冬の簪


 椿の簪 2012.12

 お座敷の女将は着物の袂を引き寄せた。戸を出ると下駄の足を楚々と進めさせる。江戸傘を粉雪が白く装飾して、積雪の道を歩く。まだ吹雪は弱いので、今の内に簪屋(かんざしや)に向かって帰って来る予定だ。彼女はふと美しい顔をあげ、雪の降る空を見上げた。紅の唇に雪の結晶が触れ、溶けていく。彼女の黒い瞳には寒空を飛んで行く大きな鳥が映っていた。どうやら番の鳥達は町屋を横断し、離れた場所にある池に向かうらしい。その池の辺は初夏の季節になると女達が集まり舞を踊った。大きな傘の下で客は座り舞を楽しむ。女達は池の輝きを背景に琴や竹笛の旋律に合わせて優雅に踊った。今は雪にとざされた冬。枯葉を所々雪の下から覗かせ、今にも完全に凍りつくと思われる池の横で、雪うさぎ達が踊り飛び跳ねている季節だ。

 「ごめんください」女将は暖簾(のれん)を潜り、静かに江戸傘を綴じた。そっと着物の雪を細い手で払う。簪屋の戸を越えると、店主が彼女を膝をつき笑顔で出迎えた。「雪のなか、ようこそいらっしゃいました。寒いでしょう。奥へいらっしゃい」「ありがとうございます」彼女は簪のおつかいに来た。お座敷で冬の宴を行なう時に、舞子達が季節の簪を鬢付けに挿す。冬の花は椿。先ほども路を歩いていると、紅色の椿の花が真っ白い雪の間に咲いていた。濃い緑の葉に雪を丸く積らせ、椿が愛らく咲く風情は女の偲ぶ恋を思わせた。店の主人が奥の桐箪笥から紫の風呂敷を持って来る。丁寧に風呂敷を開き、五本の簪を彼女に見せた。「まあ。とても美しい」彼女は五本の簪を見て微笑んだ。

 女将はお座敷に帰って来た。舞子達を呼び、畳に座らせる。「本日は、簪が完成しましたからね。貴女達に合わせます」「はい。お願い致します」彼女は一人一人の顔立ちや姿と五本ある簪を見比べて行く。いつも落ち着き払った性格で一番年齢が上の舞子には鶴の簪。鶴は細い脚で体を支え、雪原で凛と立っている。皆をまとめる役目で性格のはっきりした舞子には雲から覗く月の簪。彼女はいつでも温かく皆を見守っている月と同じ。神経質だけれど踊りが大好きで完璧主義者の舞子には白鷺の簪。小魚を捕らえる鷺はとても辛抱強いく美しい。お客様にも人気者でおちゃめな性格の若い舞子には狗の簪。雪の上で元気に走り回る犬に似ている。今遠くに許婚がいる舞子には椿の簪。冬の寒さを耐える花がよく似合う。

 彼女達は縁側から庭園を見つめた。雪景色は松や燈篭(とうろう)、竹や柘植(つげ)の木を白化粧して、池を凍らせている。番の渡り鳥が飛んでいった池も凍っているかもしれない。薄く張った氷の下で、錦鯉が泳いでいる。氷の上に雪が舞い、低い位置の南天(なんてん)の赤い実が飾る。番頭は飛び石の上の雪を藁箒で払っていた。女達は唄をうたいながらまどろんでいる。「あ。雪兎」「どこ?」女達は真っ白い風景に雪兎を見つけて微笑んだ。「あの子はどうやって入って来たのだろう。山へ帰れるかしら」「獲物を追って来たの?」兎はトントンと跳び、黒い瞳で人間を見た。漆喰(しっくい)の塀に囲まれた庭園は近くに山があるので、迷い込んで来たのかもしれない。また山へ帰って行くだろう。「皆。踊りの稽古をしましょう」「ええ」宴は夜だ。

