ちっぽけな人間

七月十九日
 なんだかわからないよ。人生の意味を考えたって、結局無駄なんだ。だって、考えがまとまって寝床についたって、次の日の朝にはもう別世界にいるわけだから。いつまでこんなこと繰り返すのだろう。
 こんなこと考えながら、座椅子に座り、窓越しには洗濯物、その奥には鮮やかなブルーが窓越しにこちらを覗いている。そして、右手にはこの暑さと見事な調和を作りだしている扇風機、テーブルには散乱した文房具達。そして、主役のテレビ。この世で繰り広げられている様々な議論。人と人とが言い争っている。俺は、それを見ると議論に参加したくなるけど、俺は議論が苦手だ。人間ってのは議論好きな生き物だ。むしろその答えを見つけ出すことではなく、議論そのものが好きで仕方ないんだ。だから、答えが出なくたってなんともない。議論が終わった時には彼らは問題が解決したかのような満足感を得ているのだから。仮に俺が議論に参加したらと考えると、いつも回答はこの言葉にたどり着く、
「人それぞれだよ」。だってそうじゃないか。議論の中では必ず反対意見というものが生じてくるけど、俺からしたら馬鹿馬鹿しくて仕方ないんだ。ある意見に反対した人は、その反対された人の生き方や信念を否定しているに過ぎないのだから。だから、結局は、私はこういう人ですよって紹介しているだけに過ぎないんだよ。全く馬鹿馬鹿しくて笑えちゃうよ。でも、人は議論することによって安心するならそれはそれでいいんだよ。その解釈ならいいんだよ。ごめん、つい熱くなってしまった。最近こういうことばかりが頭の中で泳ぎまわっているんだよ。こんなこと書いてるうちにもう十一時をまわったよ。
 知人との議論を終えて、いつものように座椅子についてひと段落した、風呂から上がった。その知人からは、「自分と向き合ってたってしょうがないよ」。と言われた。少し衝撃を覚えた。まさかそんなことを言われるなんて思いもしなかったんだ。俺が自ら社交を閉ざしていることを悟られた瞬間でもあったからだ。彼女は、自分の考えを否定されたと勘違いし、その反動で言い返したのか、俺のことを想って心からのアドバイスで助言したのかは分からいない。でも、俺の考えが揺るぐことはなかった。衝撃は受けたけど。でも、一瞬考えることがあるんだ。相手の助言に乗っかって生きた方が正しい道に進むんじゃないか、そっちの方が理にかなってるし、もっともらしいと、自分の中で納得する瞬間が生まれてしまうんだよ。そしてもう一方は、この助言は非常に理解でき正しいかもしれないが、だとしたら俺の人生は何なんだい。常に相手の助言通りに生きて、常に方向転換して、助言した相手からは、「うん、だから言ったでしょ」と言われ、自分では、「あの時助言を受け入れてよかった」とでも思うのか。いったいこれは何なんだい。確かに、助言がきっかけで成功した偉大な人物は山ほど存在するし、自分の力だけで生きることはできず、他人に支えられているというのは自覚しているし、だからその人には最大限の敬意を払って聞き入れている。しかしだよ、それで俺が納得するとは今の俺では思わない。思わない。自分の人生は自分のものなんだよ。決してそれは他人に渡してはいけないんだ。自らでハンドルを握らなければならない。握るのを止めてはならないんだ。隣の人に握らせたって行き先も知らないし、精度も落ちる。でも自分が握れば、行き先も分かってるし、自信を持って前に進めるんだ。・・・結局だ・・・結局、俺の信念はまだ揺らいでいるってことなんだとおもうよ。これは認めなければならない。現実を受け入れなければ進歩しないんだ。でも反論を受けたということは前進だと思ってる。なぜなら、自分の意見を自分に嘘をつかずに言えた、そしてその結果、相手には理解をされず違う道に俺を導こうとしたからだ。大袈裟かもしれないが、これが俺の解釈だ。よりリスクな道を俺は選んでいる。それは助言通り、より安全で明かりが照らされている道ではなく、より暗く、先が見えず、いつ落とし穴に落ちてもおかしくない危険な道、つまり自分の道を歩もうとしているんだ。これを覆すことはできないはずだ。俺はエマーソンに共感を抱いているし、その考えを信じている。「絶えずあなたを何者かに変えようとする世界の中で自分らしく生きること、それがもっとも素晴らしい偉業である」。

七月二十日
 「自分と向き合ってたってしょうがないよ」。・・・やけにこの言葉が引っ掛かる。俺の精神なんてブレブレだよ。怖いよ、怯えてるよ。本当に情けないよ。しかし、人間ってのは面白い生き物だな。だって自分で自分を憐れむことができるんだから。これはただただ生きるのが目的な動物からしたら阿呆なことだね。でもだよ、考えてみてよ、自分と向き合わない人生なんてありえるのかい。自分と向き合う時間は必要なんだ。自分と向き合わず常に何かをするということは、行動的とは違うと思うんだ。それはただ自分と向き合うのが怖いんだよ。もちろん皆そういうつもりじゃないかもしれないけどね。そして、そういう人は、ある程度の満足感を得るだろう。しかし、この満足感ってのはその人が得たんじゃなくて、仮の自分が得たものなんじゃないかと思うんだ。とはいえ、そういう生き方もありだ。常に何か行動し、そのたび一定の満足感を得ていく。これは色んな経験もできるだろうし、後悔もない、活動的で人間というものを最大限に引き出した生き方だ。完全にありだよ。でも、俺はそれは求めてないんだ。夢が軸なんだ。夢を叶えたいんだ。より不可能なことに挑戦したいんだ。ここにまだ具体性はないし、これといった根拠はない。人々は言うだろう。口だけなら何でも言える。でも、まず言わないと始まらないんじゃないかなって最近思うんだ。人々は言うだろう。じゃあそのために今何してんの。俺は言う、自分と向き合ってる。・・・大抵の人は鼻で笑うだろう。でもこれができてない人が多いんだ。だって、やるのは自分、思うのも自分、決断するのも自分、感じるのも自分、自分が分かってなくて夢が叶うわけないって思うんだ。だから、俺は自分と会話をするのをやめない。他人と会話をしてたって、自分は見つかりはしない。そもそも他人と会話をしている時点で自分は存在していないのだから。一人でいるときのみ自分という人間が存在する。
この瞬間にどれだけ自分としゃべることができるかが問題だ。せっかく自分とコミュニケーションを図るチャンスなのにこれを逃すわけにはいけない。・・・ああ、とりあえず朝食とるよ。待て、とりあえずという言葉はあまり好ましいものではなかったな。
七月二十一日
 最近、よくこの言葉を思い出す。「いいものを持っていても、それを出さないと意味がない」・・・これは、高校時代のサッカー部の監督に言われた言葉だ。なぜかはわからない。その当時のことははっきりと覚えている。ランニングのトレーニングの時、俺は怪我のため補助にまわっていた。そこでたまたまその監督と二人っきりになった。確か天気が悪く雨も降ってたかな。急に話し始めたんだ。「一年間お前を見てきて、せっかくいいものを持っていても、それを表に出さないと意味がない」・・・俺はこれを聞いてただ頷いただけだった。はっきり言ってまるでその意味がわかっていなかったんだ。理解しようとしたし、自分でも自分が引っ込み思案な部分があることは認識していた。でも、いまひとつ響いてこなかった。さらに、その後の言葉を期待して待っていたんだ。より具体性を示してくれると思ったんだ。でも、彼が残した言葉はそれだけだった。俺はますます困惑したよ。アドバイスをくれたのは有り難いが、口下手な人だと見下してまでいたんだ。その監督は生徒からも尊敬され高校の中でも校長よりも権力があると称されていた人なのにだ。でも、あれからおよそ五年が経った今、その言葉がふと俺の心を叩いてきたんだよ。それは衝撃だよ。あの頃とはまるで違う響きを持って帰ってきたんだよ。今の俺にとって、あまりにも的を得た言葉だ。言葉って不思議だよ。だって同じ言葉でも全く感じ方が違ってくるんだから。しかも、別にその言葉を暗記していたわけではないんだ。なんせ五年前だよ。大事なことは、感性が覚えているんだと思っているよ。その当時、俺の脳みそに響いてこなかったけど、さらに奥深い意識を超えた領域に響いていたのかもしれない。監督は、偉大な人間であり、心から感謝している。
 ときどき、あらゆる物事がちっぽけなことに思える瞬間があるんだ。よく成功した人の中に地位や結果はあとでついてくるものって言ってるじゃん。俺はその逆の考え方をしているんだ。俺は偉大な人物になるってね。すると不思議にも普段の生活の中で、こう仮定するんだ。「偉大な人物になるやつが、こんなちっぽけなことを気にしていてもいいのか。偉大な人物になるやつが、こんなに怠けていてもいいのか。偉大な人物になるやつが、ここに留まっていてもいいのか」。こんな考えが頭を巡るんだ。始めからこんなこと悟ってもいいのかと迷ってしまう。でも、こう考えてしまうんだ。これをなかったことにすることはできない。勇気を持って信じてみるよ。自分のスタイルを創っていくよ。

