『武当風雲録』第二章、二、浮浪する魂

最愛の人を自分の手で殺した葉艶はただ死ぬために羞鶯笛から逃れ、江湖を浮浪する。いよいよ力が尽き、自分はこれで死ぬだろうと思ったが・・・・・・

二、浮浪する魂

 人の話声で目が覚めた。自分がどこに居るのかさっぱり見当が付かない。きらびやかな天井に緞子が下げられており、その中に自分が寝ているのである。
 葉艶はようやく自分が立派な寝床の中に寝ているのだと悟った。頭だけ傾けると、薄い羅紗を透かして、二人の男が話しているようだ。
 一人は太い声、ひっそり話しているつもりだが、かえって響きが漏れて耳に付く。その相手は、若い男のようで、物静かな声で対応している。
 「何度も申し上げるのでございますが、こんなことは王爺に知られては大変なことになりまする。どうか、大事をお察しください。」
 太いほうはそう言った。
 「もう心を決めたこと、これ以上話しても無駄だ。人を見殺すつもりなのか。」
 若い男はきっぱりと応じた。
 「見殺すとは申しておりません。人を助けるのなら異存はありません。ですが、いつまでもそれをここにお隠しなさるのなら、まずいことになると存じます。どうか、御目覚めください。」
 「何を申す。」
 若い男は図星を指されたようだ。
 「むろんそれは、治療が済んだら、離してやるつもりじゃ……」
 「それならば、申すことはございません。やかましいことを申しましてお許しください。これにて失礼申します。」
 太い声の男は部下のようで、そう言い終わると、立って退出した。
 葉艶は自分のことで二人は揉めているのだなと悟った。死んだと思っていたが、昏睡しているところ、どこかの貴人に助けられただろうか。
 部下が去っていったのを見届けてから、若い男は立ってこちらに寄ってきた。葉艶は目を閉じて寝る振りをした。
 羅紗が開けられ、男は上から自分を眺めているようだ。その身体から、名の知らぬ、気持ちの良い香りが漂ってくる。
 葉艶はこっそり手を握ってみた。まだ少し気力残っている。万が一襲われれば、反撃できなくとも、自害するだけの力は残っている。
 男はしばらくそこに立って動かなかった。葉艶は目を閉じて待った。
 裾擦りの音が聞こえて、男はそっと手を伸ばして自分の前髪を直した。それから布団をかけなおして羅紗を再び締める、静かに出て行った。
 葉艶はほっとして目を開けた。居場所を確かめたいが、まだだるくて身体を動かすのも億劫に感じる。それから鶴勁武のことを思い出し、羞鶯笛から逃げてきたことなど考えてまた気が沈んでいった。うとうとしてまた眠り込んでいった。
 どれくらい経ったか、葉艶は自分の服の中に、何者かの手が差し込んでくるのを感じて、あわてて飛び上がって寝床の奥へ身を引いた。
 彼女は心の中で自分の油断を激しく責めた。相手を見ると、それは一人の小娘だった。
 一方、小娘のほうもびっくりする様子で葉艶を見ている。ついさっきまでぐっすり寝ていた人が急に飛び上がったものだから、呆気に取られている。それから事情を察したようで、笑顔を作り、
 「お目覚めでございますか。」
 と頭を下げて言った。
 「あなたは――」
 「お嬢様の世話をするものでございます。御休みをお妨げして申し訳ありません。」
 葉艶は手で襟元を押さえながら、ようやく動悸を鎮めた。
 「ここは、どこですか。」
 「ここは石王爺の若旦那さま、石公子の屋敷でございます。」
 「左様か。」
 葉艶はまたいろいろ聞きたいが、どこから聞けばいいか分からない。
 「食事を御召しになりますか。」
 召使の小娘はまだ十代らしく、可愛らしい顔で聞いた。
 「ありがとう。」
 葉艶は柔らかに言った。そして礼を言うように、微笑んでやった。
 小娘は驚いた容子でしばらく葉艶の笑顔を呆然と眺めた。それから顔が赤くなってきて、ぺこりと頭を下げると出て行った。
 食事を運ばれてきても食欲を感じない。だが手を付けないのも小娘に悪いと思って、葉艶はそこにある汁だけを手に取って飲んでみた。
