神崎さんはそこにいた。
神崎さんは優しかった。
昔から無愛想な神崎さんは、僕と一緒にいるということで虐められる事もしばしばあった。僕のせいで「頭がおかしい女」や「アイツと一緒に死ね」等と罵られている彼女を見て僕はいつも泣いていた。けれど神崎さんは神崎さんだった。例え何を言われても僕から離れることはしなかったし、何故離れないのかと問い掛けると「人を差別して見るような人間にはなりたくないの」なんて当時の僕には大人過ぎる答えが返って来ることは日常茶飯事だった。
そんな神崎さんの瞳には今も昔も変わらない強い輝きがあって、思わず吸い込まれそうになるのは僕の唯一の秘密だ。その小さいけれど美しい小指に掛かる赤い糸は誰と繋がっているんだろうか。自身の男にしては細めの指を見比べて少なくとも僕とは繋がることは無いだろうな、と勝手に一人で落胆した。
「………和樹。そろそろバス来るわよ」
「え?あ、ご、ごめん」
僕の様子をまるで異端者を見るような目付きで観察していた神崎さんが痺れを切らした雰囲気で話し掛けてきた。突然の事に動揺した僕は言うまでもなく口をパクパクしながら謝罪。というか悪いことをしたわけでは無いんだけど…なんか神崎さん相手だと謝ってしまう。
見ると信号待ちをしているバスが確かにあっていつも2分遅れているバスにしては定時ピッタリだな、と感心すると隣から神崎さんの声が聞こえた。
「運転手」
「え?」
「見てみなさい。運転手が今日はいつもの人じゃないのよ」
神崎さんに促されてあまり良くない目を細め、運転席を見てみると、確かに違う。気がする。そんなにハッキリ見えてる訳でもないし、そもそも運転手の顔なんていちいち覚えてない。だがそんなことを正直に告白した暁には「運転手の顔くらい覚えなさいよ…私達運転手に命を預けてるのよ?」なんて言われてしまうだろう。人一倍交通関係には厳しい神崎さんの事だ。といっても…交通関係に厳しくさせたのは僕のせいだろう。車に轢かれたんだ。そりゃあいくら神崎さんでも怖いに決まっている。僕は喉が詰まるのを感じながら「ああ、ホントだ。違う人だ」とへらへらとした気持ち悪い笑みを浮かべた。ああ、気持ち悪い。気持ち悪い。
今、何を話してるんだっけ。今から何処へ行くんだっけ。分かってる。分かってるけれど気持ち悪くて飲み込め無いんだ。なんで神崎さんはそんな悲しそうな顔をしてるんだろう。分からないよ。分からないよ神崎さん。
不意に、我に帰った。あ、バスが来たんだ。流れ込む人の波を見ながら隣に居る神崎さんへと視線を移した。「行こう?」と僕が声をかけると彼女は「当然でしょ。言われなくても行くわよ」なんて冷たく跳ね返して僕の手を、握った。急な行動に僕は思わず息を飲んだが、その手は暖かくまるで僕の先程までの思考を案じてくれたような心遣いに僕の心は甘く、揺らいだ。ありがとう。神崎さん。声にせずに口だけ動かして感謝を述べた。
幼い時に感じた母の温もりを手に抱き締めて…。
「じゃあ、私はこっちだから」
学校にたどり着いた僕達は教室へと続く階段を上った後で別れた。先の事を考えて意図せずに左手を神崎さんへ伸ばしたが不審に思われない内にその手は別れを告げるために振るだけの役割となった。神崎さんに心配させるわけにはいかないから。本当は心配されたい。でも彼女にそんな我が儘を言うわけにはいかない。
「…アンタ、大丈夫?」
「え?ぼ、僕?」
「それ以外に誰が居るのよ…」
呆れた、と額を押さえながら神崎さん。流石に鋭い。7年近く一緒にいるのだから当然分かるか。僕がこの学校を嫌っていることも。何もかも。
「………」
「和樹?」
下を向くと自分の靴が見える。今日はなにもされてなかった。でもいつかこの靴が汚される日が来るのだろう。そんなことを考えて僕は言った。馬鹿でダメダメな僕の精一杯の強がりを。弱い弱い自分の唯一のプライドを。
「…大丈夫」
「…ふぅん?」
神崎さんの方が一枚上手だった。明らかなる強がりだとバレてしまったようだ。堪えきれず苦笑を溢した僕に神崎さんは驚きの一言をかけてきた。
「じゃ、頑張って。近くで見るとなかなかイケメンな和樹くん」
一呼吸置いて何を言われたのかようやく僕は理解した。神崎さんには珍しいタイプの冗談だったので上手くそのジョークを消化できずに顔が赤くなるのが分かった。というか神崎さんは冗談を言うような人ではない。冗談言ってる暇があればこれからの人生について考えている方がよっぽど有意義。第一そうしないと付き合えない関係なんて関係とは呼びたくないし。とは彼女の自論だった。その神崎さんが冗談を言うなんてどのような心境なのか。そう考えていると「なに赤くなってるのよ」と神崎さんは打って変わって冷たい目を送られた。ああもう。僕は一体何をしてるんだろう。廻る思考の中でひとつだけ覚悟を決めた僕は赤かった頬を抑えるように深い深呼吸をして満面の笑みを作る。
