燃えたカーテン

昨年の夏、雷に撃たれて夫は死んだ。 埋没する感情と埋没されることのない記憶。

昨年の夏、夫は雷に撃たれて死んだ。その日は記録的な大雨の日だった。夫はそのとき丁度、木の下で雨宿りをしていたらしい。この際、理由はどうでもいい。とにかくそのとき夫はそこにいた。確かにその木の下に存在を落としていた。そして、木に落ちた雷によって感電した。感電して、死んだ。
夫が最後にいた場所を訪れてみたが、なんてことはなかった。そこには黒く焼け焦げた木が立っているだけで他には何もなかった。夫は何も残さず、綺麗に世界から消えていった。そこにはきっと恨みや後悔のような感情は介在していない。ひょっとしたら、夫は自分が死んだことにさえまだ気がついていないのかもしれない。それだけ、唐突に夫は死んだ。
 夫が死んでから私は妻としての振る舞いに勤しんだ。悲しみをかみ締めるよりもまず、私に押し寄せてきたのはそういった極めて事務的なものであった。御葬式の準備だったり、夫の知り合いに連絡を出したりして、私の夫に対する悲しみや慈愛は深く底に埋められていった。けれど、私にはそれが少なからずの情けのように思えた。長年愛し続けた人を失った悲しみはどうしようもなく深いものだ。なかにはショックのあまり、後を追って自殺してしまう人間だって少なくない。だから、私は涙を流さなかった。どこかで、夫がふいに帰ってくるように思っていたのだ。しかし、そんなことは後にも先にも起こらなかった。
 私の周りの人たちは夫が亡くなったことを気にかけ、何度となく私を励ました。それは社交辞令的な言葉ではなく、本心からくるものだと私には伝わった。私は改めて自分が恵まれた人間であることを自覚した。そして、その上で、夫の分も強く生きていこうと思った。
それから私は変わらぬ元の日常へと帰っていった。それは比較的簡単にできたように思う。私は最初から仕事を持っていたし、夫との間に子供はいなかったからかもしれない。けれど何故だろう、やはり味気ない。そして、寂しい。   
生活にはそこまで変化が生じなかった。強いて言うなら、今まで住んでいた家が広く感じられるようになった。ご飯も一人分しか作らなくなった。洗濯物も極端に減った。家ががらんとして、とても静かに感じられるようになった。
けれど、心境には変化があったように思う。
今まで、二人で暮らしていた家は完全になにかを失っていた。それは住んでいる私が一番わかる。私は寂しいのだ。何を根拠にしているのかはわからない。けれど、それは確かに感じる。私にとっての心の支えであった夫。それが無くなった今、顛末は容易に想像ができるだろう。この期に及んで夫との子供をつくらなかったことを心の底から後悔した。今以上に夫を求めたことはなかった。しかし、夫はもういない。こうして、私の堂々巡りの生活が始まった。私は毎日、同じように生きることでしか私を、自分を保っていることができなかった。私は今年の夏で三十二歳を迎える。

 夫が死んでから一年が経った。私は今更ながら、夫のことをじっくりと考えていた。けれど、それも今に始まった話ではない。いつもの、堂々巡りの一貫だ。私が思い出す夫はいつもどこか寂しげだった。まるで氷上にとり残されたアザラシのようだった。自分の力で氷の海を泳いでいくことができるのにそうしない。ただ、そこにじっとしていて、流されていく。きっと夫は疲れていたのだ。毎日毎日、満員電車に揺られて、退屈な会社に行くだけの日々に。けれど、夫はそんな姿を私に決して見せなかった。どんなときにも私の話をきちんと聞いてくれて、優しく諭してくれた。一緒に買い物に出かけ、旅行にだって沢山行った。写真もいっぱい撮った。夫の手の平は私のよりも大きくて、抱いた夫の背中はなんだかとても温かくて、うずうずした。私は、幸せだった。

「ねえ、再婚とかは考えていないの?」
私は古くからの友人と喫茶店に来ていた。彼女は結婚しており、ついこの間、母になったばかりだった。一年前は、私も彼女と同じ身の上になれる可能性が十分にあった。
「そうね」私は曖昧な返事をしてから、外に目を向ける。どこかで彼女を羨ましく思う自分を切り離したかったのだ。
窓硝子越しの世界には、今年も夏がやってきていた。アスファルトは灰色に焼け、そこに人々の汗が雫となって垂れる。蝉の鳴き声が途切れることなく聞こえる。日傘があり、ゴムサンダルがあり、アイスキャンディーがある。全ては日本独特の蒸し暑さの中にあった。人々は夏と聞いたら、なにを思い浮かべるだろうか。
ある人は海と言い、またある人は花火と言う。大方の人がきっと風物詩を連想するのだろう。少なくとも世間一般的にはそういうものだと思う。けれど、私は夏と聞いて、「雷」を連想する。聊か未練たらしいかもしれないが、私にはやはりその印象が一番大きいものだった。
そんな私の様子に呆れたのか彼女は食い入るようにこちらを見つめてきた。
「あなた、まだ三十代前半なのよ?まだ諦めるような歳でもないでしょうに」
