般若の心 上
般若の心 2001,08,10
夏
丸い月が
山の稜線を抱いて
光りが溶け行く
林に
「お前の心は冷めた泉の様だ」
細波の様な雨が、闇に満ちる庭園に落ちて行く様を見つめながら、男は静かにそう言った。女は後ろ手で組まれる男の手を、広い背を見つめながら腕に頬をうずめて目を閉じた。
「あなたには分らないのよ。あたしの優しさなどは」
そう囁くように高い声で言い、男は振り返って広縁の柵に座り腕を組んだ。女は上半身を起こし煙管を手に取り、吸い付いては天井を見つめゆっくり仰向けになると、紅の唇はうわ言の様に何かを口ずさんだ。
行灯に照らされる庭園が雨の中浮かび上がり、月などはどの形だったのかも思い出せない。今宵は出ていただろうかも、晴れていたのかさえも。男は溜息をつき、可笑しそうにフフ、と笑った女の顔を覗きこむ様に見ながら彼女の横に来た。
京紫色の花が一輪挿しに挿され、女を彩る。
「もしも雪が降り積もったって、探し出してあげるわ。まるで雪を掘り返す犬の様になっても。そうやって元気にはしゃぎまわっているほうが、あたしらしいでしょう?」
女は微笑み、横に片足を立て座った男の袂から出る立腕を撫で、柔らかく、艶の様に目を潤ませた。蝋燭(ろうそく)の火が彼女の白い頬を照らし、深い声音で女は言い、天井に目を移した。
「世は泉、夜の泉は枯れやしないわ」
女の死を知らされたのは春の夜だった。彼女と過ごした夏の暮れ、確かに綺麗な夜明けと露を含んだあの光りは満ちたりていた。
あの翌朝は紫の江戸傘をさし、きらきら眩しい銀と金と白の朝陽の小道を、宿から出て歩いては、花々は強く咲き誇っていた。
女は微笑み下駄をからんと鳴らせて、日を浴びると尚のこと美しくなる女。夜のひと時よりも輝いて、どこまでも綺麗になれる女だった。
女と出逢ったのは町屋の立ち並ぶ明るい路地だった。その頃はまだ風鈴は涼やかな音をひっそりと鳴らす様な初夏の正午。新鮮な空気は全ての存在の輪郭を鮮明にさせる、そんな日。
いつもよりもどこか町が清々しく思える。
男は財布を袂に羽織の中に腕を入れ歩いていた。軽い足取りだった。何か思うところがあったわけでは無かったが、季節的な気分の晴れ晴れしさがあった。人々は誰もが楽しげに話し合い、青の空は雲の白が彩っていた。よく晴れた日だ。
広い路を歩いて行き、男はふと、美しい色に目が行った。
一人の女。
艶っぽい女で、水場の水が白い肌に反射して、水面を映し黒い目を細めさせていた。陽の光りを避けるように江戸傘をさしていて、紅を微かに小さく開けている。美しいうなじは長く、その撫で肩に頼りなげな風は無く一種の女の強さを感じた。黒の薄手の羽織をまとって、一瞬、男の方を見るとゆっくり体を向けてきた。
「こんにちは」
高い声音でそう言って、蔀戸に下がる風鈴が落ち着いた深い音を澄み渡らせた。一気に涼やかな空気を作り。
「ああ。今日はいい天気ですな」
男も応え、町を見渡し視線を巡らせて再び女を見た。男は眩しさに目を細め、女は彼を見つめ、柔らかくくすりと微笑んだ。
彼女には並々ならず親近感を覚え、男はそこで始めて微笑んだ。美しいオンナだと思った。
興味を持ち連れ添う事にして、女はまるで二十年来の恋人の様に男の腕に手を回し、そして頬をつけ微笑し同じ歩調で歩き出した。
「あたくし、般若のお面のお使いを頼まれましてねえ」
「般若のお面?」
女は旅芸人の芸者関係だろうか、昼下がりの時間帯、般若の言葉は女の印象自体にさえ思わせた。明るく透明な中を、自然に流れる水の様な感覚でそう思わせた。
「旦那様は・・・」
「私は昼の腹を充たすんだ」
「ああ、そうですわね」
女は首を振り微笑んで、男の肩を引き立ち止まらせて、両腕に手を掛け、彼の顔を見上げた。
「あたくしの旦那様です。彼は般若のお面など、翁や悪将の面などを集めていらしてね。兄を狂言一家の家元に持ち、弟は変わったことにも道を変え剣道の道場を構えております。その弟があたくしの旦那様」
女は艶やかな瞳で彼を見上げ、表情は笑っているのか無表情なのかつかない顔をしていた。
