宵の暮れ

[宵の暮れ(The evening of the evening)]20110519

 霧煙る夏至の宵は、コバルトブルーの暮れ空を見上げ、ぼんやりと盛る月を見上げた。
白石のベンチはひんやり冷たく、あたしは指先から手を触れ合わせ置き、ハープの先の草花を見た。艶やかに潤う露を乗せ、群青に光っている。夜は近いのね。
まどろむには肌寒い中を、使用人達が蒸す緑の庭に温かなランタンを灯したよう。霧の先にゆったりと、優しげな幻想を広げている。夢へと流れる明りの如く。
葉の香りや清らかな花の香りを霧は乗せてさらさらと流れては、いつしか知らせる。独特の薫りを。
彼だけのこの時期の香りは、屋敷の調香師によるもの。また新しい夏には潮風に持っていかれる香りは、今の宵には霧に含ませ肌に馴染んでは絡み合う。
鼻腔に広がる夏花に視線をそっと流れさせ、ハープの線に指を滑らせ温もりある音を発しては霧の中の愛しい影を見た。
彼は輪郭を持たせ歩いてきては、はっきりしはじめたシルエットの指先で葉を撫でながらやって来る。
「ハープの音色でわかったよ」
「心からのシグナルよ」
「君のままの音色だね」
今宵は徐々に霧は濃密になり、そして寒さと共に目に見えるのは微かなランタンの明りだけ。
彼の手を取り一歩一歩庭を進み、彼の香りや、草花の香りに充たされながら暗い夜道を歩く。
神秘的な鳥が声を震わせ鳴いている。彼等も、先ほどのあたし達のように恋人を探しては身を寄せ合うのね。
「今は美しい夜の鳥を感じよう」
「本当に綺麗」
いつでもあたしはハープの旋律に乗せて夜、唄を歌う。でも、森から迷い込んだ鹿やリス、鳥が霧の空を飛ぶ時は、彼と共に気配を探るのが好き。
「紅茶を用意した頃かな」
「もうちょっと……いましょう?」
彼はランタンの下で微笑み頷いた。
手を取りまた闇を歩いて行く。
時々、空気の流れで庭から林までの芝に出るのだとわかる。足許は柔らかな草地になり、その香りが上がって来た。
「遠くで獣達が咆えているね」
「狼達も警戒しているのかしら。今宵の霧は深いわね」
「雨に変る前に屋敷へ」
「ええ」
引き返して行くと、振り向いた庭には街灯も灯っていた。使用人達の影は、草木の濃密な中を行き来してはハープを運んでいる。その態までも夢の中の幻想でお伽噺の中みたいだわ。
寄り添う背後の彼を見上げ力無く微笑んでは、森の狼達の声を背に屋敷へ進む。

