地下室の天使

19世紀フランスを舞台に描かれる、4人の少年少女たちの数奇な運命

はじまり

「大きなお屋敷の暗い暗い地下には、一人の天使が住んでいてね――」
 ゆらゆらと揺れるろうそくの明かりの下、物語はいつもそこから始まった。

 この本は、私が幼い日に両親が語った物語を元に記したものである。おとぎ話のようなその物語は、喩えようのない魅力をもち、成長した今でも私の心を捉えて離さないのである。
 そして、それらは本当にあった出来事であったと知った時、私はこの物語を後世に伝えるべくペンを手にとることとなったのだ。
 多くの人を心から愛し、そして愛された、盲目の天使が居たということを、忘れないために——

19XX年 パリ某所にて Gigi Aubert

1、兄と妹

 木枯らしが、枝先にしがみつく小さな枯れ葉も奪い去っていく、秋の終わり。アンテルム・オベールとマリー・オベールの二人は、突然、大切な人たちを奪われてしまったのです——。


「マリー、バスケットは持ったかい?」
「持ったよ!それより兄さん、ナイフは持った?」
「もちろん!」
 二人の子供の元気な声が家の中に響きます。部屋には背の高い男の子と小さな女の子が、お揃いのマフラーと手袋をして玄関に立っていました。台所ではエプロンをつけた女の人が忙しそうに洗い物をしています。
「ふたりとも、日が暮れる前には帰ってくるのよ!」
「はーい!」
「じゃ、お母さん、行って来るね」
「はい、行ってらっしゃい。気をつけてね。アップルパイを作って待ってるわよ」
「アップルパイ!」
小さな女の子のほうが、嬉しそうに飛び跳ねました。黒髪のおさげがかわいい子です。名前をマリーと言いました。
「そんなら、早く帰ってこようっと」
男の子も嬉しそうです。彼の名前はアンテルムと言いました。皆は彼を「アンテ」と短く呼びました。


 二人は元気よく玄関から飛び出すと、村のはずれに見える森に向かって駆けてゆきました。今日は、秋の森で薪や木の実を探すのです。外の風は冷たくて、ほおをちくちく刺しましたが、二人で笑いながら走っていると、それもなんだか楽しく思えてくるのでした。
 森の入り口までくると、森を赤や黄色に染めていた落ち葉がすっかり落ちていて、頭の上には細い枝ばかりが広がります。その代わり、積重なった落ち葉で地面はふかふかと柔らかく、土のいい匂いがしていました。枝の間から秋のきらきらした日差しが差し込みます。空は雲一つ無くどこまでも真っ青に広がっていました。


 空もすっかり赤く染まり、鳥たちも巣に帰る頃。アンテの背中には薪が、マリーの籠には拾った木の実がどっさりと入れられていました。
「たくさん採れたね、兄さん!」
「この量だもの、明日のおやつはきっと木苺のパイだね」
 ふたりは薄暗い森の中、白い息を吐きながら意気揚々と帰り道を急ぎました。


 すると、向こうからこちらへ向かってだんだん近づいてくる灯りが見えました。
「こんな遅い時間に誰だろう?夜の森は危ないのに……」
不思議に思いながら歩いていると、そのうちに男の人の声が聞こえました。
「おーい、アンテ!マリー!どこにいるんだー!」
どうやら自分たちを探しているようです。アンテとマリーは暗い落ち葉の道を走って駆け寄りました。
「おじさーーん!僕らはここだよう!アンテもマリーも居るよう!」
二人で背伸びをしながら手を振ると、おじさんも気づいたようでした。
「ああ、二人は無事だったのか……!!よかった……!!」
男の人は感極まったような声で走り寄ると、二人をぎゅうっと抱きしめました。彼は近所に住む牛乳屋さんのジャンおじさんでした。
「おじさん、どうしたの。僕らが森で迷子になったと思ったの?」
「私達、森でたくさん木の実を見つけたものだから、すっかり夢中になってしまったの。心配かけてごめんなさい」

ジャンおじさんは手を膝につき肩で息をしながら、首を振りました。
「いいや、そうじゃないんだ。心配はしていたけど……とにかく、村へ急いで帰った方がいい。この辺りにまだ隠れているかもしれない」
そう言うジャンの顔からは、先ほどの笑みは消えていました。ランプに照らされた真っ青な顔と固く引き結ばれた唇は、何かに怯えているようでもありました。
「アンテ、マリー。君たちにとっては辛いことかもしれないが、けれど……知らなくちゃいけないことが起こってしまったんだ」
目を見開いてぎらぎらを辺りを見回しながら、耳打ちするような声で呟くジャンの姿を見て、二人は村でなにか恐ろしい出来事が起こったのだと感じました。