「そんな一家もいるのか。初耳だ」
女は再び腕に腕を絡め歩き出した。
「こちらにはあたくしは来たばかり、お供を連れて旅に出ましたのでね。今朝方関所を越えて、お江戸に入った京の女です」
「京の都から江戸まで女が旅を?」
「ええ」
それは嘘であるかのように軽く女は応えて、男は女の顔を見下ろし前方を見て歩き続けた。元の国はどこなのか、詞は西の物では無い。
「京で狂言家元と武道道場を」
「変わっているでしょう」
女は体を離して畳んでいた傘を見下ろして立ち止まった。
「あたくしもお供してよろしいでしょうか」
男は女を見下ろし頷き、その夜、関係を結んでしまった。
男は妻に二年前に先立たれていた。織物問屋の主人としてもこの最近は繁盛を見せていた。立派な門を構える料亭の芸鼓に着物を卸していた初代の時代から、今では江戸城に謙譲までされる随分と立派な織物を扱う老舗になっていた。
男は当初、面などをかき集めさせる男など捨て、自分の所へ来なさいと言っていた。女はその話に可笑しそうに笑い、流していた。
「あたしの旦那様は、お怒りになると危険だから、やめといて下さいな」
だって・・・、と続けた。「剣の心得は無いんでございましょう?」そう男を一種、冷やかす目で見上げ、その夫よりは頼りない腕に優しく頭を着け、柔らかく絡める手を丸めた。
夕闇が満ち、下駄がからからと・・・、黒い雲と緋色の濃い夕陽が巨大に天全体を占領した。
二人は歩き、そして陽の温もりを、女の、男の腕の温もりを感じあいながら歩いていた。
「般若というのはねえ。誰の心の中にもあるんです。潜んでいて、そしてたまに滲み出る感情です。必ずねえ」
金の牙を生やし、目をカッと見開いた角のある面は頬骨の浮き出る顔つきで、女の心の中にそんな物がまさか居る様には思えなかった。緋色に染まる顔は夕陽に紛れてか、見破れないだけか、眼光を強く覗かせる事もまだ。それよりは、観音如来の様な穏やかな顔立ちをした女だった。夢うつつな声をしているのが誰のせいなのかは不明だった。
「その般若の面は見つかりそうなのか」
「面の職人という方がいらっしゃって、師に作って頂くことになっています」
女は赤の天に目を細め、紅の口を閉ざして寂しげに赤の中を反射する大河を見つめた。
「あたくしは、いつかは旦那様の目を盗んで般若の心を棄てるつもりでございます」
女は何を生業にしているのか、ただならぬ物を感じて男は彼女を引き寄せていた。女ははっとし、一瞬を置いて、落ち着いたように身を委ねた。
虫の音が静かに短く鳴いてはまた続き、細波の様に消えて行った。
「江戸にいる間はいくらでも心躍らせれば良い。お前は身を持って今を自分の時間で生きているのだから」
「ええ。今だけは・・・」
女は鏡の中の自分を見つめ、柘櫛(くし)で黒の髪結いを整えた。べっこうを挿し膝を返してこちらに向き直ると息をついた。背後で横になり煙をくゆらせる男に微笑んだ。
「錬次郎さん、京へは誰かお知り合いは」
男は女の方に目を転じ、開く口から煙をゆるく出しながら首を横に振った。
「六年前、行った事はあるが、特に知り合いがいるわけでは無い。良い都か?」
「ええ。それはもう。今の時期、祭りが素晴らしく賑わってねえ。この年も良い祭りになるでしょう」
女はそう微笑み、黒髪を整え終え、そしてゆっくり立ち上がりこちらに来た。
男の横に坐り、彼の肩に片手を掛けた。しな垂れかかるように坐り、その手にこめかみをつけ、ゆるゆると彼を扇であおぎながら下の庭園を見つめた。
おぼろげに、ゆったりとした時間は流れ、静寂の中に。
女は何かに思い当たったかの様に微笑み、「どうしたんだ」と聞く男を一度見上げてからまたふと、庭園に目を戻した。女の口元は、表情は、瞳は微笑んだまま、「ええ」と言っただけだ。
虫の音が静かに鳴り、女は何も言わずに瞳を閉じ、しばらくその音に聴き入っていた。男も聞く事はせずにしばらくは虫の重なる音を聴いていた。
女のその表情が幸せそうであったため。男もまた、この時間の流れが心の平安を導いていたためだ。
