紅の鼓動
吸血鬼という古典的なモチーフには、
愛に関する悲劇のメカニズムが垣間見えます。
エロチシズムの昇華とも言えそうな吸血行為の裏に、
宿命的な哀しみが潜んでいるのです。
白い部屋。
リンが目覚めたのは30㎡ほどの白い空間。
はじめ、女の頭にはぼんやりとした靄がかかっていた。
記憶が戻ってくるまでの間、リンは指先を懸命に動かしては状況の把握に努める。
夢の続きみたいな気分の中で、何やら奇妙な音を聞いた。
妙に神経を苛立たせる不吉な音だ。
部屋の真ん中には、2つの銀色のカプセルが置かれている。
まるで、寄り添いながら永遠の眠りを体現する棺のように。
リンの頭が徐々に記憶の輪郭を取り戻す。
「もう、15年が過ぎたのかしら?本当に?」
狭いカプセルの中では、自分の声が必要以上に大きく聞こえる。
リンの顔のすぐ上に窓があって、天井に設置された無彩色の電子パネルの数字が見える。
2051 0707
なんか変だ。数字を信じるならば、まだ13年と数ヶ月程しか経っていない。
リンが慌ててカプセルのフタを押し上げようとするが、
閉ざされた重いカプセルは頑に女の願いを拒否するばかりだ。
Cold Sleepシステムに何らかの異常が起きたの?
どうやら耳障りな音は警報だったようだ。壁の橙色のランプが点滅している。
色彩のない部屋で、その光は殊更にリンの心の不安を煽る。
「え、え、え?な、何?わたし、どうなるの?…あ、ノ、ノブは?無事なの?」
すぐ横にあるカプセルに視線をやるが、銀色の覆いに阻まれてノブの姿は確認できない。
「ねぇ、ねぇったら、ノブ!起きてるの、ノブ?一体何があったの?」
リンは呼びかけてからクッと息をつめた。ノブは…、ノブは無事なのかしら?
間髪を入れずに隣のカプセルから応答があって、リンはほっと息をついた。
「リン、きみも目覚めたんだね?良かった!ひとりぼっちになったかと思ったよ」
男の声にも安堵が満ちていた。
「この音、なんなの?何か問題が起きたの?」
リンのカプセルに設置されたスピーカから、ごく小さなため息が伝わってくる。
「ノブ?何が起こったのよ!設定と違うわ。まだ2年近くも早いじゃない。フタも開かないし…」
「分からない。とりあえず、このやかましい音はOFFにするよ」
すぐに警報がやんで、辺りは底知れぬ静寂に堕ちた。
2つのカプセルの間は30cmほどしかない。至る所に電子機器が設置された部屋の壁は、
無彩色・無表情なまま2人の会話に耳をすましている。
「わたしたち、生きてるのよね?もう大丈夫なんだよね?ここから出て地上に行けるんだよね?」
天井の数字が、不機嫌な光を放ちながら2つのカプセルを見下ろしている。
二度寝して目覚めたときのような、ぼんやりとした不快感がまだ続いていた。
同時に、掴みきれない状況がリンの胸に焦りと恐怖をふくらませてくる。
「2053年よね、わたしたちの覚醒予定は。CS計画は失敗したってこと?
いやっ、わたし死にたくないよ!何のためにお父さんやお母さんが…」
スピーカから、リンに聞き取れないほど小さなため息がまたひとつ漏れた。
すこし長い沈黙の後で、ノブの明るい声が語りかけてくる。
「ま、いいさ、リン。こうして2人とも生きているんだから。心配ないって…」
するとリンが、イラついて唇を噛み締めた。ノブの声を聞いた安心感が、
彼女を一気に覚醒前の、本来の天真爛漫な自分に戻したかのようだ。
「なんであなたはいつも、そんなに能天気でいらるの?安全期まではまだ2年あるわ。
S級コンピュータが出した結論よ。間違っているはずはないわ!HDS型ウイルスはまだ生きてるのよ」
「確かに地球環境でウイルスが死滅するまでに要する時間は15年ってことだった。
でもさ、ここは安全な場所だ。ウイルスは侵入できない」
地上から30mほどの地下にある施設だった。
2人がシェルターでありクリーンルームであるここに来たのは13年と数ヶ月前。
恋人同士だったリンとノブのために、お互いの両親がいろんなところに手を回してくれて、
2人は生き続ける環境と未来を手に入れた。はずだった。
「CSシステムに何か不具合が生じたことは確かだと思うけど、まずは冷静になろう。
食べ物も水も10年分は確保されてるんだから。ほらね。だからさ、
あと2年弱だけの辛抱だよ。実るまで桃や栗だって3年、柿なんて8年も…」
ジェルをすする音がスピーカから聞こえてくる。
「プッハ〜!おい、これ、入力したらほんとにビールの味だよ!