 鎮まり返った屋敷に曲を流れさせ、繊細で夏至の色のカップでハーブティーを頂いた。
どうやら、しとしと雨が降り出したようで、いつしか鳥のあの美声も森へ羽根を落ち着かせたよう。今は恋人同士で温まっているのだろう。つぶらな瞳を閉ざして夜が過ぎていく中を。
「姉さん」
ミラが室内に現れ、彼を見ると驚いたように小さく微笑んだ。
「いらしてたの」
「ああ。お邪魔しているよ」
「いいのよ。何かお出ししなきゃね」
「おかまいなく」
ミラはこちらを見ると、あたしは視線で彼女にも座るよう促した。
「実はね、ミラ」
ミラは落ち着いた頃にこちらを見た。
「その指はどうしたの? 姉さん達、まさか」
「ええ」
ミラが人の会話を遮断してくることはまず無い。それでも、あたし達の中に一種の諦めの表情や雰囲気を感じていたのだろう。あの霧の中の様に、まだ居たくて、それでも二人は寄り添うのに真っ暗だった。他の恋人達のように寄り添い眠ることも無く。
「婚約は解消されたの」
ミラは顔を反らしうつむき、目を綴じた。彼はミラを気遣っては背後に来て肩に手を置いた。きっと、彼女も分かっているんだわ。家庭や家族を選べるポストではなくなった彼の飛躍を邪魔できないし、あたしは彼の元に行けるような女性とは違うのだから。
「ねえ。ミラ。あなたは体力があるじゃない」
「やめて姉さん。姉さんに今日じゃ寄り添っていたい位だわ。パパは分かっていて仕事の話を彼に出して」
「ごめんなさい。ミラ。そんなに感情的にさせてしまうなんて」
「君等のお父様が悪いのではないんだ。それを君のお姉さまも理解してくれている」
「今日は霧が深くて、何かがあるんじゃないかと思っていたの。姉さんのハープの音色さえ一日中小さくて……」
この子に話すには早かったのね。あたしが決心をつけたのも一月前の事だもの。
「またこの屋敷を預かっていましょう? あたし達二人で」
「君達のこの屋敷にたまには癒されに来るよ。また昔のように」
ミラはあたし達の顔を見ては涙を拭い頷いた。
彼が婚姻を結ぶつもりはあたし以外とは無いと決めていると言ってくれたけれど、構わないのよ。よく気が付くミラの事だっているわ。
悲しいけれど……出逢った八年前の美しい初夏の夏。金に光るハープの先に、父に連れられた彼を見た。あの時からの恋心は、夏を越え秋のように熟し、冬温めあう事は出来ても、春を共に迎える歓びにまでは到達出来なかった。
心の中だけ。心の中でだけは実っていたのに。
あの日の輝ける初夏の歓びも、彼の笑顔も今でも大切にしている記憶。
「今宵は、彼の飛躍を祝いましょう」

 ワインの赤はとても深くて、真っ暗の窓を見詰めた。室内が映り、不安げなあたしの顔まで真っ白く映してしまっている。
気分を取り直しては笑顔で顔を戻した。
「………」
あたしは視線を落とし、静かに抑えめな視線がミラから彼に発された事から逃げた。ミラは彼のことが好きだから、いつか言ってやりたい。着いていってあげてと言ってあげられたらいいのに。この子の気持ちに整理がつくときに。
「これからのサンダーの飛躍に」
「乾杯」
微笑みが円卓を囲い、クリスタルのグラスを傾けた。
黄金のシャンデリアに照らされる笑顔は厳かに光り、誂えられた四季の花が和らげてくれている。
この明りの元の心情が本当の霧の暗がりに飲み込まれてしまわないように。
「まあ! 雨が止んで風が出たのね」
あたしも顔を向けた。
「本当。なんて綺麗な月かしら」
輪郭をくっきりさせ、あまりにも繊細だから指先で触れれば崩れてしまいそうな程月は細やかな模様をしている。
「今に星も出て来るかな」
あたしは返答をそれとなしにミラに任せるために、彼の横顔を見詰めただけだった。
「そろそろ白鳥座の時季よ」
ミラが笑顔の横顔でそう言い、あたしは頷いた。
「ベガも見えるね」
彼はあたしを見た。優しい笑顔で。
琴の星座。ハープをもう、彼との愛に奏でられない……。あたしは涙を流していた。
彼があたしを抱き寄せてくれて、ミラは驚き駆けつけてくれた。優しく肩を持ち、共に泣いてくれる。


