~夏の夜の妖かし眠る~幻惑

夏の夜の怪談 2007,8


夏の夜。
世はまだまだ宵の口じゃ。
寂れた声が虚ろに響かんと、寒空しい空気はどんよりとどよめいて、淀みのまま。
月は灰色をして不気味に何かの鳥が泣き、障子の影は濃密な森の背景を思わせる。
霧が深い森を包んだんじゃ。
そりゃあそりゃあ、賢い狐も逃げ出すような重い霧。
血の匂いを含んでも無い物を、だんまりと黙りきり、男は堤燈の先の巨木を見上げた。
苔むすその霊木は、どこか森の芳しさを乗せ緑の霧は厳正なる雰囲気を漂わせた。
一昨年の秋口に怪我をしていたのを見つけ匿った狐は、そのまま男の狐になっては、森に踏み込むことを先延ばしにするかの様にすがりついていた。
元々森の狐じゃ。
自然に帰す為に踏み入った昼のうちは、既に道を失い闇に落ちていた。
きっと、女房は小屋で待っている。蝋燭の明かりの中、帰らん夫と狐の為に作った夕餉を、そのままに。
何故狐が産まれた森へ帰りたがらなくなったかは不明だが、目の前の圧巻する巨木は、実に立派でもあった。そうして、札が貼られていたものの……
このような木が果たして今まであったものだろうか。
男は霧立ち込める幽玄な森を見回しては、どこか幻聴で琵琶や琴音、三味線などが不気味に届きそうな気になって、老女が回り詠う唄まで聴こえ惑わされぬ様、灰色の狐の身を抱き上げ頬釣りした。
男は闇と多くの木々の中、幹を辿って木の前まで来たのだが、杉なのか、それとも楠なのか、この闇と流れる霧のせいなのか、何故だか判別出来ない。どちらも全く違った種の木だが……。
幻だろうか、手を触れ伸ばした感覚に、刹那にして狐はキーと恐ろしい声を上げ、男は目を刹那閉じていたのを冷や汗が伝い、目を恐る恐る開いた。
湿った苔の感触は柔らかく、濃く、この巨木の枝葉で木の周囲は木は生えておらず、昼は影に閉ざされたままなのだろう。
枯葉はどれも広葉樹の広い葉で、雨に湿ってじとじとしている。抱き上げた狐の足も濡れ手冷たく、男の衣の中に必死に入ろうとした。
顔を上げた男は震える狐の頭を撫でながらも、首を傾げた。見上げても太い幹しか見えずにいるこの巨木。
札の貼られたその背後に、霧が晴れた為に闇先に現れたものか、小さな社が佇んでいる。
巨木は何を表すものか、人間の心情を掻き乱す程の何かの威圧感があるのは、人が小さい存在だからであろう、巨物への恐怖感か、そんな物を感じる事も無いというものを。
物には何かが宿る。魂、生命、霊、小宇宙、血潮。
恐れるものなど無いのだ。人として。
だが、何故闇霧の森に現れた巨木は狐を、そうして迷い込んだ男を恐怖に陥らせたのか。
社は古く、雨に濡れ木は黒く見え、瓦は艶を受けていた。壊れた扉は半分開き、札は破れている。中には光沢を失った観音が静かな顔をしては、蓮華を咲かせ、数本の手腕が華麗に静寂の態で流れ広がっている。美しさに見惚れ、しばらくは崇めていた。
社の内は札が所狭しとはられ、既に何処の襲名なのかも不明だ。森の社に観音を奉っているとは珍しい。
稲荷を奉る社の多い中、誰が作ったのか。
男は叫びそうしてどしゃっと尻持ちをついた。闇で何も無い筈の観音像の背後に、一瞬蝋燭が灯ったのだ。揺らめき、光ったのだから。
湿った尻を上げまた進み入り、社の奥を窺い見た……そうすると、今まで無かった筈のその先が続いている……。
女房が待つ森の背後を振り返り、男は狐と共にその先へと、まるで吸い込まれてゆく。

この場を護る為に巨木はあり、社はあったのだろうか?とにもかくにも、男は狭い闇を歩いて行く。
無かった筈の森の中のあの場所は何処から現れたものかと思いながらも朝明けの様な光が眼前に広がり始めた。
狐は男から降り、大きな尻尾を足に絡ませた。

女房は障子を引き、霧で完全に閉ざされた森を覗った。
不気味な風で蝋燭が揺れ、まるで刀のような月が霧の海の無い星瞬く別の空を斬り付けている。
そうと思った刹那、夫の声が森の闇を劈いたのである。
女房はびくとして首筋に嫌な風が通ったのを森を凝視し、草履を履き夫のいる森口へ駆け寄った。
その瞬時、既にもう夫の魂は消えたに違いない。そう感じた……。