よし、次はつまみでキムチいってみよう。うわっ、辛ぇぇぇ!!」
「ああ、やめてよ、笑えないわね。なに悠長なこと言ってるのよ、
ノブ!2年間もこの狭苦しい場所にじっとしてろってこと?冗談じゃない、ストレスで死んでしまうわ!」
「いいからいいから、リンはせっかち過ぎるんだよ」
「ノブはね、いっつもそう。こんな状況で冷静になんてしていられるわけないじゃない!」
再び沈黙。
白い部屋に無彩色の機器が立ち並ぶ空間に居ると、
生命のつぶやきさえ否定されているような重苦しい気配が迫ってくる。
「ぼくはね、リンがいるだけでいいんだ。
他にだれもいなくたって、リンがこんなそばにいる。だから何も怖くないし、不安もないよ」
リンの心に温かいものが満ちてくる。リンだってそうだ。
ノブがそばにいるっていう感覚が彼女の気持ちを落ち着かせていた。
「2年なんて、あっと言う間さ。ぼくらは新しい地球で幸せになるんだろ?
みんなにそう誓ったじゃないか。違うかい?」
「そりゃあ、そうだけど…」
再び、饒舌な静けさが辺りを満たす。
白い部屋は、華やかさを否定する斎場みたいに、厳格な沈黙を要求してくる。
動物や虫どころか細菌まで、2人以外には生命の欠片さえない部屋。
お互いのカプセルに設置されたスピーカだけが、
自分が孤独の淵に立っているわけじゃないことを気づかせてくれる、唯一のツールだった。
HDS型ウイルスが、一体どこからやってきたのか?それはついに解明されなかった。
宇宙から飛来したもの、某国の細菌兵器開発から生まれたもの、
さまざまな憶測が流れたけれど、原因が明らかになる前に世界滅亡が秒読みに入った。
8ヶ月の間に、世界人口の4分の1が失われた。
コンピュータがはじき出した結論は非情なもので、1年半後に地球上の全人口がゼロになるという。
世界各国で人類の種を残すための議論が交わされ、
日本でも国会に緊急動議が出された。そしてCS設置法案が可決。
できるだけ多くの若い男女一組単位を冷凍装置で眠らせるCold Sleepシステムを建設し、
15年間のウイルス死滅期間後に目覚めさせ、
新たな世界に人類種を存続させていこうという計画だった。
CS施設は急ピッチで建造されたが、余りにも時間がなかった。
日本では3つの施設が完成したが、そのうち2つはシステムの不具合が発生して使用できず、
たった一つのこのCS施設だけが稼働することとなった。
世界中合わせても40施設程度しか正常な稼働が確認されていない。
「ぼくらがなぜ選ばれたかって、考えたことあるかい、リン?」
ノブの声が今のリンにとっては、恐怖や絶望を和らげるための唯一の頼りだった。
ノブと出会ってからの彼女がずっとそうだったように…。
「それは、お父さんやお母さんが…」
「それは違うんだ。ぼくらはちゃんとした理由があって選ばれたらしい」
「なんで?なぜわたしたちが選ばれたの?こんな時に謎掛けはやめてよね!」
ノブの三度目のため息が、リンのカプセルのスピーカから漏れた。
「父から聞いたんだ。日本では18歳から25歳の全ての男女のDNA検査が行われたらしい」
リンが息を飲む。
「そんな…、わたしはそんなこと聞いてないわ」
「きみを不安にさせたくなくて、きみのご両親は言わなかったんだろう」
「不安?不安って何が?」
「選ばれた理由は、きみがHDS型ウイルスへの耐性が強い体質を持っていたからだって聞いた。
このような万一の事故が起きることを想定していたんだろうね。
時間が経つに連れて弱まるウイルスの毒性に耐えられるだけの身体を持っているんだよ、きみは。ただね、たった一つだけ問題がある…」
「問題って?」
「ぼくにはその耐性がないってことだよ。選ばれたのはきみ一人であって、
ぼくはそのパートナーとしてここにいるんだ。
きみはもうここから出て地上に行っても生きられるんだ。ただし独りっきりでね」
「それじゃ、意味ないわ!わたしたちは人の種を残すために…」
「ぼくだって、ここで独りになるのは不安さ。正直言って、だからこのことは余り言いたくはなかった。
きみにそばにいてほしいからね…。でもきみが生き残ることが一番大事なことなんだ。
日本だけじゃなくて、世界のあちこちにCS施設があるらしい。