 「断ります」
彼が海外に向かい半年の月日が経ち、真冬の時期に父は男性をあたしに会わせた。自分でも感情的になりそうで、目を閉じては開き、気分を落ち着かせた。
「彼は伯爵家の次男坊でな。実に話も面白い。誠実で、いい顔をしているだろう」
誠実が当て嵌まるだけじゃない、ときっともう一人のあたしがもしもいるのならば言っていただろう。
俯き、一言も話さず、そして泣きそうな顔をしている。彼にこのお屋敷の主になってもらえるような頼りがいある顔つきを一度でも見せてくれるのならばいいのに。
「あの、大丈夫? 緊張されて……新しいお茶を」
あたしは立ち上がり、微笑んでから進んだ。使用人にそっと下がらせ、新しくお茶を注いだ。お出しして、「和むように」と言った。
伯爵家はとても立派な一族で、きっとこの子は囲われてきたんだわ。まるであたしの人生のように。でも、男性ではそうはいかない。
驚くほどミルクを入れるものだから、あたしは小さく微笑んでこぼれたミルクを拭ってあげてから戻った。
「十は下だが、妻が年上の方がいい場合もある」
父はそれだけを言うと、押し黙った。
三人とも。そして、吹雪だけが静かに響いた。
……彼は今、よくしているかしら。雪の降らない国は暖かいようで、屋敷に訪れることの無いまま。
結局、新しく婚約の相手は決められる事の無いままに時は過ぎた。
ミルクティーも熱いままに飲み干し、子供のままの大きな鳶色の目であたしを一度見ると、その日は馬車に連れられ帰って行った。
父は言った。
「どうやら憧れていたらしい。三年前に大きく宴を開いただろう」
「屋敷のお庭でのこと?」
「伯爵に連れられて、ハープを奏でるお前に心寄せていたらしい」
「光栄だけれど、まさかお連れするなんてパパったら」
父はワインを傾け肩をすくめた。
「しかし、五年もすれば男は変るさ」
「また適当を言って」
あたしは席を立ち、ハープの置かれた場所まで進んだ。
調律をしながら窓の外の気配が耳に届く。清らかな雪の時季。
「お泊めして差し上げればよかったわね。吹雪を帰っていって」
「多少は逞しくなるさ」
「お酷いことを言う」
調律を続け、使用人が注ぐワインを父は傾けては、母の話をした。
いつでも帰って来ると、聴かせてくれる。母の話を。
それを聴きながら、あたしは目を閉じ調律を続ける。
父は薄い腹部と長身の背を立たせると、また快活にシャープな頬を微笑ませ室内を後にした。
あたしは微笑みハープを奏でる。

 「サンダー!」
あたしは目覚め、室内を見回した。
驚いて、明るい月を見上げた。カーテンは開いたまま、吹雪の気配すら消えた夜空を彩り、強烈な存在感としてある。
多少の威圧感を感じて、寝台から離れて透明なヴェールだけを引き光を和らげさせた。
ノックが聞こえ、扉を見る。
「はい」
「ああ、良かったわ。姉さん」
「ミラ」
「使用人から叫び声を聞いたと」
叫び声。悪い事をしてしまったわ。夢で目覚めて彼を呼んでいた。
「大丈夫よ」
あたしは扉を開け、ミラに微笑んだ。彼女も微笑み、ヴェールの先の月を見た。月に柔らかな頬が照らされ、ミラが不安げにあたしを見た。
「今日、あたしのピアノレッスンの最中に男性が来たんでしょう? 強引な話だわ」
ミラは父のやりかたにいつも心では反対しているから、あたしの分まで感情を高まらせてくれて、彼女の背をそっと抱き寄せた。
「いいのよ。なんて優しい子。でもパパはしっかり見てくれているのよ。彼にはやれるべき力があって任された。今回の子には少しでも逞しくなる為の訓練の場を与えたのね。
「姉さんったら、本当に人が良い。今夜は共に月を見上げましょう」
「そうね。ありがとう」
室内は月明かりだけ。群青に染まっている。
窓から情景を見つめると、純白の雪はキラキラとダイヤモンドの煌きで銀に光り、そしてそよ風が吹いては美しく巻き上げていく。粒子を纏って白の風は行く。
流れる雲があるならば、群青の影を下ろし光っては流れていく白雪の風。
今は清い空は星が光っていた。
夢を見た。彼が雪原の先にいた。
あたしはかじかむ手でハープを奏で、見つめている。銀月が線を光らせ、奏でる音を神経質にした。なぜ逢いに来てくれないのよ。夢では叫び、泣いていた。