そうやって男と女の関係は、安泰の中で緩やかに過ぎて行った。
他の者の影も入る隙も無く。
女が京にいる旦那を怖れる心が雰囲気と空気から悟られ、それを女は憂いと倦怠と艶の中に染み込まる。そして翌朝の白い輝きの中に、そして花を愛でる女の美しい笑みの中に消していた。女は滅多に笑みを失わせる事は無かった。男の全てを穏やかに流していた。
それでも、時にその目が光る時があった。きらりと、白の光りを受け黒の瞳が光るのだ。それを垣間見る毎に男は一種の不安を抱えた。
この女は旦那以外が飼い慣らせるのだろうか?まさか、獲物を狙う狐の様に目を光らせるなど・・・
「お前は何か特殊な家の出か?祈祷などといった」
「あなた様は誰かお会いになりたい方でも?しかしあたくしは祈祷師などではございません」
女は男を振り返り、宿屋の庭園を門まで歩くいつもの朝の中に男を見た。彼は、思った程頼りなげな目をした人では無いと女は思った。落ち着き払った彼の深い目元は彼女を安心させた。旦那様の持たせる安心感とはまた違う。危険な物など感じはしない。
「寂しげな目をなさるのね」
男は二年前の事を考えると身の毛がよだち、心なしか目をうっすら閉じ再び開き景色を見回すことで、過去の惨状を振り払った。
「確かに逢いたい者はいる。人には誰かしら、そういう者はいるものだろう」
この女の言葉が似たのか、嘘を尚ごまかす様な、適当な事を言って逃げる言葉が口をついた。
妻はとある旅館の番頭と共に織物を持ち山を行く道中で、盗賊に遭遇し殺された。
女はいつもの様に軽く嘘でもなさそうな調子で、言い出だしそうだった。
ええ。あたくし共の本業は代々続く盗賊頭の人間でねえ
根拠も無いうちから、男の心には何かが浮かんだ。
疑惑。正体も現さない、能面の様な自分の心だ。それは穏やかさだけでは済まされず、哀しみや多少の怒りや憂い、畏怖を含んだ心を秘めている物だった。
男の心は変わる事など無いのだろうに。女の詞に暗示でも掛けられたが如く、行き場の無い怒りに駆られようなどと、それこそ悪鬼の面ではないか。
男は女の為に用意させた美しい若草染めの着物の柔らかさに目を移し、感情を地面に落とした。
女の齢はどれ程か、二十代も半ばだろう。若い娘でも無いだろうに男が選んでいたのはとても鮮やかな初夏らしい色合いに染め上げられた友禅だった。それでも彼女にはとても似合っているのだ。
「あたくしの生業でございますか?旦那様に言われた用を済ませる事です」
「今回が面であった様に」
「はい」
女の笑みは瑞々しかった。旦那の元に早く返したくもあったし、この手の届かぬ場所にはやりたくも無かった。つまりは、男は女を行きずりの妖しげな女に留めておきたくはなくなっていた。
家へ招き養い、心窮屈にさせる事も無く。ここで安心して暮らすといいと、再び口をつきそうになる。ただの考え過ぎならばいいのだが、女にどこか影を持たせる雰囲気はこの女の生まれ持った物なのか。
女は自分の影を見つめ、男がゆっくり微笑み促した事で歩き出した。
彼女の狭い肩を見つめ、女の正体を知ってしまう事を男は恐れた。何も知らないまま、今の時間を過ごす方がいいのではないだろうか。しばらくすれば国へ帰る他郷の女だ。
「そうだ錬次郎さん」
払拭する様に笑顔で振り返り、女は庭園の水面が横顔に反射する男を見た。
「どうした?」
「あたくしが今度、舞を披露しようね。あなたに教えたっていい」
「狂言のさわりでも?祭り事の踊りでも?」
「あなたは何かの舞をなさるでしょうか」
「いいや」
「きっと、素敵でしょうね」
男の胸部に頬を乗せ、まぶたを閉じた。
女は舞を教えるとその日言い残し、男はいつもの様に問屋へと帰って行った。
怪しい影の存在にも気づかずに。女は悟っていたのだろうか。まるで朝の光の中に溶け込ませるように穏やかな表情は艶を隠し歩き去って行った。
面を持ち帰る当てができたのか、女は姿を消し、男はいつもの待ち合わせの場へ夕方時向かおうが彼女は現れはしなかった。