 何が起こったのか、何が待ち受けているのか……二人は気が気でありません。足早に森を出ようとするジャンの後ろ姿を、必死に追いかけて行きました。

2、悲劇

 森を出ると、そこには人だかりができていました。がやがや騒ぐ声の中には、大声で泣き叫ぶ声も混じっています。村を出る時には感じなかった重苦しい緊張感が、今は村いっぱいに満ちていました。空に月は無く、不気味に赤黒い空が、幼い二人の心を押し潰さんばかりに赤々と燃えています。足を一歩踏み出すごとに、夜風が足首に絡みつくようでした。アンテは喉元に息苦しさを覚え、思わず手をぎゅっと握ると、マリーの小さな手も冷たくじっとりと湿っているのがわかりました。
「みんな!アンテとマリーは無事だったぞ!」
 牛乳屋のジャンが叫びます。すると人だかりが一斉にこちらへ振り向きました。二人の姿を認めると、大声で口々に何か叫びながら駆け寄ってきます。
「おお、神よ!」
「可哀想な子たち!」
「なんて(むご)い運命なんだ!」
 大人たちにぐるりと囲まれて、たじろぐ二人。人々は二人に何かを伝えようとしていましたが、叫び涙を流すばかりで肝心なことは語ろうとしません。
「ねえ、みんなどうしたの、お家に帰してちょうだい」
震える声でマリーが言いました。それを聞くと、大人たちはいっそう大きな声で泣きました。
「お前たちには、もう帰る家がないんだよ」
人混みの中の一人がそう答えました。
「おばさん、どういうこと?」
アンテが尋ねても、大人たちは泣いてばかりで答えません。
「ねえジャン、なにがあったの、どうしてみんな泣いているの」
「それは……」
ジャンが困り果てたように目配せすると、周りの大人たちも目配せしました。
「ジャン、おしえて、ねえ」
「ぼくたち、うちに帰らなきゃならないんだ」
その言葉を聞くと、ジャンは目に涙をいっぱい溜めながら二人の手をとりました。
「いいだろう。いずれ知ることだ。おいで」
周りの大人達は引き止めましたが、ジャンは二人を連れて、輪の外へとどんどん歩いて行きました。


 人だかりの向こうには、扉が開けられたままの自分たちの家がありました。けれど、夕方だというのに蝋燭の一つも灯されていません。扉の近くへ寄ると、薄暗い部屋の奥から生臭い匂いが漂ってきました。血の匂いです。外の騒ぎに比べ静まり返った家の中を進むと、そこには誰かが倒れていました。
「マリーちゃんは外にいなさい……アンテは……君は、これを見なきゃならない」
「私も見るわ」
力強い言葉と裏腹に、マリーの声は細かく震えていました。すっかり冷えきった指先で、アンテの指をぎゅっと強く握り返します。
「じゃあ……」
 ジャンが手に持った灯りを掲げると、そこには、血だまりの上に寝転ぶ変わり果てた母の姿がありました。そして、それをかばうように倒れている父の姿。二人の生気のない目はランプに照らされて、どんよりと天井をみつめていました。
 二人はその光景に、声すら上げませんでした。静かに、そっと震える指先で母の顔に触れると、ひやりと冷たい肉の感触だけが伝わってきました。
「……盗人が入ったらしいんだ。ここの他には、斜向かいのじいさんばあさんと、村の西はずれの親子がやられてる。君らの親を入れると、今日だけで5人も殺された……。」
「……。」
「集団だったんだろうな……。昼間だというのに堂々と入り込んで、赤ん坊まで容赦なく殺してしまうだなんて。まったく大胆なやつらだよ。そんなんだから昼間っから村じゅう大騒ぎでね。」
「そう……。」
アンテはぼんやりと、空返事の相槌をうちました。
「みんなが君らの母さんの叫ぶ声を聞きつけて集まった頃には、もう犯人は逃げ出していたそうだ。……助けられなくてすまない」
悔いるようなジャンの説明も、もうアンテの耳にはまるで入ってきませんでした。これからどうなるんだろう。僕は?マリーは?それだけが、ぼうっとしてしまった頭のなかで呪文のように、何度も何度も回り続けていました。

3、越冬

 村に厳しい冬がやってきました。家も道路も枯れ木も真っ白に染まり、冷たい風が扉の隙間からひっきりなしに吹き込んできます。アンテとマリーのきょうだいは、おとなのいない家の中で身を寄せ合って暮らしていました。
 アンテは妹のマリーの夕飯のために、毎朝森へ薪を拾いに行きました。指先が真っ赤になるまで薪を集め、夕方には森から戻ってきます。そうして、薪を村の人に渡し、その引き換えにパンやスープを分けてもらうのでした。マリーはお年寄りのロジェさんの家に通って、朝晩の床磨きをして、その日のパンを分けてもらいました。
 けれど冬は食べ物が少なく、村の人達も、自分たちが食べるぶんの食料しか持っていませんでした。村はとても貧しかったのです。冬の終わりの頃になると、アンテたちは一人分のパンを分けてもらうのがやっとになりました。それを見かねたロジェさんは、冬の間だけ、ロジェさんの家に寝泊まりすることを勧めてくれました。
「孤児院へ行けば、ずっと暮らしが良くなるよ」
 ロジェさんはそう言いました。村の人達から、孤児院なら今よりもよい暮らしができるかもしれないという噂を聞いたのです。けれどアンテたちは、となり町にある孤児院まで行くことができません。冬道を歩く旅は二人の子供にとってあまりにも厳しかったのです。馬車に乗れば孤児院へも行けましたが、ロジェさんには馬車もありません。村でただ一人荷馬車を持っているゴダンさんは大変な子供嫌いで、アンテたちを乗せてはくれませんでした。
「春になったら、わしが孤児院まで連れて行ってあげよう」
 ロジェさんは優しく微笑みます。三人で分けあうスープはとても温かくて、お腹がすいても心はぽかぽかと温かくなりました。
「わたし、このままここにいたい」
 マリーは駄々をこねましたが、ロジェさんは悲しそうに首を振ります。
「それはできないんだよ、マリー。わしがお前たちの面倒を見ていられるのはこの冬が精一杯じゃ。わしはもう年寄りで金も稼げないし、食べるものだって買ってやれない。だけどお前たちはこれからもっと大きくなる。そうなれば、今よりもっとたくさん食べなきゃならんだろう。だからね、お前らは孤児院に行ったほうがいいんだ。ここにずっといるよりも、もっとたくさんご飯が食べられるからね」
 そう行って優しくマリーの頭を撫でました。マリーは悲しそうに俯いていました。