同じように選ばれた人たちがそこに存在するっていうことさ。だからきみは使命を果たさなければ…」
「やめてよ!」ノブの言葉をリンが遮った。
「それって、わたしがだれか別の男と…。人の種を残すために…、
そういう意味なの?ノブ、あなた、そんなことを本気で言ってるの?」
「リン、冷静になろう。人の歴史を絶やさないことが第一なんだ。感情に流されるわけにはいかないんだよ」
ノブは自分の言葉をもう一度噛みしめてみる。
そう、人類が生き残ること、それが何よりも優先される命題なんだ。
何があろうと、ぼくはリンを守らなくてはいけない。何があっても…。
それから2ヶ月の時間が瞬く間に過ぎた。
ノブとリンは、互いのカプセルに設置されたスピーカを通しての会話を繰り返していたが、
これからどう行動すべきかの結論はなかなか出ない。2人は少しずつ憔悴していく心を抱えていた。
殺風景な白い部屋で、狭いカプセルに拘束された状態がかれらの苛立ちと焦りをジリジリと募らせる。
「リン、きみはもう地上に行くべきだよ。
新しい地球を存続させる責任を果たすべきなんだ。選ばれたのは、きみなんだから…」
ノブは、恐らく30回以上は口にしてきた言葉をくり返した。
「やめてよ、ノブ。あなたを置いて行けるわけないじゃない」
同じ回数くり返されてきたリンの言葉。
突然、壁の橙色のランプが点いた。そして耳障りで不吉な警報が鳴り始める。
「何?ノブ、これ何なの?」
「落ち着けよ、リン。いまアクセスしてみるから」
ノブはカプセル内の機器を操作して、コンピュータのメッセージを導き出した。
メッセージを読みながら、ノブの顔が徐々に青ざめていく。
「何?どうしたの、ノブ?」
リンも同じ操作をしてコンピュータの回答を待つが、なぜかエラーをくり返すばかりで、メッセージは表示されない。
ノブの見ているパネルに表示された驚愕のメッセージが、男を絶望の底に突き落とした。
蒼白の顔で、そして神に祈るかのように、ノブは両手を額の上で組んで目を閉じる。
必死の思いで、何度もメッセージを読み返してから、ノブはついに力尽きたかのように深いため息をつく。
次に、メッセージを二度と開けないようにプロテクション処理してから完全に消去した。
すると唐突に警報がやんで、シューッという音とともに2つのカプセルの蓋が開かれた。
リンは目を白黒させて天井を見上げている。
「良かった、開いたわ!」
リンの弾んだ声が部屋に反響した。
「でも、変なのよ。わたしのほうはエラーばっかり、
コンピュータのメッセージが表示されなかったんだけど、一体どういうことかしら?」
言いながらリンは恐る恐る上体を起こす。わずかにめまいを覚えたが、身体に異常はなさそうだった。
ノブもゆっくりと起き上がり、初めて2人の目が合った。
13年ぶりの再会だ。リンの心は喜びと感動に震えていた。
「ノブ、会いたかったわ。死ぬ程、会いたかった」
涙ぐみながら、上ずった声でリンが言った。カプセルから出られる開放感もあって、リンの心は幸福感に満ちていた。
リンの言葉にノブが頷く。ただ、その笑顔は心なしか力なく見える。
「ぼくだって同じさ、リン。きみに死ぬ程、会いたかったよ」
ノブは自分の言葉に少しだけ怯えた。そして胸が塞がるような恐怖が徐々に湧き起こってきたけれど、
すぐに気持ちを立て直すことに集中した。
2人は緩慢に、冬眠状態から目覚めた自分の身体の状態を確かめるようにしてカプセルから抜け出した。
「ノブ…」
リンが駆け寄り、ノブの身体を抱きしめて口づける。
長いこと、2人は互いのパートナーの生を、心を貪り合うかのように、その姿勢のまま時間を止めた。
ノブの舌の先にわずかな痛みが走った。思わずノブの顔が驚きに歪む。
「どうしたの、ノブ?」
喜びと安堵に包まれながら、リンが不思議そうにつぶやいた。その胸にはなぜだか不安が忍び寄っている。
「あっ、いや、何でもないよ、リン」
ノブから顔を話すと、リンの真剣な眼差しが男の目を覗き込んだ。
「なんか変だよ、ノブ。ほんとに大丈夫なの?何か心配ごと?」
「本当さ、何でもない。それより良かったね、リン」
ノブと再会できた喜びと、変わらない男の笑顔がリンの不安を消し去った。