 三味線が弾かれ、師匠が唄を歌う。女達は美しく着飾って、扇子を翻して踊っていた。足袋の爪先で畳をなぞり、袂を引き寄せ小首を傾げる。それぞれの簪が蝋燭(ろうそく)の灯に光っていた。雪見障子からは美しい日本庭園が見え、あの雪兎が跳ねている。客達は熱燗(あつかん)を傾けて舞を楽しんでいた。裾を引く着物から出る爪先や、袂から出る指先は繊細な仕草をしている。扇子を煽ぐと微かに縁側で焚き染められたお香が香った。お猪口にお酒が注がれる。「あの椿の簪を挿した女は良いな」「ええ。ありがとうございます。ご贔屓(ひいき)にしてやってくださいな」しかし、椿の簪を挿した女、八重子には両思いの許婚がいる。八重子の心は幾重にも重なる花弁のように淡い恋心を許婚に重ねている。舞子としてお客様から贔屓にされることは素晴らしい事だが、ほどほどが一番だ。

 八重子はお客様の三衛門(みつえもん)に気に入られた。彼は八重子の舞を楽しみながら酒を飲んだ。二人でお座敷にいると、あの雪兎が停まって二人を見た。蝋燭が照らす八重子の舞いや、三衛門の着物から出る腕。三衛門の腕が伸びて八重子の手を引っ張った。師匠は唄と三味線を止めて静かに三衛門を見上げる。「私のところに来ないか」「しかし」優しい目で八重子を見上げる彼は師匠に言った。「彼女を私にくれないか」「三衛門様。八重には許婚がいます。彼女は遠くにいる彼を慕っているのです」三衛門は押し黙り、椿の簪を見つめた。「しかし、あなた様の心をうれしく思います」八重子が言い、三衛門は頷いた。「結納(ゆいのう)を結ぶ時は舞子を辞めるのか」「はい。家庭に入ります」「……。寂しくなる。お前の舞を見れなくなるなんて」「もったいないお言葉でございます。今宵は心から舞わせて頂きます」八重子はうれしくて涙を流し、師匠の三味線に合わせて舞い始めた。

 三衛門はお座敷から出て歩き、降り始めた雪を見上げた。「………」しばらく静かに佇み見つめていた。彼の横を雪兎が跳ねて行く。彼はそれを見た。八重子が雪の上で美しく舞う幻想。雪兎がその周りで楽しげに跳ねている。いずれ、彼女はあの椿の簪を雪の上に落とすようにこのお座敷を去って行く。彼女を抱き締めたい気持ちを雪に包んだ。彼は歩いて行く。椿の花が咲いていた。彼はそこへ近づき、凍える指先を伸ばした。だが、音を立てて椿は雪の上に落ちた。白と紅色。「三衛門様」「………」彼は八重子を振り返った。寒空の下、八重子が彼に江戸傘を差し出した。「雪が降って参りました」彼女は微笑み、三衛門は八重子を腕に抱き締めていた。彼女は驚き三衛門の肩から空を見上げた。「あなたは誰ですか?」青年の声がした。三衛門は振り返り、青年を見た。八重子の許婚、千吉が立ち尽くしていた。「千吉さん」千吉は三衛門を睨み、脇差(わきざし)に手をかけた。襲い掛かり、お侍の三衛門は咄嗟に刀に手を置いた。

 八重子が叫んだ。三衛門は千吉の攻撃を避けて彼の手首を捻り上げた。「私は彼女の客だ。安心しなさい。君の八重子を奪わない」三衛門は千吉の脇差を奪い取り、雪の上に放り投げた。既に兎は驚いて山へ逃げ戻っていた。八重子は気が抜けてその場に座った。「八重子」千吉は彼女を引き上げた。「勘違いをしてしまいました。お侍様。てっきり逢引きかと」「違うの」「良かった。お座敷で笛を吹く仕事が入ったので、僕は冬からここで働きます」三衛門は頷き、寂しげに微笑んだ。これは三衛門の恋が終った瞬間だった。「お前達の結納には、俺から心づくしの祝いを持っていこう」「お侍様。あなたのお名前は」「名乗るほどの者では無い」恋が終ったので、お座敷には来ない方がいいかもしれない「しかし、八重子の大切なお客様だ。お名前を知りたい」「俺は三衛門。甲本三衛門だ」千吉は頭を深く下げた。三衛門は彼に脇差を返し、肩を叩いて頭を上げさせた。三衛門は八重子を見つめ、彼等に江戸傘を持たせた。颯爽と歩いて行く。八重子はその消し炭色の着物の背を見つめ続けた。白い雪の景色に溶けて行く。椿の花に重なって血が、頭部が雪の世に彩らずに良かった。

冬の簪

冬の簪

  • 小説
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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-03-30

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