 野菜と魚の入ったさっぱりした味の汁で、ひと口飲むと、頭がすうと覚めたようで、続けてみな飲み干した。それから、口の中の触覚も蘇り、腹の中は激しく食べ物を求めているのを感じた。あれにも手を出し、これも口に入れ、あっという間に平らげてしまった。
 小娘は満足するように微笑みながら葉艶の食べぶりを眺めた。
 「いかがでしたでしょうか。お口に合いますでしょうか。」
 葉艶が食べ終わるのを見て小娘は聞いた。
 「ええ、とても美味しかった。ありがとう。」
 葉艶は恥ずかしそうに箸を置いた。
 そのとき、扉が開いて、一人が入ってきた。
 「小王爺。」
 小娘がその人を見ると、慌てて後ろに下がり、頭を地に付けて恭しく呼んだ。
 小王爺と呼ばれた人は返事もせず、目を輝かせながら葉艶の前へ近寄り、
 「もう起きれるのか。どうだ、調子は。」
 葉艶はその身体の匂いから、昨日のあの男だと知った。
 「ええ、もう大分よくなりました。助けていただきありがとう存じます。」
 「そうか。それは良かった。」
 小王爺はうれしそうに言った。
 「ここに来れば安心したまえ。何か必要なものがあればなんでも言ってくれ。」
 それから横でかしこまっている小娘に向かって、
 「君はよくお仕えするのだ。こちらのお嬢さんに何かあったら許さんぞ。」
 「はい。かしこまりました。」
 小娘は怯えた声で答えた。
 「それでは、また伺いましょう。どうぞゆっくり休んでください。」
 小王爺は媚びるように言った。行きかけて、
 「そういえば、まだご芳名をうかがっておりませんが。」
 「葉艶と申します。」
 「葉、艶、か。美しい名前だ。それでは。」
 小王爺は満足したように出て行った。葉艶はその姿を見届けてから、またほっとするように床へ腰を下ろした。
 「もう起きてもいいのよ。」
 小娘がまだ伏せているのを見て葉艶はやさしく声をかけた。
 小娘は立ち上がっても恐縮する容子で、よほどさきの小王爺が怖いらしい。
 「怖がることはない。さぁ、ここへかけてちょうだい。」
 葉艶は自分の隣を指して言った。だが小娘はどうしても坐ろうとしなかった。
 「それならそこにかけてちょうだい、ちょっと聞きたいことがあるから。」
 小娘は不自然そうにそこの椅子に坐った。
 「年はおいくつ?」
 「十六になります。」
 「いつからここに来ている?」
 「昨年からです。」
 「そうか。」
 小娘はいくらか気がゆるんできたのを見て葉艶は続けて聞いた。
 「先ほどの人はこの屋敷の主人ですか。」
 「はい。この部屋は若旦那さまの御部屋でございます。」
 「そうか。」
 葉艶はこの小王爺という人の考えを、なんとなく悟ってきたようだ。二三ヶ月前と比べ、自分はだいぶ大きくなったような気がする。鶴勁武の死に幻滅し、江湖を浮浪しているあいだ、さまざまな人間に出会った。男は女に何を求めるのかもだんだん分かってきた。
 「そういえば、君の名は、なんというの?」
 「私は、小翠と申します。」
 「小翠……苗字は?」
 「苗字はありません。子供のころからこう呼ばれています。」
 「ご両親はなんという人なの?」
 そう聞かれて小翠は頭を垂らしてきた。
 「知りません。私は孤児です。良い人に拾われて十六歳まで育ててくれました。その家は貧しいもんですから、仕方なく私をここへ送りました。」
 孤児――
 小翠の過去を聞いて葉艶も沈んだ。
 自分も孤児だった。両親を知らずに羞鶯笛で育てられた。本来は柳尚雲に感謝するはずだが、その師父の言葉を信じたばかりに、大事なものを失ったのだ。この娘をみればいい、人売りに拾われ、いい年頃になると売り出されたことも知らずに。
 「お嬢様、私は何か間違ったことを申しましたでしょうか。」
 葉艶の顔を見ると、小翠は心配して聞いた。
 「いえいえ、何もない。君はもう帰ってよい。」
 小翠ははい、と言って、食事を下げて出ていった。
 しばらく経ってから、葉艶も外へ出てみたいと思って立ち上がった。
 部屋は幾重にもつながり、荘厳な雰囲気である。ようやく玄関までたどり着くと、そこには門番らしき者二人が守っている。
 「どこへお出ででございますか。」
 葉艶を見ると、一人が聞いた。
