SAKIKO
SAKIKO 2011.9
ペガサスの羽根
「あんたからは……」
咲子が俺に流し目をくれ、そして静かな口調で言った。
それはまるで、朝方コーヒーを進めてくる時の生気の無い気だるさ。
それよりも、遥かにはっきりとした冷たさで。
「何の意志も感じないわ」
紅く引かれるルージュの唇を見つめ、滑らかな動きは溜息を継がせた。
黒のランジェリーから覗く白の肌は、月光を広げている。彼女の感情のままに冷めた色味をしていて、それが心臓にまで広がっているんだろう。咲子には今や青い血でも流れているように思う。
ただただ耳を折った犬の様に佇む俺の胸部に咲子はキーを投げた。
一人掛けのソファーから、本物の犬に玩具を投げ渡す感じで投げて来た。
「もう要らないわ」
腕を伸ばし、足元に落ちたそれを拾った。
クリスタル製のペガサスが、床に落ちたと同時に羽根がもげ、月光が寂しげに光を染み付かせた。
そのキーホルダーは咲子のネックレスと同じペガサスで、三年目の記念に共に揃えたものだ。
薔薇のように華麗な顔立ちの咲子は、流し目を向けて最後に言う言葉を、俺は飲み込めない。
「あんたには本物の羽根が必要よ。この関係に本気じゃ無いなら他に何が必要だというの。悲しいわね……あんたがどんなに愛を表現しようとも、信じられないの」
白い肌の上に光る咲子のペガサスが、一瞬動いて思えた。
「どういう意味だ? 俺はお前に全て捧げた筈だ。本気でお前を大切にしてきたし、お前だけを見て来たんだ」
咲子がゆるく首を横に振ると、組まれた脚を解き歩いて来た。
黒いラグを進み、足元に落ちたクリスタルの羽根を黒いマニキュアで拾い、俺は見つめる。
彼女が美しく背を折る姿、まるで白馬のようにもたれる首筋、艶やかに柔らかく流れた髪や、美しい睫……。
「何が駄目だと言うんだ」
ゆっくり背を伸ばし、陰の中に入った咲子の目を見た。
「分からないのね」
眉を潜め彼女の濡れそうな瞳を見つめた。泣きそうなら何故そんな冷たいことを言うんだ。気紛れでもなく、俺の苦手な駆け引きでもなく、いつものような倦怠も無い。
「もう愛する時間は終わり」
瞼が閉ざされ、細い指が頬に触れそっとキスをする温もりは、すでに言葉と同じく冷温だった。
「じゃあね……」
ピンヒールを返し、離れていく。
コートを羽織りフェドーラを被った彼女は颯爽と歩いて行った。
俺のペガサスの折れた羽根を手にドアへ進み、追いかけた。
「……待て」
とっさに肩を引き寄せ腕を回した。
他に男が出来たのか。結婚したく無いのか。妊娠したのか。親が反対するのか。海外に行くのか。俺にもっと大人になれと言うのか。八歳の年齢の幅は縮まらないし、それでも応えようと努力し続けた。
それでもまだ足りないというのか……五年間の歳月全て使っても。
「駄目よ。もうタイムリミット」
俺の腕から逃れ、ポワゾンの香りも連れ去るように、あっという間にドアが閉ざされた。
「何で……」
俯き、彼女の血が伝う手で顔を覆った。
ペガサスの羽根で切った彼女の指さえも、脳裏の残像に残るのみ。
俺の自由の羽根を持っていってくれただけで良い。俺の自由は未だに、彼女のものだ。
愚かにも、信じ続けている……。
黒い湖面
小舟に揺られながら青空の雲を眺めていた。
だが実際は目を閉じている。
肌寒い気候だけは誤魔化せずに、そして想像の青空は徐々に消え去って行った。
冷たい風音が吹き荒び、瞼を開いた。
実際の夜は雨まで降らせて凍えさせてくるが、構わなかった。
瞼や頬に降りしきるままに涙を誤魔化してくれればいい。
また目を閉じる。徐々に暗闇に水色の空が広がり、今度は鳥のうたうこえまで響く。
「馬鹿」
目を開け、暗い曇り空を見た。
視線を上げ、傘を挿しレインコートで座る充博を見た。
「俺をそろそろお前の自己憐憫から解放しろ。下敷きにしてるオールを寄越せ」
「嫌だね」
「でないと飛び込んで風邪になってお前に心身の慰謝料を要求する」
「俺の精神打撲はそれどころじゃ無い」
「姉貴はお前を捨てたわけじゃ無いぶあっくしょん」
「兄弟揃って冷たいんだなあくしょん」
