戒烙

序章

 地上二十三階のビルから見る風景は、もう深夜の二時だというのに、どこか騒がしい色合いをしている。
 波打ったシーツが剥がれたベッドの端に座る九重美咲は、己の裸体を隠すでもなく、窓硝子越しからぼんやりと外を眺めていた。見上げれば十月の仄暗い灰色が空に覆い被さっていた。視線を下ろせば、鮮やかなネオンが街を染め上げている。
 都会の夜は明るく、眠ることを知らない。自分がここ東京に来る前は、夜になれば街灯の灯りしかなかったし、煌びやかに瞬く星が見えた。
 小さく溜め息をつき、美咲は乱れたダブルベッドから重い腰を上げる。落下していたバスローブを羽織り、珈琲を淹れにキッチンへ向かった。広すぎる部屋に視線を動かしながら、不意にベッドの方を振り返る。
 どんよりとした空と、いやらしく両の脚を広げて横たわる女──斎藤芽衣の顔が見えた。端正な顔立ちをした彼女は、口から血を一筋流し、首元までその赤い線が引かれている。ふっくらとした形の良い胸には、銀色に輝くナイフが添えられている。細い腹の臍の下部は帝王切開の要領で切り込まれており、そこからは脂肪が見え隠れし、滑るように光る内臓が所々飛び出していた。白い肌に黒の混じった赤は良く映える。
 先刻まで愛し合った彼女は、もう帰らぬ人となっていた。芽衣は所謂家出娘で、援助交際をして宿を転々としていたらしい。欲色に華やぐ路地で、中学生には刺激の強すぎる服装をし、通りすがりの汚らしい男達に腕を回して媚びた猫のような声を喉から発していた。髪を金に染め、灰色のカラーコンタクトの周りに生えたまだ幼い睫毛に、黒い悪魔を思わせるマスカラをたっぷり塗った目が強烈に自己主張をしていた。
 頭の薄い中年に腕を振り解かれては、また新しい男に媚を売る。そんな芽衣が、急に愛おしくなった。
 もしかしたらこの娘こそ、自分の運命の女性なのではないか。そういった感情が美咲を突き動かした。
 芽衣に声を掛けると、二重まぶたの瞳をより一層大きく見開き、黒くぴったりとしたスーツ姿の美咲を見つめた。次の瞬間には、厭な物を見る目付きで睨みつけられた。
 怪しい者ではないと宥め、自分の家へ来ないかと誘った。軽くあしらわれることも覚悟の上だったが、予想に反して彼女は二つ返事で誘いを受けた。
「汚らしい男と寝るより、綺麗なお姉さんに拉致されるほうがよっぽどいいわ」
 お洒落な音楽の流れる喫茶店で簡単な食事を取り、二人は青いカプチーノに乗り込んだ。低身長を高いピンヒールで誤魔化す彼女は、助手席から美咲の顔を眺めては、容姿を褒めた。
「お姉さん、何歳?凄く若そうに見えるけど、ずっと真面目な顔してる。そんなんじゃ、皺になっちゃうよ」
 横から聞こえる声は心地よく、つい運転をする手を緩めて、話に耳を傾けたくなってしまう。こうやって若い女の子と会話をすると、自分の中学の頃を思い出す。もうそんな歳になったのかと苦笑し、左手で車のボタンを操作し音楽を掛ける。モンテヴェルディの「倫理的・宗教的な森」のディスクが入っている。聴き慣れた曲も、芽衣と聴いているせいか新鮮なものに感じられる。
 四曲名──すべての人よ、喜びの声をあげよ──に差し掛かった時には既に、芽衣は夢の中へ旅立っていた。隣で眠る十六歳の少女は微笑みを浮かべながら、静かに寝息を立てている。天使のように白い肌に思わず触れたくなるが我慢する。愛おしさが募り、何度も彼女の横顔を盗み見てしまう。
 気を紛らわす為に運転に集中したが、眠れる美少女の姿を見ていると、今でも愛しい初恋の人を思い出し、懐かしさが込み上げてくる。

 美咲は中学一年生の終わり頃から、自分が同性愛者だという事実を目の当たりにすることとなった。いつの間にか、学年で一番の美人と謳われたクラスメイトに心を奪われていた。
 その人は相沢芹香という名で、頭も良く運動ができ、おまけに絶世の美女。完璧と云う言葉は、美しい黒髪を靡かせる彼女にこそ相応しい言葉だった。
 対照的に美咲は標準並みの容姿、頭脳も運動も通知表では三がつくような人間だった。芹香には何一つ欠点がなく、女神のように輝いて見えた。そんな完全無欠な芹香は男子からだけでなく女子からも慕われていたため常に人に囲まれていた。
 女が女を好きだなんて異常な事だとは分かっていたが、恋心は萎むばかりか加速を増した。見ているだけの一方的な片思いだったが、幸せだった。時には芹香が自分に微笑む姿を想像しながら、トイレでひっそりと自慰をしたこともある。
 芹香に中々近付くことができないでいたそんなある日、彼女自身が肩を叩いてこちらに微笑んだ。ずっと望んでいたことが現実に起こったというのに動揺を隠せずにいた。芹香はこちらの様子を気にすることもなく、笑みを浮かべたまま美咲の手を取り歩き出した。
 女子トイレの個室に連れ込まれ、二人は対峙した。芹香は暫く美咲の顔を見つめ、薄紅色の唇を開いた。
「美咲ちゃん、いつも私のこと見てるでしょう?」
 可愛らしい口から放たれる言葉に思わずたじろいだ。彼女自身に知られているとは考えていなかったからだ。ここで本音を言えば、嫌われ蔑まれるかもしれない。そう思った美咲は、無言で彼女の目を見た。
「隠さなくていいんだから」
 にっこり笑う彼女は言葉を続ける。
「あと、このトイレでオナニーしてたでしょ。声、漏れてたよ」
 意地らしい笑顔によって羞恥を煽られ、赤面した顔を隠す為に俯くことしかできなかった。そんな美咲の顎を掌ですくい上げ、芹香は接吻をした。
「私をオカズにして気持ちよかった?芹香、芹香って可愛く喘いでたから、私も興奮しちゃって。隣の個室で自慰をしてたのよ」
 妖艶に艶めく唇が、また己のそれに被さった。芹香の舌が侵入してきたが、それを拒むことはなかった。
 それからというもの、二人は急速に距離が縮まった。いつも共に行動し、放課後にも遊ぶようになった。芹香の家にお邪魔し、二人だけの秘密を作った。その頃の自分が一番輝いていたと思う。いつも笑っていたし、辛いことがあっても彼女に慰めてもらえた。
 しかし、幸せはそんなに長くは続かなかった。芹香は卒業間近になり、遠くの土地に引っ越して行った。別れる前に一度抱き合い、再会を約束した。自分が中学を出、高校を卒業し東京に引っ越したのは、連絡先も知らない芹香を求めてのことだった。
 東京に来て数年後、芹香が死んだとの知らせが入った。どこで何をしていたのかも分らなかった彼女の死は、酷く非現実だった。当時自分が一人暮らしをしていたアパートからそう遠くないところで、芹香は事故に遭い死んだ。自分に会いに来る途中だったのでは、という勝手な妄想をしていた時もあったが、よく考えれば相手もアパートを知らないのだからあり得ないことだ。
 芹香の葬儀はしめやかに行われた。親族と、仲の良かったクラスメイト数人の姿を見ただけだった。棺桶に入った芹香は髪を金に染めていた。頬にはオレンジのチーク、赤いルージュ。いつの間にか彼女は都会に染まっていた。きっと新しい恋人もいたのだろうと思い、少し寂しかった。
 焼香をあげ帰路に着いた。別れてからも変わらず愛していた人を失い、生きる意味も同時に失ってしまった。
 その日から、街で芹香に似た女性を探すようになっていった。芽衣に声を掛けたのも、彼女の面影に芹香を見たからだ。