 「ちょっと外へ。」
 「恐れ入りますが、小王爺の許可がなければここは通すわけには参りません。」
 門番はそう言って扉を遮った。
 「わたしをここに監禁するつもりですか。」
 葉艶はむっとして聞き返した。
 「いや、そういうわけではありませんが、小王爺のお許しがなければ、われわれとしても困ります。」
 葉艶はしかたなく引き帰った。無理出ようと思えば、無論あの二人では自分を止められることは出来ない。だが、そうするとまた面倒なことになりそうなので、思いやめた。
 二三日前とは違って、自分は今あまり死を望んでいないことに気が付いた。羞鶯笛から逃れて一度浮浪人となり、旅の疲れで心身とともに限界に達していた。今では、立派な部屋に住み、美味しい料理にありつけ、身体の疲れが取り除かれるとともに、死のうとする気持ちもやわらいできたであろうか。
 だが、心の傷は消えたわけではない。
 翌日、葉艶が起床してからほどなく、小翠が入ってきた。
 「お嬢様、今日ご機嫌いかがでしょうか。」
 と丁寧に挨拶してから、朝食の料理を並べた。
 食事の間も、小翠はずっと隣でかしこまっている。何か言いたそうで迷っている様子である。
 「何か用があるのか。」
 と葉艶は聞いてみた。
 「いいえ、今日の料理はいかがかなと思いまして……」
 「ええ、とても美味しいよ。ありがとう。」
 小翠は勇気を得たように続けて言った、
 「そうですか、それは何よりです。小王爺さまもきっと喜ばれると思います。なにしろ、一流の狩人に命じて山から取ってきた珍品だそうですから。」
 「そうか、どんな珍品でしょうか。」
 「それはいろいろありまして――」
 小翠はまるで暗記するようにぺらぺらとしゃべりまくった。葉艶はうなずきながら聞いた。
 「小王爺さまはこれほど料理に熱心でいらっしゃることは見たこともありません。日々われわれ下人に対しても優しくて、とても良い人です。」
 葉艶は聞いていてだんだん悲しくなってきた。小翠の意図はすでに悟っている。
 この子はまだ年も若く、正直な性格である。その拙い「嘘」は見え透いている。石府の令息はきっと自分の歓心を買うために、小翠を買収したにちがいない。そんな小翠の様子はなんとも悲しく思われる。
 だが、それも無理はない、彼女も生きるために精一杯だ。責めるわけにはいけない。下女の身分では大臣の息子の言葉に逆らえるはずもない。
 その時、葉艶は部屋の外に居る人の気配を感じた。小翠と自分の会話を盗み聞いているに違いない。しばらくすると、こっそり去って行き、今度は堂々と音を立てて改めて歩いてきた。
 帳が開けられ、例の小王爺が姿を現した。
 「やぁ、こんにちは。」
 小王爺は目を細くして挨拶した。小翠はすぐに横へ下がった。
 「具合は如何ですか。」
 葉艶も食事を置いて姿を正した。だが、席を立たずに坐ったままである。
 「ええ、大分良くなりました。この娘のお陰で」
 「そうか、それは良かった。あ、そうだ、これを。」
 小王爺は懐から一物を取り出して差し出した。見ると、深緑色の神秘に輝いた石で作られた髪飾りのようなものである。
 「お嬢さんに似合うかなと思って持ってきた、良かったら。」
 「こんなものはとても受け取れません。私などの身にはもったいないのです。」
 葉艶は丁寧に断りながら、なおも頑固に坐ったままでいる。
 「いえいえ、そんなことはない。お嬢さんでしか付けられまい。おい、君っ」
 と、また小翠を呼んだ。
 「あとでこれをお嬢さんに付けて差し上げよう。」
 葉艶が手を出してくれないのを見て、彼は宝石を小翠に渡し、無理に受け取らせてしまった。
 「それでは、お嬢さん、どうぞごゆっくり休んでください。ご自分の屋敷だと思ってなんでも好きなように使うがよい。足りないものがあればなんでも申し付けてください。僕はこれで失礼します。」
 小王爺は慇懃極まりない態である。葉艶は黙ってその姿を見送った。
 「お嬢様……」
 小翠はおずおずと隣に来た。両手に宝石の髪飾りを捧げながら、困った顔で葉艶を見ている。
 「そこへ置いて良い。君も下がってもらえないか。」
