草鞋

熊本県下幾百にも及ぶ湧水・名水地、それらを源流とする渓流地には、阿蘇山の噴火活動により流れ出た岩漿(ガンショウ=マグマ)により形成された溶結凝灰岩の柱状節理がよく見られる

噴火活動で地表に流れ出た岩漿は草原や森林をも焼き尽くし、風雨に晒される事で徐々に熱を奪われ固結し火山岩となる

冷え固まった溶岩台地には、風に舞う草花の種や野鳥が運んできた樹木の種子が、太陽と水の力を借りて発芽し根を張り再び草木が育ち始め…

そこから長い年月をかけ再び森林となる


雨水の主張は岩漿を冷やすに留まらず、降り積もる腐葉土を洗い流し溶岩台地を部分的に露わにする

そこに溶結凝灰岩の柱状節理が現れるのだが、その形状は種々様々で灘らかな斜面もあれば切り立つ断崖絶壁もある

ー誕生ー


ある日のこと天地を揺るがす程の雷鳴が轟き、幾筋もの稲妻が空を切り裂いた

その一つが断崖絶壁の頂きめがけて駆け下りると、大音響と共に柱状節理をざっくりと大きく砕いた

砕かれた溶結凝灰岩は四方八方に飛び散り、あるものは地割れを起こす激しさで大地に突き刺さり、またあるものは海を真っ二つに割る勢いで海底に叩き着けられた

しかしそれは、飛び散る岩石の大きさに寄るものであり、小さな岩石には優しく草原を駆け下りるものもあった

四方八方に飛び散った大小さまざまな岩石には、不思議な事にある共通した現象が起きていた

それはまるで生き物の鼓動の様に、ゆっくりとした間隔で内側から赤々と強弱のある光を放っていたのだ

飛び散った岩石は秘めた力を制御し切れずに、真紅の光を結晶粒界の隙間から噴出させると、荒々しい脈動と共に周りの空気や水や大地を震撼させた

それも月日の経過とともに次第に弱まり間隔も疎らになると、やがては発光することのないただの岩石となった


ー醒覚ー


どれ位の年月が流れたのだろう、溶岩台地に蘇った森林は豊富な水を蓄え夜霧の面紗で自らを覆い隠していた

鋒鋭い朝の光は部分的に夜霧を切り裂き、青葉に朝の訪れを知らせる

それに応えるように煌めく青葉たち

木漏れ日を浴びた青葉から滴り落ちた樹雨は、自らの根元を潤すに飽き足らず、枝葉の傘下にあるものすべてを潤した

そんなひと雫の樹雨が小石の背中をぽつりと叩いた


樹雨は更にぽつりぽつりと小石の背中を叩く


『ドクッ…』


小さな脈動が、周りの草葉を聳動させる


「ドクン!」


一拍目よりやや強い鼓動を中心にして、周りの草葉に波紋が広がる

小石にはまだ結晶粒界は見られないが、内側から仄かに赤く光り始めていた


ー旅立ちー


樹木に降りかかる翠雨は大粒の雫となり、瑞々しい青葉から滴り落ちる

ひとつの樹木から滴り落ちた雫は、根元を潤したあと更なる行き場を探し求め、同じ志を持つ雫同士が互いに結びつきひとつの流れを産み出す

翠雨の集まりは澤と呼ばれ、幾筋もの澤が集まり源流となる


一筋の澤が、弱々しくも鼓動を始めた小石に遮られ、敢え無く迂回する

行く手を遮られて快く思わない澤が、堪り兼ね口を開く

「邪魔な小石だねぇ
赤い顔してさぁ…

チッ…直ぐに冷たい石にしてくれるわ!」

僅かづつしか迂回する事が出来ずに半ば堰き止められていた澤が、蓄えていた力で小石を押し流し始めた

澤の流れに逆らい踏ん張る小石も、膨らんで行く澤の力に圧されズズッ…と足元を掬われ転がされてしまう

懸命に踏ん張っていた小石も一旦転んでしまえば為す術がなく、源流の流れに沿うように転がり続ける


ー出会いー


と、突然、源流は柱状節理の上から小石を突き落とした

ガツン ゴツンと六度も岩に叩きつけられ、七度目を覚悟し身構えた小石は肩透かしを喰らい、そのまま水の中へと沈み行く

何処とも知れぬ水の底へと沈み行く小石は、元居た場所を振り返るように見上げた

