ビューティフル・ダイアリー(1)

一 幼女から 五 座禅の女まで

 だだっ広い講堂のような部屋。三面は壁だが、一面は窓。朝の時間が早いのか、日差しは、窓ガラスから斜に差し込み、部屋の中心部まで伸びている。窓と反対側の壁には、顔だけが映る鏡が張り付けてある。その鏡の前に一脚の椅子が置いてある。鏡の壁の右側の壁には時計が掛けてある。時計の針は七時を差している。
 部屋には誰もいない。ガラガラガラ。時計の壁と反対側の壁のドアが開いた。何者かが立っている。誰だ?女か?男か?その誰かがゆっくりと歩いてきて、部屋の真ん中まで進んだ。
ぺタン。ぺタン。ペタン。スリッパの音がする。スリッパは、足に比べて少し大きいのか、かかとがワニの口のようにあくびをしている。
 一人芝居の主役は、舞台の中央に立つと、一度、窓の外に咲いている花を一瞥し、鏡のある壁に向かって進んだ。一歩。一歩。また、一歩。ペタン。ペタン。ペタン。
鏡の前に立った主人公。鏡にはお腹が写っている。主人公は椅子に座った。鏡に顔が映った。年齢は若い。まだ、二十代だ。

 あたしは美しくなりたかった。本当に、美しくなりたかった。そのためには、命を掛けてもいい。だから、美しくなるための栄養分を摂取したかった。その栄養分は、食べ物だけではない。化粧も服も花もアクセサリーも、全てがあたしの栄養素なのだ。
 栄養素は私以外の物であり、私自身の中の物。私以外の物が美であり、私自身も美なのだ。そして、私以外の物が醜であり、私自身も醜。混在する美と醜。並列する醜と美。そして、いつでも変換可能な美と醜。その意味では、美と醜は姉妹の関係。いや、親子の関係か。親しいが反発し合う。そむけ合うが仲睦まじい。

 主人公は鏡をずっと魅入っていた。

 一 幼女
 あたしのまいにちは、ばななをたべたり、あめをなめたり、はなからくうきをすったり、くちからいきをはいたり、みずをのんだり、ぼけっとしたり、かみにはなをかざしたり、おにくをたべたり、よぶんなおにくをおとしたりしています。よぶんなおにくをおとしておなかがすいたら、ときには、ひとをくったりもしています。
 もちろん、ほんとうに、ひとをくったりなんかはしません。にんにくはたべても、じんにくはたべないしゅぎなのです。こういうはつげんじたいが、ひとをくうことよ、とおかあさんからおこられました。
 あたしは、いきるため、うつくしくなるため、あらゆるものくいつくしたい。ときには、つけくわえたり、ときには、そぎおとしたり、ときには、あるがままに。それが、びゅーてぃふるないきかただとおもいます。
あたし、きれい?