 過去の記憶から現実に戻ると、自宅まであと少しというところまで来ていた。隣の少女はまだぐっすりと眠っていた。ディジタル時計を見れば午後十一時を過ぎている。美咲は急いで車を走らせ、マンション近くの立体駐車場にカプチーノを駐めた。幸せそうに熟睡する芽衣を起こすのは可哀想だったが仕方なく肩を優しく揺すり、彼女を目覚めさせた。芽衣は目を擦りながら「ここはどこ?」と問い、自分の家近くの駐車場だと答えると瞳をぱちぱちと動かし周りを見渡し始めた。
「凄い、ここら辺って高級住宅街なんでしょ?お姉さんの家はどれ?」
 美咲が自宅を指差すと、芽衣は上機嫌に回り出した。
「お姉さんお金持ちなんだね、凄い」
 芽衣は自分には媚で作られた笑顔を向けない。そのことに美咲は驚いた。自然な笑みを浮かべ、純粋に一人の女性として向き合う彼女。下心から自宅に誘い、自分がこれから彼女にしようとしている卑劣な行為を考え、少し罪悪感を憶えた。
 芽衣の手を取り反応を見るも、顔色一つ変えずに握られた手を振りながら飛び跳ねるように歩く。
 マンションの受付を通り、エレベーターに向かう。老齢のコンシェルジュはこちらを見ることもなく新聞を読み耽ふけっていた。芽衣のような中学生を、独身の自分が連れ回しているなど知られたらどんな対応をされるか目に見えている。
 エレベーターを待っている間、芽衣はフロントの中を珍しいものを見るように眺め回していた。確かに普通のマンションよりは幾ばくか高めの料金設定であるが、これよりまだランクが高い所など、近所にいくらでもあるのだ。
 芽衣は外を歩いている時に喉が渇いたと言っていたから、彼女がエレベーターの現在階数ライトに目を取られている間に自動販売機で缶ジュースを購入する。
 隣に並び、彼女と同じように徐々に一階に近付いてくるライトを見つめる。芽衣からは柑橘系の香水の匂いがした。
 ようやく開いた扉に乗り込み、二十七のボタンを押す。扉が閉じたと同時に、芽衣は喋り出した。
「ここの受付のおばさん、全然仕事してないんだね」
「そのお陰で芽衣ちゃんをここに入れても見咎められないんだから、感謝しなきゃ」
「あ、それはそうかも」
 上昇音と二人の声だけが響く密室は、暫くするとその口を開いた。二人がそこから出ると、すぐに扉が閉まり下降していった。
 部屋の鍵を差し込みゆっくりとドアを開く。扉の隙間から見えた部屋に、芽衣は歓声を上げた。
「本当にここに住んでるの?」
「本当に住んでなかったとしたら不法侵入じゃない」
 真面目な顔で聞いてくる芽衣が可笑しかった。天然な彼女の発言に、つい含み笑いをしてしまう。「えへへ」と頭を掻く仕草が可愛らしい。
「芽衣ちゃん、こういうところに来るのは初めてなの?」
 部屋の電気を付け、玄関で靴を脱ぐ。玄関の少し先──右側には脱衣所と風呂場、左側にはトイレがある。その先を進むと台所だ。
「初めてだよ。家出してきた所もボロいアパートだったし、泊まってきた家も狭いし汗臭いし最悪だったもん」
 芽衣は眉間に皺を寄せながら、指で鼻を摘まむポーズを見せた。
「だったら援助交際なんてしなければいいんじゃないかな」
 美咲は台所の前を通り、木製の白いローテーブルの横に置かれた椅子に腰を掛けながらそう言った。彼女も自分に倣って、斜め前の椅子に座る。
「しなきゃ生きていけないからね、仕方がないよ」
 そこから暫く、彼女についての様々な話を聞かされた。両親とは仲が悪く、喧嘩して飛び出してきたことから、今まで寝た男性の話まで。親指位の性器を持つ中年男に一晩で性交を五回も要求された話には、つい笑ってしまった。
「ああ、そうだ芽衣ちゃん、お風呂入って来なさい。お湯沸かしておいたから」
「やった。じゃあ、お言葉に甘えて!」
「着替えとか置いておくからね」
 芽衣は「はーい」と返事をし、脱衣所に消えていった。
 美咲は背もたれの高い椅子から立ち上がり、冷蔵庫から冷えたワインを取り出した。ついでに彼女の為に買ったオレンジジュースを冷蔵庫に入れておく。風呂上りの彼女に渡したら、さぞ喜ぶだろう。
 食器棚に並べられたグラスを手に取り、再び椅子に座ってそれを注ぐ。赤い液体の酸味を楽しみながら、この後繰り広げられるであろう行為に想像を膨らませる。ワインを一杯飲んだだけで、少し酔いが回った。酔いのせいで自分が予想以上に興奮していることが分かる。彼女が風呂を出るまでの間がもどかしかった。
 結局待つことを辞め、脱衣所で衣類を素早く脱ぎながら洗濯機に放り込み、風呂場の扉を開く。
 芽衣は短い悲鳴を上げ、腕で局部を隠した。控えめの胸が露わになり、更に自分を高揚させる。
「いきなり入ってこないでくださいよ、びっくりしたあ」
「──ごめんね。一緒に入ってもいいでしょう?」
「勿論、いいですよ」
 芽衣の返事に頷き、洗面器に湯を入れ肩から浴びる。十分に温まったらつま先から湯船に脚を入れ、鎖骨まで浸かる。ただ一人で温まっているのはつまらないため、バスタブの淵に腕を乗せて、バスチェアに座ってシャワーを浴びる芽衣に舐めるような視線を向けた。彼女はソープをボディタオルにのせて泡立て、腕から洗い始めた。初めに洗う部位で性格が分かると云うが、それが事実なら芽衣は甘えん坊で寂しがり屋なのだろう。
「──そんなに見ないで下さい。恥ずかしいですから」
 赤面しながら泡の付いたタオルで身体を再び隠し始める。
「綺麗な肌をしているのね。隠さなくたっていいじゃない。女同士なんだから」
「視線が何か、その・・・」
「ふふ。可愛いのね」
 飽きもせず見続けていると、芽衣は諦めたのか腕を解いた。膨らみかけの乳房が僅かに揺れる。桃色の突起は小さな飾りのようにも見える。
 美咲は浴槽から勢いよく上がり、芽衣の背後に立つ。驚いてこちらに顔を向ける彼女の首元を掴み、強引にキスをする。
 芽衣は咄嗟に頭を振り、自分の唇を抑えた。泣きそうな瞳でこちらを見上げる彼女が、愛おしくて仕方がなかった。
「──身体、洗ってあげるわ」
 少し美咲の顔色を伺い、言われるがまま背を向けた。彼女からタオルを奪い、消えかけの泡を新しく作る。
 芽衣の髪の毛は肩まで伸ばしっぱなしの金髪だ。その髪を前におくり、優しく背中を擦る。
 背中を洗い終わった後、沢山の男たちにそうされてきたように、脇の間から腕を入れた。自分の胸を芽衣の背中に当て、彼女の小さな膨らみを軽く揉む。腰を撫でると、小さく身体を仰け反らせた。
「ここ、弱いの?」
 もう一度芽衣の腹部に指を這わせる。彼女があげた声は微々たるものだったが、美咲は満足した。入念に上半身を泡で包んでやり、愛撫するように洗う。たまに擽ったそうにするが拒まれはしないことに気を良くした美咲は、勢いをつけて右の手を彼女の恥部にあてがう。抵抗しないように左の指で芽衣の舌を掴んだ。
 言葉にならない声を上げ、美咲から離れようとするも、触手のように蠢く快楽からは逃れることができない。
 摘まんだ舌からは粘着質の唾液がとめどなく流れた。それでもまだ足りないかのように、指を奥に差し込むと、小さな嗚咽が浴室に響いた。
「ここのえ──さん」
 息も絶え絶えに自分の名前を呼ぶ裸の天使は、指を離して欲しいと言った。その言葉に素直に従い、彼女の全身に広がった泡を湯で流した。
「あがりましょう」
 愛しい娘はこくんと頷き、自分の後に続いて浴室から出た。芽衣の身体をタオルで拭き、ドライヤーをかけ終わる間に、普段通りの笑顔が戻っていた。二人分のバスローブを箪笥から引っ張り出し着させ、自分もそれを纏った。
 芽衣の背中を押し、ワイングラスの残されたテーブルにつかせた。冷蔵庫を開き、ジュースと缶ビールを取り出す。入浴前に入れたのは正解だった。温かった缶は丁度よく冷えていた。
 炭酸ジュースのプルタブを開き一口飲んでから、後頭部を向けて座っている芽衣の頬に缶を押し付ける。
「──冷たい!」
 そう言いながらも、テーブルに置かれた飲み物を見てご満悦だ。
「飲んでいい・・・ですか?」
 謙虚に敬語を使ってはいるが、緩んだ頬は誤魔化せない。中学生には缶ジュース一本でもご馳走なのだろう。
「遠慮しないで。あと、敬語はいいから」
「──ありがとう」
 早速両手で缶を持ち美味しそうに飲み始める。反り上げた喉が華奢で美しい。この姿が自分のものになったらと考えると、ローブに隠れた半身が疼いた。
 自分の手に握っている缶のプルタブを開け、一気に飲み干す。炭酸の爽快感と共に、日々の疲れが押し寄せる。ベッドの向こう側にあるカーテンを開いて、また椅子に戻った。
 最近は寝付けない夜が続く。薬に頼らないではおれないが、今日はその必要はないかもしれない。美咲の手によって薬を盛られた娘を目の前にし、そう思った。
 美咲は先ほど、冷蔵庫に隠してあった催淫剤を炭酸飲料に溶かした。たった一錠でも使い方次第で十分に効果がある代物だ。市販のものでも構わないが、効果が薄過ぎても意味がない。通販である程度の評価があり、裏の介入を通さずに購入できる品が手っ取り早い。
 媚薬のジュースを飲んでも、芽衣からは特に異変を感じられない。どちらかと云えば、同じタイミングでそれを飲んだ自分の方が遥かに、薬の作用を実感することができる。既に内腿あたりがムズムズしてきている。
 催情剤を芽衣に投与することは、車を乗っている時からあらかじめ決めていた。美咲が購入した薬は、淫らな行為の五分から二十分前に飲むのが一番効果的で、液体に溶かしても大丈夫だという利点がある。欠点は作用が体内で最高四十八時間続く事や、未成年や妊婦には利用禁止となっている事が挙げられる。
 前者においては自分も該当し、翌朝からの生活に支障をきたす可能性があるのが気がかりであった。過去実際にこの薬を使用する機会に恵まれた時があった。しかし翌日は仕事中も性欲が収まらず、適当な人間を捕まえて自分を満足させることが必要だった。
 他にも不道徳な行為においては使用厳禁だという条件があるが、これはいいだろう。
 副作用に目を瞑れば、素晴らしい薬だと言える。一番のポイントは、本人に気付かれずに与えることができることだろう。フロントの自動販売機でジュースを買ったのもそのためだ。
「芽衣ちゃん、美味しかった?」
 芽衣が飲み終わるのを確認し、声をかける。それも、うんと甘い声で。
「うん、とっても。ありがとう九重さん」
 上機嫌に顔を綻ばせる姿から、彼女の幼さを感じた。自分にもこんな時代があったのだと考えると、少し微笑ましい。
「気にないで。──ああそうだ、そのジュース、変な味しなかった?」
「ううん。別に何も感じなかったよ」
 これがお茶や水なら、苦味で気付かれる可能性があったが、炭酸なら舌が痺れて分からない。現に芽衣は気付かず全て飲んでしまった。思惑通りの答えを返され、心の中で頷く。
「それね、実は媚薬なのよ」
 芽衣の元まで行き、前屈みになりながら彼女の薄い唇に人差し指を当てる。
「嘘だあ」
 それは冗談だと彼女は笑っているが、内心焦っていることが手に取るように分かる。
「──本当だって言ったら?」
 椅子に座ったままの芽衣をしゃがみながら抱き締め、耳元で囁く。まるで息を吹きかけられたときの反応のように、彼女は身震いをした。抱き締める力を強め、耳たぶを舌先で突つく。いまいちの反応だ。そのまま舌を入れ、耳介を骨に沿って舐め回す。
「──うう」
 唸るような声が漏れ、白い頬は赤く塗られた。構わず舌先を尖らせ、小さな穴に押し込む。出来るだけ大胆に動かすと、彼女の身体は時々ピクリと跳ねた。
 抵抗が無いのをいい事に、口元に手を持っていくと、芽衣は美咲の人差し指を咥えた。彼女の口の中は既に唾液で溢れていて、自分の指がねっとりと濡れる。卑猥な音を立てながら指を舐め続ける彼女が愛おしく、空いている腕で髪の毛を撫でてやる。
 芽衣は不意に口を開き、美咲の瞳を見上げながら、呟くように言葉を放った。
「なんだか、暑くなってきた・・・」
 手をうちわ代わりに上下に動かし、小さな風を顔に送っている。確かに彼女の顔面は火照り、かなり熱を帯びている。
「薬が効いているのよ」
 妖艶な笑みを浮かべ、美咲は彼女の唇を貪る。
「ん・・・」
 芽衣は口膣を犯されながら、バスローブで隠れた腿の間に両腕をいれ、身体をくねらせ始めた。唇を離し、どうしたの、とわざと問いかける。
「身体、いつもと違って・・・おかしくて・・・」
 呂律の回らない口調で言う彼女に、自分の冷えた手で額の熱を確かめてやる。じんわりと熱いものが掌を通して伝わってくる。彼女と愛を交わすまで、もう一息といったところか。
「私も身体が火照って仕方がないの。あなたと同じ薬を飲んだ所為ね」
 芽衣の腕をとり、自分のはだけた胸元に押し付ける。己よりも一回り大きい胸から視線を逸らしながら、芽衣は「熱い」と言った。その腕を彼女自身の下半身に添えてやり、反応を窺う。頬が更に赤みを増し、熟れた林檎さながらである。
 彼女は既に、催淫剤の罠にかかっていた。薬自体にそこまで効果はないが、少し煽ってやればすぐに欲に絡め捕られる。これは以前の夜に実験済みだ。
 思い込みが身体に及ぼす影響のことを俗にプラシーボ効果と言う。この作用は主に、薬効成分を含まない偽薬を薬だと偽って投与された場合、患者の状態が良好に向かってしまうような治療効果を指す。この逆で、副作用のある薬だと偽って薬を投与し、実際に患者が副作用を訴えるなど、当人にマイナスに働いてしまうノーシーボ効果というものがある。前者の効果をうまく使い、人を狂わせることだって容易である。
 理性の箍は外れやすい。媚薬を意中の相手に隠して与え、少しの変化もなかったとする。しかし本人が「薬をいつの間にか飲まされていた」という事実を知れば簡単に信じ込み、硬派な人間でも自分に股を開くことだってある。
 芽衣の方を見やると、明らかに呼吸が荒くなっているのが分かる。どんな万能薬よりも言葉の魔術は絶大だ。芽以の半身に指で触れると、既に異物を受け入れる準備が整っているようであった。
 その指を離し、左手を芽以の輪郭に添え、親指で頬に触れる。撫でるように指を動かすと、片目を閉じて擽ったがった。風呂で化粧を落としたお陰で、産毛もない若々しい肌を感じることができる。一点のくすみもない雪のような肌、くっきりとした二重まぶた。グレーのコンタクトを外しても大きさの変わらない瞳に、彼女の生まれつきの素材が如何に罪深いものなのかを実感した。自分は、彼女のこの外見に惹かれたのだから。
「ねぇ──私に抱かれるのは、嫌?」
 指を顔の流れに沿って上下させながら、初めから決めていた言葉を放つ。それは一番問いたかったことであり、ここで拒まれれば寝かせてやろうと思っていた。
 うっとりした表情をこちらに向ける彼女は、静かに首を振った。それから催促するように、美咲の腕を己の局部へ誘導した。他の小汚い男には見せない姿を自分だけに開放する征服感と、まだ未熟な身体を弄ぶ背徳感に痺れた。
 手を振りほどき椅子から立たせ、綺麗に整えられたベッドに寝かせる。芽衣はおもむろにバスローブを脱ぎ始めたため、布団を上から被せる。自分もその中に入り、裸になった彼女を抱き締める。割れ物を扱うかのように優しく腕を回すと、芽衣は美咲の腰に手を置いた。彼女は照れからか顔を布団に潜らせていた。それを剥ぎ取り、驚いた表情が現れる。無言で見つめ合い、今度は硝子を砕くように強く抱く。
 息の漏れる音とシーツの擦れる音だけが、薄暗い部屋で響いた。
 触れるだけの接吻をし、徐々に舌を侵入させる。まだ慣れていない舌遣いで懸命に絡み付いてくるが、美咲はそれを吸い上げる。動きを止めたそれを放置し、口の中を舌で弄る。粘膜も、歯の裏も、全て喰らい尽くすかのように。
 一通り口を犯し終わると一度唇を離し、すぐ再び顔を近付ける。舌を出して待つ彼女に自身のそれを重ね、ねっとりと深く絡み合う。互いの唾液が混ざり、小さく鳴く声が、不協和音で静寂を殺した。
 舌を入れながら芽衣の首筋から順に指でなぞる。触れられた部分にきちんと反応する彼女は、目を瞑りながら自分の舌を深いところに求めている。
 唇を首筋にあてがい、舌先で舐める。輪郭、鎖骨。残すことなく順に。唾液で濡れた所を指で伸ばすように撫でた。鼻には芽衣の香りとソープの匂いが同時に侵入する。その何とも言えぬ恍惚感に掻き立てられる。
 美咲は、彼女が今までに抱かれてきた男達に嫉妬の色を隠せないでいた。芽衣が見せる表情全て、他人に見せてきた焼き増しのものだと思うと、狂わずにはいられなかった。
 嫉妬心は欲望に拍車を掛ける。勢いよく、ほっそりとした白い首元に噛み付く。左手で荒々しく乳房を弄り、不特定多数の他人の欲望を受け入れてきた秘所に、己の右指を入れる。歯を立てると、耳元で彼女の小さな悲鳴が聞こえた。じわじわと吸うように噛むと、その声は淫らなものに変わった。 噛んだところを優しく舐めてやると、額にうっすらと汗を滲ませながら笑みを浮かべた。
 自分も纏っていたローブを脱ぎ捨て、ベッドの外に放り投げる。布団も邪魔に感じられ、同じように下に落とした。
 仰向けになった芽衣の上に、四つん這いの形で覆いかぶさる。両腕を掴み頭の横に固定する。もう一度接吻し離しても、腕を元の形に戻そうとはしなかった。
 万歳の要領で横たわる彼女。無防備に胸や局部を晒す姿は、幼いながらも魅力に溢れていた。再び全身を舌で愛撫する。脇を舐め上げると、顔面は羞恥に染まった。胸を通過して太腿。秘所を無視し、つま先へ這わす。芽衣の瞳からは焦らされたことによる落胆と期待が垣間見えた。
 小一時間程、女の象徴を敢えて避け彼女を苛めていた。芽衣は疲労の色を見せている。自分からもとめどなく汗が噴き出してくる。そろそろ頃合いだ。
 既に立ちあがっている胸元の小さな突起を摘まむと、縦に開かれた口から吐き出される甘ったるい声が、無感情を極めた部屋を彩る。上下の歯で挟むように噛むと、一際大きな嬌声をあげた。
 目には明らかに渇望の火が灯っている。美咲はその瞳を前にし、期待に沿うかのように指を彼女の下半身に持っていく。実際は、己自身が待ち侘びていたことなのだが。
 彼女の淫門に指を滑らせると、そこにだけ水が撒かれたようにぐっしょりと濡れていた。しかしその液体は、紛れもなく彼女の愛液だ。粘着質で、親指と人差し指を合わせてから離すと、細く糸を引いた。それをわざとらしく音を出しながら見せてやると、芽衣は注視し、すぐ目を逸らした。
 彼女は恥じているのだ。女を目の前に濡らす己の姿──雌の姿を。
 まだ十六の身体だとは思えぬほどの力で、呑み込んだ指を締め付ける。抵抗して腕を動かすとその力は更に強まった。止むことを知らぬ淫らな音を聞きながら、悦に浸る。あられもない姿で脚を立て悶える女は、自分のものになった。もしも自分が男性であったなら、迷いなく彼女の中にそそり立つ自身を挿れ、有りっ丈の欲望を注ぎ込んだのだろう。
 それは叶うことのない願望だ。しかし悲しいという感情は湧き上がることはない。
 独り善がりの性交は、行き過ぎた自慰行為でしかない。受け止める相手は、只の自傷行為にしかならない。互いを求め合って初めて、それは交わりとなる。これこそが己の求め続ける、理想の愛だ。
 考え事に熱が入り、それでも動かすことを忘れていなかった指は、おそらく無意識に速度を早め、刺激を強くしていたのだろう。乱れたシーツの上で開脚する芽衣は、指の動きに合わせて腰を痙攣させていた。目が合うと、芽衣は頭の横にあった自身の片腕を咥える。快感を咬み殺しているのだ。乱暴に振りほどき、吐息を部屋に充満させる。そして唇を貪り、指を彼女の奥深くまで挿し入れる。びくんと大きく身体が跳ね、腰が反り上がった。

 数限りなく果てた芽衣は、柔らかな寝息を立てて眠っていた。五月蝿過ぎる色合いをした街灯に照らされ、その姿がくっきりと浮かび上がる。窓に背を向ける形で瞳を閉じている。行為中には分からなかったほくろが、腹の横にあるのを見つけた。
 彼女の反応のひとつひとつが新鮮だった。今まで関係を持ってきた女たちは、欲望を隠しもせずに下品に股を開いた。痴情に溺れたただの獣、そんな印象しか持てなかった。しかし芽衣は終始受け身で、主導権は常にこちら側にあった。押し倒せばそれに応え、その小さな身体を預けた。芽衣は狂おしいほど純情で、自分が如何に穢れた生物なのか。それを痛感せざるを得なかった。
 しかし──彼女は完璧かと問われれば、迷いなく否だと答えるだろう。もし芽衣が初めての相手だとしたら、決して手放すことなどできない大切な恋人となったはずだ。ただ、芽衣との出会いが遅すぎた。それだけのことなのだ。
 美咲はこの思考に長年悩まされ続けてきている。女を抱く度に思い出す、過去に失った最愛の女性の影。
 ──芹香。
 芹香はいつも、美咲を嬲った。
 ある時は人形を抱くように優しく、ある時は動物の交尾のように激しく。
 彼女は私を逝かせると、自分にもそれをせがんだ。その甘い時間は美咲にとって、生き甲斐そのものだった。己を責め立てた芹香が、目の前でよがり狂う。彼女は他の女や芽衣よりももっといい声で鳴いて、人の心を昂らせるのが上手だった。
 そしていつも、美咲を絶頂の渦へ巻き込む。彼女の舌や指こそが媚薬だった。毎晩のように、脳が溶けそうになるまで愛し合っていた。

「──美咲、私のこと好き?」
 あの満月の夜──芹香との最後の夜。美咲の身体を愛撫する手を急に止め、芹香は口を開いた。彼女の部屋の大きな窓硝子からは満天の星空が見え、二つの裸体を照らし雲から見え隠れする大きな月が、自分たちの密事を覗いているかのようで、少しばかり恥ずかしかったことを憶えている。
「──大好き」
 芹香の硝子玉のような瞳に向かって、躊躇わずにそう答えた。美咲の人生は、彼女のために存在しているのだと断言できる。数年間、美咲は芹香だけを見ていた。芹香も、どんな男性に言い寄られても、その誘いを受けることなく美咲を選んだ。
「本当に?」
「うん」
 そう言うと、芹香の美しい顔は涙で崩れた。美咲が抱き締めると、更にその慟哭は激しいものとなった。彼女が自分の前で流した初めての涙だった。そして、最後の涙だった。
 その後は二人で睦み合い、夜を明かした。朝が来るのを強く拒んだが、悪戯にも時計の針は進み続けた。
 太陽が昇り、接吻をして笑顔で別れた。これが美咲と芹香の永遠の離別になるなど、彼女が死ぬまで信じることができなかった。

 思考が現実に戻されると、美咲は自分の頬から一筋の涙が伝っているのに気付いた。これが初めての恋人を喪った悲しみなのか、性の対象を失った悔しさなのかは今の美咲には分からなかった。
 隣に眠る芽衣が、芹香と重なって見える。無意識に身体が熱くなった。
「芹香・・・」
 這い寄り、暴力的に唇を奪う。乾き切った花弁に、己の指を無理矢理捩じ込み犯す。
「あ・・・嫌・・・!」
 目を開いた彼女の表情からは、美咲の行為に驚いていることが見て取れた。しかし美咲は気にすることもなく、細く白い身体を嬲り続ける。美咲の頭から、斎藤芽衣という存在は完全に消滅していた。今自分の下にいるのは芹香だと、信じて疑わなかった。
「──嫌!」
 腹部に痛みを感じ、患部を見やると、ほっそりとした彼女の足があった。美咲は鈍痛に小さく唸り、目の前の女を睨みつける。彼女の瞳には明らかな恐怖と怒りの炎が盛っていた。
「──芹香、どうして私を拒むの?」
「誰よそれ!ねぇ、九重さんどうしたの?」
「芹香・・・そんな嘘を付かないで・・・」
「私はそんな奴なんて知らないから!寝ぼけてんの?クソばば──」
 美咲の言動に耐えかね、彼女は怒りを暴言に乗せて吐き出した。しかしその言葉は美咲の耳には届いていない。最愛の女性から拒まれた苦しみが、憎悪となって火を吹いた。
 彼女が途中で言葉を切ったのは、美咲の手で青白く光る異物を見つけたからだった。