また瞼を閉じ雨音と共に充博の小言を聞きながら空想に戻った。
優しい奴だ。俺を蹴りどかせずに傷心した友に付き合って雨に打たれてくれている変わり者のこいつには、愛らしい妻がいた。
その彼女のためにここは解放してやりたいのはやまやまだが、実はこの寒さに間接が固まったのか、これが金縛りという奴か、今は動けないわけだ。
それを言えないでいる俺は限りなく友に対し冷たい仕打ちを強いているわけでもあった。
そろそろ現実逃避から脱しようか。
「かじかんで動けない」
「凍えていたのか」
俺を蹴り退かし、オールを引き抜いた充博はカポカポと音を立て夜の雨降りしきる湖を岸辺へと戻していく。
俺を現実の世界へ連れ戻そうという魂胆で、そして温かい大きなタオルに包み込んでふきまくる気だ。
座り込んで黒い湖面を見渡した。
無数の円形の波紋を現し崩し描かせている。
どうも雨っていうのは、俺の気持ちを落とさせる要素たっぷりで、限りなく沈ませてくる。
充博は雨だろうが霧だろうがへっちゃらな精神を持ちあわせた奴で、羨ましくなる。
大きく小舟の尾を引かせて進ませると、岸にオールを立てかけて寄せた。
グラグラ揺れる中をビシャッと芝に降りると、俺の涙でもたまった結果かのように小舟の中は雨がひとしきりたまっている。
その中に立ち尽くす長靴を履いた充博を見た。
「姉貴がお前になんて言ったか分からないが、最近笑わなくなったんだぜ。迎えに行ってやってもらいたい」
「どの面さげて行けば認めてくれるって言うんだ?」
「さあ……とにかく」
充博も岸に降り立ち、俺は傘を預かって肩に掛けた。
「ぶあっくしょん会いに行ってやれ」
「分かった……缶コーヒーおごるよ。今日はありがとうな」
「気は済んだか」
「少しは」
「そうか。お前が風邪ひく前に帰るぞ」
頷き、暗い夜道を進んで行った。
自販機の明りに目を半分閉ざし、熱い缶を手に収めて木の下に来た。
灰色の雲は濃い黒の雨雲と共に感情を表していた。
「ぶあくしょん」
「あくしょん」
心も寒い。だがこいつがいてくれて良かったものだ。俺は恵まれている。
彼女にもこういう存在がいるんだろうか。それが今まで俺だと信じ込んでいた。実際はそうだった筈だ。
どこで違い違ったんだ。
また繋ぎ合わせられるものなら、繋ぎ合わせたい。いくらでも……。
大車輪の男
ぐるぐる回る。
目をとじる事も許されない程にぐるぐる回る。回る。回る回る回る……。
私は泣いていた。
手足を拘束され回転する男は、大車輪に乗せ朦朧としている。
うすらうすら開かれるその男の瞼は、どこまでもキャンドルの明りをぼうっと広げさせては影を滑らせた。
私が泣いてなどいるから、既に男は感情でも停止させたかのように抜け殻になって回っている。
問うことも無く、疑問に思うばかりで、そしてじっと私のアイマスクに囲まれた目元を見つめて来た。先ほどまでは。
進み、ヒールで取手を引っ掛け大車輪を停めた。
ぐらんと逆さになった男が朦朧と目をひらいた。髪が石床に揺れ、口を閉じる力さえ無いように白の歯が並んでいるのが見える。
ゆらゆらと揺れ、そしてぐるんと回転させて上に向かせた。
横目で見ると、男の干上がった声が囁こうとする。
「サキ様」
「……いけないでしょう? 喋っては」
唇に指を当て、横の女に首をしゃくった。
彼女は黒いクッションの上の器具を持って来ると、私は男に微笑んだ。
顎を撫で、そして髪を全て背後に流させた。
隆起する筋肉の体は汗が光り、男の逞しい肩に口枷の陰を落す。
噛ませ、バンドをきつく嵌め、男の焼けた頬に食い込んだ。
「可愛らしい」
微笑み、そして鼻に管を通させラバーマスクを嵌めさせた。
微笑みをなくし、思い切り回転させた。
いつしかあの子を拘束したい欲望に自らが雁字搦めにされる前に、別れて正解。
あの子の目を見れば分かる。
マソキストに成り得るだろうものがあるのが分かる。その扉を開いてしまったら、後戻りなど出来ないのよ。
「………」
激しく回転する大車輪の男は既に黒と小麦色の区別しかつかなくなり、そして何度も取手に手を掛け私は激しく回転させた。
