あらしのかみさま
嵐と一緒にやって来る人がいた。
彼女はある日突然現れて、僕の日常をかき回して、後には清々しさだけを置いていく。
本当に嵐のような人だった。
彼女と出会ったのは風の強い夜だった。
その日は、その年初めての台風が僕の住む町を覆っていて、昼間から空が暗い一日だった。夕方頃になると更に風雨は増して、風の吹きすさぶ悲鳴のような音が部屋の中にまで響いていた。応じるように窓硝子がガタガタと嫌な音を立てていて、部屋で一人何気なくテレビを見ていた僕は少し心細い思いをしていた。
そこへ突然呼び鈴の音が鳴り響いた。
僕は文字通り飛び起きた。その日は誰かが遊びに来る予定などなかったし、こんな嵐の日に僕の部屋を訪問する人物に全く心当たりはなかったのだ。一体誰が来たのだろうと、予期しない音にびっくりしてしまった心臓を落ち着かせながら、用心深く僕は玄関の扉を開けた。
そこに立っていたのが彼女だった。
「こんばんは。」
彼女は笑顔でそこに立っていた。
「お邪魔します。」
そう言いながら、彼女はさっさと部屋に入ってくる。
今日も大型の台風が近づいているらしい。風の飛び回る音が部屋の中まで届いている。
彼女が初めて僕の部屋に来てからもう一年が経つ。彼女は年齢不詳で、大人のようないつも余裕をたたえた目をしながら、少女のように素朴にはしゃぐ女性だ。肩口で揃えた髪を踊らせながらこちらを見て笑う彼女を見ていると、外が暗い空模様でも気分が晴れていく。
「今回の台風は大きいらしいけれど、外の様子はどうだった。」
「風がすごいね。電線が切れるんじゃないかと思うくらい風で振り回されてた。」
「こんな日に出歩くなんて本当に物好きだよね。」
「風が強い日の外は楽しいんだよ。」
「でも危ないでしょ。何か飛んでくるかもしれないし。」
「分かってるよ。せっかく寂しいところへ遊びに来てあげてるんだから、いちいちお説教しないで頂戴。」
彼女がぷいとそっぽを向く。誰も頼んでないんだけど、とこれは心の中で呟く。実際訪問客が宗教かセールスの勧誘くらいのこの部屋に、たまにとはいえ彼女が来てくれるのは嬉しいことなのだ。
「ところでこの嵐の中ここまで来たから、私は疲れているのよね。」
彼女は物欲しそうな顔でこちらを見る。ころころとよく表情を変える人だ。その彼女が顔で要求しているのはご馳走とお酒である。
「宴会の前にその濡れた体をなんとかしてくれるかな。」
彼女はここまで徒歩で来ているらしく、いつもずぶ濡れで登場する。ご多分に漏れず、今日も彼女から滴る雨水で畳に染みができ始めている。
「あぁ、そうだね、このままじゃ風邪ひいちゃう。お風呂借りるね。」
彼女は僕の返事も待たずに風呂場へ飛び込んでいった。まだ数回しか来ていないはずなのに、すでに勝手知ったるという感じだ。僕は一つため息をついて、宴会の準備にとりかかる。とは言っても部屋に一つだけあるテーブルの上に買っておいた惣菜やつまみを並べるだけだ。あらかた並べ終わる頃に彼女は風呂場から出てくる。
「お、準備万端だね。」
テーブルの上の料理を見て子供のように目を輝かせる。半袖シャツに短パンという格好をしているから余計に子供っぽい。はしゃぐ少女の髪はまだ濡れている。
「髪の毛、乾かさなくていいの?」
「いいよ、ちゃんとタオルで拭いたし、すぐに乾いちゃうから。」
彼女は待ちきれないといった様子で座ると、テーブルの上のグラスを掲げてみせた。
「そんなことより宴会を始めましょう。」
彼女はよく食べ、よく話し、よく笑い、そして何よりよく飲む。男である僕がついていけないほどだ。
