雨女
彼女は雨女だった。 彼女としての存在と雨女としての存在。彼女は実に曖昧な存在そのものだった。
僕が知っている雨女について話したいと思う。雨女というのは大事な日にかぎって雨を降らせる、行く所々で雨を降らせる女性のことを指す。そして、僕が今回、話そうとしている雨女もまたそういう女性である。けれど、よくよく考えてみれば雨女に規則性はないのかもしれない。それは、雨女が雨女として存在することに関して極めて抽象的だからだ。雨を降らせるといってもそれはきっと彼女たちの意思によってもたらされるものではないし、第一彼女たちは天候を操って雨を降らせることができない。それが可能ならもはやイワクとしての存在を凌駕してしまう。そういうわけで雨女の雨女としての存在は極めてあやふやで抽象的なのだ。けれど、僕が知っている雨女は僕のこうした意見を鼻で笑って、一掃してみせた。
「あなたはわかっていないのね。本当にわかっていないのね」
彼女はただそう言うだけだった。そこにはほとんど感情がのせられていないようだった。雨雲がゆっくりと空を覆っていった。
僕が彼女に最初に出会ったのは市立図書館であった。「出会った」というよりかは「見かけた」のほうが正しいかもしれない。とにかく、僕が憶えている限り最初に彼女を見たのはそのときだったと思う。確か、あのときも雨が降っていた気がする。彼女のことを思い出そうとすると必ず始めに雨を思い出す。きっとこれも彼女の雨女としての存在を示すものなのかもしれない。
当時の僕は大学生ということもあってプラプラとしていた。きっと五月病が抜けきっていなかったのだ。僕は何をすることもなくぼんやりと公園を散歩したり、何本もつまらない映画を見たり、誰も買い取りそうにないシミだらけの古本を漁っていた。それがきっと僕にとっての気休めになっていたのだ。それは過去として振り返ることによって思えることだ。当時の僕は恐らく何も考えていなかっただろう。何に魅せられることもなく、誰に騙されることもなく、ただ漫然とそのときを磨り減らすことだけを考えて生きていた。そうして、また気まぐれにあの市立図書館に足を運んだ。理由は憶えていない。ただ断片的な記憶の中に図書館と雨の匂い、彼女の姿があった。本を探し続けて書架を何度も行ったり来たりする彼女の姿だけを僕は憶えている。彼女は時折、立ち止まってはまた、どこかへ消えていった。その繰り返しだ。彼女の足音がゆっくりと響いていた。
彼女と再会した(見かけた)のはそれからおおよそ半年後、つまりクリスマスシーズンの市立図書館であった。そして、その日もどんよりとした雨空であった。彼女はどこか慎ましくも温かそうなカシミアのセーターに身を包み、シックな色のスキニージーンズ、分厚いカンガルーの袋で作られたようなブーツを履いていた。彼女の装いは実に図書館に適した格好であるかのように見えた。彼女は誰もいないラウンジの角の席で一心に本を読んでいた。それは彼女の瞳が忙しなく紙面上を舐めるように動いていることから明らかであった。ほんのりと暗いラウンジに一人座っている彼女の姿は遠くから見ると酷くぼんやりとした存在のように思えた。けれど、それは彼女の存在そのものなのかもしれない。彼女は極めて曖昧な存在なのだ。僕は思わず声を掛けそうになったが、思いとどまって彼女との間に二席おいて座った。彼女はきっと僕に気がつかないだろう。なぜなら、彼女は今本を読むのに真剣だから。きっと彼女は何をするにも熱心であるのだ。それは僕の完全な主観に過ぎない。実際に彼女は真面目であるかもしれないし、そうでないかもしれない。その答えは彼女だけが知りうることなのだ。僕は当てのない推測をするのが好きだった。もちろん、好意を抱いた人間限定ではあるが。嫌いな人間について当てのない推測をするだろうか。僕には考えられない。
僕は書架から適当に見繕ってきた本を開く。アイスランドについての風土記だった。どうしてこんな変哲な本を選んだのだろう。わからない。きっと、それだけ僕は動揺していたのだ。彼女と再び出会えたことに。横から見た彼女の顔はとりわけて美人というわけではなかったが、僕には何故か魅力的に見えた。彼女がどこか特別な存在に感じられたのだ。
「ねえ」
