桜と揺れる電車
電車が僕らを揺らしてく。桜子と別れて一ヶ月が経っていた。
電車が僕を揺らしてく。
桜子と別れて一ヶ月が経っていた。
電車が僕を遠ざけていく。大学生時代の思い出から。君と過ごした日々から。
まだ朝早いせいだろうか。ぼそりぼそりとした灰色の声と電車の苦しげな吐息だけが辺りを占めていた。天気が雨なことも後押ししているかもしれない。
もし、過去に戻れたら。そんなことを考えた。
もし過去に戻れたら、一体いつからやり直せばいいんだろう。
初めて喧嘩した時だろうか、それとも別れる一週間前か。
今まで無表情な岩肌を写していた車窓が黒く塗りつぶされ、電車は一際大きな唸り声をあげた。
急に考えるのが馬鹿馬鹿しくなって、僕は目を閉じて深いため息をついた。
このまま眠ってしまおう。どうせ、終点で乗り換えだ。急ぐ旅じゃない。もし、終点でまだ眠っていたら誰かが起こしてくれるさ。
電車が大きく揺れた。この電車にはある悪評があった。兎に角、揺れる。だけどその揺れる特急電車との付き合いもこれまでか。そう思うと不思議と居心地が良いような気がして、僕は深い眠りについた。
電車が僕を揺らしていく。
僕を遠くに運んでいってしまう。
「別れようかと思って」
頭の中で、何回も反芻する。
この一言が桜子の口から出てきたとき、僕は辟易していた。
なんだ、またか。
別れを切り出されたのは初めてじゃない。これで13回目くらいになる。
少し気持ちに不安定なところがある桜子は度々発作のように激情を起こすことがある。ヒステリーの原因にいつも僕が悪い所は無い、といえば嘘になる。しかし、その度に桜子を宥め、気持ちが落ち着いて来た所で互いに喧嘩の着地点を見つける。そういう手順めいたものが僕たちの間にあった。手順の終わりに、桜子が僕にふてた子供のように「ばーか」と言う。僕は桜子を抱き締める。そうやって今までやって来た。それを超える度に互いの絆のようなものが強くなっていく。そう思ってた。
しかし、そのときは何か違った。桜子はとても理性的な目で僕を見ていた。いつも桜子が激情を起こすとき、桜子の目にはギラギラと煌めく獣のような光があった。僕は桜子を宥める一方でその目を恐ろしく綺麗だと感じたことがある。しかしそのとき、桜子の目には激しく燃える美しい獣のような瞳はなく、理性で考える人間の目があった。
本気なんだ。僕はその瞳からくる無言の圧力に妙に納得してしまった。
目が覚めたとき、車両の中は明るい声に溢れていた。子供の元気な泣き声。おばあさん達の囁くような優しい談笑。大学生たちの叫びにも似た笑い声。
僕はなんとなく居心地の悪さを感じながら車窓を眺めた。
車窓には太陽に照らされた賑やかな街並みが写っていた。
そうか、もうこんなとこまで来たんだな。
僕が四年間住んでいた地域は雨が多い。桜子はいつも部屋干しになるって文句を言ってたっけ。
しかし、電車で山を幾つか超えると雨の国から晴れの国に入国する。晴れの国の真ん中、それがこの電車の終点だ。
車掌が終点を告げ、僕は荷物を準備し始めた。
ふと、荷物を整理し直していると懐かしい匂いがした。僕は匂いの発信源であるセーターを手にとった。
あぁそうか、このセーター。別れてから着てなかったな。セーターは桜子の家で洗濯してからまだ袖を通してなかった。
一緒の洗剤を使って、一緒のシャンプー、コンディショナーを使って、一緒の歯ブラシ粉、同じ物を食べて僕らは同じ匂いを纏うようになった。
僕は桜子の家で同棲していた。別れて一ヶ月経った今でも、僕はあの優しくも柔らかな匂いを覚えていたんだ。
「桜子の匂いがする」
狭い布団の中で桜子のお腹あたりに顔を埋めて僕が言う。
桜子はというと、まるで幼児をあやす母親のように僕の首筋あたりを撫でていた。
「どんな匂いだよー」
桜子はくすぐったそうに笑っている。
「なんか赤ちゃんみたいな、乳臭いような、でもちょっとシャンプーの匂いも混ざってさ。すごく落ち着く」
「明日早いんだから、もう寝るよ」
まるで、胎児のように体を丸めて、桜子に抱かれながら僕は深い眠りに落ちていく。
ふと我にかえると、セーターに顔を埋めていた。周りの人たちはすでに立ち上がり荷物を手に持っている。
僕は慌ててセーターを鞄に仕舞い支度を整えた。
新幹線の自由席は、まるで椅子取りゲームのような様相を見せていた。僕はそのゲームに加わるほどの気概も無かったので車両の連結部分のドア付近で立って座席が空くのを待つことにした。
開いたドアから外を眺めていると、青いサッカーのジャージを羽織った少年とその肩に手を乗せる母親らしき女性が目に入った。
誰かの見送りかな?
