ビューティフル・ダイアリー(2)
六 娘の命日に他人に花を渡す女 から 十 ちゅうちゅうする女
六 娘の命日に他人に花を渡す女
「どうぞ、これ」
そう言って、女は、カーネーションを一本、病院の診察室の前の待ち合い所の椅子に座っている中年女性に差しだした。
突きだされた花に、とまどう女性。
「今日は、交通事故で死んだ娘の命日なんです。どうか、あの娘のために、祈ってあげてください」
女の必死な形相に、女性は、相手の勢いに負け、花の茎に手を伸ばした。女は、相手が花を受け取ったのを確認すると、にこっと笑みを浮かべ、その隣に座っている老婆の前にも佇んだ。
「どうぞ、これ」
女は、先ほどと同じセリフを繰り返した。女の胸には、ひと抱えもある花束があった。だが、老女は、何の反応もしない。眼は見開いたままだが、何を見ているのか、どこの方向を向いているのかわからない。しかし、手だけは差し出し、女の花を受け取った。老婆のゲームセンターのアームは花をしっかりと掴んだまま、元の位置に戻った。だが、指が開くことはない。
女は、自分の好意が通じたことに満足したのか、笑みを浮かべ、他の人の所へ向かう。
「花はいりませんか。花はいりませんか。今日は、娘の命日なんです。娘のために、一緒に、祈ってくれませんか」
女は周囲を見渡す。もう、誰もいない。いや、元々、誰もいなかったのだ。鏡に映る自分の姿を、中年女性や老婆に見立てていただけであった。
診察室も待ち合い所も消えた。手に持っていた花さえも幻影であった。
立ち尽くす女。だが、女の笑顔は真実であった。その笑顔は美しかった。その美しさも真実であった。それでは、娘の命日も幻影なのか。それは分からない。
幻影の中で、「花はいりませんか、花はいりませんか、娘の命日なんです。一緒に、祈ってくれませんか」という女の声だけが、現実の声として、部屋に響き渡った。
七 シャドウボクシングの女
ストレート、ストレート。フック、フック。アッパー、アッパー。
鏡の前で、パンチを繰り出すあたし。パンチを繰り出す度に、汗が玉となって、吹き飛び、床面を濡らす。
汗はあたしの体のひとつだ。分身だ。あたしの心と体の一部だ。そのあたしの分身が飛び散る。汗が飛び散ることで、自分が更に大きくなっていく。あたしの領土が増える。それが、満足感なのか。
ハッ、ハッ。ハッ、ハッ。
再び、ストレート、ストレート。フック、フック。アッパー、アッパー。
顔がゆがむ。ゆがんだ顔は美しい。これこそが美だ。ビューティフルだ。
眉間に皺がより、眼は細くなり、鼻腔が広がり、奥歯を噛みしめる。顎は鋭角になる。他人には苦痛に見える顔 でも、本人にとっては美の象徴だ。内面から溢れだした生の歓喜が、顔に溢れているのだ。なんて、美しいんだ。
あたしは、まだ、引き続き、
ストレート、ストレート。フック、フック。アッパー、アッパーを繰り返す。
あたしの生きる鼓動が全て吐き出された時、頭の中が真っ白になった。その途端、あたしはその場に崩れ落ちた。
あたしの額に汗が滲んでいるものの、眉は垂れ、眼は閉じられ、鼻からはゆっくりと酸素に溢れた空気が吸い込まれ、だらりと開いた口からは、二酸化炭素に包まれた空気が吐き出される。
あたしの顔は、魂が抜けきっているが、幸せには包まれている。
八 サングラスの女
「色眼鏡大好き。色眼鏡大好き」
玲子はサングラスが好きだ。メガネじゃない。サングラスだ。だからと言って、光がまぶしいためじゃない。太陽の黒点を見たい訳でもない。サングラスがないと、人とまともに眼が合わせられないのだ。人と話ができないのだ。サングラスがないと、玲子の視線は彷徨う。この彷徨する視線を人に見られたくないのだ。
玲子は思う。人はそれぞれ様々だ。金持ちもいれば、貧乏人もいる。いじわるな人もいれば、やさしい人もいる。無愛想な顔もいれば、満面笑みの顔もいる。だが、本当にそうか。玲子の眼に、そう映っているだけであって、本質は異なっているのではないか。自分が、あの人は悪い奴だ(そう、自分にとっては、無愛想な返事しかしないから、悪い奴なんだ)と、思い込んでいるだけじゃないだろうか。
