霧のワインディングロード
人生の折り返し点を過ぎた男女の友情。
色気を伴わない関係を何十年も続けてきた二人は、今宵も山小屋で二人きりで語り合って過ごす。
年月が酒を成熟させるように、二人の関係も成熟する。
指一本触れずに 何十年も付き合ってきた二人。
人生を霧の中のワインディングロードに例えれば、二人の交差する十字路とは?
二人の人生の味わいを感じてみてください。
高速を降りてしばらく走り、緩い左カーブを周ると、いつもの目印の時計台の姿が見えてくる。その時計が示す時刻を確認して、僕はほっと息を吐く。この時計が見えればもう目的地はまもなくだ。
時計台と僕らは呼んでいるが、それは地元の中学校の三階建ての校舎の屋上に有る一段高い部分に過ぎない。背後にすぐ山が迫る場所にたたずむ校舎は、この季節のこの時刻に似合って、物悲しい雰囲気を見せている。
その学校の敷地を過ぎたところの三叉路を右折し、校舎の裏を通り山に登っていく道に車を進める。荒れた路面と轍が、連続した登りのカーブと一緒になって、二十年物の車を振動させる。助手席の足元に置いたバッグの中の瓶が振動に合わせてかすかな音を立てる。
晩秋の夕暮れ。どこかの美術館の油絵にでも有りそうな風景が目の前に広がる。ライトを点けるほどではないが、徐々に闇が濃くなる頃だ。しかもうっすらと霧も出て来る。
ウインドウを降ろして外気を確かめると、久しぶりの山間の香りが、寒気や湿気と一緒に車内に流れ込み、鼻をくすぐる。
もう何度も走りなれた道を、今日も彼女に会う為に車を駆る。もう六年にもなる、こんな風にこの地を訪れるようになったのは。
美紀子が故郷の地で隠遁生活を始めて、もうそんなになるのだ。その年月があっさりと流れたことに、僕は軽い驚きを覚える。
彼女との出会いは、二十代の頃だった。よく通っていた飲み屋の常連だったのだ。
その店はマスターがざっくばらんな人で、来る客は皆友達、一度でも一緒に飲んだら仲間、という感じの店だった。何人もの常連がたむろして、深夜をまわればマスターとバイトと常連客がカウンターの中と外で行き来しては、朝まで飲み明かすような事もよく有った。
そんなメンバーの中に、僕も美紀子も居たのだ。音楽や読書の話で意気投合した僕らは、顔を会わせる毎に長い時間話をして過ごした。
普通のOLだった彼女は、その後二度の恋愛を経て、結婚と離婚を経験した。その経過は親しい友人として、彼女の口から聞いている。
僕はと言えば、長い期間の恋愛と同棲の挙句、結婚寸前での劇的な破局を迎えて今に至るというところだ。その経緯も折に触れ彼女には話しているから、彼女も承知している事だろう。
残念ながら・・それほど残念とも思っていないのだが・・僕と美紀子の関係は色気のあるものではない。一言で言えば飲み友達というところだ。今に至っても、指一本触れた事さえない。彼女の住む地を時折訪れ、手土産の酒を一緒に空け、次回の訪問を約束して帰る。そんな事が、数ヶ月から半年ほどの間隔で、もう六年も続いているのだ。
車のすれ違いも出来ないような山道を数分走ると、美紀子の住む山小屋風の建物が現れる。彼女の生活の足である軽の四駆の隣に車を停め、エンジンを切る。車を降りると飼い犬のジェーンが、僕の足元にじゃれつく。僕の事を憶えているのだろう。その鳴き声に誘われるように美紀子が姿を現す。足元には愛猫のマリーが一緒だ。
「良く早く着いたわね。もっと遅くなるかと思ってたわ。」
「真っ暗になってから、この道を登って来るのは怖いからね。」
車からバッグを取ると、彼女に続いて家に入る。もう家の中も良く知っているから、迷わず自分の居るべきポジションに落ち着く。
「今日は大吟醸の日本酒とヌーボーワインだよ。」
バッグの中のふたつの瓶を美紀子に渡す。
「嬉しいわ。そういうお酒にはなかなか縁が無いの。こんな田舎に暮らしてるとね。」
「何を言ってるんだ。パソコンだってテレビだって有るんだし、郵便でも宅配便でも普通に届く所だろう。日本中どこに居たって飲みたい酒くらい飲めるさ。」
「それはそうだけどね。自分の生活圏内で事が足りてしまうし、一人で飲むのに贅沢しても仕方ないから、結局は一番近くのスーパーの棚に有る物の中から選んで来ちゃうのよね。」
