんて。
「入ってよ。来てくれて嬉しい。楽器をやろうとしていたの。共に奏でましょう」
「ああ」
あたしは微笑んで歩いて行った。
いつもあたし達は彼が来ると、古城やその周りで共にゆったり過ごした。昼下がりは小鳥達も落ち着いている。黄緑が柔らかい葉がもれる間口にあたしは座り、楽器を奏でる。エキゾチック(Exotique)な二つの音色が絡み合う。目を閉じて……。鳥達が囀り羽ばたいていき、視線を眩しい中へと巡らせる。青の濃い空は、全てを受け入れてくれるよう。
「バンダ」
囁いて、目を閉じた。
しばらくして石の床に座っていた彼の指が手に触れ、腕を伸ばし抱き寄せてくれる。腕から鼓動を感じる。時々、彼と共にここから腕を引き連れて飛びたくなる。ずっと寄り添っていたい。そんな望みが、静かにうねる。
きっと、五年くらいはこうやって共にいれる……。

 メイク(Fais)をして、ドレス(Une robe)を身に纏って、髪を背後に流して、スツール(Tabouret)に足をかけ、ストッキング(Bas)、装飾品をつけて、ハイヒール(Chaussures a hauts talons)に足を通した。金の姿鏡の中のあたしは、大人の女性と娘の間のようになった。黒いシルクチューブトップ(Un sommet du tube de soie)に灰色パール(Une perle)の装飾釦が並び、腰から足首上まで灰色と銀シフォン(Chiffon)の重なるスカート(Une jupe)。ストラップ(Une laniere)つきのハイヒール(Chaussures a hauts talons)。黒シルク(Soie)のロンググローブ(Un long gant)。特別な時の赤のシャネルを唇に引いて、ぐっと長く黒いマスカラの目許も、はなだちも際立った。
耳にイヤリング(Boucles d'oreille)をつけて、手首にブレスレット(Un bracelet)、そして指輪。香水は大人の雰囲気が加わった珈琲にした。また金の櫛で背後に髪を流し撫でつける。
綺麗だろうか……。
あたしは廃墟の中月光が伸び光る床を一度回り、鏡の中の姿を確認した。
部屋には野良達がそこかしこで眠っていて、黒犬は既に食事も終えていつもの場所で寝ている。その周りに猫達が寄り添い丸くなって、一匹などは犬の耳の間に長い尻尾を置いて可笑しな事になって眠っていることを犬は知らない。
群青の夜に黄色の月。森の影は静かだ。小夜啼鳥の美声が聴こえる。鳩もホウホウと鳴いている。深夜になれば、梟も鳴くわ。蝙蝠が夜の影になり羽ばたいていた。
あたしは食堂へ向かう。回廊やホール(Un couloir)、広い廊下を進み、開かれた大きい金浅彫りの観音扉へ進むまで、胸ははちきれそうだった。荘厳なダイニング(Diner)の高い天井から下がる厳かな古いくすんだクリスタルシャンデリア(Un lustre du verre du cristal)は縦に長いダイヤ(Un diamant)型で、その姿が見えて来た。
彼が、いる。
長いダイニングテーブル(Une table dinant)に、細い頬をして髪をセット(Une coupe de cheveux)した堅すぎない上品さの燕尾服の。黒い真珠のカフス(Un poignet)が白の袖口に可愛い。椅子に片下腕を置き座り、グラス(Un verre)の赤のワイン(Vin)が映えていた。とても素敵だわ。
あたしは進み、観音扉の間口にそっと手を当てた。彼が静かな目元をあたしに向け、口許を開かせた。
「……ランス」
あたしは駆けつけていた。胸部にしがみつき、鼓動が高鳴っている。
「美しい。綺麗だ」
「本当?」
「ああ……とても」
「嬉しい」
あたしは顔を上げ、彼をようやく間近で見つめた。
「とても素敵。バンダ」
しばらくそっと包括しあっていた。鳥の美声が夜空や森から、この石の空間に神秘的に響く中をずっと。レコード(Un dossier)にあわせて黄金の流れのようなメロディー(Une melodie)を踊り、視線を交わした。