七月二十二日
 どんなに内に秘めている信念や意思が自分自身が強いと感じていたって、それを世間に言葉として発せば、本当に自分がちっぽけな人間だということを知らされる。これは何なんだ。結局俺は、人類八十億人の内の一人でしかないということを痛感させられるんだ。常にこの世界が俺のことを何者かに変えようとしてくる。一瞬のうちに俺はこの世界に吸い込まれてしまう。一瞬だ。自分でも気がつかない早さだ。選択肢は、三つだ。このままこの世界に吸い込まれ、あらゆる環境に遭遇しながらそれに適応しつつ、世の流れに身を投げ出すか、この世界を完全無視し、ただただ自分だけを見つめ、自分の信念と意思によってこの世界を貫くか。そして、三つ目は、あたかもこの世界に飲み込まれたかのように周囲に悟られつつ、自身では、信念と意思を環境に関係なく貫き通す、この三つだ。しかし、人間というものはこのどれか一つに当てはめることはできない。皆それぞれの要素をその時々で使い分けているようだ。だとしたら、一番目もある意味では、一つの信念かもしれないね。信念を持たないという信念だ。こういった人は称賛に値すると思ってるんだ。なぜなら、自分の中で決断しているわけだから。最も好まないのは、それは、自分の奥底から湧き出た信念ではないものをあたかも自分の信念かのように振る舞い、自信でもそのことに気づいていないことだ。そういったものは信念がたびたび変化するものだ。人間の思考はあまりにも複雑すぎる。それを説明できないほど複雑なのだ。今日はここまでしか書けないや。また改めて書くよ。

七月二四日
 電子レンジの端に置いていたつまようじを落としてしまった。少し整理していただけなんだが、二〇〇本入りの箱を落とし、一斉に床一面につまようじだらけさ。笑っちゃうよ。最初はね。終わりが見えないと、人っていうものは馬鹿馬鹿しくて笑っちゃうんだね。でもだ、もしゴールが見えていたとしたら、黙々と作業し始めるだろう。そりゃあ多少は苛立つだろうけども、手は動くんだ。これで思ったんだ。人っていうものは、ゴールが見えないと何をしていいかまるでわからなくなるんだ。逆にゴールが見えると不思議と力が美袋って頑張ろうとするんだ。不思議なパワーだよ。だからさ、これを利用する必要があるんだよ。俺が言いたいのは、いつだってゴールを創造し続けなければならないってことなんだよ。それを常に意識するんだよ。そうすれば前進できるし、ゆくゆくはゴールが目に見えてくるんじゃないかな。願うってそういうことだと思うんだよ。なりたい自分を創造し続け、いわゆる願うだ。これを続ければ、いつかはゴールにたどり着く、いわゆるなりたい自分になれるってことだ。・・・つまようじからこんな発想ができるなんて、この世界には色んな種が身近に潜んでいるものだね。

七月二十八日
 自分を何者かに変えようとする世界、つまりこれは自分自身そのものかもしれない。自分を変えようとする世界は自分自身の中に存在する。ついそんな考えが頭を一瞬よぎった。そう考えるとこの世は自分しか存在しえないものに思える。事実そうなのかもしれない。これは自分自身との真剣勝負でしかないのかもしれない。つまり自分自身には二つのものが存在している。身動きのできない閉鎖された自分と自由に動き回る自分だ。ここで重要なのは自由に動き回る自分をいかに捕まえて身動きのできない閉鎖された自分と共存させるかだ。この二つが完全に融合しているときのみ人は存在し自らの歩むべき道を己の中に見出すことができる。
八月二日
 夢がはっきりみえるときがある。夢が霞むときがある。夢が見えなくなるときがある。今は夢が霞んでいるときだ。夢が霞むだけでも自分が存在していないかのように思える。そうだ、自分を疑い始めるんだ。夢がはっきりみえているときは、ひたすら自分を信じ情熱が胸から溢れだしそうな勢いなんだ。まるでもう夢が叶ったかのように。しかし、今は違う。その情熱はその片鱗も見せてない。空っぽな自分だ。不思議にも人間というのは、精神がネガティブな状態にあるとき、目線が下にいく傾向がある。これを利用する必要があるんだ。そうだ、上を向くことだ。しかし、一瞬では変化はない。何事も継続が大事だ。正確に言えば、上を見るのではなく上を見続けるのだ。・・・この現状をどう捉えるかが重要だ。あえてこの状況に名前を付けるならば、逆境かな。俺はこの言葉を聞くと奥深くにある感性が反応するんだ。逆境、詳しくは説明しないが、恐らく人生で最も素晴らしい瞬間だ。そこで人間の本質が試されるんだ。

九月二〇日
 一ヶ月期間が空いた。ふと過去の文章を読み返してみた。まったく面白いものだね。自分で書いた文章なのに様々な感情をわき上がらせてくれる。まるで自分が書いていないかのような錯覚に陥ったり、またある時は納得する。まあでもよくわかったよ、過去の文章を未来の現在の自分で読んだときに初めて客観的になれた気がしたよ。それにしても真理を追究するっていうのは本当に難しいな。その時は捕まえたって思っていてもすぐどこかに逃げてしまうんだから。だからこう思うんだ。真理は終着点ではなく追求する過程に存在するってね。これを未来の自分が読んだらどう思うだろう。非常に楽しみだ。

