嘘
何年か前の今頃に、某所で投稿した作品を少しだけ加筆修正しました。
地下街の出口で、嘘は途方に暮れていた。
今日はいつもより短い残業で仕事が片付いた。明日の休みに思いを馳せながら、普段ならオフィス街から其の儘JRで帰宅するところをわざわざ地下鉄に乗り、遠回りして繁華街方面へ回った結果の──予期せぬかなり強い雨である。
嘘の左肩には、ピンキー・アンド・ダイアンの鞄。そして、買ったばかりのワンピースが入った紙袋。右手には、プレゼント用にラッピングされた包装紙がちらりと見える、雑貨屋のビニール袋。それは、結構な大荷物。
白いジャケットに黒いスカート、ぴっ、と背筋を伸ばし、ストッキングに包まれたピンヒールのふくらはぎを緊張させ、淡いピンク色のハンカチを握り締めて、嘘は途方に暮れていた。
都会は実に秒刻みで動いていく。地下街の出口で、吐き出されるひと、吸い込まれるひと、嘘と同じく雨に立ち止まるひと、そんな群の中で、一分はたっぷり呆然としていただろうか。
嘘は振り向いた。風向きと雲の流れを見、彼女の脳味噌はこれからの行動について素早く回転する。
通り雨だ、と断定したのだろう、嘘は小走りに、階段の向かい側にあるカフェへ向かう。
濡れて店内の明かりをきらきらと歩道へ投げかけるガラス。グリーンと白のストライプの、庇。
店の入り口にある傘立て──天気予報すらひとことも可能性を言わなかった雨。更に、降り始めて間もないのだろう、其処には誰かの忘れ物と思しき、安っぽいビニール傘1本だけが乾いてぽつんと傾いている──をちらりと見遣り、ストッキングについた泥跳ねの染みをちらりと確認し、嘘は足早に店内へ消えた。
既に青みも残っていない暗い空、ぼわりと滲む街灯。ヘッドライトとテールランプが東西南北切れ間なく連なり、其処此処でぱたぱたと屋台が商いを始める。
水が染みた街路樹の幹の匂い。風にちぎれた桜の若い葉が雨に濡れて石段に張り付き、街路樹の傍らで自転車駐輪禁止の看板と赤い三角コーンが泥に汚れて雫を滴らせ、今まで嘘が居た場所にはほのかにオー・ド・トワレの残り香が漂った。
雨はすべての根っこを洗い出す。色鮮やかに、香り鮮やかに。嘘は、スーツを着ている時ほど、雨に濡れることを嫌う──きちんとした格好のおんなが雨に打たれてうなだれる程、惨めったらしいことはないでしょう──。
嘘は、嘘を吐く。
誰かを傷つけるためではなく、何かを誤魔化すためでもない。
たとえば、架空の友人を作り出す──こんな子が居てね、今悩んでるみたいで、今日ちょっと会ってくるんだ──。
同僚たちと別れてから、其の儘嘘はひとりで買い物をして、ひとりでコーヒーを飲んで、ひとりでひとりの部屋へ帰る。
何のメリットもない。デメリットすら、其処にはない。
悩んでる友人、という架空の存在は、嘘の中で成長する。
嘘の脳内で、その友人は酔いつぶれたり、彼氏とけんかしたり、資格を取ったりする。
嘘の願望をあらわして居るわけでもなく、嘘が優越感にひたるための材料でもなく、嘘の恋人へ隠し事をするための言い訳でもなく、嘘のともだちは多いのだというアピールでもない──嘘はその資格には興味がないし、優越感も劣等感も特に意識することはなく、恋人に隠し事をしない主義で、実際に多くの友人が居るので、そんなことをする必要もない。
嘘が吐く嘘が、嘘であると見破られることはまずない。
嘘自身が、「登場人物」を「実在する」という「設定」で嘘を吐くので、「登場人物」の言動がやけに生々しいのである。
嘘が吐いた嘘は、ひとつの物語となってゆく。
それは完璧な、フィクション。
そのフィクションは、新聞に連載されている小説の様に、大抵ななめに流し読みされる。丁寧にスクラップ帳に貼り付けられるケースは珍しい。
なぜなら、「登場人物」は、聞き手には特に関係のない「人物」だから。
嘘自身、自分の吐いた嘘に飲み込まれてゆく。
だから特に驚きはしなかった。
雨宿りのカフェで、「実在しないはず」である「登場人物」のひとりから、「現実に」声を掛けられたとしても。
「よう、久し振り」
明るい声と、軽く肩に触れる手に振り向いた。
トレイの上のカフェ・オ・レの湯気を眺めながら、わたしは其の時ハンカチで、肩の雨垂れを拭っているところだった。濡れたストッキングとパンプス、そしてスカートの裾が冷たく張り付いて気持ちが悪く、多分眉間に皺が出来ていた。
目の前で笑っている人物に焦点が合う。さらさらした黒い髪、タイトな黒いスーツ、ひとつだけボタンを外した淡いブルーのシャツ。ネクタイは外したのだろう、きっと鞄の中にある。
わたしの脳内に生まれた男友達、其の「イメージ」の儘のすがた。
雨に濡れた様な形跡が全く見当たらない彼は、もう存分に湿気を含んだわたしのハンカチを取り上げた。代わりに彼のハンカチでわたしの肩と背中をはたく。
