practice(72)
七十二
「霧が何にもしないのは,ほとりとカニとのそういう決まりがあるから。そして時間厳守。融通がどこでも利かないんだよね。」
貸出ボートの一艘を係留していたロープが水面に浸る前に引き上げて,桟橋を試しに歩く人の邪魔にならないように,またその見てくれが悪くならないように留め金近くで形を整えて待機させる。その楕円は受付所を遠く離れて,湖面の向こうに置くように配置するのがやらないよりやってみる方がましという営業上の工夫で,出かけて行ったという感じが伝わるというかもめの主観的なアドバイスに習ったものだった。目に見える効果,とまではいかなくても利用者は増えている。一時間三百円という安価な設定を,もう見直すことは叶わないけれどオールを別途貸し出しにしてしまうか,こちらで用意した双眼鏡をお勧めにするのもいいかもしれない。その際,かもめに頭上をひとっ飛びしてもらう事は必須になる。
「手伝う?」
「いや,もう終わるから。」
履いているブーツで,桟橋に砂まじりな立ち上がりをしながら,気になった留め金とロープの結び目をぎゅっと締め直した後の手をさっさと払って,落ちていたポップコーンの一個を見つけては拾い,上空を見回してからさきに包んだ手を作って,ズボンのポケットに入れた。遅れて低くしていく視線に気付く直立の樹々が清澄をゆっくりと味わっている。それからふと思い付いたから言ってみた。
「そこに,何かいないか?」
答える声と,探す意思。
「ううん,居ないね。」
返事は見上げて,かえってきた。
お昼時だからと,遠くに飛び立つかもめたちじゃないから,探せばきっと見つかるとは思ったけれどボートが帰って来る前までに,戻って来なければいけないことを斟酌すると,ちょっと行けない。仕方ないからポップコーンは,仕舞い込んだままにすることにした。
「じゃあ,行くか。」
「うん!」
素足の声。桟橋を降りる前の確認。
「反対側の自販機まででいいんだろ?」
「勿論,そこまででいいよ。それに時間も厳守だからね。」
頷きに間に合う歩幅があった。
幅は広くて,短い階段を左に曲がりつつ一歩目を踏んだ跡は滑り止めと零れるものを元の通りに残しつつ,乗せる力をたしかに掴む。生じれば,さざ波にだってさらわれているのに,こういうところはきちんと守っている。カニの姿なんか見たことないけど,そういう住処もあるのだろう。人肌の色ばかりで粗く描いた野外の一風景の中の,横歩きをしそうな赤いチョキが覚えている紙以外の,砂浜みたいに。
小さい波紋の,スキップみたいに。
「器用だな。」
「何が?」
岸辺に近づいて来る質問に,詳細な言葉は必要だった。
「スキップ。とんとん,って。」
「実感では,ひょいって感じだけど。お喋りが要るんだよ。あとは気合。とりゃーって入れてるよ。」
「気合か。似合わねえな。」
「へへ。例えばだよ。でも,良いんだ。それで。それでこうして,タタンって居れるし,会えるし。」
「時間厳守で。」
「それは霧が悪いんだよ。もしくはカニ。」
「何かあったんだろ,霧にもカニにも。」
「相変わらずだね。物分かり良すぎ。」
「そっちが噛み付きすぎなんだろ?」
「歯が丈夫だからね。」
「牙だらけじゃないことを願うよ。」
「上手に隠しますから。」
「永遠にそうして欲しいと,星に願えばいいか?」
「あいにく,煌めくスターの方々は私の噛み付き方が好きなようですよ。」
「じゃあ,この願いは本人に届ければいいのか。」
「本人に聞く気があればね。」
「聞く気は?って,聞くだけ無駄か。」
「ほら,また物分かり良すぎ。聞くだけ聞けばいいのに。」
「じゃあ,聞く気は?」
「あると思う?」
「ないと思ってる。」
「えへへ,一回分だけ聞いてもいいよ。」
「じゃあ,さっきのことも聞いてくれ。」
「それはもう叶わぬ願いです。」
「じゃあ,どのお願いなら叶えてくれるんだ?」
「これからのお願いなら,叶えてもいいよ。」
霧は風にも吹かれなかった。
設置されてから長いことになる目前の自動販売機が,不思議に錆びない機体の雰囲気を周縁から四角く浮かび上がらせる。背後の樹木の暗がりはこんな天候の下でも変わらず大人しく,密かに浴びて来た表皮の匂いに見えない日々を重ねている。その間に走る水道水に繋がれたホースは柔らかい生き物のように,湖面の行方を見守っている。黒々として,底が知れない様子を拭ったりしないくせに,手の平に掬えば冷たく透いている,一つの模様も残せないそんなところの,次の着地の,足跡の。
たたんっとしなければ,行けないところには。
「ジャリッて聞こえる?」
「ジャリッていってる。」
「温かい?」
「靴履いてるから分からないけれど,冷たいんじゃないか?こんな天気だし。まだ時期じゃないし。」
「それは残念。」
「温かいのがいい?」
「うーん,考えたらどっちでも。でも,いまは温かい気分。」
「そうか。そっちは?」
「うん?ああ,こっちね。水面下はきっと冷たいだろうけど,どっちだと思う?」
「冷たくてもいい。」
「私もそう思う。」
それから両足の着地が初めて見れた。
『売り切れ』の表示が光る,現れた自動販売機の補充は早ければこの後のことだから,買えるものも少ない。一応二人分と,胸ポケットの三百円を出せば細い缶の炭酸水を飲めるけれど,僕もまた喉が渇いていない。それに湖面はずっと静かだ。きっと出て行ったボートのお腹を冷やして,見える語りだけをオールを離した手の平に乗せている。包装紙で対象と形を表すように,ここを迎えてもまた握り締めない,ポップコーンは手とともにポケットの中に入れてある。
「黒い羊はいるかな?」
「絵本とかならいそうだけどな。」
「じゃあ,黒いヤギは?」
「知ってる歌にもいる。」
「じゃあ,いないのは?」
「考えとく。」
「いるのは?」
「水面の上でも,そんなとこでも。」
立ち止まっていられる。細かいステップが時間通りに重なり合っても,干渉しないで拡がることまでも含めての約束のようだから直ちに水際に消えて,霧の向こうに行くのだけは追えた。それから自動販売機までの何十mを埋めて,二百円をコイン口に投入してからジュース一本と,おつりを貰った。何かを失くさないような,連綿とした流れだった。
歩く外側の足から踏み出して,内側の足を付いて来させる,二人三脚みたいな練習。自動販売機から離れるおよそ100m。振り返るにはきっと早い。プルを引いて,それから開けて。
喉を潤すことを重ねた。これからすることを考えた。
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