九月二〇日
 ここまで来るのにちょっとばかり苦労した。やっと自分に到達した。いつもこう思っている。なぜ人は全てを自然に任せることができないのだろうってね。自分自身の感性に従う勇気がなく、外界の誘惑に負け自分の身を外界に委ねてしまうんだ。挙句の果てにはそれが真の自分かのように振る舞うんだ。
 もしかすると、真実とは言葉で表わすことが不可能なものかもしれないね。真実は、捕まえようと追いかけに行くとその背中しか見えない。でも辛抱強く待っていると、突然向こうからやってくるときがある。もし外部の環境に気をとられず、目標を持ち自分自身の感性にだけ従うことができるのならば、成功の可能性は非常に高まるだろう。

九月二三日
 人と同じことをやっていても人と同じ結果しか出ない。俺は思った通りに生きたい。もちろん迷いは生じるんだ。安全な道は進みたくないんだ。人生は賭けでもよくないか?
なぜなら人生は一度きりだからだ。こういっているけど決して俺は強くはない。それは十分理解しているつもりだ。だって、どんな際にだって恐怖が俺の脳裏をよぎるからだ。間違ってほしくないのは恐怖が必ずしも悪いってことではないことなんだ。俺が思うのは、恐怖を感じなくすることではなく、その恐怖の捉え方だと思うんだ。俺がこの先どんなに強い人間になろうがこの恐怖心は残り続けるだろう。でも、この恐怖心との向き合い方は変わっていくだろう。俺は恐怖心と共存することを望む。恐怖心は存在すべきものかもしれない。なぜならそれがあるからころより高見まで自分を奮い上がらせることができるからだ。それがなかったら、成長した自分を感じることもないだろう。でも、ここで確認しておきたいことは、本当のこと言うと、恐怖心とは単なる幻想でしかないということだ。自分で作り出してるだけなんだ。だからさ、逆に言うと恐怖心はアイディアの一つなんだ。それを感じるということは感性豊かでアンディアに優れているという証明なんだ。だから俺は恐怖心を感じる自分に腹を立てる必要はないんだ。むしろそれを感じる自分に感謝しなければならない。それを感じなくなった時は、脳が麻痺している証拠に成り得るわけだ。

九月二四日
 俺はある一つのことを断念しなければならないのかもしれない。どうも人生という牢獄の中にもルールというものがあるらしい。この牢獄の中で何かを成し遂げたいのであればそれに従うしかないのだ。そう、自由を少し諦めた。その全てを否定するわけではないんだ。この牢獄はちょっと違っていて好きな時に出られるんだ。その自由感は持っているんだ。でも、普通の牢獄と違って一回出たらまた戻ってこなくてはならない。
 また、ある意味俺は自由の奴隷になっていたのかもしれない。少し固執しすぎてそればかり考えていた。人生は意外と自由を認めてはくれない場所なんだ。これは断定はしないが。でもなんだか気が楽になった気がしているんだ。ちょっと可笑しな表現かもしれないけど、俺はより自由になったんだ。ここに辿り着いたのは、自由に囚われていた自分があったからこそなんだけどな。ただ、真理へのアプローチをやめることはないけどね。
 考えが二転三転して済まないが、俺が言いたいのは自由との距離感なんだ。人間関係でもそうだが近すぎるとうまくいかなくなる。だから少し自由から一歩ほど下がってみたんだ。だから今はいい関係にあると感じている。

九月二九日
 この道を行くのが怖いか? まだお前は確信に至っていないな。これが正しいかなんて今わかるものじゃない。だから実際に確かめに行くしかないんだ。この道を通って。いや、道もない。地図なんてあるわけない。あるのは目標だけだ。そのためには前に進み道を切り開いて行くしかないだろ? まだお前は型にはまっていてその型の中で自由に動き回っているに過ぎないな。その型なんて破っちまえ。よりお前は自由に動き回れるさ。社会、世間体、常識といった型、そんなもの確認する必要はない。我々は生きているんだ。胸に手を当てろ。奥底に閉じこもっている真の自分を引き出せ。この世はお前のものだ。
十月二十一日
 やあ久しぶり。今何か書きたいと思ってパソコンの前にいるんだけど、何も文章が浮かばない。なんだかソワソワして気持ちが悪いよ。俺の心はちゃんと何かを感じているのだろうか。よく文章とは裸の自分を表現することだとかなんとか言うけど、それが本当なら今の俺は何も感じていないのだろうか。それともそれを超越している何かが俺の中に存在しているのだろうか。俺にはよくわからない。でも確かなのは、今日という一日を無駄に過ごしたかもしれないという罪悪感だ。こんなぬくぬく生活しているやつが何者にもなれるわけないんだ。でも、今日唯一というか印象に残っていることがあったんだ。髪を切ろうといつものように鏡を見ていたんだ。すると、誰だったかは忘れたがある偉人の言葉を思い出したんだ。これもうろ覚えだが、その人はいつも鏡に映った自分と会話をするそうだ。だから俺もそれを試してみたんだ。俺は鏡の俺に聞いた、「おい、お前何やってんだよ」もちろん何も答えてはくれない。だって、俺なんだから。でも鏡に映った俺に対してものすごい恐怖心を抱いたんだ。まさか、鏡に映った自分にビビるなんて思ってもみなかった。さらによく見ると、鏡に映った俺の目、何かに怯えてるんだよ。何か自信を持てずにいる気がしたんだ。事実そうかもしれない。俺は外界から見ればものすごくポジティブで夢を持ち、それに向かって頑張っている一途な青年に見えるかもしれないが、それはある種、見せかけなのかもしれない。実は俺は、鏡に映った俺のようにものすごく怯えていて、自分に自信の持てない弱い人間なんだよ。それは分かったる。でも、それを認めたくない自分がいるのも分かってる。いつも背伸びをしているのも分かっている。だってそれを認めたら俺、崖から落ちるように一気に冷めてしまうような気がするんだ。だから、俺は鏡に映った俺に励ますように、「お前ならできる」と、言ってやった。そしたら、はっきりとは言えないが、何か勇気みたいな、本当何かわからないけど、そんなものを感じた気がした。