少年の目に涙が溜まっている。口はぎゅっと詰むんで今に泣き出してしまいそうだ。
しかし、その男の子はズボンをくしゃくしゃに握っても決して泣き出すことはしなかった。強い子だな。そう思った。
発車のアナウンスが流れ、扉が閉まる。
「じゃあね」閉まる寸前たしかにそう聞こえた。
「じゃあね」
そう言って最後のキスをした。桜子の目は申し訳なさそうに揺れていた。あぁ、僕はもうこの目を見ることは無いのか。諦めにも似た感情で、僕は一緒に生活した家の扉を自ら閉じた。
扉の先はもう二度と交わることが無い別の世界のようだった。
これでよかったのか?僕はあれから何度も自問自答している。
でも、これでよかったんだ。そう思うことにした。
時速200kmで外の風景が次々と移り変わるの見ながら、僕はさっきの少年を思い出していた。
僕はあの少年のように、強い瞳をもって桜子に「じゃあね」と言えたのだろうか。
やっと空いた新幹線の座席に座って、僕はまた桜子を思い出していた。
「本当に楽しかったよ。今まで本当に大好きだったよ。」
二人で抱き合って、二人で涙を流して嗚咽を吐き出す。どうやら、好きって感情だけじゃ上手くいかないこともあることを僕はこのときようやく理解したようだ。
「本当に楽しかった。」
鼻水をかむのを忘れて、目を真っ赤にしながら言われたその言葉を僕はきっと忘れない。
新幹線からローカル線に乗り継ぐ。
太陽は半分沈みかけで、ローカル線の駅のホームは昼よりも眩しい赤い光に満たされていた。仕事終わりのくたびれたサラリーマンをちらほら見かける。彼らは吸い込まれるように帰りの電車に乗り込んでいた。
見たことのある青いジャージが目の前を横切った。新幹線のホームで見たあの少年と同じジャージだった。
その母親らしき女性が少年に語りかける。
「もうすぐ家だよ、疲れちゃったかな?」
「ううん」
「タツシ君とは暫くお別れだね、寂しい?」
「ううん」
「ウソ。新幹線で泣きそうだったじゃない」
母親が悪戯っぽく笑って少年をたしなめた。
「ううん。だって楽しかったもん。泣かないよ。楽しかったから泣かない」
何も関係が無い僕にも強がりだってわかった。
母親らしき女性は微笑んで、それ以上聞こうとしなかった。
この電車に乗ればもうあと少しだ。幼児の歯のようにまばらにしか乗客はいない。僕は荷物を降ろすと少し広く座席に座った。どうせ、もう乗ってくる人も多くないだろう。
そうか。楽しかった、か。
幼い子供達の幼いルール。楽しかったのなら泣いてるのは変だ。楽しかったのなら笑わなきゃいけない。
きっとあの子供達は、泣いてしまうことで自分達の楽しかった思い出が悲しい思い出に変わってしまうような気がしたのかもしれない。子供らしい短絡的な論理だけど、僕には互いに思い出を大切にする二人の様子がなんだか、くすぐったかった。
僕は荷物を降ろした安心感か、広めに座った居心地の良さか、それとも別の要因なのか。いつの間にか眠ってしまっていた。
「えー?本当?」
桜子は僕のシャツをたたみながら、疑惑の目を向ける。
「本当だよ。うちの地元の桜は2月の中旬が満開で、2月末には散っちゃうんだ」
僕は桜子の靴下をたたみながら言う。
「ずいぶん、せっかちなんだね」
「すごいピンク色でさ。綺麗っていうか可愛い桜なんだよ」
「へー、見て見たいなあ」
「うん、今度行こうね。きっと絶対」
桜子は小さく頷くと、花が咲いたように笑った。
電車が僕を揺らしてく。
桜子と別れて一ヶ月が経っていた。
電車が僕を近づける。
新たな出会いと、次の目的地に。
車窓には真っ赤な太陽の光を受ける緑色の葉っぱをつける木々が写っていた。
一ヶ月前は綺麗なピンク色の花をつけていたその木々は、今はもう次の季節に向けて準備をし始めていた。
桜と揺れる電車