突然、彼女が視線を本に落としたまま口を開いたので僕は驚いた。それは誰かが急に机を叩いたときに感じる本能的な恐れに似ていた。彼女の綺麗な形の唇が続けて滑らかに動いた。どこか落ち着きを保ちながらもぎこちない様子であった。
「私の勘違いならごめんなさい。でも、私にはあなたがこちらをじっと見ているように見えたので」
ページを捲る乾いた音がラウンジに響いた。深層心理的な部分で何かがかちりと音を立てて、振り切れる。僕はとっさに言葉が出てこなかった。酷く動揺していたのだ。なんと言えばよいのだろうかと考えても相応しい言葉が見つからなかった。僕は黙った。けれど、彼女もまた黙っていた。彼女が立てるページを捲る乾いた音だけがまた聞こえた。
「実は以前、君をここの図書館で見かけたことがあるんだ」僕は言葉を絞り出したが自分で考えても奇妙な返答の仕方だった。彼女はその言葉に一瞬、ページを操る手を止めたがまたすぐにページを捲った。僕の言葉を反芻していたのだ。乾いた音。
「ふうん。それで見ていた、と」
「・・・うん」
僕の言葉の後に再び長い沈黙が訪れる。けれどそれは仕方のないことなのかもしれない。現時点では他でもない、赤の他人なのだから。この沈黙はあって当然のものなのだ。僕ら以外に誰も存在しない空間には雨戸を叩く雨の音、冷水機のモーター音だけが響いていた。彼女がまたページを捲る。それが何の決め手になるかはわからない。ただ、それが僕らにおいての共通の合図のように思えた。
「ねえ、驚いた?」
彼女は静かにそう言った。その声は雨の音にかき消されそうなほどに微かなものであった。
「・・・何が?」
「私が突然、喋ったから」
「・・・ああ、うん」 僕には彼女が今考えていることがわからない。それは今の時点で彼女がどんな人かわからないからかもしれない。けれど、それ以上に彼女が有している独特の孤立感にも似た雰囲気を理解することができなかったのかもしれない。口調からも彼女がどんな人間かはわからない。彼女の言葉には感情というか抑揚がないのだ。
「でも、あなたが答えてくれて安心したわ。だって、これであなたが何も返事をせずに席を立ってしまったら、私は独り言の大きい変な人になっちゃうでしょ?」
「うん」
「でもあなたの答えも相当、変だったけど」そう言うと彼女が僅かに微笑んだ。彼女は微笑むのが上手だったし、僕にはそれがとても洗練されたもののように感じられた。
それから僕らは少しずつ仲良くなっていたのかもしれない。けれど、彼女との出会いは極めて突発的なもので今までいくらか経験した人との出会いにおいても一番奇妙な出会いだった。彼女は誰とでも口を利けるような明るいパーソナリティを有しているわけではなかったし、飛び切り魅力的なわけでもない。ただ、ぼんやりとしているのだ。儚げな存在として存在していた。そして、その印象が変化することは僕の中ではなかった。いくら話してみてもやはり彼女は彼女であって、その存在が変わるということはなかったし、僕らの間に空いた奇妙な空間が埋まることもなかった。そして、彼女はいつも大きな黒い長傘を持っていた。その傘から水滴が消えることはない。
僕が彼女について知っていることはどうでもいいことばかりだ。彼女の飼っている猫、係りつけの歯医者の場所、毎朝必ず天気予報を確認すること、朝刊の新聞がたまに届かないこと、育てている植物、彼女の故郷では白鷺が出現すること。どうでもいいことばかりだった。どれもが彼女自身に迫った情報ではない。僕が必要としている情報ではない。だからと言って必要な彼女の情報というのも僕にはよくわからないのだけれど。それにほとんどが曖昧なものだった。彼女から直接聞いたはずなのにそれでも僕の中ではそれはどうでもいい情報として処理されてしまう。僕はひょっとしたら彼女のことを無意識のうちに忘れ去ろうとしているのかもしれない。けれど、そういった考えを巡らせる度に僕はそんな自分を否定する。僕は彼女のことが好きなんだとそう言い聞かせた。それでも彼女がどんな人間なのかは未だにわからなかった。それが不思議であることには僕も気がついている。僕が彼女に対して抱いている好意というのはそういったものなのかもしれない。曖昧でぼんやりとした彼女存在そのものが好きなのだから必然的に全てが曖昧なものへと還元されてしまうのだ。しかし、それでも彼女は少なくとも存在はしていた。存在して生き続けていた。それは当たり前のことなのかもしれないけれど、彼女にとっては重要な要素なのだ。彼女がそこに存在しているということ自体が僕と彼女との間に空いた空間を繋ぐ唯一のものなのだ。