「・・・お母さんと同じこと言わないで」
私がそう言うと彼女は肩を落とした。きっと私の母と同視されたことにショックを受けているのだ。けれど、それは当たり前の話だ。もう戻れないのだ。今更ながら誰かを愛することなど私にはできない。夫以上に、私が愛せる人間は存在しない。あってはいけない。
「そんなに、素敵な人だったんだ?」
彼女はどこか申し訳なさそうに呟いた。彼女は私の心を見透かしているのかもしれない。彼女とも随分、長く一緒にいる。同じ時間を共有し、時間以上に大切な何かを彼女との間で培ってきた。毎年、お互いの誕生日を祝い、食事をし、買い物に行った。悩みの相談だって幾度も語り合った。彼女もまた私の大切な人の一人なのだ。
「ええ、そうね。素敵な人よ。・・・忘れられないの、あの人のことが」
「ねえ、こう言ったら悪いかも、しれないけどさ」彼女は言う。
「なに?」
「本当にもう誰かを好きにはならないの?」
彼女の真剣な眼差しが私に一心に向けられる。どうやら彼女は本当に私を心配してくれているようだった。けれど、私は答えなかった。
「・・・、だって、このままずっと一人ぼっちになっちゃうんだよ?」
どこか子供じみた言い方に聞こえた。けれど、それが事実であることに私は胸を痛めた。
確かにそうだ。私はまだやり直そうと思えば、いくらでもやり直せる。私は幾度もそう自分に言い聞かせてきた。けれど、私はそんなことを考える自分が許せなかった。夫を裏切ってしまうようなことはしたくなかった。私は答えることができなかった。
「・・・ごめんね。ごめんなさい。少し無神経すぎた」
少ししてから彼女はそう言って、謝った。謝る必要なんてないのに。彼女は正しいことを言っているのに、彼女は謝った。けれど、私は何も言えない。ただ自分に対するやるせなさと情けなさだけが雪のようにしんしんと心に積もっていくだけだった。私のどうしようもない寂しさと心の煮え切らなさが今しかいない大切な人さえ傷つけているというのは、どう見ても事実であった。そして、聊か耐えがたい事実でもあった。

 ある日の午後、家に雷様がやってきた。その日はどんよりとした厚い雲が空に敷き詰められ、いつになく蒸し暑かった。天気予報によれば、午後から雨・落雷のおそれがあるとのことだった。しかし、今、ここに雷様がいる時点で少なくとも落雷のおそれはなくなった。雷様なくして雷が落とせるか。
雷様は背格好が私よりも小さく(私は標準的な日本人女性の背格好だ)、下腹あたりに余分な脂肪がつき始めていた。さらに、スーツにネクタイと異様さを極めたその姿は一見すれば雷様には見えないだろう。誰もが平均より少し小柄な中年のサラリーマンとしか認識できないだろう。けれど、そこにいるのはやはり雷様であった。なぜだかはわからないが、とにかく私は目の前にいるのが雷様だとわかった。そこにはある種の神秘的なベールに包まれたものがあるのかもしれない。そして、それは私にしか見えない。
「どうも、お初に御目にかかります。私、雷王宮株式会社代表取締役を勤めております、響と申します」
そう言うと雷様は名刺を差し出し、丁寧にお辞儀をした。私の知っているかぎりここまで丁寧な神様などいないだろうと思った。そして、同時に落胆した。雷様である以上、もっと気高く、横暴であってほしいとさえ私は願ってしまった。それほどまでに雷様は懇切丁寧であった。
「あ、これはご丁寧にどうも」私は名刺を受け取ろうとしたところで一旦、動きを止めた。雷様は不思議そうな顔をする。
「ん?どうなされました?」
「いえ、あの、感電しないでしょうか?」
私は変なところで冷静であった。
「これはまた、面白いことを仰って。大丈夫ですよ、私の力は天界からしか及びません」
そう言うと雷様は快活に笑った。雷様の笑いと同時に曇天がゴロゴロと轟いたように思われたのはきっと何かの間違いだ。

 それから私は雷様をリビングに案内してから、なにをだすか迷いに迷ったあげくにアイスコーヒーを出した。下界の暑さになれていないのか汗だくになっていた雷様はアイスコーヒーを「ひやっこい、ひやっこい」と美味しそうに飲んだ。雷様はかつて夫が座っていたところに座っていた。私達は一息ついた。
「最初にお尋ねしておくべきでしたが、あなたは千早さんで間違いないでしょうか?」
雷様は私の旧姓を知っていた。けれど、それは大して驚くべきことではなかった。なぜなら相手は雷様なのだから。
「ええ」私は頷く。
「千早さん、あなたは中原さんとご結婚なされましたか?」
中原とは夫の姓だ。
「ええ、四年前に入籍いたしました」
雷様は頷いた。
「そして」
「ええ、昨年の夏に、亡くなりました」
私の声はどこか凍てついていた。この言葉を雷様に向けて言ったとき、私はどんな表情をしていただろう。どこか不安定な笑顔だっただろうか。それとも憎しみに満ちた顔だろうか。いずれにしろ、私の言葉は強く感情を帯びていた。けれど、雷様は依然、凛として構えていた。雷様は最初からこうなることを知っているのだから。神様は、なんでもは知らない。けれど、全ての要素からおおよそどうなるかわかる。「神のみぞ知る」というのは、全ての要素が見てとれることを言う。