十一月八日
 今日はどうしても書かなくてはいられなくなった。一つ大きな答えが出たかもしれない。もちろん俺自身についてだ。最近俺は行き詰っていた感覚に陥っていて、目標を見失いそうになっていたんだ。あと一歩のところでなんとか制していたけれども、葛藤となんとも言えない脱力感が続く日々が続いていた。前に誰だか忘れたが、こんなことを言っていた人がいた、「行き詰まりは展開の第一歩」。まさしく今日はそれに気付いた。何かが開けたような感覚に陥った。これは一瞬の出来事かもしれないから書かなくてはならない。
 ふと思った。俺はいったい誰なんだろう。その時、理由はわからないが三人の人物の存在に気付いた。一人目は正義の自分。二人目は悪の自分。そして三人目は中立の自分だ。その時全てを悟ったんだ。これまで何か行動する際はほとんど中立の自分を演じてきたんだと。つまり、最も安全な立場を守ってきたんだと。しかもそれを外的にではなく内的にだ。俺の中ではいつも三人の人物がいて、一人はやりたいと言う、それに対してやるなと言うやつ、そして、それを傍観するものがいる。俺はいつだって傍観者だったのかもしれない。どちらに傾くでもなく、特別な意思もない第三者だ。こいつが悪いといっているわけではい。しかし、第三者に決断の意思はないし、行動力もない、周りに合わせているだけだ。何よりこいつに真理はない。答えはあまりにもシンプルだった。中立の自分から正義の自分に主導権を握らせるんだ。それこそが俺の中の真理だ。自分を信じるとはこういうことなのかもしれない。感性に従うとはこのとかもしれない。発想を変えれば、これまの俺の悩みはこの三人が会議中だったのかもしれないね。
また気付かされた、今回はより明白だ。戦うべき敵は自分自身の中に、答えは自分自身の中に、真理は自分自身の中に、自分自身は自分自身の中にあった。

十一月十日
心のままに。俺はそれを言葉で表現できると思っていた。言葉で表現できるものだけが真実と思っていた。しかし、そうではないのかもしれない。最も究極なものは言葉では到底表現できない。つまり、より奥底の超越した存在なのかもしれない。俺は常にそれを持ち続けたのかもしれない。

十一月十八日
そうだ。そうなんだ。俺は人を喜ばせたかったんだ。今まで俺は何をやってたんだ。農業で人を喜ばすことなんてできやしないさ。失望しているよ。何かが俺の中でほとばしった。それを感じ取った。そうなんだ。俺はそういう環境で育ってきたんだ。幼い頃から何かしら人を喜ばすことが好きだったんだ。それをしているときが一番幸せだったんだ。だがどうだろうここ半年の自分は。それとは真逆で人間関係を極力遮断し、わけのわからん知識とわけのわからん改革だのなんだのいった夢に囚われた生活を送って。何も得ていない。何もびびっとこない。だが人を喜ばすという観点では何かが俺の中で走って行った。そいつを追いかけたい。

十二月十二日
感情というやつは非常に複雑なものだ。一度そいつに思い込ませて見てもすぐどこかに消えていってしまう。感情を捕まえて閉じ込めておくことはできないのかもしれない。流動的であり変わりやすい生き物だよ。だから、変に逆らってはいけないと思うんだ。常に正直であり続けるとはそういうことかもしれない。今まで座いすに座り続け、たまに勉強し、常に自己について将来についてこの半年間探求し続けてきたが、その中では数えきれないほどの思考を繰り返して、なんどもこれだといった確信を突いた思考や感性に辿り着いたと思ったが、そいつらはなかなか俺の中に留まろうとしてくれない。気がつけば消えている。しかし、今回は思考していくうちに確信に最も近いものなのかもしれないという一種の確信を覚えた。今後もこの言葉は重要になってくるだろう。「真実」だ。俺は朝、パソコンを開いたデスクトップに英語でTruthと書かれた文字を見る。つまり、常に自問自答をし、自分が何を望んでいるのか、自分自身の根源に潜んでいるものは何か、これを常に明らかにし、その通りに生きる。自分が自分であるために最も重要な言葉だと思う。結局俺が求めているのは、こんなにシンプルな言葉だったのかもしれない。これが根源であり、まさに真実だ。夢、自信、失敗、瞬間といった言葉はその下に位置するものだ。

一月三〇日
人生はアートだ。お前は芸術家だ。今、人生という一枚の絵を描こうとしている。その筆は自分で持たなければならない。ツイッターの創業者も同じようなことを言っていた。俺が思うのは、人はより自由でなければならないということ。それは精神的な部分でだ。俺たちはいつも将来に不安を抱えている。いずれこうなるだろう、どうせこうなる、こうやっても他人になにか思われる、このような感情のせいで将来の道をより狭め限定的なものにしてしまっている。つまり、将来がお前を決めているんだ。しかし、そうじゃないんだ。俺たちはより自由で開放的でいられるはずなんだ。事実、将来はまだ来ておらず不確定なんだ。真っ白なんだ。そして、その真っ白の台紙の上にどういう絵を描くかは、今のお前次第なんだ。そうなんだ、今、変われば、未来も、変わってくるんだ。お前が将来を決めるんだ。他人の絵を真似したり、他人に絵を描かせることがあってはならない。お前が描きたいものを描け。上手い下手はない。正解不正解はない。他人と違った絵でも気にするな。他人に否定されても気にするな。そういうやつらは自分の絵に自信がないのだ。全部個性だ。お前自身の真実に従っていれば、おのずとお前だけの絵になるのだから。
もう一度言う。お前は芸術家だ。自由に、描きたいものを、描け。

三月十七日
久しぶりに書くよ。といっても何を書けばいいか悩んでいるよ。確実に確かなものになってきているんだ。人々は思考よりも行動というかもしれない。もちろんその通りなんだよ。結局やるかやらないかなのは真理だ。前進すれば景色も変わってくるしそのうち何かに出会うかもしれない。でもそれが効果を表すのは目標が明確な場合だと思うんだ。でないと途中で諦めてしまうと思うんだ。マラソンだってゴールがあるからあんなに頑張れるはずなんだ。ゴールが無かったら地獄だね。少なくとも俺はそう思う。そして、前まではぼやけてたが、だんだんとその霧も晴れてきたような気がするんだ。ほんの少しだけどね。正直恐怖もあるよ。本当にこの道へ進んでいいのかという。別の道もあるんじゃないかと。まさに今の時期っていうのは道の分かれ道なんだ。選択の時なんだ。一つしか選べない。そう考えると本当人生ってちっぽけだと思うよ。自分が二つ存在すればいいのにな。そしたら色んなことをやらせるのに。でも、俺という人間は唯一無二の存在なんだ。それを最大限利用しなければならない。後ろを向く時間なんてないし、不満を言ってる暇もない、その瞬間瞬間に全てを注ぎ込むしかないんだ。どう考えたって。俺たちが迎えているこの瞬間は二度とやってこないんだ。と同時に死へと近づいているんだ。確実にね。俺が言いたいのは、その限られた時間の中でいかに自分を表現していくかということなんだと思う。だから無駄に他人の人生を生きてはいけない。他人の目を気にして自分のやりたいこができないなんて馬鹿げている。もちろんなるべく人生という物語にあまりこだわらずに見立たないように他人と同じような物語にしたいっていうんなら話は別だよ。それはそれでいいんだよ。それがその人の価値観なんだ。でも俺はそうじゃないんだ。自分の奥底にあるものを表現したいし、人生をアートしたいんだ。常に真実を追求したいんだ。どうせ人生なんて重大なものじゃなくちっぽけなものだからね。矛盾してるかい?