第一章

1
「──功利主義。この思想は高校で習ったことがある人もいるんじゃないかな?」
 静かな大学の一室。閑散とした教室には、白いチョークを置いた九重美咲の落ち着いた声と、シャーペンを動かす音だけが響いている。今が夏ならば蝉の鳴き声が騒がしい位なのだが、秋も深まった現在の日本はやけに静かだ。夜になれば鈴虫の音が耳に心地よい安息をもたらすが、昼は気が遠くなるほどに静黙だ。
 しかし、横に三列、縦に六列、計十八個の長机が並ぶこの教室は、それ以上の静寂に包まれていた。
 誰一人として美咲の先ほどの質問に答えようとはしない。まず十八も机があるというのに、ここには十数人の生徒しかいないのだ。元々この学科を受けなければならない人数は、今いる人間の約二倍の数だ。半数しか授業を受けることのない教室に、こんな大きな机はいらない。美咲はいつもそう思いながら授業を進めている。
 長机は、普通の机だと教材で埋まり、スペースがなくなってしまうため、二人で一つ使う為に用意されたものだ。それなのにどうして、ここにいる生徒たちは我が物顔で机の真ん中に座しているのだろう。
 美咲の問いは、とうとう誰の耳にも入らないで消えてしまった。いや、聞いていた人もいるかもしれない。それでも積極的に発言をするような生徒はまずいない。この中で一番真面目な黒縁眼鏡をかけた山崎徹でも、こちらには意識を向けず熱心に板書をしているくらいなのだから。
 小さく咳払いをして、教室を見回す。一、二・・・十三人。十三人の人間が、それぞれ違う形で授業に臨んでいる。友達同士で囁き合う者もいれば、教科書の上に漫画本を置いている者もいる。何もない窓の外をぼんやりと眺める生徒。挙句の果てには美咲から一番近い座席で居眠りをする生徒──
「──綾奈さん」
 横に三列ある机の中央、そして最前列に石川綾奈は机に突っ伏して眠っていた。黒髪のショートカット。アシンメトリーで右側だけ長い前髪に緑色のメッシュをいれ、両耳には銀色の輪のピアスが幾つも嵌められている。本人にはお洒落のつもりなのだろうが、ピアスなど両耳にひとつずつしかないこちらからすれば、妙に痛々しい光景だった。自己主張の激しいアイラインや黒いシャドウが、目を瞑っていてもはっきりと見て取れる。
「綾奈さん、起きなさい」
 教壇から降りて石川綾奈の肩を叩く。もう肌寒い十月だというのに、がっつりと肩を出した服を身に纏っている。黒と赤のストライプで、所々破けたようになっており、片方の肩が出る仕様のカットソー。首元には猫の首輪を思い起こさせるチョーカー。鈴の代わりに十字架、黒革の部分には鋲が打ち付けられている。細い脚にぴったりとした黒いボトムス。そして、上下至る所に安全ピンが付けられている。これが彼女流のお洒落なのかもしれないが、美咲には到底理解が出来ない。
 細っそりとした肩を叩いても、石川綾奈は起きることをしなかった。美咲は溜息をつき、綾奈の後ろの席にいる新田智美に顔を向け、呆れたように肩をすくませる。智美は隣に座る友人の秋山玲那と顔を合わせ、くすくすと笑い出した。
「綾奈さーん、起きないとあなた、この時間は欠席ってことになるわよー?」
 わざとらしく語尾を伸ばしながら綾奈の後ろに立ち、横腹を擽ってやる。綾奈が擽りに弱いことは知っている。彼女は「ひゃあ」と情けない声を上げ飛び起きた。後ろの智美と玲那はそれを見て更に笑い、ぴりぴりとしていた教室中の雰囲気が少し和んだ。
「功利主義で有名な思想家の名前、二人答えて」
「──わ、わかりません」
 長い間を開けて彼女はそう答えた。
「じゃあ石川さん、昼食が終わった後に社会科準備に来なさい」
 また教室が、彼女に対する嘲笑で静かに沸いた。
 綾奈は金属音のぶつかる音を立てる銀色のブレスレットを重ね付けした白い腕で、居眠りのせいで縺れた髪の毛を掻く。美咲は、彼女の顔が僅かに紅潮したのを見逃さなかった。

「まず功利主義とは、自分の最善の利益になる行為は、社会全体にとっても利益であり、逆もあります。簡単に言えばそういう思想の事ですね」
 教科書を読みながら、教室を巡回する。それに気付いた生徒は、一斉に机の下でいじっていた携帯をポケットに戻す。美咲は既にその生徒は確認済みだから、この授業が終わったら今日の授業欄にマイナスをひとつ付けておくことにした。
「功利主義で有名な思想家は、ベンサムとミル。この二人は同じ快楽というテーマについて論じました。この二人の考え方の違いは必ず覚えておいてください」
 人数の少ない教室を一通り見回り、教壇に戻りチョークを手に取った。大きく「功利主義」と書き、思想家二人の名前を並べて書いた。
 美咲は他の教師のように、重要な用語をチョークの色を変えて書いたりはしない。テスト前になると焦り出す生徒は、重要な単語だけを暗記して済まそうとする。それでは授業をする意味もない。問題集さえ与えれば、教師の役目は無くなることになる。
 美咲は、自分の授業を生徒にきちんと聞いて欲しかった。板書よりも、授業を受ける姿で成績を決めようかと何度も思った。しかし現実は、自分の思い通りには決してならない。幾ら知恵を絞って生徒に授業に興味を持たせようと努力を重ねても、相変わらず雑誌を読んだりゲームをしたりする者は絶えなかった。新米教師だった頃はしぶとくそれを続けていたが、今では既にその熱意も冷め、生徒を愛する気持ちも徐々に薄れていった。無視されても、勝手に教室を抜け出されても、もう動じなくなっていた。黒板の文字を書き取るだけの人形──美咲はいつからは生徒をそう認識するようになっていた。
 いつだったか、眼鏡の似合う好青年の山崎徹に、文字の色を分けて欲しいと意見を出された。他の教師はそうしているのに、美咲だけは延々と小さな文字を白で書いていることが気に入らなかったらしい。美咲は倫理の授業を受ける生徒が自分を何と呼んでいるのかを知っていた。
 ──反倫理的倫理教師。
 黒板ごときで「反倫理的」と評されることは余りにも馬鹿馬鹿しかった。しかし最近は、その評価はあながち嘘ではないと思い始めている。
 一時期、山崎徹の申し出に応え、重要だと思われる箇所を赤の文字で書いてやった。そういう時に限って生徒は熱心に板書に勤しむ。だから美咲は、次の期末考査で赤文字ではないところを重点的に出題した。
 結果は案の定だ。分からないなら分からないなりに、赤で書いてやった単語を思い出して書いてみればいいというのに、半数はほぼ白紙の状態でテストを提出した。
 皆は当然のように美咲に不平不満を言った。しかし美咲は一向に気にしなかった。その次から山崎徹は文字の色を変えろとも言わなくなり、美咲の書く文字を狂ったようにノートに写し取った。他の生徒もそれに倣い、美咲の話には無関心で、ただ黙って板書をするようになった。成績も上がり皆は満足したらしい。美咲に不満をぶつける者もいなくなり、教室は最早、観客ゼロの単独公演となった。
「ベンサムとミルの大きな違いは、快楽の量を重んじるか、質を重んじるか。快楽といったら、あなたたちならすぐ肉体的な快楽を思い浮かべると思うのだけれど、勿論それもあるし、食や睡眠で満たされる快楽もあるでしょう?ベンサムは量を重視したの。じゃあ、まずベンサムについて解説していくわね──」
 功利主義はイギリスの十八世紀半ばから十九世紀の思想だ。簡潔に言ってしまえば、快を求め、苦を避ける思想だ。快楽が善となり幸福に繋がる。苦痛が悪となり不幸に繋がる。
 幸福の計算を提案した思想家はベンサムだ。人間は無意識のうちに快楽を求め、苦痛を避ける。行為がもたらす利益が人々の幸福を増大させるか減少させるかによって、その行為を是認、或いは否認する。
「快楽計算とは、ベンサムが七つの基準に基づいて決める快楽の量ね。強度、持続性、確実性、多産性、遠近性、純粋性、範囲。これらが最大となるときを彼は『最大多数の最大幸福』と言ったわ」
 美咲は教科書を簡単にまとめて説明し、チョークで黒板に七つの基準を書いていく。教室に目を向けると、先ほど目を覚ましたばかりの石川綾奈が目の前で欠伸をしていた。他の者たちも相変わらずだ。
 ベンサムの量的功利主義はしばし反対された。
「多くの被害者を守る為なら、一人の加害者の権利を無視してもよい」という考えが欠点となったのだ。量を求めるあまり、それがまた彼にとっての足枷となったということだろう。
 量的功利主義とは異なり、質的快楽主義では快楽の種類による質的な区分を求める立場を取る。ミルは快楽計算を否定した。
「満足した豚よりも、満足しない人間であるほうがよく、満足した愚か者であるよりも不満足なソクラテスであるほうがよい」と語っている。
 量的満足度が大きくても、人間の品性は下劣な快楽を幸福とは感じない。献身という自己犠牲の行為は数字では表せないと彼は考えた。
 ミルは求められるべき精神の快楽を、狭い利己心を克服したキリスト教の黄金律──他人にしてもらいたいと思うようことは人にはするな──に見出すよう主張した。
 美咲はやはり、ミルの思想の方が人間として最もだと思っている。人個人の快楽は計算できるものではない。
 ベンサムの思想だと例えば、林檎を食べたら快楽が増え、林檎を吐き出したら同じ量の快楽が減る。
 果たして本当にそうだろうか。林檎を食べた事実は変わっていない。美味しかった林檎を食べる快楽と、吐き出したことによる不快をイコールで結ぶことは難しいはずだ。
 それでも、ベンサムの言う量的功利主義を全て否定するわけではない。自分自身まさに、貪欲な人間であるからだ。欲望に忠実に生きている。しかしそれは結局「計算されるべきではない」の一言で片付いてしまう。人の心は単純な計算をしたとて、計り得る程度のものではない。
 美咲はそう考える。昨夜の芽衣との交わりを思い出す。愛に飢えているからといって、不特定多数の人間と交わろうとはしない。──それこそが質だ。
 ベンサムとミルについて一通りの説明を終え、黒板から目を離し生徒の方に向き直る。
「──今朝の新聞、見た人はいるかな?」
 その言葉を言い終わったところで丁度良く──美咲にしたら丁度良くとは言えないのだが──授業終了の鐘が鳴った。生徒の顔を見ると、自分たちに向けられた質問に回答しなくて済んだことへの安堵が色濃く現れていた。
 これで午前の授業は全て終わりである。そのせいなのかは分からないが、鐘が鳴ったと同時に半数の生徒が美咲よりも早く教室を出て行った。残り半数はまだ板書が終わっていないらしい。休憩時間を無駄にしないようにだろう。筆を動かす速度が明らかに変わった。
 質問への回答が無いことが心残りであるが美咲は結局教壇から下り、教室を後にする。
 扉を閉める前に一番前の席の石川綾奈と目が合った。綾奈はまた頬を赤らめて伏せ目がちに俯いていた。そんな彼女を見つめながら、教室の扉を閉じた。

 二階の階段を下りて、一回の教務室へと向かう道で様々な生徒とすれ違った。教室で見せる無表情とは正反対に、皆笑顔で廊下を駆けてゆく。彼らにとって授業時間はただの苦痛でしかなく、僅かな休憩時間を取るために学校に来ているようなものなのだ。しかし教師にとって、それは少し悲しくもある事実であった。
 先ほどまで美咲の倫理を受けていた高橋圭子も、友人たちと楽しげにはしゃぎながら歩いている。彼女が授業で笑顔を見せたことは一度もなく、常にペンをくるくると回しながら頬杖をついて美咲の話を聞くような生徒だ。授業が退屈で仕方がないのだろう。時計を見たり欠伸をしたりと忙しい。──そんな印象だ。
 他にもどこかで見たような顔ぶれが、揃って美咲と真逆の方向へと走ってゆく。
 この大学には、大きな食堂がある。大半の生徒はそこで自由に昼食をとっている。昼になると廊下は食堂へ向かう生徒でごった返し、会話の音で耳を塞ぎたくなるほどうるさい。
 食堂のほうはメニューも豊富で、おまけに安価であるから、一人暮らしの生徒の財布にも優しい。
 食堂には、生徒だけではなく彼らに混じって会話を楽しみながら食事をする教師たちの姿もしばしば見かける。そんな事を考えながら教務室への足を早めた。
 自分のデスクにつき、教務室全体を見回すと普段の三分の一しか教師はいなかった。皆、やはり食堂で昼食をとっているのだろう。
 美咲はあの場所が苦手だった。雑踏の中で生活することがどれだけ苦痛なのかはよく分かっていたからだ。それでも一人で昼食をとるのも寂しくく、あの中に入ってみたいとも考えたことが何回もあった。集団を避け孤独を厭う単なるエゴイズムなのだろう。
 通勤前に国道沿いにあるコンビニエンスストアで購入した野菜のたっぷりと入ったパスタサラダを鞄から取り出す。身体は肉類を欲していたのだが、栄養バランスを考慮し却下した。それに、教務室にはレンジといったものがなかったから、温かい弁当を食べようにも食べられないのだ。調理室に行けばいい話なのだが、そこまでして食べる必要もない。
 時計を見ると、授業終了から既に二十分が経過していた。この大学は昼休みが教師、生徒共に一時間与えられている。考査期間になれば休む暇もないのだが、何もないこの時期は割とゆっくりすることができるから好きだった。
 パスタサラダの蓋を開けようとした時、いつも昼食時に飲んでいる珈琲を買うのを忘れていたことに気が付いた。
 背もたれのある椅子から立ち上がり、玄関近くの自動販売機に向かう。廊下は先刻と打って変わり、騒がしい声はしなくなった。
 それはそうだろう。教務室と食堂は真逆の廊下にあり、ここまで人の声が聞こえてくることはないのだから。たまに聞こえてくる笑い声の主は大体、購買で買ったパンや弁当を片手に友人と中庭に向かう生徒たちばかりだった。
 ここは他の大学の例に漏れず屋上は侵入禁止だが、教室一つ分の小さな中庭は昼間だけ解放されている。丁度教務室から玄関に向かう道程に位置しているため、今日も少し覗いていこうかと考えていたところだった。
 玄関近くの自動販売機には、どうやら先客がいるようだ。玄関から一番近い部屋──保健室の養護教諭をしている弦巻文恵だ。
 彼女がカフェオレのボタンを押し、缶を取り出したところで、後方で待っている美咲に気付いた。
「──あ、九重先生。偶然ですね」
 にこやかな笑顔で対応する弦巻文恵のぷっくりとした唇からは、白い歯が覗いていた。肩まで伸ばしたカールのかかった髪を茶色に染め、私服に白衣を羽織っている。白衣から伸びる黒いスラックスが、彼女のスタイルを際立たせていた。
 弦巻はもう三十路近いというのに、毎日違う香水をつけて仕事をしている。化粧をしなくても十分美しい肌に、少し明るめのファンデーションを塗り、黒いアイラインを引いている。それは決して無理をしているようには見えず、却ってその化粧が相応しいようにも感じられた。
「偶然ですね、弦巻先生。先生はカフェオレがお好みですか?」
 ブラックのアイスコーヒーのボタンを押しながら弦巻文恵に問いかけた。彼女が甘いカフェオレを飲むのが少し意外だったからだ。
「私、恥ずかしながら珈琲が苦手で。苦いものが駄目なんです。いくら砂糖を入れても飲めなくて・・・」
「そうなんですか。甘いもの苦手そうだったから意外でした」
「色んな人にそう言われるのですが、甘いものは大好きなんです。でも教師がオレンジジュースなんて笑っちゃうでしょう?だから少し格好つけてカフェオレを飲んでるんです」
 とりとめのない話や世間話を少ししてから、養護教諭と別れた。彼女が去る前に残した言葉を頭で反芻する。
「今朝の新聞見ましたか?近所にあんな・・・物騒ですね」
 あの時美咲は、曖昧に笑みを返して彼女と別れた。しかし美咲は、養護教諭の言っていた記事を知っていた。恐らく誰よりも良く──

 片手に缶コーヒーを持ちながら、隅に埃の溜まった廊下を歩く。ここを掃除する生徒はまったく、どこを掃除しているのだろうか。
 廊下の壁には、委員会やサークル関連の貼り紙がしてある。お世辞にも活発とは言えない風紀委員に進んで入りたいと思う生徒はこの大学にはいないだろう。
 様々な思考を巡らせながら歩いていたのだが、ふと自分の名を呼ぶ声がしてそちらの方へと顔を向けた。
 女の生徒が数人、中庭から美咲に手を振っている。彼女たちは構って欲しそうな表情をしていたが、美咲は笑顔で手を振り返し、すぐに正面を向いて歩き出した。そろそろ食事を始めなければ、予鈴が鳴る前に食べ終わることができないと考えたからだ。
 美咲は次に授業は入っていなかったが、いそいそと教務室を出て行く教師の目を気にして、いつも早めに食事を終えることにしている。そして特に今日は、二階の社会科準備室に教え子である石川綾奈を呼び出しているのだから、急がずにはいられなかった。
 パスタサラダを胃に詰め込み、長い廊下を通り二階への階段を上る。目的地は階段の近くだから遠くはないが、食事後すぐの運動は大変だった。社会科準備室に着く頃には息が上がっており、自分の体力の衰えを実感した。