 「ライト」
昨日の子が、晴れた今日の白い世界の中誘ってきた。
まだ十六の年齢で、線も細い。顔を上げていれば可愛らしい顔をして、繊細な伯爵夫人の顔立ちと、この彼の兄と同じく明快な伯爵ゆずりの明るい髪色。
もっと若くて、同じ年代の恋人をつくればいいのに。
「ミス」
嬉しそうにやって来ては、あたしのハープを探しているようだった。
雪の積もる庭には出さないから、室内にあるけれど招き入れられる場所では無い。
執事が視線を送って来た。あたしは頷き、ハープを硝子に囲まれた東屋に運ぶように促した。
「お聴きになるかしら。お散歩はお昼が近付いたらにしましょう?」
あたし達はゆっくりと歩き出した。白の庭を。
彼の心……、静かで、白い世界のようだったわ。この子の方は物事の若い初夏のよう。季節のめぐり合わせG愛を結ぶならば、この子とも夏に出逢っていれば、少しは頼りある男性に見えていたのかもしれない。やがて冬の様に落ち着き払った人になる日は来るのかしら。
話してみれば、確かに楽しい子でやはり笑顔も可愛らしい。
それでも、彼の存在はあたしから消えない。
「可愛い雪兎がいます」
この子より逞しい目をした雪兎は、こちらを見ると林へ帰って行った。
「僕は街中育ちでしょう? だから、義理の姉さんの白猫と見分けがつかないんだ。その白猫はいつも僕を驚かせてきて、枕に獲物を置いていきます」
「あなたを恋人だと思っているのね」
笑いながら硝子のドアを開けた。
ハープが設置され、多少肌寒く静かな中を進んだ。
窓壁の中を小鳥達が駆けて行く。冬の空は水色でその中を。
あたしは黒革の手袋を置き、黒の鉤釦で留められた白のコート姿で、ハープの線を撫でるように奏で始めた。爪で弾きながら、視線を感じる。
「お兄様の奥方の猫は雄かしら」
「雌です。自分の子供だと思われているのかも」
「猫に育てられたのね」
「はい」
ハープを奏でながら微笑み視線を向けた。
「………」
あたしは驚き立ち上がり、声を発した。
「サンダー」
彼は壁の先を歩いてきては、あたしの声に振り返ったライトは表情がなくなり、いきなり走って行ってしまった。
「ライト!」
白の庭を走る青年に、彼はこちらを見た。あたしは東屋を出て彼の場所に行くと話した。
「そうか。社長の紹介で。追いかけよう」
「あなたはここに」
「そうだな」
「旅疲れもあるでしょう。ゆっくりしていて」
あたし達は微笑み合い、別々に進んだ。
白い中を歩き、あたしは振り返った。
彼も振り返り、白の雪の世界で見つめ合い、束の間駄目だと分かっていても、走っていた。彼の胸へと。
あの子を追い掛けてあげなければと分かっていても。

 「ライトというの。彼は父の部下で、サンダーよ。今は海外にいるの」
「常駐でね。五日間の休暇をもらった」
父も彼には諦めさせるために期間を与えたりなどして。
ライトが彼を見つづけてから、あたしを見た。
「実は、宴の際もとてもお似合いだから分かっていたんです。とても素敵だった」
「婚約はしてはいないよ」
「意外です。恋人同士なのだとばかり」
彼は小さく微笑んだ。ライトの方は安心したように微笑んだ。それでもすぐにはにかんで口を閉ざした。
「今日は楽しかったです。僕は夜分も遅くなったので、おいとまします。旅疲れを癒してください。お久し振りの事でしょうし」
「まあ、気を遣うなんて」
「君ももう少しいるといい」
「せめて夕食を共に。妹もいるの」
ライトは緩く首を横に振り、帰ることを言った。
また吹雪き始めたというのに。
「ライト。ねえライト……可愛い子。今日は泊まってほしいの。お願いよ」
「僕を大人と認めてくれますか」
「ふふ。あと数年したらね」
ホールの寒さはライトの真摯な大きな眼差しを、とても危なっかしいものに思わせる。どうしても共にいたくて、腕を引いて引き戻した。
屋敷の暗がりを二人で歩きながら、あたしはライトの横顔を見た。
廊下の向こう、闇に呑まれそうなこちらを彼が見ている。どこか安堵した顔つきであって、きっとあたしと同じ感覚なのだろう。
今はライトを一人にしたくはないという確固とした感覚。
だから、少し早いディナーをセッティングし、ミラも来させた。
「妹のミラよ」
「こんにちは。姉から聞いたわ。サンダーがどういう顔をするか、パパはしっかり執事に見させているのかしら」
「ハハ。監視されながらの休暇か。明日は四人で湖をボートで滑らせようか」
「オールは僕が」
ライトが微笑み、水のグラスを傾けた。
「執事を巻きます」
「ライトったら!」
「柳の先に隠れましょう」
「綺麗でしょうね」
温泉の蒸気が湧き上がる場所があって、冬季にもその横の湖は幻想的な水煙を立ち上がらせながら、柳は揺れている。そんな幽玄な情景の周りは緑が白雪から覗き、そして青空や、木々や柳を映す水面を夢の世界にする。

