その星の名前
【後ろ姿・深呼吸・揺れる髪】
寝転ぶと、金属が服越しに背中を冷やした。規則的な呼吸音が夜の静寂の中を近づいたり遠ざかったりしながら壊していく。土を蹴る軽快な靴の音が心地いいリズムに鼓膜を揺らされながら、大きく深呼吸した。
じいちゃんが命の次に大事にしていた天体望遠鏡をくれると言い出したのは、去年の秋。冬休みになったら取りに来いと言われた日から、冬休みが待ち遠しくて、どうしようもなく嬉しくて浮かれていた。だから、どうしてじいちゃんがそんな大事な物をくれると言い出したのかなんて、考えもしなかった。
冬休みになって、家族でじいちゃんの家に行った。正月を挟んで一週間くらいだったけれど、最後の朝にじいちゃんが望遠鏡をくれた。残りの冬休みは、課題に追われて望遠鏡を出す暇もなかった。始業式の翌日からテストが始まると、早く帰れる時間割を利用して勉強そっちのけで望遠鏡を出した。一週間毎日じいちゃんが教えてくれたから、使い方は説明書を見なくてもいいくらい覚えていた。その夜はいつまでも星を見ていた。
翌日、寝不足の頭で何とかテストをやり過ごして帰宅すると、仕事に行っているはずの母さんが家にいた。不思議に思いながら自室で勉強をしていると、しばらくして父さんも帰ってきた。いよいよ只事じゃない空気を感じて様子を窺おうか考えていたら、部屋に入ってきた両親にじいちゃんが死んだことを教えられた。これから通夜の準備でじいちゃんの家に行くということも。俺はテストがあるから残れと言われた。
両親が慌ただしく出て行った後、いつの間にか俺の肩を強張らせていた緊張が解けて、じいちゃんが望遠鏡をくれたわけを理解した。胸の奥がざわついて、ベランダに置いた望遠鏡を見つめ続けた。
その夜、いても立ってもいられなくなって望遠鏡をバッグに詰めた。自然と足は学校に向かっていた。グラウンドについて驚いたのは、吐く息さえも凍りそうな月のない寒空の下に先客がいたこと。息を切らしてトラックを走る姿は、よくみると女子だった。
俺は朝礼台に座ってしばらくその後ろ姿を見ていた。望遠鏡を朝礼台の上に置いて星を見た。
そのどれかに、じいちゃんがいるかもしれない。
そんな風に考えた後にバカバカしくなって笑えた。人は死んでも星になんてなれない。焼かれて骨と灰になって、それで終わり。星がどんなに輝いても、それは死んだ人の魂なんかじゃない。恒星で起こる核融合の熱エネルギーを反射しているだけだ。死んだ人は、もうどこにもいない。誰かの記憶という曖昧な世界の中にしか存在できない。鼻の奥がツンと痛くなって、マフラーを鼻の上まで上げた。でもそれは寒さのせいなんかじゃなかった。望遠鏡を覗き込んでいるのに、新月のおかげで肉眼でもはっきりを見えていた星たちが滲んでよく見えない。
目を開けて上体を起こした。相変わらず彼女はトラックを走り続けている。彼女が同じ学校の一つ後輩だということは人に聞いてすぐにわかった。制服を着て校舎で見かける彼女は目を離したら空気に溶けて消えてしまいそうな存在感なのに、夜の闇の中を走る彼女は異様に輝いてみえた。靴音に合わせて揺れる髪も、痩せっぽちの体も、わずかな街灯と、月と星の明かりに照らされて輝いている。揺らぎながら、瞬きながら、それでも確かに呼吸をして、存在し続ける星。届かないとわかっていながら、俺はその星に手を伸ばした。
その星の名前