「私が今回、伺ったのはほかでもありません。貴方の夫であった、中原さんに関することです」
「・・・ええ、察しております」
私はきっと雷様だから、落ち着いて会話ができているのだと思う。神様に全てを見透かされているからこそ、私自身の心を抑圧できているのだろう。夫を死に至らしめたのが、もし人間であったなら私は迷うことなく、その人間を殺していた。それほどまでに私は病んでいた。だから、本当によかったと思う。私は、踏みとどまることができる。仕方のないことだったと思うことができる。ただ、運がなかっただけのことなのだと割り切ることができる。
「・・・ここへ来るのに、遅くなってしまったのは本当に申し訳ないと思っています。何せ、拘留期間が長かったものですから」
「拘留期間?神様なのに?」
私は少し驚いた。驚いたというべきか意外だった。神様も罰せられるのか。
「ええ、いくら雷神と言え、過失致死の罪を犯したとなればそれなりの処遇を受けます。それも今回は業務上過失致死の罪に問われましたから、拘留期間も長かったんです」
「罰せられるというのは、具体的にどんな処遇を受けるのですか?」
私は不本意ながらも興味をもってしまった。しかしそれでも聞いておいて損はないと思った。
「具体的な処遇というのは実のところありません。しかし、課せられることはあります。しばらくの間はほかの雷神が私の職務をこなすこと、言うなれば、停職ですね。そして、その間に私は被った被害の修繕に専念しなければならないのです。今回で言えば、あの燃えてしまった木の再生と、あなたの心のケアが私の償いとなりますね」
「・・・神様に、損害賠償請求はできないものね」
「・・・ええ」
外からしとしとと雨の音が聞こえる。どうやら天気予報通りに雨が降り始めたらしい。湿った空気と共に流れ落ちてくる雨は熱気に満ちた街を一時的に緩める。しかし、それだけでは収まらないのが日本の夏だ。ここはいつまでもからりとした外気になることはないのだ。
「予報通りに、降ってきましたね。洗濯物を干していなくて正解でした」
「予報、と言うのは、天気予報のことでしょうか?」
「え、ええ」
私は何の気なしに振った話題に予想以上に雷様が食いついたので少し驚いた。
「全く最近の天気予報には困ったものです」
そう言うと雷様は溜息をついた。ひどく冷たい溜息に私は頭が痛んだ。
「・・・と、言いますと?」
どうやら雷様は天気予報に関して何か悩み種を抱え込んでいるらしい。もはやどちらが心のケアに来たのかわからない。
「天気予報とは早い話、ある種の予定調和なのですよ。だから、腹立たしいのです」
「あなた方があらかじめ決めた天気を、人間が我がもの顔で発信するのが許せない、ということでしょうか?」
若干、身体からぱちぱちと静電気のような音が漏れている雷様に対して私は冷静に言葉をかけた。
「そうです。さらに、それだけではありません。時に、あろうことかあの天気予報とは外れます。ですから、なおのこと、私は頭にきているのです」
神様の側から見たら確かにそれは一理あるのかもしれない。けれど、あれはあくまで予報であって、決して誰かの不利益のために進んで行われているわけではないのだ。予報を行っている者は、極めて社会に貢献しようとしているはずだ。
「ですが、雷様。あれはあくまで予報であるので」
「予報など、私達の世界には概念自体、存在しません。否、存在してはいけません。在るのは確固たる要素によって緻密に構成された未来だけなのです」
私は雷様の言葉に黙った。それはなんというか急に馬鹿馬鹿しく思えてしまったからかもしれない。私は今日のこの一瞬まで雷様と天気予報の存在に関して議論を展開することになろうとは到底、想像などしていなかった。議論以前の問題だ。私は雷様おろか、神様すら信じていなかった。故にこんな状況に陥った自分の立場を冷静に見極めることができなかった。そして、それが滑稽に思えてならなかった。
「・・・あ、申し訳ありません」
少しの間をおいてから雷様はそう言って、頭を下げた。雷様は何を思って、謝ったのだろうか。私にはよくわからなかった。・・・夫も、よく謝った。すぐに自分の過ちを認めてしまう。認めて、頭を下げてしまう。だから、夫との間に派手な喧嘩は一度たりともなかった。それを私は心のどこかで、少し疎ましくも思っていた。夫の心の寛容さと穏やかな平静の前では私の全ては霞んで見えたからだ。もっと言えば、醜悪であった。羞恥であった。だから、そういう点で言えば、私は夫のことをどこかで蔑視していたのかもしれない。私は雷様が謝った理由について問いただした。
「何が、ですか?」
「私はあなたの心のケアのために来たというのに、私の愚痴を聞かせてしまいまして」
「いいんですよ。誰しも悩みや苦悩を抱えるものです。それがたとえ、神様であっても同じことです」