4、意地悪なカルロス

 やっと春がやってきた頃。村に、おんぼろの馬車に乗った男がやって来ました。おおきな体にもじゃもじゃひげの、見たこともない男でした。
「ばあさんの言ってたガキってのはどいつだ」
 雷のような声で男が叫びます。すると、ロジェさんはのそのそと立ち上がり、「ここじゃよ」と呼びました。
「この子らを、となり町の孤児院まで連れて行って欲しいんじゃ」
 そう言いつつ、ロジェさんはそっと、小さな袋を男に手渡しました。
「まかせとけ」
 男は袋の重さを確かめるように手のひらを揺らすと、アンテとマリーを睨みつけて「さっさと乗れ!」と叫びました。二人はロジェさんとお別れのハグをすると、さびしそうに見つめながら、馬車に乗り込みました。
「さようなら、ロジェさん。いままでありがとう」
「元気でな、身体に気をつけるんじゃよ」
 ロジェさんは、しわしわの手をゆっくりと振りながら、見送ってくれました。二人はロジェさんの姿が見えなくなるまで、手を振り続けました。

 男の名はカルロスと言いました。二人はこの、荒っぽくむさ苦しい男のことを最初から好きにはなれませんでした。けれど他に行く宛もない二人は、だまってこの馬車に揺られるしかありませんでした。

 ぼろの荷馬車に乗せられ、がたがた道を揺られているうちに、高かった日もすっかり暮れてしまいました。あたりの景色も見えなくなった頃、やっと馬車は進むのをやめました。
「さっさと降りろ!」
カルロスの大声が、夕空に響きます。
「おじさん、ここ、どこなの」
「いいから降りろ。お前たちは今日からここで暮らすんだ!」
カルロスは怒鳴りながら馬から降りると、怯える幼いマリーのお下げ髪を引っ張りあげて、無理やり荷馬車からおろしました。
「おじさんやめてよ!」
「小僧は黙ってろ!」
カルロスの大きな手が、アンテの頬を思い切りぶちます。あまりの痛みに、アンテは荷馬車から転がり落ちました。痛みの中で、アンテはハッと気づきます。ここは、ロジェさんの言っていた孤児院なんかじゃない。アンテも、マリーも、そしてやさしいロジェさんも、このカルロスという男に騙されてしまったのです。
(なんて人のところへやってきてしまったのだろう。絶対にここから逃げ出さないと!)
アンテは心に誓いました。そしてそれこそが、幼い二人にとっての、地獄の日々の幕開けだったのです。

 カルロスは毎朝毎晩酒を飲み、二人を奴隷のように扱いました。事あるごとにアンテを殴っては、マリーを泣かせるのでした。時折マリーも殴ろうとすると、アンテが必死で止めるので、結局アンテはマリーのぶんまでぶたれるのでした。時には口がきけなくなるほど顔が腫れ上がり、そのせいで喋らずにいるとカルロスは余計に怒るのでした。
 ある時、二人でこっそり逃げ出そうとしました。けれどその時はすぐに見つかってしまい、ふたりとも鞭でなんども叩かれました。それ以来、絶対に逃げ出さないようにと、首輪をつけられ鎖で繋がれてしまいました。

 カルロスは以前にも同じように『孤児院に行くはずだった子供たち』を攫っていたようでした。錆びついた首輪の大きさや、庭に転がる白い骨、そして罰のための道具は、どれもみな、カルロスがこれまでにしてきたことを、そしてアンテとマリーの二人の未来を物語るようでした。
 そんな生活の中で、アンテはずっとマリーを守り続けました。罰として減らされ続けるわずかな食事もマリーに分け与えました。全ては、マリーだけは少しでも無事でいられるように思う心からでした。
 そんな二人の生活の中にも、唯一楽しいことがありました。買い物の時です。カルロスから渡される少ない金で、荷馬車に乗ってカルロスのぶんの酒とパンを買いに行き帰ってくるのです。買い物は必ず一人だけで行き、もう一人は人質にされ、戻らなければもう一人が殺される決まりになっていました。寄り道をして遅くなると、もう一人には酷い罰が与えられるため、急いで帰らなければなりませんでした。けれど二人にとっては、あの狭く暗い家から抜け出せる貴重な時間だったのでした。

 マリーの9歳の誕生日が近づいた頃のことです。アンテが買い出しに行くと、道に小さなガラス球が落ちていました。ひび割れて欠けたところもありますが、光に透かすとキラキラと光って綺麗に輝くのです。どんなに傷ついてもキラキラと笑うマリーに良く似ている、とアンテは思いました。そうして、誕生日のプレゼントにしようと、そっと手のひらで包み込んで大切に持ち帰りました。
 安い酒と一人分のパンを両手に抱えて、カルロスの家に近づくと、中から怒鳴り声とマリーの悲鳴が聞こえました。
「おい、わかったか!」
「ごめんなさい!ごめんなさい!」
アンテは、頭からさっと血の気が引くのがわかりました。急がなければ!
「マリー!マリー!」
アンテは真っ青になって扉を開けると、そこには裸にされロープで逆さに吊るしあげられたマリーの姿がありました。
「マリー!大丈夫か!」
「兄さん!」
マリーの両手が力なく中を泳ぐと、脇からぬうっとカルロスが現れました。
「アンテ、いったいどこをほっつき歩いていたんだ?ええ?酒が来るのがあんまり遅いんで、マリーにお仕置きしてやったぞ」
「そんな!門限には間に合ってます!ちゃんとお酒とパンも買ってきました!それなのにどうして!」
「あ?門限ぎりぎりじゃ遅すぎる、俺が飲みたいときに酒がないのが悪いんだ!」
「そんなの無茶だ!」
「いいから黙ってろ!」
そうして、空いた酒瓶で思いっきりアンテの顔をぶちました。アンテの身体は大きくねじれ、抱えていた酒瓶とともに床に倒れこみました。
「兄さん、ちがうの、私が悪いの、私が嫌がったから」
天井からぶら下がったマリーが、弱々しい声でこぼします。
「マリーも黙ってろ!」
カルロスは天井のマリーを睨みつけました。それに驚いたマリーは、両手で顔をおおい、静かにさめざめと泣きました。
「……おじさん、マリーをおろしてください。代わりに僕が吊るされますから。もうマリーのことは許してやって下さい」
じんじんと痛む頬を手で必死に抑えながら、怒りに震える声を絞りだすように、アンテは呟きました。アンテはこのとき初めて、どろりとした憎しみの感情が、自分の中にふつふつと沸き上がってくるのを感じていました。
「……ふん、いいだろう。」
カルロスは床に転がる酒瓶を拾い上げると、その栓を抜きがぶがぶと飲みながら、片手に持った斧で、マリーのロープを切り落としました。どかっ、という鈍い音と共にマリーは頭から真っ逆さまに落ち、床の上に力なく横たわりました。ぐったりと疲れきって体を隠す余裕もありません。そんな妹のもとに、アンテは震える足で駆け寄りました。
「マリー、無事かい、マリー」
「ええ、私は大丈夫。それより兄さんは」
「僕のことはいいんだよ」
裸のままで震えるマリーに自分のぼろを着せてやり、そっと髪を撫でると、カルロスのほうへ向き直りました。
「おじさん!僕を吊るすんだろう」
「もう吊るすのは飽きた。勝手に寝てろ」
カルロスは、二人の首輪を繋ぎ直すと、そのまま酒をあおり眠ってしまいました。