 教室の扉を開くと、中は静寂に包まれていた。全部で三つあるデスクは昼間はいつももぬけの殻だが、やはり誰もいないとなると少し違和を感じる。
 教室の正面の大きな窓を見やると、こちらを背にして一人の女が外を眺めていた。足音を立てずに彼女に近付き、両手で目を覆い隠す。
「だーれだ」
 若い頃によく使ったフレーズを二十五という歳で使うと、少し照れ臭い気もしたが、同時に懐かしくもなった。学生の頃に友人同士でこんなことではしゃいでいた自分もいたのだと思うと不思議な気分になる。
「──九重先生・・・」
 目を塞いでいた手を離し、石川綾奈の顔を勢いよくこちらに向け、唇を合わせる。そっと舌を入れると、綾奈は口の中でくぐもった声をあげた。舌を絡め、彼女の口の全てを舐め回す。唾液の交換をしながら、美咲は綾奈のカットソーから腕を侵入させる。綾奈は下にキャミソールなどの肌着を着ていなかったため、腕はすぐにブラジャーへと届いた。
 美咲は裏側からホックを器用に外し、それを床にはらりと落とす。上着は脱がせず、両手を彼女の服に入れ、二つの僅かな膨らみを優しく揉む。小さな突起は既に立ち上がり、美咲の手を待っているかのように見えた。
「今日はどうして寝ていたの?」
 目の前で荒い息を漏らす女から唇を離し、耳元でそう言葉を放つ。美咲の吐息を耳で受け取り、彼女は身体を少し震わせた。
「昨日の夜は・・・バイトで忙しかったから・・・」
 途切れ途切れに口から漏れる言葉はか弱く、自己主張の激しい外見からは想像ができぬほどにしおらしい。そんな彼女が愛おしくなり、もう一度彼女に唇を近付ける。綾奈は桃色の舌を出し、こちらを見つめていた。
 どれだけ長い間そうしていただろう。柔らかな舌が自分のそこに触手のように絡みつく感触が心地よかった。
「──本当に?私にこうされたかったからじゃないの?」
 彼女のズボンのファスナーを下ろし、そこから指を下着に這わせる。下着は触って分かるほどに湿っていた。
「質問に答えなさい」
 小さなショーツの隙間から、右手人差し指を侵入させる。左手では張りのある胸を弄った。綾奈の淫口に指を入れると、その刺激で蜜のような液体が溢れ出してきた。
 愛液で指を濡らし、女性器を愛撫する。彼女の特に敏感な場所を中心に攻めると、その口からは涎と共に喘ぎ声が零れた。
「──そうです・・・」
 やっとのことで質問に返答した綾奈は、息が上がり上手く喋れないようだ。「素直ね」と軽い接吻をしてやると、彼女は尻尾を振るかのように喜び、こちらに飛びついてきた。
「──先生、大好き」
 美咲よりも少し小柄な彼女は、そう言いながら女教師を抱き締めた。美咲は細い腰に方腕を回し左手で綾奈の頭を撫でた。
 しばらく抱き合いながら目を閉じていると、授業の予鈴が鳴り、美咲と綾奈は身体を離した。彼女の方は別れを惜しんでいたが、美咲は彼女を置いて教室から出た。綾奈には可哀想だが、時間の制約上仕方がなかった。
 石川綾奈とこのような関係になったのは約数ヶ月前。ある放課後に綾奈から美咲に言い寄ってきたことが始まりだった。彼女が同性愛者だと知った時は驚いたが、同時に嬉しくもあった。気付けば美咲の方から何かと理由をつけて彼女を犯すようになっていった。
 それが愛情からなのか、己の性欲を発散させるためなのかは美咲自身分からなかった。

 低速で流れてゆく風景はいつもと変わらず、眠気を誘うほど平坦だ。街灯や店のライトが線状になり眩く光る。夏場は緑色の豊かな葉を付けていた樹々はすっかりと化粧を落とし、風で茶色の葉が地面から寂しく舞い上がっていた。
 午後九時三十分。大学の勤務を終え、九重美咲は青いカプチーノのハンドルを握っている。食材を買うためにスーパーマーケットに寄った後、昨夜床を共にした斎藤芽衣の所へ向かうつもりだ。
 今日は大変な一日だった。いや、普段よりはましな方かもしれない。あの大学では生徒が隠れて飲酒、乱交などが日常茶飯事に行われている。時には自殺未遂をする者も出てくるなど、事件の絶えない場所だ。風紀の乱れは心の乱れ、とはよく言ったものだ。一部の教師と生徒間の諍いは日々激しくなるばかりで、既に手に負えないところまで来ている。美咲にはまだそういった被害はないが、時間の問題だ。
 近辺より偏差値が僅かに低い大学だとはいえ、あそこまで問題児の多い場所は珍しいだろう。美咲もこの大学に勤務が決まったときは、何かの間違いだと嘆いたものだ。
 しかし人間は何事にも慣れてゆく動物だ。あの環境に身を置いて三年、多少のトラブルにも動じず寛容になることができた。
 そんなことを考えていると、すぐに証明の眩しいスーパーへと到着した。白線で引かれた駐車スペースに車を駐め、助手席に置いていたブランドの黒革の鞄を取り出してから車に鍵を掛けた。

 緑色の買い物かごを持ち、自動ドアから入店すると十月の外気よりも冷たい風に襲われた。いくら食品を保存するためとはいえ、流石に冷えすぎている。最大限に風を送るエアコンと、明るすぎる照明。店内の至る所に張り紙がされた「省エネ」とは一体何なのだろう。
 この店の主題歌が途切れることなく流れ続ける中、買い物かごに食材を放り込んでゆく。料理が得意でない美咲は、商品の良し悪しを見分けることもできないため、すぐに買い物が終わってしまう。
 レジへ向かおうと食肉コーナーを通り抜けようとしたところで、そこに人だかりができているのを見つけた。この時間は確か、閉店前のタイムセールをしているのだと気付き、納得する。肉の入ったパックを狙ってひしめき合う中年の主婦たちを見ながら美咲は溜め息をつき、雑踏から身を離した。
 僅かな値引きのためだけに争う女が滑稽でならなかった。家ではただ家事をし、残りの時間は趣味に明け暮れるだけの自由な生活をしている彼女たちに、一円二円の損を嘆く感情があるとは思えない。自分の趣味や化粧品には多額の出費も躊躇いがないくせに、家族のことが絡むと目の色を変えて節制しろと喚く。そんな彼女たちが哀れで仕方がなかった。
 レジはそこそこ混んでいたが、パートの女性は手際良く仕事をこなし、不愉快だった美咲の気分をすっきりとさせた。働く女性は美しい──そんな言葉が脳裏に浮かんだ。

 単調な音楽が響く店から車に戻り、トランクに荷物を置きエンジンを入れる。ラジオからは軽快なリズムの洋楽が流れ始めた。
 アクセルを踏み、家とは反対方面に車を走らせる。街の端のスーパーから少し離れると都会の面影は消え、街灯も減りすれ違う車の数も少なくなった。
 どうも音楽を聴く気分にはなれなかったためラジオの電源を切り、ドアガラスを全開にして陰鬱な風を車内に入れることにした。雑念を消し、風を肌で感じる。車が風を切る音しか聞こえなかったが、却ってそれが心地よかった。
 目的の場所周辺で下車した時には既に午後十一時を回っていた。帰宅する頃には日付けを跨ぐことになるだろう。美咲は腕時計から目を離し、夜の川へ視線を移動させた。河川敷に車を放置し、川の方へ歩いて向かう。
 多摩川や利根川といった大きな川ではなく、向こう岸がよく見える幅の狭い場所だ。流れも緩く、恐らく長さもそこまでない川なのだろう。
 しかし昨夜来た時とは、明らかに様子が違っていた。テレビで良く見る黄色のテープ──規制線が一面に張り巡らされ、一般の人間が事件現場に安易に近付くことを禁じていた。
 ──そう、ここは今朝の新聞の一面に載った事件が起こった場所だ。テレビでも繰り返し流されるニュースにも取り上げられ、一部のマスメディアたちにとって大きな話題となっている。ここに来るまで、そしてここに警察官やマスメディアの姿が無かったことは奇跡に近かった。
 どうして自分は己の犯した罪を承知で、ここまで来てしまったのだろうか。もしかしたら、今は亡き斎藤芽衣の姿を忘れることができないでいるのかもしれない。これまでの犯罪は、少なくとも後悔の残るものではなかったのだから。──いや、芽衣も他の女たちと変わらない。ただ少し若かっただけのことだ。
 ああやって女を部屋に連れ込んだのは、芽衣で四人目だった。今まで殺害してきた四人が魅力に欠けていたということは決してない。どの娘も目を見張るほど美しかった。──ただ、芹香が彼女たちよりも美しく、魅力的だったというだけのことなのだ。

 規制線の張られた場所から川を覗き、昨夜に芽衣をここまで運んできたことを思い返す。
 あの後美咲は、芽衣をベッドに押し倒し、腹部にナイフを押し付けた。その時にはもう彼女への愛など忘れ、頭の中は怒りに染まっていた。
 抵抗する芽衣の腹部に、鈍く光る刃を突き立てる。白い肌はすぐに赤黒い液体で汚れ、まるで純粋な水に砂を混ぜてしまった時のような感覚を憶えた。
 臍から下腹部までナイフを引くと、切断面が開き、芽衣の内容物が姿を現した。刃に絡み付く脂肪で切れ味の悪くなったそれをティッシュペーパーで綺麗に拭い、また同じところへ突き刺した。血が美咲の頬に飛んだのが分かった。
 苦痛で歪んだ表情を浮かべ泣き叫ぶ芽衣を押さえ、下腹部で止まった刃をそのまま下に引く。腕に精一杯の力を込めると、ナイフは女の象徴である淫口を引き裂いた。
 性器から流血する芽衣は、初潮を迎えた少女さながらの姿でベッドに横たわっていた。まだ息のあるそれを両目で見据え、美咲は浴室に向かった。
 生々しい血液は全身に飛散していた。血は熱湯をかけてもたんぱく質が固まって落ちないことは知っている。しかし秋が深まってきた季節に冷水を浴びることは憚られたため、長い時間をかけて湯で血を洗い流した。
 風呂から上がると芽衣の心臓は既に活動を諦めていた。美しかった表情も崩れ、血走った眼球は大きく見開かれていた。美咲は彼女の瞼を閉じてやり、その横に座って東京の空を眺めた。
 そして美咲は、淹れたての濃い珈琲を飲んだ後、箪笥から見つけたブルーシートで芽衣を優しく包み、車のトランクへ乗せてあの川へ向かったのだった。

 昨夜の記憶を反芻した後、美咲が部屋に戻った時には深夜二時を過ぎていた。簡単に食事と入浴を済ませ、ベッドに倒れ込む。いつもそうしているように、枕元に置かれた睡眠薬を一錠飲んでから瞼を閉じて、仄暗い闇へと身を委ねた。

2
『十月九日月曜日の早朝に、中学三年生の斎藤芽衣さんが遺体となって川の近くを歩いていた老人に発見されました。彼女は家出中で、家族には行き先を全く伝えていなかったといいます。遺体からは大量の水が検出されましたが、女性の傷口を検証した結果、河川が死亡の原因では無いと判断されました。刃物で腹部を裂かれ命を失い、その後に川まで何らかの手段で運ばれ、そのまま水面に投げ捨てられたと思われており、警察は──』
 リモコンを手に取り、テレビの電源を落とした石川綾奈は大きな欠伸をする。午前五時──いつもより早い起床だ。卵を使った簡単な食事を済ませ、グラスになみなみと注いだ果汁百パーセントのオレンジジュースを一気に飲み干す。冷たい橙色の液体が喉を通り越し、食道を冷やすのを感じる。それでもまだ目は冴えず意識がはっきりとしない。
 安っぽい木製の椅子から重い腰を上げ、約十畳のリビングダイニングキッチンを見渡す。備え付けの台所、安物のテーブル、小型テレビしかないそこはあまりにも殺風景だった。十月九日の日めくりカレンダーを破って、ごみ箱に捨てた。
 もう一つの洋室も、ベッドやテーブルやクローゼットなど必要なものだけが置いてある、ただの勉強部屋だ。
 もう薄紫色のカーテンを開くと、西を向いた小さな窓ガラスが現れた。昼は熱帯のように熱くなるが、朝は日差しが強くなく快適である。外を覗けば、春は満開だった桜の木が寂しげに佇んでいる。
 来年また、美しい桃色の花が見れることを楽しみにしていよう。綾奈はそう思った。
 石川綾奈は某国立大学の一年だ。去年の春に新潟からここ東京に引っ越してきた。あの大学に入るために随分と苦労した。高校の二年の進路相談で、担任に大学進学を伝えたとき「お前には無理だ、諦めろ」と相手にされなかったことをよく覚えている。頭の良くなかった綾奈は当然、母親に猛反対された。しかし頑固な綾奈はその声に更に突き動かされ、力を入れていた部活動を辞め勉強に明け暮れた。
 ライヴハウスに行くことが趣味な綾奈は、重要な時期でも習慣となったそれを欠かすことができなかった。月に一回の息抜きとして身体を動かし、家では音楽を聴きながら筆を動かす日々が続いた。友人にも呆れられたが、最終的には応援してくれたことが何よりの救いだった。
 この大学に無事に合格することができたのは、綾奈が泣き言を言った時には喝を入れてくれるような友人がいたからだと思っている。今ではその友人は新潟で就職し、愚痴をこぼしながらも立派に働いている。次の夏休みに二人で行く旅行の計画も着々と進んでいた。

 明るい日光を浴びると、にわかに眠気が襲ってきた。欠伸で滲んだ涙目を抑えながら窓から離れ、身支度の為に洗面台へ向かう。
 今日は午後からの授業しかなく、バイトは久しぶりの休みだ。午前中はゆっくりとしていられるが、一人暮らしの学生にはやるべきことが山積みである。たっぷりと歯磨き粉をつけたブラシで歯を丁寧に磨きながら、自分のことについて思いを巡らす。
 実家で家族と住んでいたときは全く家事をする機会がなかった綾奈は、一人暮らしを始めたばかりの頃は不安で仕方がなかった。料理は行事で配るチョコレートくらいしか作れなかったため、古本屋でレシピを買って勉強したものだった。初めは上手く作れずコンビニに頼りがちだった食事も、今ではきちんと全てを自分の手で賄えるようになった。勉強面にも運動面にも冴えない綾奈にとって初めて「得意」と言える分野が見つかったことになる。一度味をしめたらその魅力に取り憑かれたように一直線だった綾奈は、ますます料理が好きになった。大学でも料理のサークルに時々顔を出し、不安だった大学生活に鮮やかな色を付けていった。
 泡で汚れた口をすすぎ、吐き出す。水をまた含み、洗面台へと落とす。タオルで水滴を拭ってから髪をヘアピンで留める。綾奈はこの単調な毎日の作業が好きだ。己がここに存在している。貧乏でもきちんと自立して生きている。そういう実感が沸くからだ。
 洗顔フォームをネットで泡立て、顔を包み込むように洗う。きめ細やかな泡が顔面を覆い、皮膚の汚れを剥がしてくれる。ぬるま湯でそれを丁寧に洗い落とし、冷たい化粧水で肌を引き締めると、すっきりと一日が始められるのだ。

 可愛らしい苺柄の白いパジャマを脱ぎ捨て、小さな箪笥からジャージを取り出して素早く纏う。薄手のタオルを首に巻き、玄関で靴の紐をきつく結んだ。
 重い扉を勢いよく開くと、雲の邪魔する隙のないほどの晴天が広がり、そんな快晴には似合わない背筋を凍てつかせるような風が綾奈を襲った。髪の毛が顔に当たり、毛先が目に刺さる。片目から僅かに涙が出た。メッシュの入った長い前髪をきちんと耳にかけて、綾奈はあてもなく走り始める。
 行き先を決めないジョギングは、綾奈にとっての細やかな楽しみである。午前から大学へいかなければならない日は走ることができない。そんな日は大抵授業に身が入らなかった。ジョギングは息抜きでもあり、自分に気合いを入れる為の準備運動だ。
 しばらく道なりに走っていると、綾奈が週に三回シフトが入っているバイト先の前を通過した。赤と金で統一された外観は遠くからでも目を引き、見事と言う他ないほどの姿で聳え立っている。本格的な中華料理の店で、ここ東京に一軒しかないという。専門店なだけあって、客層はそこまで広くない。
 しかしそこに目を付けた店長がうまく立ち回り、今では中年向けの安価な軽食も出してからは経営が一気に安定したらしい。
 そしてまたこれもオーナーの配慮なのだろうか。店の奥にはご丁寧に個席を設けており、芸能界の大御所や、お忍びで来るアイドルにはもってこいの店である。テレビで目にする人間相手に初めて接客した時は心臓がはち切れんばかりに緊張したものだった。
 国道の路側帯からの風景は、疎らな車と様々な趣向を凝らした店舗の流れる色だけが目に入ってくる。横を向きながら走っていると横断歩道に差し掛かったため、正面を向いて信号が青に変わるのを待つ。
 反対側で同じく信号を待つ腰の曲がった老婆の腕から垂れる赤いリードの先に、立派に太った柴犬が繋がれていた。毎日こうやって散歩をしていれば犬も痩せる筈なのだが──。家ではおやつを沢山食べているのだろうか。他の柴犬と比べると一回り大きく感じた。
 老婆が犬を甘やかすところを想像していると、いつの間にか信号は青になっており、柴犬たちは既に歩道を渡り切っていた。綾奈は周囲の状況にうわの空だったことを反省し、左右の安全を確認してから慌てて走り出した。