最初に目に飛び込んできた水飛沫と無数の泡のその先には、垂直に切り立つ柱状節理が扇状に聳え立っていた

それは古代劇場を連想させ、水飛沫と大小の泡粒が観客の歓声と拍手を思わせた

それはまた、源流に転がされ、慌てふためき乍ら七つの滝を転がり落ちて来た小石に手向けられたようでもあった

水中に沈む事で次第に遠退いて行く喝采と、背中から伝わるゴツゴツとした感触に水底へ着いたと教えられた小石は、転がる事をやめ瞬時にそこが滝壺でると悟った

樹雨に目覚め弱々しくも鼓動を始めた小石だが、澤の思惑通りに冷たい滝壺の底で内部の赤みも薄れてかけ、潔く瞑りに着こうとした

その時、小石の目に楽しそうに沈んでくる人影が映った


『何がそんなに楽しいの?』


「七つの滝を滑り降りるスリルが楽しいのよ小石さん」


おかっぱ頭の浴衣を着た十代そこそこの少女が和やかに話す


『小石さん?
私は小石なのか』


「そうよ、赤い顔をした小石さん」


柱状節理の一部として頂きから自然の営みを見ていたのが私のはずだが…


『小石とは、河原の小石みたいなものなのか?』


問い掛ける私を尻目に、少女は滝を駆け登って行く

確かに駆け登っているのだが何かが違う

ガニ股とか内股とかそんな脚運びの類ではなく

かと云って、言い表すには適切な言葉が見つからない…

きっと水の中から見ているからそう感じるのだと結論付けて自分で自分を納得させた


「ほらー!見てみて!」


私の疑問をよそに、少女は滝滑りを繰り返す

一頻り遊ぶと、私の元へ沈んできた少女は此処で何をしているのかと聞いた

私は、これ迄の経緯を話して聞かせた


「まだ終わりじゃないよ」

『なに?』


声を発する私の頭上に少女の手が近付き、ひょいと持ち上げると滝壺から出してくれた


「あ、河原の小石だっけ

河原の小石にも目や耳はあると思うわ

でも、喋る小石と出会ったのは小石さんが初めてよ」


少女はそう云いながら私を滝壺から溢れる流れの中に放してくれた


『ありがとう』

「お礼なんて…

それより、これからどうするの?」


これからは小石として流されるままに旅をするさと嘯いてみせた


「旅かぁ、何だか楽しそうね

私も一緒に旅したい

ね、いいでしょ?」

『家に帰らないと親が心配するよ』

「そんなの居ないもん…」


私は、彼女が嘘をついていると思った

だが別に問いただす理由もなく、年端もいかぬ子どものことだから直ぐに飽きて家に帰るだろうと思い、一緒に旅をする事にした


「私の名前は[おちゃ]
お茶目なおちゃ

よろしくね!」

膝丈の浴衣に草鞋姿のまま川の中をジャブジャブ歩く不思議な少女おちゃ


『こちらこそ宜しく

私の名前は…

私は…

私の名前…』


そうか、私には名前が無いんだ…


ー玉虫御前ー


「名前?

おっちゃんにしたら?

おちゃとおっちゃん、似てるし」


子どもとは呑気なものだ

しかし、元々無かった私の名前、おちゃの名付けならそれも有りかと苦笑いを浮かべた


安定した川の流れに身を任せての旅は、代わり映えのしない景色の繰り返しであり、些か退屈を覚え始めていた

そんな私たちの目前に月明かりに照らされた小舟が川面を滑り現れた

舳先には、川面を仄かに照らす小さな小さな行燈(あんどん)をつけた小舟

櫂捌きに慣れた様子の船頭、船縁には肩を寄せ合い俯く幾人かの女の後ろ姿が見て取れた

その中のひとり、顔を隠すかの様に常盤笠を被る女をそれとなく見ていると、ハラリと布が翻った

覗いた顔に私は思わず声を漏らした


『美しい…』


その美貌に私は堪らず声を掛けた


『名は何と?』

「玉虫…」


常盤笠の女は舟の舳先に波立つ川面に向かい、仄かな行燈の光のような小声で呟いた


『玉虫?