 その晩、アンテは今日マリーの身に起こった話を聞きました。アンテが買い出しに出かけたあと、カルロスおじさんがいきなり「裸になれ」と言ってきたこと、その形相があまりに恐ろしかったこと、口に出せないようなおぞましい命令をいくつも出されたこと、その内の一つがあまりに怖くて逃げ出そうとしたこと、そのせいでカルロスが怒り、逆さに吊るされたこと。
時々、言葉をつまらせながら、ぽつりぽつりと話すマリーの背中を、アンテは優しく撫でていました。痩せて背骨の浮いた背中は、細かに震えていました。ぶたれた右の頬がまだじんじんと痛み、口の中が血の味でいっぱいでしたが、その何倍もの痛みと恐怖を、マリーが一人で味わっていたのだと思うと、それすら気になりませんでした。
「辛かったね、マリー……」
「ごめんなさい兄さん、私がちゃんとカルロスのいうことを聞いていれば、兄さんはぶたれなくて済んだのに……」
「いいんだよ。いいかいマリー、僕はね、あいつに殴られたことよりも、マリーを怖い目に遭わせてしまったことのほうが辛いんだ。だからもう、僕は買い出しには行かないよ。カルロスがなんと言おうとも、君とカルロスをふたりきりにはさせない。」
「兄さん……」
アンテが優しくマリーを抱き寄せると、マリーは静かに涙を流しました。
「それより、マリー。手をお出しよ。良いものを見つけたんだ」
「……なあに?」
「ご覧」
そう言って、マリーのか細い手のひらに、今朝拾ったガラス球を乗せました。暗い部屋の中でその小さな玉は、月の光をその球体の中に捉え、転がすとゆっくりと光を反射して、きらきらと輝きました。
「きれい……」
「今日、道で拾ったんだ。こんなものしかあげられないけれど……」
「ううん、いいの。ありがとう、兄さん。」
傷ついた両手で大事そうにガラス球を持つその姿に、アンテは「お誕生日おめでとう」、という言葉がかけられませんでした。
(こんなに酷い誕生日があっていいものか!)
アンテはぐっと涙を堪えながら、マリーの手のひらを握りしめました。たった一人の、このちいさな家族を、自分は守らなければならない。あの男の魔の手からなんとしても守らなければならない。そう、強く感じたのでした。マリー9歳、アンテ11歳の、木枯らしの吹く秋の日のことでした。

5、火傷

 マリーが逆さ吊りにされてから4ヶ月が経ちました。兄妹はまだ、カルロスの狭い家に囚われの身でした。満足に食べ物も与えられず、毎日殴られ蹴られてやせ細るばかりでした。