そして、彼女の存在の中には雨女としての存在も介在している。彼女の存在をある意味特殊な存在にしているのは雨女としての存在もあるのかもしれない。
「ねえ、私がどうして毎日、長傘を持ち歩いているのかわかる?」
「検討つかないな」
彼女はどこか得意気だった。彼女は僕に答えを求めているわけではない。ただ自分が何者であるかを伝えたいだけなのだ。
「私、雨女なのよ。だから、こうして傘を持っていないと濡れてしまうの」
「君は雨を降らせることができる人なのかな?」僕は訊いてみた。
「まさか。私の意志によって雨は降らないわよ。ただ雨に遭う回数が多いというだけよ」
「よくわからないな」
確かに彼女が言うように彼女は雨に遭う回数が多いのかもしれない。それは彼女と話している最中も降り続いている雨が示していた。雨の甘い匂いが彼女の上品なオーデオコロンと混ざり合った。僕は彼女の瞳を真っ直ぐに見る。彼女の瞳には何が映っているのだろうか。目の前にいる僕の姿だろうか。それとも降り続いている雨だろうか。
「じゃあ、試してみるといいわ」
「試す?」
「そう。しばらく私と一緒に過ごしてみるの。そうしたらわかるわよ、私が雨女だということに」気がつけば彼女の瞳は完全に僕を映していた。黒く澄み切った綺麗な瞳に映る僕はなぜだろう、悲しげに見えた。僕はこんなに悲しそうな顔をして彼女を見つめていたのだろうか。
「いいかしら?」
「君がいいのなら」僕にとってこれは思いもよらぬチャンスだった。僕は彼女に対して好意を抱いていたし、少しでも彼女について知りたいと思っていたのだから。断る理由がなかった。それに少なからず彼女が言っていることの真意にも迫りたいと思った。彼女が言うところの雨女についてである。
それから僕らは何回かデートをした。けれど、彼女と会う日には必ず雨が降っていた。だから、必然的に我々が行くべき場所は屋内に限られた。そして会う度に彼女は僕の顔をじっと見つめて、「ほらね、また雨でしょ?」とささやいた。僕は彼女の問いかけに対して曖昧な返答しかできなかった。それは僕にとって奇妙であったからだ。僕は一応の準備として天気がいい日を選んでいた。けれど、それはいつも無駄な手間になるだけであって、意味がなかった。常に雨というわけではない。彼女と会っている間に必ず雨に遭うのだ。それは夕立や通り雨などがほとんどであるのだが、それでもやはり雨は降った。どんなに短い時間でも弱い小雨でも、とにかく雨は僕らの上に雨は降り、そして我々は傘を差した。僕が傘を忘れた日には彼女の傘に入れてもらった。彼女は一度も傘を忘れないのだ。どんなに天気が晴天晴れ晴れとしていても、彼女は日傘ではなく、きちんと水を根幹的に断つことのできる雨傘を持っていた。雨傘はまるで彼女の信念そのものを示しているようだった。そして、その雨傘が僕らの間に空いた空間さえも弾き返した。僕らの間にある種の進展はないのだ。それはいくらデートを重ねても揺らぐことがなかった。彼女の固い信念と同じなのだ。けれど、それでも僕は無謀にも彼女と会うことをやめようとは思わなかった。それに関して言えば彼女は不思議がっていた。
「ねえ、私と居て楽しい?」
彼女は僕と会っているときに必ず一回はその言葉を吐いた。それはもはや慣習化して、義務化さえされたように思われた。彼女には何故僕が飽きもせずデートに誘うのか不思議でならないのだ。
「楽しいよ」僕は答える。それは本当のことなのだから。嘘をつく必要が、理由がないのだから。僕は顔の表情や口調を意識せずに返答できた。けれど、それが彼女にはなおさら奇妙に映ったのかもしれない。
「具体的に何が楽しいのかしら?私も自分のことは変わっていると思うわ。自覚はしているの。でもね、あなたも大概、変よ」
「そうかな?」
「そうよ」彼女は少し煩わしそうに言うつもりだったのかもしれない。きっと僕に少し悪い印象を与えるために。だけど、彼女の言葉が感情伴うことはなかった。彼女はやはり彼女であって、そして雨女なのだ。だからそこに関しては彼女がしたいようにもならない。彼女のことは彼女自身であってもどうにもできないのだ。
「どういうところが楽しいかと言えば、そうだな。実は僕は雨が好きな人間なんだ」
