やさしい雨

別れ

  ―あ、受かった。

大学に合格した瞬間は目の前の景色が変わるとよく言うが、僕の感覚と言えば ‘そんな’ ものだ。
高校3年の冬。
周りは受験で目の色が変わっているというのに、僕はなんとなく勉強してあっさり世間で ‘一流’ と言われている大学に受かった。

リビングのソファーの上で飛び上がって喜んでいる母親は、僕にはいつも子どものように見える。
何をやるにも一生懸命で、精神年齢がいつまでたっても少女のような人だ。口を開けば勉強しろ、という教育ママでもなく、根性のある息子に育てようとする肝っ玉母さんでもない。
ふわふわのんびりまっすぐに生きている。
そういう母親に育てられた割に、僕は冷めているとよく周りに言われる。

僕はあっさりとパソコンに表示された合格通知の画面を閉じた。これで春からは東京暮らしが始まる。
『岡部 修』と自分の名前の入った受験票を母親に預けると、そのまま上着を羽織って次の行き先へと自転車で向かった。
行き先は学校。
 僕の不合格を心から願っている、僕の彼女に会いに行くために。

 東京と今住んでいる町は新幹線も使って電車で2時間半ほど離れている。東京の大学を受けたのはそこに学びたいことがあったからだ。特に都会に出たかったわけではないし、世間的にいい大学などと言われているところに入りたかったわけでもない。むしろ8歳のころから移り住んで育ったこの小さな田舎町に愛着すら湧いている。
 僕がこの町に来たのは小学校3年のときだった。それまでは東京に住んでいた。
僕には歳の離れた兄がいる。兄は東京で育ち、東京の大学へ行った都会育ちの人間だが、僕は違った。
この町に来てから僕が毎日学校に通いながら眺めていた川は、東京のように淀んだ緑色をした小さな川ではなく、青く澄んだ大きな川だった。まるく白い石の間を、せらせらと透き通った水が流れていく。陽の光を反射すると、澄んだ空気に真っ白な筋がきらりと通るのだ。
その川沿いの道を、小学校3年間と中高の6年間行ったり来たりしていた。
 成績は良かったが特にまじめにやっていたわけではない。
つまらないと判断した教師の授業は全く聴いていなかったし、無意味だと判断した物に対してはやる気を出さなかった。教師から見れば、やりにくい生徒だったに違いない。

『わからなかったものがわかるって、おもしろいでしょ?』

何かを学ぼうという気持ちになると、決まって浮かんでくる。これは僕の記憶の奥にある、気の強い小さな女の子の言葉だ。幼かった僕は、まるで暗示にかかったようにその言葉通りに勉強した。
そのうちに、確かに新しいことが見えた時、何かを掴んだ瞬間、それらの刺激が僕の人生の小さな楽しみになった。
成績がいつも良かったことと、あまり学校では積極的に話をするタイプではなかったことで、僕は一部の人間には「頭が良くてまじめで地味な種類の人間」だと思われていた。しかし、それは言葉通り、一部の人間から見える僕の姿だ。

  淡々と学校に通う一方で、中学からは学校が終わると仲の良い友人と遅くまでバスケットボールをした。
特に部活に入っていたわけではない。ちいさな公園(それもめったに人の来ない)の片隅にある、こきたないバスケットゴールで、暇さえあればやっていた。
 タトゥーと気合いの入った男たちと試合をして、ケンカになることもしょっちゅうあった。それがガタイのいい外国人だったこともある。おかげで背丈と筋力は人並み以上になった。もちろん英語力も。

 知識、学問、スポーツ、遊び、あらゆることが自分にある程度の刺激を与えたが、僕は全てにおいて満足感を得たことがない。腹はいっぱいになるが、何かが物足りない。そういう感覚がいつも付きまとった。友人は「たいして努力もせずに何でもできてしまうお前が悪い。何にでも恵まれてる人間に課せられた特別な飢えなんだよ」という。
しかしこれは大きな間違いである。なぜなら僕は恵まれている人間ではないからだ。足りないものがたくさんあって、新たな探求の対象を探す貪欲な人間こそが本当は恵まれているのだと思う。

