般若の面 下

愛するならば、面などで装わず愛して欲しかった


一、

 振り返り、その言葉を待ち望んでいた様に思う。
「月が帰ったのか」
「へい」
 黒に金の牙の面の中、掘りこまれた洞窟を柱が支え松明が照らす中を男を横目で見下ろし言い、頷いた。再び、先は闇の掘りこまれた通路を歩いていく。
背後で一瞬、竹の小波が、闇の天を撫でかき乱す様にゆれ続けては彼の心を癒した。腰に掛かる刀の方向を変え、奥へと歩いていく。
 涼しい風はあちらの竹の林から緩く、そして洞窟の中には静かに流れ込みまるで線でも見える様に奥へ向かっていく。

弐、

 女は錬次郎の事を思い返すと、あの場へ向かうことを躊躇った。
唄を謡い、舞ったあの夜……
 月はおぼろげな影を行灯の灯火の影の下に下にと落とし、草木の濃い緑と土と石畳をくっきり陰影付けた。
 揺らめく蝋燭の火の中で、女は扇子を持ち舞い音も無く回っては小首を傾げ扇子をかざす。屋内は漆喰壁に灰色の影を広げ灯火分が白掛かる黄で広がり、夜の闇空を、そして輝く星を、天の川を鮮明に広げ抱いては天空に不動の大河を壮大にえがかせ、四角の開口部に、その中に月に照らされる瓦の灰色の規則正しい波の中にいる彼は、空間を、うつむき見つめる。
 その横顔が、あたしの舞を見つめ視線を上げる彼の目は……、彼は……。
あたしは舞い、静かに袂を引き寄せて、彼はあたしの心を凌駕させる。
宙の天の川のように。
 扇でゆっくり振り煽ぎ、炊いた鹿香の香りがそよと乗り、香りに線が付くかの様に透明に寂光の中をあたしの視線を奪う。その横目に映るあなたは、あたしの心をなんと見ているだろう……


参、

かがり火や
面の陰影
鋭き心
月の落としむ花の涙や


 旦那様は鬼だ。
迫力もち舞うあの立ち振る舞い姿は心の奥の闇まで侵食させ現世の空間の満ちる闇にまでつながせる。凌駕する。太鼓の音、かがり火、掛け声、笛の音、尺八、濃密な空気を揺らすは不気味な重い風と震撼させるは、貴方様の声、鋭い面。
 顔は見えずとも分かっている。静かな殺気、静かな愛情、身内の舞いの時の、外面は流れるように静寂と悪の心に迫力の猛々しさを乗せ、心は彼は内にしのばせ牙を隠し、覗かせはしない静かなる威圧。
 凶器と静寂の間で激しく炎の音を舞わせては、終焉など迎えずにいい、そう思わせ魅了する。
 日常の激しい気質など覗かせもせず……。