「本当に?」彼女はまた不思議そうに僕の顔を見つめる。きっとそこには疑いも含まれている。
「うん。なんというか、実に詩的なものに思えるんだよ」
「詩的?そうかしら?」
そう言って彼女はそっぽを向いた。我々の会話はいつもそんな風だった。短絡的で脈絡がない。そして、会話が終わるとまた雨の中へ戻っていく。優しい雨の音に耳を澄ませた。僕らは同じ時間を共有していたのだ。
「ただ、煩わしいだけよ」彼女は言う。
僕は何度も彼女をデートに誘う。そこに理由なんてない。理由は必要ない。ただ彼女に対しての好意さえあればそれでいいのだ。我々は何度も雨に降られながらも身を寄せ合っていた。そしていつしか彼女も僕に対して多少なりとも好意を抱いてくれるようになった。それは僕らにおいて初めての進展とも言えるものだった。しかし、変化という変化はないのだ。ただ、彼女の中のほんの少しの感情が切り替わっただけでそれ以外は何も変わらない。何も変わることがないから、彼女に対しての好意もまた変わらない。
「私は最初、あなたのことをなんとも思っていなかったわ。だって、あなたは私の雨女の部分に対してのみ興味を抱いているのだと思っていたから」
彼女は国道を走るセレナな助手席でそう言った。
その日、我々は日光の温泉宿を目指していた。お互いにまとまった休みがとれたのだ。やはり路面は濡れていた。
「僕からすれば逆かな。君が最初で、雨女が次」
「雨女としての私の存在だって私の存在と変わらないじゃない」
「そうかな、僕は君の雨女としての部分をまた別の君として考えているのだけれど」
僕がそう言うと彼女は黙ったままフロント硝子にこびりついては流れていく水滴をじっと眺めていた。何故だろう。彼女の顔が悲しげに見えた。
「それはあなたが言うところの詩的表現というものなのかしら?」
彼女の言葉はどこか悲しみをたたえた小波のように僕に押し寄せた。それは本当に彼女のうちの小さな疑問に過ぎないのかもしれない。少なくとも彼女にとってはほとんどどうでもいいことなのだ。
「そうかもしれないね。僕は君の中に雨女としての君を見ているのかもしれない。詩的表現として」
今日の雨は一向に止む気配がなかった。それは雨女である彼女と一緒にいることで知ったことかもしれない。実に今まで彼女と様々な種類の雨に僕は行き遭ってきた。長々と降り続ける雨、一時的にのみ降る雨、生ぬるい風が混じった雨。思い出せる雨全てが彼女との出会いから経験した雨だった。だから、僕は実に多くの雨空を知っている。ひょっとしたらそこら辺の気象予報士よりも雨空を知っているのかもしれない。なぜなら彼らは空そのものを見ておおよその予報を発表しているわけではないのだ。彼らがするべきことは人工衛星から送られてくる天気図を読み解き、これから雲がどんな動きをするかを考えるのが彼らの仕事なのだ。だから、彼らは僕らが思っているほど実際の空というものを見ていないのだ。彼らが見ているのは、取り立てて一般人が興味を惹かれなさそうな天気図だけなのだから。
「ねえ、君のことが知りたいな」僕は国道の断続的な流れに合わせるようにスピードを緩める。
「私のこと?それとも雨女のこと?」彼女はじっと外を眺めている。そこには何もないはずなのに。雨しかないのに。それでも彼女は雨を飽きずに眺め続けていた。
「もちろん、君自身のことさ」僕は言う。
「でも、これまでの間に大方、私という人間については語り尽くしたようにも思えるの。たとえ、あなたにとってそれが私という一個人について情報不足だったとしても」
そう言って、彼女は黙る。相変わらず我々の間には沈黙が断続的にやってくる。けれど、それは気まずさの沈黙ではない。お互いにとって丁度いい間合いをとるという意味での沈黙なのだ。
「私についてはもういいのよ」
彼女の綺麗な形をした唇が微かに動いて、言葉を絞り出す。今日の彼女はどこか悲しみに暮れている。それは何故だろう。僕にはわかるはずもないのに。僕は彼女の次の言葉を待つ。それはやってくるかもしれないし、来ないかもしれない。今までだって幾度もこういったことがあった。けれど、そのときにおいても彼女は自分のことを話したがらなかった。彼女は常に僕の前を歩いていて、やがて角を曲がっていく。僕は彼女に見失わないように追いかける。けれど、角を曲がったときには既に彼女の姿はそこにはない。そういうものなのだ。