「行ってきます。神崎さん!」
今度は神崎さんが驚く番だった。その笑顔とその言葉に驚いた神崎さんは少し赤くなった気がした。まあ僕の勘違いだろうけれど。心中でほくそ笑みながら僕のひとりぼっちの戦争が、幕を開けた。
その後背中の方でボゾボソと声が聞こえたがハッキリと分かったのは「折角そのしけた顔を笑わせてあげようとしたのに…」という所だけだ。でも、それが聞こえただけでも良い。神崎さんの優しい気遣いを受けながら。足を引きずるようにして僕は前へ歩き出した。
本来ならば簡単に開く筈の引き戸はとても重く感じた。隙間から見えた教室にはまだ誰も居ない。ほっとすると同時に妙に静かで僕を拒むような雰囲気を放つ部屋に踏み込むにはかなりの勇気を必要とする行為に感じた。今日も誰からも声をかけられない事を祈りながら曖昧な仕草で教室に入り自分の席に向かった。窓側の後ろから二番目のあの席を僕は少し気に入っていた。誰かから見られるような場所でもない。そう考えることが出来やすい場所だから。
黒板に「忘れ物をするな!」と強い口調とは正反対に何処と無くなよなよとした文字で書かれているのを発見した。きっと最近忘れ物が酷い僕のクラスを見かねて担任の松谷先生が書いたのだろう。あの先生は嫌いだ。自分は何も出来ないくせに人にばっかり意見を押し付ける。押し付け方も中途半端で指導にはなっていない。まるで僕みたいだ。
自嘲をしながら僕は席に腰を下ろし鞄を机にかけた。そして筆箱と神崎さんから去年誕生日プレゼントに送られた少し大きめのファイルを取り出した。このファイルは普段から絵を描くのが好きな僕に神崎さんが選び抜いてくれたものだ。大切なファイルに入れられた白い紙を取り出しそこにいつも通りシャープペンで絵を描き始める。
こうしていれば自然に壁が出来るから。だれも僕の領域に踏み込もうとはしない。慣れ親しんだこの行為は僕にとって当たり前。変えられないし変わろうともしない。
カラリと扉が開く音に反応して顔を動かさずに目だけがドアの方へと動く。瞬間、教室に入ってきた人物を見て、最悪だ…。と心の底から叫び出しそうになった。そいつは僕の隣の席の男子だ。なんだか偉そうで自分の言ってることは全て正しいと思い込んでいるような奴。変にチャラチャラしていて見た感じは普通だが本性はそこら辺の不良となんら変わりはない。
おはようございます。と普通なら声に出してする挨拶を心の中で呟いた。相手の方も僕に挨拶をする気はないようで無言で机に鞄を置いた。普通に置けば良いものを大きな音を立てて置くものだから僕はいちいちビックリする。でも、顔に出してはいけない。顔には出せない。もしここで大仰に驚こうものなら明日から学校は地獄と化す。それこそ神崎さんにも迷惑をかける。それだけは駄目だ。このまま目立たないようにしてじっと生きる。それが僕が今できる最大限の事なんだ。どうしてこんなに怯えてしまうのか解らない。解らないけれども仕方がない。そうこうしている内に男子は教室を出ていった。きっと別のクラスの友達にでも話し掛けに行ったのだろう。その間も声を掛けられることは無かった。
教室に人が僅かに入ってきた。多分次のバスが来たのだろう。特に変でもない光景。なのに感じる違和感。ここにいるのに、ここにいない。
ぼんやりと窓の外を眺めた。朝練をしているサッカー部や野球部がグラウンドに居るのが見える。確かに見えるのに…。僕は周りからきっと見えているのに見えていないんだ。それが現実。
胸に刺すような痛みを抱えながら今日も、生きるんだ。そう僕は心に決めた。あのときの神崎さんを見て…。
「はいこれ」
唐突に渡されたのは万年帰宅部の僕には馴染みのない紙。黒々とした文字で「入部届」と書かれている。上の部長欄にはこの紙を渡してきた彼女…神崎さんの名前が書かれていた。
「入部届?なに?これ」
「つべこべ言わずに早く名前を書きなさい」
「いや…せめて何の部活かくらい教えてくれよ…」
今年が中学校最後だと言うのに部活なんてやっていられない。いつも通りの神崎さんの強引さに少々呆れながら僕は背負っていた机から筆箱を取り出した。昼休みという事もあり教室は人が少ない。多分それを狙って神崎さんは話し掛けてきたのだろう。計算高いというか狡猾というか…。とにかく理由を聞き出さない事には始まらない。僕は神崎さんに今まで殆どしたことがない強気に攻める、という作戦を実行することにした。