 在る冬の寒い日、マリーが高熱を出して倒れてしまいました。為す術のないアンテは泣きながら藁にもすがる思いで、カルロスに頼み込みました。
「頼むよカルロス!お医者を呼んでくれ!」
「そんな金は無い!」
「うそだ!酒を飲む金はあるじゃないか!」
「これは俺のぶんの金だ!お前たちのぶんはお前たちがパンにして食っちまったじゃないか!」
カルロスは怒鳴りました。それでもアンテは負けません。
「それなら、僕のぶんのパンのお代を、今後食べるぶんのパンのお代をすべて、マリーのためのお医者のお金にしておくれよ!僕はもうパンなんか要らないから!」
「ふん、小僧、そんなはした金で医者が呼べるとでも思ってるのか?」
「くっ……!!」
アンテは悔しさのあまり、噛み締めた唇から血が滴りました。
「それと、お前、いま、もうパンはいらない、って言ったよな?じゃあお前のパンは買わなくていいんだよな?」
「そんな……!!ちがう!僕は医者を呼ぶ代金を出してくれるなら、って……!!」
「知らねえなあ、そんなことは」
「このっ……!!」
ばっ、と飛び上がると、アンテはカルロスの右手にしがみつき、その腕に思い切り噛み付きました。
「あっ!てめえ!なにしやがる!」
「おまえなんか!おまえなんか!」
アンテは怒りに任せて暴れ回りました。カルロスの持っていた酒瓶を奪い取ると、ちからいっぱい頭を殴りつけました。
「やったな、小僧!」
頭に血がのぼったカルロスも、負けません。首から伸びる鎖をむんずとつかみ、アンテの振り回す細い両腕をあっという間に抑えこむと、
「今日という今日は、てめえを黙らせてやる!」
そう言ってアンテの背の上にのしかかり、身動きを取れなくしてしまいました。
「犬の真似もできないようじゃ、お前は家畜だ!」
カルロスはアンテを押さえつけたまま、暖炉の燃え盛る炎の中に灰かき棒の先を投げ入れました。薪をくべると、ぱちぱちと火の粉を飛ばして、炎はさらに燃え上がります。寒い冬には恋しく思える暖炉の火が、今のアンテには恐ろしい悪魔の手先のように思えました。
「離せ!この!」
「まだ暴れるか!くそがき!」
視界の端で、カルロスが不気味な笑みを浮かべながら、赤々と熱された灰かき棒を火の中から持ち上げました。アンテは瞬時に、カルロスの考えているおぞましい罰が何なのかに気づきます。必死に身を捩り逃げようとしますが、カルロスの恐ろしいまでに強い力で押さえつけられては、満足に動くこともできません。
「せいぜい、てめえがしたことの反省をするんだな」
服がめくりあげられ、腰があらわになるのがわかりました。肌の上を暖かい空気が撫でたかと思うと、そこから痛みが迸りました。
「……っう!ぐあああっ!」
部屋には肉の焦げる匂いが広がりました。頭上からはカルロスの笑い声が聞こえます。
「医者を呼べ?図に乗るな。この死にぞこないどもが!」
痛みに悶え呻いていると、大きな逞しい掌が、アンテの顎をがっしと掴みます。驚き目を見開くと、瞳をらんらんと輝かせ怪しい笑みを浮かべたカルロスの顔が目の前にありました。そして片手には、まだ赤く染まり煙を上げる灰かき棒が握られているのです。
「いいか、お前らは俺があのばあさんから買ったんだ。俺がお前たちをどうしようと勝手なんだよ」
カルロスが焼きごてをアンテの顔へと近づけていきます。目の前の景色が熱で揺らぎ、鉄の焼ける匂いが鼻先をかすった瞬間、思わず顔をそむけると、額に鋭い痛みが走りました。
「あああああああああああっ!!!!!!」
「くそう、避けやがったか!」
あまりの痛みに床の上を転げまわるアンテ。泣き叫ぶような悲鳴がしばらく続いたあと、次第にただ呻き声を漏らすだけになっていくアンテの姿を見て、カルロスはようやく折檻をするのをやめました。
「いいか、次から俺に逆らうと、これよりひどい目に合わせてやる。わかったか!」
怒っているような、笑っているような、奇妙に震えた声でカルロスは叫びました。


あまりの騒ぎに、高熱で臥せっていたマリーも起きだしてきました。
「兄さん、兄さんどうしたの、だいじょうぶ」
「マリー、マリー……そこにいるのかい」
痛みのあまり眼も開けられないアンテは、床の上で力なく呼びました。
「ああ兄さん、なんてこと、なんてこと」
マリーは苦しむ兄をいたわるように、しっかりと抱きしめました。
「……つぎはお前の番だマリー。次に俺に逆らうようなことがあれば、お前も兄貴と同じ目に合わせてやるからな」
カルロスはそう冷たく言い放つと、ベッドに横になり酒を飲み、そしてそのまま寝てしまいました。


「兄さん、兄さん、どうか無事でいて、兄さん」
窓の外は真っ白な雪景色でした。マリーはそっと窓を開け、窓辺に降り積もった雪を掬い取ると、アンテの赤く爛れた肌に雪を乗せていきました。窓を開けると肌につき刺さるような風が通り、そのたびにマリーはひどい咳をおこすのでした。さかむけてひび割れた指には、雪の冷たさはいたく染み入ります。けれど、弱り切ったアンテの姿を見るたびに、マリーの身体に強いちからがみなぎりました。
「マリー……マリー……ありがとう……でも君の病気が……」
「兄さんを失うくらいなら、このまま病気で死んでしまうほうがましです」
マリーの声には、力強いひびきがありました。
「それは僕も同じだよ……ぼくも君を病気で失うくらいなら、火傷で死んでしまうほうがましだ……」
「ならなおさら、兄さんは生きてもらわなくちゃいけません。ふたり一緒に生き延びましょう」
 その晩二人は、すぐにここから逃げ出そうと、心に決めたのでした。

6、脱走

 マリーの必死の看病の甲斐あってか、アンテの傷の痛みはひと月もすると治まりました。醜い瘡蓋(かさぶた)が額をひろく覆っていましたが、死んでしまうのに比べたらなんともありません。それよりも、問題はマリーのほうでした。無理をしてアンテの看病をし続けた結果、どんどん体調は悪くなっていたのでした。
 病に苦しむ中で、マリーは自分の首輪をいじり続けました。カルロスに見つからないように気をつけながら、いろんな動かし方を試していると、あるとき、遂に鍵が壊れて外れたのです。「やった!」マリーは思わず飛び上がりそうになりました。そして、眠るアンテにそっと囁きました。
「兄さん、兄さん、首輪が外れたわ。きっと兄さんの首輪も外せるわ」
床板の上で寝ていたアンテは、驚いて飛び起きました。
「ほんとうかい?見せてごらん」
アンテは、カルロスがいびきをかいてぐっすり眠っていることを確認すると、マリーの首輪に触れました。
「ほらね。きっと私、兄さんのも外せるはずよ」
そう言ってマリーはうれしそうにと微笑みました。確かに、首輪の鍵が壊れて外れ、蝶番の先がぶらりと垂れ下がっています。
「マリー、おめでとう。これで君だけでも逃げられるね」
「でも私、兄さんとじゃなきゃ逃げられないわ」
「そうか。なら今はカルロスに見つからないほうがいい」
アンテはそう言うと、アンテは首輪を上手く戻して、外れていることがわからないようにしてしまうと、マリーの頭を優しく撫でました。
「よくやったねマリー。けれど、かならず二人一緒に逃げられるときまで、それを決して知られてはいけないよ。なんとか上手く隠すんだ」
「わかったわ兄さん。私も、兄さんの首輪も外せるよう、やってみるわ」
「ありがとう。きっともう少しでここから出られる。きっとだいじょうぶだ。」

