practice(67)
六十七
「ちなみに,没後三百年を経ってから当該シリーズの十六作目,ここにある『きわなかの藻/砂足をあげれば』の一つ前のものが盗られて,三作目,あと四作目の『とうせんぼう』の習作が数点と続いて,その行方が分からなくなっているんだよ。」
ペパーミントの蓋を開けて,添えられた木の匙を袋から出さずにネクタイを直してから喋る指にはさっき私が描いたドット模様と,爪を三日月に見立てたネイルが交互に施されて,事務的な動きに不似合いで即興的なアクセントを加えている。ねずみ色の階段の手摺も,肌色のこめかみもそれに同じようにトーントンとされて,明朗な階段を下りて来る吹き抜けの広間のモザイクになる,その組み合わせは赤と黒,青と黄色。展示のために,隣で見ているように立たされたマネキンのグラスを借りれば単一の白に光るのかもしれないけれど,雨が入り込まないように天窓を閉めた今となっては真夜中より遅い。
編集したプレイリストの「次」をタッチするように,演出が試されるこの打ち合わせの機会には,差し入れのスムージーの味わいが濃く広がる。もとの果実,瑞々しい種。不思議とジャリッという,マンゴーの橙色は聞き役に回る私のもの。
「それから,『翁』の絵だ。『翁』の絵については?」
ストローから口を離して,答えるのも私。
「堅物である前に難物。配置などの実際問題においてまで考えさせられるために,倉庫の奥でともに眠りに着いた方が早いと言われる困難な一枚。」
「そう,困難な一枚。だからコレクターごころなんていうものが駆り立てられるんだけれども,有名な話も知ってるかい?」
「盗んだものが返しに来る。一週間は,過ぎたりしない。」
三日月の人差し指で言われる,仕草としての『その通り』。
「バカンスなんだよな,だから絵である『翁』にとっては。帰って来ると話したがっているようにも見えるというのが学芸員の一致した感想らしいよ。盗んだものの,苦労が知れる。」
見上げた先の屋根の構造,バルーンの鳥のカラフルなアートが集中して引っかかっている。ドットの指は,室内のこそばゆいところの線を辿っている。
「『翁』は,さあ,どうしたいか。」
『翁』の絵は,さあ,どうするか。
タッチしない液晶画面に映る,涙の映画のヒロインが消音された台詞を唇にのせて伝えている。スムージーと丸い椅子は夢中になって,大人しい。
「からのコップと水差し,それも容れてる水は一杯分。」
「うん?」
くるっと回って止まる指,吹き抜け広間で私の発言はドットの柄で求められた。
「からのコップと水差し,それも容れてる水は一杯分。丸テーブルは,この丸い椅子で代用出来ますから,これだけを用意してもらえれば。」
また回り出すトッドの指先。ハテナを描く気がないのも事柄。
「勿論出来る。けれど,それの意味は?」
「『翁』と一緒に考えましょうか。水差しとコップを持って,丸椅子に座りながら。」
心当たりに弾かれる指先もある,それに付いてくる具体的な例があっても不思議じゃない。
「デシュンの『泉』かい?」
汗をかいているようなカップのスムージーの,冷たさは全く消えないから私は付き合う。淡々と,映画のワルツのシーンも踊る。
「そこまで舞台してませんよ。その場で直ちに使えるものです。」
「その場で直ちに使える,か。」
「そうして活きるものもあります。くるくると回ったり,」
「ドットしたりするものも?」
「それは私が施したネイルの模様です。」
「しかしこうして(と指先で回して),使える。」
「それは身体機能で説明した方が適切だと思いますが。」
「しかし意味は加わっているだろう?こうして,」
指先のドットが回る。私がそうして塗ったもので,
「さっきこうして,塗ってもらったものだ。」
液晶画面の青い漂い,何かを消したら見えそうで。
「三日月の方は,あまりお使いにならないのですね。」
「まだ上手に使えないんだ,半人前なもので。」
「語義どおりに?」
「文字どおりでもいいよ。代わりはないさ。」
「それはごもっともです。」
「なら,ここが終着点かな?」
「そうですね。だから,ここは終着点です。『翁』の絵のための,一時しのぎな。」
一時過ぎの。
「上等だ,と思うよ。じゃあ,早速出来る準備はしておこうかな。奥の奥で,『翁』が待ってる。」
ぱたん,と言って閉じられるファイルの微風に巻き上がる,静かな姿形。再度蓋を閉じられたペパーミントのアイスクリームは溶けたのかどうか。袋を破かれることがなかった木の匙の無事を確認したい。それと吹き抜けのバルーンアート。今あるものを見てみれば,丸い椅子。スムージーは橙色をまだ残している。液晶画面のクライマックス。
「このあとの予定は,当てましょうか?」
日付けの三日月が交差する,モノトーンの上階。水差しに残った一杯分だけお話ができるときがある。
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