ランナー

【月・ペットボトル・着圧ソックス】

 一歩ごと、一呼吸ごとに、体温の上昇を感じる。筋肉が伸縮し、血流がスピードを上げ、その速度と呼応するように、私の体もスピードを上げる。右足が地面を叩くたびに吐き出される二酸化炭素が冷えた外気に溶けて、左足が地面を叩くたびに冷たい酸素で肺が膨らむ。
 制服の時に履いている紺の着圧ソックスを脱いで、くるぶし丈の靴下とランニングシューズを履いた脚は驚くほど軽く、スポーツシャツと短パンも体操着なんかよりずっと軽い。
 夜の校舎がひっそりと闇を背負って、部活では使わない小さなグラウンドのトラックを見下ろしている。聞こえるのは街灯の薄明かりの中を走る私の足音と呼吸音だけ。そしてやがてそれも聞こえなくなる。
 中学で陸上部に入った。長距離を走るのは好きだったが速くはなかった。部活で毎日走っているうちにそれなりのタイムが出るようになった。大きな陸上競技場で緑のタータントラックの上を走った気持のよさは忘れられないが「ただ楽しく走る」だけではいられない、勝ちに執着する空気が苦手で途中退部した。
 高校では部活に入らなかった。学校が終わったら、一度家に帰り、課題と夕食を終わらせてから着替えてペットボトルのスポーツドリンクを持って学校に戻ってくる。家から学校まで歩いて十分かからない距離だからこそできるのかもしれない。
 筋肉が疲労して、肺が千切れそうに痛い。止まってしまいたい気持ちとは裏腹に、足は規則的に交互に動き続ける。体内のありとあらゆる細胞が組織が忙しなく滞りなく動き回って骨も筋肉も血液も、ただ走るためだけに動き続ける。目に見えないけれど確かにそこにあって、私の中にあって、走っているときは特にその存在を大きく感じられた。
 こめかみを伝った汗が顎の先で揺れて落ちていく。軽かったシャツも汗を吸って重くなっている。走っているときは自分の体で起こっていること以外、すべて忘れられる。家族のこと、学校のこと、友達のこと。全部全部、足が地面を蹴って進むたびに置き去りにしていける。
 走り終わると、校舎に近い所にある朝礼台の辺りで軽くクールダウンをするのだが、そこにはいつも先客がいる。
「こんばんは。」
 挨拶はたったそれだけ。同じ高校に通う一つ先輩の彼は、そこでいつも星を見ている。朝礼台の上には自前の天体望遠鏡が立ててあって、しかし彼がそれを覗いている時間はそう長くない。すごく高価そうなものなのに、毎日持ってくるのも一手間なくらい重そうなものなのに、ほとんどの時間を寝転んで空を見上げて過ごしている。時折、星座の本をめくってはノートにメモをしたり、顔も上げずにスニーカーのつま先を見つめたりしながら、私がクールダウンを終えて家路につくまでずっとそこにいる。
「星、見ないんですか?」
 帰り際、ふと見ると彼は朝礼台の上で仰向けに寝転び目を閉じていた。指が動いていて寝ているわけじゃないことがわかったから、話しかけた。彼は驚いたように目を開け、私を見てから上体を起こす。
「今日は新月で、月明かりがない分、肉眼でも星がよく見えるから。」
 しかし、目を閉じていては見えないだろう。と思っていたら、彼が気まずそうに続けた。
「星が降ってきそうなくらいたくさん見えて、怖いんだ。」
「好きだから見てるんじゃないんですか?」
 彼は深刻そうに視線を落として押し黙った後、
「好きだけど、よく見るとやっぱりなんだか怖いんだ。」
 と言って困ったように笑った。矛盾している。だけど、わかる。
「私も、走るの好きだけど、得意ではないです。」
 きっと、同じようなものなのだと思った。空を仰ぐと確かに、いつもより星が余計に輝いて見える。普段は見えない宇宙の小さな星もきっと見えているのだろう。目に見えないけれど確かにそこにあって、月のない夜には特にその存在を大きく感じられる。走っているときに感じる体内の活動と似ている、と思った。
 私の体の中にも、宇宙があったんだ。
 目を閉じて大きく息を吸うと、冷たい空気に紛れて小さな星屑を吸いこんだ気がした。

ランナー

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-03-20

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