静かに眠る中を、あたしは目を醒ましては暗い室内を見た。
其々のゲストルームにいる彼等は、今頃ぐっすりと眠っている。
寝室を出ては、ハープを移動させたリビングに向かうことにした。足音は絨毯が吸収し、音もなく進むと、顔を上げた。
狼。遠吠えが聞こえる。あたしは嬉しくなり、微笑み歩いた。
リビングルームにつき、あたしは扉を開いた。
「……サンダー?」
人影はライトだった。
ハープの前で彼は振り返り、キャンドルに照らされあたしを見た。円卓の上には、鋏。
「……!」
あたしはハープに駆け寄り、悲しくて、とても悲しくてライトを見た。彼の腕に手を当て、泣く彼を見た。
ハープの線を切ったライトがあたしにしがみつき、あたしは切られてはうねり光る線を見つめながら柔らかな紙を撫でてあげた。
実感が無い程、柔らかくて、まるで幽霊のようで目を閉じ強く抱きしめてあげた。
「大好きです。僕は大人になれない。なれないんだ」
「ライト。あせらないでいいのよ。ここにいていいのよ。共に線を張ることだって出来るのよ」
「ごめんなさい。僕は酷い人間だ。男じゃ無いことを」
「いいのよ」
髪を撫で続け、目を開いた。
「良かった。あなたが屋敷にいて」
夜の野外は危ない。
あたし達は共に新しい線を張り始めた。一本一本。取りとめも無い話で心を一定に保ちながら。
重いカーテンの先は夜の空気が流れているのだろう、風は窓を撫でていた。雪は止んでいそう……。

 ミラがグランドピアノを弾き鳴らしながら唄い、その旋律に彼がやって来た。
「おはよう。サンダー」
「おはよう。二人とも。王子はまだ夢の中かな」
「幸せな夢を見ているのでしょう。あの子ならば」
ミラはピアノに合わせて唄い、あたしも微笑んだ。
昨日は遅くまでハープのご機嫌取りを二人でしていたから、十時辺りまで眠っているのかもしれない。
二時間のまどろみの時間を入れる習慣のあるあたしは、夜分遅くなろうとも朝はよく目覚める。
朝摘みのハーブティーを淹れ、香り立つ。お盆に乗せ、あたしは廊下を進んだ。
ライトの寝室に来ると、まだまだ無垢な顔つきで眠っているだろうから静かに進んだ。
あたしは円卓にお盆を置き、窓に駆け寄りテラスを見た。
開け放たれた窓の先、朝日の眩しさにライトはいて、両腕を掲げていた。
安心して、しばらくは白いシャツの影射す背を見ていた。
「ミスクリスタル」
「おはよう」
照れたように微笑んだライトは、テラスから室内に来た。影と光を作りながら。
あたしの頬にそっとキスをし頬を染めた。
あたしは微笑み、ライトと共に空を駆ける小鳥達を見た。


