three radys story
雨の降る中、喪服の中年女性二人がひそひそと話をしている。
「本当に、可哀そうにね」
もう一人が、眉根を寄せてつぶやく。
「幸せそうな夫婦でしたのに」
雨音は一層激しくなり、やがて彼女たちの声をもかき消していく。
○●○
今日も祐一さんは、私の朝ごはんを美味しそうに食べてくれた。低血圧な彼だけれど、毎日必ず、食事をしてから出社するのだ。
「玲奈、行ってくるよ」
やさしく微笑む彼は、すばらしく輝いて見えた。私の頭に手を載せ、わしゃわしゃと撫でる。髪型が崩れてしまったけれど、直す気にはならなかった。
祐一さんを見送った後は、一通り家事を済ませる。まっさらに仕上がった洗濯物を干して眺めるのが、私の日課であり幸せだ。そうしてのんびりと過ごしていると、やがて祐一さんが帰ってくる。夕飯を作り終えた直後に「ただいま」と聞きなれた声が聞こえた。
毎日くたくたになって帰ってくる彼の世話をするのはなかなか大変だけれど、嫌いなわけではない。妻の務めとして当たり前だと思うからだ。そうやって働いている時こそ、自分の幸福を実感できる気がするのだ。そう思い、彼が脱いだワイシャツに手をかけた。
ふと、強烈な違和感がした。原因はすぐに分かった。祐一さんのシャツから香水の匂いがするのだ。しかも花のような、甘い香りだ。居間でくつろぐ彼を見つけて問い詰める。
浮気していたのか。私を騙していたのか。初めは淡々と問い詰めていたのに、次第に涙声になり、声量も大きくなっていく。とめどなく涙があふれてくる。
「どうして、どうして浮気していたの! 幸せな生活にするって、約束してくれたじゃない!」
突然のことに唖然としていた彼は、申し訳なさそうに目を伏せる。
「愛しているのは玲奈だけだ、って言っていたじゃない!」
「だって、君は玲奈じゃないだろう!」
祐一さんの声が、静かになった居間に響く。彼が何を言っているのかわからない。そう思って、向こうの目をじっと見つめる。
やがて祐一さんは、訥々と話し始めた。
「君は玲奈じゃない。僕らが――僕と玲奈が事故に遭ったとき、意識を失う前、玲奈の顔を見たんだ。割れたガラスで傷だらけになった顔で、ごめんなさいと呟いていた。なのに、僕が目覚めたときには君は無傷で傍にいた。僕は、君が玲奈じゃないと知っている。だったら、愛す必要もないだろう?」
はき捨てるように言った彼の顔は、諦観と悲しみに染まっていた。たった今裏切られたというのに、私の頭は変に冷静で、妙な静けさに包まれていた。私は玲奈だ。それなのに、なぜ祐一さんはこんなことを言うのだろうか? もしかして私が間違っているのだろうか? いや、違う。私は彼と幸せな結婚生活を送っていて、不幸な事故に遭って、ただそれだけだ。
頭の中で、たくさんの疑問がぐるぐると渦巻く。
「いったい、君は誰なんだ」
祐一さんの発した言葉が、からっぽの脳で反響して頭痛の発生を促す。その言葉は次第に私の声に変わる。私は誰なんだ? 違う。私は玲奈だ。それを間違いだという奴は、消してやる。私こそが玲奈なのだ。
ちょうどテーブルの上にあった裁ちばさみを掴むと、彼の喉元目掛けて振りかぶる。姿勢を崩した祐一さんの上に馬乗りになる。フローリングの冷たさがむき出しの膝に伝わった。はさみを投げ捨て、抵抗する彼の顔を力任せに殴りつける。力の抜けた腕を払いのけ、首に手を伸ばす。
しばらく押さえつけていると、それまで弱弱しく呼吸をしていた彼は動かなくなった。棚にあたってだらしなく刃を広げているはさみを拾い、逆手に持った。私は自分の腹へ向かってそれを――
○●○
佳奈の姉である玲奈が昨日死んだ。二十三歳の若さで、結婚してまだ一年とたっていなかった。事故だった。トラックと彼女の車が衝突した、そんな知らせを警察からの電話で聞いた佳奈は目を見開いた。
「本当ですか。姉が。――分かりました」
佳奈は冷静に頷くと、一人で住んでいる狭い部屋を出た。
「お久しぶりです、祐一さん」
返事は返ってこない。それもそのはず、声をかけられた彼は病院のベッドで眠っているからだ。彼は玲奈とは違い、一命を取り留めた。しかし足を骨折してしまった。彼は事故の直後から意識を失い、こうして眠っているそうだ。
佳奈は祐一の手をとる。佳奈の手に温かさが伝わり、彼が生きていることを実感させた。佳奈はその手を、彼女の指がこわばるくらいに握る。握るというよりは、圧力をかけて握り潰そうとしているようにも見える。やがて、少し痕が残った彼の腕を白いシーツの上へおざなりに置いたとき、彼女の顔は彼に対する哀れみに染まっていた。
祐一は玲奈と結婚したばかりだった。二人はだれから見ても幸せな生活を送っていた。それが佳奈には許せなかった。なぜなら祐一は佳奈と同じ職場にいて、佳奈は彼に恋していたからだ。勇気を振り絞って告白しようとしたその日、祐一は結婚する旨を述べて職場を去って行った。相手が実の姉だと知った佳奈は、怒りと恨みに包まれていた。