 その日から、二人は脱出するための計画を練り始めました。マリーのこともあって、脱出は急がねばなりません。カルロスに見つからないようにしながら、二人は毎夜、「どうしたら逃げきれるか」を考え続けました。馬車で逃げようにも、カルロスが売っぱらって酒代にしてしまったので、馬はもういません。マリーは走れず、アンテが背負って逃げても追いつかれてしまいます。そして、捕まったら次は、もう二度と生きて出られないかもしれないのです。二人はどうすればよいか考えるうちに、アンテが世にも恐ろしい方法を思いつきました。
「マリー、これなら逃げ切れるよ」
「でも、それはきっといけないことよ。神様が許してくださるはずがないわ」
「でももう他にないんだ。償いは逃げ出してからすればいい。でなければ、僕らのほうが先に、神さまのもとへ行くことになるもの」
「でも……」
「これしかないんだよ、マリー」
「……そうね……」
「……手伝ってくれるね?」
「……ええ、わかったわ」
マリーは噛みしめるように答えました。固く握りしめた拳は、二人の決意の硬さを示すようでした。

 そのうち、アンテの首輪も外せるようになりました。マリーの努力が実ったのです。二人は喜んだのもつかの間、いよいよあの計画を実行に移す時がきたことを、険しい表情とともに受け入れたのでした。

 脱出計画当日の日、その日ふたりは、出来る限りカルロスの機嫌をとり続けました。どんな危ない命令にも、汚らしい命令にも従い、カルロスを喜ばせ、どんどん酒を飲ませました。前の日に買い出しに行ったばかりだったので、その日は酒がたんまりとありました。
 カルロスは夕方にはすっかり酔っぱらい、大きな鼾をかきながら眠ってしまいました。カルロスが何をしても絶対に起きないことを確認すると、ふたりはやっと首輪を外しました。そして、カルロスの体を縄と鎖でベッドに縛り付けてしまいました。縛り終わってもカルロスがまだ寝ていることを確認すると、部屋の中で焚き火をはじめました。棚やテーブルがぱちぱちと音を立てて燃えていきます。煙で床が見えなくなってから、二人は家から飛び出しました。陽は沈み、地平線の近くには明るい星が輝いています。ふたりは裸足のまま走り続けます。次第に火の手は広がり、炎はぐんと長くなって、夜空を赤々と照らしていきます。そんな景色から逃れるように、どこまでもどこまでも、二人は駆けてゆきました。


翌朝になっても、カルロスは追いかけてきませんでした。


 明け方、二人は肩を寄せあって泣きました。辛さから開放された嬉しさと、これからどうしたらいいかわからない不安と淋しさが、雫となって両目から溢れていきました。

7、放浪の旅

 カルロスの恐怖から解き放たれた二人を待ち受けていたのは、行くあてのない旅でした。家を燃やし、無我夢中で夜闇の中を逃げた為に、知らない道に来てしまったのです。いままで、カルロスのための買い出しで出かけていた街とは違う方角へ来ていたのでした。馬車道は鬱蒼とした木々に覆われ、戻ることすら不安に思えるほどでした。二人は身を寄せ合い、獣の気配に怯えながら、朝晩歩き続けました。

 三度目の昼、二人は川のせせらぎを聞きました。そこには滾々(こんこん)と清い水が湧き出し、小川となって流れだしているのでした。
「水だ!」
アンテは思わず叫びます。弱り果てたマリーを抱きかかえると、湧き水のそばへと横たえました。
「マリー、ほら、お飲みよ」
「ん……おいしい……」
二人はその水を美味しそうに飲みました。いくらでも飲めるような気がしてきました。今までに飲んだどんなものよりも、ずっとずっと美味しかったのです。
「この川を伝っていけば水に困ることはない。マリー、川に沿って行こう。そのうち川も大きくなって、どこかの街に着くかもしれないもの」
アンテはマリーを励ますように明るくそういうと、マリーを再び背負いました。まるで水に元気付けられたかのようでした。川沿いを歩く足取りは軽く、どんなひどい道もへっちゃらでした。

 アンテの想像した通り、川は次第に広がって行きました。川魚が泳ぐくらいの大きさになると、二人は食べ物にも困らなくなりました。魚が少しだけ採れた日は二人でわけあって食べ、たくさんとれた日には岩の上で魚を干して、少しずつ大切に食べました。川に出会ってからというもの、マリーはときどき一人で歩けるようにもなりました。
「きっと、神様のおかげね」
「そうだね」
 二人は、神の恵みに感謝しながら、川を下っていくのでした。小川は歩くほどに、幅が広くなり、水底は深くなり、流れが強くなっていきました。そうしてついに、川のそばに建つ小さな建物を見つけました。水車小屋のようです。蜘蛛の巣だらけで、誰かが中に入った様子もありません。周りに誰かが住んでいる様子もありませんでした。
「兄さん、今晩はここで休みましょう。ここなら夜露(よつゆ)に濡れる心配もないわ」
「そうだな。そうしよう」
 その日は、カルロスの家を出てからちょうど七日目の日でした。二人はこの場所を、ひと時の休息の場とすることにしたのです。蜘蛛の巣をすっかり払ってしまうと、暖炉のそばから火口箱(ほくちばこ)が見つかりました。「やった!」アンテはそう一声叫ぶと、外へ飛び出し薪の(たきぎのしろ)を拾い集めに行きました。マリーがその日の寝床をこしらえていると、夕暮れ時になって、アンテがやっと帰ってきました。両手にはたくさんの薪が抱えられています。火花を起こし、暖炉に火をくべると、赤々と火が燃え出しました。夜闇の中をじっと過ごしてきた二人にとって、その明るさはとても心強いものでした。炎が二人の頬を赤く染め上げます。二人はその暖かさに身を委ね、深い眠りへと沈んでいきました。
 次の日は一日中雨でした。二人は食べるものがないまま、小屋の中で身を寄せ合うばかりでしたが、それでも、暖炉があり雨風をしのげる小屋の中にいられるというだけで、心は静かでいられるのでした。雨漏りも隙間風も、今までの生活に比べたらなんてことはありません。雨が止んだら何をしよう、明日の食べ物をどうしよう。そんなことを考えているだけで、あっという間に日が沈み、夜が来ました。再び暖炉に火を灯すと、村で家族と共に幸せに暮らしていた頃や、つらかった日々が思い出されるのでした。