玉虫御前は鬼山と名を改め椎原(しいばる)にてひっそりと暮らしていると聞くが…』

「あれは私の影に御座います

私はこれから里に帰り、尼となって平家一門の菩提を弔います

あの日、屋島の海で舳先に立つ私は、那須与一に扇を射抜かれました

死を賭し乍らも負け戦に生き延びてしまった私…

どうぞこのまま行かせて下さいまし」


ー風神ー


常盤笠の女に気遣う様に力を入れて櫂を漕ぐ船頭


その時、小舟の行く手を阻むかのように強い向かい風が吹いた


「ひっひっひっ…」


風の中に女の薄ら笑いが私の耳に木霊した


『おちゃ!
聞こえたか?』


返事をしないおちゃ、私はおちゃを振り返った

おちゃの目は、吹き付ける風の真ん中辺りを睨み付けていた


『おちゃ?』

「チッ…水越村の風神…」

『え?風神?』


風は更に強く小舟に吹き付け、じわじわと押し戻され始めた

渾身の力を込めて櫂を操る船頭


「やめろー!」


天地を揺るがす大声の主はおちゃだった

おちゃは、風の前に立ちはだかり小舟を守ろうとしていた

おちゃの声は空気を痺れさせ、川の流れを止めた


「うぬぬ…生娘がぁ…」


唸るような声と共に風神がその姿を表した


「お前も生娘ではないか!」

おちゃが叫ぶ


水の中から様子を伺う私の目には…風神は普通の女に見えた

特に若くもないが、何処にでも居るような女に見えたのだが…


「化け物め、成敗してくれる!」


いつの間に常盤笠を脱いだのか、舳先に立つ玉虫御前が叫ぶ


「危ないから下がっていて」


おちゃが玉虫御前を制する


「私を化け物扱いしたな玉虫、生かしておけぬわ!」


荒れ狂う風神は、先にも増して猛烈な風を起こした


「私は憎い!

美しい女が憎い!

玉虫!

美しすぎるお前が憎いのだ!」


ただそれだけなのか…

人は、ただそれだけの理由で憎しみの感情が生まれるのか…


風神の怒りは頂点に達し、もう誰にも止める事が出来そうにない

固唾を呑んで見守ると風神の背後に暗い闇が広がり、音も無く近づいたかと思えば一瞬にして風神を呑み込んだ

それと同時に凄まじい水飛沫が辺り一面を覆った

その勢いで小舟は危うく転覆しそうになる

だが、船頭の巧みな櫂裁きで難を逃れた

程なくして波が収まり、白い塊が川面に浮かんだ


ー白鯰ー


「久しぶりだね、若宮神社の白鯰さん」


おちゃが白い塊に近付き乍ら話し掛ける


『若宮神社の白鯰?