酔った彼女は真っ赤な笑顔でいろんな話をしてくれる。それは大抵が彼女の一人旅の思い出話だ。南から北まで、全国津々浦々、彼女はいろんなところを旅しているらしい。僕があまり旅行に行ったことがないせいか、彼女の話は一つ一つがとても興味深いものだ。僕の見たこともない世界の話を彼女はとても楽しそうに話してくれて、そんな彼女につられるように僕も楽しい気持ちになってくる。そうして彼女の話を聞いているうちにいつのまにか僕は眠りに落ちてしまう。その時に決まって夢を見る。彼女が話していた世界を、彼女の話を聞きながら眺める夢だ。行ったことも見たこともない場所のはずなのに、素晴らしくリアルで、僕は実際に彼女と旅行に来ている気分にすらなるのだった。
夢から起きると、朝が来ている。台風は無事通り過ぎていったようで、窓の外を名残惜しそうに小雨がぱらつくのが見える。彼女もまた話し疲れたのか、飲み疲れたのか、テーブルに突っ伏して眠っていた。彼女の安らかな寝顔を盗み見ながらタオルケットをかけてやり、起こさないように慎重に片付けを始める。
片付けも一段落したところで彼女が目を覚ます。彼女は朝に弱いらしく、起きてもしばらくはぼんやりしている。存分にぼんやりとした後、やっと完全に覚醒した彼女は旅支度を整える。じっとしていられない性格なのか彼女はすぐに次の旅へと出発してしまう。
「今回もありがとう、お酒おいしかったよ。」
「こちらこそ。また楽しい土産話、期待してる。」
「それじゃ、またね。」
そして彼女はさっさと行ってしまう。
そんなふうにして彼女は何度か僕の部屋へ来たのだけど、僕は彼女のことを何も知らない。名前も誕生日も、どこかに帰る家があるのかも、家族がいるのかも、何も知らない。何度か聞いてみたことはあるけど、結局彼女が教えてくれることはなかった。
そんな全くもって怪しい女性を一晩とはいえ家に泊めるのは、少なからず抵抗があったのだけれど、そもそも男の一人暮らしに女性が単身乗り込んでくるというのは倫理的に明らかにまずいのだけれど、なぜか彼女を門前払いする気は起きなかった。
彼女に酒と料理を振る舞って、土産話を聞きながら不思議な夢を見るという一連の流れをやはり僕も楽しみにしていたのだ。当時は交友関係も狭く、人と関わること自体がとても貴重だったから。
どこから来たのかも、これからどこへ行くのかも、なぜ僕の部屋に寄り道するのかも、何もわからなかったけれど、あの時間は確かに楽しくて、とても大事なもので、僕はいつのまにか彼女のことを好きになっていた。その気持は段々大きくなっていって、ある年の最初の台風の到来を天気予報が告げたとき、僕はある決心をした。
そして嵐はやってきた。
窓の外を強い風が吹き抜ける。雨はまるで弾丸のように窓を打つ。きっともうすぐ彼女がやって来るだろう。いつもの宴会の準備は整っている。彼女が来たらどう振る舞うのだったっけ。不安と緊張で毎度どうやってこのイベントを遂行していたのかもわからなくなっている。そして今回彼女に伝えなければならないことを、いつどのように切り出すべきか。いくら考えてもこれという答えが出てこない。しかも考えれば考えるほど不安は増すばかりだ。気分を落ち着かせようとテレビのリモコンを手にした時、突然呼び鈴が鳴った。
彼女がやって来た。
いつもなら心の踊る瞬間のはずなのに、なぜだろう、今日はなぜかすごく不吉なものに聞こえる。それは今回の一大決心のせいではないように思えた。玄関の扉を開けたらなにもかもが終わってしまうような、そんな嫌な予感が僕をすっぽりと包んだ。それでも僕は扉を開ける。彼女の明るい笑顔が僕の不安を吹き飛ばしてくれることを期待して。
扉の向こうにはちゃんと彼女がいた。でもいつものように強引に部屋に入ってこない。穏やかに微笑みながら、申し訳なさそうな顔をしながら、ただ立っている。嫌な予感が色を濃くする。
「どうしたの、入りなよ。」