強い忠誠を誓ってくる男は愛しささえ覚える束の間の余興で、いつだって私の心は殻だわ。
いつだって。
女と二人で回転を止めさせると、逆さの男を見おろした。
足の甲で頬を優しく撫でてあげる。
息苦しさに男は胸部を上下させ、そして拘束される手を握っている。
女に目配せし、私は歩いて行った。
一人掛けソファーに収まり、煙管に火を落とす。
紫煙の先の男は女に汗を拭われ、そして鼻の管に栓をされた。
しばらくして男は首を降り始める。女が見て来る。
「まだよ」
女は頷き、私は男を見つめた。
よく、黒いラバーマスクの顔にあの子が重なりかけるから、目を閉じる。
開き、苦しげな可愛い男を見る。
立ち上がり、進んで行った。
女がひいていき、逞しい肩に手を当てた。耳もとに囁く。
「もう、言うことを聴くわね」
男が頷き、マスクが光を跳ね返す。
「良い子……」
頬を撫でてあげ、栓を抜いてあげた。
大きく鼻から息を吸う男は肌が真赤になり、そして引いて行く。
一瞬、凶暴に鞭払いたくなる……。
目を閉じ、そして大車輪の取手に手をかけこめかみをつけた。
息をつく。
しばらくは、こうしていたい。ただただ、ずっと。
男の息が、小夜曲に聴こえる……。
馬場のルシーダ
視線を上げると、あの子がとっさにこちらを見て来た。
雄哉は馬の手綱を引くと足並みを停めさせ、ゆっくりと頭をこちらに向けさせた。
私は鞭を手にしたまま顔をそらし、馬場の柵に腰をかけたまま木々や景色を見る。
それでも、向こうからあの子が馬を進めさせてくる。
「咲子」
嬉しそうな声でもなく、不安げな声でやってくると、木の葉から雄哉を見た。
「久し振りね」
「ああ」
雄哉の跨るクリーム色の馬、ルシーダの頬に皮手袋の甲をそっと当ててやり、微笑んだ。
「本日はどうしたの? 馬場で走らせているなんて、珍しいことね」
「会いに来た」
「ルシーダに」
「お前にだ」
上目で見上げると、雄哉は私を真っ直ぐと見てきていた。恐いぐらいに真っ直ぐに。
構わずに目を反らし、柵に背をつけるとふいに吹いた風にふかれて瞼を閉ざした。
「ヒヒイン」
馬のいななきに目を開き、一瞬を唇を奪われて雄哉を見た。
またぐんっと彼は体を起こしルシーダを落ち着かせ、向こうを見た。耳は真っ赤で、可愛い。
私はくすりと微笑み掛けて、機嫌を損ねかけたルシーダの首をさすってあげた。
「無理をさせないであげて」
「ごめん」
「ルシーダに言ってあげることよ」
「ああ」
雄哉はルシーダの首を撫でてやってから、倒させる上体の体勢でじっと私を見て来た。
「今夜、食事に行こう。咲子」
「予定が入っているわ。生徒が二人夜間コースなのよ」
「本当に?」
「ええ」
気紛れで前はよく言っていたから、またスケジュールを確認して来るかもしれないけれど、本日は本当。
この所は夜間訓練も受け入れていた。
週末にしかマスター舘へも行っていない。雄哉の事で頭がいっぱいになるからよ。
雄哉はもう乗馬七年目だから、こちらの馬場で訓練を受けに来る事は無い。
出会って七年目。付き合いだして五年目の私達は、六年前まで恋人だった人を完全に忘れさせてくれる子だった。
愛人として生きて来たあの四年間を、この子は五年間で忘れさせてくれた。苦かった想い出も全て。
それでもこれ以上は躊躇いを感じずにはいられない。
愛人にしてペットだった前の恋人が、私との関係を知られたために地位を暴落させた結果をもしも雄哉が踏まないとしても、その暴落無くしては止められはし無かったあの愛情を、雄哉には向けられない。
牙を剥けたら、後戻りできなくなる。
もう歯止めの利かないだろう魅惑の扉は、きっと深遠への悦楽を呼ぶ。
そして、危険な程の嗜虐へと向かわせるだけ。
私には正常な愛だとしても、駄目なのよ。
弾け折れたクリスタルペガサスの羽根の如く、雄哉の心が鋼では無い事も同時に分かっているから。
屈させたい気持ちが愛情と交差するには、雄哉は可愛すぎるから。
これ以上過去の傷を慰めあうママゴトは、ただただ切羽詰っていくだけ。
視線を馬場に向ける。
他のトレーナーが他の生徒を指導していて、掛け声をかけている。