 葉艶はしかたなく言った。受け取らなければ結局小翠の上に難が降ってくる。小翠は髪飾りを寝床の上に置き、食事を片付けると、静かに出て行った。
 門を跨ってもう一度葉艶を振り返ると、ちょうど葉艶の目線に出会い、たちまち咎められるように顔を赤くしてそそくさに逃げていった。
 はぁ―――
 葉艶はため息をついた。起きたばかりなのに、また疲れてきた。横になろうとして手を伸ばすと、冷たいものに触れた。
 葉艶は髪飾りを手にとって仔細に眺めた。小さいが重みがあり、龍と鳳凰が柱を蟠っている様子が、細部まで非情に精巧に作られている。どんな宝石か分からないが、たやすく手に入らぬ高価なものに違いない。
 ものが貴ければ胸も重い。小王爺の心は見え透いている。今までいろんな男を見てきた。葉艶はそれらの男の目の中から、自分の美貌を知り、己の魅力に気づいた。畢竟するところ、小王爺もそれらの男とは、やりかたこそ違えど、本質はさほど変わらない。
 ――
 翌日、葉艶は山道に居た。
 石府を抜け出したのは夜中のことである。小翠に失望し、再び浮浪する身となり、羞鶯笛から逃れてきたときの自分の姿はすぐに戻ってきた。自分には未来がなく、まだ若いながら重い過去を背負っている。
 山を一つ越え、二つ越え、葉艶は食わず飲まずに歩いた。目的地のない旅は最も疲れる。身体の疲れとともに嫌な過去が蘇り、魂が再び絶望に陥った。
 世の中が広いようで自分の居場所を見つけるのは実に難しい。何か得るためにはそれと同等の代価も必要だ。自分と同じく孤児である小翠もその良い例である。
 だが、小翠とは違って、自分は居場所を探しているではなく、死場所を探しているのだ。鶴勁武がなくなってからだいぶ日が経っているが、心の傷は癒されることは少しもなく、むしろ――
 葉艶はふと後ろを振り向いた。人影が夕闇に霞んで見える。遠くからずっと自分を尾(つ)いているようだ。顔は見えないが男のようで、たまたま同じ道を歩く者だと思って気にかけていなかったが、自分が歩けば男も歩き、自分が泊まれば相手も立ち止まり、同じ距離を保ったままついてきている。
 石府に救われるまで、葉艶はいろんな男に襲われていた。幸いそれらは悉く武術の知らぬ者ばかりで、手を出せば斬られるか、殺された者は多かった。この人はどうだろう。尾行することを隠すこともなく、近寄ることもしない。なんの目的があるか分からぬだけに、不気味に思われる。
 そのうち、一つの山小屋の前に歩いて来た。夜も近づいてきたので、葉艶は中に入り、扉を堅く閉め切り、中に坐って休んだ。
 明日は明日の風が吹く。命が惜しくなければ心配事も少ない。葉艶は横になって寝ることにした。寝ていながら、意識の底では警戒も怠っていない。襲われればいつでも対応する用意はできている。
 夏が盛りであるが、さすがに夜中は肌寒く感じる。葉艶は数度寒さに起こされては眠り、醒めてはまた眠った。明け方になると、今度は激しい空腹感に起こされた。
 絶望の中の人間は何をする気にもならない。命をつなげる最低限の活動すら億劫に思える。葉艶は空腹感に苛まれ、横になりながら頭がぼうとなっている。身体だけが自分の意志で生きているようだ。寒さと食欲はしつこく自分の身体に爪を立てている。
 そのとき、葉艶は屋内に漂っている匂いに気づいた。身体は無意識に動き出し、そしてすぐ近くの地面に、芭蕉の葉っぱで包まれたものを見つけた。紐を解いてあけると、肉の香いが満面に押し寄せてきた。
 葉艶は本能的に肉を鷲づかみ、大口で噛み付いた。なぜここに焼けた肉が置かれているのかを考える余裕もなかった。肉がよく焼けていて噛むごとに美味しい汁が口にほとばしり、身体にしみこんでいった。
 あっという間に肉が消え、骨だけが残った。葉艶はひと息ついてそれを眺めた。
 あの男か―――
 そうとしか見当がつかない。だが、なぜ。そして、どうやって!――
 葉艶は衣服を整えてから、小屋を出た。木々にまだ露が消えていず、陽光に輝いている快晴の朝である。
 少し先へ進むと、男の姿がまた後ろに現れた。