雪も積もらずに、そして蒸気が地から白く立ち昇る森の中を歩いていた。
屋敷の場合、これらの熱を引き調節して暖気は保たれている。時々は自然のままにしなければ、屋敷内の調度品が傷むために消される事もあった。
林の道までを先ほどは雪の中、馬車を進めさせてやって来ては、徐々に蒸気の沸くあたりから緑が濃く鮮やかになり始め、そして明るい夜空の季節を不確かな物にしていた。
森の中はミラと共に歩き、時々動物達がのんびりした態でこちらを見て来る姿を見上げながら進む。殿方はまた背後を歩いていて、会話の有無さえ不明な程静か。
稀に森の番人に会う時は、もっとおめかしして来るべきだったと思う程に野性的な美しさを保つ女性だから、ライトが彼女に一目惚れするかもしれない。
「いい男達二人お供に連れてミラー嬢は他の男狩りかい?」
「貴女に狩られる前に、姉さんのハープが貴女を惑わすわ」
「そうでしょうねえ。美人さんたち」
長身の森の番人が蒸気を我が物の下部のように腕で巻き上げ髪に含ませながらやって来ては、体に巻きつけここまで来た。
いつの間にか殿方達は別の道を行ったのかしら、見当たらない。彼がこの森に慣れているから問題は無いのでしょうけれど。
「今からボートを滑らせるわ」
「今日はよく晴れているから」
「熊の親子がさっき湖で泳ぎ始めたばかりだから、それは警戒して上げてね。最近気が立ってるの。馬に蹴られかけて、怪我は無かったんだけれど」
「そう……驚いたでしょうね」
「白馬よ。野生じゃなかった」
温かい森の場所があるから、ここの熊達は冬眠をしない。真っ白の世界に白馬が現れたなら、それはあたし達のことも攻撃的な目で見て来るだろう。
「二人は大丈夫かしら。貴女、様子を見に来てくれたのね」
「森と獣達を守る事は、同時に森の中の人間も守る事だからね」
あたし達は視線を巡らせ、硬質の草の音がした方を見た。
「注意して。動物の可能性が高い」
あたしは蒸気が流れた先を見た。
「あなたが現れるなんて。酷いです。彼女を取りに来たんでしょう!」
あたしは唇を閉ざし、彼に怒鳴ったライトの横顔を見た。
「………。私の気持ちは解らないんだろうな。こちらはどんなに願おうとも許されなければ結ばれもしない、その悔しさが。君は伯爵家の人間だ。きっと、徐々に大人になれば彼女を女性として愛せるだろう」
彼が悲しそうにそうあの子の細い腕を持ち言い、ライトは顔を真赤にして言い直した。
「ごめんなさい。あなたは大人で、落ち着き払っていて、だから僕の事なんて相手にもしてないんだと嫉妬して。僕の敬愛するミスクリスタルはあなたといるととても美しいから」
彼はライトの腕を撫でてから肩を叩きはにかんだ。いつもの顔立ちで。
「悪かった。大人げなく君に言ったりなどして」
ミラがくすくすと微笑みあたしを見ている。あたしは髪を背後に流して気を紛らわせてから引き返した。
「ねえ。ミラーはサンダーに着いていかないのね。あたしなら森に引き込んじゃうけどなあ」
「意地悪ね。もう!」
ミラが耳を紅く歩いていき、森の美しい番人はあたしを見た。
「蝶よ花よの姫君は」
そう魅力的に謳い、彼女はダークカラーの髪を翻し歩いて行く。黒のベストの背に揺れて。
名の無い彼女はガーディアンと呼ばれている。彼女の父親はいつでも洞窟のある森の奥地にいた。屋敷近くの森では、彼女があたし達を護衛してくれる。
「今日は旦那様は森を離れているのね」
「あたしが好き勝手言ってるほどだもの。あの可愛い嫉妬したがり。三日前から街に行ってるよ。野菜を売りに。上等の酒が入る予定。夜の蝶々女まで数人連れてきたら樽酒にあのこんちきしょうを漬けてやるんだけど」
この時季は野菜が少なくなるから、この温かい森での菜園は貴重な農園になる。
湖が見えてきて、ミラは木々の間から見渡した。
ゆったりとシルエットの先に揺れている。空は見えなく、まるで宵の時間のように思える。
二人がおくらばせながらもやって来ると、あの子があたしの肩にしがみついた。
柔らかな髪や背を撫でて上げては、睫を見つめた。
「不安がったりなどして」
そのはきはきした声音に驚いたライトが盛りの番人を見て、さっと上目になるとあたしの後ろに隠れた。
「ふ、ははは! お嬢さんの後ろに隠れているのは、将来の屋敷主人かい」
ライトは不貞腐れてから出て来ると、湖を見た。
「熊が!」
「刺激するんじゃないよ」
「はい」
あたしはライトの横顔を見て、不安で彼を見上げた。不思議な事だわ。ライトに実感がないだなんて。そんな悲しいこと。
あたし達はボートに乗り、湖面を滑らせる。静かに霧はサラサラ流れ、そして温度を変えては神秘的に鳥の声が天を響く。
彼はあたしの横に横たわり、湖面や森の木々を見ては柳を撫でていて、苔むす岸辺にはガーディアンが腕を組み立っている。熊の親子は湖の随分遠くにいて、豊富な魚を食べていた。