そんな僕が、これまでの18年の人生の中で何よりも喜びや刺激を感じないものがある。
それが恋愛だ。
 
 今までに何人もの女の子と付き合った。でも、身体的な刺激はあるが、心が相手を求めないような気がするのだ。
 手をつなぐこと、相手に触れること。そのどれもが最初は新鮮で、そのどれもに喜びを覚えた。
しかしどの相手とも、最初は恋愛感情や愛情だと思っていたものが性欲になり、恋人という関係は、相手との駆け引きを行う、まるでゲームか交渉のようなよくわからない関係になる。
それを繰り返し続けると、「この感情がいったい何なのか」とよくわからなくなるのだ。
そして次第に、もしかしてこれはただの本能なんじゃないか?と思うようになる。
そこへさらに、相手から与えられていた愛情だと思っていたものも、実はただ欲を満たし見返りを得るための策にすぎないということに気がついてしまうのだ。
どちらにしても、欲望と愛情の区別が、まだ僕にはわからない。


「シュウ、大好き。愛してる。」
細長く、きれいなピンク色の長い爪が僕の胸元を両手でぐっと握りしめる。

―そんなに「愛している」と簡単に言わないでくれ。

僕は女の子にそう言われる度に思う。僕は「女の子」というイキモノは好きだし、可愛いとも思う。でも僕にとってはいつもそれだけで終わってしまうのだ。
そして「愛している」と聞くたびに、僕は罪悪感と寒気と怒りでいっぱいになる。
だから今、目の前で泣いている彼女に対しても、こんなふうに冷めた気持ちでいるのかもしれない。

「・・・ねえ、シュウ、本当にさよならなの?」
真っ黒なアイラインで囲んだ大きな瞳から黒い涙がこぼれおちる。
「わるいけど」
あっさりと。そしてはっきりと僕は彼女にそう言った。
特に罪悪感はなかった。
「卒業だから?離れちゃうから終わりにするの?ウチら。マユはシュウのこと、すごい好きなんだよ?シュウはマユのこと嫌いなの?」
―ああ・・・泣き出したな。面倒くさい。
「そうかも」
自分の口からは、今まで付き合ってきた彼女に対する言葉とは思えないような返事しか出てこない。
 離れることを決断して気がついたが、やはり自分は女というものをあまり必要に思っていないのだ。触れれば気持ちがいい。一緒にいれば癒される。けれど、それ以上のものではないのだと思う。
 本当に心から必要だと思えれば、どんな状況になっても放したくないと思うのではないだろうか。

「・・・もういい。一流大学に受かったから、頭の悪いマユのことはどうでもいいんだね」

―関係ねえよ。

今、大学のレベルのことを持ち出すなんて、こいつはその程度の女だったのだ。
こんな風に、これまで付き合ったどの女の子とも、別れるときはその子に対する「幻滅」で終わる。
同時に、自分はどれだけのものを相手に求めているのだろうと、自分の身勝手さにも幻滅するのだ。
「じゃあ、マユはオレのどこが好きなわけ?」
「顔も好き。あとは背も高いし、お金持ちだし、頭もいいし。とにかく全部好きなの。」
おいおい、泣きじゃくってるけど、その中で僕が努力して得たものなんて知識ぐらいしかないじゃないか、
と思いながら僕は短くため息をついた。
結局外から見えるものしか見てくれていなかったのだ。
でもそれはお互い様だ。
「マユはね、シュウと一緒にいたいの、ずっと」
「それってオレと結婚したいってこと?」
「そう」
ちょっと待って、わかってる? 
結婚するってことは家族になるんだよ?
今のお前にその覚悟があるのか?
「俺は悪いけど、そんなことは考えられないし、覚悟もない」