 国道から逸れた細い路地に入る。目的地を決めずに走ってはいるが、たまには行きたい所へ向かうのもいいだろうと考えたからだ。細い路地には、けばけばしい塗料で飾られたホテルが立ち並び、綾奈は目を背ける。色欲通りを走り過ぎたところで、朝帰りと思われる男女がこちらに背を向け、手を繋いで歩いていた。
 ──青春。
 綾奈の頭にはその二文字がよぎる。わざと小走りになり、仲睦まじげなカップルを後ろから道が別れるまで見送った。
 青春といった言葉に、凄まじい違和感を憶える。主に異性同士の純愛に捧げられる言葉で、綾奈にとっては縁のないものだからだ。
 青い春が訪れたことなど一度もなかった。しかしそれに落胆などしない。それが自分なのだと割り切っているから、多種の面において諦めもつく。

 いつからか、綾奈は同性しか愛せない人間になっていた。勿論初めから女が好きだったわけではない。幼稚園児だった頃には初恋の男子がいたし、小学校低学年でも仲の良かったクラスメイトに淡い恋心を抱いていた。そんな自分が、女性を好きになってしまった経緯は定かではない。ただ、男性を恋愛の対象に見ることができなくなった理由には思い当たる節がある。
 原因は恐らく、綾奈の家庭に幾ばくかの問題があったからだ。母は親の反対を押し切り十八で綾奈を出産した。その結果、ひとつ上の父親は早くに蒸発し、経済的に問題が発生した。そんな母親は流されるまま娼婦となり、安いアパートに幼い綾奈を置き去りにし、夜遅くにどこかへ出勤していった。彼女がその仕事を始めてから、家庭に少し余裕が出来た。綾奈は食事を腹いっぱい食べることができたし、豪雪地帯の夜を暖房に頼ることもできた。ただ、幸せな日々はいつまでも続くはずがないことは、幼いながらにも理解していた。
 母が、男性を家に連れて帰ってくるようになった。玄関で顔を合わせる度に知らない顔があり、綾奈を少なからず混乱させた。母は穢れた仕事で稼いだ金で購入した決して安価ではない酒を飲みながら、男と談笑する。日が変わる時間になると決まって、男に泊まっていくように促した。事もあろうに、男たちは皆こぞって誘いを受けるのだ。それだけでも、綾奈の精神を徐々に擦り減らす砥石としては十分すぎるものだ。
 ある日、母の寝室から毎日のように聞こえる音で目を覚ましてしまった。小学校中学年にもなれば、性に関する知識は少なからずあったため、興味本位で扉を小さく開き覗き込んだ。
 目を逸らしたくなるほどの不快感と、胸の奥から逆流する胃液の鼻につく臭い。気付けば綾奈は部屋を飛び出し、洋式トイレの便座に向かっていた。
 惨状と形容するべき光景が、六畳間の寝室で繰り広げられていた。ウェーブのかかった栗色の毛髪を振り乱し、仁王立ちする男に跪いている母の背中。頭を上下させ、時々くぐもったうめき声のようなものを発する。
 ──そんなものではない。
 綾奈の視線はその先──偉そうに立っている男の大きく開いた脚の間で固まっていた。
 薄暗くなるまで落とされた照明の僅かな明りに、天井に向かって反り立つ唾液で黒光りした男性器が、暗順応した綾奈の双眸にはっきりと浮かび上がってきたのだ。初めて直視したそれは妙に生々しく、この世のものとは思えぬ姿から生理的な嫌悪感を抱いた。その忌まわしい器具を母の口にあてがい、荒々しく腰を振る男。限りなく滑稽で、情けない声を出して果てた。
 全てを吐き出してしまってやっと、綾奈の気分は落ち着きを取り戻した。自分の布団へ顔をうずめ、現実から逃避行をするように眠りについた。暫し、不純な行為を自ら覗いてしまった罪悪感に苛まれたのだった。
 あれから綾奈は、全ての男性に対しての接触を避けるようになった。実りそうだった切なる恋までも、自らその手を引いた。
 汚れた欲を濾過するフィルターの役割りを果たしたのが、友人という存在だった。純粋で、穢れのない笑みでこちらを見つめる彼女は、自分にとって特別な女性となった。雨が激しく降るにつれて上昇する水かさのように恋が膨れ、容量の限界が心から溢れ出した。しかし、恋心は隠し、卒業まで良き友人として節度ある付き合いを続けた。
 燻る想いを彼女に伝えられたなら、どれだけ楽になれるのだろう。
 しかし綾奈にはそんな勇気などなかった。自己満足の代わりに積み重なる犠牲が余りにも多すぎる。綾奈がどれだけ彼女を愛していたとしても、相手は純粋な友情をこちらに向けているのだから。綾奈が幾ら足掻いても、彼女が持つ脳という大きな箱の「友人」の仕切りからは出ることができないのだ。
 ここで無理矢理彼女の箱を壊したらどうなるか?そんなことは簡単に想像がつくことだ。酷く取り乱した上、陰惨な目で口で、己を罵るのだろう。愛する者から鋭利な罵詈讒謗が浴びせられなかったとて、元の関係には決して戻ることができない。自ら彼女の元を離れていくことになるのだろう。
 したがって綾奈は自己の恋愛感情を表面に出さず、自分自身の手で昇華しなければいけなくなった。綾奈が見ず知らずの女性に心を開けなくなったのも自然な流れだった。
 しかし持ち前の明るさで高校卒業までに沢山の友人を作ることができた。友人の恋愛話は億劫だったし、友人から紹介された男性と付き合ったこともあったが、男性に対する偏見──欲を満たすだけの付き合いになる前に自分から別れ話を突き付けたこともあった。それでも、特に高校生活は、楽しかったと断言できる。恋愛という概念を自分から切り離すことで、自分を守ることができるようになった。男っ気のない綾奈に不信の目を向ける友人がいなかったことが最大の理由だろう。

 走行開始から約一時間、目的の場所付近に着くことができた。ここまで長く走ることは珍しく、身体の疲労が自分でも分かる。首に巻いたタオルが大量の汗で湿っているし、膝は僅かに痛む。
 しかし、足を休ませることは頭に浮かばなかった。あの交差点を左折し直進すればすぐに、愛しい人──九重美咲の住むマンションが見えてくるからだ。交差点を左に曲がる。そろそろ働く者にとっては出勤時間となるため、車の量が明らかに増えた。右でも左でも、曲がる車にとって歩行者の存在──増して綾奈は走っている──は邪魔なのだ。左折車の怒りを買わぬように路側帯の端を、壁に沿う形で小走りで曲がった。
 同じ街だとは思えぬ路地。どこか薄暗く、それでいて高尚な場所。聳え立つ高層ビル群に圧倒されながら、己の愛する教師のビルへ向かう。
 白を基調として建てられた乱立するマンションを見上げると、この高級な土地に蔓延る翳りの理由に気が付いた。
 太陽の身体は左右に立ち並ぶ巨大なコンクリートの塊によって隠蔽され、窓に反射した光しか当たらなくなっている。これなら周りに生える草木や花に元気がないことにも納得できる。今の季節なら涼しくて快適だろうが、コンクリートの性質から冬は冷え込み、夏は猛暑に苦しむことになるのだろう。──いや、ここに住まう人間たちが、気温に左右される筈がない。惜しげなく電気を使い、一年中快適に過ごすことができる経済力の持ち主なのだから。
 マンションと契約された大きな駐車場に到着し、やっと一息付くことができた。もう大体の車は出払っているため、綾奈がここにいても咎められないだろう。少し見渡すと、九重美咲の青いカプチーノは綺麗に駐車されていた。まだマンションに美咲がいる。それが分かっただけで、綾奈の身体をここに引き留めておくのには十分過ぎる目的となった。
 倫理教師の出勤を待ち、ただ立ち尽くしているだけなのに、僅かに鼓動が早くなるのを感じた。
 ──ああ、恋をしている。それも、教師という高嶺の花に。
 綾奈にとって美咲は、最も愛しい人間であり、よき理解者でもある。
 九重美咲は、倫理教師とは別に、主に女子生徒の相談役を務めている。友人たちからの話によれば、彼女の助言によって悩みを解決した生徒や、恋愛相談を受けたことで上手くいった生徒も数多いるという。倫理教師という職業柄、様々な思想家の思想を織り交ぜながら会話をすることができるのだろう。しかしそれは彼女の人気の一部分であり、本当の魅力はその人柄にあった。冷徹なまでに悩める者の状況を言い当てる判断力、彼女自身の言葉──思想で発せられる的確な今後の目標設定。決して優しい言葉ではないが、誰もがその言葉に心を揺さぶられ、自らを変えようとする。それが彼女の隠れた魔力で、人を惹きつけてやまないのだ。
 そんな美咲に惹かれ、彼女に接触をはかってから己の同性愛を告白するまでに時間はかからなかった。そして、彼女も綾奈と同じ同性愛者だということも知ることになった。
 美咲の告白を聞いた時、長年抑えていた恋愛感情がふつふつと再び湧きあがってきたことを覚えている。美咲も同性愛を公言することはなく、隠して生きているらしい。そんな目で見れば、男子生徒に異様に厳しく当たる姿が自然に思えた。
 程なくして二人は親密な関係になり、やがて身体を合わせた。初めに言い寄ったのは、これも綾奈の方だった。あの時は自分も必死で、我を忘れて彼女の唇を求めた。美咲が拒むことなく綾奈を受け入れたことに若干の違和を感じたが、自分が美咲のものになったのだという幸福感に包まれたのだった。

 コンクリートに響くヒールの音で、綾奈は現実に引き戻された。薄暗い駐車場にひとり立つ自分が滑稽に思えた。
「──綾奈さん?」
「おはようございます、センセー。あ、プライベートなんだから、さん付けでなんて呼ばないでくださいよ」
 わざとらしく深々と頭を下げてから、媚を含んだ笑顔をスーツに身を包む華奢な女に向けた。
「綾奈ちゃん、おはよう」
 彼女は挨拶を返したが、化粧で飾られた美しい顔はまだ、驚きを隠せないでいた。美咲は続けて言葉を放つ。
「どうしたの、そんなに笑顔で」
「先生を待っている間に考え事をしていて」
 数ヶ月前の、綾奈にとってはファーストキスになった夜の学校を思い出し、自然と頬が緩んでいた。それを彼女に気が付かれるなど、少し照れくさい。
「──へぇ。私のこと考えたんでしょう?」
「え?!」
 彼女から予想だにしない言葉が飛び出してきたため、思わず裏返った声を上げてしまった。
「その反応から見ると、当たりね」
 綾奈は、美咲は妖艶な笑みの似合う女性だな、と思った。
 美咲は綾奈に唇を落とし、言った。
「私はもう行かなきゃだから、また学校ね」
 青い車を走らせて去ってゆく彼女を引き留めることもできず、ただ唇に手を当てて一点を見つめていた。
「──ずるい」
 妖美な美咲とは対照的に、赤面しながら発する自分の言葉には、幼さしか感じることができなかった。車が視線から消えた後も、暫くそこから動けずにいた。

 雨が降り始めた。驟雨ならばと願っていると、思いが通じたのかすぐに雨は止んだ。どんよりとした曇り空だが、同じ晴れだ。好機だと思い、綾奈は駐車場から出てから元来た道を急いだ。
 半刻程でまたにわか雨が降り注いだ。あれだけ汗をかいていたため、汗が蒸発しすっかり身体は冷えきっていた。更に雨が微弱ながら皮膚を打ち付け、秋の終わりを感じる。
 雨足がこのまま強くならなければいいのだが、その願いは叶いそうもない。徐々に増える水量からはどう足掻いても晴れ間は見出せそうにない。走る速度を早め、狭いマンションの一室へと向かった。

 家に着いた頃には空から滴る雫は土砂降りと化していた。勢いが増し、屋根を打つ水の玉は鉄球のように重いものとなって襲い掛かる。その音を聞きながら、綾奈はタオルで頭を拭いて昼食を作っていた。
 何か温かいものが食べたくなり、戸棚を探ると蟹の缶詰をひとつ見つけた。バターを敷いて熱したフライパンに蟹の身をほぐして入れる。予め茹でておいたマカロニも投入した。バターが混ざり合ったら、そこに小麦粉と牛乳を目分量で混ぜたものをいれ、ヘラでかき混ぜ熱する。もったりとしてきたら火を止め、耐熱容器に盛り付ける。それを予熱したオーブンに入れ、あとは待つだけだ。
 単純な作業で作るマカロニグラタンを焼いている間に、髪をドライヤーで乾かしセットする。お気に入りの蜘蛛のピアスを右耳にはめ、残りはリングなど様々に組み合わせて装着した。両耳で十三もピアス穴があると却って邪魔に感じる時もあるが、塞ごうという考えに至ることはなかった。綾奈にとって身につける物体は全て自分自身だった。増えるのはいいが、ひとつでも減ると自分の身体が擦り切れていくようで、余り良い気持ちにはならない。
 オーブンの音が、料理が焼けたことを高らかに告げた。綾奈は容器を取り出し、その蓋を開いてみる。丁度よい具合に焦げ目が付き、食欲をそそられる。早速食器棚から大きなスプーンを取り出し、熱いマカロニを頬張った。

 食事中は忘れていたが、朝と昼の食器を洗い、化粧をしている時はずっと九重美咲のことを考えていた。勉強をしていても、何をしていても彼女の顔は、ふとした時に思い出される。その度に、それだけ自分が彼女のことを愛しているのだと実感する。今朝の接吻が、その感情に拍車を掛けたのは明白だ。
 綾奈は美咲の自宅は知っていても、中にまでは入ったことがない。従って、彼女を知りきったつもりでいても、プライベートのこととなると何も分からない。どんな部屋に住み、どんな服を着て、どんな食べ物を食べるのか。まだ知らないことが多すぎる。
 綾奈は、何とか美咲の自宅に入ることができないだろうかと考えた。

 午後二時。綾奈はこれから始まる講義を受けるためだけに登校した。今日はこの一コマが終わったら、美咲を探して話をするつもりだ。
 綾奈は机の上に寝そべり、携帯を触っていた。友人とのメールのやり取りに熱中して、号令の声に気が付かなかった。しかし教師はそんな綾奈に嫌な顔を向けずに笑顔で挨拶した。
 ──村上元也。それがこの化学教師の名前だ。濁った色をした茶髪で、前髪はセンターでふんわりと分け、毛には軽くパーマがかかっている。長身なせいか、ワイシャツの上に羽織る白衣が世辞抜きで似合っていた。左耳にはひとつピアスをしている。
 長身で年の割りに甘いマスクと低く落ち着く声をしているからか、友人の間でも彼はかなりの人気だった。他の学年の女子生徒が本気で彼を好きになり告白したが、きっぱりと断ったという。しかしその噂の他にも、村上は所謂女たらしだという話も聞く。言い寄ってくる生徒を見境なく抱くという噂も出回るくらいだ。
 しかし綾奈は、彼の噂の何が本当で何が嘘だったとしても興味がなかった。
 綾奈は村上を特別な目で見ていた。恋愛感情など勿論無い。寧ろ憎悪の視線を送ることが多々あった。
 村上元也は、九重美咲に対して好意を抱いている。それは美咲と親しい者ならば、彼女の近くにあの男の影がちらついていることなどすぐに分かる。そして、美咲が彼を厭うような顔付きで見ていることも明らかだった。
 小汚い中年の男が、美しい彼女に接触を図ることだけでも疎ましく感じた。まるで蝶に群がる蛆虫──そんな印象を憶えた。
「石川さん」
 授業がうわの空だった綾奈に気が付いたのか、村上は綾奈の肩を叩いて呼びかけた。
「この問題解いてみて」
「──分かりません」
 彼の目は見ず、ぶっきらぼうに答える。少しでも山本とは距離を置きたい──そう思ったからだ。
「綾奈さん、窓の外がそんなに綺麗でしたか?蝶のように飛んでいってしまいそうでしたよ。──ああ、『胡蝶の夢』という道家の荘子が書いた説話がありましてね・・・」
 その話は綾奈も知っていた。数ヶ月前に倫理の授業で、美咲から習ったからだ。
 荘子は、自分が蝶になった夢を見たが、目覚めた後に蝶になった自分が本当の自分なのか、蝶ではない荘子という人間が本当の自分なのかがわからなくなったという話だ。
 今では、現実の世界と夢の世界とが区別できない境地のたとえとして使われているようだ。遠回しに莫迦にされている気分で、酷く腹が立った。
「──この、蛆虫が」
 講義が終わり教室を後にする時、山本の脇を通って小声でそう呟いた。