洞窟の中へと招待され、ガーディアンの夫が帰るまでを話していた。番犬の大きな犬が険しい顔のまま笑って舌を出し、尻尾を振っている。
洞窟の入り口はすでに宵の月が明るく、冬の夕暮を早くしていた。
夏場でも、林を越えた屋敷にまで蒸気が霧になりやって来る事は珍しい。押し寄せる濃密な霧は、父の心を落ち込ませる事を知っていた。母が初夏の霧が立ち込めた濃密な中を、二度とは帰って来なかった日の事を思い出すのだろうから。
でも、今の冬の時季は、夕方に一気に気温も下がれば蒸気は森を覆い尽くす変りに、空は圧巻させられる程の透明度を誇った。星はまだ観測されない時間帯。月のみが明りとして灯っている。
ふと見ると、森の番人の親子は光に祈りを捧げていた。霧や蒸気が立ち昇れば光輪が広がる月光は、今は強い光の中にある。静かに捧げる二人の祈りの時間はどこか厳かで、ライトはそれを見て膝を着いては同じ様に瞼を閉じ静かに祈りを捧げた。森の神に。自然の神に。光の神に。
ガーディアンは目を開き膝に腕を置いては、ライトを見ては微笑んだ。
空気の乾燥し始めた頃、出してくれた特別なお肉と野菜のスープを頂きながらパンを口に運び、ミラが彼を見ている視線をあたしは見ない振りをしていた。ガーディアンは分かっているから、気付く由も無い彼を見ては可笑しそうに首を振りナイフでチーズを切っては刺し口に運んでいる。