私がそう言うと雷様はどこか困った表情をした。雷様は困惑していた。まるで何かに怯えるように私の顔色を伺っていた。
「どうされました?」
「・・・いえ、私は正直、どうしたらよいかわからないのです。貴方の大切な思い人を殺めてしまった罪は類を見ないほどに重いものです」
私は雷様の顔を正面から見据える。
「はい」
「ですが、私は貴方に対価を払うことできません。思い人を生き返らせることもできません」
「はい」
「ですから、せめて貴方の心を癒してあげたいと思うのです。そして、それが滑稽であるというのは私も重々承知の上です。しかし、それでも貴方の心を晴らしてさしあげたいのです」
雷様は顔をくしゃくしゃにして、今にも啼きそうな顔をしていた。それは、神には添わない人間味溢れる顔であった。雷様は雷様で必死なのかもしれない。罪の意識に苛まれ続けるのが耐え難いのかもしれない。そう考えると少し雷様が可哀想に思えた。私が奥底に埋めてしまった感情はひょっとしたら大事なものであったのかもしれない。埋めることによって、誰かを傷つけることになるのかもしれない。
「雷様が、心を晴らすとは面白いことを仰いますね」私はくすりと笑ってみせた。
「私に、貴方のためにできることはありますか?」
「ええ、ありますよ」

 雨戸を叩く音が徐々に強くなり始めているように思える。不規則に聞こえるその音に耳を澄ませるとそれは神秘的な音色に聞こえる。外の蒸し暑さを除けば、そこには一貫して情調的な音色が満ちていた。雨音が聞こえる。
雨に濡れた人々は何を思うのだろうか。
煩わしく思うだろうか、悲愴な気持ちになるだろうか。私が思うに、雨とは降り注ぐ人々に応じて様々な気持ちを注ぐものだと思う。私達は雨を受け止め、注がれるある種の器なのだ。私達は雨を注がれることで、同時に気持ちが注がれるのだ。故に雨は実に人に左右しやすい。煩わしさにも悲愴にも捉えられるだろう。それは器の自由なのだから。
 私は器として、雨にうたれると何故か田舎のバス停を思い出す。何でもないただのバス停。コンクリート製の重石に刺さった鉄の棒には吊るされた時刻表(時刻表は濡れないようビニールパックに入れられている)。木製のじめじめとした屋根つきの待合室。周りにはなにもない。どこまでも風景の変わらない水田が永遠と広がっている。
 待合室の中で私は一人、座っている。きっとバスを待っているのだ。どこへ行くバスだろう。わからない。けれど、私は待ち続けている。バスは来るのだろうか。わからない。けれど、私は待ち続けている。
降り続ける雨は田んぼに張られた水に絶えず膨大な数の波紋を広げ、姿の見えない蛙の声がいたるところから聞こえてくる。木の湿った匂いがする。全ては私の連想から生み出されたものに過ぎない。目を開けば、すぐに私はこの世界から解放される。けれど、私は目を開こうとしない。ただずっと、雨音に耳を澄ませる。全ては私の中で完結していた。
私は深く息を吸って、雷様に目を向ける。
「あなたにとって、天気予報が存在を嫌悪されるものであっても、私にとっては日常の一部なんです」
雷様は黙って私の話を聞いている。雷様の顔は真剣そのものであった。いっそのこと、奈良の南大門にそのまま置いておきたいと思うほどの荘厳さを確かに漂わせていた。
「私にとっての天気予報は、日常の目覚まし時計の役割に等しいんです。私はいつもラジオで天気予報を聞いて、起きるんです。私を起こしてくる唯一の方法と言っても過言ではありません」
私がそう言うと雷様は少し興味をもったらしく、大きな目がぎょろりと動いた。
「・・・その際、貴方はどちらで目覚めているように感じますか?」
「どちら、というのは?」
「要するに、ラジオ本体が発する音量に反応して起きているのか、それとも、ラジオから聞こえてくる内容に反応して起きているのかということです」
私はまたこの神様はわけのわからないことを言って、と思ったが、雷様の顔は先ほどと変わらず、真剣な顔そのものだった。そして、荘厳さが私を巻き込む。私はこの質問に対して真剣に答えなければいけないのだ。
「・・・基本的には、音で、音量で眠りから覚めていると思います」
何もない暗闇に音が近づいてくる。それがなんの音かはわからない。けれど、何かの音がゆっくりと確実にこちらに近づいてくる。それは、雨音であるかもしれないし、姿の見えない蛙の鳴き声なのかもしれない。
やがて、私の感覚は深い暗闇からゆっくりと引き上げられる。深い深海の底から縄みたいなものによって引き上げられるのだ。体内から既に空気が抜けている私の身体は重く、身動きが一切とれない。潜在意識の深くにいる私は朦朧としている。朦朧として、動けない。
けれど、それは近づいてくる音によって徐々にはっきりとしたものになる。そこでようやく自分が引き上げられていることに気がつく。私は目覚める。
「貴方は、音量によって眠りから覚めている、ということでよろしいですね?」