 綾奈は帰りの支度をし、美咲を探しに校内を歩き回っていた。真新しい校舎も、掃除が行き届いていないせいかどこか清潔さに欠けている。
 美咲は教務室にはいないと踏み、一階を散策していると、黒いスーツを着こなす彼女の姿が見えた。
 華奢な倫理教師に向かって走り出すと、見知らぬ女の影が彼女と肩を並べて歩いていることを知った。その女性は、金の髪を背中まで伸ばした、瞳が切れ長の美人だった。二人で何やら談笑しているようで、美咲は口に手を当てて笑っている。
 あれは誰なのだろうか。ただの相談者だとしても、悩んでいるようには見えない。
 恋仲という単語が脳天を刺激する。いや、違う。そんな筈は──。
 綾奈は必死に頭から金髪の女性の姿を消し、歩みを早めた。
 知らぬふりをして通り過ぎようとしたところで、美咲と目が合った。思わず目を逸らし遂には、玄関まで振り返らずに走っていた。
 綾奈は、美咲が僅かに微笑んだことに気が付かなかった。
 帰宅後も頭に靄がかかったように思考が停止していた。毎日欠かさずに行っている自主勉強も、今日はペンを持つことすら億劫だ。参考書を開いただけで嫌になって投げてしまった。
 ──嫉妬。自分はあの女に嫉妬をしているのだろうか。まだ彼女のことを何一つ知らないというのに、もう関係まで疑っている。
 いつまでも二人の仲睦ましげな表情が頭から離れなかった。このまま見ないふりをしていても、自分の心が壊れてしまう。
 綾奈は決死の覚悟で、美咲にメールを送ることにした。もっとも、あの女性との関係を聞き出すわけではない。ただ、まだ彼女が綾奈自身に気を持っているのかが知りたかっただけだ。
「今度の夜、先生のお家にお邪魔してもいいですか?」
 一言一句口に出し、おかしな文章ではないかと散々試行錯誤した結果、単純なこの言葉を送ることにした。何度も躊躇ったが、勢いで力強く送信ボタンを押した。もうかなり夜は遅い。もう彼女は寝ているかもしれない。
 返信が無くても、それはそれでいいと思った。また明日学校で会うことができるのだから。

 綾奈の予想を裏切る形で、すぐに美咲から返信が届いた。たった一文だったが、綾奈は素直に嬉しかった。綾奈は美咲からのメールを何度も読み返し、間違って削除しないように保護をした。この時になって、自分は友人と同じ女で、同じように恋をしているのだと改めて実感した。
 携帯を閉じ、枕元の充電器に差してから、部屋の電気を落としベッドに寝転んだ。
 今日はいい夢を見る。綾奈はそう確信して瞳を閉じた。

「明日の夜九時に、駅前の喫茶店で」

3
 おぞましい悪夢を見、村上元也は血走った眼球を開いた。寝間着は汗でじっとりと濡れ、健康的に焼けた小麦色の肌に張り付いている。
 喉が水分を欲した。狭いシングルベッドから腰を上げて、台所の蛇口をひねる。布団は既に滅茶苦茶に乱れ、床に落下している。
 冷水が火照った手を沈静化させてくれるのが心地よく、ついでに顔も洗った。寝惚け眼がすっかりと覚醒し、これでますます寝付けなくなるのだろう。
 淡い水色のカーテンの隙間から覗く闇。深夜二時の街は、中途半端に欠けた月の光で鈍く照らされている。向かいにある小さな古びたアパートが、滲むように浮き出てくるのが分かった。
 ──悪い夢を見た。いや、正確に云えば絶頂からいきなり恐怖の底に落とされるような感覚を味わった。そう形容するべきなのだろう。ほんの数分前の出来事が蘇ってくる。

 村上は夢の中で、眼を開けた。
 夢を見ているのに、起きていると感じるなどおかしな話ではあるが、事実なのだから仕方がない。村上は、腰にタオルを巻いただけの半裸でシーツに横たわっていた。見慣れたシングルベッドだ。片手には白葡萄のワイン、片腕には見知らぬ女のほっそりとした肩。
 村上は殆ど操られるように、白い女の首筋に接吻を始めた。女は金色の長い髪の毛を片側に流し、熱い吐息を耳に吹きかける。彼女の手は村上の胸元を通り過ぎ、既に膨張を始めた半身へと伸びていった。赤いルージュを塗った全裸の女は、そんな村上をちらりと見て微笑み、黒々とした丘へ顔を埋めた。
 浅ましい声を出して、明かりの灯らぬ天井を見上げ果てた刹那、絶頂と共に陰茎に痛みを感じた。刺すような苦痛に驚愕し、足元で跪く女を見下ろす。
 彼女は淫靡な夢魔──サキュバスではなく、狡猾な悪魔の蛇であった。滑るような美しさは消え、醜い巨大な蛇となった女は赤い舌を出して下衆な表情を浮かべ笑った。

 そこで映像は途切れた。
 苦虫を噛み潰したような顔で、村上は頭を掻き毟る。卑猥な夢を見て、己が高揚していたことに今更ながら恥じらいを感じたからだった。
 村上は、性に関しては興味があるほうではないと思っている。職場内のセクハラを仕事とする高齢の教師達に比べれば、己の性意識など至って通常の思考だ。
 それでも罪悪を感じるのは、隣の部屋で眠る娘がいるからなのだろう。
 村上元也は某国立大学に勤める化学教師だ。見た目は年齢より若く見られる事が多いが、来月で四十八となる。現在は独身だが、バツは二つ付いている。若さ故の過ちから前々妻の子を持ち、養育費を断り育てている。
 娘は、この辺では名の通る私立女子高校に通っており、友人とは仲良くやっているらしい。今年は受験のため外出が減ったが、そこまで熱心に学習しているわけでもないようだ。彼女は時折、父に対する視線が鋭くなるが、どの時代でも起こる現象である。ある程度は仕方が無いことなのだろう。
 最近娘は料理ができるようになったらしく、彼女が早起きした日は、村上が部屋から下りてくる前に朝食が用意されていることが増えた。背中を向けて家事をこなす娘は、手伝いをしない最近の人間たち面白くもなさそうだが、親としては誇らしいことだ。
 家事ができるようになる一方、彼女が嫁に出て行くことを考えると心が痛む。五十近い男が広い家で一人で暮らすなど耐え切れるものではない。婿をとれば解決するのだが、それはまた別だ。

 それにしても、先刻の夢の内容が気になって仕方が無い。本棚から一冊の分厚い本を取り出し、無造作に開く。
 夢に出てきたものや状況を元に、現在の心理状態や近い未来に起こる出来事などを判断する作業のことを一般的には夢占い、心理学的に言うとしたら夢診断だろうか。
  蛇に噛まれる夢には良い意味と悪い意味がある。胸や心臓を噛まれた場合は、突然の激しい恋の訪れだという。 しかし、先刻の場合は悪い意味となるのだろう。胸、心臓以外の場所を噛まれた時には健康を害する場合があるらしい。
 そして、蛇が赤い舌を出す夢は、危険な誘惑があることを警告する警告夢だ。
 フロイトは、夢は無意識の現れであり、無意識の間にある潜在的なもの──性欲や自己顕示欲などだろうか──を加工や圧縮といった仕事を通して意識されたものだと語った。
 簡単に云えば、性欲など表面に現れると自我を崩壊させる恐れがあるものを、意識化されても害がないように修正され、自分たちはそれを夢として見ているのだ。
 勿論、夢診断で本質を知るには夢の前後関係などの情報が必要でもあり、診断に確信が持てるわけではない。残念ながら心理学者にとっては、飽くまでもお遊びの類でしかないのだ。
 見た夢を覚えていることは、ただ眠りが浅く、熟睡ができていないだけなのかもしれない。そう自分に言い聞かせても、村上の気分が晴れることはなかった。

 夢からの警告が、己を安楽へ導く睡眠を確実に削り取っている。汗が蒸発し、背中が粟立った。両腕で自らの身体を抱く。
 生徒にベッドの端でうずくまるこんな姿を見られたとしたら、人気教師から笑い者へと転落するのだろう。そんなことを考えながら布団に潜るも、瞳を閉じることができなかった。
 ──人気教師。
 そう自称することに、最近は違和感を憶えるようになった。この大学に入ったばかりの頃は、教師にも持て囃されていたと感じる。もう自分には魅力などないのだろうか。
 しかし、複数の生徒が己を欲していることは、手に取る様に分かる。皆そうなのだ。女子生徒は村上の本質を見ていない──いや、見ようとしていない。上辺だけで村上を理解し、反吐が出るような噂に勝手に踊らされている。
 先日科学準備室に訪ねてきた生徒はこう言った。
「私を、あなたの特別な生徒にしてください」
 今日下駄箱を覗いたときに見つけた手紙には、こう書いてあった。
「何番目の女でもいいから、あなたのものになりたい」
 自分の欲望だけを語り、有無を言わさぬ物言いに村上は辟易した。身勝手な妄想に付き合わされるのだけは御免だった。
 村上の脳裏には、名前も知らぬ少女が映っていた。彼女が好意を寄せていたことは分かっていたが、気付かぬふりを通していた時に起こった事件だ。

 三ヶ月前のよく晴れた日のことだった。村上は毎日のように、大きな水槽のある化学教室を拠点とし、書類の作成に追われていた。生徒に配布するレジュメは膨大な量になるため、村上は簡潔にまとめられたものとして一から作り直す。
 無駄な情報は省き、生徒の負担を減らす。レジュメ作成においては、他の教師から評判が良かった。その頃には村上が生徒に手を出したという根も葉もない噂話が大学内を闊歩していたため、少しでも教師や、一部の生徒の信頼を築こうと躍起になって考えた素晴らしいアイディアだった。
 皆みるみるうちに成績を伸ばしていったがしかし、村上に対する男子生徒の目は変化することはなかった。
 村上は殆ど諦めていた。幾ら分かりやすい解説をしてやったって、幾らレジュメを工夫してやったって、生徒にはその努力は見えないのだから。
 彼らが村上の努力に気が付いたとしても、敬うどころか、感謝することもないのだろう。彼らは教師が勉強を教えることが当たり前だと思っている。碌に話も聞かず、成績が悪いと教師をなじる。前回よりも点の取りやすい試験を作ってやれば、自らの努力のなさを棚に上げ、平均点で舞い上がる。
 教師も教師だ。表では村上を尊敬する眼差しを向け、裏で酒の肴にされる。生徒の親も、娘息子の成績がふるわないと、無責任な文句を宣う。
 村上はそんな毎日に疲れていた。次の講義に使うレジュメ作成に追われながら、自分の価値を疑う毎日に。
「はーい」
 不意にノックの音がし、村上は気のない返事を返す。他人のことを考えている余裕などなかった。
「先生」
 肩まである黒髪を、眉の上で切り揃えているその生徒には、全く見覚えがなかった。
「どうしたんだ?」
 取り敢えず用事を聞き、その場を取り繕おうとしたが、村上は回転する椅子から無様に転げ落ちてしまった。女に胸を押されたからだ。
「──何をする」
 床に両手を付き脚を投げ出す村上の腹部に、圧迫感があった。生徒が馬乗りになり、こちらを凝視していた。チークの盛られた頬は赤みを増し、黒く囲われた瞳に一筋の欲の光が差し込むのが見えた。
「先生・・・」
「やめなさい」
「私、先生のことが好きなの」
 冷たい手が村上の頬を撫で、下腹部では個性のない少女趣味なスカートが揺れ、村上を誘惑した。
「先生、好き」
 村上は目を閉じながら近付いてくる顔を、己の掌で打ち付けた。彼女は鼻から血を出し放心している。
「僕は君に興味なんてないんだよ」
 そう言い放ち、買ったばかりのスーツについた埃を払う。椅子に座り直すと、黒髪の女は血を流しながら鬼の形相で村上を睨めつけた。
「この野郎、人の心を弄びやがって!」
 彼女はそう叫びながら教室の扉を大きな音を立てて開き、走って出て行った。

 彼女の言葉は今でもはっきりと覚えている。その日の夜は、自分は無自覚に生徒を誑かしているのかを真剣に考えたものだった。次の日から更に風当たりが強くなった。特に男子生徒は僕を厭い、口も聞かない。殆どの女子生徒は相変わらず村上に付きまとってくるが、あの生徒の話を聞き、彼女たちは自分に訪れるチャンスを信じているのだろうか。
 女はいつもこうだ。
 どこから湧いてくるのか知らぬ大きな夢を抱き、正論を放つと、掌を返すように豹変する。狂暴になる。淑女の仮面を装備した蛇女。
 まるで自分が手に入れられなかった他人の玩具を壊すかのように、村上の心臓を踏み躙り去ってゆく。
 そう、女は蛇だ。
 知恵があり狡猾で──愚かだ。
 それから村上は、生徒や教師を憎むようになっていた。顔面に笑顔を貼り付け接するが、帰宅した途端その仮面を剥ぎ取り、素の「村上元也」へ戻る。仕事にやり甲斐も感じなくなり、頭の悪い生徒をおちょくることが唯一の楽しみになった。例で云えば、一年の石川綾奈だろう。
 石川綾奈は、村上に明らかな憎悪を抱く生徒だ。講義に来ても話を聞くどころか興味も示さない。質問をすれば生返事をするだけで、向上心もない。派手な格好をしている割に、寡黙で笑顔を見せることもない淡白な女──村上の授業の間だけなのかもしれないのだが。
 石川に何故、あんな目で見られなくてはならないのかが疑問で、腹立たしかった。彼女は自分の何に対して気に食わないのだろう。彼女もあの噂を信じて軽蔑する者のひとりなのだろうか。いつか彼女に──いや、全ての生徒に話を聞かなくてはならない。

 無理矢理目を閉じたのは、夢の内容を思い出したからだった。蛇の姿をした女の笑った顔が、頭から離れないのだ。自分を嗤う生徒や、今まで退けてきた女子生徒の姿が重なり、今にも悲鳴を上げてしまいそうだった。
 あの蛇は──憎しみで形作られたあの悪魔は、生徒の恨みで動いている人形だったのではないか。そう思うと、夢に出てきたのも納得できる。
 ──夢からの警告。これからはより一層、生徒たちに気を付けなければならないだろう。

 村上元也は、カーテンを開け放ったまま寝たことを後悔していた。じりじりと照る太陽に射殺される感覚。秋の太陽光線はここまで破壊力があるものなのだろうか。
 強かな朝日が目に染みた。まるで、屈強な精神を持つ九重美咲のようで、少し嬉しくなった。
 そう、村上は同じ大学に勤める九重に想いを寄せていた。同業者への尊敬でもあり、一人の女性としての愛情。
 彼女からとめどなく流れ出る魅力は、他人のありとあらゆる隙間に入り込んでくる。それは心の空虚であったり、絶望や羨望、欲望であったりと、姿形を問わない。彼女に影響され、彼女に侵食されてゆくことで、己の安寧秩序は保たれる。
 九重は、村上を拒まない珍しい教師だった。勿論愛も無ければ興味もなく、無関心なだけなのだろう。しかし、それだけでも嬉しかった。
 黒いスーツに身を包む目付きの鋭い彼女は、世界の総てを知り尽くしているような表情で教壇に立つ。彼女から放たれる言霊は、聞く者を圧倒する。俗世に溢れ呑み込まれる中、彼女は「個」を主張するのだ。
 なんとか九重に近付こうと苦労した時期もあった。昼食を共にすることができた時には、叫び出したくなる想いだった。

 今目の前には、九重美咲が背筋を伸ばして座っていた。視線はデスクのノートパソコンに向かい、手は忙しなくキーボードを叩いている。村上が声を掛けると、手を止めてこちらを向いた。
「何ですか?」
「おはようございます、九重先生」
 とびきりの笑顔を向けて挨拶する。彼女に向ける笑顔はいつも素の自分だった。
「もう十時ですよ。ここまで来て何の用ですか。あなたのデスクは化学準備室でしょう」
「先生に挨拶しに来ただけだよ」
 おどけた声で肩を竦めて見せるも、九重は表情を変えない。
「おはようございます、村上先生。──これで満足ですか?」
 無感情な目でこちらを見据える彼女からは、彼女の意思を感じ取ることができなかった。教壇に立つ倫理教師としての九重は光輝いているというのに、教室から離れた途端に人が変わったように大人しくなる。
「相変わらず冷たいんだから。じゃあ、また」
 そそくさと教務室を抜け出し、スライド式の扉を閉める。他の教師の刺すような視線を浴び、気分が悪くなった。
 まだ村上に対する風評被害は大きい。以前よりはましになったものの、好機の目で見てくる生徒は絶えない。一階の端にある、日の当たらない化学準備室に向かい、人混みの廊下を歩く。すれ違い様に悪態をつく生徒もいれば、身体をよけてあるく者もいる。明るく挨拶を飛ばす人間もいれば、腕に図々しく手を絡ます生徒もいる。
 実に様々な感情が停滞する空間だ。村上はそう思った。

 昼前の一コマを終え、学食へ向かっていると、向こう側から石川綾奈と九重美咲が歩いてきた。石川の方は九重に何やら身振り手振りで話を伝えており、対する九重の方は頷きながら微笑を浮かべている。
 目の前にいた村上に気が付くと、石川は見るからに表情を曇らせ、目を合わせない。九重も対して興味を示さず、二人はそのまま通り過ぎていった。
 九重に接近したつもりでいた自分が素晴らしく滑稽な家鴨に思えた。彼女は遠い存在だ。手を伸ばしても届くことはないだろう。
 自分が、彼女の注目を集める石川を毛嫌いするのは、そのせいなのかもしれない。
 そして、彼女が自分を厭う理由が俄かに分かった気がした。