四、

「今宵は美酒に舌鼓を打つには良い夜だ」
 児按は頭の旦那の勺に酒を酌み肩膝に腕を乗せ言った。悪辣とした顔なのはいなめない。ここにいる連中は。ある男は黒に橙の縞のたくる裾から覗く足は鹿の様に骨ばって伸びひげた笑いで他の男から掛け値を貰い、壁にもたれ丹前を絞めずに羽織る男泰宇(たいう)は色っぽい目で男を見てはその男に反吐を吐かれている。
 各々の場で花札を打ち酒を酌み交わし洞窟の岩天井、丸く開いた天の穴から月が顔を、中の様子を見るかのように覗き込み上がっている。松明が煌々と照らしつけ……
 てんてんと音を立てながら澄み切った水が狭くたまり落ちてそれに炎が揺らめき映って一匹だけ入っている寡黙の羅ヤの小魚が泳いでいる。
稀に男達が水を飲みに上の滴るしずくを飲んで行ったり、雑魚寝から立ち上がり厠と間違えるもんだから小魚はたまったものではなく羅ヤを憎みたくもなった。
 今はいつもの夜の時間。
 男の煙管から立ち上る白い煙は、お月の流れ目に相まって彼女は妖艶に微笑み男は頭を掻き笑んで彼女が岩に腕を組み腰掛ける下へ座った。
 頭は立ち上がり、藍染の帯が覗き、黒、橙に赤縦縞着流しの上の黒の羽織のなで肩は滑らかで、赤珊瑚の簪の高島田は下にうなじを伸びさせる。
「あんた等、明日はいよいよ大詰めで一気に襲撃かけるよ」
 言い勇み、鋭い眼光の黒目であくどく笑う奴らをぐるりと見据えた。
お月はあちらの壁際、開く穴の台に腰を下ろし読み物をしている二十二の齢になった一汰を見て、向き直った。広く続く彼の眼下の森は一定の高さでどこまでも続き、これもまた一定の青白い月光を浴び森林の海を群青色にしている。凪いだ海だ。
 お月は旦那の所に来て彼の前に桐の箱を持ってこさせた。
 それを受け取ると彼女は蓋をそっと、開けた。
「お前様、良い出来で素晴らしい面だ。あたしはねえ、これを生涯手放さないだろうね」
 旦那には襲撃時の威圧感があり、輩には勢いがある。お月は盗賊頭の家系に生まれたが父は既に島流しにされ、参謀であったお月の旦那が党を引き連れた。
 旦那様は激こうとし、二面性を持ち冷徹だ。
「ほう。いい面だ。古い面はいらんな」
 一部、壁の岩を均した場に集められた面の中の、一つをとりそれを肘掛にする岩台へ置くと、頭の旦那は匕首の頭で父の面を打ち割った。
「………」
 お月はそれを感情も無い開いた紅の口で見て、流し目を旦那に向けた時には艶っぽい横目に微笑み、深く、「ええ」と言った。
「あたしとお前様の時代は来たのさ」
 ようやくねえ……と。
 面を打ち割り破片と粉が舞った瞬間立ち上がり短刀を抜き殺気だったのが弟の一汰だったが、お月の一瞬で収めた怒り憎しみに倣って三人男が横になり胡坐を掻きながら横目で肩越しの視線をくれ、一汰は普段の冷静に戻って顔を睨みそむけた。
 旦那の逞しい腕に細い手を置きしなだれる眼を一度地面に流し一汰へ向けまた戻した。
「明日の襲撃の準備にかかりな」
 そう言い、お月は旦那に微笑み二人は立ち上がってその場から出て行った。それに続くは一汰と羅ヤに鈴と児按に泰宇。
 洞窟通路から出て不気味にそよめく竹の向こうの向こうは何を潜めているのか、今宵は空の明るさとは相反し、色の通る青い先は見られない。闇だ。
 矢切を岩に受け、羅ヤは鋭く見て面の中から他の五つの面に一瞥くれた。
 一家の者の矢文だ。
 紫絹の頭巾で顔を隠す頭は視線だけで頷き、旦那と共に馬に乗り込み旦那は一気に駆けさせた。
 悪鬼の面、女の面、翁の面、化け物の面はそれぞれが辺りを見回し散って行った。
 烏が黒い影を三羽ほど笹を舞わせ天を羽と声で切り裂き、笹の中へと消えた。

伍、

 原を馬で走らせて行き町へ戻って屋敷へ向かう。
月下草原、駆け巡る。
 お月は旦那の腹に手を掛けて、その広い背に頬を乗せ、足をそろえ乗るのを横に広がる、違うわ、あたし達が草原の一部に他ならない。
広大な中の一粒。
 目を閉じ、彼の心情と直結するよう体温を感じ取ろうと、心の中だけで必死になった。でも分かっている。この男の心の中は情など無い。

六、

 屋敷に戻り、出迎えられる中を弟子達が笑顔でお月に微笑んだ。
「よくご無事で帰られました。長旅で疲れていましょう」

 障子を開けて閉める。
 旦那の集めているさまざまな面が、お月のともした鯨脂の灯に揺れる。
陰影を着け、この世の物ともまたつかないものを、夫々が小さいながらも人の世界を覆い尽くそうとするのか、恐怖に津々と突き落とし身を浸らせようとする。ふと目を背けば静けさが横たわっているだけなのに、幻想を抱かせる。
「お前は、江戸で何かをしていたようだな」
「なんの事?」
 女らしい女に戻りお月は鏡の前、いきなり背後から掴まれた手首に旦那の顔を見つめた。
「何を恐れているんです。あたくしは何の負い目もございません」
 切るようにお月を放し片膝を付いていたが、身体を背け立ち上がり奥へと歩いて行った。
「お前の心は冷めた色をしている」
「………」
 お月は崩した足を正座に戻して意外な事を言った旦那の背を見た。
初めてそんな、全く柄にも無く少年の様な背でそういう言葉を出すのだ。
江戸での事を知ったのか、妬いているのか、たくらみがあるのか、いつものように危険な目を向け怒ることも無く言う。
 お月は立ち上がってそっと彼の背後に行き、その広い肩に片手を置き左手で彼の手の甲に手を重ねた。
「どうしたの? 淋しかったの?」
 背に頬をつけそっと訊ねる。
 そんなはずは無いじゃないのと可笑しそうに口元を穏やかに微笑ませる。
きっと、こういう自分の行為も旦那は確信をつけるだろう。
誰か他の男の影を持ち、似つかわしくなくまるで観音如来のようにそっと抱きついてくるなど。
「お前が何処の男と仲を良くいようと」
「そのほうがいい? そう」
 お月は離れて意地悪っぽく微笑み身を返して座った。
旦那は管を巻き座って灰に火がくすぶるのを煙管に火をつけた。
「馬鹿な会話はやめろ」
 言い捨てると旦那は立ち上がり、月の前まで来て彼女を間近でまっすぐ見下ろした。彼女は壁に掛けられる数多の面を見つめていた。