さっきの三叉路の中学校の周囲には普通に住宅地が広がり、商店も何軒か有る。日々の生活用品を調達するには、充分間に合う。元々は美紀子も、そこで子供時代を過ごし、あの中学校に通ったのだ。
彼女の父は生まれは農家だったが、いくつかの事業を興し成功していた。この山小屋風の家も、その頃に離れの感覚で建てたものらしい。もともと、この山全体が彼女の父の持ち物で、山菜や茸を採ったり、狩猟をしたりと、遊び場のようなものだったそうだ。
その父が急逝したのが六年前だった。母親は彼女が大学生の頃にすでに亡くなっていた。一人娘の彼女は父親の財産の全てを相続して、故郷に戻っての暮らしを始めたのだ。
その頃にはライターとして、文章を書いて生計を立てて居た彼女にしてみれば、どこに住もうと生活にも仕事にも困らなかった。それに、父親の遺産の中には不動産も有ったので、賃貸料だけでも生活して行くには充分な収入が入るようになったのだ。
ふもとの住宅街の実家を手放し、この山の中に住むことにしたのは、両親との思い出の詰まった家に一人で住むのが辛かったからだと、彼女が言った事が有る。それはもちろん本当の事なのだろうが、その他にもさまざまな理由があると、僕は思っている。
田舎の街で女一人で暮らすには、周囲の人の目や噂話など、あれこれとわずらわしさが有るのだろう。日々顔を合わせて居なければ、何を言われようと知らん顔をして居られる。 車で走って数分の距離でも視線や声を避けるには十分な距離だ。
それに父親の建てたこの家は、その趣味を生かしたおしゃれな作りになっている。この家に住む事で、父のやりたかった事を代わりにやっているような気になるのだろう。実家なら手放すことが出来たが、こんな山の中の小屋など売ろうとしても買い手が居なかったと言って、笑った事も有る。
そんな訳で、彼女は猫と犬を相手に、この山の中で一人暮らしをしているのだ。
家の脇にはいくらかの野菜畑が有り、そこには彼女が食用にする野菜が作られている。米も作ろうかと思ったが、水を引くのが大がかりになり、面倒なので断念したそうだ。
訪ねてくる人も有るかどうか分からないが、寂しくなればどこにでも出かけられるのだ。以前からの仕事も続けているし、世捨て人と言うわけでもない。
テーブルには料理が並べられ、薪ストーブには炎が見える。こんな面倒なストーブはあまり使わないと言っていたはずだが、僕への歓迎の印らしい。窓の外はもう闇が深くなって、山の稜線にわずかに薄墨色が残るだけだ。遠くに街の灯が見える。早速、再会を祝ってワインを開けて乾杯をする。
「この冬もここで過ごすのかい。」
「そうよ。もうこの暮らしにも慣れたわ。」
「人恋しくはならないの。」
「都会の真ん中のアパートの一室でも、山の中でも、テレビを見たり本を読んだりして過ごす時間は同じよ。実際の距離が他人と近くても孤独なのは一緒でしょう。」
「それもそうだな。」
「あなたはどうなの。仕事柄若い人たちに囲まれてにぎやかにしてるんじゃないの。若い娘を捕まえたりしてないの。」
「それは無いね。商売と私生活は別だよ。商品には手を出すなってね。」
「それじゃ寂しいわね。」
僕の仕事はさまざまな紆余曲折を経て、音楽と映像関係の専門学校の講師というポジションに落ち着いている。自分の作り出すものは、世間を驚かすようなものではないが、毎年入れ替わる顔ぶれに方法論を説くだけで、安定した収入が得られる。こういう方面に進もうという志を持った若者だから、個性的な生徒も多い。
だが、突き詰めて行くと、表現はいかに自分が示したいものを持っているかの量によって決まる。方法論をいくら学んでも、器用にはなるが、それが結果の大きさにはつながらない事を、教える立場の僕らはもう悟ってしまっている。
「きみの仕事はどうなんだい。今までの作品をまとめてるって言ってたけど。」
「そうね。あちらこちらに雑文を書き散らしてきたからね。まとめて一冊の本にしないかって、言ってくれた処があるんだけどね。」
「進んでないの。」
「まあ、出版条件やら、初出誌の著作権やら、面倒な話が色々とあってね。」
「それは大変だな。」
「良いのよ。単発の仕事はぽつぽつと入ってるからね。それに食うに困るっていう訳じゃないしね。」