 人が犇き合う食堂で、ひとり定食を食べていると、隣に恋い焦がれている倫理教師が座った。
「ここ、空いてる?」
 朝と対して変わらない声で彼女は村上に声を掛けた。
「もう座っているじゃないですか」
 苦笑いで彼女の目を見ると、目を合わせてきて戸惑った。光のない瞳が揺れる。
「そうね」
 長い沈黙が流れた。雑音が響く食堂の中、ここだけが音を無くした世界のようだ。
「ここに先生が来るの、初めて見ましたよ」
 それは本当のことだった。安い学食には毎日通っているが、彼女の姿を見かけたことは一度としてない。
「まさか先生、人ゴミ嫌いなんですか?」
 悪戯心でそう聞くと、彼女はあっさりと頷いた。
「そんなところね」
「──じゃあ、僕と夜に二人でどうですか?」
 わざとらしく九重の顎をくいっと引くと、ばちんと腕に平手が飛んだ。その音に周りがざわめくも、彼女は気に留めなかった。
「それが教師の言葉かしら」
 少し苛立った声で村上を見やる。
「本気です」
「しつこいのね」
 九重は溜め息をつき、こちらから目を逸らしてメニューを見始めた。嫌なことがあると、すぐに溜め息をつくのが彼女の癖だった。
「オッケーが出るまで食い下がりませんよ」
「じゃあ、天ぷら蕎麦奢って」
 もう一度溜め息を付いて見せた彼女の瞳に、僅かな光が宿った。

 午後十一時、高層マンションから見える景色は宝石箱を覗いているかのように輝いていた。しかしそれは純粋な光ではなく、淫靡な煙を纏い蠱惑的に光るネオン。綺麗に敷かれた白いシーツの上に座り、村上はぼんやりと地上を見下ろしていた。
 これが毎日、彼女が見ている風景なのだろう。月は雲に隠れ、欲の色だけが垣間見えるこのマンションで、何を思い生活しているのだろうか。
 この二十三階の一室はまるで、彼女の立つ教壇を表しているかのようだった。他を圧倒させる力を持つ彼女が、一番魅力的に発光することのできる場所だ。
 まだ湿った髪を掻き揚げ、サイズの合わない清潔そうなバスローブの紐を結び直す。
 想い人である九重は、今シャワーを浴びている。彼女が風呂から上がれば、美味な食事をとり、己が座るこのベッドの上で欲を重ねるのだ。
 胸が高鳴った。高嶺の花を手に入れた優越感に浸る。かっちりとした黒装束を纏う彼女が、あられもない姿で乱れる姿を想像するだけで、下半身は期待と欲で膨らんだ。
 この時には娘の顔など浮かんでくることもなく、ただ煩悩を貪るためだけの生物と化していた。
 淫らな妄想に耽っていると、いつの間にか九重が背後に立っていた。濡れた髪をタオルで押さえつけ、村上と同じバスローブを着ていた。村上を光の無い瞳で見下ろし、口を開く。
「ご飯、食べる?」
「何があるんだい?」
 彼女の手料理という期待を込めて、声を弾ませながら問う。
「カップラーメンしかないけれど」
 上品な含み笑いで、九重はそう答えた。

 白いローテーブルで麺を啜りながら、村上は九重美咲にひっきりなしに質問を浴びせかけた。彼女は迷惑そうに顔を顰め、カップのスープを飲み、嫌々質問に答えていた。
 食後の珈琲を淹れながら、ふと気になったことを問い掛けてみる。
「どうして僕の誘いにのったんだい?」
 天ぷら蕎麦一杯で男に身体を預けるなど、よく考えてみれば可笑しな話だ。それともこの手の誘いの対処には慣れているのだろうか。
「気になる?」
 うんと濃く淹れたブラックの珈琲を熱そうに啜りながら、上目遣いで質問を返してきた。コーヒーカップから立ち上がる湯気からほのかに上質な豆の香りがした。
「そりゃあ、気になるさ」
 ブラックコーヒーが苦手な村上は、黒い水面に角砂糖を三つ放り込み、それが溶けるのを待っていた。頃合いを見計らい、細い金色のスプーンでかき混ぜる。甘党の自分には珈琲は向かない。
「ブラック、嫌い?」
「珈琲自体、そんな好きじゃあないかな」
 話を変えた彼女に少し苛立ちながらも、素直に答えてやる。
「そう、砂糖を入れずにそのまま飲むのが一番美味しいのに」
 熱い液体を冷ますために、彼女も左手でスプーンを回す。右手で頬杖をつき、村上の目を見つめている。
「僕には分からない感覚だね」
 溶け切った砂糖を含んだ珈琲を口に入れると、苦味と甘みが反発し合うような不思議な味がした。まるで真逆の教師生活を送る自分たちのようだと思い、苦笑する。
「砂糖なんて入れて、美味しい?」
「美味しいかどうかは別として、砂糖を入れないと飲めないだけだよ」
「そう」
 やっと彼女から笑みが溢れ、村上はその顔を見てから自分が異様に昂ぶっていることに気が付いた。
 反対側に座る彼女を抱き竦め、砂糖の溶けた茶色い液体が付着した唇をあてがう。九重の身体からは甘い柑橘系の香りがし、柔らかな唇からは嫌いな苦味を感じた。しかしその苦味も今は気にならず、寧ろ心地のよいものに思えた。
 彼女をベッドへと運び、バスローブを脱がしてゆく。豊かな胸が露わになるも、九重は隠すことをしなかった。己の身体に余程自信があるのだろう。確かに彼女の身体は、見事な曲線美で描かれている。
 手で九重の身体を触れると、風呂から上がったばかりであるはずなのに、氷のように冷たかった。着替えずにそのままここで食事をとっていたことで、湯冷めをしてしまったのだろうか。それでも、この冷たさは異常だった。
 しかし、人間は一度昂ぶるとそんなことも気にならなくなってくるものだ。大胆に彼女を抱き、接吻をする。彼女から舌を入れてくることはなかったが、拒まれないことに安堵した。
 彼女の脚を開き、上から被さる。膨張を遂げた汚らわしい欲の塊が、彼女の中に侵入してゆく。動く度に快が襲ってくるが、快楽に抗い腰を振り続ける。
 彼女は息を弾ませるだけで、嬌声をあげることもなかった。ただ受け入れ、果てるのを待つ。そんな印象を受けた。

 悪夢は、目を開いたままでも見ることができる。村上がそう感じたのは、まさにこの瞬間があったからであった。今、目の前で繰り広げられている情事こそ悪夢なのではないだろうか。
 愛の絡まない性交は、果たして何を理由に営まれるのだろう。愛という名の欲情で、愛という名の報酬を買う。一方的に訪れる快楽は、女の身体を擦り減らすと同時に、己の心も削ってゆく。自尊心を壊し、醜態を剥き出しにする獣に、美という言葉は似合わない。
 彼女は、それを伝えたかったのだろうか。以前彼女が教壇で唱えた言葉が思い出される。
「快楽と戒律は共存しなければならない」
 身体を蝕む快楽と、後を引く罪悪は表裏一体で、どちらかが顔を出せば片方が姿を隠す。しかし表を向いたコインを裏返せば必ず逆の彫刻が成されているように、片側を犠牲にしてまで己を立たせようとする。
 悦を望むなら罪悪を隠蔽し、罪悪に侵されたときに悦を忘却できるだけの器がなければ、陶器の心はひび割れてしまう。
 その二つを兼ね備えることが可能な存在は、感情の欠落した悪魔だけなのだ。

 冷たい肌をした彼女に、更に激しく己の腰を打ちつける。独りよがりの愛でもいいと、村上は思っていた。
 彼女の中に出してしまおうかと考えたが必死に堪え、彼女から身体を離す。
 彼女は一瞬不思議そうな顔をしたが、直ぐに微笑を浮かべ、村上の腿の間に顔を埋める。痺れる快楽と同時に、背中に冷たいものを感じた。
 村上は自身の身体を──心を、下で跪く女に喰い尽くされるのではないかと戦慄した。己を嗤う、あの蛇のように。

第二章

1
 彼が果てた後は、すぐにこの部屋から追い出した。
 美咲はシャワーで丹念に身体を洗い、湯の張った浴槽で身を清めた。彼の体液がこの身体に侵入してきたらと思うと、悍ましくて仕方がない。
 筋肉質の硬い肌が、己の身体に重なった時には、身震いが止まらなかった。快楽を得るどころか、更に不快感は強まった。これなら村上を部屋に上げるべきではなかったと後悔する。
 石川綾奈の顔が浮かぶ。彼女との待ち合わせの時間から既に三時間が経過している。今更行ったとしても、もう遅いだろう。
 明日彼女には謝罪をしなければならない。
 風呂から上がりワインを開ける。まだ若い綾奈の身体を想起する。白くきめ細やかな肌──柔らかな女の肌だから、美咲は安心できるのだと知った。自分が触れていいのは、女の魂のみなのだと改めて思う。
 嫌いなものをひとつ問われたなら、迷いなく男を選ぶ。欲に狂い欲に縋り、欲に死ぬ愚かな生き物だ。
 愛などと抜かす口を針と糸で縫合してやりたいくらいに、その生物を軽蔑している。そんな自分にも腹が立った。
 エックスにワイが加わる。
 ただそれだけで、美しい人間は下劣な獣に成り下がる。
 男をそう形容すれば、世界中の人間から痛烈な批判が来るだろう。しかし、この考えを覆すことのできる人間は果たしているのだろうか。
 こんなことを云ったとて、同性愛者の戯言だと一笑されて終わりだ。だから全て、内に秘めて考えるのをやめる。
 男は皆同じ──。
 村上元也も「男」として模範的な人間だ。
 あたかも自分が口説き落としたように傲慢に振る舞い、美咲を襲った。こちらが利用したことに気付かず、裸で腰を振り続ける惨めさ…。美咲を見る彼の表情から、これから彼が自分に関わってくることはないだろうと踏んだ。
 こちら側からしても、もう口も聞きたくない。

 同性愛を隠してまで、男と交わる必要はあるのか?
 当時も現在でも、他人に自分の心の中を公にしないで普通の生活を送っていることに変わりはない。
 しかし、美咲が同性愛を隠すのは他人からの偏見を恐れているわけではない。増してや、同性愛を全面的に肯定しているわけでもないし、異性愛を否定しているわけでもない。
 偏見など、どの世界どの時代にも付いてまわる。今更そんなものに怯えていたら、街も歩けない。
 この感情を隠すのは、自分が自分らしく生きるために自然に身につけた、一種の保身だ。
 女が女を好きでも、男が男を好きでも、何も悪いことではない。今時小学生でも習う簡単な問題だ。
 見ていて不快になる人間がいるのなら、あちらを退かそうとせず、自ら立ち去ればわだかまりもない。そうやって陰に身を潜めることで、同性愛者は初めて安楽を得る。
 ゲイバーの類にも、同じようなことが云えるだろう。自分たちの拠点を置くことで、部外者をその空間から切り離そうとしている。
 ただ、同性愛者は何かと不便なことが多い。大抵の場合自慰行為で性欲を発散させるが、それでも満たされない時が少なからずある。抑えきれない欲の捌け口として、異性を利用することもある。
 似たような境遇の人間は、探せばどこにでもいる。今やネットが普及し、同性愛者同士の出会いも増えていると聞く。それでもそれに頼ろうとしないのは、どこか自分の理想主義的な思想が影響しているのだろう。運命という言葉に、強く憧れを抱くようになった。
 街で擦れ違う女性たちの中から、たった一人の女──芹香に似た人間を捜す。
 そんなことは、無謀な挑戦に思えた。しかしそうでもしなければ、死んだ彼女との距離が埋まらないような気がしたのだ。
 死人に口無し。この言葉が美咲をずるずると過去に引きずり込む。芹香が既に、自分のことを忘れ去られていたのだとしたら、未練なく新たな恋に向かうことができる。美咲はそう思う。
 芹香が死んでから、人生が狂った。いや、彼女がいなければ──。
 彼女がいなければ、同性愛に目覚めることはなかったのではないか──。
 芹香の存在がなければ恋愛において人を愛することに躊躇う必要などなかったように思えてならない。
 中学を去り、この大学へ来るまで、まともな恋愛などして来なかった。幾らかの過ちを犯したのも総て、彼女に恋い焦がれた所為だと思っていた時期もある。
 ──芹香を深く愛しているのと同時に、深く憎んでいるのだ。

 幾ら芹香を盾に自分を守ろうと、村上元也と交わった事実は消せない。淫らな行為をなかった事にできるのなら、どれだけ自分の心が軽くなるだろう。自分を圧迫する忌まわしい錘と云っても過言ではない。
 自分の罪悪の記憶を少しでも和らげようと、今夜も睡眠薬を口に放り込む。
 ──ハルシオン。
 美咲が長年愛用している睡眠導入剤だ。睡眠薬としての効果が高い。その薬は、世間には良い印象を持たれていない。それもその筈で、この薬を悪用して強姦紛いの事件を起こす人間が後を絶たないからだ。
 薬を飲んだものは意識が朦朧とし、良からぬことをされても抵抗しない。そして、翌日には何も憶えていない。そんな代物だ。
 だが、ハルシオンで女が思い通りになるわけではない。すぐに身体を委ねるということは、女自身に少ながらずセックス願望が有るのだ。──勿論、絶対的に薬を投与した者が悪いのだが。
 しかし、ハルシオンを悪用する者がいるからと、これを非難するのは間違いだ。美咲は、いつもそう思っている。
 この薬を否定するとしたら、アルコールも包丁も自動車も、殆どが取締り対象となる。用は用い方なのだ。
 決められた用量なら、何十年使っても煙草やアルコールより影響は少ない。一応ダウン系ドラッグで、酒と共に使うと強力になり、死に至るケースもあるらしいのだが。
 数々の事件を以って、ハルシオンは、処方する側も躊躇する存在となってしまった。
 特に精神科は薬に詳しいためここ数年悪用を嫌い、ハルシオンをなかなか処方しなくなった。
 狙い目は心療内科だ。担当医は本来内科で、精神科は謂わば専門外。製薬メーカーのセールス押しに弱く、よく処方する傾向にある。そこに赴き、寝付きが悪いことを強調すればハルシオンを出してくれる。
 美咲は錠剤を舌で転がす。薬特有の苦味が伝わってくる。水でそれを流し混み、ベッドに身を投げる。
 あんな小さな錠剤が必要不可欠な存在になるなど、美咲は思ってもみなかった。
 シーツの海が美咲を飲み込み、やがて安らかな眠りに誘った。

 本日二時限目の倫理を終え、教壇から降りようと参考書を整えていると、何者かが肩を叩いた。
 相変わらず派手な出で立ちをした、渡辺綾奈だった。その表情は暗く、瞼辺りは泣き腫らしたように膨らんでいる。目の下の隈も酷い。
「先生、酷いじゃないですか」
 今にも泣きそうな震える声で、彼女は美咲の目を見て云う。
 そんな綾奈の声に、周囲の視線がこちらに集まってきた。美咲は綾奈の肩を抱き、空き教室に連れてゆく。
「どうして昨日来てくれなかったんですか?」
 堰を切ったように涙を流し始める。授業中もその件で気が気でなかったのだろう。それでも涙を我慢していられたのは、彼女の強さだろうか。
「ごめんなさいね。用事が入っちゃって」
「用事なら連絡をくれればいいことじゃないですか!あの喫茶店が閉店するまでずっと待ってました」
 声を荒げた彼女。大量の涙でメイクが崩れている。
「携帯を開きながら待っていたんですよ?」
「──無責任だったわ。赦してちょうだい」
 美咲は目を伏せながら云う。
「約束をすっぽかされたことを謝って欲しいわけじゃないんです!ただ、先生に何かあったんじゃないかって心配で・・・」
 しゃくり上げながら言葉を放つ彼女が、急に立派な人間に思えてくる。美咲は、己の軽率さと身勝手さを恥じることしかできなかった。
「綾奈さん・・・ごめんね」
 彼女の頭を軽く撫でてやり、胸に引き寄せた。この際、涙でスーツが濡れるのは厭うまい。綾奈が泣き止むまで、美咲は抱き締めていた。
 予鈴が鳴った。あと五分で次の授業が始まる。綾奈は分からないが、美咲には次も授業があった。
「綾奈さん、そろそろ時間よ」
 そう云った時には、綾奈はいつもの笑顔に戻っていた。美咲はそんな彼女を見て、心から誇りに思った。
 彼女のように純粋で、美しい心を持つ人間など、そういないのだから。
「じゃあ先生、またね」
 綾奈は、美咲以外誰もいない教室の扉に手をかける。
「あ、待って」
 美咲は彼女を呼び止め、スーツのポケットを探る。綾奈は首を傾げながらこちらを見つめている。
「──はい」
 差し出した右手を見て、綾奈は曖昧な表情を見せた。手に乗った銀の鍵の存在に当惑しているのだろう。
「これ、何ですか?」
 そんな彼女が、美咲の予想していた言葉を口にする。
「私の家の合鍵」
「え?」
 沈んだ表情から一変、驚きの声を上げ、笑顔になる。
「いいんですか?私なんかが貰って」
「勿論。あなたがいつでも来ていいようにね」
 そう伝え、美咲はこれから授業が行われる教室に早足で向かった。