七、

三光尉 翁 姥 般若 生成 真蛇 小面 深井 曲見 若女 孫次郎 

増女 蝉丸 十六 猩々 二十余慈童 平太 俊寛 小飛出 弱法師 

大天神 顰 黒髭 小べし見 花瘤悪尉 獅子口 雷 不動 延命冠者

                黒般若

狐 白蔵主 乙 邯鄲男  山姥 父尉  天神   逆髪  喝食  福の神

皺尉 笑尉  孝子  悪尉べし見  万媚 痩男  長霊べし見 黒色尉

釈迦   顰   釣眼  老女   石王尉   泥眼  鷲鼻悪尉 橋姫 

俊寛 小獅子  痩女  猿飛出  中将  河津  一角仙人  蛇 大童子

八、

 能面は、醜い物も、美しい物も、芸術的に様々な全ての面を見せてくる。人の内面を、形に表して分からせてくる。恐ろしい物ではないか…
 薄闇の中、全てが今は寂しげな顔に見せた。白の肌などは夜闇に包まれると群青色になる。障子の影が写りおうとつをはっきりさせては、更に何かの感情をお面は表して。
 月は黒い瞳を流れるように旦那に向けた。
「江戸で、男といたようだな」
「………」
 同じ表情で彼の鋭い目を見上げたまま、艶のままの表情の無い瞳で見つめ、錬次郎にしたようには寄り添わなかった。
 身をそっと返して畳の広がる青銀の月明かりに、障子の影と月の影が伸びた。
一瞬を置き頬を払われ転がって、月は畳に片手を、頬に甲を当て、畳の縁を俯き見つめた。
「旦那様は、いつも独占したがる」
 彼女を引き起こし怒りを含んだ目を向け、その目から月は顔を反らした。
「勝手は許さない。お前の父親が死ねば党は俺の物だ。もうお前達一族の時代など当に過ぎた。わきまえないようならどうなるか分かっているだろう」
打ち割られた父の面。
粉となって月の着流しの立腕に跳ね返った。
 鋭かった顔は、割られ、悲しく啼いて見えた。ひびが涙に見えた。差した松明の緋色が尚も怒りに見え、鋭い口は叫んで見えた……
 月は旦那を見上げ、掴まれる手首をそのままに、くすりと微笑した。
その時の顔が、彼は好きだった。
「あたくしのこの顔を消して、面をお被せになる? 皮膚と剥れなくして男に会いに行かせるつもりね……この、畜生は」
 激しく殴られることは無かった。軽蔑の月のまなざしが一瞬閉じられ構えたのを、手首を離して旦那は面の前に来た。
月はその面を品定める旦那の背をずっと睨むように見つめていた。
 彼の、姿が好き、身内事だけに魅せるあの猛々しい気性のかがり火能。
殺気を含み、混沌と、


九、

 月の心は月光の中殺気を含み……
「お前様には、あたしの心など分かりはしないわ。いくら面で心を探ろうとも、探らせない」
 旦那は女の心が憎しみで般若にもなりきれず蛇顔に留まった『真蛇』を取りはしなかった。若女をさ迷い、月明かりの差し込んだ面に手を掛けた。
 美しい『万媚』の面を手に取り彼女の顔に当てた。
「いいや。お前の心は弟を想う逆髪の心のようだ」
「………」
 彼女をそっと抱き寄せ、しっかり背を抱いた。
「………」
 月光が、向こうの奥の壁を、何の色といおうか、染め上げて……
彼の心は移ろいやすい。一つどころでも、お月には気をすぐ変える様に見える。彼が面を集める作業を手伝う毎に、そうなれとでも言うのだろうか。
あたしの心は美しいだけの万媚に留まらず、逆髪では美しすぎるというのに……、月は彼の背を抱き返していた。
 今に、この男の死の行く末は定める。襲撃時、父を裏切った男を葬るから、目を閉じて考えを闇に落とした。
 能面の様にはあたしを手に入れさせはしないわ……。