「——ねえ兄さん。神様は私たちのしたことを許してくれるのかしら」
「さあ」
アンテは眠そうに答えた。
「でも私達はカルロスを……ころしてしまったのよ。それはいけないことだわ」
マリーはその言葉を、重苦しく、絞りだすようにつぶやきます。その声はかすかに震えていました。
「もし神様がいるなら、僕たちをもっと早く助けてくれたはずだよ。マリーだって、あんなことをせずに済んだんだ」
「それはきっと、私たちに試練を与えて下さったのよ。いまもこうして、水を与え、魚を与え、寝る場所を与えてくださったわ」
「でも僕の顔には火傷を与えてくださった」
「首輪を壊してくれたのもきっと神様のおかげよ」
マリーは焦っているようでした。両手を固く握りしめ、背筋をぴんと伸ばして、ごろりと寝転がるアンテの方を見つめます。
「では神様は、僕らにあの男を殺せと命じたのかしら」
「……あの男が悪魔だったら、私たちが殺しても人殺しにはならないわ。あんなことをするのは、悪魔しかいないもの」
マリーが低い声でつぶやきます。そのようすに驚いたアンテは、少しうろたえてしまいました。
「私達は、神様の代わりにあの悪魔を退治したんだわ」
「でも悪魔だったら、あんな火だけじゃ死なないよ。やっぱりあいつも人間だったんだよ」
アンテはマリーを宥めるように声をかけます。マリーの言うように、アンテにもカルロスは悪魔のように思えたましたが、それ以上に、マリーの様子がおかしいことのほうが心配になってきたのでした。
「カルロスは悪魔じゃない。悪魔だったら今頃追いかけてきてるさ。僕らは逃げ出せた。それでいいんだ」
「……それじゃ私たち、やっぱりひとをころしてしまったのね。地獄に落とされてしまうかもしれないのね」
泣き出しそうな声でマリーがつぶやきます。
「たとえ地獄に落ちたって、あれ以上の地獄は無いさ」
「地獄から逃げてきたのね、私たち」
「うん」
「……(うち)に帰りたい。父さんと母さんがいる家に」
「うん」
「父さんや母さんは、天国にいるかしら」
「きっと居るよ。そこで僕らを待ってる」
「地獄に行ったら、父さんや母さんにも会えないわね」
「そうだね」
「おうちに帰りたい……」
 いつしか、マリーは静かに寝息を立てて眠っていました。その頬には一筋の涙が流れていました。

 水車小屋に寝泊まりするうちに、生活は次第に豊かになっていきました。食べられるものと食べられないものが、だんだんと見分けられるようになってきたのです。太い草の根や柔らかい葉を集めて、煮詰めて食べることもありました。火を得てからというもの、マリーは次第に元気になっていったようでした。二人はここでずっと暮らしていこうとさえ思うようになりました。

 けれど、マリーはまたしても、ひどい熱を出してしまったのです。今度は前よりもずっとひどいものでした。熱は一晩たっても治らず、足は腫れ上がり、歩くこともできません。アンテはマリーのために、この居心地の良い水車小屋を後にして、医者を探す決心をしました。火口箱を胸に入れ、マリーを背負うと、川を下って行きました。誰か人が見えるまで、家や村が見えるまで、それだけを胸に抱いて歩き続けました。

8、見知らぬ街

 アンテはマリーを背負って、川沿いの道をひたすら歩き続けました。道は次第に広がり、車輪の跡も見つけられるようになりました。いつしかそこは馬車道になっていたのです。
(きっとこのまま行けば、どこかの村に着く)
そう信じる心がアンテの体を突き動かしていました。けれども、ついにアンテにも歩く力がなくなってしまいました。遠い道の先には、家々が並んでいるのが見えていましたが、アンテの足はそこから一歩も歩けなくなっていました。
「もうだめだ」
がくり、膝から崩れたかと思うと、マリーの身体と一緒に、地面に倒れこんでしまいました。

 夢の中で、アンテは湖の底にいました。遠くで雄鶏が鳴いています。すると、馬の足音が聞こえてきました。岸辺に誰か居るようです。声も聞こえましたが、音がくぐもって聞きとれません。すると次第に湖は浅くなり、水面がぐんぐん近づいていきました。日差しが目を貫き、あまりの眩しさに目を覆うと、黒い影がぬっと現れました。
「おい、少年よ、大丈夫か」
 目が覚めると、目の前には白髪頭の男がいました。
「気がついたようだな。その顔の怪我は大丈夫か?背負ってるこの娘さんは誰だね?」
アンテは口を開きかけて、ふと、自分たちはまた売り飛ばされてしまうのではないかという不安が湧き上がるのを感じました。けれど、体はちっとも動きません。声も、ただ力なく呻き声が漏れるだけでした。
「ううむ、だいぶ具合が悪いようだな。とにかくうちに来なさい。ここよりは休めるだろう」
(ああ、また攫われてしまう)
アンテは抱きかかえる老人の腕から逃げようともがきましたが、その実、指一本すら動かせないのでした。荷車に横たえられ、上着をかけてもらうと、再び眠りに落ちました。一緒にいたマリーは無事なのか、それすらももうわかりませんでした。