 二人は昨日のように、前後にして寄らず離れず、同じ距離を保ったまま旅をした。葉艶は進めば男も進み、葉艶は休めば男も止まる。そのうち葉艶もだんだんこの男を気にしなくなってきた。自分に恨みがあるにせよないにせよ、或いはただの物好きかもしれないが、手を出してくれば誰かれかまわず斬ってやる。かなわじとも殺されるまでだ。彼女は自分の思いに耽りながらひたすら歩いた。
 夕方、葉艶は一つの村に近づいた。彼女は人の多いところを避けようと、わざと道を曲がった。しばらくすると、道の先に、誰かがこっちに向かってきている姿が見えた。
 目の前に来ると、一人の大男で、立ち止まって道を塞がった。
 葉艶は頭を上げて相手を見た。たくましい体格だが顔立ちがほっそりしている。頬と顎に髭が伸び放題に生えており、服も長い間洗わぬように汚れたままのものである。脇に剣を佩けており、武術を知っている者のようだ。
 「小娘っ」
 男は酒に酔っているようで、身体を揺らしながら高飛車に葉艶を呼んだ。
 「この俺を覚えているか。」
 言われて葉艶は相手の顔を見た。知っているようで知らない顔だ。
 「どけ。」
 と、低く殺意の籠もった声を男に放った。
 「覚えていないか。ふん、俺のこと知らなくても、鶴勁武は知ってるだろう。」
 葉艶は驚いた目で男を見た。
 「あの日、島に行ったのはこの俺だ。貴様、義弟を殺しておきながら、悠々とここで散歩しやがる。あのとき殺してやればよかったと何度悔いたか。」
 葉艶はようやく思い出した。あの日に見た、舟の上の一人だった。
 この人は他でもなく、鶴勁武と一緒に越龍幇に入った、義理の兄弟、呂義という者である。過日、幇主薜雷の命令で雁蕩山麓の村長家を襲い、頼まれた品を手に入れて戻ろうとするとき、葉艶とその師姐に見つかり、鶴勁武が捨て身に防いだため辛うじて逃げ出してきた。
 幇に戻り、事情を報告し、二、三日待っても鶴勁武が戻らないのを見て呂義は焦りだした。幇主に捜索するよう頼み申したが、薜雷は品さえ手に入れば、弟子一人二人どうなっても構わぬという態度で、取り合わなかった。だが呂義は再三に要求し、ことが幇に知れ渡るようになると、薜雷はやむなく少人数の弟子を派遣した。
 この後、呂義は運良く小島で鶴勁武と葉艶を見つけ出したが、喜ぶのも束の間で、目の前で義弟が殺されてしまったのは、前述の通りである。
 そのとき、呂義は船の上の身であり、助けようにもどうすることもできなかった。岸にあがると、葉艶をとっ捕まえて三つにも四つにも切り裂いてやりたかったが、一緒に居た越龍幇の者らに止められて幇へ連れ戻すことにした。義弟を亡くして悲しみと怒りで胸いっぱいだが、何故島に居たのか、この女とはどういう関係かなども問いただしたいので、葉艶にしばらく生きてもらう必要があった。それになにより、鶴勁武を殺しておきながら、その死体に取り付いて慟哭している一事が、誰にも不可解であった。
 ところが、呂義の思いとは裏腹に、幇に戻ると、薜雷は一旦葉艶を引き取り、後日自ら赴いて彼女を羞鶯笛へ送り返したのである。事情を知ると、呂義は薜雷のところに行き、怒りを堪えながら理由(わけ)を聞いた。薜雷の返事というのは、
 「先日、手前と鶴勁武二人を遣わしたのは、幇の大事ゆえあり、ことが済ませば直ちに戻るべきだった。鶴勁武は勝手に行動するのが悪かったのだ。我々は羞鶯笛と恨みはない。余計なことをすれば、幇の将来のためにもならぬ。鶴勁武はなぜ殺されたか詳しい事情も知らないから、とりあえず、羞鶯笛の弟子は羞鶯笛に送り戻して、他日また事情を聞こうと考えている。」
 薜雷はそれだけ答えてあとは無視した。
 薜雷に追い返されて、呂義はすぐに幇を離れた。鬱憤を晴らすこともできず、あっちこっちへぶらぶら歩き回り、毎日酒を飲んでいた。
 この日、どこをどう歩いてきたかも分からず、ぼんやりした頭で道の向こうからやってくる一人に目を据えた。向こうもやはり何かを考えながら無心に歩いているようで、服装こそ違えど、紛れもなく鶴勁武を殺した張本人、葉艶ではないか。
 「小娘、ここでめぐり合えるとは、真に天意じゃ。天が俺に復讐しろってことにちげぇねぇ。今度ばかりはぜってい逃がしやしねぇぞ。さぁ、覚悟!」