風神を食べてしまったのか?』

「大丈夫、そんな事しないよ白鯰さんは

ね、白鯰さん」

余程親しいとみえて、白鯰は和やかにおちゃの傍でぷかぷか浮かんでいる


「随分前に大水がでた時、若宮神社の御神体が社殿ごと流されたの

白鯰さんは大洪水の中御神体を追いかけて、下流の緑川の手前で追いつくと、社殿ごと呑み込んで戻って来たのよね」


白鯰は、ただ和やかに聞いているだけだった

我に帰った玉虫御前、軽く会釈をして通り過ぎようとした時、白鯰が口を開いた


「風神を悪く思わんで下され

風神は水越川の風神鍾乳洞の守り神なのじゃ

本来気の優しい奴なんだが、作神に振られてからと云うもの、振られたのは自分の顔が醜いからだと思い込んでなぁ…

最初は風神鍾乳洞の祠にお参りに来た者が、女だったら強風を吹き付ける程度の悪さだったのが、水越村の田畑に強風が吹き付けるようになってな

そんな理由で風神鍾乳洞が女人禁制の地となってからと云うもの、悪さをする大義名分がなくなり緑川やこちらの川にまで悪さをしに来るようになったんじゃ

ただ、今まで一度も生娘には悪さをした事が無い

話では、玉虫御前は出家なさるご様子

風神とて尼には悪さをしますまい

安心して菩提を弔われますように…」


『有り難き事…』


言葉少なに玉虫御前を乗せた小舟は過ぎて行った


「ねえ白鯰さん、呑み込んだ風神をどうするの?」


それは私も気になっていたのだが、おちゃが先に聞いたので私は聞き耳を立て白鯰の顔を見た


「この川を下って緑川に入り、上流にある水越川の風神鍾乳洞に連れて行くさ

風神は元々水の精、水越川はこの川の支流ではないから、大水でも出なければ此方の川に現れる事も無いじゃろうて

では、行くとするかな」

白鯰は巨体をくねらせ乍ら下流へと泳ぎ始めた


『私たちも進もうか…』

私は白鯰を見送るおちゃに声をかけ、川の流れに身を委ねた


ー御船の地ー


いつしか同行者となったおちゃと私は、右岸と左岸に平野部を持つ河原に着いた

最初に目に飛び込んできた右岸の鳥居に、此処が若宮神社だとおちゃが教えてくれた

自然の営みは平等な広さを与えようとはせず、右岸には広大な平野部が広がり、左岸の狭い平野部には山麓が迫っていた

左岸の民は、灌漑のため山麓に横穴を掘り農業用水を確保し、右岸の民はこの川とは別の矢形川から用水路を引いて、網の目の様に張り巡らしていた

その恩恵を受け、どちらの平野部も絨毯を広げた様な緑に包まれていた


平野部を二分するこの川は、いずれの平野部の灌漑にも利用されてはいなかった

何故なら神の川だからだと、これまたおちゃが教えてくれた

おちゃの話を要約すると…

第十二代天皇 景行天皇(日本武尊の父)が九州平定の御巡幸の際、御船(おんふね)がこの川の川岸に着岸したことに由来するそうで

それ以来その地を御船と呼び、平野部を二分する川を御船川と呼んで、民は川と平野の与える恵みに感謝したそうだ

御船川は自然豊かな川で、鰻や鯉や鮒はもとより鯏(うぐい)や鮎、それにカマツカやヨシノボリが川底を埋め尽くすように泳いでいた

浅瀬の岩場には藻屑蟹や沢蟹が見え隠れし、子どもたちの興味を引いて離さない

御船川は、慈雨を集めて流れる清らかな川だった


左岸と右岸の民は、それぞれに豊かだった

通貨が無かった時代、物々交換のために行き来するには、渡し舟を用いた

天候の影響を受け易い渡し舟、民は利便性を求め木製の橋を架けた

だがそれも、時折荒れ狂う濁流に押し流された

民は、その度毎に木製の橋を架けたのだが自然の厳しさには敵わなかったそうだ…


ー別れー


緩やかな川の流れに漂い乍らいると、みるみるうちに水嵩が増して来た

上流の山々に目を遣ると黒々とした雨雲が辺りを薄暗くしていた


「私、行かなきゃ…」

『何処へ?』


答える間も無くおちゃは駆け出し、降り出した雨の中へ吸い込まれるように消えて行った

可愛らしい草鞋を残したままで…


ひとり残された私は旅立つ気にも成れず、御船川の河原に佇み夏を迎えた

河原は子どもたちの歓喜の声で溢れた

私は何処かで聞いた事のある声に耳を澄ました


『…ん!』


私は何度も何度も耳を澄ましてその声を聞き、記憶の中にある声に重ねた


『おちゃ?