手負いの女が狩人の前で倒れ込んだ。
介抱に向かい、女は男を森へ誘い、霧に包まれた。
三味線と唄が聴こえ惑わし、男が辺りを見回すと老婆が三味線で唄を唄っている。巨大な木の札が風でゆらりとはためき、男は横の女の妖しい微笑みを見た。
まるで動物霊の様に妖艶に笑い、三味線と唄の激しくなる中男は冷や汗で顔を蒼くし、にじり寄る女と音色に頭を壊れさせた。女の叫ぶような笑い声は深く高い森の天井にこだまし響き渡った。
白目を剥き男は泡を吹いて後ろに倒れ込んだ。
女は三味線が鳴り止むと、社の中へ男を入れた。
女はどこか、美しさで惑わした観音に似ていた。

その黒の間柱と鴨居以外全て淦塗りの部屋は、男が五人ほどいた。女は自分から逃げ出したもののしっかり役目として男を連れて来た狐の頭を撫で、蝋で固められた五つの屍を見ては微笑んだ。
新しい屍を、現れた男が手早く蝋で塗り固めていく。
六体揃うと、男達はそれらを女の闇に閉ざされた箱庭へと運んだ。女は札をはり、そうして完成させた。
女が足許をふと見ると、一人の小さな女が自分の夫の屍を見上げている。
女はくすりと微笑み、惑わしの三味線を弾く老女に合わせて唄った。
小さな蟻のような女は釣られたように進んでいき、巨木と化した夫の屍の足許に来ると、その幹に手を当てた。
森を彷徨う女は幻聴に感覚を夢見ごこちにさせられ、巨木の先の何かを見つける。

女が目を開くと、目の前に妖美な女が佇んでいた。
森の中、鴉が枝から見下ろして、まるで笑うかのようである。
「あなた様は、どこかで…?」
美しい女は幽霊のようでもあり、だが漆の下駄で踏みしめる足許には、探していた狐がいた。
大きな目で見上げては、主人を恐れているようであり、女房は言った。
「お前、ワシの旦那様はどうした?」
狐はまるでそれに逃げるかの様に巨木の背後へ、ひょうっと、軽く走り消えて行った。女は称える微笑のまま、男の女房を見ると白魚の様な手を差し出した。
「この森に迷い込んだんじゃ。見なかったかい?」
女は不意に背後の木を見上げ、首を横にゆるりと振った。
「こんな場所、あったかねえ……。」
女房は辺りを見回し、女の静かに佇む先の社を見た。その中に奉られた観音如来。女に似ている。
どこかで見たことがあるも何も、女は狩人の吉べえの所の新しい女房に似ていた。どこであんな美人な女人をこんな都で無い場で見つけてきたかは不明だったが、どうやら怪我だか病気だかで、外に出て来る事は滅多に無かった。
「わしの夫と吉べえはどこに……?」
女をいぶかしんで見て、何かの風がひゅうと首元をさらい、まるでそのまま斬れてしまうかともおもった風だ。
「男達は今、楽園で愉しんでいるのさ。古い女房や、独りの狩にはもう飽きていたんだという。何も考えないで良いように、遊ばせて上げるのが一番さ。」
女房は驚いて女を見るや、その事で堤燈を落としてしまった。火が一瞬広がりを見せたが、湿った枯葉で消えて行くと、ゆっくりと闇が浸蝕し訪れた。
「まさか、あんたが連れ去って……?」
闇の中、その声が掠れたのだが、返って来た答えはからからとした笑い声だった。
「美術のためには必要だったのさ。日常の糧を他に置きたいと思う心を読み取って、誘き寄せたのみ。確かにそれに恐怖を感じて魂を食われはしたが、その表情が良かったんじゃないか!」
鴉がばさばさと女房の頬を掠め飛び、短く叫んで目を開いた。
森の入り口で、女房は火の消えた堤燈を持ち佇んでいた。雨が降り、じとじとと衣を重くしてはこの夏の時期の雨は冷たい……。
曇り空は眩しい雲が光り、それを見上げた女房は森の奥を見た。
どうやら……、幻覚を見ていたらしい。
女房は障子をあけ、夕餉を見下ろした。
何をどうした物か、気がほうっと抜けたようだ。

狐が開かれた戸の下で、その背の様子を窺っていた。
「もし……。もし。」
女房は顔を上げ、振り向き狐を見下ろした。声が聞こえたが、この狐だろうか?艶やかな毛に雨の雫をたくさん乗せ、狐は細い鼻と鋭い口元で確かに声を出した。
「あの妖怪をどうにか閉じ込めていただけんだろうか……。」
「ようかい……。」
狐はしわがれた声でそう、と頷いた。年老いた狐の様には思えなかったが、どうやら相当長生きをしているもののようだ。
「社への路はまだこの雨の霧の中、開かれておる。あのおなごはおなごの形をした人魂喰いの鬼女。閉じ込め社に札を貼り、火を放ってほしい。」
「何故わしが出来て、あんたが出来ん。」
「わしは狐じゃ。」
ご尤もである。女房は「よしきた」と言い、それでも不安げに森を見た。障子の影が落ち、枝の影さえも揺れている。女房は細い手腕に油を含ませてある縄を持ち、蝋燭に火を着け蓑を被った。
狐がひょいと肩に乗り、女房に頬釣りした。
「安心なされ。閉じ込めて社を燃やしてしまえば女はもうこちらにこれぬ。」
「旦那様は戻るのか。」
狐は何も言わず、歩き出した女房は固唾を呑み、森の中へ入って行った。