拾、

旦那様は鬼。
旦那様は恐ろしい愛情。
旦那様はあたくしだけの人だ。
でも、時々彼を月は殺したくなった。
如実な殺気。
 襲撃の時に、月は一汰と共に、そして我等が父の従順な者達だった羅ヤに鈴と児按に泰宇。彼らと共に旦那様を殺すのだ。
「………」
 月はぼやける灯火の中を、月影を見つめた。華奢などではない。影は確固とした形を持ち、広がっている。月は影の差す畳の縁から目を反らして立ち上がった。
 多くの面を見つめて、手に取った。
それを嵌め、面の中から眠る彼を見下ろし障子を開け静かにその場を後にした。
 夜気は随分と涼しくなっている。もう、秋も暮れではないだろうか。
虫の音も夏から秋の虫が、土の中へと鎮んで行く時期が近づく。
彼女は屋敷を後にし、空の月が全てを照らす中を集合の場所へ向かった。
 闇の中に、まだ齢も十五の鈴がたたずみ、月にまるで幽霊の様に静かに手招きした。袂を片手で押さえ、「こちらへ」と言う。
月は鈴のなんとも優しげな小面を見つめ、しばらくして静かに頷き二人は闇へと染みこむ様に消えて行った。
「明日の実行の時を、待ち望んでおりました」
 鈴は声を小さくそう言って、急ぎ足のまま月は頷いた。
「今まで悪かったねえ。不憫な思いをあんたにもさせちまったんだ。でもね、鈴。もうあの男の時代は終わる」
 鈴は大きく頷いた。
「旦那が目覚めて集合場所に来るまでにまだ時間はある。さっさと落ち合おう」
 二人は能面の表情が一定のままの顔で一度屋敷を振り向いた。
一気に駆け出し、恐怖を拭い去る様に前方だけを見て走り続けた。


拾一、

 鬱蒼と生い茂る木々は鮮明に闇と群青を分けていた。その内に月は消え……
闇は落ちた。
蝋燭に火を灯し、野太い音が響いては彼等を照らす。
 暗い中ではどうも不気味な面々の揃う中、誰もが割られた面を見下ろし、ずっと押し黙っていた。
「島流しがあいつのせいだって分かれば、親父もきっと飛び起きてでも抜け出す」
 木々に囲まれる中、石の台を見つめてその上の割れた面をなぞり、一汰は言った。
「泳げたなら良かったんだけどねえ……」
 しくしくと、泣きながら袂で泰宇は涙をぬぐった。月は叱咤を飛ばす。
「男がめそめそするでないよ」
 そう背の高い横の彼を睨み見上げ、
「ホントに泳げないんだから……」
 と、心なしかぶつぶつと父の面を見ながら言った。
今、父を儒羅子(じゅらし)が迎えに行っている。役人に見つかれば即刻終りだ。うまく行くはず。
 月は面々の揃う中を睨むように一巡り見回して言った。
「いいかい。あんた達。明日、この時間に動き出す党に混じって八四屋大家に襲撃を開始するよ。あんた等は其々がいつもの様に五人ずつ引き連れ各部屋を回って引き込む。あたしはいつもみたいに一汰と旦那様と共に母屋に向かって袋小路に引き入れ、始末する。簡単な事だ。八四屋大家はその後焼き払ったあとあたし達はおさらばだ」
 不気味な風が蝋燭の火を千切れる雲の様に揺らしては、消して行った。
月は濃密な闇が、他の吸う息や擦れ合う衣で気配を感じる以外全てが落ちた中を、俯き面のある筈の場に手を当てた。
 面の中で涙が伝った。
旦那様はあたしの愛する人。
旦那様は父を裏切った人。
旦那様は恨むべき人…。
 月の手に他の手が重なり、彼女はハッとして顔を上げた。豆の多い無骨な手。一汰だと分かった。彼も涙している事だろう。彼に父の党を奪われて。でも、月の様には彼への愛情は無いはずだ。
 躊躇は無い。愛情に生きたいだけ。甘えたいだけのひと時。でも、彼に甘さは無いのだ。
 怒りに燃える一汰の手を彼女は優しく包んで、その指が涙で濡れていたかもしれなかったが、そのまま元気付けるように軽く叩いた。
 蝋燭は灯され明かりが灯り、顔を上げた月は驚き瞬きした。
一汰は地に膝を折り月に握られる手を、台の上にそのまま握り締め、しゃがんだ態勢で顔を覆い真っ赤に泣いていたからだ……。
 月は大きな罪悪感を感じて彼の所に来てその肩を抱いた。
「あんたにはこんな酷な事は頼めやしない、いいかい一汰。あんたはあたし等が帰ってくるのを待っているんだよ。もしも帰って来なかったなら…」
 返り討ち必至だとは、心半ば感じてもいる。
「江戸にお行き。尋ねる人がいるんだよ」
 その人の名は鈴にだけは教えてあった。
 一汰は首をぶんぶん振って涙まみれの顔を上げた。乱雑に長いぼさぼさの髪が月そっくりの顔立ちを覗かせて姉を見た。
「俺は絶対にあいつを討つ。親父を儒羅子と共に、こいつ等と共に迎える。姉貴もそうだろう。まだ生きてる。島流しなんか一生食らわせるなんて俺は許さない。それでもうやめるんだ。足洗うんだ、もう親父もいい歳して身体にだって……。これ以上好きにさせない」
 黒い雲が流れて月が顔を現した。輝く月光が彼等を照らした。
彼らは押し黙り、日の目を浴びられる日が来るはずも無い事を分かってもいながらも望んだ。
 月光よりも強い陽の光。でも闇の中、黄金の光の方が強く感じて、誰もが目を伏せ頷いた。
「必ず奴等を討とう」