僕らには何が必要なのだろうか。お互いに好意があるのに、それでも埋められないものとは何なのだろうか。きっとそれは僕らにとって根幹的な問題なのかもしれない。僕と彼女の問題ではないのだ。それ以外のもっと不確定的ではあるものの、決定的な要素が僕と彼女の間には存在している。
「私が雨女になった、経緯というか、プロセスみたいなもの」
彼女は少しぎこちなく言葉を吐いてから、大きく深呼吸した。彼女の肺が大きく膨らむのがわかった。それから、ゆっくりと息を吐いてからシートに沈み込んだ。
「知りたい?」
「知りたいな」僕は彼女の話を聞くべきなのだ。それは別に確信があるわけではない。そこには何もないのかもしれない。けれど、僕は彼女の話を聞くべきなのだ。彼女の言葉に耳を澄ませるべきなのだ。
彼女は生まれつきの雨女であった。それは誰が確かめることもできないはずの不確かなことだ。嘘かもしれない。けれど、彼女は嘘をついてはいない。それに自ら雨女になったわけでもない。彼女は雨を煩わしく思っていたし、毎日長傘を持ち歩くのはやはり面倒なのだろう。
「私の雨女としての部分は生まれつきなの。つまり先天的なものね。初めて自分が雨女であることに気がついたのは物心ついた頃、と言っても随分遅いようにも思えるわ。だって、その時点で私は既に十七歳で、高校二年生よ?私はやっぱり鈍感だったのよ。今、考えてもそう思うわ」
僕は高校生であった彼女を思い浮かべる。十七年間生きてきて培った価値観、思春期の悩み、三角関数についての思考、交友関係について、将来への不安。僕の想像した彼女はおおよそそんなことを抱えていた。きっと今の彼女にはそんなことは重要でない。むしろ、不要だ。けれど、当時の彼女にはそれがなによりも重要であったのだ。
「どの段階で君は自分が雨女であることに気がついたの?」
「そうね、どの段階ということはなかったわ。そんなにはっきりとわかったことではないの。もっとゆっくりと時間をかけて少しずつ理解していったの。ああ、私は雨女なんだって。でも、本当にそうなのよ。それまでの私、つまり私が高校二年生になるまでの間にはそこまで雨は降らなかったわ。ただちょっと肝心なところで雨が降っただけ。体育祭とか文化祭、そういうイベント毎の雨の確率は高いように思ったわ。でも、思っただけで気がついてはいなかったわ」
彼女の言葉は喋々喃々と車内に流れていた。それはどこか優雅にさえ感じられた。僕は彼女の声が好きなのだ。彼女の声は優しく、そして悲しみに満ちている。
「でも、君はなんの確証もなしに言っているわけではない」僕は言葉を繋ぐ。
「ええ、きちんとそれなりの確証はあるわ。私が雨女であると自覚したきっかけ、みたいなもの。それは段階的なものではないわ。もっとあやふやなもの」
彼女はそう言うと僕のほうをちらりと見た。
「つまらない話だけど」
「続けて」僕は言う。「君の雨女について」
国道は相変わらず断続的流れに沿って、静かに進んでいく。それに合わせるように雨もまた降り続いていた。ワイパーがフロント硝子に垂れた雨を規則的な動きで弾いていった。全てにおいて、この世界はある種の規則性みたいなもので構成されていた。そして、僕らもまたその世界において規則性の下に生きている。この世のなかに規則性がないものなんてあるのだろうか。きっとないだろう、僕は思う。そして同時にそのことを悲観する。僕らは一定の規則性の枠からは出ることができないのだ。運命さえも規則性に基づいているのだ。
「私が雨女であると自覚しているのはある種の既成事実の積み重ねみたいなものね。だから、あなたには申し訳ないけど確固たるものではないのよ、私が言っている確証というのは。でも、あなたにもわかるでしょう?私と一緒にいて、わかるでしょう?」
「そうだね、君といると何故か必ず雨に遭う」
確率や頻度の問題じゃない。そこにはある種の規則性さえも凌駕した何か絶対的な力が存在していた。それは偽物ではなく、本物なのだ。彼女は本物なのだ。
「でも、君は僕と出会ったときには既に自分が雨女であることを自覚していた。つまり、君は僕と出会う前、自分が雨女だと考えた高校時代にこの事象に行き遭った」
「そうね、そうだわ」