 彼女が納得していないのはわかっているが、それから強引に彼女と別れた。僕はオレンジ色に染まった校舎の裏に、ひとり泣きじゃくる彼女を置いて帰った。
僕は何かを捨てようと考えていたわけでも、ここから逃げたかったわけでもない。
ただ彼女と共にいる意味を全く見出せなくなっただけだ。
進路が決まったことはただのきっかけに過ぎないが、それをきっかけにしようと考えた自分もずるいと思う。
もっとはやく気づいてもっとはやく決断すべきだったが、それも僕のこういうことに対する適当さが招いたことなのだろう。彼女には悪いことをした。
僕はよけいにすっぱりとあらゆるものを切って、東京に行きたいという気持ちが強くなった。



 それから3時間後だ。友人の和也に呼び出されたのは。
和也は中学のころから仲のいい同級生でバスケ仲間だ。合格祝いをしてやると言って電話をしてきたが、結局はいつも通り、軽く腹に何か入れてバスケをするパターンになるのだろう。「8時までには帰る」と殴り書きをしたメモを玄関に置いて出ていった。
携帯と1000円札を何枚かジャージのポケットに突っ込んで自転車にまたがった。
和也は僕よりも1カ月ほど先に進路を決めていた。「家が近いから」とかなんとかいっていたが、以前から希望していた地元の大学へ無事に進むことになった。
和也は僕と気の合う数少ない人間のうちの一人だ。多分僕が気を許して何でも話せるのは和也だけだろう。和也は特に成績がいいわけでもなかったし、バカをやっていつも教師に目をつけられていたが、素直で嘘のつけない人のいい性格だった。
こっちが踏み込んでもいいと思うぎりぎりの範囲を行ったり来たりして、いつも安心できる位置にいる。
僕は和也のそういうところが気に入っていた。
 
 僕を最初にバスケに誘ったのは和也だった。それまでは同級生というだけで、あまり仲良くなかったが、近所に住んでいたので、和也がいつも車や人のほとんど来ない道路でドリブルの練習をしているのを知っていた。
あるとき、偶然通りがかった薄暗い小さな公園にちょっと破けたバスケットゴールがあるのをみつけたのを和也に教えてやったのだ。和也は顔をくしゃくしゃにして喜んだ。僕はそれを見てただ満足して帰ろうとした。
 「ちょっとやっていけよ」
 初めて声をかけられた和也のその一言で、僕のそれからの日常と和也との関係はがらりと変わることになった。それまで僕は同年代の人間と何かをして負けたことがなかった。勉強も走ることも、とにかくあらゆることについてだ。
 ただバスケットだけは違った。僕はそのとき和也に手も足も出ず、一瞬のうちにシュートを決められた後で、大笑いした。初めてのことだった。
「負けて大笑いかよ、変な奴」
そう言って和也も笑った。それが始まり。

 静かな公園に 幾度もじゃりっと砂を踏む音がする。その後でバスケットゴールが揺れる音が響いた。
「・・・また同点か」
 きりのないワン・オン・ワンを、もうどのぐらい続けただろう。冬だというのに、汗が滴り落ちている。真っ白な息がふたりとも荒い。
「ちょっと休もうぜ」そう切り出したのは僕だ。
「なに、疲れたの」
「あほか」
負けず嫌いは二人の共通点だった。
自動販売機で買ったスポーツドリンクを口に含んだ。こういうのもこれから大人になるにつれてちょっとずつ少なくなっていくのだろうか。
さっき彼女と別れたときとは正反対の気持ちが胸にいっぱいになった。