拾弐、

 男は月が消えている事を見て、背後の面を見た。
「………」
 また何か奴等と邪計してでもいるのだろう。
彼は障子を開け縁側を歩く前に、眼前に広がる広大な庭園を見渡した。雲が流れに流れて広大な天を明らかにさせた。池には、星が数多に瞬いている。
 月は美しく頭をもたげて星を従える。
 彼は静かに歩き出し、母屋を離れ舞台のある方向へと進んで行った。
 濃密な闇の中を見回し、ひっそりと舞台にも、そしてその場にも誰もいない事を見てから小さくうなずいた。
闇を松明で消すと、一気にひんやりとした色味の全てを消し去り、「動」をあらわにした。
明かりを支柱にかけると一度か二度揺れて、一定の動きに定めたようだ。
彼は舞台を見つめると、底意地悪く口端を微笑ませた。
 今奴等が島流しになどさせた頭を脱獄させようとしている事は分かっていた。そのまま生かして置いてなるものか。打ち首を免れたなど、運が良かったかお上の目が狂っていた。いつまでもあの老いぼれに生きていてもらっては、残党共の士気も弱まらずに邪魔な考えも消えないままだ。あんな手も出せなんだ場所になど手厚く隔離され、老後を過ごすなど。


拾参、

 日の空けた中を、月は屋敷へ帰ることを留まっていた。
旦那様は昨夜、落ち合う場へは現れずに終わった。
 儒羅子の使いからの矢文を一度広げて、それを焼き払わねばと辺りを見回した。朝は煌き美しさを与える。
 月は眩しく目を細め、ほんのりと葉の先が黄色く色づいてきた木々を見渡した。もう秋の朝は錬次郎さんと過ごした日々とは違う美しさに様変わりを始めていた。
どの季節も美しい。
月はかかとを返し、歩き出した。
いっそこのまま、消えてしまいたい。朝露の中……
 お面の様に、光の中へ、恨みも消して、貴方の胸の中だけに、それには、まだやるべき事が残っている。
「月」
 彼女は跳ねるように矢文の手を握り締め、朝聞くには鋭い声に旦那を振り向いた。
 綺麗な月の瞳に光が乱反射しては細めた。
「お前様。おはようございます…」
 そう、ひっそりと頭を傾け下げて、地面から彼の顔を見た。
夜に抜けた事を、頬を打っては来なかった。人目があるかもしれないからだろうか。穏やかに抑える口調はこのままどこかに流してしまいたかった。
 今日は旦那様が昼時に舞う日。
最後の舞台にはふさわしくない演目だ。
彼女の思惑を乗せ瞳は光とともに流れた。
「早く支度に取り掛かれ」
「ただいま」
 彼女が横を通り際、矢文を引き抜かれた。集合場所と時刻の下に記号。暗号でもある。父親の現状を伝える唯一の文字。
一瞬、彼を短刀を抜き殺してしまいそうになった。
旦那は彼女の手にそれを握らせ身を返していつもの様に大股でずんずんと歩いて行った。
 水色に溶け込む白の月はくっきりと空から彼女を見下ろした。
美しい能面の様に馨しいおもてを上げて彼の背を追う。
まるで白い月はくすくすと笑うように水色の中消えて行った。