思わず声が震える。
「ごめん、今日は違うの。」
彼女は首を振りながら答える。依然として彼女は微笑んでいるが、その表情にちらりと悲しみの影がさしているように見える。僕が見たいのはそんな顔じゃなくて、いつものような底抜けに明るい笑顔なのに。
「今日はね、さよならを言いに来たの。もうここに来ることは、ないから。」
それは死刑宣告にも似た響きだった。彼女はついにはっきりと悲しげな顔をした。
「どうして、なんで、そんな急に。」
わけがわからない。きっとこれは冗談だ。質が悪い、嫌がらせなんだ。でもそれならなんで君はそんな悲しい顔をするんだよ。
「ごめんね。」
違う、謝って欲しいんじゃない。さよならを言わないで欲しいんだ。できればずっと一緒にいてほしい。だって、僕は。
「分かってるよ、君の気持ち。私も君のこと好きだよ。でもね、私はその気持には応えられない。さよならを言わなくちゃいけない。」
僕の言いたいことを先回りして彼女が言う。それは僕に何も言うなと言っているようだ。
「どうして。僕のことが好きなら、どうして、さよならなんて。僕は嵐の夜だけじゃなくて、もっといろんな時間を君と過ごしたいと思ってるのに。」
風と雨のせいで僕もすでにびしょ濡れだ。彼女の表情が滲んでしまう。
「なんで男の子が泣くのよ。ここは黙って見送りなさいよ、女々しいわね。」
彼女は明るく、しんみりとした気配は見せずに言った。きっと彼女はもういつものように笑っている。その顔が見たいのに、雨か涙が邪魔をしてよく見えない。ふと彼女が僕の手を握った。それは子供をあやすようだった。
「今までおいしいお酒とご飯をありがとう。お礼にあなたの幸せを祈りましょう。」
「というのが僕の初恋と初めての失恋というわけさ。」
「それで無事就職、私という可愛い恋人もできて順風満帆な生活してるというわけ。」
「いや別にそういうわけでは。」
「でも確かに不思議な人だね。というか明らかに変人。」
彼女が僕の前に現れなくなってずいぶん経った。安定した生活にたくさんの友達、そしてちゃんとした彼女もでき、今の僕はそれなりに幸せな日々を過ごしている。
「でもその話を聞いて思い出したんだけど、私似たような話知ってるよ。」
「え、いつ、どこの話?」
「いや、昔話なんだけどね。私の地元では結構誰でも知ってるかも。」
そう前置きをして彼女が語る。
昔々あるところに1人の貧しい若者がいました。ある嵐の日、若者は美しい女に出会いました。その女はずぶ濡れでおなかを空かせて動けないようでした。若者をは女を家に連れ帰り、少ない食べ物をわけてやりました。夜になって女は言いました。『実は私は雨風を引き連れて旅する嵐の神なのです。お腹が空いて困っていたところを助けていただいてありがとうございます。しかしこのままここに雨風を留まらせては大変なことになりますので、もう行かなくてはなりません。お礼にこのお酒をお渡しします。』そうして女は若者に酒の入ったひょうたんを渡して、外へ飛び出して行きました。女が残したお酒はそれは美味しく、不思議なことにひょうたんの中身はいくら飲んでもなくなることはありませんでした。若者はそのお酒で商売を始め、お金持ちになりました。めでたしめでたし。
「それは、確かに似ているね。」
「もしかしたらその人って本当に神様だったりしてね。」
「そうかも。どこか人じゃない雰囲気あったし。そっか、かみさまか。」
僕はふざけて言う。彼女がつられて笑う。この幸せもかみさまのおかげなのか。
「そんなこと言ってたら、風が強くなってきたかも。」
「台風がそろそろ来る頃だって天気予報でも言ってたからな。」
嵐が来るたびに思い出す。僕が恋したあらしのかみさまのことを。
あらしのかみさま