「マユと別れたろ」
地べたに寝転がりながら和也が言った。泣きながらマユから和也に電話があったそうだ。僕は和也に謝り、そのまま口を閉じた。
「マユはお前が東京がいいから別れたんだって言ってたけど、それ本当?」
「いや、離れるってのはただのきっかけ。本当はさ、好きだとも必要だとも思えなかったから別れた」
しばらく沈黙して和也は僕の顔を見た。そして和也は笑って「なんだ、ならいいんだよ」とただそう言っただけだった。
「でも、このままだとマユは一生なんで別れたのか理解できないと思う」
という僕の言葉に和也は意味あり気に笑って答えた。
「いいんじゃない? いつか時間がたってから解るもんなんじゃないの?」 

和也が立ち上がって、またコートへ向かって歩き出した。陽も落ちて、周りの家からは夕食のにおいがしていた。ぽつぽつと街灯のオレンジ色の明かりが灯っている。
「あーあ。もうボール見えねーわ。 ‘また’ にしよう」
僕がここを離れるときに唯一さびしいと思うこと。それはこういうやつが、そばにいなくなるということだ。

回想

 「シュウ、お隣のミカちゃん、覚えてるでしょう?」
夕食のシチューを出しながら母親が言った。夕食は母親と2人で食べるのがいつもの食卓だ。兄は自立しており、父親は月の半分ぐらいを東京で過ごしている。そのため家族全員がそろうことは非常にまれだった。
母の傍らにはゴールデンレトリバーがいる。うちは大の動物好きで、犬はこいつで2代目だ。僕はバロンを撫でながら答えた。
「あー、あのデブね。覚えてるよ」
「なんてこと言うの」
母親が気に入っているミカというのは、隣の家の一人娘だ。2年前に東京の大学へ進学して今はこの町にいないと聞いている。いわゆる幼なじみだが、もう何年も会っていない。彼女の一番古い記憶は僕がこの町に引っ越してきた日に遡る。

 春。郊外にあるのどかな町並みには似つかわしくない、庭も家も広くて大きな家に、僕らはその日引っ越してきた。当時父親が興した会社が大きくなったため、田舎の方に会社のいくつかの部門を移したのだと聞いている。当時から父は本社のある東京とこの町を行き来する生活をしていた。兄も受験で図書館などにこもりきりだった。そのため家には僕と母と2人のときが多く、その日も家には僕と母しかいなかったと記憶している。
 まだ低い木が数本しか植わっていない庭からは、たくさんの陽の光が差し込んでくる。
見慣れない自分の家を探検するようにぐるぐると歩き回っていたが、引っ越してきたばかりの家は新築の独特のにおいがして、生活感がなかった。まだリビングには段ボールが積みあがっている。僕はウッドデッキに座って、新しい庭をずっと眺めていた。母親はさっきから忙しそうに段ボールを開けて、食器を片づけたり運んだりしている。探検にも飽きて、陽あたりのいい場所でウトウトしていると、僕の横に大きな体がどさっと上から落ちてきた。僕はそれを丁寧に撫でた。
「リオ、まだ芝を植えたばかりだから、庭では遊べないんだってば」
さっきから前足でドアをつつき、外に出たいとせがむリオの金色の長い毛の中に指を入れて、僕は言った。リオは僕に体をすり寄せてくる。
ぱたぱた、としっぽが僕の背中をたたいた。犬は小さいころからの兄弟のようなものだ。兄と年が離れていたせいもあって、リオは僕の遊び相手だった。一緒に走り、一緒に寝て、一緒に遊ぶ。家族であり兄弟だった。