食事も済むと、痛い程に乾き始めた冬空を見た。
凍て付く風が空を撫でている。星は鋭く瞬いて、まるで触れれば傷つきそう。
「きゃ!」
いきなりの雷鳴に驚き、あたしは彼にしがみついた。
青い稲妻は星を架けるように光り走っては、一瞬星の存在を奪ってはまた瞬かせた。
雨も雪も雷雲も無く、雷は遠くへと消えて行く。
いきなり馬の激しい嘶きで森を見渡した。旦那さんかしら。あたしは本能的に、ライトを振り返った。
「ライト……」
あの子は真っ青な顔をして、大きな鳶色の瞳が震えていた。
「いいの。いいのよ」
とっさに抱き締めていた。彼もライトの肩を抱いてはその頭を抱き、あたしはライトの肩に頬を乗せ洞窟の入り口を見つめた。
稲妻は雷鳴を伴い走っては冬の大気を走り、馬の嘶きと共に響き渡った。
目を、閉じる……。
「帰ったぞ」
「あんた」
美しい妻が駆け寄り、馬具を受け取りながら男が食料の入る麻袋やお酒の瓶を置いた。
「お帰りなさい」
「これはこれは! お三方がお久しく。雷を怖がって? サンダーなどは白いぞ。お前の兄弟じゃないか」
彼は可笑しそうに笑い、今は収まった雷鳴の夜空は静かになっていた。
隠れていたライトが顔を出し、ガーディアンの夫H青年に気付いたようで、厚手の手袋を外した。
「ああ、ぼっちゃん……いらっしゃったんで?」
ライトに彼ははにかみ、あたし達を見ると歩いていきながら言った。
「伯爵様の所の次男坊が二日間帰らないって噂になってたものですからね、まさかうちのヤツが誘拐してきちまってたなんて」
「んもう! あたしは年上好みさ」
ライトの肩を撫でながらあたしは髪に頬を寄せた。その話にライトが驚いて消えてしまわないように。
ライトは手を震わせながら俯いていて、彼はライトに寄り添ってあげながらも腕を撫でてあげていた。
宵も暮れの中を、闇が今に占領する。
ガーディアンの父は葡萄酒を器に注ぎ飲みながら、ライトに狼の話をしてあげていた。賢くて用心深く、凛々しい狼の事を。
「僕も誇り高い狼のような男になれたならいいのにな」
ライトがあたしの肩にこめかみを着け、おぼろげに空虚を見つめながら言った。
静寂な眠りへと、落ちていく。ただあとは、美しい星光が心を惑わす事無く照らすだけ。優しくあたし達の横顔を。
彼はよそらを望む場所に腰掛け星を静かに見上げ、ミラは口ずさんでいた。このまま、夜も更ける……。
この子の肩を抱き寄せつづけた。安心するまでを。ただずっと。ハープで掻き均し詠う詞を唄いながら。
時々、ライトが眠りながら微笑んだ気がした。


 ハープを弾きながら、昼の雪は粉のようで、あたしは唄っていた。昼の月の歌。
白い月は白い雪化粧の枝木から覗いては、ダイヤモンドダストに煌いている。
彼は佇み、ホールの中を目を閉じていた。落ち着き払った横顔は、あの子の残した感覚を取り戻そうとしているようで、硝子の先の白い世界に溶けていく。
溶けていく……。

[end]



概要
サンダー 幽霊(ニ、三年前に森で幽霊に)
ミラ(ミラー) サンダーが亡くなっていると知らない
あたし(クリスタル) サンダーの死を受け入れていない
父 幽霊サンダーの存在を知らない
姉妹の母 濃霧の中を行方不明に
出張の話や婚約破棄の話は全てサンダーの口からしかしていない。

ライト 幽霊
父は娘が亡き元婚約者のリングを漸く外したことを見て、半年後に婚約者を連れて来た。
ライトは吹雪の森で幽霊になり、馬車の白馬が逃げて行った。翌日クリスタルに会いたい魂が、サンダーのように屋敷に訪れる。
ライトは洞窟の朝に浄化していた。
ライトは行方不明のまま終る。

サンダーはまた時々休暇を理由に屋敷へやってくる。普段サンダーの魂は森の中にある。
姉妹はどちらも婚約破棄したサンダーの話は父には出さない。

サンダー 雷鳴の意味。森の空を覆う。
ライト 稲妻の意味。気持ちが貫く様に駈ける
ミラー 鏡の意味。姉の気持ちを映している。
クリスタル 水晶の意味。くもりない性格。
霧や蒸気 真実をぼやかせている。
白雪の世界 静寂
星明りや月明かり 彼等の儚い望み。
夏至の緑 優しい記憶の戯れ。
クリスタルへ向かって轟く稲妻 ライトが幽霊だと確信したサンダーが、ライトの彼女への悲哀と激しい愛情、死の恐れを優しく包み込んであげる為に覆った雷鳴。雷鳴はサンダーの心。

宵の暮れ

宵の暮れ

森に囲まれた屋敷。霧煙る庭園でハープを奏でていたあたし、クリスタル。 彼がやってくることをいつも待っている。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-03-19

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著作権法内での利用のみを許可します。

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