そう考えると、玲子は、他人に自分の眼を見せることができなくなってしまった。玲子の眼に映る万華鏡の人々。玲子の眼は、色眼鏡。他人が黒く見えたり、赤く見えたり、白く見えたりする。虹色のごとくの七変化。他人を異なる色にしか見えない玲子。玲子が、玲子を変えられない以上、玲子は、玲子の眼を他人には見せられない。
「それでもいいのだ」
玲子は、視線が漂う間、サングラスを掛け続けようと思った。
九 血を啜る女
女は思い出そうとした。最初に血を見たのはいつの頃だろうか。
「痛い」
口の中に、ビスケットを放り込んだ。お腹が空いていたわけではないけれど、慌てて、歯を上下させたものだから、歯が口内の肉を、お菓子と間違えて噛みちぎろうとしたのだ。
「痛い」
痛みがすぐに脳に届く。口内での反応も早い。生温かい液が噴きだす。舌で舐める。ビスケットの甘い味じゃない。しょっぱい。血だ。血の味がする。その血を飲み込む。
人は、ビスケットやお米、肉などの食物から、栄養素を得て、体の筋肉や血を作りだす。今、飲み込んだ血が、再び、血となり、自分の体の中を巡る。循環型社会の最小形態の在り方だ。
血は、心臓から動脈を通じ、末端の細胞まで運ばれ、それぞれの細胞に栄養を与えると、今度は、老廃物等を吸収し、静脈を通じて心臓まで運ぶ。それとは異なる道筋で、切れた唇から噴き出た血を、再び、飲み込みむと、血は喉を流れ、胃に到達し、小腸から吸収される。そう、血を巡る循環。別のルートがあってもいいじゃないか。
「血を啜る」
なんだか、吸血鬼みたい。それも、自分で、自分の血を啜るなんて、ユニークだ。自己愛の最終形態だ。自己完結された肉体。自分の物は自分の物。他人には、決して与えない。なんて、自己満足の塊なのだろうか。そんな人間が美を獲得できるのだろうか。
いいや、できる。それだからこそ、できるのだ。
女は、自分を美しいと思った。その美しさの源である血を循環させるのだから、美しくならないわけがない。美の循環。なんて、美しい言葉だ。
女は、体中に、女の一部である血を女の形として循環させるのだ。女は、自分を循環させることで、美しくなれると信じていた。
十 ちゅうちゅうする女
あたしは、飲み物を飲む際、ストローを使わないと、うまく飲むことができない。
ストローを常に持ち歩き、牛乳やジュースだけでなく、固形物も、ストローを使って、吸収しようとする、ちゅうちゅう大好き。だってちゅうちゅうと吸えば、いつまでも、ちゅうちゅうが出てくるんだもの。
最初のうちは、いちごの味がした。、でも、そのちゅうちゅうを、更に、ちゅうちゅうを続けると、赤がピンクになり、そして、手首を切った時、その傷口から、したたたり落ちる血が、うがい用に注いだ水の中に、ポツン、ポツン、ポツンと落ちていき、波紋が広がっていくような色彩に変わっていく。そんな赤だ。いや、もうそんな姿は赤とは言えないのかもしれない。透明な赤。赤の透明。
眼をしばたたかせれば、しばたたかせるほど、赤が透明に変化していく。体の中から放出された赤は、生命の尊さを最大限に誇示することで、自らが透明になっていく。
もういいかい。もういいかい。もういいかい。三度の口癖が、外出された赤を対象化させる。誰も追って来ないことに、安心したのか、透明の赤は、自らの生命の尊さを誇るかのように、もういいよ、もういいよ、もういいよと答え、透明になっていく。
鬼は、あたしが答えるのを聞くと、あたしを探すことをやめ、一目散に家に帰る。もう、かくれんぼが終わったかのように。あたしは、誰もあたしを探しに来ないこと、そう、取り残されたことを知っているにもかかわらず、その場でじっとしている。他の誰かが、あたしを見つけてくれることを待っているのだ。他の誰かって、誰?あたしは、その間、何をすればいいの。永遠の待ちぼうけ。
あたしは、躊躇することなく、ちゅうちゅうする。口をすぼめて、ちゅうちゅうする。口をすぼめれば、すぼめるほど、口が小さくなる。普段から、大口を開けて騒ぐこともなくなる。ちゅうちゅうすれば、おしとやかにもなる。おしとやかになれば、きれいになる。
ちゅうちゅうで、あたしは、びゅーていふるになれる。
ビューティフル・ダイアリー(2)