夕日を見つめ、男は袂に組んだ腕のまま歩き出した。時に女は夕闇に紛れ、悪戯紛れに男の背から驚かせ現れる事もあれば、岸辺から立ち上がり夕日色の花を持ち彼の胸の前へと差し出し微笑んできた時もあった。
今宵は、現れなかった。
春
春の暮れ
河のせせらぎに重ねるは
幼子の高い声
女の微笑み
「事実か」
宴の席もたけなわに入り、場の落ち着きも見せ始めていた。立ち回る女中達も客の酔いに任せて既に運び込むものは酒だけになっている。織物問屋の妻と、この老舗旅館の番頭の事件が起きるも早三年。
縁側から男は勺を傾けることもせずに立てた肩ひざに肘を置き淡い色の月を見上げた。
風はそよそよと吹き、水面をすべる様をしばらくは黙って見つめていた。
きっと、この横に死んだという女がいたなら涙を流していたかもしれない。その幻影は庭園に浮かぶことも無く透明な夜の明るい碧闇のまま、男は向き直り旅館の主人を見た。
旅館の主人には裏で口合わせをしてもらい、女との間柄を他言しない様図ってくれていた。
「いつ」
穏やかに聞き、主人は一度大きく目を見開きうなずいた。
「噂ですよ。殺されたという」
赤江 月、それが女の名乗った名だった。本名かも知れず、旅の女の言う事だ。すべてを鵜呑みにしていたわけではなかった。面を探す事。京から来た事。旦那の兄が狂言師で、弟は剣豪である事。男への淡い安堵の心まで・・・
「盗賊に赤蛇というやつ等が噂に上がっていましてね。やつ等が吉原の先で動いた」
「はは、まさか面で顔でも隠して現れたか」
旅館屋主人は丸い目をまたすぼめて男を見た。
「そうでございます」
男は黙って美酒を傾けてから視線を畳の縁に落とした。
宴会の間の上階にあるあの部屋の畳の縁とはまた色が違う。確か半月程前畳の入れ替えを行う話を聞いた。女はその畳の縁をいつも細い指でなぞっていた。
女が殺されたらしく、そして京紫色の花も咲かぬ季節の内から畳を変え、本当に一年足らずで女の軌跡を男の中から消そうとでもするのかのようで、心情は複雑だった。
出始めた立ち上る水煙をおぼろげに見つめ、水面を隠した。
「間違いは無さそうだな」
「旦那様。この事はご内密に。殿に妙な噂が知れよう物ならば、多少の不便もございましょう」
男はうなずき、それでも思い立ち細い身を颯爽と上げ宴の場の物に微笑むとゆっくりとこの夜を楽しむと良い、と声をかけ出て行った。主人はついてきて小耳に囁いた。
「例の面の話は間違い無いでしょうな。徳べ衛に任された面の為に女の名は覚えられていた。どうします?」
男は斜め背後の主人を肩越しに見下ろし、何も言わずに廊下を抜け回廊を歩いた。風を感じ歩き、夜風は緩い。夏はその先。
どういう事だ?男はそれを聞かなかった。まさか、若者の様に突き止めろとでも言うのかと。その盗賊の頭などを。妻が殺されたあの時も何も出来なかったのだ。血にまみれ問屋に駆け込んだ旅館屋の番頭は男に妻の最後を言い、息絶えた。
「赤蛇っていうのはねえ。面で顔は知られてはいなかったらしいんですが、狂言一家の裏の顔だったらしい」
「馬鹿らしい」
言い捨て、男は足も速く夜風を切るように門を出た。
「・・・・」
その一瞬、女と過ごした日の風が彼の体をさえぎった。あの上の階に流れ込んだ様に。そして、翌朝の涼しい風と同じ様に。
季節は再び、初夏を間近に控えているのだ。徐々に、彼女の微笑みをよみがえらせるかの様に輝いた透明な季節が。
男は羽織の中に差し入れた左手に扇子を出し主人を背後へ下がらせた。
濃い紫の頭巾を頭からかぶり、女は紅の口元を微笑ませることもせずに面影は消えた。
「ひえ、死んだ筈」
旅館屋主人は腰を抜かし、男は彼女の除く口元を凝視し、別人と悟った。
彼女は男の前まで来て頭巾を取り、風呂敷に包まれた何かを無言のまま渡すのだが、桐の箱だ。
「これは?」
「月姐の申しつけでございます」
女はずいぶんと若い物を、低い声音でそう言って、再び頭巾をかぶり凛とした目で一度肩越しに男を見ると闇の奥へと去って行った。
男は自分の屋敷へと戻ると風呂敷を解き、蝋燭の燈で照らされるその白い桐の箱を見下ろした。