 二 ルームランナーで走る女
 ハッハッ。フッフッ。ハッハッ。フッフッ。ハッハッ。フッフッ。
 真子の息が荒い。だが、息は的確にリズムを踏んでいる。
 いち、に、さん、し。いち、に、さん、し、のリズムだ。
 額から汗が流れる。脇の下にも、足の付け根にも、背中の腰の部分にも汗がにじむ。走っているのだから、体全体から汗が出ても当り前なのだが、汗が大量に出るのは不思議といつも場所が決まっている。
 首に巻いたタオルで顔を拭く。運動を続けていれば、どうせ汗が噴き出してくるのだから、終わってからでもいいのかもしれないが、真子は、何故か、顔に汗を掻くのはいやだった。何か、気持ちが悪い。だったら、運動もやめればいいのだが、運動をやめると気持ちが悪い。どちらの気持ちが悪いかを、心のやじろべえで測ってみると、運動をやめると気持ちが悪い方に傾く。だから、ルームランナーの上ではつかねずみに負けまいと走り、顔に汗が流れ出たらタオルで拭く。おかげで、心のやじろうべえはどちらにも傾かない。平行のままだ。
 真子は顔を拭き終わり、タオルを再び首に巻いた。ふと、顔を上げると、左方向に、見たことのないおじさんが台の上に立っていた。片手を上げた。ピストルだ。
 真子は、ルームランナーから、マラソン大会にワープしたのだ。周りには急に人、人、人が集まってくる。もう、スタート時間なのか。おじいさんやおばあさんを始め、若い男に若い女、高校生や中学生、小学生もいる。真子の前にどんどんと人が並んで行く。真子は、後ろ、後ろへと下がっていく。選手の数が急激に膨れ上がる。だんご状態か、砂粒状態かわからないけれど、その中に、真子がいる。満員電車ならぬ、万人ランナー。
 ポン。ピストル音が鳴った。しけた音だ。火薬が湿っていたのか。先頭の選手は走り出したようだが、真子の周りのランナーは一歩も動かない。真子がいる位置は、スタートラインからかなり後ろだ。理論上は、同じスピードで、同時に動き出せば、前に進むことができるはずだが、実際は、人それぞれの反応の仕方は異なるため、同時スタートにはならない。
 出番を待ちかねて、その場で、ジョギングする人、談笑する人、顔やふとももを手のひらで叩き、気合を入れている人。皆、様々だ。
 体がひっつきすぎて、目の前の選手の頭部しか見えなかったけれど、次第に、首、背中、お尻、ふとものや膝の裏、カラフルなシューズが露わになっていく。
 ようやく、真子の出番だ。右足を一歩踏み出す。左足も、だ。真子の後ろにもランナーがいる。今度は、真子の後頭部、やや猫背の背中、少し下がり気味の臀部、太目で、短い脚が、後ろから見つめられることになる。
普段の生活では、自分の後ろ姿なんか他人にどう見られようと気にしないけれど、ランニング大会になると違う。後ろ姿だけで、そのランナー実力がわかるからだ。
 少しでも実力以上に自分を見せたい。もっと、美しく走らなければ、もっとスピードを上げなければ。加速する体。それに比例して、額に皺がよる。鼻の穴が最大限に広がる。だが、これまでだ。鼻呼吸から口呼吸への転換。口が大きく開く。隣のランナーの吸う空気までも奪い取ろうとする呼吸。息が荒い。声を出していないのに、喉から口に掛けて大きな音が鳴る。洞窟の中の風のようだ。
 どんなに息を吸っても、どんなに息を吐いても、肺は苦しみのうめき声しかあげない。酸素が足りない。酸素が足りないのだ。そのうちに、今度は、体中の筋肉が悲鳴をあげた。スピードの継続を拒否するストライキだ。もたない。体全体がもたない。距離表示は、まだ、わずか一キロだ。このままでは、残り四十一、一九五キロを走りきれない。もし、走り終えることができれば、美となれるのか。それとも、醜となるのか。
 真子は、自分の意識が遠くなっていると感じた。

 三 バナナを食べる女
「ここはどこ?」
 女は呟いた。まるで見知らぬ場所だ。思い出そうとしたが、思い出せない。それは当り前だ。かつて、来たことはなかったからだ。だが、その保証もない。ひょっとしたら、来たことがあるのかも知れなかった。だが、そんなことはどうでもいい。
 女はぼんやりと庭を眺めていた。最初に目覚めた時に、見えたのがその庭であった。鳥は、卵から生まれた時に、最初に動くものを母親と思い込むという。それならば、女にとって、中庭が母親なのかもしれない。母に会いたい。女は立ち上がろうとした。その時だ。
「食べる?」
 突然突き出された言葉とバナナ。女はその声の先とババナの先を見た。手首、二の腕、肘、肩、そして顔だった。顔には覚えがない。だけど、女にバナナを差し出している。こんな親切な人はいない。友だちなのか。だが、女がここに来てから、友人と呼べるような人はいない。それなら、身内なのか。その人は、どこから来たのだ。
女は中庭を見ていたはずだ。それなら、中庭から来たのか。中庭は、お母さんだ。それなら、目の前の人はお母さんになる。そう、お母さんなのだ。いいや、お母さんに違いない。お母さんであって欲しい。
「お母さん。お母さん」
 女が叫び続けると、見知らぬ女は目の前から消えた。一人残された女。バナナを手に持つ。一枚、二枚、三枚、四枚と黄色い皮をむく。中から、薄い黄色のお母さんの化身が現れた。口を寄せる。ひと口噛む。ガブリ。お母さんの頭が口の中に転がり込む。
 ぐちゃぐちゃぐちゃ。お母さんの頭がつぶれた。でも、大丈夫。お母さんの頭は、女がいつまでもお母さんのことを忘れないように、女の脳の中に吸収されたのだ。
 二口目をガブリ。お母さんのおっぱいが口の中に溶ける。でも、大丈夫。お母さんのおっぱいは、女のおっぱいの裾野に広がった。もう、垂れ下がることはない。
 三口目をガブリ。お母さんのお尻が口の中で弾ける。でも、大丈夫。お母さんのお尻の膨らみは、女のお尻の先端で、女が、もし、尻もちをついた時に、女を守ってくれるのだ。感謝、感謝。
 四口目をガブリ。お母さんの脚が口の中で折り畳まれる。でも、大丈夫。お母さんの脚は、口の中で、きちんと正座をしてくれた。あんまり長い間、狭い口の中にいるとしびれてしまうだろうから、女は四口目のバナナを飲み込んだ・
 後に残されたのは、バナナの皮だけ。女はお母さんをすっかり飲み込んでしまった。お母さんを食った女は、女が二つになった以上、お母さんの分も一緒にきれいになれるはずだと信じた。