拾四、

 迫力ある鼓動を響かせ、大河を思い描かせる曲が舞うように天を駆け巡る。
竹笛高くなり、威風持ち飛ぶ。鬼の面が赤い髪に揺れ空間をぞろりぞろりと睨み、尺八が踊るのを太鼓が小気味よく唸る。
青の空はどこまでも青く、一汰はじっと、男の舞う姿を睨むように観ていた。
一瞬、月に視線を飛ばすと、彼女がやはり旦那をじっとみつめていたから視線を戻した。
だんっと両足が踏み鳴らされ、勢い良く小槌と共に唱が謡われる。
 よお、 宵は明けても 心は冷めぬ
 常の白月 世の行いも
 見れば知りても 知らぬ振りをして 
 はい、 青き空にも平等に昇る
 
 されど知り尽くしても云わず 
 されど赤髪は云わずとも知る
 千の魂消え果てて、 そら
 一の命を生かすと云うか
ぎょろつく鬼の瞳は真理を突いて、扇子を掲げて平行に流す。先の月の美しさは、たまさかの美か、心を表しての美か、計り知れないわけでは無い。
鬼は男の心を捨て僧侶になりきれずに女を追っては、死んで行った男の魂。
修行の闇の中林で女の亡霊を追いかけて、崖を落ちて鬼となり蘇っては、女を想う哀しき鬼。
こんな姿ではもう逢いにも行けず、他の僧侶に悪霊として日々、魔よけをされては逃れての繰り返し、心が洗われるまでを待てというのか男は鬼の姿で闇も消えた青の空、夜も照らしさえしなかった昼の白い月を見上げて謡う。
 されどいわずと知りても云わず
 他の影からいずるは若人
 今際の影からいずるは若人
 夜の影に潜むは我よ
鬼はそのまま山奥へと消えていく。
鬼はそのまま山奥へ……
月は彼のその背を見つめ、一汰の視線に気付いて目元を戻した。
ふと、彼もこうやって消えてくれれば殺さずとも済むものを、そうにはとどまらないのだから、困ったものだ。

拾伍、

賊は集結し、一様に様々な能面をその顔に取り付けた。
竹はざわざわと不気味な風と共に音を立て、闇の存在を分からせてくる。
面の中から、頭の旦那は党の男達に目配せし、ひげた笑いを男達は浮かべた。
「元頭が帰った暁には、俺等で盛大に祝いましょうや。お月頭」
頭は組んでいた腕をそのままに顔を半身を振り向かせ、洞窟入り口の松明から男達を上目で見回し、短刀を抜いてそれを水平にかざした。
それに銀の月光が鋭く差し、彼女の黒い瞳と共に光った。
「ああ。そうさ。お前たち、いいかい。今宵の仕事は分かっちゃいると思うが、島流しなんぞにされた先代頭の代から離れて三の年が明けた頃。成功させてたわむけるよ」
そう強い眼光で言い、彼女も新しい般若の面を、鈴に渡され嵌めた。
お前様……、
顔に当て、そして目を閉じ開いた。
ざわざわと、さわさわ葉が擦れ合い闇は静寂だと分からせてくる。
お前様、あたくしは錬次郎さんの下へ行く事を選んだ女。
お前様、あたくしはお前様の最後に嵌めた万媚の面など、ふさわしくは無い女。
分かっていましょうね、お前様は、あたくしだけの人だ。
泰宇は飛び跳ねて同世代の男の後ろに飛びついたのを、その男は嫌そうに払った。
「ひい、先代頭!」
その泰宇を払った男はそう言い、月と一汰は目を丸くした。
男は殺気を持ち月の父親を見据え、男達はどよめいた。
闇を背後に月の父は今にも崩れそうな白髪の髪を結い上げてはいるが、やはり鈍く鋭い眼光は、背が小さいながらも確固とした脅威を放った。
「おとっちゃん」
月は儒羅子の姿を面の中探すが、あの忍者はどの面かは月にも分からず、不気味に多くの能面が揃っては違う表情はしていても、心情はどうやら隠し覆い切れない様子だ。
月の旦那は殺気を隠して、一歩前へ進み出た。
「どうやら勝手え、やらかしてるようじゃあねえか、え?路来也。おめえ、おれの娘を何の為に使っていやがる」
月は父の前に出て旦那が一気に、いつもの気性に戻りかけたのを抑えた。
このところ、自分が京を離れていたせいか気を鎮めていたものを刺激されたんじゃあ事がやりずらいじゃないか。
右に先代頭からの残党が立ち、左に現頭の旦那が引き連れた男達が立ち、半ば睨みあう状態で空の月を中心に、お月は一度目を伏せ、父と旦那双方の睨みあう間で彼等の胸部に手を当て抑えていたのを、きっと言った。
「どうしたんだい?今日は祝いの日じゃないの。仲間が全て揃ったんだからねえ。ここは一発大きくかますよ」
そう、静かに微笑み視線を這わせ言い、父を宥める様に一汰は彼の腕を持った。
父は肩越しにぎろりと見て、それでも汚れたその顔は、一汰を見ると和らぎ何度か頷き前を向き直った。
「今から向かうは今まででも一番に大きな獲物だ。さあ、取り掛かるよ!」
彼等は一斉に馬に飛び乗り、勢い良く駆け出して行った。
疾走して行き、月は旦那の馬の背を見て、父と共に乗る儒羅子の馬を振り返り、月光の下向き直ると掛け声を掛け走らせて行った。
一気に先頭に立ち、原を行く。
月光が般若を照らし、女の心を浮き立たせた。