女の使いであった娘は、女の生存を悟らせに来たのか、それとも遺品を届けに来たのか、障子に目を上げ、月光が青の光を黒の空間に広げている。開けるべきか、返すべきだったか、あの使いの娘を引きとめ事情を聞くべきだったか。
盗賊を裏で働くなど、何かの間違いだろう。旅館屋主人は物の考えが幼い時代からおかしかった。すぐに鵜呑みにするのだから、聞き間違いだったのだろう。
男は桐の箱を開けた。
般若の面。
変色した血が二滴ほど降りかかり、その面と並ぶように、女がべっこう屋で見つけ微笑み買ったものが、黄金色に置かれている。
「何故、この様な大切な物を遠くの私などに・・・」
男のうつむく目から、べっこうを持つ手に涙が落ちそして手の甲から流れた。
般若の面は、まるでその心が生まれる前は女であったかのように、どこかしらに憂いの哀しみと穏やかさを持った表情に思えた。人の心を面に写し取る、徳べ衛の作風らしく。
そうだったのだろう。盗賊頭の妻であった女般若の心の中に垣間見た、あの時の観音如来の様な優しさこそが、彼女の演じたかった姿だったのだと。いつでも自分の旦那様との間でもう一人の男性を見つめて、時におちゃめに冷やかして来て、そんな緩やかに冷めた微笑みも、泉のように心穏やかでいたかったのだろう。
彼女に愛情を重ねていたのだと、男は気づいた。月が重なるように、影と闇が重なるように、自分の心情が彼女の心に愛情を重ねて見ていたからこそ、あの夏の季節は美しかったのだと。
今までに無く。
美しさに一種の憂いと恐怖を浮かばせて、いつから女は逃げる事を考えていたのだろう。あの時、出来なかった事なのか。女を招く事。助けを求めていたのではないのかと。
春の夜は薄闇を置き、透明に流れて朝を迎えた。
男はふと顔を上げ、驚き手にしていた財布を落とした。
「お月」
女は銀の陽を浴び眩しそうに目を細め、微笑んだ。
「こんにちは」
あの時の高い声のまま。あの時の艶の微笑みのまま。
男はしばらく迷い、町屋の子供達が走って行った背から女の顔を見た。
「ああ。今日もいい天気だ」
女は微笑みそう言った男に同じように小さく笑い、もう少し気の利いた事をいえれば良かったのだが男はあきらめた。
「今までどこまで面を届けに?」
「フフ、いろいろと寄り道をしながら」
女は彼の前まで来て腕に手を置き、見上げた。懐かしい仕草だ。
良かった・・・、つい口をつきそうになったのは互いの事だった。
また冗談交じりに言う。
「旦那様に反抗して、殺してきちまいました」
男はおかしそうに短く笑って、女の微笑みを見て、女は視線を流し今度は真顔になって言った。
「あたくしは死んだ事になったのでございます。お鈴が手引きをしましてねえ。ほら、あの涼しい顔をした娘。実はあたくし、盗賊頭でございました」
男はさすがに瞬きして、くすりと初めて般若の心を覗かせた女の微笑みを見て、女を優しく抱き寄せるべきかを悩んだ。
「思い悩んだ顔をして、全ては嘘であると思って下さいな。あなた様にはあたくし、心を穏やかにさせてもらった者です」
女頭であったとか、党を旦那が乗っ取ろうとしていただとか、さまざまな面を被り事実盗賊をしていただとか、真実など分からない方がいいと言うのか、女は男を見つめて茶屋の長椅子に座ると言った。
「旦那様とあたしの存在を持って、皆はほうほうへ散りました。あたくしを受け入れてはくれないでしょうか」
男は朝の時刻も変わり始めた中を茶を傾け、静かに頷いた。
また怪しい影、生命の手引きをしている影がまるで鈴の音の様にりんと涼やかに鳴り響き、男は一度見回し風鈴のありかを探ってはまた女の顔を見下ろした。きっと、当に足を洗う準備を二人でしていたのだろう。旦那を殺し、自分を殺し、党を散らせて逃げる事。
透明な空気で成り立つ様にも感じる風景の中、光に音の余韻が消えて行った。
全ての女の影や妖しさは拭い去られ、この春の季節、艶を持ち女を美麗にした。
「では、踊りを習えるのか」
女はフフ、と笑い「ええ」と嬉しそうに頷いた。
「これからは幾らでも」
般若の心 上