三月二六日
 また真実が欲しかったせいか俺の感覚が書きたがっているから書くことにした。結論から言うと、人生はちっぽけなものだ。俺は今まで人生を重く扱い過ぎたように思う。有名な作家である三島由紀夫がこんなことを言っている。「世の中って、真面目にしたことは大抵失敗するし、不真面目にしたことはうまくいく」過去の自分を振り返るとこのことが真実に近いことが理解できる。自分なりに解釈すると、物事を真面目にやろうとするとそこに判断や思考が交わってしまう。しかし、不真面目にやろうとすると感覚的に行動する、心の奥底に近いのは後者なんだよ。「人を欺くのは判断であって、感覚は人を欺かない」これはゲーテの言葉だ。重要なのは自分の感性を信じれるかどうかだ。その感性に疑念を投げつけるのが人間の常だ。いつもそのことで戦っている人もいる。その感性に気づきもしない人もいる。偉大な人物は、感性の中に入り込み、感性と一体化する人物だ。人生を重く扱おうとすると、より限定的になってしまう。失敗は許されないと思いこんでしまう。しかし、人生はちっぽけなものだ。なぜなら我々は死に向かって生きており、なぜ生きているのか、と尋ねれば多くの人が困惑してしまうからだ。そして、人間にとって最も価値のあるものは瞬間であり、多くの人はその瞬間を野放しにして、過去の失敗や将来に対しての根拠のない不安、他人の目を気にすることで頭が忙しい。瞬間を味わうためには、偉大な人物であるうえ、人生をちっぽけだと捉え心に自由感を与える必要がある。

四月二二日
 決断する時が来ている。何かを選択する時が来ている。勇気を出す時が来ている。何度祈ったか、「神よ、俺の背中を押してくれ」と。どこにも答えはない。なんの保証もない。しかし確実に言えるのは、それが俺の道かどうかが重要だということだ。人に流されるのは簡単なことだ。思考を停止させるのも簡単なことだ。何もしないのも簡単なことだ。でも心のどこかで俺に訴えてる、何かを。言葉までは聞き取れない。あらゆる思想がこの頭の中を駆け巡っている。どれに手を出せばいいか迷っている。俺はより自分自身の奥深くに入り込む必要がある。あと一歩でそこに到達できそうなんだが。
 あるゆる物事に対して言い訳をしながら生きていくのには疲れた。これをするのはこういう理由があるからだ、とかね。物事に論理性を持たせるのは大嫌いだ。なぜ直感的ではいけない?なぜつじつまや効率性がなければならない?人生にこうでなければならないということはありえないと思うんだ。こうありたいという理想があればいいんだ。しかもそれをいちいち他人に証明する必要はないんだ。自分に証明すべきなんだ。
 突然だけど、俺の夢について語らせてくれ。俺は常に世界を変えたいと思ってきた。世の中に革命を起こしたいと思ってきた。それは今もこれからも変わらないはずだ。そして、それがなぜか考えてみた。そしたら結局俺は人に辿り着いた。俺が死んだあと、誰かが俺の言葉や生き様を知って、希望や情熱、勇気をもらってほしいんだ。理由は簡単、今の俺がそうだからだ。俺は業界問わず革命を起こした人や世界を変えようと試みた人の言葉やその生き様に非常に憧れていて、そこから色んなことを学んでいる。スティーブジョブス、マイケルジャクソン、ボブディラン、孫正義、ジョンレノン、パブロピカソ、サルバトーレダリ、ゲーテ、太宰治、三島由紀夫、森鴎外、パウロコエーリョ、羽生善治、本田宗一郎、アインシュタイン、エルヴィスプレスリー、アドルフヒトラー、ライト兄弟、エジソン、ガンジー、キング牧師、エマーソン、ホイットマン、モハメドアリ・・・名前を挙げればきりがない。要するに次世代に勇気や情熱、感動を与えたいんだ。そんな人間になりたいんだ。これは俺にとっては同じ地球に住む人への感謝だと思う。

俺は道なき道を進んでいる
自分自身の奥底に埋め込まれた方位磁石を使って
何かがあると信じて
ふと後ろを振り返ってみた
そこには農業があった

俺は変わらず道なき道を進んでいる

五月十七日
 研究の文書を作成していたらついつい突っ走ってしまったよ、許してくれ。今日はそれを載せるよ。
 私はイネが好きだ、それが第一の理由である。非常にシンプルな回答ではあるが、これはただやらされるだけのクズみたいな卒業論文制作に足りない要素だ。この外的動機づけはなんの効果も発揮せず時間の無駄に近い。今の社会、これからの世界に必要なのは内的動機づけである。好きだからやる、自分の道は自分で決めたいなどの高い志が必要なのであって、好きではないけどやらなければならない、周りがやっているからやる、といった消極的且つなんの意志もないただ社会と同化して安心しきったレールの上に乗っかることではない。その先に未来はない。重要なのははみ出す力であって周りに嫌われない力ではない。普段やることが多すぎて自分とのコミュニケーションを怠っている人にとってはこの内的動機づけを導き出すのは難しいだろう。人々は気づくべきだ、まず地球の広さを知る前に自分の内側がどれだけ広いかに。そこから全てが始まる。そして次第に気づくだろう、現実世界と自分が求めているものの間に大きな違いがあることに。そして君は動きださずにはいられなくなるだろう自分が求める未来へと。そしてそこには大きな障害がいくつも立ちはだかることに気づくだろう。社会はお前を認めようとはしないだろう。社会はお前のことを狂人と呼ぶだろう。社会はお前のことを重荷に思うだろう。そして相手にしないだろう。そこでお前は葛藤するかもしれない、正しいのは社会か?それとも自分か?そこで俺はこうアドバイスしたい。「目をつぶってごらん、そこで見えたものを信じろ」とね。

五月二三日
 よく考えてみれば、全ての瞬間がチャンスなのかもしれない。時々そんな感情でいっぱいになる。人間ってのはまだ起きもしないことを考え、哀れなことに打ちのめされそうになる。不思議な生き物だ。人間ってのは荒探しのプロだ。良いものよりも悪いものが目につく。俺は人類なんとか学者じゃないが、恐らく自己防衛本能みたいなものだろう。自分の身を守ろうとしているんだ。悪いものに目をつけて、最悪の事態を想像する、そうやって自分に保険をかけ、自分を守ろうとしてるのかもな。良いものに目をやれば、もし悪い結果となったときに深い傷を負うことを恐れているみたいだ。人間ってのは良くできてんな。誰も失敗なんてしたくない。でも待てよ、失敗ってのは一体なんなんだ? それは他人が決めることか? 何かを失うことか? 落ち込むことか? 道から外れることか? 狙った的を外すことか? 逆に聞こう、成功ってなんなんだ? 人が望むものを自分が手に入れることか? 幸せか? それが頂上か? 他人より偉いのか? 狙った的を射抜くことか? それが全てか? 合わせて質問しよう、これらは結果か? これが答えか? 天と地か? 最終駅か? おそらく違うだろう。それは過去の歴史が証明しているはずだ。今この瞬間を享受している以上、今まで起こってきたどんな出来事でさえ、全ては過程だ。成功も失敗も全ては過程であって結果ではない。成功に酔いしれて失敗に打ちひしがれる必要もない、全ては出来事となり石のように固まっていく。心配するな、石が追っかけてくることはない。でも忘れるな我々はその石の上に今立っているということを。いちいち下を向く必要はない。我々の問題は石ころを眺めることじゃなく、前を向いて歩くことだ。チャンスは目の前だ、しっかり目を開けておけ。