「ええ。ですが、それは普通のことではありませんか?そもそも、内容によって起きるということが私には理解できません。内容によって起きるということは、その時点で既にラジオの音で目が覚めているということにはならないのでしょうか?」
深海の暗闇から僅かに気泡が湧き上がる。それは誰が吐き出したものなのだろうか。わからない。私が吐き出したものなのだろうか。ひょっとしたら、海に沈んで忘れ去れた文明がわずかに発した鼓動であるかもしれない。私はわずかに目を伏せる。
グラスの中で、氷ががらんと音をたてて、崩れた。再び時間が流れ始め、雷様が再び口を開く。
「内容で目覚めるというのは、確かにご理解いただくのに少々、厄介であるかもしれませんが。そうですね、たとえば、催眠術にかかったような状態とでも言えばよろしいでしょうか」
「ごめんなさい。かえって、わかりにくいのだけれど」
私がそう言うと雷様は目を閉じ、唸った。きっとよいたとえを考えているのだろう。しかし、何故だろう。あまりよい考えは浮かびそうにない。雨音が聞こえる。
「要するに、眠りが浅い状態です」
考えに考え抜いて、雷様が出した結論はそれだった。確かにそれはわかりやすかったが、果たしてそれはそこまで考えなければいけないものであったのかは、不明だった。しかし、とにかく、眠りが浅い状態らしい。
「眠りが浅い状態だと、外からの情報が入ってきやすいんです。それが、さっきも言ったように暗示にかける催眠術やすりこみ作業となるわけです」
「成程」
私はよくわからなかったが、わかった振りをした。これ以上、雷様を困らせるわけにはいかないのだ。
「とにかく」
雷様は一つ咳払いをしてから、仕切り直す。
「とにかく、貴方はラジオの内容を聞いて起きるのではなく、音を聞いて起きるのですね?」
「はい」
私ははっきりと答える。部屋には徐々に湿った匂いが満ち始めている。ゆっくりではあるものの、確かにそれは部屋に広がり始めていた。
「貴方が寝ている間に流れている天気予報は天気予報としての役割を果たしていないのですね?」
「はい」
私が寝ている間に流れている天気予報に意味はない。肝心なのは、そこに必然的に生じる音量そのものなのだ。決して、その日の気分を決める手段や自分が夕方にずぶ濡れにならないようにするための手段ではない。それは、極めて簡略的に説明することができる。なぜなら、その瞬間に私は眠っているのだから。
「そこで、一つ気になることがあるのですが、よろしいでしょうか?」
雷様は人指し指をすっと、私の目の前に立てて、そう言った。雨音が聞こえる。
「あなたは天気予報以外の音ではお目覚めにならないのですか?」
私は頭が痛んだ。雷様はなにがしたいのだろうかと、腹を立てそうにもなった。けれど結局、馬鹿馬鹿しくなってやめた。全ての感情は私の中から湧き上がりはするものの、私という器から溢れることはなかった。
「どういうことでしょうか?」
「要するに他の音、ということになります。たとえば、それこそ目覚まし時計のアラーム音などでしょうか」
「わかりませんね。試したことがありませんから」
正直、どこまで雷様が本気なのかさっぱりわからない。もちろん、依然として雷様は荘厳な雰囲気に包まれている。表情だって至って、真剣だ。しかし、雷様が吐く言葉の数々は明らかに私が考えうる言葉を易々と凌駕していく。全くもって話が見えず、かみ合わないのだ。故にこれから雷様が続ける台詞も想像がつかない。
「では、実際に試しては頂けないでしょうか?」
「は?」
「ですから、貴方にほかの音を使って試してもらいたいのです」そこに嘘はない。嘘を吐くメリットがない。だから、疑いの余地がない。神様はなにを考えているかわからない。
「なんのために?」
「心のケアのための事前調査ですよ」
もやもやとした空気が私の頭に這入ってくる。それは生暖かい血液と混ざりあい、惰性的であり続ける。そこには確かな変化があるはずなのだ。なぜなら今、この瞬間に私の中の細胞は確実に死滅し、再生されているのだから。私の全ては変動しているのだ。
けれど、それはいくら繰り返されようとも私を根本的に捻じ曲げてしまうようなことはしない。中身が入れ替えられている感覚に近い。
「わかりました」
私の言葉は自分が発したとは思えないほど、かけ離れた次元に投下された。私は既にその言葉の意味を知る機会を失っている。それが雷様の影響かはわからない。けれど、目の前にいる雷様によって私はいつもの自分を見失っているかもしれない。空回りしているのかもしれない。やはり、雷様は神様なのだ。
「協力して頂けるのですね」
雷様ははっきりとした口調でそう言った。私は「協力」という言葉になおさら疑問を抱いた。けれど、それは私の器から漏れることを許されない。
「では明日から一週間、ほかの音で目覚めるかどうか試してください。結果はこちらに記入いただいて」
そう言うと雷様は鞄から、青いチェックボードに黄色の紐でボールペンが繋がれたものを手渡した。青いボードには、チェックシートらしきものが挟まれていた。