「そうね、こうしてノブといっしょにいられるなら、2年間くらいどうってことないもの。
2人でいっしょに、ウイルスのいなくなった地上に出られる日を待てばいいのよね」
笑顔のリンの口許に、異様に鋭くなった犬歯が見える。
「そうだね、リン…」
ノブの目の怯えの影を、リンは見逃さなかった。
「ノブ、どうかした?ほんとになんかヘンよ、あなた。そうだ、ノブ?さっきの警報、
コンピュータからの回答があったんでしょ?わたしのほうはエラっちゃって何も見れなかったの」
ノブは、懸命に笑顔を固定する。それはリンの心から、
どんな悲しみも不安も取り除く魔法の力を持った笑顔だ。
「カプセルから出ろっていうメッセージだよ。それと地上に出る場合の注意事項。
きみと違ってぼくにはウイルスへの耐性因子がないから、ぼくだけに警告メッセージが発せられたんだろう」
ノブは初めて、リンにウソをついた。
ノブの胸の中で、知ってしまった冷徹で恐ろしい事実と、リンへの愛しさがごっちゃになって渦巻いていた。
リンを失うことは、ノブにとっては自分が生きている意味の全てを失うことだ。
だからリンを失うわけにはいかない。
リンを愛してる。愛してる。愛してる。でも…。
リンが地上に出るということは、人類再生の道が閉ざされることだ。
世界中に設置されたCS施設には、人の種の存続を担った人間たちが眠っていて、
かれらを守らなければ人類は間違いなく死滅する。
厳然たる事実がノブの心を追いつめ、
それでもノブは必死の笑顔を崩さずにリンの目を見つめる。
トウミンチュウノ ツジムラリンノ イデンシニ ジュウダイナ ヘンカガカクニンサレタ
ウイルスヘノ タイセイヲシメス カノジョノ イデンシノ イチブガ ヘンシツシ ニンゲンデハナイ モノニカワッタノダ
カプセルカラ デタナラ キミハタダチニ カノジョヲ マッサツシナケレバ ナラナイ バンパイア トシテ
リンがバンパイア?
ふざけんな!なんでそんなことになるんだ?
ノブはコンピュータの故障をまず考えた。あまりに突飛すぎる内容だ。
スウオクニンニ ヒトリノカクリツデ ウマレルトイウ データガ アル
ジンルイノレキシジョウ バンパイアガ タンジョウシタ タシカナ キロクハ イクツカ ソンザイシテイル
テキカクシャノ スクリーニングニ ミスガ アッタノダ
カノジョガ バンパイアトシテ カクセイスレバ キミハ リンニ コロサレル
ダカラ サキニ コロセ ジンルイヲ マモレ
「ノブ?わたし、今とても幸せなの。心配しなくてもいいのよ。
わたし、ずっと、あなたのそばにいるからね。どこにも行かないからね」
ノブが、心の底からの笑顔でリンを抱き寄せる。
リンは、悩みも悲しみも何もかも忘れさせてくれるノブの胸の鼓動に身を浸す。
ノブの身体がかすかに震えている。
「もう心配ないって。どうしたのよ、ノブらしくないぞ。わたし、ずっとここにいるよ。
ノブを残して地上になんて行かないよ。ほらさぁ、
いつもみたいに、くっだらないジョーク言って、わたしを笑わせてちょうだい。
今ならどんなんでも、わたし、笑ってあげるからさ」
陽気なリンの声を、無彩色の空間が呆気なく飲み込む。
白い部屋。
「ノブ…、大好きよ。2人でいっぱい子ども作ろうね。
ノブとわたしの子が新しい地球の歴史をつくっていくの。素敵なことじゃない?…」
流れる涙を拭うこともせずに、リンはノブの身体の温もりに溶けていく。
色彩の失われた部屋が2人を黙って見つめる中、
ノブの胸に顔を埋めたまま、リンが甘えるようにつぶやいた。
「ノブとわたしは永遠にいっしょなの…。だれも邪魔なんてできないのよ…」
リンの身体の中で、何かが覚醒する気配。
リンの瞳のなかに、やがて燃えるような、
それでいて冷たい紅い色彩がわずかに芽生えた。
鋭利に尖った犬歯が、リンの口の中で鋭く光る。
そしてリンの死角、ノブの手に握られたナイフが、
例えようもないほど悲し気な光をたたえている。
「リン、きみを愛してるよ」
「わたしもよ、ノブ。でもね、わ…、わたし…、なんか変なの…」
抱き合ったままの2つの心臓の鼓動が、互いを求め合い、
絡みつくかのようにシンクロする。
白い部屋。
やがて鮮やかな紅色がひとすじ生まれ、
ゆっくりと床に堕ちた。
(了)
紅の鼓動