間違いない、おちゃの声だ!』


私は河原で遊ぶ子どもたちの中におちゃを探した

その中に、おかっぱ頭の膝丈の浴衣をきた少女を見つけた


『おちゃ!
私だ!小石のおっちゃんだ!』


私は精一杯に声を張り上げた

だが、おちゃは気付かない


『私の事など忘れてしまったのだろうか…』


私はもう一度叫んでみた

だが、一向に気付く気配はない

それどころか、精一杯の声で叫んでいるのに誰ひとりとして私の方を振り向く者がいない


もしかしたら、わたしの声は子どもたちの耳に聞こえていないのではないだろうか…

それに、よく見るとおちゃの様子が少し違う

あんなに元気にはしゃいでいたおちゃが、杖をついて歩いているではないか

他の子どもたちの陰になってよく分からなかったのだが、杖をついたおちゃの片脚は膝下から無かった…


きっと、何かで怪我をしたショックで、私との思い出がすべて消えてしまったのだと勝手に結論付けた

そうしているうちに、子どもたちは家に帰って行った


夏も終わりに近付き台風の時期になり、長雨のせいであちこちの橋が流失した

右岸の矢形川も水位が増し、北木倉集落の落合橋も流されてしまった


それから数年後の秋の夕暮れ、鮎やなで落ち鮎捕りに来て居た漁師の話し声が聞こえてきた


「北木倉の落合橋、また流されたんだってよ」

「あの橋は何度架けても流されるから、次は人柱を立てるそうだ」

「人柱?人柱を立てると流されないと聞くが、なり手がいないだろそんなもん」

「いや、自分から名乗りを上げた者がいるそうだ」

「名乗りを上げた?誰だよ」

「此処だけの話、おちゃが名乗りを上げたらしい…」



私は耳を疑った、嘘だと叫び乍ら北木倉まで飛んで行きたかった

だが私にはどうする事も出来なかった

おちゃに許してくれと願う事しか出来ない自分が情け無く…

ただ情け無くて情け無くて、ただ情け無かった…


もうどうでもよかった

こんな不自由なカラダならば、いっそ目も耳も口も無くなってしまえと願った

自分に都合のいい願いなど叶うはずもないと知り乍ら…


ー楔ー


目を瞑り耳を塞ぎ、川底で息を潜めていた私に異変が起きたのは、江戸時代(1848年)のことである

士農工商と云う兵農分離の時代、姓を受け帯刀を許された石工 橋本勘五郎が現れ、御船川に石橋を架けると言い出した

石工集団と民は力を合わせ、やっとの思いで完成間近に漕ぎ着けた

石橋の欄干の要の楔(くさび)を打ち込もうとしたその時、手を滑らせて楔を川に落としてしまった

その楔は私のすぐ側に落ちてきて、慌てて拾いに来た石工は何を勘違いしたのか私を拾い上げ橋上へと駆け上がった

思えば私はこの長旅で、カラダのあちらこちらが削られ楔状になっていたようだ

こうして私は楔と云う第二の名前を与えられ、石橋の要として見晴らしのいい欄干に打ち込まれたのだ

完成した二連の石橋を水面に写した姿は、まるでロイド眼鏡のようで、民は御船の眼鏡橋と呼び親しんだ

民は石工に感謝した

だが、御船の民はなかなか目鑑橋を渡ろうとはしなかった

神の川の上を歩く事に逡巡したのだ

民は考えた、そうして神の川の水で御神酒を造る事にした

目鑑橋の少し下流に堰を作り、左岸に取水口を設けた

秋、黄金色に輝く稲穂を刈り取ると、それを酒米にして左岸に建てた醸造所にて麹・酵母を加え御神酒を醸造した

民は、御神酒の名を[じょうくん]と名付け橋脚に祀った


神からの恵みに感謝を忘れない御船の民

私は此処を終の住処と決めたのだった


ー再会ー


ある秋の初めの事、台風の影響で川の上流が集中豪雨に見舞われた

川の水位はみるみる膨れ上がり、両岸の民は土嚢を積み上げ氾濫に備えた

目鑑橋は二連石橋、ゆえに川の中に橋脚がある構造だ

橋脚は上流部に向かい船首の様な流線形をしている

普段の増水ならば橋脚が水を切り裂くのだが、今回の水位は違っていて橋脚上部の平らな面を殴り続けた

楔として、終の住処と安堵した私もこの時ばかりは崩壊を予見した

夜になり辺りは闇に包まれ、轟々と唸る濁流の音だけがおどろおどろしく響いてた


「こんばんは」


年端のいかぬおかっぱ頭の少女がひとり、橋の上から濁流を眺め乍ら語り掛けてきた

私は古い記憶の扉を開くまでも無く、声を掛けてきた少女がおちゃであると瞬時に判った

だが、あの夏の河原での出来事や人柱となった事や、それ以前の思い出が頭の中で渦をなし、いったい何と返事をしたらいいのか分からずに、突拍子もない言葉が口を吐いてでた


『橋の上に居たら危ないよ、ましてやこんな夜中に…』


何も言わず黙ったまま和やかに此方を見ている少女に、今度は質問をしてみた


『名前は?どこの子だい?』


「私はおちゃ、北木倉のおちゃ

でも…


でも今は、おっちゃんと旅をしていた方のおちゃだよ」


『本当にあのおちゃなのか?