 言い終わると呂義は剣を抜いた。体格が大きいせいか、呂義の剣は通常のものより少し長く作られている。高々と頭上へ翳し、今にも切り落とそうとした。
 道が狭く、避けるのは難しい。葉艶は急ぎ剣を握りこれを防ごうとした。
 だがそのとき、柄を握った自分の手の甲の上に、突然、別の手が被さってきた。半分ほど抜きかけた剣はまた柄に押し戻された。
 しまった――
 呂義に気を捉えられて後ろの男に油断してしまった。
 考えをめぐらすのは、ほんの一瞬の間であった。呂義の剣は振り下ろしてきた。どんな行動を取るのもすでに遅し。葉艶は目を閉じて観念した。
 万事休す。私は殺される……だが、これでいいのだ。どこで死のうと、誰に殺されようと、たいした変わりはない。私は前から死ぬべきだった。これでいいのだ……
 呂義の剣はなかなか斬ってこない――
 「お、おのれぇ……何を……した……」
 目を開けると、呂義は依然として自分の前に立っている。痛みと怒りで顔が醜くゆがんでいる。片手が胸を押さえ、指の間から真っ赤な血が噴出(ふきだ)してくる。
 呂義はなおも諦めきれずに葉艶を睨みながらしばらく踏ん張ったが、やがて目を剥くと、ぱたんと後ろへ倒れた。大きい体が倒れるとその後ろに、例の男の姿が現れた。
 これは――
 一瞬の間に何が起こったか葉艶にはわからなかった。この人に助けられたのだろうか。しかしどうやって。
 男は昨日から自分と数丈ほど離れた後ろに尾いている、肝心なところに手を出してくれたのだろうか。だが、いくら呂義が酒に酔っているとはいえ、後ろの人に気づかないわけがなかろう。まして死ぬ前まで自分に殺されたと思い込んでいる。果たしてどのような早業でこれを……
 「有難うございます。」
 葉艶はとりあえず礼を言った。
 男は目を合わさず、黙ったまま道を避けた。葉艶は警戒しながらその横を通った。少し歩いてから後ろを見ると、果たして男は相変わらず尾いてきている。
 葉艶はさきまで起こったことでまだ動悸が治まらず、この謎の男を不思議に思いながらも、道を歩いた。
 彼女は今湖北省を歩いている。一方、今しがた通り過ぎて入らなかった村に、一人の男は駆け回っているのである。
 肌の白いほっそりした身体で、手に一本の扇子を持っている。動きが素早く、町の旅館から旅館へ飛び込むと、店員を捕まえ、一枚の人物絵を見せては問うた。
 「この人を見ていないか。姓が葉で、名は艶という者だ。」
 しかし、どの旅館もこのような人はここに来ていないと応えた。男はものの半時もかからず町をすべて回りつくしてから、しかたなく引き上げていった。
 この人はほかでもなく、崑崙五老の一人、杜一平である。唐が滅ばされた後、五人は石府に身を寄せ、石王爺の下で働いていた。石家は乱世に乗じて台頭してきた英雄である。河北、山東一帯を支配し、唐に変わって天下に君臨することを企んでいる。
 石王爺には一人の息子がおり、名は石青と言う。あの日、広野の中に仆れた葉艶は、偶然狩りに出かけてきた石青に助けられたのである。乱世の中で生きる人々は、常に命の危険に晒されている。今日過ごせば明日は食い物にありつけるかどうかも分らない。百姓が一人ぐらい道に仆れていても珍しくはない。まして石青が如き高貴な身分の若僧にとっては、気に掛けるほどのことでもない。
 だが、石青は仆れている葉艶の顔をちらと見ると、その容貌に心を奪われ、直ちに部下に命じて府に運んできたのである。さらに仕女に言いつけて、身体を洗い、着替えをさせてから、改めて見ると、その美貌に我が目を疑った。
 石王爺は天下を睨んでいる野心家であり、独り息子には特に期待をかけていた。息子が一介の平民に夢中になるなど、むろん許すわけには行かない。なにしろ子供のころから甘やかしてきたのだから、そう厳しくも叱れず、心の中でこの葉艶という女人を憎みながら、黙って様子を見た。彼は、息子がいずれこの女に飽きる時が来るのを待つことにした。
