万華鏡
日々、介護に明け暮れる女性の不思議な体験
『運転手さーん!
あと一人乗りますから、少しだけ待ってて下さーい!』
普段、無いものとして処理している雑踏の中、透き通る声に何事かと眼をやると
白衣にピンクのカーディガンを着た女が電停に居て、老婆の手を携え乗り込もうとしていた
“プシュー‥”
運転手にはその声が聞こえていないのか、無情にもドアは閉じられた
「おいおい!
まだ客が居るぞ!」
乗客の一人が怒鳴るように大声で言った
「チッ…」
平静を保つ電車内、私の耳には舌打ちする運転士の声が確かに聞こえた
“プシュー‥”
程無くしてドアが開く
右手で握り棒に掴まり、左手は女の左手に携えられた老婆が、ゆっくりと電車に乗り込んできた
女は右手で老婆の腰を支えながら、近くの乗客に頭を下げると申し訳なさそうに電車の中程に導いた
『心配させてごめんね、お婆ちゃん』
女は二人の老婆を連れていて、一人づつ電車に乗せようと二人目を迎えに行き、そこでドアが閉じてしまったようだ
咄嗟に大声で知らせた客が居て良かったと思いながらも、何も出来ない自分を情けなく感じた
そんな事を考えていたら、私の隣で携帯電話をピコピコやっていた二人の男子学生が“スッ‥”と、どちらからともなく立ち上がり、吊革に掴まるでもなくピコピコと携帯電話とにらめっこを始めた
『ありがとうございます…』
女は男子学生にお辞儀をして、老婆二人を座らせた
女の声が聞こえない筈がない二人の男子学生は、返事をするでもなく会釈するでもなく、携帯電話をピコピコとやっている
瞬間、私は顔面が熱くなった
大声で知らせる事もしない自分
座席を譲る事も気付かず、ただ座っているだけの自分
そんな自分が、顔から火が出るくらい恥ずかしかったのだ
私はそそくさと立ち上がり人並みを抜け、少し離れた所で背中を向けるように吊革に掴まった
女は私の背中に『ありがとうございます』と言った…
私は「もうやめてくれ!」と頭で願った
舌打ちする運転士に責任転嫁するしか、赤面した自分を鎮める術がなかったのだ
幾つかの電停を通過すると、乗客も疎らになった
三人がまだ電車内に居ることを、時折マドに写る人影に私は確認していた
私の頭の中では、三人が現れた場面から私が背中を向けるまでの出来事が、くどいくらいに何回も何回も繰り返され、自然体であるはずの次の行動さえ迷っていた
座席が空いているのに立ったままで可笑しくはないだろうか…
別に座らなければならない決まりはない…
それに、いま座れば三人と向かい合う格好になるではないか…
散々迷ったのだが、顔の血流も落ち着きを取り戻したようだし、座ることに決めた
然り気無く電車内を見渡すように三人をチラッとみると、女は自分の両側に老婆を座らせていた
女の両手は両脇の老婆の手に繋がれていて、それを包み込むように老婆の手が添えられていた
幼児帰りと云う言葉は知っていたが、目の当たりにしたのは初めてで、女に凭れ掛かり安心して眠る老婆に成る程と思った
路面電車がトンネルに入ると、すべての車窓は鏡のように電車内を写し出した
三人の向こう側のマドには、何にも出来ない男が冴えない顔をして私を見ている
見たくもないモノから目を逸らそうとした時、走馬灯の中に三人の人影が見えた
「二重写しか…」
そう思い目を逸らそうとしたが、何かが違う
その違いを確かめたくて、もう一度マドを見た
すると、走馬灯の外枠が取り外され三人の人影が露になった
真ん中はその女に間違いないのだが、両脇に居るのは老婆ではなく、子どもなのだ
無邪気な二人の子どもは千代紙を貼った筒状の物を女に手渡し、覗くように促す
女は微笑みながら両手で受け取り、空に向け覗き込んだ
筒の中では、赤や青や黄色といった様々な色のビーズが鏡の中で無限の広がりを魅せていた
それを回すように二人の子どもが言うと、女は静かに回転させた
色とりどりのビーズは、無限の広がりの中で少しずつ少しずつその形を変えて魅せた
二人の子どもは、夢中になって万華鏡を覗き込み歓談の声を漏らす女の肩を優しく撫でながら手を繋いだ
そうして三人は立ち上がり、輪になると空高く舞い上がった
高く高く舞い上がり、幾つもの星を通り越し、そうして三人は宙に浮遊した
それはまるで、宙という万華鏡の中にいるようで…
いや、覗くと云う感覚ではなく、どこを見ても色とりどりの星屑がキラキラと輝いていた
女は時を忘れ星空に酔いしれた
“コトン”と、膝から床に落ちた万華鏡の音に転た寝から目を覚ました女は、二人の老婆を優しく揺り起こすと次の電停で降りた
三人が去った電車内では、千代紙の貼られた万華鏡がカラコロと軽やかな音をたてながら転がり、ドアの向こうへ“スーッ‥”と消えた…
万華鏡
百歳以上のお年寄りが五万人に達しそうな長寿国日本
介護職に従事される方々に癒されるひと時を…そんな思いで書きました。