私が分かるのか?
私の声が聞こえるのか?

もう何十年も会ってないのに、ちっとも変わんないなぁ

そう云えば、一度河原で見掛けたんだぞ!

そうだ!脚は?

…』

「おっちゃん、今はそんな事より暴れ水を何とかしなきゃ!」

おちゃは目鑑橋の欄干に登ると一心に祈りを捧げた

すると、橋脚上部の平らな面を叩いていた濁流が少しずつ引いていき、船の舳先のような橋脚が現れた

すかさず欄干から橋脚に飛び降りたおちゃは、濁流に手を翳し続ける

激しい水飛沫と流れ来る流木に叩かれた私は視力を失い、一部始終を見届ける事が出来なかった

翌朝、雨も止み水嵩の引いた御船川は、普段と変わらない目鑑橋を水鏡に写していた

誰にも気づかれず、一心に祈りを捧げたおちゃの姿も、そこにはなかった

あるのは、橋脚の船首のような部分に残された小さく可愛い草鞋だった

昨晩ふらりと現れたおちゃは、再び姿を消してしまった…

一夜限りに現れたおちゃは、濁流に呑み込まれそうな私を守るために来てくれたのだろうか

ならば何故、一夜限りなのか

諦めきれぬ思いと一夜限りにせよ現れてくれた事に感謝し乍ら、橋上を往来する人々におちゃの面影を辿った


ー異変ー


完成から百年以上が過ぎたある日の事、私は川の水位が減っている事に気付いた

上流部に水力発電所が二機造られ七滝の水は干上がり、苔ひとつ生えない枯山水のようだと、遡上を諦めた鮎の群れが口々に語り川を下って行った

それは民の為ではなく、数百キロも離れた水俣湾の化学肥料工場まで、鉄塔を建て電線で結ばれているのだと、渡り鳥が教えてくれた

程なくして、御神酒を造っていた工場も水質の悪化を理由に廃業してしまい、川遊びする子どもの姿も見かけなくなり、魚釣りするにも魚が居ない川となっていた

私は楔、石の楔、ひとりでは何も出来ないただの石ころ…


ー崩落ー


昭和63年(1988年)5月3日、気象庁はこの日の雨を歴史的な集中豪雨と後日発表した

確かに前日までは雲の少ない晴天で、最高気温は29度を超えていた

当日は、朝から曇り空で昼からは雷雨となった


百四十年も橋の頂点に居続ける私がそうであるように、地元の行政機関も消防団も目鑑橋が流失するなどとはまったく考えていなかった

その日の午後7時頃、目鑑橋の橋下を突風が吹き抜けると、懐かしい声がした


「なぁーんだ、此処に居たの」


声の主は風神だった


『何しに来たんだ?

まさか、今だに玉虫御前を狙っているのか?』

「ふっ…玉虫なら既に息絶えたわ」

『お前が殺ったのか!』

「まさか、あれから何年経ったと思ってるの?