五月二四日
 今は図書館で作業をしているよ。そんなときにだ、俺はとても重要なものに気づいたかもしれない。一気に視界が開けたような感覚に陥って、歓喜が湧き上がってきて非常に幸せな気分だ。それは正しく愛だ。今まで俺は真実を追求しようとしてきた。しかし、この愛に関しては別次元だと思っていたんだ。でも今日それが何かに気づいた。恐らく愛は俺が求めてきた真実に最も近い存在だ。愛は世界そのものだ。愛は全ての物も根源だ。愛は感謝だ。愛は喜びだ。愛はこだわりだ。愛は情熱だ。愛は・・・もう言葉にはできない。愛と真実は一体化している。真実を求めようとすると愛とぶつかるし愛を求めようとすると真実とぶつかる。だめだ言葉にならない。この感情よ、逃げないでくれ。いつまでも留まっていてくれ。去ってもまた潜り込んできてくれ。愛よ、ありがとう。

五月二九日
 長い時間が過ぎた。といっても一年だ。今まで色んな思想にふけってきた。俺は前までは変わるということは恥で弱いことだと思ってきた。でも今までの自分を振り返ると、毎日毎日変化してきたように思う。ただそれが恥ずかしいことだとか弱いとかは全く思っていないね。もともと人間は不安定な生き物なのかもね。感情なんてすぐ変わるもんさ。だから不安がっている自分を責める必要はないんだ。それは潮の満ち引きのようなもので、時間が経てば流れは必ず変わるんだから。俺だって不安になることとか毎度のことさ。そのたびに落ち込むのも事実だけど、立ち直れる自分がイメージできるからそんなに怖くないな。不安なんて踏み台にしちゃえばいいのさ、沈めば沈むほど高く飛べるだろう?しかし飛ぶ瞬間は寸分の狂いもなく狂ったように自分を信じなければならない。だってこの世で最も強大な力は自分を信じる力であって、知性や暴力、権力なんかじゃない。
 真実を欲しがろうとする自分、そんな自分に会えて感激しているよ。

六月四日
 使命感を持ってはならない? 俺みたいな世間知らずは禿げの背中に向かって前にならえをしなければならないのか? 既存の概念に従わなければならないのか? 世間が正しいのか? 世間が答えなのか? 革命、この言葉が適当かはわからないが、これはすでに自分自身の中にあるような気がするよ。真実は俺が思っている以上に奥深い。どんなに手を伸ばしても届かない位置にある。だから俺たちは偽の真実を作り上げてそこに留まっている。挙句の果てにはそれが偽ではなく真だと勘違いしている。なぜなら人々は常に答えを求め、答えがないと不安になるからだろう。答えなんかありゃしないんだ。それなのに世間は答えを執拗に押し付けてくる。そして、多くの者はその答えに流され、大きな海に溶け込む。世界はそうやってまわっている。多くの者は偽の答えに踊らされているだけだ。それが多数派さ。
 革命、なぜか必ずピントが合う。既成概念、みずらくはないが非常に退屈だ。人が作ったものを人が壊して何が悪い? 日頃の悩みなんて大抵人が作りだしたものだ。自分と同じ人だぜ? それが変えられないなんてデタレメだ。皆、ないものを自分で創りだしておいてそれに怯えるなんて馬鹿なことしないでくれ。この世はシステムで支配されているのではなく、人の気で支配されているんだ。だから不可能だなんて言わないでくれ。

六月十八日
 何かが変化しているときなのかもしれない。何か重要なものを俺は疎かにしていたのかもしれない。俺は視野が狭くなっていたのかもしれない。限定的だったのかもしれない。何かに固執し過ぎているのかもしれない。それは決して良い状態ではない。ジョンレノンのインスタントカルマにこんな歌詞がある。「君はどこへでも行けるのに、どうしてそんなところにとどまっているのかい」これを聞くといつも自分に向けて言われているような気がしてくる。恐らく人間は一つの考えだけに固執し続ければそのうち石のように海底に沈んでゆくのだろう。常に変化し続けなければならない。なぜなら毎秒毎秒世界は変わっていき、誰もが明日という未知の世界に足を踏み入れるのだから。誰もが不確実な世界を生きている。何が正しいかなんて誰にもわかるはずがない。それなのにあれが正しいこれは間違っていると決めつける者がいる。まるで未来が見えているみたいだ。そんなはずはないのに。気づけば俺は指図されるのが一番嫌いだったな。最近はそんなことされないから忘れていたよ。人に生き方を決めつけられるのが大嫌いなんだろう。俺はあまり苛立たないタイプの人間だが、それに関しては妙に腹がたつんだ。結局何を言いたいんだかわからなくなったよ、あぁ、人の心というのは厄介なものだね。心の扱い方は二種類だね、心に君が飼われるか、君が心を飼うかだ。

八月十一日
 ある言葉に出会った。「二十五歳までに人格を磨きあげなさい。そうすれば、あとは順調に進むだろう」
 現在俺は、二十一歳だ。自分の人生を自分で決めていく分岐点に立っている。それを感じる。今まで、あれこれ考えてきた。自分はいったい何者か? 何を求めているのか? いつも自分自身の内部を覗き込んでいた。そこから様々な感覚やイメージを得た。それは決して言葉では表現できない。それは体内を駆け巡り、躍動している。果てしなく奥底に存在する。その瞬間、時間も忘れ、呼吸も忘れる。気づけば息が切れる。これを言い表せるだけの言葉が欲しい。しかし、決して言葉は発しない。音が伝わるように一瞬で体内を駆け巡る。ただそれを感じ取るだけだ。こういった感覚を得るのに長い時間を費やした。多忙な中では決して獲得することができなかっただろう。毎日毎日、俺は目を閉じ続けた。そして自分自身の奥底の姿を見ようと努力し続けた。何が俺をこうさせたかは分からない。気づけば目を閉じていた。そして恐らく習慣化されていった。冒頭の言葉通り俺は、人格を磨きあげたい。俺自身それを望んでいる。時間はあまり長くはない。全てのイメージや答えがどこにあるのかはもう分かっている。迷うことはない。さあ飛び出せ。イメージを現実にしようじゃないか。
 俺は、名言集を読んだり、好きなミュージシャンの詩を読んだり、そんな人たちの物語を読んだりすることが大好きなんだ。正直言って、そういった人たちからとてつもなく影響を受けている。だからつくづくそんな人たちに感謝したいと思っているんだ。そして、そういった人たちを見ていると、ある情熱が湧き上がってくるんだ。「俺もこの人たちのようになって、人々に希望を与えたい。ちょうど自分がそういった人たちから希望を貰っているように」自分自身、こういった形で俺に影響を与えてくれた人たちに感謝したいんだ。そして、それを後世に伝えていきたいと魂が望んでいる。全ては自分自身を信じることから始まるんだ。