私は柵から背を浮かせ、ルシーダの上の雄哉をみあげた。
「その鞭で」
「……え?」
「咲子」
視線がゆれ、彼の目を見上げたまま、鞭を持つ手が微かに打ち震えた。それは、期待、から……。
ムチウタレテミタイ、その言葉の。
それでも、彼の唇からその音が発される事は無かった。
ただただ、陽が差し込む柔らかな口許は無音のまま形作られた。
「俺の背を」
信じたくなる。形作られた唇が言った言葉が嗜虐へ向かう言葉だったのだと。
木漏れ日の中の雄哉とルシーダは、身を返し行ってしまった。
「………」
風が緑色に流れ、束の間の冬の昼を微かに温める。
背を見送った。
幻聴。
聞き違いね。私は無理矢理思い、小さく微笑み目を閉じた。
彼の掛け声が耳に響く。心地良く……。
草原の乗馬
咲子が草原を思い切り走らせて行く。
彼女の白馬は優美で、俺はしばらくは目を細めてみていた。
雪の積もる山々は水色の空に映える。
稜線はどこまでも鮮明だ。
一瞬、咲子の白馬と雪山が溶け込むように思えた。
「おい」
充博が俺の肩に手を掛け、振り向いた。
今チーズフォンデュを作る役目を咲子から賜った弟充博は、白ワインのボトルを手に俺に耳打ちした。
「二人の仲はどうなんだ? 雄哉」
俺は充博から、草原を馬で走らせる咲子を見た。
「分からない」
白のたてがみが艶めいてひるがえり、時々咲子の掛け声が空に響く。
チーズをかき混ぜながら白ワインを注いで、充博はふいに笑った。
「何だよ」
「いや。あんまりにもお前が姉貴を見る目が酔っ払ってるから笑えて来た」
「ワインの蒸気で酔ってるんじゃねえよ笑い上戸が」
「アハハハハ」
馬鹿にされているようで背を叩いた。
俺はフランスパンを切り始める事にして、ちらちらと咲子を見る。
風に揺れる草原を、今はゆっくり歩かせている。優美な白い尾をゆらゆら揺らしている白馬は、まるで咲子の悪戯な心のようだった。
子ども扱いされる毎に思う。
自分が咲子の前の男みたいに十二も年齢が上なら良いと。
関係無いとも思う。年齢も、前の咲子の男も。今が大事なんであって、どうにか繋ぎ止めなければならない。
咲子は独りじゃ駄目だ。
俺には咲子を笑わせることが出来る筈だ。
「おい。おいおい」
「?」
「パン粉!!」
「………」
チーズフォンデュにするべく俺はパン粉を丸く固め始めた。
「こいつもう馬鹿……」
遠くにいる美しい咲子を見つめながらうっとりと丸い団子を捏ねつづけることは幸せだった。
充博は大きく手を振った。
「姉貴。チーズフォンデュ出来たぞ」
「ええ」
身を返し、進んで来る。
颯爽と降り立って白馬を放ち、馬は自分で水を飲みに行った。
「これは何? あんなにあったフランスパン一本分は?」
その一本分のフランスパンは四つの丸い団子に変わってしまっている。
「諦めろ咲子。俺とお前の弟との共同作業でこうなった」
「………」
咲子が目を伏せ気味に俺を見て、俺は串刺しにしてチーズにつけた。
「俺達の間もこのチーズのようならいいんだが」
「火傷してなさいよぐつぐつと」
咲子は呆れながらバスケットから違う種類のパンを出してまともなチーズフォンデュを食べ始めた。
我が友はさすが充博で団子を共に食べている。
のどかだ……。
そんな中だからだろうか。
なお更願望がかき混ぜる銅鍋の中身と同様に渦を巻く。
あの咲子の指の血を見た時から、何がしかの感情が。
馬を払ういつもの鞭を持つ彼女の皮手袋は、今は素手で真っ白いパンを串に刺していた。
その鞭で……。
どうしたいというのだろうか。分からない。それでも自由を拘束されたいのか、したいのか……。
分からなくさせる。なにもかも。
黒ダイヤモンドの瞳
意識は朦朧としていた。
頬や手の平に冷たい感覚が伝わる。体中に堅い感覚で、それは自分が地面に伏しているようだった。
頬が痛い。
うっすら目を開くと、水の気配通りに硬質の地面に水が広がっている。
黒い湖面に横たわるかのように錯覚したが、そんな優しい浮遊感など無い。
痛い体を鞭打つように俺は上体を起こし、一瞬煌いた何かを見た。
水が揺れた先に波紋を跳ね返し、クリスタルの塊が光った。