人間には寿命があるのよ

尼さんにもね…

彼女、滝尾村の玉虫地区の出身なの…

あの後、郷里に着くと直ぐさまお寺を建てたのよ

玉虫寺と云ってね、今でも檀家さんが大切に護っているわ」

『そうか…なら良いんだが…

それよりお前、おちゃを知らないか?』

「知ってますとも、今も昔も」

『今も?なら聞くが今何処にいるんだおちゃは!』

「さあね…」

『今も知ってますと云ったじゃないか!』

「それよりあなた、おちゃの事どれだけ知ってるの?」


私は返事に窮した、あれだけ一緒に居ながら家も親も何も知らないのだ

『知らない…

あ、随分前に河原で見かけた事がある

杖をついて、片脚だった…』

「あぁ、生きてた頃のおちゃの事ね

いいわ、私が少しだけ教えてあげるわ」


私は、今さら聞いたところでどうにもならないと思いつつも、コクリと頷き風神の話しに聞き耳を立てた


「そうねぇ…何から話そうかしら…

おちゃは、北木倉のお百姓さんの一人娘

一歳になるかならない位の時に、脱穀機に脚を挟まれたの

やっとよちよち歩きを始めた頃ね、動く物に興味を持って近付いてフラついて…

それからはずっと杖をついて歩いていたわ

そう、あなたが河原で見かけたおちゃがその頃のおちゃ

その年に大水が出たの

おちゃは、病気で床に臥せっていた母親の薬を貰いに右岸の集落に出掛けていて、昼から物凄い雷雨になり慌てて薬屋から飛び出したの

でも、杖をついてだから思うに任せずいたら、薬屋のご主人が追いかけて来て、雨が止むまで薬屋に居るように進めたのよ

おちゃは、一刻も早く母親に薬を飲ませたい一心から、それを断って歩き始めた

薬屋のご主人は、矢形川の水が溢れたら危ないからと、城山を越えて帰るように口添えをしてた…

おちゃは、洪水の怖さを知っていたから素直に城山を越えて帰ろうと山道を登って…やっと頂上に辿り着いて木倉辺りを見たら矢形川が氾濫していたの…

それを見たおちゃは、慌てて城山を降りようとしたんだけど、避難していた集落の人達に止められてた…

大方、水が引いて、それでも急いで家に帰るとそこには何も無かったの…

家も母親も…父親は、おちゃを心配して迎えに行く途中、落合橋と一緒に流されたそう…

運の悪さはそれでは終わらず、城山から急いで降りる時に脚を怪我していたらしく

その傷口から黴菌が入って、脚を取るか命を取るかって話しになっちゃってさ…


それでもおちゃは、和やかだった

歩けないから何にも出来ないんだけど、木倉の人たちはそんなおちゃが好きで、みんなで世話をしてあげてたわ


おちゃは恩返しをしたかったんじゃないかな…

だから、人柱になるなんて言い出したのよ

賛成する人は誰もいなかったけど、反対する人も現れなかった…

人柱に立つその日も和やかに笑ってたおちゃ…



不運続きのおちゃ…八百万の神を束ねる大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ)は、おちゃを神の化身として尊び水を神格化した水神に祀り上げた

そしておちゃは命と引き換えに水神(水の精)に成ったの

ほら、七滝でおちゃに初めて会った日のこと覚えてる?

おちゃはね、本当の歩き方を知らないのよ…」


『水神?白鯰はお前が元水神だと云っていたが…』

「そう、おちゃが水神になったから私は風神になったのよ」

『そうか…私と旅をしたおちゃは、水の精だったのか…

だとしたら、何故おちゃは此処にいないんだ

そうだろ?風神』

「うーん…私たち風の精や水の精は、人々に信じられる事が活力になるの

最後におちゃと会った日のこと覚えてる?

多分、あれが最後のおちゃのチカラなんだと思うわ」

『どんな根拠で、そう思うんだ?』

「あなたはずっと此処にいて知らないと思うけど、矢形川の上流にダムが出来たのよ

治水・灌漑を目的とした天君(あまぎみ)ダム

早い話が、矢形川が氾濫しないのも落合橋が流失しないのも、おちゃが人柱として立ってくれたから…

それが、ダムのお陰だと人々の意識が変わってしまったのよね

おちゃがこの橋を、あなたを守り切ってから、おちゃの気が感じられなくなったの…」

『もういい…』

「え?」

『もう話さなくていいと云っているんだ…

おちゃのこと、いろいろ教えてくれてありがとう風神

最後にもう一つだけ、頼みを聞いてくれないか…』

「別に良いけど、どんな頼み?

一緒に旅をしろ、何てのはダメよ」

『なぁに簡単な事さ、私をこの穴から出して欲しいんだ』

「まさか!そんな事したら濁流に呑み込まれてしまうわ」

『いいんだよ…いいんだそれで…

濁流がおさまる前に、ひと思いに此処から引き抜いて欲しい…

さぁ、時間が無いんだ…』


風神は暫く考えた

さんざん悪さをして来た風神だが、自分から窮地に立たされる事を望む者とは出会った事が無い…

いや、ひとり居た

おちゃだ!


「いいわ、望みを叶えてあげる

心の準備は出来てる?