女は淦塗りの漆喰の部屋から、縁側に白の裸足をぶらつかせてばうっとりとして塀に囲まれた箱庭を見ていた。
時折その額両側に漆黒の角が見え隠れし……、滑らかな額と髪の生え際へと消えて行った。
貝紫色の鼻緒がついた漆塗りの下駄に足を通し、石砂利の庭を歩くと屍を一つ一つ廻って見ては澄んだ月光が蝋の表面を照らした。
一体の男の目玉が悲痛と驚愕した表情のその蝋の中で動き、女は一気に不機嫌になり男を睨んだ。
心が屍になっただけでは、まだまだ魂を食うには熟成が必要だ。動けないよう再び厚く蝋で固めさせるよう、金扇子で促した。
不意に身を軽く返し上目になった女は、紅のふっくらした唇に扇子の先を当てた。
霧がこの空間に出始めているとは……。
女は異変を感じ、黄金の月に扇子を投げつけ走った。
空間の歪みのもたらした霧でもあるが、煙でもある。走り、徐々に女は黒の角を生やしては肌が硬質の漆黒に変って行き、牙をたぎらせ漆黒の長髪は簪を跳ね飛ばし、動物のような目が廊下の霧煙の中を彷徨った。
「狐め!!!」
老婆は三味線をかき鳴らす音が嘲笑いに聴こえ、鬼女(きじょ)は怒り狂い叫びを劈けさせた。
男はこもった熱で塗っても塗っても溶かされる蝋をおぼろげに見ては、煙で時に隠れる月を仰ぎ見た。
女に戻った姿で鋭く睨み、廊下の突き当たりの森へと続く戸を開いた瞬間、炎が美しい女の顔を焼き襲った。
「きゃああ!!!」
老婆は三味線を弾き語り高く唄い、炎が押し寄せる中を狂い唄った。男は六体の身体が崩れたのを顔を戻し、女が顔を抑え自分に泣きすがって来たのを片腕に受け止めた。
「うう、あたしの顔が、あたしの顔が、お前さん、」
男は女から顔を上げ、その背後の男を見た。狩人の吉ベえが、一度は助け自分の妻にした女の腕を引いた。
既に角は生え、漆黒の肌は艶めき、それでも美しく哀しみ無く女は魂を食う黒鬼の姿でもあった。
炎が広がり始め、他の男達は一斉に目を覚ましては驚き声で短く叫んだ。
男は六人の男達を突きかえした時には、赤い炎の中筋肉隆々とした赤鬼に変っていた。
六人はどうしたものかと驚き走って逃げ、その炎の中から女房の声が聞こえる。
「お前さん!!お前さん!!」
知らないしわがれた声も。
「好きじゃ!!好きじゃ!!」
「……、」
なんともつかない顔で困惑し、背後を振り返った囚われていた男達は、とにかく女房の待つ男と共に炎のすき間を掻い潜って行った。
必死で走り抜け、一気に冷たさに包まれると男達は崩れた社を振り向いた。
炎が占領し、あったはずの巨木が消え、本来の森の平地へと戻っていた。
女房は夫の煤を拭いながら、辺りを見回した。
「お前さん、吉べえさんは……?」
狐も何時の間にか、幻となり消えていた。
吉べえの姿は、その日から見る者はいなかった。

「もし……」
 切り株からひょこりと顔を覗かせたものがあった。その視線の先に、一人の男がうなだれていた。
吉べえは切り株に座りこうべを垂れ、狐が横に来たその頭を撫でた。
「ワシはあれで良かったと思っとる。ようやった。」
狐はそう言い、吉べえは黒鬼であった美しき嫁を思い、何度か諦めた様に頷いた。
「俺はよお狐。分かってたんだ。いずれ、幻の様に何処かしらへ帰るんじゃねえかってえことは。一時の夢うつつの間際が幸せだったのさ。」
 妻と赤鬼を吉べえの怪力で、炎から闇へと押しやり助け、自らも業火を免れたのだった。
だがいかんせん、自らはどの顔を下げて戻るというのか、狐がちょこと歩いては傷心する彼を見つけ、今こうやって切り株に座り話し合っているのだった。
 鬼でも愛する男の前では美しくいたいという女の望みは魔力になり、心を惑わしたのだろう。
人の心を惑わす芸術も美も、魔力になりうることもあり、悪にも変る。それでも、人の心を充たして止まぬその一つの性質は、人の生み出した耽美か、自然の培った物からかけ離れた欲望にもなりうる、それは女の悦び……。

~夏の夜の妖かし眠る~幻惑

~夏の夜の妖かし眠る~幻惑

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更新日
登録日
2014-03-30

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