そんないつもの会話と共に、僕の持参したワインが開けられ、二人で乾杯をして飲み始める。
「ワインに合いそうな料理だね。偶然の一致かな。」
「そんなはず無いでしょう。あなたが来るっていうから、何を持って来るか予想したの。この前も今頃の季節にヌーボーを持って来たじゃない。」
「そうか、読まれてたか。どうしても周りの人間が騒ぐと釣られちゃうんだよな。」
「そうね。毎年ボジョレー解禁って話題になるものね。そんなに有難がるようなものでもないと思うけど。」
「そんな話題でも出して、季節感を煽ってるんだろう。ハロウィン、クリスマス、ヴァレンタインと七五三や除夜の鐘、節分が並立してるんだからな。」
「でも大吟醸まで有ったのは、想定外だったわ。塩辛でも買っておけば良かった。」
「何をつまみにしても、旨い酒は旨いから、大丈夫さ。」
そんな話をしながら酒が進む。
「今年も除夜の鐘は一人かな。」
「一人じゃないわよ。女三人よ。私とジェーンとマリー。」
「逞しい友人達だな。その名前からしても、迂闊には近寄れないな。」
猫と犬は名前の通りどちらも雌だ。この家に飼われてもう長い。人間の年で言えば、美紀子と同じぐらいかも知れない。
その名前はカラミティジェーンとブラッディマリーから付けたそうだ。逞しい女友達兼用心棒と言った処だろう。
「あなたはどうなの。一昨日の電話では何も言ってなかったけど、生活に変わりは無いの。」
「相変わらずの寂しい一人暮らしさ。君の言う都会の真ん中の孤独っていうやつかな。」
「それでわざわざ私のところに電話して、会いに来てくれたのね。」
「いや、電話の君の声が寂しそうだったから、心配になったんだよ。」
「上手いこと言って。まあいいわ、こんな田舎暮らしのおばちゃんに会いに来てくれるのは、あなたくらいだものね。」
「ホントかな。何人も通ってくる男が居るんじゃないのか。」
「そんなのが居たら、今頃ここで二人で暮らしてるわよ。」
「それもそうか。何人も居すぎて一人に絞れない、なんて事も無さそうだしな。」
「若い頃じゃないんだから。男を選ぶ目もタイミングを見る目も、身に付けてるわよ。」
「じゃあ結局、君の目に適う男は現れなかったって事か。」
「そうよ。こんな山暮らしが辛くなったら、一人で老人ホームにでも行くわ。」
「なんだ、僕と同じことを考えているんだ。」
「そうね。独り者の考える事はみんな同じでしょう。どう、一緒のホームに入る。」
「そうは言っても、それもまだ先の事だろう。」
「こんな所だと、車が運転出来なくなれば、もう駄目ね。」
「そうだな。ここから歩いてお買い物は辛そうだな。」
「今は歩いて行く事もあるのよ。ちょっとした買い物とか郵便を出しに行くとかね。でも、食料品の重さを考えると歩きは無理ね。」
「郵便ポストまで歩いて一時間くらいかな。良い運動になりそうだな。」
「そう。それが目的なのよ。ジェーンをお供にして、ちょっとしたお散歩ね。それよりもあなたはいつまであれに乗ってるの。」
彼女が言うのは、二十年物の僕の愛車の事だ。
「ずっと乗るつもりなんだけどな。ロータリーエンジンの名車なんだから。」
「もうポンコツでしょう。あんなのじゃ、助手席に乗ってくれる人も出来ないわよ。」
「いいんだよ。マシンと戯れるのは孤独な男のロマンなんだから。」
そう言って、思わず笑い出してしまう。ここに来る度に交わすお決まりの会話だ。
「本当に調子は良いんだ。ここに来るのに乗る程度で日々の生活には使わないから走行距離も伸びてないし、メンテナンスはきちんとしてるからね。」
「まあ、あの車に惚れ込んで手に入れたんだから仕方ないわね。」
「もう二十年くらいは、あれでここに来るさ。」
「そんな事言っても、そんな先にはどうなってるか、判らないでしょう。」
「判らない先の事だから、今と同じ日々が続くって想定してないと、生きていけないんじゃないか。」
「先のことを心配しても仕方ないか。」
外はすっかり明かりも消え、山の中の静けさが広がる。聞こえるのはBGM代わりのFMラジオの音と二人の会話だけだ。時折ストーブの中の薪が爆ぜる音が響く。ワインはあっさりと空瓶になり、酒はすでに日本酒に移っている。一升瓶をさしつさされつしながら、他愛も無い話は続く。