「シュウ、お隣りにご挨拶に行くから、支度しなさい。」
頭の上で母親の声がした。
僕は嫌がったが、母親に強引に連れられて外に出た。

 隣の家は2階建ての小さな白い家だった。家の白い壁に色とりどりの花が映える暖かな雰囲気の家だ。ピンク色の大きく丸い花が垂れかかった表札には、茶色いプレートで「WATANABE」と書いてある。女の子が読むおとぎ話の絵本の中で見たような庭には甘い花の香りが立ちこめていた。僕はその庭にしぶしぶ入り、これといって関心もなく、ただ母親のそばについていた。しかし、母親がチャイムを押し、ドアが開いた瞬間、僕はあんぐりと口をあけて呆然としてしまった。中から自分の母親の2倍は横幅のある大きなおばさんが出てきたのである。笑うと顔じゅうの肉が顔の上半分に偏って、目も口も線で書けてしまうようなおばさんだ。
かわいらしい花と白い家のイメージとは程遠いその貫禄に僕は圧倒されてしまった。
おばさんは僕を見るなり「あら、かわいいわね!」とか言って、僕の肩を触った(いや、叩かれたのかもしれない)。唖然とした僕の口からはなにも出てこず、母親につつかれてやっと「こんにちは」という小さな言葉が出たくらいだった。
僕はしばらく黙ってそこで頭の上を行ったり来たりするふたりの話を聞いていたが、そのうちに母とその大きな ‘わたなべさん’ は、意気投合してしまったらしく、お得意の長話が始まった。僕は次第に退屈になって、庭の花を見るふりをしてそっと外へ抜け出した。

家を出たところで女の子と鉢合わせになった。それがミカさんだった。

「あ。となりの?」
しばらく僕の顔を見てからそう言った女の子は、僕よりも背が高くて、僕よりも横幅があって、僕よりも大きな靴を履いていた。赤いランドセルのベルトが脇にくいこんでいて、いつボタンが飛んでしまうのだろうと思うほど、きつそうなブラウスを着ていた。スカートは腰の部分が肉で丸く膨らんでいて、顔はさっきのおばさんをそのまま小さくしたような顔だった。一目で ‘わたなべさん’ だと分かった。
そんなことを考えているうちに彼女に話しかけられた。
「何年生?」
「・・・今度3年生」
「じゃあ私の方が年上だね。5年生。渡辺美香」
「ミカ?」
「ちょっと。私の方が年上なんだから「さん」つけてよ」
気の強い女の子だった。僕がちょっとおびえながら自己紹介をすると、すぐに美香さんは僕のことを ‘シュウちゃん’ なんて呼び出した。僕は「さん」をミカの次につけないと許されなかったし、彼女は僕のことを弟のように扱った。
内心、出会ったころは子ども心に「こんなデブ」と思っていたが、次第に僕は彼女とよく遊ぶようになった。大部分は彼女が僕を遅くまで強引に連れまわしたからだが、そのうちに僕は好んで自ら彼女と行動を共にするようになった。なぜなら彼女といることが、どんな友達といることよりも面白かったからである。
 彼女は子供ながら物事を良く知っていた。様々なことに興味をもっており、とにかく「走ること」以外はいろんなことができた。たとえば昆虫の名前や花の名前をよく知っていて、東京生まれの僕に「ここでの修行だ」とか言って、虫取り網を片手に昆虫採集をしながら虫のことや植物のことを教えてくれた。夕方暗くなってからも、二人でこっそり出かけた。よく行ったのは家の近くの小さな林だ。家の倉庫にあった1メートルはある大きな木のとんかちを持ち出して出かけた。思いきり木の幹を打つと、上から山ほどクワガタやカブトムシが落ちてきたものだ。服の中まで虫だらけになった僕を見て彼女は豪快に笑っていた。
あるときは、川でドジョウやザリガニをとって家に持ち帰って飼った。たいがいの子どもは捕まえるだけで満足してしまうか、家で死なせてしまうのだが、彼女はザリガニをとって帰ると子どもを孵して僕に見せてくれるのだ。そして小さなザリガニの子どもたちを二人で川に放しに行ったりした。僕はそういった喜びを彼女といると際限なく味わうことができたのである。
その一方で、彼女の言葉は当時の僕にとって理解不能なことがときどきあった。
メダカの卵の世話をしていた時、彼女は言った。私は人間が一番この世で恐ろしい存在だと思う、と。