八月一九日
 自己を諦めなければならない。考えれば考えるほど人は臆病になっていく。世界的な偉人もこういったことで苦脳していたのかもしれない。思考と行動をマッチさせることが最大のテーマなのかもしれない。思考なき行動、行動なき思考は無価値なのかもしれない。前者はハンドルのない車のようなもので、後者はエンジンのない車のようだ。どちらにしろ目的地にはたどり着けないだろう。そしてそれは今の俺に当てはまる。人間というのはあまりにも想像力が良すぎるから悪い結果を予想して臆病になっていくのだろう。そしてそれは皮肉にも自己を見出し無限の想像力にチャレンジしようとすればするほど突き当たる壁になるものだね。だからかえって想像力が害を及ぼすことだってあるさ。その想像力を良い方向に向ければいいだけの話なのにね。悪い結果を想像できるということは、良い結果も予想できるという証明なんだ。

八月二一日
 今日も書くよ。今日何かが吹っ切れた。それは破壊的な何かだ。特にきっかけはない。長い蓄積があってのことだと思う。しいて言えば、モギケンの偏差値批判の記事を読んでいる時だったかな。まあとにかく、俺が好きな左翼的な意見を読んでいる時だった。まあ左翼の使い方が正しいかは知らないが。本題に入ろう。俺はずっと自己の中に真実が存在すると思っていた。自己の延長線上に存在すると思っていた。自己の奥底に真実が存在すると思っていた。しかし、今日何かが変わった。恐らく真実は自己とは別次元だろうと思う。俺は社会に怖れを抱いていた。いや、社会という言葉は嫌いだ、人に恐怖を抱いていた。なぜか、どこかで人が自分よりも正しいと思っていたから、だからいつも自分自身を疑っていた。しかし今俺はその事実を傍観する。周りは間違っている、自分自身も間違っている、そして、真実のみが正しい。真実は大気を支配し、世界を支配する不思議なエネルギーを持っている。自己を超越した存在だ。さっきからそれを表現できるだけの言葉を探しているが見当たらない。そんな存在だ。今まで自己を追求し、その奥底に手を伸ばし、耳を澄ませ続けた。確かにそこには強いエネルギーを感じた。そのエネルギーが偽だとは言わない。でも人間の思考が作りだしたものかもしれない。脳科学的に言えば左脳が右脳に話しかけるようなものだ。この表現が正しいかは知らない。ある時、真実を追求する過程で「無」に辿り着くことがある。これこそが自己なのかもしれない。そして、それを超越したエネルギーが真実なのかもしれない。
 数年後この文章を読んだ俺にひとこと言いたい。お前はこれを多感な時期に書いた幻想、中二病、若気の至りなどの言葉であしらうかもしれない。もしかすると、この文章を書いた自分を誇りに思うだろう。そのどちらでもいい、だからひとこと言いたい。「俺は、長い時間をかけて瞬間を掴んだ。この文章を書く前に缶ビールを一本飲んだが、シラフ同然だ」と。

九月十日
 悟り。俺はこれまでここ二年間ひたすら求めてきた【何か】、それは自我や自己意識を超越した何か、それは創造物ではない、過去や未来でもない、思考や論理でもない、それは自己を超越した真実が宇宙の真実に溶け込むような感覚、果てしなく中心に向かう過程、別の言い方をすれば、無意識と真実、内面的体験、「語り得ぬ神秘」「非我」「自我という限定されている意識が、自我性をもたない本来的自己へと突破すること」「人間がその内側へ、つまり彼自身の心へと向けられており、その結果、彼は神の内的なはたらきや内的な言葉を理解し、また感じることができる」「禅の意識は成熟に至るまで発展しなければならない。それが完全に成熟すれば、それは、無意識への洞察に外ならなぬ悟りの形で発現するのである」「心の月は、宇宙の全体をその光りの中に包んでいる。それは宇宙的な生であるとともに宇宙的な精神であり、また同時に、個人的な生であるとともに個人的な精神である」
 言葉の概念というもの難しいものだ。でも重要なことはその言葉の背後に隠された真実だ。俺はこれまで真実を追求しようとしてきた。しかしそれが別の言い方で「悟り」に通じるということには全く気付かなかった。そしてさらに衝撃的だったのは、「悟」という字が俺の名前に含まれていたということだ。これは偶然ではない何か運命的な衝撃を受けた。と同時に自分自身への誇りを感じた。そしてそれを心の底から両親への感謝に変えたい。自分の両親を誇りに思う。

九月十三日
 「心的な因子が私のなかで活動しているのを私は認める。その因子は、きわめて信じがたいけれども、私の意識的な意志の手におえないのである。その因子は、私の頭のなかに特別な考えを吹き込むことができるし、望まない、歓迎できない気分や情緒を私に生じさせたり、他の人々に対する私の関係をいらいらさせるような驚くべき行動へ私を駆り立てたり、などということをすることができる。このような事実を前にして自分が無気力だと、私は感じている。そして最も都合が悪いのは、私がそれに惚れ込んでいるとうことであり、そのため私がそれをまだ賞賛せざるをえないとうことである」
これはユングの著書『自我と無意識の関係』のある一節だ。自分にとって非常に共感できるものがある。


九月十七日
 我々は生きなければならない。それは簡単なことではないことがわかってきた。それはただ呼吸することではないことがわかってきた。それは考えることではないことがわかってきた。それはとても壮大なことだということがわかってきた。人間の時間は限られている。過去の歴史が証明しているように我々現代の人間もいずれ過去の人間となっていく。この短い時間をどう生きるか。このテーマは過去も未来も合わせた全人類の最大のテーマだと思っている。もちろんこのテーマを無視してただ呼吸することはできる。でもそれは人類にとって最大の失敗かもしれない。それは生きるということではない。生きるとは恐らく、人間一人ひとりがその全人格を意識することではないか。普段呼吸だけしかしていなかったら、全人格を意識することなんてできない。もちろんこれは簡単なことではない。生きることが簡単なことではないように。でもこの人類に生を授かって同じ人類の仲間である以上、この使命は果たさなければならないと思っている。それが先人たちへの、人類への感謝だと思う。ヒトは自分が思っている以上に素晴しい。それなのに、人同士で蔑んだり、憎み合ったり、けなし合う、ののしり合うことは非常に悲しいし、そのせいで相手の顔色を覗いながら生き、自信を失っていく。自分は相手よりも劣っている。こんな嘘を本気で信じ込んで生きているのは、人類において大きな損害だと感じる。そもそもヒトに順位付けや下か上かなんてない。個人というヒトがあるだけだ、そしてその個人というものがどれだけ壮大なものか自覚すべきなんだ。そして人類はそれを認め合うべきなんだ。そうすれば人類は進歩するし世界は変わっていくと信じている。
 俺は、あることにこだわっている。無意識と真実だ。生きること、つまり全人格を意識することは、言い換えれば、無意識を意識することだ。我々人間の意識というものは全人格のほん一部にすぎない。ヒトは自分が思っている以上に素晴しいと言ったのはこの理由だ。意識の背後に隠れ全体をなしている無意識、この部分に個人を個人たらしめる何かが存在している。つまり、本物の人間が存在している。そう確信している。この地上にいられる間に自分には何ができるか考えた。それは生に感謝し、この精神を使い果たすことだと思った。そのためには時間という概念を捨てなければならない。直線でつらなる時間ではなく、点という瞬間を意識しなければならない。なぜなら我々はこの瞬間を生きているからである。
 何が俺をここまでさせるのか考えてみた。根底には感謝があると思う。この地球上に暮らす人類への感謝。身の回りを見渡せば過去の偉人達が残してくれたものばかりだ。電気やテレビ、車、パソコンや書物など、特に俺にとって書物は欠かせない財産だ。そこから数々の影響を受けてきた。そういったもの全てに感謝したいと思っている。そのためにどうすればいいか考えてみた。そのためには全人格を使い果たし世界に何かを付け加え、未来に引き継ぐことだと、そう思っている。