 今日三時間目の倫理の授業だ。この大学は、一つの科目をまとめて行うことが多い。そのため、全ての授業で同じ生徒が受けるということも日常茶飯事だ。
 何時間も喋るのは苦心するが、大体が顔見知りの生徒で、授業の効率はとても良いと云える。寧ろ、初めて見る顔が多数存在する授業の時には、どこから教えたらいいのかの見極めが難しい。
 生徒の号令に合わせて礼をし、皆が座ったところで教室を見渡す。一番前には陣取ったように綾奈が座り、こちらに笑顔を向けている。美咲は恥じらいからか、彼女から目を逸らし、生徒に参考書を開くように命じた。
 綾奈の視線を感じながら流れる時間は、不思議と心地のよいものだった。気が付けば授業のチャイムが鳴り、人の疎らな教室は綾奈と美咲だけになっていた。
 かつんかつんと、ヒールの音が近付き、美咲の前で止まった。
「先生、隣人愛ってところがよく分かりませんでした」
 屈託のない笑顔で問う彼女。話をきちんと聞くところは評価できるが、頭に入ってないのでは意味がないだろう。美咲は心の中で溜め息をつく。
「もうお昼なのに、行かなくていいの?」
 綾奈はいつも、友人と弁当を食べている筈だった。しかし今日は、その友達の姿は見えない。
「今日は友達は休みで。一緒に食べませんか?聞きたいこともありますし」
 成る程、と納得する。
 彼女と共に昼食をとることができるなら、どんな幼稚な質問が来ようが大歓迎だ。
「じゃあ、ここにご飯を持ってきなさい」
「はーい」
 美咲に背中を向け、黒衣の天使は去ってゆく。
 ──天使。彼女には天使という言葉がよく似合う。突然目の前に現れた、純粋無垢の黒い天使。
 彼女を初めて見た時に抱いたイメージは、少し個性的な娘──そのくらいの印象だった。彼女に接してゆく度、己と同じ匂いを感じるようになった。
 そして──彼女から打ち明けられた真実。同性愛者の苦悩は、自分が一番よく分かっているつもりだった。彼女の悩みを聞きながら、彼女の話に自分自身を投影していった。
 美咲は綾奈に同性愛を告白し、彼女を抱いた。彼女とこうして惹かれ合ったのは、当然のことだと思った。そして、綾奈と偶然に出逢えたことに感謝した。
「先生、何ぼうっとしてるの?」
 目の前で天使──綾奈が、いつの間に戻ってきたのか、美咲の顔を覗き込んでいた。黒のカラーコンタクトが、彼女の大きな目を更に強調している。
「考え事よ」
 そう言い、私は鞄からコンビニのサンドウィッチを取り出す。
「毎日コンビニの食べてるんですか?」
 封を切る美咲に、綾奈は問いかける。
「そうね。大体コンビニで済ますかしら」
 それを大きく頬張る。加工された玉子の味が口に広がった。
 そんな美咲を見ながら、綾奈は弁当を開く。色とりどりの具材が綺麗だ。冷凍食品の類いは見つからない。これを全て彼女が作ったのだと思うと、今だに家事のできない自分が情けなくなる。
「駄目ですよそんなんじゃ!いつか倒れても知りませんからね」
「綾奈ちゃんが作ってくれれば、私も健康でいられるかしら?」
 冗談のつもりで云ったのだが、彼女はそれを本気にしたらしい。ミニトマトを掴んでいた箸を止め、俄かに赤面した。
「それって、私に弁当を作って欲しいってことですか?」
 ちらちらと美咲の表情を伺う彼女は、どれだけ正直者なのだろうか。ついに冗談で云ったのだとは言えない雰囲気になってしまった。
 美咲の返事を待たずに、彼女は言葉を続ける。
「明日から毎日先生のご飯作って来ますね!期待しててください」
「でも・・・迷惑じゃないの?」
「いいえ。大好きな九重先生のお弁当を作れるなんて光栄です」
 美咲は、綾奈の積極性に狼狽した。しかし、折角彼女が作る気になったのだから、無下に断るわけにもいかない。ここはお言葉に甘えてみることにしよう。美咲はそう思った。
「お願い・・・しようかしら」
「へへ。頑張ります!」
「──ところで、隣人愛のことだったわよね」
「ああ・・・はい。それは、ご飯を食べてからゆっくりと聞かせていただきます」
 そう云うと彼女は、食事のスピードを上げ始めた。彼女の弁当を見ていると、卵料理が特に得意そうだった。端にひっそりとある金平牛蒡も美味しそうだが、美しく整った玉子焼きには敵わない。
「気になります?」
「え?」
「さっきからずっとお弁当見てる」
 美咲は慌てて弁当から目を離すと、綾奈はけらけらと笑い出した。
「先生、あーん」
 その声に顔を上げると、綾奈が箸をこちらに向けていた。ピンクの可愛らしい箸には、黄色い玉子焼きが挟まれている。
「センセー早く!」
 彼女に急かされ、仕方なく口を開ける。生徒に間抜けな口を開けるなど、初めてのことだった。おそらくこれが最初で最後になるのだろう。
「──美味しい」
 口に放り込まれた玉子焼きを咀嚼すると、出汁の味が卵と絡み、美味だった。我が家は砂糖を入れていたが、出汁も悪くはない。
「でしょう!私の自信作です」
 えっへんと両腕を組み、誇らしげに笑う綾奈。美咲は、明日からの昼食が少し楽しみになった。
「──隣人愛とは、キリスト教の大切な教えね。平等な愛のことよ」
「平等?」
「そう。簡単に云えばね。神様が綾奈を愛してくれているのだから、綾奈も隣の人をそのように愛しなさい。そういうことよ」
「隣人・・・隣人は中年おじさんだから絶対愛せない・・・無理」
「──もう。じゃあ、あなたの隣に座った人を愛してあげなさい」
 しんとする教室に、二人の笑い声が響いた。

 午後九時。帰り支度を終え、大学の外に停めておいた青いカプチーノに乗り込もうとした時に、化学教師──村上元也の声が聞こえた。
「九重さん、昨夜はすみませんでした」
 忌々しい声に、気分が沈殿した。
「何の用ですか?もうあなたとは──」
「違います。ただ、これ」
 村上の手には、何やら小さな瓶が握られていた。よく見るとそれは、美咲のマンションに無数にある睡眠薬だった。
「どうしてこれをあなたが持っているんですか?」
 ぎろりと睨むと、彼は怖気付いたように声をひそめた。
「そんなに大声で怒らないでくださいよ。まだ人が残っているんですから」
 確かに自分たちの他にも、車に乗り込もうとしている教師たちが、数人見受けられた。美咲は意味深な表情で二人を見つめる老齢の英語教師に、見えないように舌を出した。養護教諭の弦巻文恵も、こちらを見て微笑んでいる。
「──乗って」
 美咲は村上を無理矢理カプチーノの後部座席に乗せ、勢い良くアクセルを踏む。星の見えない夜には、風を切って走ることしか楽しみがない。
 街灯だらけの国道を暫く走っていると、後ろでおとなしく座っていた村上元也が堪り兼ねたのか遂に口を開いた。
「どこに行くつもりだ」
 威勢良く放ったその声には、どこか怯えが篭っていることに、美咲は気が付いていた。
「まあいいじゃない。夜のデートしましょうよ」
 そう云うと彼は途端に黙ってしまった。目には下賤な光を宿している。
 車を走らせること三十分。自宅から近いお洒落な喫茶店に車を停めた。赤い屋根が目印の「ノワール」は、まだ営業中だ。赤い屋根なのに「黒」という店の名前が興味深いこの店は、先日綾奈と待ち合わせ──私がその約束を果たすことはなかったのだが──をした場所だった。
 木製の扉を開くと、耳に心地よいジャズが流れている。淹れたての珈琲の香りが鼻腔を擽った。
「あら、いらっしゃい。ん?隣にいるのは──」
「仕事仲間です。あ、いつものエスプレッソ二つ」
 美咲は早足で店の中を歩き、いつもの席──カウンターの右端だ──に座る。後ろからついてきた村上は、美咲の左隣に腰を下ろした。
 午後十時近くになっても客が途絶えない「ノワール」には固定客がついている。店を見回すと見知った顔ばかりが目に入る。勿論、美咲もその常連の一人なのだが。
「ああ・・・そうだったわね、村上さんだったかしら」
 店のオーナーである唐橋由美子がすぐにエスプレッソを二つ運んできた。美咲はすぐにそれを口に運ぶ。他とは違う苦味が美味だ。
「──どうも」
 村上はコートをカウンターの椅子に掛け、唐橋に会釈をしてエスプレッソを啜る。どうやら彼にも味は満足していただけたらしい。
 暫くジャズに酔いしれていると、村上が唐突に口火を切った。
「なんでこんなところまで来る必要があったんだ」
 唐橋への配慮か、彼の声は自然と囁き声に変わっている。
「唐橋さん、すみません。彼との話があるので席を移動させてもらいます」
 洗い物をするオーナーにそう云い、二人は近くに人のいないテーブルについた。それと同時に、村上が突っかかってくる。
「なんでここまで来たんだ」
「ここの珈琲は美味しいの。──それより私の質問に答えて。どうして私に纏わり付いてくるの」
 美咲の高圧的な態度に辟易したのか、彼はエスプレッソに視線を落とす。
「纏わり付くって・・・虫じゃないんだから」
「まあいいじゃない、なんでも。ねぇ、どうして私に関わってくるの」
「それはただの興味本位さ。絶世の美人だしね」
「ふうん。それだけ」
「ああ。君を探ろうなんざ思ってもいないさ」
 どうやらそれは本心のようである。ただ美咲を女として見ているだけ。彼からはそんな印象を受ける。
「それなら結構。で、駐車場の時の話の続きなんだけど」
「そうだ、そんな話をしていたな。君がいきなり僕を連れ出したから忘れていたよ」
 急に話題を変えたが、村上は気にすることもなく返事をした。美咲の苦手な会話のキャッチボールは、彼のお陰でどうやら上手くゆきそうだ。
「何故あなたが、私のそれを持っているの?」
 彼の鞄にしまわれているであろう小瓶を指して、そう言葉を放つ。
「あ、これは僕のだよ」
 黒い革製の鞄から瓶が出てきた。その中には、小さな字でハルシオンと書かれた銀の包装が小分けにして入っている。
「え?」
 美咲は困惑した。美咲の部屋から村上が盗み出してきたものだとすっかり思い込んでいたからだった。
「君の部屋にも似たようなものが枕元に転がってたから、少し気になって。君もハルシオンを使っていたなんてね」
「そんなのどうでもいいじゃない」
 話すのが面倒になり、気のない返事をする。
「まあね。で、僕にする話はそれだけ?」
「ええ」
「生憎僕にはまだ、君に聞かなきゃならないことがあるんだ」
「何?」
 正直、彼の話を聞いているのが面倒で仕方がなかった。村上をここに連れてきたのは間違いだったと今更後悔する。美味しいエスプレッソも冷めつつあるし、久しぶりに唐橋さんと世間話もしたい。
 自分本位なセックスしか出来ない男は、自分本位な話しか出来ない。美咲はそう確信した。従って、自分の話ばかりしたがる男にはろくでもない者ばかりだということだろう。気付けば美咲は、目の前に座った美形の男──村上元也を睨み付けていた。
「そんな睨まなくていいだろ。──九重先生は、石川綾奈と仲がいいらしいな」
 美咲の目に委縮した彼は、そう言葉を続ける。綾奈の名が出てきたため、少し美咲は声のトーンを上げる。
 後から彼女に対する自分の反応を、村上に嗅ぎつけられたのではないかと心配したが、それは杞憂に終わった。
 彼に自分たちの関係は気付かれていないようで、胸を撫で下ろす。
「それがどうしたの?」
「──僕さ、彼女に嫌われているみたいなんだけど」
 彼は、石川綾奈から受けた仕打ちを語った。そのどれも陰湿なもので、あの純粋な綾奈が本当にやっていることなのかは検討がつかなかった。
「──はあ?」
 意味がわからない、そういった意味を込めて彼に悪態をつく。
「僕に対する態度があからさまに異常なんだよ」
「そんなこと、私に云われてもね」
 彼の表情からはしかし、冗談抜きで深刻なものが窺える。どうやら綾奈が彼を良く思っていないのは確からしい。そう認めざるを得ないものが、そこにはあった。
「君の手にかかれば簡単に彼女を宥められるだろう?お願いだよ」
 確かに彼女を宥めすかそうと思えば簡単だ。頭を撫でてやればすぐに期限を治す女だ。少しきつく言ってやれば、彼への嫌がらせはたちまちなくなるだろう。
 だがしかし───。
 教師にとって、生徒に嫌われるということは死活問題だ。だが、そんな重大なことを平気でぺらぺらと他人に話し、更に解決を他人に頼んでくるやり方に、無性に腹が立った。
「そんなことで悩んでいたの、あなたは」
 村上の目を見ながら、そう呟いた。エスプレッソはついに冷めきってしまった。苦味だけが目立つそれを一気に飲み干し、彼に向かって「莫迦じゃないの」と言い放つ。
「自分の力で解決すればいいじゃない」
 美咲は呆れたようにそう言い捨て、伝票を掴み二人分の会計を済ませてから車を自宅へ走らせた。

 ベッドの上で安物の白ワインを飲みながら、テレビの電源を入れる。ドロドロとした恋愛ドラマも、自虐で笑いを取るコメディ番組も興味がなかった。美咲はリモコンで次々とチャンネルを変える。
 不意に、村上元也の言葉が頭に飛び込んでくる。彼が綾奈に嫌われた理由は、一体何だろう。少し内気だが、来るもの拒まずの性格をした彼女は、基本的に人の好き嫌いは無いと聞く。
 もしかしたら、と美咲はひとつの可能性を考える。──あり得る。美咲に盲目な彼女なら、決してあり得ないことではない。
 石川綾奈が過度の愛情から、美咲に近付いてくる人間を悉く退けているとしたら?
 美咲にしつこく言い寄る彼の姿は、彼女にとっては良いものではなかった筈だ。美咲との距離が近い分、そういったことも間近で見ることになってしまうのだから──。
 綾奈の目の前で村上と接していたとして、それがどれだけ彼女のストレスになるのかは計り知れない。
 彼女の中に蔓延る不安の芽を潰してやらなければいけない。昨晩村上と結んだ関係に気が付かれたら、それこそ綾奈は何をしでかすか分からないのだから。
 これから、せめて綾奈の目の前でだけでも、彼とは縁を切っておく必要がありそうだ。今綾奈を失えば、己の破滅は目に見えている。まだ彼女が必要だ。
 小さな恋人として、そして──都合のいい玩具として。

 リモコンをベッドに無造作に置くと、丁度求めていたニュース番組が始まった。化粧のノリがあまり良くない黒髪の女キャスターは、淡々と世界に起こった事件を告げる。
 地方で起きたバスジャック、強盗、終いには他国のミサイル問題──。
 美咲にはそのどれも興味のない情報だったが、ニュースからは世界の流れを知ることができるために、時間があればそれらを見ている。
 都市化が進むにあたって、人間の心も変化してきている。それはもてなしの心の忘却だったり、常識の欠如だったりと多岐に渡る。
 文化が進化してゆくに連れ、人間は退化している。そう云っても差し支えのない社会なのだ。
 画面に視線を戻すと、女キャスターの元に何やら新たなニュースが舞い降りたようだ。早口で喋る姿が少し可笑しかった。
 ワインを口に含み、自身が起こした殺人事件を振り返る。始めの頃の殺人には、朧な記憶しか残っていない。相次ぐ殺人事件に、マスコミが少し騒いだくらいだった。
 そして斎藤芽衣の件も、たった数日でニュースから姿を消した。これは、書面にも云えることで、大きく新聞に載ったのは最初の一日だけで、あとは全くだ。女子の誘拐、殺人など年がら年中起こっていることなのだから、他のニュースに掻き消されても仕方がないだろう。
 テレビを消し、部屋の照明も全て落とす。街のネオンは変わらずに淫靡な色を浮かべる。そんな夜の世界から、一人の女が消えた。
 斎藤芽衣に誘われた男たちは、今日も繁華街を通り、次々に絡みつく腕を振り落としてゆくのだろう。芽衣が死んだなど誰も気がつかない。そのくらい彼女は、あの華やかで汚らしい世界の中でも、端の端の人間でしかなかったと云える。
 家族という名の居場所はきちんと存在しているはずなのに、自分勝手にそこから抜け出したために命を落とした。何と儚い人生なのだろう。
 脆弱な女に手をかける自分は、冷血な悪魔だ。

戒烙

戒烙

「快楽と戒律は共存しなければならない」 独特な思想を持つと有名な九重美咲は、某国立大学の倫理教師だ。生徒や職員に尊敬の眼差しを向けられる彼女には、反倫理的な裏の顔があった。今は亡き恋人──相沢芹香が忘れられず、彼女の面影を呈した女性たちと関係を結ぶ。しかしどれも本当に求めている愛とはかけ離れていることに絶望し、女を残忍な手口で処分してゆく。そしてまた、新たな犠牲者が生まれようとしていた。

  • 小説
  • 中編
  • ミステリー
  • ホラー
  • 成人向け
  • 強い暴力的表現
  • 強い性的表現
  • 強い反社会的表現
更新日
登録日
2014-03-22

CC BY-ND
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  1. 序章
  2. 第一章
  3. 第二章