僕はなるべく彼女のほうを見ないようにした。何故だろう。わからない。けれど、今は昔の彼女を鮮明に思い出していたかった。彼女もまた自分の過去の記憶を遡っている。我々は同じ思考を働かせる。
「当時、付き合っていた人がいたの。同じ学校で、同じクラスの人。どうして付き合うようになったかはよく憶えていないわ。でも、高校生なんてそんなものじゃない?好きだから好きみたいな、短絡的で脈絡がなくて、子供っぽいの。けれど、当時の私は嫌いじゃなかったわ、そういうの。だって、他に何も考えずに済んだもの。年収とか職種とか、意地の悪いことをね」彼女は微笑む。少し控えめな笑顔を浮かべる。それは彼女自身の過去を振り返っての微笑みなのだろうか。
「あなたと同じように、彼も私をデートに誘ってくれたわ。そうして、雨に行き遭った。駄目なのよ。彼と会うときには必ず雨が降るのよ。それこそ、事務的なまでにきちんと雨は降るのよ。それからあなたに出会うまでに何人かの人と付き合ったわ。でも、駄目。会うと必ず雨になる。そういうものだから。私は雨女なの」
どんよりとした雨雲は依然として晴れる様子がない。それは誰が望んでいることではない。ただそういうものなのだ。天気とは自然として、環境としてあるだけだから。彼女は黙っていた。それは僕らの間に成立している間合いのとりかたとはまた違った沈黙であった。
「一ついいかな?」
僕は助手席の彼女を見る。そこにはもう高校生の彼女はいない。時間の経過に伴って、ある種の成熟と衰退を繰り返した彼女がいる。彼女は雨女なのだ。
「なにかしら?」
「君は「生まれながらの雨女」と言ったけれど、それはどういうこと?」
「教えられたのよ、母親に。それも確か高校生のとき。なんの前置きもなしにあなたは生まれながらの雨女だって。もちろん、最初は何を言っているのか私にだってわからなかったわ。だって、当時の私は雨女を皮肉めいた冗談みたいにしか思っていなかったのだから。でも、当然じゃない?誰だって雨女なんて言われたら真っ先に冗談のほうを考えるわ。でも、母親が言うところの雨女は冗談としての、イワクとして存在ではなかった。全くの別のものだったわ。うまく説明できないのだけれど、母が言うところの雨女はもっと複雑怪奇的な存在なのよ」
僕らの間には再び沈黙が訪れる。それは僕らに約束されたものであるし、きっとなくてはならないものなのだ。確かな確証みたいなものはない。何度も言うようにそういうものであるから。気負う必要はないのだ。僕らはお互いを知らないから。何も、微塵も知らないから。どんなに愛し合っても、他人であることに変わりはない。僕にとっての彼女は他人であるし、彼女にとっての僕もまた他人である。それ以上に発展することはない。ただ僕らはそれをわかっている。わかった上でこの時間を共有している。僕らにおいてもっとも重要なのはお互いに好意を持っているかではない。お互いの領分を守って、時間を共有できるかが重要なのだ。そして、そこには必ず雨が降る。彼女が雨女だから。
それから僕らは日光に着くまで沈黙を守り続けた。そして、その間も雨が止むことはなかった。彼女と移動しているというよりも雨雲と一緒に移動している気分だった。僕らは温泉宿に着いてもほとんど口を利かなかった。そういうものだから。ある種の義務化された空気を帯びた一線が僕らの間には漂っていた。僕らは部屋に荷物を置いて、お互いにゆっくりと湯で疲れを流し、静かに懐石料理を食べた。どれも旬の食材を使っており、とても美味かった。けれど、彼女は特に何も言わない。ただ、微笑むだけだった。
僕が彼女を旅行に誘った理由は新たな彼女の一面が垣間見られるかもしれないというほとんどあってないような確率のもとに積み上げられたものに過ぎなかった。それだけ希薄な理由であった。だからかまわないのだ。いくら僕らの間に沈黙が続こうともそれははっきり言ってあまり関係がない。意味がない。あってしかるべきものであるのだから。僕は彼女が再び口を開くのを待つ。彼女は夕食を半分ほど食べて、箸を置いた。
彼女がまともに口を利いたのは夕食から戻ってきたときだった。
「ねえ」彼女が口を開く。
「ねえ、あなたはどうして私に対して好意を抱いているの?」
「・・・」
「ねえ、あなたはどうして私を誘ったの?」
「・・・」