ラジオから聞き覚えのあるクラッシックのワルツが流れる。美紀子は話を止め、そのメロディに耳を傾ける。
「どうしたの。思い出の曲かな。」
「そう、懐かしい曲。中学校の頃、時計台からこの曲が流れたの。夕方、家に帰る合図だったの。」
「そういえば、僕の学校でもそういうのは有ったな。ドヴォルザークだったけどね。」
「新世界ね。世間一般ではあの曲が多いみたいね。うちの学校は違ったのよ。」
そう言うと美紀子は立ち上がり、ワルツのリズムに合わせてステップを踏んでみせる。そのまま僕の方に手を伸ばすので、僕もその手を取り、一緒にワルツを踊る。二人きりの山小屋の一曲だけのダンスだ。
酔っ払い同士でちょっと覚束ないステップを踏み、曲が終わると笑いながら手を叩いて椅子に崩れ落ちるように座り込む。
「あなたとこんな事したなんて、初めてね。」
「そうだね。そう言えば、今まで手を繋いだ事さえ無かった気がする。」
「素晴らしいわ。文字通り、指一本触れた事のない関係だったのね。」
「笑い話のようだね。もう何十年もこんなふうにしてるのに。」
そして二人で改めて乾杯をする。
「指一本触れない友情に乾杯。」
そう言ってグラスを空ける。
窓の外は霧が深くなって来た様子だ。街の灯が霧にかすんでぼやけて見える。そんな窓の外を眺めながら、美紀子は呟く。
「外は霧。道はワインディングロード。私に似合ってるわ。二十年前を振り返っても、もう見えない。二十年先も判らない。霧の中の曲がりくねった道を走ってるの。一本道だけど、それがどこに続いているのか、誰にも見えない道ね。」
「そうだね。誰もがそんな道を自分のペースで走っている。時々誰かとすれ違ったり、一緒に走ったりしながらね。」
「結婚して離婚して、もう記憶の彼方に行ってしまった人も居る。何十年も一緒に居て、初めて手を繋ぐ人も居る。不思議ね。どっちが大切なんて言えない。」
僕はただ頷くだけだった。彼女の人生に深入りして寄り添って歩こうなどと、おこがましい考えは無い。ただ、友人として彼女の幸せを祈り、もし支えが必要な時には、手を差し伸べるだけなのだ。その手に縋るかどうかも彼女の選択だろうし、支えきれずによろけるかも知れない。時には手を取ってワルツを踊る事も有るだろう。それはお互いの気持ち次第だ。この次は何十年後かも知れない。
「明日には霧も晴れるだろう。そしたら街に帰るよ。」
「もし。一日中霧が晴れなかったら。」
「そしたらもう一日、ここに居させてもらうさ。」
ちょうど持ってきた日本酒も空になる。美紀子は自分の買い置きの酒を示す。もっと飲むかというサインだ。僕は首を横に振る。二人とも、気分良く眠るにはちょうど良い酔い心地だ。
僕はいつものストーブ脇のポジションで毛布に包まる。美紀子はマリーと一緒に寝室に行く。
明日の朝、霧は深いのだろうか。それとも青空が広がっているのだろうか。
美紀子はどちらを望んでいるのだろう。そんな事を考えながら、僕は心地よい眠りに落ちて行く。
霧のワインディングロード
このストーリーには元になった曲が有ります。
milestoneというバンドのFoggyRoadという曲を元にして
ストーリーを膨らませました。
曲はmilestoneのヴォーカル兼ギターのyanaが作ったものです
ですが、元の曲では、一本の電話をきっかけに、喧嘩した(別れた)彼女のもとに向かい
ワインディングロードを(時計台を過ぎて霧の立ち上る道を)車を駆る彼の話ですが
このストーリーでは、もう少しひねって、彼と彼女の関係を作って居ます。
曲の中には前奏でワルツのメロディーも出て来ます
このアレンジでワルツが使われたので 作中にもワルツを踊るシーンが登場しました。
興味が有りましたら そちらの歌詞とメロディーも覗いてみてください。
http://milestone-music.at.webry.info/200609/article_3.html
なお、この他にも何作か milestoneのオリジナル曲と私の小説がコラボレートしている作品が有ります。
「ホーム」→「I'm home!」
「Grafted tree」→「空に昇る虹」「Cary On Believe Your Life 」 などです。
そちらも 音楽とともにご一読頂ければ幸いです。