拾六、

銀の光と血が舞って、影と灰光の中、音も無く激しく倒れた。
賭博をする男達は女の肩を放り、巻き起こった騒ぎに障子を蹴り開け暗闇に目を凝らした。
各々の抜刀した刀に影からの面が映ったと同時に、血が舞ってはばったばったと倒れて行った。
勢い良く姿勢を低く押し込み下段から斬り込み、羅ヤの豪刀が切り裂く。
女達は叫び逃げては毒矢にやられていき、そして音も無く倒れて行った。
叫ぶうちに、死も分からずうちに。
羅ヤは背を伸ばし振り返り、面を嵌め腰を低く構え、伸ばそうとした男達を見下ろした。
男達が羅ヤを見上げた瞬間、鮮血が散って一振りした頃には羅ヤはその場から消えていた。
児按は廊下に逃げ走って行く男達を、敵も味方も交えて切り付け出したから男達は驚いた。出鱈目に斬っているわけじゃない。確実に狙っているのだ。
頭の旦那に指示されていた男達は、鈴と先代頭を背から斬りつけようとしたのを儒羅子が化けていた男が鉄杭を男達の額に突き立てた。
月は旦那と一汰と共に母屋へ進み他二人の男を連れて障子を開け進み出た。
主人が逃げ惑い、侍達が取り囲むのを旦那が声を上げ一気に斬りつけていく。
闇に火花が舞い、一汰は壁に両足を付け軽業の様に飛びすさっては主人を斬り付け地に落ちる前、天井高くの位置から旦那が一汰へ上段の構えで鮮血も舞い散らぬ内から斬りつけようとしたのを、月が短刀を旦那に構えたが背後の男達に斬りつけるので精一杯だった。
「一汰!」
月は叫び、面の中からでも分かる旦那の畜生な猛り笑いを聞き旦那の背から、短刀を突き立てた。
「………」
一汰はすとんと畳に膝を着き顔を上げ、月の面が落ちて、真っ白い雪の様な姉の肌に涙が光って落ちた面に旦那の血がぽつ、ぽつと毀れおちたのを見た。
「あんた……、」
搾り出すような枯れた声で月は言い、旦那はぎこちなく刀を落として背後の彼女を見た。
黒に金の目の中、旦那の目が揺らぎ、妻を見つめた。
そのまま、体を崩して倒れこんだ。
一瞬、万媚より美しい月の真っ白な肌に差した月光が、涙に見えた。花の芳しい頬に、あの頬に涙など流れるわけもないのに……。
「つき」
旦那は面が取れて、そのまま息絶えた。
月は短刀を下げ、ただただ足袋の先の畳の縁を見つめて泣いていた。
「行こう、行こう!もう児按が火を放つ頃だ!!」
月は動かず首をぶんぶん振った。一汰がした様に。
「お願いだ!!早く!」
一汰は面を投げ捨て俯いたままの月の両腕を持ってぐらぐら揺らした。合図の高笛が二度響いた。仰ぎ見て、一汰は月に怒鳴った。
「江戸に行くんだろう!!こんな盗賊なんかもうやめて女らしく生きたいんだろう!!」
月は目を見開いて一汰を見た。
「姉貴の気持ちは分かってた!路来也にはもうこれ以上姉貴に手を上げさせないしもう出来ない。行こう!」
そう、手を引いて走って行った。
月は縁側に一度乗り出したのを、その手を払ってつまずく様に戻っては膝を着いた。
自分の般若の面を拾い、手を掛ける旦那の背の、死んだ横顔を見下ろし見つめ……、
炎が庭の向こうから燃え広がって赤く照らした。
一汰は焦ってそちらを腕をかざし見て姉を振り返った。
月は旦那の頬に自分の頬を重ね目を閉じて、涙が流れ移ったその唇に口付けを寄せた。
「さよなら、あたしの旦那様」
そう掠れた高い声で言い、月は一汰の方へ走りより、赤い炎の渦巻く前に闇と緋の間を逃げ惑った。
炎から逃れるように、その緋色は、旦那様の最期の舞の、赤い顔した鬼に見えたから、巨大な旦那様という鬼の面から逃れるように、必死で屋敷を後にして、馬に飛び乗り駆けだした。
七頭の馬が駆け抜けて、月光を浴びて流れ出た。
もう、全てを終りにする。
もう、全てを。
炎の林に消え果てて。