「あの」
「何か」
「・・・音と内容を基準に調査するのであれば、内容がある音でなければいけませんよね」
雷様は私が言ったことを頭の中でいくらか転がしてから、ゆっくりと理解していった。
「ああ、確かに貴方のおっしゃる通りですね。では、ラジオ局を変えるなどの工夫をしてください」
「あの、そんなことでもいいのですか?」
「ええ、とにかく日常とは異なるように工夫を加えればいいのです。肝心な要点はそこだけです。すみませんが、私はそろそろ戻らないといけない時間ですので。また、一週間後に伺います」
それだけ言うと雷様はせわしなく、玄関から出て行った。そこには、荘厳さなど微塵も感じられなかった。私にはその姿が希薄に見えた。存在が薄れたとも言えるだろうか。
後には、私だけがじめじめとした空間に取り残された。私はカーテンを捲って、ぼんやりと外を眺めた。雨は、既に止んでおり、敷き詰められていた鉛色の分厚い雲はゆっくりと風によって追いやられていった。雷様は帰っていたのだ。あの暗い雲の中に。その日の局所的な雷雨は酷く奇妙な印象だけ植え付けていった。

「それで、あなたはその調査をきちんと終えたの?」
彼女はアイスコーヒーのグラスに入れられたつるつるとした氷をつまらなそうにストローで弄びながら言った。
例によって、私は彼女と午後のひとときを喫茶店で擦り減らしていた。暑さが抜けない午後はゆっくりとした時間軸に位置し、どれだけ呼吸を繰り返しても一向に進んでいく気配がなかった。硝子窓を隔てて見える人々の顔は疲労に満ち、見ているだけでうんざりした。汗で額に髪の毛を張りつけた子供達が駆けて行く。蝉の薄茶色い羽が一匹の蟻によって運ばれていく。犬が舌を出して、寝転んでいる。目に見えるもの全てが断片的にいくつも折り重なってこの世界を構成していた。
「もちろんきちんと雷様に言われた通りにやったわ。毎朝、ラジオの局を変えてみたの」
私がそう言っても一向に彼女はグラスをかき回す行為をやめなかった。むしろ、より慢性化しているように思えた。氷が溶けていく。
「でもね、それは五日目で終わったの」
「ん?」
彼女の手が止まる。今までグラスの中を回っていた氷はストローによってせき止められた。どうやら、少しは彼女の興味を引けたらしい。
「どういうこと?」
「それまでは、うまくいっていた。けれど、五日目の朝だけは違ったの。それだけよ」
「要するに音ではなく内容で目覚めた、ということ?」
「そうね、そういうことになるね」
彼女は私の返事を聞いて、腑に落ちないのかしばらく固まった。きっと彼女は理解できないのだ。音ではなく、内容によって目覚めるという感覚がどういったものなのか、想像できないのだ。けれど、それはおおよそ経験したであろう私にさえ理解できない感覚であったのだ。要はそれだけ抽象的な感覚であり、誰にも理解されないもの、ということだ。
「内容を聞いて目覚めるという感覚が私にはよくわからないのだけれど、とにかくその時にあなたは調査自体をやめようと思ったのかしら?」彼女のはっきりとした縁を持つ瞳が私に向けられる。
「いいえ。正確には、その日の昼食の時ね。私は公園のベンチでサンドウィッチをかじりながら、明日からやめようと思ったの」
「急にどうして?五日目までやったのなら、続けてもよかったんじゃない?」
彼女は再びグラスに視線を落として、氷をいじった。グラスを伝って、水滴がコースターにするりと落ちる。
「理由がなくなったの。それに自信も失ったわ。それだけで十分じゃない?」
私の声は静かに響いた。それは小波に似ている。どこまでも小さな波でやがてどこかの海岸へたどり着く。
「あなたは絶対に音だけに反応して、チェックシートを○で埋めるつもりだった。それが、あなたの言うところの自信でしょ?」
彼女は少し笑ってそう言った。視線はグラスに注がれたままだ。
「そうね。じゃあ、理由のほうは?あなたに検討つくかしら?」
彼女は目線を上げて、窓硝子越しに見える世界を見ていた。彼女から見える世界は一体、どう見えているのだろうか。私が見ているように断片的な世界だろうか。それとも、彼女なりの人生観が反映されたものだろうか。彼女が私と出会う以前・以降の時間は彼女にとってどんなものだったのだろうか。
「やっぱり、あなたの話が聞きたいわ」私は言う。
「・・・ん?いいの?理由は?」
彼女は目線だけ横にずらした。彼女の興味のあることにしか反応しない様子は気ままな猫のようだった。けれど、それは彼女との時間の中で培った自然なやりとりの一つであるようにも思われる。お互いに気を遣う必要がないのも信頼関係においては重要なのだ。
「それで、何の話が知りたいの?」
「あなたの人生観について」
私がそう言うと彼女はしばらく黙った。ただの沈黙ではない。思考の中の沈黙だった。それからゆっくりと口を開いた、微かに彼女の吐息の音が聞こえた。
「私の人生は、平凡よ。だから、人生観も平凡なの。あなたと違ってね」
「そうかしら?」