ベージュと紺色のチェック、バーバリーのハンカチ。
わたしが、去年の秋、彼の誕生日にプレゼントした、ことになっている、ハンカチ。
──男友達の誕生日プレゼントって、悩まない? ……そうね、それがいいかも。ハンカチにしようかな。実用的だし。別れのアイテム? ああ、涙拭くってこと? あはは、特に向こうはそんなの気にしないもの。だいいち、恋愛感情とかお互い持ってないもん。旧い友達なの。そんな仲になるんなら、とっくにどうにかなってるんじゃない? あいつ結構、非道いことずばずば言うのよ──
「情けねえな、傘も持ってねえのかよ。きれいにスーツ着ててもあれだな、雨に濡れてりゃジーンズよりも惨めだな」
こんな憎まれ口を笑顔で叩くこいつは確か、賃貸不動産の営業マン、という「設定」だった。そつがないからモテるけど付き合っても長続きしない、趣味はアウトドアで休みに県内に居たためしがない、カラオケがうまく酒はほどほどに強い、オムライスが好き、ホラーが嫌い……、そんな人物。だからわたしの「設定」に基づいて、トレイの中を予想すると、ほら。ベーコンとトマトのホット・サンドイッチにセサミ・ブレッドのローストビーフ・サンドイッチ、オレンジ・ジュース、カプチーノ。そして言うんだ、『ホットサンド、ひとつ食う?』
「ホットサンド、ひとつ食う?」
勧めながら、わたしの向かいに座る。オレンジ色の照明に、端正な顔立ちが益々整って見える。ぱくぱく食べながらハラ減ったと呟き、これで帰るまで持つわと言いながらジュースを一気に飲み干す。全くもって忙しない。
「要らないなら俺、食うよ?」
「気持ちだけ、ありがとう。気にせずおあがり」
ホットサンドは瞬く間に消え失せ、彼はパンの耳をぽいと口に放り込んで、カプチーノをひとくち飲んだ。
「……で、傘ねえの? どうすんの? 彼氏、どうした? お迎え来ねえの?」
紙ナプキンで口の周りの泡を拭い、矢継ぎ早に彼は訊く。
「たぶん、もう雨も止むから大丈夫」
わたしは答え、あたたかなカフェ・オ・レを飲む。
一瞬のことだったのに、紙袋も鞄もビニール袋も満遍なく濡れた。紙袋の中のワンピースはフィルムに包んでくれたので無事だったけれど、ビニール袋の方はクリーム色の包装紙に水が染みを作っている。
「それ、プレゼント。大丈夫なの?」
訊いてくると思った。彼は、目敏い男だから。わたしの脳内から生まれた彼は、発言も行動も全て、わたしの予想其の儘だ。
例えば、夢の中の出来事の様に。
「大丈夫よ、ご自宅用だから」
例えば給料日。自分へのご褒美としてのラッピングを、レジが混んでいなければお願いする。
よく行く地下街の雑貨屋さん、わたしは店長さんと仲が良い。
「──なあ、」
呼びかけられて、カフェ・オ・レ越しに目を上げると、彼は「何時になく」真面目な顔でわたしを見ていた。
だけど其の目は何処か悲しげで、
「お前さ、なんで」
口角の上がった、いつも笑っている様な顔なのに、今は其の口元すらも
「なんで嘘、吐くの?」
泣き出しそうで。
わたしの想定外の台詞、わたしの想定外の表情。
「ラッピングだってさ、友達の誕生日だか何かのお礼だか、適当なこと言ったんだろ?」
夢の光景が、こわれていく。
「ワンピースだって、ありもしない誰かの結婚式のためとか言ったんだろ?」
──いけないこと、なのだろうか。誰にも迷惑はかけなかった。寧ろ、店員さんは喜びさえする。何故なら、わたしの話は登場人物たちは実在しない、完璧なフィクションであり、ちょっとした「こころ温まる、いい話」なのだから。
それに。
どうして嘘を吐くのかなんて、わたしにだって解らない。
「──迷、惑?」
わたしの問い掛けに、彼は無言で微笑んだ。
とても優しい、笑みだった。
やがてふたりのカップは空になる。カップのへりについた、泡の跡。
「お前多分、」
雨足が衰えもうじき止むだろう、濡れた路面に目線を滑らせ、彼は言った。
「今の彼氏と結婚するな」
「わたしも、そう思う。」
「そしたらきっと──」
おしぼりを弄びながら、彼は躊躇いがちに口を開いたり閉じたりして、それからぽつりと呟く。
「──きっと、嘘吐かなくなるな」
わたしの返事を待たずににこりと笑い、彼は立ち上がり鞄を持つ。
「じゃあ……な」
ああ、「またな」ではない。
きっとこの先もう二度と、彼がわたしの前に現れることはないだろう。
わたしが今後、「彼」の話をしたとしても、しなかったとしても。
椅子を戻して立ち去りかけ、ふいと振り向いて彼は言った。
「しあわせに、なれよ」
其の儘背を向け、肩越しに手を振って、彼は去った。
雨が止んだばかりの雑踏にすらりとした背中が紛れて見えなくなるまで、わたしはガラス越しに見送っていた。
そんな、日陰に置かれた蘭の鉢植えみたいにうなだれて。
たとえば嘘は、こんな具合に嘘を吐く。
嘘