零、

女は輝く河川敷、眩しさに目を細めながら血の真っ赤にこびり付いた短刀を見つめ、それには銀の光が太陽よりも眩しく差していた。
野の花の咲く土手に座り、旦那様から、契りを交わす前に送られた美しい鼈甲を髪から外してそれに重ねた。
赤い刀に唇を寄せ、瞳を開き離しては鼈甲は赤を彩った。
羅ヤも児按も国を出て、泰宇は喜んで江戸への道を月と共にすると言い、先に使いの鈴を江戸にやらせて、お月は女より相当支度に長い泰宇を、可笑しそうに心中笑いながら待っていた。
父と一汰は母の墓のある里へと帰った。
月は鼈甲に唇を寄せ、立ち上がっては河を見渡し、眩しく光が均一に差している。
日の目を浴びる日が来ようとは。
鼈甲の手を下げたまま、しっかり手に握り、微かに開く血の赤の唇を、そのままにずっと光を見つめていた……。
「旦那様……、旦那様……、あたくしは」
彼女の瞳から涙ではない、頬に差す水面が光り、しばらくして……
「……旦那様」
本物の涙が、伝って、滑り落ちた。
あたくしは……お前様を愛しておりました
月は、自らの腹に刀を突き立てた。
目をうっすら、閉じた。
あの人は地獄へ、もう一方はいずこへ……?
地上に残るか、月と共に召されるか、錬次郎さん、貴方様はお月をどうお思いだったでしょうか。
旦那様をあたしは愛し、あたしを旦那様は本当は愛して……。
魂だけでも遠くへ、錬次郎さんを思って、届けと願い、そのまま草野に倒れこんだ。

舞を、貴方様の前でもう一度舞を、貴方の舞う姿を一度は見たかった

心、

「ふおあああ!おわあああ!」
泰宇は泣いて、月は何度も腹を押さえて謝った。これはおきることの出来る状態ではない。
床に寝込んで三日目にして目を覚まし、泰宇の顔が飛び込んできて泣き声で目を覚ましたのだ。
泰宇はすでに唇に紅も塗って、どおらんも塗り完璧という装いだったのを、倒れた月を見つけて長く掛かった荷も放り投げて駆け寄ったのだ。
目覚めたらもう次は安心し過ぎて泣き止まなかった。
「本当に悪かったねえ、泰宇。きっと、般若の心の生き残りさ。もう全て終わったんだ。断ち切ったんだよ。あの一突きしちまった事で昔のあたしは死んだのさ。あんな事して本当に悪かったねえ。泰宇」
「おあをおおお!ほああああ!」
泣き止まないので、そのまま宥めて泣かせておいた。三日三晩、泣かせ続けてしまったようで、ざんざんの髪をいつも頭のてっぺんだけ適当に結んで他は緩く長垂らしている泰宇の髪には、枯葉だとか若草だとかが絡み合っていた。
「ほらもう泣くで無いよ。あたしがこれじゃあそのままぽっくりいっちまったようじゃないか!」
もっと激しく泰宇は泣くと、そのまま激しく泣いた事でようやく涙を枯らしてくれたらしかった。
「そのまま、見捨てずにいてくれてありがとうね。泰宇。あんたを、大切に思うよ」
泰宇は洟をぶんぶんと嗅ぎながらこくこく頷いて、月の肩をうんうん頷きながらぽんぽん叩いた。
月は微笑み、その手に手を重ねて軽く叩いた。
月の表情は既に穏やかになり、憑き物が取れたかのように微笑んでいた。
能面では現せない、生きた顔をしていた。


≪完≫

般若の面 下

般若の面 下

愛するならば、面などで装わず愛して欲しかった

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  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-03-22

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