僕は答えない。別に答えられないわけではない。けれど、それはある種の経験によってもたらされる行動であるのかもしれない。だって、彼女は答えを望んではいないから。ここで僕が彼女の質問に答えてしまえば、明確に答えを示してしまえば、彼女はその答えに納得するだろう。けれど、納得した先には何も残らない。ただの時間の無駄遣いでしかない。
「・・・眠ろう」僕は彼女に言う。それはどこか子供じみた提案であるように思った。けれど、今の彼女は眠ったほうがいい。何者にも干渉されず、確固たる自分の時間を設けるべきなのだ。そこにはきっと僕の姿はない。彼女がそこに見出すものがたとえなんであっても、とにかく彼女の眠りに僕が現れることはないのだ。ふと、雨女は夢を見るのかと思った。僕にはどうでもいいことだった。
我々は布団を並べて互いに眠りにつく。ぼんやりとした小さな明かりだけを残して。天井を見つめる。暗闇。外では未だに雨がしとしとと雨音を絶やさずに降り続いていた。その雨は大地に降り注ぎ、土に染み込み、草木を潤し、やがて華を咲かせる。鮮やかな華を。それは想像するだけで素晴らしい情景であった。そして、何よりも洗練された世界であるように僕には感じられた。雨というプロセスによっていくつも生命が命を注がれ、芽吹く。世界は雨で満たされていた。彼女と共にある雨が世界を満たしていた。
「ねえ」
ぼんやりとした暗がりから彼女の声が聞こえる。僕は彼女に応える。
「・・・あの、変な風に受け取らないでね」
「うん」
「あなたと一緒に寝てもいいかしら?」
「いいよ、おいで」
彼女はゆっくりと起き上がり、それからするりと僕の横に入りこんだ。彼女の身体は温かく、柔らかい。彼女はしばらくの間、僕に背中を向けるようにしてじっとしていた。それはどこか迷いのある状態のようにも見えた。振り切れそうで振り切ることができない振り子。それは自重にも、遠心力によっても振り切ることのできない類のものであった。こればかりは彼女自身の意志によってしか振り切ることができない。そんな彼女を僕はしばらく眺めていた。ゆっくりとした呼吸を繰り返す彼女を。どこかで僕はそのまま彼女が眠ってしまえばいいのにと思う。そうすれば何も起こらないから。何も始まらないし、何も終わらない。現状に変化はない。僕は彼女との間に変動を求めない。デッドラインを超えたくないのだ。けれど、彼女は言葉を紡ぐ。切れ切れになりながらも、ゆっくりと吐露すべき言葉を選び始める。それはまるで本棚の背表紙をなぞってゆくように、である。これも違う。これも。これも。これは、いや、違う。これも、違う。彼女の細長い指はゆっくりと本棚を横断する。見つけなければいけないから。僕に対して向けるべき言葉を見つけなければいけない。僕には彼女の書架を行ったり来たりする靴音が確かに聞こえる。時折立ち止っては再び歩きだす不規則な靴音が。
「ごめんなさい。あなたを困らせてしまって」彼女は静かに言った。
「大丈夫、僕のことは気にしなくていい」僕は彼女の背中に向かって優しく囁く。
「・・・・」
「どちらかというと僕に問題があるのかもしれない。僕が君と一緒にいるから君は自分でもどうしていいか、わからなくなってしまったんだ。だから、君のせいじゃない」
「・・・・」
彼女は黙ったままだった。
「君は、僕と居て楽しい?」それは普段、彼女が僕に向ける言葉だった。何かを確かめるようなある種の合図。それは少し緊張した今の彼女を解きほぐすには丁度いい言葉だった。
「・・・ええ、楽しいわ。あなたとのデートはいつも楽しいもの」
「それはよかった」よかった。その言葉が初めて彼女自身の口から聞けたから。
「・・・ねえ、あなたは?私と居て楽しい?」
「楽しいよ」僕は言う。「君と居ると楽しい」
「雨ばかりなのに?」彼女は言う。
「僕は雨が好きな人間なんだ」
「変わった人ね」彼女は僅かに笑ってくれた。ほんの僅かであったけれど、笑ってくれた。
「雨は詩的表現だから」
「ええ」
それから沈黙。長い沈黙。お互いの呼吸音。お互いの体温。雨音。けれど、今回の沈黙は今までの沈黙とはどこか違っていた。今までにはないはっきりとした悲しみを帯びていたから。それはきっと彼女から発せられたものだ。彼女は僕に向き直る。寝返りをうつように。彼女の表情もまた悲しみに満ちていた。そこには迷いも少なからず介在していた。僕には胸が確かに高鳴るのがわかった。それは彼女が今までで一番、美しく見えたからかもしれない。彼女の瑞々しい黒い瞳は僕を捉えていた。彼女がこのまま何も喋らなければ、やがて言葉が不要になる。そうなるともう、想いを伝えられないように感じた。僕らの間においての意思疎通が完全に断裂してしまうのだから。僕は言葉を搾り出す。