「メダカの卵って、放っておくとあんまり孵らないの。腐ったり、親に食べられちゃうんだよ。でもね、私たちはこうやって命のコントロールができるの。殺したり、生かしたり。ちょっと怖いよね」

僕は彼女の言っている意味がよくわからなかった。
今考えれば、小学生らしからぬ言葉だ。彼女はどれだけの本を読んで、どれだけのことを考えていたのだろうと思う。僕が今この年になって、やっとあの時の彼女の言葉が理解できるということもいくつもある。けれど、そういった彼女の言葉や行動が僕にとってはこの上ない刺激だったのだ。
 
 そして僕は、彼女のさっぱりした性格がとても気に入っていた。
最初、僕は彼女がその体型のことで同じクラスの上級生の男子から「デブ」「ブス」と、からかわれていたのを知っていた。しかし、そんな風に僕が「あいつらはクズだ」とあきらめていた男子たちと、彼女はいつの間にか一緒にキックベースやドッヂボールをして遊んでいるのである。
いつだったか携帯メールでいじめが流行っていたときも、彼女は潔く向き合っていた。下校途中に彼女が数人の女子に囲まれていたのを見かけたとき、僕はとっさに隠れてしまったが、その場を離れることができずに聞いていた。
「ユミと話しちゃだめって言ったじゃん。明日からミカもシカトするから」
女は怖い、とそのときすごく思った。本当に怖くて助けに行けなかったのだから。
「ん〜、私が今責められてるその理由がよくわからないんだけど、かまわないよ」
ミカさんは落ち着いた表情でそう言った。「わたしはユミはかわいくてとてもいい子だと思うんだよね」と付け加えて。その瞬間、ミカさんを取り囲んでいた数人の女子の顔に罪悪感の表情が浮かび上がった事がとても印象的だった。
かわいくて人気があり、成績もよくて優しい子に嫉妬して女子の中でいじめが起こるのはよくあるパターンだった。くだらないと思いつつも「好き」「嫌い」を他人に流されずに素直に認めるのは、特に女子の集団の中では難しい事だったのではないだろうかと今の年齢になって思う。ミカさんはその中では異端だった。だけど、その潔さに好感を持った。
 今思い出してみると、僕はそれを聞いてから後、ミカさんに連れだされることを嫌だと思わなくなったのだと思う。それは僕の中でミカさんが女子だからとか、学年がちがうからだとか、外見とか、そういう問題を一気に取り去った出来事だったからだろう。僕にはできないことや、僕には得ることができなかったものを、当時の彼女はすでに持っていた。幼かった僕にとっては彼女がすごく大人で、強い人に見えた。

 そんな大人びた言葉を発する一方で、ミカさんはよく子どもっぽいいたずらをした。「実験」だと言ってはいろいろなことをやらかしたのである。チョウを卵から羽化まで面倒をみたら人になつくのか。バナナの皮を何本分おいておけば大人は滑って転ぶのか。とにかく色々なことをした。チョウのときは幼虫が逃げ出して部屋の中で成長したため、そこらじゅうを黒いフンだらけにした。ミカさんの家で栽培していたバジルやパセリは全部幼虫に食べられてしまって、ひどくおばさんに怒られた。バナナの皮のときは、バナナを食べ過ぎてお腹を壊して大変なことになったし、家の前を皮だらけにして母親二人に怒られた。あのときは本当にひどく怒られた。‘実験’のあと、雨が降って道路がぐちゃぐちゃになり、皮が腐って近所から苦情が来たからだ。今考えてみれば、よくお年寄りが通って滑って転ばなかったものだと思うが、最初に怒られたときはなぜそんなに怒られなければならないのか理由がわからなかった。
怒られた後、僕らは母親たちに物置に閉じ込められた。
僕は泣きそうになりながら空腹をこらえていた。ミカさんとはもう二度と外へ出まいと、そう思っていた。僕がそんなことを考えていると、ふとミカさんが口を開いた。
「バナナの皮じゃ誰も転ばなかったなぁ」
僕は頭に血がのぼって、もし転んだ時にいかに危ないかということを一生懸命彼女に説明した。だから怒られたのだと。そのときに僕は自分がその理由を口にして初めてなぜ怒られたのかをやっと理解した。彼女はそんな僕の心の中が読めたのか、にこっと笑っていた。
そして彼女は「何をするにも、もっと先の事を考えて行動しなきゃいけないね」とばつが悪そうな顔をしながら笑った。