 石のアーチ(Une voute)を描く間口で寄り添い、月を眺めていた。
踊り疲れてヒール(Un talon)も脱いで、あたしは背後の彼の肩にこめかみを預け、まぶたを夜風に閉ざす。肩にジャケット(Une veste)を掛ける彼の腕が肩を包んでくれる。
「ランスかね」
あたしは叫びかけて、ルダリア様を見た。
「ヒマラヤ(Le Himalaya)はいかがでしたか」
咄嗟に立ち上がり整え、バンダは立ち上がって彼女に例をした。
「山は過酷だったさ」
「ご無事に戻られて何よりです。彼は、その」
「レイです。娘さんとは仲良くさせて頂いて」
「宴には終焉を迎える時が来る事を知らせてあるのかね」
あたしを冷静な目で見て、首を横に振った。
「宵は深まった。森の梟に拐われない内にお帰りなさいませ」
夜の暗がりの中、彼女の眼力はあたし達を見据え、あたしも頷いた。
「お客様を送ってきます」
あたしは急いで着替えに部屋へ走った。装飾品をそっと置いて、いつもの服。髪を戻して、ルージュを拭って、泣いていた。涙がポロポロ流れて、拭いて、部屋を出た。
バンダを連れて城を離れていく。森を延々と進んで、無言だった。梟の声が時々温かく聴こえる。黒い影の木々は、月を覗かせて飛ぶ鳥の影やムササビ(Un ecureuil volant geant)の陰を現す。あたしは深い森の中、立ち止まり自己の白い手を見た。黒シルク(Soie)のワイシャツ(Une chemise)から覗く手を。
「バンダ。あたし……」
バンダはあたしを見て、あたしは彼の靴を見ていた。
「分かってるよ。いずれの別れは、辛いかもしれない」
あたしは顔を上げ、彼を見た。
「それでも今は共にいよう。長い中を、一時でも珍客がいても、いいんじゃないかな」
バンダは微笑んで、あたしの頬に手を当てた。
「いつか理解が広まったら、共に彼等と演奏しよう。古城の姫君」
あたしは涙を流して彼にそっと抱きついた。

 「ランスったら! 駄目よホイップ(Fouet)まみれじゃない!」
バンダの奥さんが笑って真っ白になったあたしを見て、装飾品屋家主が笑った。バンダの娘さんの十歳の誕生日だ。そのケーキ(Un gateau)を作っていた。
二年前から彼等が徐々に理解してくれて、暇を見れば演奏会に出してくれた。時々、このまま終りたいと思う。もう続く事には諦めている。けれど、出会いの度の切なさは慣れはしない。人には個人があるから。それは、あたし達からするととても尊い事。個人が人々にはあって、あたし達はきっと長い生命を生かされている。
世界には自然があり、美しく、生命が産声を上げ続け輝いていて、動物達も躍動している素晴らしい世界。あたし達はたくさんの森を形成してきていて、管理を続けて、動物も管理して、また季節が変わるごとに回る。大切な物を護り続けるために産まれてこの命が与えられたなら、不変的に変らずに有り続ける同じものを護るということ。自然を。大自然の営みを。その心を伝える事も使命なのだろう。
人々が人間エゴ(Un moi)になど決して走らぬように。人の氾濫を食い止める事も同じ人間として、そして地球に生まれた物として、永く生きるあたし達には重要な事だ。そして自然を伝える事。
尊い動物達の生命や、緑の豊かさ。厳しい中でも輝く自然を。自然を護ることを。

 伯爵が最近、苦虫を噛み潰した顔であたしを見るから、付き合いも長いし放っておいた。
「今回の検査はどうだった?」
「分かりきったことだ」
「そう……」
はにかんでから顔を戻した。
「贔屓のハーブ(Herbe)のお店で、新しいハーブ(Herbe)の石鹸販売されたんだ。買ってきちゃった」
オリーブオイル(Huile vert olive)で練り込まれる石鹸は、ハーブ(Herbe)のブレンド(Un melange)物も、一種のハーブ(Herbe)ものもあって、今回はハーブ(Herbe)自体の品種を掛け合わせたようだったから、珍しくて買ってきちゃった。
「洞窟の水中に自生するある苔植物の中の細胞構造と同じ我々も、飲む水なくばな。石鹸と共に溶けてしまい流されないようにしなさい」
「もう! 伯爵!」
可笑しそうに笑って伯爵は食事を続けた。
潤った奥地の洞窟には、たまに向かう。濃い緑のその苔植物は密生していて、岩場を水の中緑に染めている。美しい場所だ。
古城は青い空の下に今日も鳥達を羽ばたかせている。骨組みだけ残った石のアーチ(Une voute)上に並ぶ小鳥達や、城内ホール(Un couloir)を飛び回る小鳥達。猫を追い掛け回している黒犬。
「散歩に行ってきます」
「昼は崩れ始めた壁を片付けに役場から来る。ゆっくりしてきなさい」
「はい」
黒犬を連れて、リード(Une ficelle)で引き歩いて行った。明るい森を。ずっと……彼がい続けてくれたらと心の底では思いながらも。
鳥達が囀り駆け巡る。

ランスという青年

ランスという青年

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-04-05

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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