「ええ、少なくとも私は今までの人生で雷様に遭うような体験はしていないもの」
「ふうん」
「でも」彼女は続ける。
「でも、私のこれまでの人生では常に雨音が聞こえるの。あなたと出会う前からずっと、ね」
彼女はそう言うとテーブルに腕を投げ出して、思い切り伸びをした。白くてすらりとした腕は木製のテーブルの木目に不思議と映え、そこには艶かしささえ感じた。整った形をした耳が髪の毛の間から覗いていた。ひとしきり伸びをした後で、彼女は「わからないわ」と呟いた。
「何が?」
「あなたが調査をやめた理由よ。いくら考えても理由だけが見えないの。でも、引っかかることはあるわ」
「言ってみて、答えられたら答えるから」
私がそう言うと彼女は伸ばしていた腕をゆっくりと引き寄せてから頬杖をついた。彼女の姿勢は奇妙に傾いた。それから人指し指が私の前にぴんと立った。雷様がしたように。
「まず、一つ。どうして雷様はあなたにそんな奇妙な調査をさせたのか」
続いて中指が立つ。
「二つ。当時のあなたがきちんと社会に対して貢献していたかどうか」
彼女はそれだけ言うと指を引っ込め、私の返答を待った。彼女の神経は耳に集中していた。
「一つ目の質問は私が考えるに、あのとき雷様は何かに気がついていたのよ」
「何かって?」
「私が抱いていた問題みたいなものかしら。でも、はっきりと言い切ることはできないのよ。どう頑張っても「何か」でしか言い表すことができないの」
「要するにあなたにもわからないのね。それで二つ目はどう?」
彼女は半ば諦め気味だった。けれど、それは正しい選択であるように思われる。
「二つ目の質問に関しては言うだけで理由になっちゃうから言わない」
彼女は私の答えに少し戸惑いながらも徐々に意識の本流の中へ神経を澄ませていた。彼女はまた、急速に興味を失いつつある。しかし、そればかりは仕方のないようにも思える。私だってこんな返され方をされたら、考えることを放棄してしまうだろう。やはり、私達は取り留めのない会話をしていた。
「じゃあ、雷様に協力したくなかったから?」彼女は氷上の僅かな震動に耳を澄ませるようにぐっと目を閉じたままそう言った。今の彼女は興味よりも頑固さで思考を回している。
「違うのよ。そうじゃないわ」
私がそう言うと彼女は肩から力を抜いて、冷たい溜息を吐いた。張り詰めていた思考の糸が切れたのだろう。グラスを手にとってアイスコーヒーを飲んでから、彼女は手をそっとテーブルの上に戻す。女性にもわかる美しい指でネイルの手入れもきちんとされていた。彼女は母になっても未だに自分を磨くことに余念がないらしい。けれど、私からしてみればそこまで磨き上げてどうするつもりなのかと問いたくもなる。いわば今の彼女は堅実に研ぎ澄まされた刃物に似ているのだ。その猟奇的にさえ艶めいて見える美しさが私にそのような印象を与えるのだ。
「それじゃあ、どういう理由?」
彼女の鋭い視線が突きつけられる。その瞬間に私の背筋はゾクリと不気味なくらいに冷え切った。
「・・・私が調査をやめた理由は他の自分の一面を見ることができたから、かもしれないわ。私はどこかで自分自身を深く知っているつもりだったの。だってそうじゃない?自分自身のことは自分が一番知っていて当然だもの」彼女はじっと私の話に耳を澄ませている。
「でも、今回の調査を通して私は普段とは違う一面を見たのよ。今まで見たことのない自分よ。そして、新しい自分を発見できたことに満足してしまったのよ。だから、この調査をやめようと思ったの。それだけなの」
彼女は不思議そうな顔をして私の顔を見ていた。彼女からはさきほどの鋭利な眼差しが抜け落ちていた。いつもの眠そうな彼女しかいない。
「一つ、質問していい?」
「どうぞ」
「・・・あなたはその後、六日目の朝にはいつも通りに天気予報のラジオで起きたの?」
「いいえ、もう一度調査をやめる原因となったラジオを聴いてみたわ。でも、六日目の朝はラジオの音で起きたの」彼女は眉間に皺を寄せて、私の話を聞いていた。妙な話をしているのはわかっている。こんな話、興味がない相手だったならとっくのとうに別の話題に移っていただろう。けれど、事のほか彼女はまた興味を引かれたらしい。
「じゃあ、やっぱり内容に何かあるってことよね?五日目の朝にあなたが聞いた内容やテーマは何だったの?」
私の記憶はゆっくりと巻き戻されていく。そして五日目の朝が記録されたフィルムを映し出す。
「・・・カーテンについて」私は答えた。しばらく彼女は動かず外の景色を見ていたが、私の言葉に反応して再びこちらに顔を向けた。
「・・・カーテン?陽射しなんかを防ぐあのカーテン?」彼女はどうやら話の整理に奔走しているようだった。表情が冷え切っていた。
「そう。確か秋のカーテンについての話題だったと思うよ」私は少し椅子を引いて、ストローに口をつけた。彼女の黒髪には夏の強い日差しが少しずつ降り注いでいた。
「あなたは、カーテンに興味があるの?」