 だが、石青は飽きるどころか、ますます葉艶にほれ込んでいった。葉艶が突然逃げられたのを聞くと、彼は怒り狂ったように、守備の者と仕女にあたり散らした。守備に、すぐ探して来いと命じて、小翠を石府から追い出してしまった。
 石王爺は息子の様子を見て心配し出した。已む無く彼は崑崙五老に相談し、なんとかあの葉艶という女性を探し出すように頼んだのである。
 一方、幸か不幸かわざと町を避けた葉艶は、この夜、やはり野宿を取った。胸に痛々しい過去と罪悪感と絶望感を抱えながら、歩くだけ歩いては、目につくところで休んだ。
 今宵は決して油断はせぬ――
 と、彼女は思った。後ろにくっついている男のことである。自分が休むとき、男はどこで何をしているのだろうか。やはり近くで待っているだろうか。素性が分からないが、どうも自分より武術は上のようだ。なのに襲ってこないのは、やはり別の目的があるのか。
 葉艶はさまざまな思いで夜を過ごした。
 呂義の言うとおりだ。鶴勁武を殺した自分は死ぬべきだった。自分も死のうと考えていた。だが、なぜ今でも生きているのだろうか。生きていく希望も目的もないのに、なぜ自害する覚悟が決められないでいるのか。何が自分をこの世に繋げているのだろうか。
 夜明け前になって、東の空がじょじょに白くなってくるころ、葉艶は急に睡意に襲われだした。まぶたが重くなり、眠らじと思いつつも、視界が消えては現れ、消えては現れ、消える間がだんだん長くなってきた。
 葉艶は目の前の地面を見つめながら、こくん、こくんと頷きだした……何回か繰り返したのち、突然、びっくりするように目を見開いた。
 さっきからみ続けている足元の地面に、いつの間にか料理を載せた盆が置かれている。
 睡意がいっぺんに吹き飛んだ。
 夢か――
 いやいや、こんなはっきりした夢はありえない。盆の上には炊き立てのご飯と野菜炒めと汁物の簡単なものが置かれている。汁物の椀から蒸気が静かに昇っている。今作ったばかりのようだ。だが、どこで作られたのか。
 昼に通り過ぎた町まではそれほど遠くない。とはいえ、料理も冷まさずにここまで持ってくるのはよほどの早業である。よく見れば、汁物の椀から一滴もこぼれていない。
 しかしそんなことは問題ではない。自分はよほど警戒していたにもかかわらず、いつどのようにここに置かれたのか。あいつは一体何者なんだろう――
 料理はじょじょに冷めていく。見つめれば見つめるほど、空腹感が強く感じてくる。葉艶は椀を持ち上げて箸を取った。心の中では諦めた。
 どうもあの男の能力は自分の想像を超えている。一瞬の隙にものをここへ運んでこれるのでは、何をされても自分では防ぎようはない。防げないとならば、却ってほっとする。葉艶は毒が入っているかどうかなど余計なことも考えずに、度胸を据えて平らげた。
 昨日とまったく同じく、葉艶は歩き出すとほどなく、男の姿も現れてきた。朝日に照らされて露は蒸発し、暑い一日を予告している。草むらに野良猫が突然怖い声を出して道を横切った。その後ろからもう一匹が追いかけていった。
 動物もいいよねと、葉艶は思った。複雑な感情を持たずに相手を亡くせばまた新しいの見つければいい。ただ本能の赴くままにで動いている。しかし、自分はそうは行かない。自分には新しく何かを追い求めることは二度とないだろう。では、自分は一体何のために動いているのか――
 葉艶は再び昨夜の考えにぶつかった。野良猫の姿はもう見えないが、喧嘩する声がまだ聞こえている。それを聞きながら、葉艶の脳裏に一つの言葉が現れてきた。
 復讐――
 そうだ、復讐だ。何に対して?自分を捨てた顔も知らない親に対してか。厳しい門規を設けた師匠に対してか。それとも、鶴勁武を利用した邪派に対してか。
 復讐だ。自分はこのために今生きているのだ。むろんその相手は強い。自分ひとりではどうすることもできない。だが、それをやらねばならない。それをやらずに、誰にも知られずに死んでは、とても死に切れない。鶴勁武のためにも自分のためにも、正派であろうと、邪派であろうと、仕返ししてやろう。適わなければそれまでのことだ。自分ひとりでもやってやる、そうだ、自分ひとりでも……
 そこまで考えると、葉艶は急に何か思い出すように、立ち止まって後ろに振り向いた。