 目が覚めると、そこは何かの建物の中でした。気づくと自分の体は暖かい布団にくるまれ、そして部屋には美味しそうな匂いが漂っていました。誰かの家のようです。背中の丸いおじいさんとおばあさんが、せっせと何かの準備をしています。おばあさんのほうがこちらに振り返ると、にっこりと微笑みました。
「おやまあ、よかった。目が覚めたんだね」
おばあさんが駆け寄ると、アンテの体をぎゅうっと抱きしめました。
「おばあさん、あの、マリーは」
アンテはカラカラに乾いた声で尋ねます
「背負ってたお嬢ちゃんのほうだね。あの子はこっちだよ」
おじいさんのほうが、部屋の隅を指さしました。そこでは、ベッドの上に横たわるマリーの姿がありました。
「あの子は病気のようだね。それにあんたも顔の怪我がひどい。早く医者でも呼んでやればいいのだろうけど、なにしろ私達にはお金がないんだ。だからね、あとで街の教会に連れて行こうとおもっていてね」
「教会!」
アンテは叫びました。この老夫婦にまた売り飛ばされるのではと怯えていた気持ちが、一気に溶けていきました。
「教会!教会に!はやく!はやくマリーを連れて行って!」
「まあまてまて、わしらも連れて行こうと思ったんだがな、ここから教会までは遠い。少し腹ごしらえしてからでないと」
「ほら。これなら食べられるかしら」
おばあさんが、湯気の立ち上るスープ皿を差し出しました。塩の香りがお腹に染みわたるようです。アンテは皿を受け取ると、おそるおそる口をつけました。深い甘味が口の中いっぱいに広がります。何度もスプーンを口へ運ぶうちに、アンテはぽろぽろと泣き出してしまいました。
「おやまあ、こんなスープでそんなに泣くだなんて。よほどつらい目にあっていたのねえ」
「……おばあさん、ありがとうございます」
「いいのよ。それより、すこし休みなさいな。眠ったほうがいいよ。ずいぶん疲れているようだからね」
おばあさんのシワだらけの手が、アンテの頭をなでました。大人の手のひらの温もりを感じると、ふわりと身体が軽くなった気がして、アンテは眠りに落ちて行きました。

 次に目覚めたときには、マリーも起きていました。マリーもスープをもらい、お湯で体を拭かれ、髪を櫛で梳かれていました。アンテも体中すっかり綺麗に拭いてもらうと、なんだかとても元気になった気がしてきました。マリーは相変わらず病気で苦しそうでしたが、それでも、この巡り会えた幸運に、頬をほころばせていました。
「今日はもう遅い。教会に行くのは明日にしましょう。今日はよく食べて、よく寝ておきなさい」
 その晩、アンテとマリーは同じベッドで眠りました。床の上や野宿で生活していた二人にとって、ベッドの暖かさは心やすらぐものでした。

 翌朝、二人はたっぷりスープをごちそうになると、いよいよ教会へと向かいました。おじいさんたちも一緒です。荷馬車のなかで、おばあさんはずっとマリーを抱きしめていてくれました。
 教会の門をたたくと、神父様が現れました。
「どうしました」
「お医者を呼んでください。お願いです、すぐにです」
神父様はおばあさんの腕の中でぐったりとしているマリーの姿と、アンテの顔の火傷を見るなり、さっと顔色を変えました。
「いいでしょう。少々お待ちを。さあ、中へ入って」

9、手当

【書き途中】
神父様たちはアンテの顔を見るなり驚いたが、しかしそれこそが彼らが今までどんな目に合ってきたかを証明する動かぬ証拠であったため、教会の人々は二人を手厚く看病した。
教会でのつかの間の穏やかな生活の日々。アンテ人を殺めた罪を神父さまに打ち明けられず、心のなかに隠し持ったまま。神父様の優しい笑みに、素直になれないのだった。そんなアンテの様子を神父は不思議に思っていたが、虐待されていた過去があることを考えると、きっと大人を信じられなくなっているのかもしれない、と考え、無理な接触は取らないようにしていた。
教会に着いた頃には、マリーの病気は随分と悪化していた。神父様は急いで医者を呼び、シスターたちが日夜代わる代わる面倒を見た。
その甲斐あってか、マリーの病気はひと月ほどで快癒し、そしてやせ細り傷ついた身体も少しずつ癒えていった。
すっかりボロボロになっていたマリーの髪は、シスターが毎日朝晩優しく梳いてくれたお陰で、以前のようなきれいなおさげに戻っていた。

10、孤児院へ

【書き途中】

教会で医者を呼んでもらい、マリーの病気も治り、二人で元気に外で遊べるようになった頃、神父さまから「孤児院へゆかないか」という話が来る。



「どうだねアンテ、孤児院へ行ってみないか。そこなら、働けるし食事も出る。同い年くらいの友達もたくさんできるだろう」
「マリーもどうかしら」
神父様とシスターが、にこにこと微笑んで尋ねます。
「孤児院って…..どんなところなんですか?」

地下室の天使

ちょっとずつ書いていきます

地下室の天使

19世紀フランスを舞台に描かれる、4人の少年少女たちの数奇な運命。待ち受ける困難に彼らはどう立ち向かっていくのか。児童小説風冒険活劇。【連載中】

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 冒険
  • 時代・歴史
  • 青年向け
更新日
登録日
2014-04-03

CC BY
原著作者の表示の条件で、作品の改変や二次創作などの自由な利用を許可します。

CC BY
  1. はじまり
  2. 1、兄と妹
  3. 2、悲劇
  4. 3、越冬
  5. 4、意地悪なカルロス
  6. 5、火傷
  7. 6、脱走
  8. 7、放浪の旅
  9. 8、見知らぬ街
  10. 9、手当
  11. 10、孤児院へ