「いいえ、なんとも思っていないわよ。家のカーテンだってとりわけ特別なものではない極々普通のものだし、デザインにしたってそこまでこだわりはないわ。でもね、あのときは何故か興味を引かれたの」
私は不確かではあるものの、なるべく鮮明に記憶を掘り返す。あのときのラジオのことを。
いつもの陽気なディスク・ジョッキーではなくて、温かい女の声がラジオのスピーカーから聞こえていた。優しく包み込んでくれるような、そんな声だった。深い意識の底にまで響きわたるその声に私は身を任せて再び、眠りに就こうとした。とても優しい時間の中へ戻ろうとした。けれど、私は朝日の感触を確かに五体に感じた。目が覚めた。
「何かが私の中で壊れたのよ」
彼女は窓硝子越しに遠い世界に思いを馳せている。どうやらついに彼女の興味は途絶えてしまったようだ。けれど、私はかまわず話を続ける。
「それから、私は再び家を訪れた雷様に言ったわ。『駄目でした』って」
「・・・それで、雷様は?何て言ったの?」
彼女はもう疲れていた。サナギから脱け出たばかりの蝶が羽をゆっくりと馴染ませるように、じっとしていた。
「『そうですか』って。それだけ」
彼女は私の世界に興味を抱かない。今まで断続的ではあるものの辛うじて繋がれていた物語の鎖が断ち切られ、暗闇に沈んでいく。きっとこの話が掘り返されることは二度と来ないだろう。それは話下手な私がいけないのだろうか。それとも、最初から埋められるべき話題であったのだろうか。わからない。けれど、いずれはどんな物語も終着点として小さな海辺へと打ち上げられる。そこに変わりはないのだ。どんな物語であろうといずれは乾いて、風化していく。世界から断ち切られてしまうのだ。私はひたすら反芻した。
 それから私は彼女と店を出てから別れた。
さっきまで晴れ渡っていたはずの空はどこからか湧いてきた雲によって、どんよりと濁っていた。そしてその濁った天気が蒸し暑い夏の風に拍車をかける。風にのって雨の甘い匂いが鼻先をかすめる。きっともうすぐ雨が降るのだ。そのときに、雷様はまた降りてくるのだろうか。私は振り返って別れたばかりの彼女の後ろ姿を見る。
「あなたには、わからなくて当然なのよ。だって、あなたは私ではないのだから」
空が一瞬、二つに裂けたのが見えた。早く帰ろう。雨が降り出す前に。私は駅を目指す。空いた席を無視して扉側の手すりによりかかった。雷様は一体、あの後どうなったのだろうか。ちゃんと元の役職に戻ることができただろうか。私のポケットで僅かに携帯電話が震えた。彼女からメールを受け取ったことをディスプレイは機械的に映し出す。けれど、私は内容を確認せずに携帯電話を鞄の奥底に放った。
 私はまだ小さな海辺を歩いている。一体、私はいつになったら辿り着くのだろうか。私はただ終着点を求めて海辺を歩いている。そこには流れ着いて干からびた幾つもの物語が打ち上げられている。きっとここにはさきほど断ち切られたばかりの「カーテンの話題」もいつかは漂流することになるのだろう。私は後悔していた。あの話を彼女にしてしまったことを。それは物語を通して彼女との関係も崩れてしまうように感じられたからだ。
電車はひとしきり揺れてから、長いトンネルに飲まれていった。トンネルに入ると同時に扉にはめられたガラス窓に私の姿が映る。私の後ろには何故か夫が立っていた。夫の姿は生前と同じものだった。今までずっとそこにいたみたいにぽつりと影を落としていた。無表情の夫は何も言わない。ただじっと私を見つめているだけだった。けれど、私にはそれだけで十分だったのかもしれない。気がつけば、自然と瞳から涙が零れていた。
それは今まで私がせき止めて、幾度も深く埋めていた感情そのものだった。涙はとめどなく私という器から零れていく。やはり、私の選択は間違っていたのだ。この感情は埋めておくべきではなかったのだ。私はきちんと感情を受け入れて、涙を流すべきだった。けれど、考えることを放棄して逃げ続けていた。たとえそれが大切な人を傷つけてしまう結果になろうとも。私は逃げたかったのだ。
やがて、長いトンネルを抜ける。そこにはもう夫の姿はない。ただどんよりと濁った空と冷たい町並みしか残されていない。けれど、最後の最後で私は涙を流すことができた。感情の一部分を取り戻すことができ、どうしようもない悲しみに暮れることができた。それが雷様のおかげか、彼女のおかげかはわからない。それとも私に変化を与えたカーテンの内容だろうか。
ふと座席に座っている中年のサラリーマンに目を向ける。しかし、私が向けた視線の先にサラリーマンの姿はなかった。ただ、不自然に空間がぽっかりと空いているだけだった。

燃えたカーテン

燃えたカーテン

昨年の夏、雷に撃たれて夫は死んだ。 埋没する感情と埋没されることのない記憶。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-04-04

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