メガネ
「メガネ」
裸眼で視る世界は少しだけぼやけて見える。全てが見えないという事に人間は恐ろしい程の恐怖心を持つものだ。遠くの信号、黒板。周りで起こっている小さな事。友人の本当の心や自分に対する評価。そうしたものが見えないと不安で堪らなくなる。
だから私はメガネをかけるのだ。目の前にある何かを頑張って見ようと硝子を通して世界を眺める。そこにあるのはきっと裸眼で見るよりもずっとずっと聡明に見える世界。何処に何があるのかも見えるし誰かが笑っているか泣いているかも解る。
それが良いことなのか悪いことなのかは解らない。
だって見えてしまうのだ。このメガネをかけると私を嫌っている友人が。私が世界のどん底に存在している事が。
まだ真新しい制服を纏う私の姿は酷く幼い。「その制服凄く似合ってるね」と無邪気な声で告げる友達の目が笑っていないことに気付いても私は何も言わなかった。確かに大人らしくはなった。背も大きくなって胸は膨らんだ。でもこの心は幼少期のあどけない少女とあまり変わっていないように感じる。
メガネをかけたせいで周りが私をどう思っているのか解るようになってしまうと自分がどんなに我が儘に人生を歩んで来たのかを痛感した。けれどもそれが解った所で私にはどうする術も無いのだ。
メガネを外す。今まで聡明に見えていた世界は途端に色を失ったように強調されるものが無くなった。
私を嘲笑っていた友人の笑みはぼやけて、ただの優しい少女にしか見えなくなった。その事に何処と無くホッとしてしまう。そうだ。彼女は私を嫌ってなんかない。メガネが見せている世界がきっと幻なんだ。
「メガネ、外した方が良いかな?」
私が問い掛けると彼女は「絶対にそっちの方が似合うよ」と笑いながら言った。本当かどうかは解らない。でもきっと本当だろう。見たいように見る。それの何がいけないのだろう。
現実を見つめる事は確かに大事かもしれない。でもずっと見ていたら気がどうにかなってしまいそうだ。私は彼女の目が、怖い。正確には彼女の目に映る自分の姿を見ると嫌になってしまうのだ。
彼女にどう思われてるのか。嫌われてないだろうか。そればかりを気にしている私の姿が一番嫌いだった。
「メガネ止めてコンタクトにしたら?」
コンタクト。口の中で復唱してからそれは嫌だ、と華奢な首を力なく振る。だってコンタクトは一度つけたらなかなか外せないじゃないか。
それに私は案外気に入ってるのだ。コイツを。
メガネは見せる。私に真実を。けれど弱々しい瞳には強すぎる闇を見せ過ぎないように直ぐに外すことが出来るのだ。それが私には丁度良かった。
人間は全てを見ようとする癖に見たものが悪いものだと掌を返したように「見なければ良かった」と喚く。なら最初から見なければ良いのに、なんて理論は好奇心の前では無能。どうしても、それが自分を傷付けると知っていても見てしまうのだ。
だから人はメガネをかける。メガネをかけて見えないものを見ようとする。人の感情を知ろうとする。
でも、と私は思う。見えないものを見ようとするより自分の力で見えるものの方がよっぽど価値がある、と。この世界はきっと幻なんかじゃない。
私はまたメガネをかけると、硝子越しに映った彼女の目は今度は笑っていた。楽しそうに、嬉しそうに。私の事を見つめながら。
ほら、自分の力で見えるものを見ていなきゃ見えないものを見えるはずがない。
だって彼女は本当はちゃんと笑ってたのだから。
メガネ