溶け込むように転がるそれは、確かに小さなクリスタルペガサスだった。
微かに色がついているそれは目にブラックダイヤをはめ込んで薄桃色をしている。
手に取った。両手に乗せ、雫が滴り冷たい水滴が指を伝う。
黒革のパンツに白い光沢が反射し、そして一部腿のあたりで破れている事に気づいた。
ペガサスを手に、立ち上がって広めの室内を見回した。
石空間は薄暗く、無機質でどこまでも殺伐とした雰囲気しか無い。生命の気配も俺以外には感じなかった。
「咲子」
呼び掛けた声は反響しただけで、天井からぶら下がる鎖や手枷が揺れる中、隅々まで見渡そうとも俺とぺがさす以外には何の息遣いも無い。
向こうに鉄格子がある。歩いて行った。
波紋を広げながら進み、自分の姿が鏡のように床に映っては小舟が進んだように水の尾を引いて進む。
「おい」
鉄格子の中には石のような男がいた。全く動かなく、影の中にうずくまっていた。
「お前が現れてから」
「え?」
男が息を取り戻した様に動き、鉄格子に手をかけた。
「サキ様がご乱心だ」
「咲子を返せ」
「残念だったな。俺は動けない」
暗がりに目を凝らすと、男の足枷は鉄球がついていた。まるで罰せられているように思える。
眉を潜めて微かに覗いた男の背を見た。新しい傷は幾重にも線を引いて背の肉が裂けている。
「……ここは一体」
後じさりながら見回した。暗がりに慣れて来た目は、石の壁に掛けられる武器を現した。鞭だ。
馬用では無い。実に妖しげな雰囲気を醸していた。
自分の膝を見おろした。鞭で裂かれたと思い当たった。
男の手を見た。まるで悔しげに震える男の手は焼印が捺されている。古めかしい。
「……咲子」
睨んで来る男から身を返し、走って行った。
ガシャン
背後で男に鳴らされた鉄格子の音が響き渡り、鉄のドアを開けて空間を出た。
通路を走り、咲子を呼ぶ。
手の中のペガサスのペンダントを見た。走る視野に揺れ、光が乱舞している。
角を曲がって、驚いて立ち止まった。
「雄哉」
咲子の声がして、アイマスクの妖艶な女が黒馬の上から見て来る。
角を曲がれば野外で、ダイヤモンドのような星が煌いていた。石の庭を女が黒馬を進めさせていた。まるで夜と言う名の勇ましさがあった。
「咲子?」
彼女は手に持った鞭を腰元におさめ、颯爽と降り立った。
月の姿は無く、星影だけで美しい咲子の顔立ちに視線を落とす、どこまでも感情の無い女に思えた。マスクの中の瞳も。
さやさやと夜気が流れていき、木々が揺れている。咲子と俺の間がまるで酷く遠い距離があるかのように思わせる風の音だ。引き寄せてアイマスクの頬に手を当てた。
黒馬が一度嘶き蹄の音を鳴らし、見て来る。
艶やかな黒い毛並みには今に星光りを天の川のままに写しそうだ。
薄桃色のペガサスを彼女に持たせた。
優しげに光る。
咲子は首を横に振り、黒馬に跨り離れて行った。
さらりと豊かな髪をかかげ星光りの中で咲子が首にクリスタルのペンダントを掛け、袖の金の縁取りが弧を描き銅横に戻り、赤ビロードジャケットの狭い背に髪が柔らかく戻った。彼女が馬ごと振り向かせる。
微笑んでいた。
「馬には白鳥の様な羽根は無いわ」
「分かってる」
進むと、まるで黒馬が拒否して来る様に脚を掲げた。俺は下がって見上げた。
彼女の首からクリスタルのペガサスが光っている。黒シルクのスカーフの上、夜空を飛ぶように見えた。
石の空間にいた男の目が夜空に浮かんで消えた。
思うままにされたなら、彼女を見失わずに済むのだろうか。
この麗しい咲子を……。
手を掲げた。
手綱を持つ革手袋の手に手をあて、ブーツに包まれたふくらはぎから星が彩る咲子を見上げた。
「分かってる。これからどうされればいいのか」
微かに手の中の彼女の細い手がわなないた。
それは、感情の破錠から……。
ペガサスが微かに光り、夜風が優しく撫でて行く。咲子の癒しを俺の背で与えられるなら、幾らでも小夜曲のような鞭音を聞かせられるなら……。
俺の羽根は彼女が手にしてる。それでいい。
それで。
咲子の腿に頬を当て、目を閉じた。共に艶の様な夜風を、しばらくは受けた。
SAKIKO