終と始をめぐる思考
こういう言葉を読んだ。
ひつとのものの終わりは、新しいものの始まりでもある。
素直に賛成する部分もあったが、しかし私は考えた。
必ずしもそうとは限らないのではないか。
終わってしまえば、そこできっぱりなくなってしまうものだってあるのでは。
何も残らず、片っ端から全部消えてしまうものだってあるのでは。
そしてそんなふうに完全なる終わりを遂げたものがあったほうが、
いや、きっとあるはずだし、
むしろ完全に終わってしまったほうがいいものだってあるのでは。
「・・・ほうがいい」って言ってしまえば、個人的な価値観の判断が入ってしまうが、
かといって、そういうものの存在を否定するには至らないであろう。
終わりを新しい始まりだという言葉に頷くのがわかるが、
それは人々は、終わりを悲しく思いがちだからではなかろうか。
終わりは悲しいから、切ないから、寂しいから、
新しい始まりに希望を、想念を、様々な思いを込めたいからではなかろうか。
でも、全ての終わりは嘆かわしいものだとは思えない。
全ての終わりは、悲しくて、切ないものとは限らないのではないか。
終わってよかったものだってあるはずだ。
自ら終わりを望み、望んだ形で終わったものだってあるはずだ。
その終わりが穏やかなものだってあるはずだ、
安らかなものだってあるはずだ。
そういうものを、私は悲しく思いたくない。
素直に祝福してあげてもよいのではないか。
やっと終わったね。
やっと静かになったね。
やっと解放されたね。
やっと安らぎに抱かれ永久にお休みだね。
よかったね。
別に新しい始まりをよく思っていないわけではなく、
ただこういう終わりもあるのだということを、
忘れないほうがいいと思う。
それに、そもそも、ひとつの終わりは、新しい始まりを意味するというのは、
終わったものと始まったものとの関係を、
考え直す必要もあるのではないか。
もしふたつのものはまったく関係のないものなら、
この世で瞬時瞬時に、刻一刻に、たくさんのものが終わっていくと同時に、
たくさんのものが始まっていく。
そういうものたちの間に、関係するもののあれば、
まったく関係のなかったものだってある。
ただ、この言葉を理解する上で、
終わったものと始まったものは、関係性を持つものだと考えるべきであろう。
ならばさらに考えてしまうのは、
始まったものは、終わったもの自身から生まれ出されるのか、
それとも直接終わったものの中からではないけど、
関連のあるところから成してきたものなのか。
いずれにせよ、生まれる、成せるという創造的な行為は、
大変力のある、難しいことであると思う。
そういう行為の結果として、
始まりをとげたものは、必ずしも「いい」ものとは限らないけれど、
どうやら人の心を動かす「魅力」があるように思える。
それは歓喜にせいよ、恐怖にせよ、嫌悪にせよ、感動にせよ、
とにかく強く、豊かな感情を呼び起こすらしい。
そして、この言葉を口にする時は、人はどうしてもいい方向に解釈したがる。
花が散るのは、次に咲くため。
葉が落ちるのは、土に溶け木の養分になるため。
今別れるのは、また会うため。
涙の裏にひそむ笑顔が、
切れた糸の先に繋がる線が
死の中に新たな生(せい)が、
そんな祈りを込めて、人々は、いつの時代でも、
新しい始まりの唄に、耳と心を傾けるだろう。
そして、いろいろとあることないことを言った私も、
たぶんそのうちの一人だと思う。
終と始をめぐる思考