「・・・雨女も夢を見るのかな」
やっとの思いで引き抜いた言葉はそれだった。どうでもいい、その場しのぎの言葉。
「ええ、見るわ。どこかの町並みや、柏の木、図書館、それから白い部屋」
「白い部屋?それはどんな夢?」
「私は白い部屋にいるの。ありふれたようでどこにも存在しない白い部屋。大きな窓があって、レースのカーテンがかかっている。机、椅子、ソファがある。机の上には紙と鉛筆がある。全てが白いの。部屋にあるもの全てが白い。そういう空間」
僕は彼女に言われるままの空間を想像してみた。けれど、それはいくら考えてもやはりただの白い空間でしかなかった。つかみどころのない空間。
「それで、君はそこで一体、何をしているの?」僕は彼女に訊ねる。
「ある人とね、筆談をしているの」
「筆談?」
「そう。何故かはわからないのだけれど、その空間では喋ることができないのよ。だから、紙に書いて会話をするの」
「・・・相手は誰なの?」僕は何故だろう、そのとき彼女と筆談しているのが僕であればいいのに、と思った。彼女は弱弱しく首を横に振る。
「それが、わからないの。その人の顔はいつも見えないから。たとえ見えたとしても、夢から覚めるころには忘れている。でも、夢ってそういうものじゃない?」
「・・・・」
「よくわからなくて、つかみどころがなくて、曖昧で、ありふれた情景。そして、忘れ去れるべきもの」彼女は続ける。「だから、いいのよ」と。
それから彼女は少しの間天井を見つめていたが、やがて僕の腕の中に滑り込んできた。僕の心臓の音を聞くように耳を押しつけた。それと同時に彼女の匂いと温かさが僕に触れる。それはとても素敵なものだった。彼女はやはり洗練された女性であった。洗練された女性であり、洗練された雨女だった。選び抜かれた全てのものを有していた。
「あなたは私にとって、大切な人よ」
彼女は言う。けれど、どうしてだろう。嬉しいはずの言葉なのに、僕は悲しくなった。それが、どうしようもなく別れの言葉に聞こえた。
彼女は泣いていた。声を押し殺しながら、泣いていた。どうして彼女がそこまで悲しみに暮れているのか。僕にはわからなかった。こんなにも近くにいるのに、それでも彼女が悲しんでいる理由がわからなかった。僕にはただ彼女を抱きしめてあげることしかできなかった。それが僕にできる最低限の慰めのように感じられたから。僕は彼女を抱きしめた。
彼女はそれに応えるように、首に優しくキスをしてくれた。涙で濡れた唇が僕の首筋に触れた。洗練されたキスだった。
「眠ろう」僕は言う。どこか子供じみた提案を。
「ええ」
僕らは抱き合ったまま静かな雨音に耳を澄ませる。とても優しい雨の時間を共有する。
翌朝、彼女の姿はなかった。どこにもいない。跡形もなく、彼女は静かに存在を消した。結局、僕は彼女を引き止めることができなかったのだ。僕はそう思うととても悲しい気持ちになった。それはきっと彼女が抱いていた悲しみに近いものなのかもしれない。紺碧の海をひたすら独りで彷徨う寂しさ。そして、どこへも辿り着けない悲しみ。何もかもが破綻していて、そしてやるせない。
僕は泣いた。ゆっくりと時間をかけて、静かに泣いた。それは彼女に対しての悲しみであるように思う。しかし、悲しみに理由なんてないようにも僕は思う。感情に理由はない。悲しいから、悲しいのだ。彼女が言うような子供じみた感情作用。
雨はもう降っていなかった。からりとした太陽の陽射しが降り注いでいた。もう雨は降っていない。残ったのは、ほんの少しの朝露だけ。彼女は雨女としての存在を失ったのだ。
僕はそんな光景を見ながら、ぼんやりと彼女のことを想った。
白い部屋にいる彼女を。僕は彼女と向かいあって、筆談をしている。彼女は喋ることができないから。彼女は熱心に言葉を紙に書き記す。けれど、書き損じる。何度も何度も。彼女は自身の言葉を記すことができない。そして、書き損じた紙を丸め、捨てる。何度も何度も。僕はそんな彼女を背中越しに抱きしめる。彼女は泣いていた。
もう雨は降っていない。外では夏草たちが力強くざわめいている。不安なんて消すように。
雨女