九月十九日
 今まで、真実は二つの工程があると言ってきた。つまり、個人的真実と宇宙の真実だ。個人的真実は悟りのような内面的体験で、意識や無意識、自我の先にあるものと同時に影響を与えているもの、全体をなすもので、意識や無意識、自我が地球ならば個人的真実は太陽のようなものだ。ユング風に言えば本来的自己だ。これは、個人がそれぞれ持っている真実であり、ヒトの数だけ本来は存在している。これを見出せばの話だが。そして、宇宙の真実は、一つだけだ。しかし、それは数ではない、空気のようなもので漂っている。到底説明できない領域だ。これと唯一交信できるものが、最初に説明した個人的真実だ。お互い対立するものではないし、同一なものではないとも言い難い。もし、交信できたならば、宇宙の真実の中に個人的な真実が溶け込むようなイメージだ。
 そして、そのイメージに近い表現をしている言葉を『自我と無意識の関係』ユング著から見つけた。
「人間は個的存在としてそれぞれ分化されているが、ちょうどそれは大きな餅があって、そこから小餅に分かれたようなものだ。小餅になって、薄皮が張る。時間が経つと共に、その皮が厚くなる。その結果、小餅同士が互いに他人同士として、角つき合わせてしまう。もともと大餅であったことを、つまり、気持の上ではみな一つのもであって、ほんとうは地下では結ばれていることを忘れてしまっている。大餅であるということの擬人体験、それは一緒に笑い合うときになされうる。元来そうあるべき大餅であるということの体験の機会を、人間は少しでも多く持つべきである。落語を通して、笑いを通してそれができたらと念じている」

 これは正に真実を語っているように思い、衝撃を受けた。これは、落語家桂枝雀の言葉である。ここで言う大きな餅が宇宙の真実で、小餅が個人的真実に近いものだと思う。この方のアプローチの俺のアプローチは異なっているかもしれないが行きつくイメージは同じだと思う。

十月十一日
 時代は、人間を食いつくす。人間が本来持っている個性を食いつぶす。時代は川の流れと共に下へと下っていく。始めは誰もが上を目指して、流れに逆らう。しかし、川の勢いは、次第に強くなるばかりだ。そのうち、多くの人は、耐えきれず、流されてしまう。彼らは、その後なんの力も使わず、勢い良く下って、広大な海に行きつくだろう。そして、気づくだろう、僕は、泳いで海に辿り着いたわけではない、ただただ、流されただけだったんだって。そして、流れに逆らい山の山頂に辿り着いた者は、こう言うだろう。あの時流れに身を任せていたら、きっとここには辿り着けなかっただろうと。
 本当にやりたいことなんて、今の俺にはないかもしれない。ただただ、あるフリをしているだけなのかもしれない。時代に流されているだけなのかもしれない。時代遅れという言葉があるが、本当に遅れているのは今の時代なのかもしれない。人々がクラシック音楽を聴く理由は、本来人間の奥底には素晴しい何かが存在しているからだ。それがただ、時代という雲に隠れて見えないだけだ。
 僕は、この雲を振り払わなければならない。本来の自己として歩むために。時代が変わるのは、川の流れに逆らう者が現れるからなんだ。すなわち、一人の本来の自己としての人間として、生きる人がいるからだ。そういった人は非常に少ない。川の流れはあまりにも強いからだ。

十月二四日 
 久々に書くことにした。今日は、人類について思うことがあったから書くことにした。形式立てて書く能力がないため、いきなり本題に入りたい。これまでの俺は、人は、常にその生きている最中に新しいものを生み出し、世界を歴史を変革していくこと、それが人間の人類のその時代の使命だと思っていた。しかし、いつものようにユングの本を読んでいてある考えが浮かんできた。それを言葉にして説明するのは非常に難しいが、また、あまりその考えを捕まえきれていないが、人間というものが誕生して以来、今まで根本的なものは何も変わっていないように思う。確かに、身の回りを見渡せば、五〇〇〇年前と今とでは、景色が違うのかもしれないが、人類というものは、一つの目標に向かって進んでいるように思う。人は、その命は短い、そのため、今まで多くの人が死んでいきまた生まれてくる。そうやって人類の歴史は積み重なってきた。その世代は次の世代へと次々に、まるで石段のように積み重なっている。そこで思う、人はそれぞれ違う、その人の生き方も感性も価値観も全く異なる。しかし、人類という観点で見た場合、みんな同じであり、一つの目標、それが何かはわからないが、そこに向かっていると思う。我々は我々が生み出したものによって、また、人間が扱う複雑な理性、雑多な感情により、それが奥深くへと埋もれていってしまっていると思う。これは俺の偏見によるものなのかもしれないが、俺の心がそう言っている。普段の生活では、そんなことは意識されていないが、人間の奥深くの認識すらされない無意識の領域に人間なら誰しもそういった真実が存在しているように思う。人間は、あれこれ自分の知性を使って思考するが、残念ながら知性は役に立たない。知性は我々人類を目標へと導かない。人間の判断は、人間の特権である間違いを担うんだ。別にこれが悪だと言っているわけではなく、これも人間というものの一部なんだ。ただ、いつだって重要なことは背後に隠れていて目に見えないんだ。我々は、気づいていないだけで、確実にその中に存在しているんだ。だから我々人類が創造したと思われている様々なものは全部、新しく作りだしたというよりも、ただ見えただけなんだ。その存在に気付いただけなんだ。何も新しいことはないというのは言いすぎかもしれないが・・・。人間は、気付いていないだけで、我々と同じ人間からバトンを受け取っているんだと思う。そして、受け取った人間はその短い生涯の間に、それぞれの方法で自分自身の、人類の、真実を表現しようとするんだ。そしてそれが人類の使命であり、そういった方法で人間から受け取ったバトンを次の人間へと渡そうとするんだと思う。

ちっぽけな人間

ちっぽけな人間

小説というよりは日記です。ただ自分が感じたものだけを書きました。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-03-26

Copyrighted
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