 男は依然として数丈後ろに居る。こちらが止まると、向こうも止まった。近寄ることもせず、催促するような様子もない。
 葉艶はおもいきって男に向かって歩いていった。男は立ったまま慌てる様子をしなかった。
 近づいてみると、男は自分より頭一つほど背が高い。葉艶はその顔を覗き込むように見上げた。
 「名はなんと言う。」
 「墨語。」
 男は無表情な声で答えた。
 「私についてこい。」
 「は。」
 それからというもの、この墨語という男は、影の如くくっ付いて葉艶の身辺を離れなかった。葉艶は依然として男の狙いは分からないままである。それを聞こうとも思わない。男もめったに言葉を口にしない性格のようで、葉艶の居るところには必ず墨語はおり、敵が現れれば葉艶が手を出す前に、墨語がこれを倒してくれる。
 日が経つにつれ、葉艶もだんだん慣れてきた。墨語は自分の手足のようなもので、その存在もだんだん意識しなくなるほどである。
 葉艶は計画しはじめた。
 いかにして越龍幇と羞鶯笛に復讐できるのか。越龍幇は古龍派から独立した幇であり、江湖で名が知られるようになったのは最近のことである。一方、羞鶯笛はいわば武当派に対抗して出来た派で、少林や武当は柳尚雲と徐問亭との関係に免じてそれを正派に見なしているが、その実、柳尚雲の捻り根性は、葉艶はそこから離れてから初めて気づいてきた。
 かつて師の言葉を命よりも大事に思っていたが、今思えば、その多くは柳尚雲の徐問亭に対する反抗心、或いは世間に対する僻みから捏ねられた理屈に過ぎなかった。それならむしろ越龍幇のほうはまだましだ。邪派と呼ばれても、それを隠すこともしない。柳尚雲はあまりにも自分の面目を気にしている。まるで偽善者のようだ。
 葉艶はあっちこっちに情報を集め、計画を苦心した。出来れば越龍幇と羞鶯笛をいっぺんにして処罰する方法はないかと考えた。
 そして、彼女は武当派武林大会に目をつけた。三年に一度の武林行事で、各幇派の掌門、幇主は武当派へ集まってくる。この日に、越龍幇と羞鶯笛もくれば、武林人の前で仕返してやりたい。次の大会は半年後になる。それまでに準備しておきたい。
 この日、葉艶は陝西省に入った。長安を過ぎたところ、後ろから人馬の音が聞こえて葉艶は足を止めた。
 一同は追いつくと、一斉に馬から下りた。先頭に書生風の一人が恭しく頭を下げた。葉艶はその服装に見覚えがあった。
 「これは、葉様、こんなところにいらっしゃいますか。われわれは石府の者です。お嬢様を探して、小王爺さまは大変苦労していました。どうかわれわれとお戻りになられませんでしょうか。」
 杜一平は石府に命じられて葉艶を探しに出かけたが、半月経ったのちに、ようやくその居場所を突き止めることが出来たのである。
 彼は丁寧に葉艶を呼び止めて、十数人が横へ立つと、なんとなく葉艶を取り囲んだ形で、有無を言わさぬ態となった。
 葉艶は石府の者を見ると、一案が浮かんだ。
 「左様なら、石府へ戻りましょう。」
 杜一平はほっとするように笑いを浮かべた。それから手下に命じて葉艶に一匹の馬を連れてきた。
 「お任せを。」
 葉艶の耳元に、墨語は低い声で言った。
 葉艶は墨語の目を見つめた。
 自分が石府の者を恐れて降参したと思っているだろう。墨語といっしょになってからまだ日が浅いが、その腕前の尋常でないことをだいたい分かってきた。一緒に歩いてきた道々、どんな敵に遭っても彼はたやすく退治してくれた。
 しかし、葉艶は頭を振った。
 「案ずるに及ばぬ。恐れているわけではない。私には考えがある。」
 葉艶は馬に跨り、石府の人に導かれるままに出発した。

『武当風雲録』第二章、二、浮浪する魂

『武当風雲録』第二章、二、浮浪する魂

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • アクション
  • 青年向け
更新日
登録日
2014-03-22

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