さぁ、いくわよ」


風神は渾身の力を込めて楔に風を当てた

ズズッ…

少しづつ楔は抜け始めた

ズズッ…スルスルー

打ち込まれた穴から完全に抜け出した楔は暫く空中に浮かび、結晶粒界の隙間から赤々とした光を放っていた


『ありがとう…風神』


一言そう告げると、渦巻く濁流の真っ只中に身を投じた


薄れゆく意識の中で短過ぎたおちゃとの日々が、走馬灯のように駆け巡った


石橋にとって要の楔が抜け落ちた目鑑橋は、轟々と唸りをあげて迫り来る濁流と無数の流木に叩かれ、橋脚の石積みがひとつまたひとつと欠落してゆき

ついには崩れ落ちてしまった

巨大な石橋の崩落と云えば、天地を揺るがす地響きと大音響を連想しがちだが、重たい石でも水の中では石の体積分の水の重さだけ軽くなる上、濁流の流速に運ばれて分散するため地響きも大音響もし難い

時折、石どうしのぶつかり合う音がゴツゴツ聞こえる程度である


よって、呆気ないほど静かな崩壊だった


ー永眠ー


私は何処へ流されたのだろう…

おちゃが消えてからと云うもの心に染み入るものは何も無く、楔らしく浅瀬の川底に突き立った状態で、眠っているのか起きているのか自分でも判らない程に憔悴し、ただボンヤリと空ばかりを眺めていた

そこは、ごく普通に流れて来る空き缶やペットボトルに小突かれる以外は静かな場所だった

極端に遅い流速の澱んだ川の水は確かに臭い

確かに臭いのだが、それは嗅覚が麻痺する迄の我慢でしかなく、すぐにどうにでもよくなるもなのだ

ただ、ナフサとやらで拵えた白い袋だけは未だ慣れる事が出来ずにいる

白い袋の大きな穴の空いている部分が引っ掛かり水を孕んで引っ張られると、首を締め上げられているようで非常に気分が悪い

所詮、何処に行っても不平不満は付き纏うと云う事か…


ボヤいてばかりいたって好転は望めそうに無い

そろそろ口を噤むとするか…


その頃、水越村から山々の木々を揺らしながら風神が空を翔け、目鑑橋の上空を旋回していた

脆くも崩れ去った目鑑橋にため息をつき、楔の行方を探しているようだった


「自然界に於いて人力とは、何と非力なのだろう…」


知った風な口上を呟き乍ら、流量の少ない御船川をなぞる様に滑空する


「ふっ…此処にいたのかぃ 探したよ

しかし、落ちた所から然程移動していないじゃないか

ドジだねぇ…


ねぇ、聞こえないのかい?

小石のおっちゃん!」


楔は、微動だにしない

澱んだ川の水のせいで精魂尽き果てたのだろうと思った風神は、水越村の鍾乳洞の清らかな水に楔を浸してやろうと考えた


「おっちゃん待ってな

私が水越村まで吹き飛ばしてやるよ」


風神は、御船川の下流側に回り込むと精一杯の風で吹き飛ばそうとした


「ん…あれは?


おちゃ、あんたにゃ負けたよ…」


そう呟くと、風神は天高く舞い上がった

口を噤み目を閉じ耳を塞いだ楔は、川底に突き立ったまま深い眠りの底にいた

その楔をよく見ると、紐状のものが寄り添う様に絡み付いていた

その紐の先には…


そう、おちゃの草鞋が澱んだ川面に揺れていた


意想外に、川面にぽつりぽつりと大粒の雨が降り出した

大粒の雨は、澱んだ川に落ちると、少しづつ、ホンの少しづつ清らかな水に変えて行く

晴天の慈雨に空を見上げると風神が舞っていた

水の精の頃から一度も涙を見せた事が無かった風神は泣いていたのだ

目鑑橋のあった場所に達した風神は幾重にも円を描き、やがて水越村へと空を翔けて行った


青空の下、目鑑橋の流失した場所に降る涙雨は二連の虹の橋を架けた

草鞋

フィクションですが、実在の地名や言い伝えを交えて書いてみました

草鞋

時の流れ(文明)を、旅する河原の小石目線で描いてみました

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更新日
登録日
2011-11-24

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