 四 唇を愛する女
 舌を突き出す。空気に触れる。上唇を舐める。右から左に。左から右に。乾いた唇に湿り気が甦る。この地球上に水が生まれ、水玉が割れ、何かが産声を上げた時のように。
 舌は蛇となり、ナメクジに変化し、カタツムリとなって、下唇を散歩する。自らが水を巻き、自らの道を切り開く。右から左へ。左から右へと。昭和新山のように、唇を突き出た舌は、ちょろちょろと空気の水分を吸いつくしていく。舌先だけに、雲が集まり、海が流れ込み。氷が溶けた。
 あたしは、あたしの全てが嫌いであった。額も、眉も、眼も、鼻も、顎も、髪の毛も、全てに嫌悪していた。ただし、唯一、あたしが気にいっているのが唇だった。いや、本当は、唇も嫌いなのかもしれない。ただ、他の器官に比して、嫌いさが少しましなだけなのかもしれない。でも、まし、じゃいやだ。好きじゃなきゃ、いやだ。好きでも、十分じゃない。それじゃあ、大好き。それは、ありふれた言葉。じゃあ、何?どんな言葉がいいの?お気に入り?
 まい ふぇいばりっと まうす。
 あたしは、もう一度、鏡を見る。鏡の中では、唇だけが赤い月のように輝き、クレーターがうさぎを囲い込んでいる。それ以外の、額も、眼も、眉毛も、鼻も、宇宙の暗闇に塗り込まれたのか、ブラックホールに吸収されたのか、全く見えない。
 そう、人は、見たくないものは見えないのだ。あたしには、あたしが一番大好きな唇とそれを愛する舌しか見えない。だが、不思議な事に、あたしの眼は、わざと、唇と舌から目をそらし、眼を宇宙がビッグバンした時と同じように、暗闇の中に真実を求めようとする。あたしの存在が不確かなのか。いいや、あたしは、あたしである。完全成立不完全成立。その両方が、あたしであり、その両方が、あたしではない。
 唇が、舌が、動き出し、鏡の世界から飛び出した。もう、帰り道はないよ。行き先しかないよ。だから、だから、唇よ、舌よ、鏡の中から出るんじゃない。
 あたしは、必死の形相で、鏡から唇がはみ出し、出て行こうとするのを防いだ。だが、唇は飛び出た。この瞬間。あたしは、びゅーていふるに負けたのだった。いや、びゅーていふるに勝ったのかもしれない。びゅーていふるは、もういない。

 五 座禅の女
「飛んで行け。飛んで行け」
 洋子は眼を閉ざしたまま念ずる。
「飛んで行け、飛んで行け。思考よ、体よ、感情よ、血しぶきよ、全てよ、飛んで行け」
 目に力を入れれば、入れるほど、遥か彼方に飛んで行けるような気がした。もっと、もっと、力を入れるんだ。
洋子は、眼を瞑ったまま、顔をこわばらせ、鼻の穴を閉じんばかりに力を入れ、歯を食い縛り、特に、奥歯に、一本足打法、そう、一本足打法でバットを振り回す瞬間と同様に、力を込める。奥歯と奥歯ががっちゃんこ。がちんこの戦い。
 うううむ。そう、うむむ。うむむは、有無無になる。なんて、哲学的な言葉だ。有るにも関わらず、無が二回も続くなんて。やはり、無なのか。
 洋子の体は座ったままだが、心だけは空中に浮揚している。特段、変わったことをしている訳ではない。新興宗教を始めるための、パフォーマンスを行っているのでもない。心を自由にしているだけである。心だけなら、日本中、世界中、いや、宇宙にだって行ける。この自由さが、人を美しくさせるのだ。
「あたしは、飛ぶ。どこまでも、どこまでも、飛ぶのだ」
 洋子は、足のしびれと戦いながら、心の自由を、心の美を得ようとしている。
「そう、私は、びゅーていふるなのだ」
 洋子は、足がしびれて、立ち上がることができなくなっていた。

ビューティフル・ダイアリー(1)

ビューティフル・ダイアリー(1)

一 幼女から 五 座禅の女まで

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-03-29

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