 物置で閉じ込められた時間は長かった。時間が経って、僕は怒られてイライラしていた気持ちをいつの間にか忘れつつあった。それは怒られた理由が明確に分かって、僕の心の中を気持よく整理することができたからだと思う。
 時間が過ぎていく。暗くてしーんとしている、ひんやりとした物置の中。今思い出すと、夏なのに意外と快適だったように思う。あの物置の時間は、成長した今も印象深く僕の中に残っている。
 僕らはそのうち、僕らの実験とは関係のない話をし始めた。
「ミカさんは勉強できるって褒められるよね、よく。先生とか、うちの母親とか」
「勉強、好きだから」
ふつうは『そんなことないよ』とか言うんじゃないのかな、と思ったが、答えがミカさんらしかった。
「なんで好きなの。面倒くさいじゃん」
僕はこのとき、初めて遊び以外の話をミカさんとした。

―思い出した。このときに言われたのだ。

『だって、わからなかったものがわかるのって、おもしろいでしょ?』

そして、僕らは初めて将来のことを話した。
「シュウちゃんは将来、お父さんの会社を継ぐの?」
「わかんない。ミカさんは将来なにになりたい?」
「わたしもわからないけど、色んなことが知りたい」
今思えば、小学生なんだから、ケーキ屋さんとか、お医者さんとか、野球選手とか、そういう子どもらしい夢を持っていなかった僕らはちょっと大人びていて、ちょっと変わっていたのかもしれない。でも、その時に入れられた小さな物置の中で考えて、僕にはずっとあとで分かったことがある。
僕らの器は小さすぎて、まだまだ多くのものが溢れ出てしまっていること。そして僕らはまだ小さすぎて、先のことは何も決められていないのだということだ。取捨選択が自由にできること。それは大きな可能性にあふれた幸せな時間なのだということが、大きくなるにつれてわかるようになってきた。ならば自分で選択できる範囲を増やせばいい。そう考えるようになったとき、僕は勉強することの意味を僕なりに理解し、学ぶことを楽しむようになった。幼かったミカさんがそういうことを悟っていて行動していたのではないと思う。でも結果的に、そう僕を導いてくれたのはミカさんだった。

 彼女が中学生になると、毎日のように遊んでいたのに、だんだん彼女と僕は会わなくなった。顔を合わせて、そしてちょっと声をかける程度。そしてお互いが中学生になると、部活や受験で忙しくなり出し、あるときぱったりと会わなくなった。隣に住んでいても、顔を合わせることはほとんどない。‘お隣さん’ なんて、そんなものだ。また同時に、中学生になった僕の心のどこかに「女子と遊ぶなんて」という気持ちがあった。彼女の何かが急激に変わったわけではないのだが、それでも僕の中には‘彼女と一緒にいること’ に対する抵抗が芽生えたのである。僕はバスケに明け暮れ、そして高校へ進んだ。色んな女の子と付き合い、もともと恋愛対象ではない彼女の事はいつしか忘れていた。彼女は僕とは別の高校へ進み、その後東京の大学へ進学した。

やさしい雨

やさしい雨

小学校低学年の春。引っ越した先の隣の家には、自分の2倍はありそうな太った女の子が住んでいた―。 勉強、運動、家柄、多くのものに充たされた主人公「シュウ」が唯一充たされない「恋愛」。 そんなシュウに彼女は大きな影響を与え続ける。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-11-16

Copyrighted
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  1. 別れ
  2. 回想