「神崎さん。いくら僕でも得体の知れない部活に入るほどお人好しじゃあないんだけど」
顔をグイッと近付けて勇気を出して放った言葉。僕の珍しい反抗に神崎さんの眉がピクリと動く。
「じゃあ聞くけど…先週末にワークが出来てないと言って泣き付いてきたのは誰?」
「え、っと…それは…」
「その泣き付いてきた少年に快くワークを貸してあげたのに提出日当日に休んで少女にワークを返さなかったのは誰?」
あまりにも理路整然とした語り口に少しだけ怒りが込められているのが解る。これはあれだ。完全なる敗北だ。勿論神崎さんの言っているのは全て僕の事だ。僕が悪い。神崎さんを頼ったのだからこういうことがあることは解っていたのに…。素直に答えるのが一番だろうと判断した僕は潔く頭を下げることにした。
「すみません。泣き付いてきたのも僕。ワークを返さなかったのも僕です」
「良くできました。書くのはアンタの名前で書く場所はその入部届の一番下の部員欄。何か質問は?」
「ありません…」
「宜しい」
恐怖政治ってこういうのだっけな。やむなく筆箱からシャープペンを取り出した僕はさらさらと名前を書き出すことにした。思えば昔から神崎さんに口で勝てた試しが無いような気がする。そういえば3年になりたての時にも教科書のことで助けてもらっている。その事については言及しないでくれただけありがたいと思った方が良いだろうか。詰まるところ僕は結局彼女に勝てないのだ。
「…はい。書いたよ」
「ありがとう」
こちらを伺うことなく紙だけを見てお礼を言う神崎さんの事は既に見慣れている。普段は本を読んでいればそれでいい、といった雰囲気の神崎さんから考えると今回の行動は全く意図が読めないが。
「で、それは何の部活なの?」
浮かび出る事が確実の疑問を聞いていつもは固く結ばれている神崎さんの口元が若干緩んだ。僕は知っている。こういう時の神崎さんは何かを企んでいる時だ。そしてどうやら僕の予想は的中したようだ。急に輝き出した瞳がこちらを見つめると綺麗な黒髪を靡かせこう言った。
「ボランティア部。私とアンタの二人で、ね」
「…は、あ?」
すっとんきょうとも言える声を出した僕を流石に責めようと思う人は居ないだろう。神崎さんからそんなことを言われたら誰だってこうなる。さりげなく拳を固めたのは僕の精一杯の抵抗だ。それに神崎さんが気付いたところで既に僕は神崎さんの手の内。彼女から逃れることは敵わないだろう。「なに馬鹿な声を出してるのよ」と叱責を受けたが逆に言えば「あなたこそ急に何を言っているんですか」と聞き返したくなる。
「アンタ、人付き合い苦手でしょ」
「それとこれがどう関係してるんだ?」
「それぐらい察しなさいよ。男って本当に鈍いわね」
これを察することが出来るというなら女性というのは全員超能力者なのでは無いだろうか。鈍い事には異論は無いがいくらなんでもこの少ない情報で理由を察するのは無理があるだろう。謝罪を口にした僕に仕方なさそうに神崎さんは答えた。
「人と関わるということはすなわち自分自身と関わること…。人と関わらないのは自分自身と向き合ってないのと同じ」
「………え?」
一瞬彼女が何を言っているのか真面目に理解が出来なかった。放たれた言葉はどこかの哲学のようなもので凡人の僕にはその意味は理解することは困難を極める。その様子を見て神崎さんは腹を立てたらしく「だから」と言葉を繋げた。
「アンタは人と関わるのを嫌がってるけど…人と関わる事を止めた人間っていうのは自分自身と向き合う事も忘れた人間みたいなもの。だから、どんな些細な事でも良いからアンタは私以外の人間とも関わるべきよ」
…………あ。暖かい。
不意に感じたのは幼馴染みの冷たくて暖かい優しさ。胸の奥のところがキュウ…と音を立てているような気がした。目頭が熱くなってきて視界が何処からか滲み出す。泣きそうだ。彼女はいつだって大人で…僕の事をキチンと考えていてくれている。
「…ありがとう」
漏れたのは本音。偽りのない言葉。頭一つ分差をつけてしまった神崎さんへの感謝だ。他人と向き合えない辛さを知りながらそれでも自分自身と向き合わないと生きてはいけない現実を突き付けられる前に僕に教えてくれようとしてるのだ。本当に…彼女ってやつは。でもそれが神崎さんの神崎さんたる所以だろう。強くて、優しくて、僕の全てを解っている。そうだ。神崎さんはいつだってそう。
神崎さんはいつも僕の事を考えてくれていた。
神崎さんはここにいた。第1話 完
神崎さんはそこにいた。