そんな、恨んでいる相手が目の前にいる。しかも彼は動くことのできない状態だ。ふっと、物騒な想像が彼女の脳裏をよぎった。が、さすがにそれはよくないと、考えを改めた。佳奈はうっすらと口元に微笑みを浮かべ、病室を出た。
「玲奈! 生きていたのかい」
祐一は顔をほころばせる。信じられないという響きが、その言葉には含まれていた。祐一の前に立つ彼女はそれには答えず、彼をただ抱きしめた。
「祐一さん、わたしもう、あなたに会えないと思っていたわ。それなのにこうして、生きてあなたに会えるなんて」
佳奈は、できるだけ姉の仕草、話し方、表情に似るようこころがけて彼を見る。幼いころから一緒にいた記憶や、玲奈の周りにいた人たちからの情報。そのすべてを総動員して玲奈のふりをする。それが佳奈の計画だった。
「結婚したばかりなのに、妻が死んだと分かったら可哀そうだと思うのです」
佳奈に別の目的があるとも知らず、周りの善良な人々は了解してくれた。協力を申し出る人までいた。結局医師が「佳奈さんの負担もあるでしょうから」との言葉で、祐一が退院するまで玲奈のふりをすることを約束した。
その間に彼女は、祐一本人や玲奈をよく知る人たち、そして祐一の医師から、それとなく以前の結婚生活について聞いていた。そして彼女は玲奈の友人から、「玲奈の右足にやけどの傷があった」と聞いた。慣れない家事で手を滑らせ、熱湯をこぼしてしまったらしい。それを聞いた佳奈は、右足に包帯を巻いた。そうして彼女は確実に、姉の姿へと近づいていく。
そのうち佳奈は、鏡を見るたびに妙な感覚へ襲われるようになった。自分が自分でないような、自分は「佳奈」なのか「玲奈」なのか分からなくなるような、そんな感覚だった。自分こそが玲奈で、彼と幸せな生活を送ってきたのは私だ。いつの間にか佳奈はそう思い込むようになった。
「そういえば、佳奈さんはどうしたの? 今まで、一度も見舞いに来てくれていないけれど。冷たいなあ」
「ああ、佳奈は、佳奈は――」
「少し前、事故で死んでしまったのよ。トラックと彼女の車が衝突して。身内だけで葬式は行ったの」
「そうだったのか……。辛いことを訊き出してしまって、すまなかった」
そう言ったきり、祐一は口を開こうとしなかった。
その夜、佳奈は病院へ通うため泊っているホテルの浴槽で、じっと足を見つめていた。彼女はすでに、自分は玲奈だと思い込んでいたが、傷のないきれいなそこを見るたび現実に引き戻される感覚がするのだ。
やがて佳奈は浴室を出て、枕もとへと向かう。部屋に備え付けてあるポットで、コップにお湯を注ぐと、まだ水の滴る自らの足へそれをかけた。
みるみる赤くなっていく右足を見て、彼女は静かに微笑んだ。
「明日には退院できるそうよ」
佳奈は祐一にそう伝えると、病室を後にする。彼女が向かった部屋で待っていたのは、祐一の医師だった。まだ若い医師は気の毒そうな表情をして、佳奈に「お疲れ様です」と声をかけた。
「佳奈さん、今までお疲れ様でした。ご協力感謝します。祐一さんにはこちらから事情を話しておきますので、これからは――」
「ふざけないで!」
医師の言葉をさえぎるように、彼女は叫んだ。
「あなたは何を言っているの? 佳奈は死んだわ。私は玲奈で、私はこれから祐一さんと幸せな生活を送るの! 邪魔しないで、私は玲奈なのよ」
「佳奈さん――」
医師は言いかけてやめた。狂ったように「私が玲奈なんだ」と繰り返す佳奈を見て怖気づいたのだ。それに、玲奈が偽物だったと知らなければ、祐一も幸せなままでいられるのかもしれない。
「すみませんでした、玲奈さん。これからも、祐一さんのことをサポートしてあげてください」
「そのつもりよ」
彼女がそこを立ち去った後も、医師は一人考え込んでいた。やはり、祐一に伝えてやったほうがいいのだろうか。しかし、結局は佳奈の狂気の前に怯え、ただ座りこむことしかできない。
そうして佳奈は祐一との暮らしを手に入れ、一人密やかに笑うのだった。
○●○
朝から続く雨が、その若い女性の髪を濡らしていた。傘から伝う水滴が、彼女のスカートの裾に落ちる。だがそれに構わず死んだような眼をして立ち惚ける彼女を見て、一人が声をかけた。
「お嬢さん、焼香を済ませてきなさい。祐一もそのほうが喜ぶだろう」
その言葉にかすかに笑い、彼女はふらふらと歩きだす。その右足には包帯が巻かれていた。
three radys story
ミステリー?バッドエンド?初めてなので書いててドキドキしました
実は最初、全然違う話だったのですが、先輩からアドバイスをたくさんいただいて書き直しました
ありがとう先輩Forever。
結局最後の女性が誰だったか、というのはできるだけぼかしました
その辺の意図が分かってもらえたらそれはとっても嬉しいなって。