九尾の孫 番外編【策の章】

平和な家庭、慎ましく2人で生活する父親と娘、母は、娘が生まれるとすぐに亡くなった。父親の若き日の過ちによって一家と周囲の人達が禍に巻き込まれて行く。
九尾の孫、【結の章】【絆の章】【勇の章】の番外編です。

家庭

相馬聡(そうまさとし)は、研究者である。
脳科学を専攻し、脳外科はもちろん、日本臨床心理士資格認定協会に認定された臨床心理学を修めている。
今は、関西の某大学の教授であり、一子の父でもある。
妻は、実子を生むと持病が悪化し、他界した。
一子は、気の強い子で小さい頃は、常に何かを我慢していてもあっけらかんとした娘である。
脳波に興味を持ったのは、ある時 被験者の1人と別の部屋に居る一人の被験者の脳波が異常なまでにシンクロし、目の前にある物質の酷似点(こくじてん)について同時に類似した見解を文面に認(したた)めた事が原因であった。
その実験以降、酷似した実験を数度と無く繰り返したが再現は、出来なかった。
それらのデーターを週末に家で纏(まと)めて見ようと家に持ち帰った事が原因で更に脳波にのめり込んで行く事となる。



「ただいまー」聡は、帝塚山にある自宅のガレージから玄関に周り込み家に入った。
靴を脱ぎ、玄関を上がり廊下を歩き奥のリビングに向かう。
「あ、お父さん、おかえりー、もう一寸したら御飯炊けるからねー、一寸待ってて~」と歌を歌いながら鍋から料理をすくい皿に移して行く。
「ビールで良い?」
「おっ、ありがとうね。今日は、ロールキャベツか、美味しそうだ」
「ほい、かんぱーい、今週も一週間、お疲れさま~」
カシャン、ビールグラスの触れ合う音と共に カチンと言う音がキッチンで鳴った。
「あ、御飯炊けた」と「まぜ、まぜ~♪」優子が走って行く。
小走りに走って戻って来て、「さぁ、食べよう」と言い、2人向い合せで食べ始めた。
いつもの週末の相馬家の日常である。


食事が終わり、洗物を済ませて2人でテレビを見ていた。
「うーん、最近、又 異常な犯罪が多くなってきたな」聡が言う。
「うん、この近くの池の向こう側ね、大阪府警の偉い人が住んでる家の角ね、人数がね、増えてたよ」
「だろうな、其処の銀行も数年前に籠城事件もあったしな」
「この辺も大きな家が多いからある意味怖いよね」
「うん、人が出歩かないからな」
「帝塚山の駅から近いから毎日、改札出たら走って帰って来るし、結構ね、夕方の7時位だな、うん、人が一杯改札潜るからまだ、その時間は、へっちゃらだよ」
「お前、バイク どうした?」
「うん、乗ってるよ。ドゥカティ、ストリートファイター~8、4、8♪、良いよ。最近毎日通勤してるよ」
「・・・通勤でか、お前、結婚できねーぞ」
「そのうち 出て来るよーん、慌てない慌てない、チッチッチッ」
優子が聡の方を向きながら 軽く握った右手に人差し指を立てて左右に振っている。


ドゥカティ(Ducati):
イタリアのボローニャを拠点とするオートバイメーカー、90度V型2気筒エンジンを側面から見るとL字に見える独特の搭載手法を取り入れた独創的な世界観を持ったメーカーである。
ストリートファイター848は、スーパーバイクチャンピオンマシンであるスーパーバイク1098のエンジンとフレームを移植したネイキッドモデルとは決して言えないマシンに仕上がっており、その名の通り、かなりのじゃじゃ馬となっている。水冷デスモドロミック4バルブL型2気筒排気量1,099cc、のエンジンが155PS/9,500rpm、11.7kgf・m/10,000rpmを絞り出し、車重197kgの車体を押し出して行く。言わばスーパーネイキッドモデルとなっている。日本国内仕様は100PS強に抑え販売されている。


「アッ、お父さん、明日、友達と映画を見に難波に行くけど、夕方、難波に出て来てよ。たまには外食しようよ~、帰りは、バイクの後ろに乗せて挙げるからさ~、良い?」
「良し、たまには家族孝行だな、その友達も一緒で良いぞ、正、俺は、自分の車で行く」
「わぉ、太っ腹ぁ~、ありがとう。お風呂入って来るねー」優子は、走って行った。
(まったく、もう少し、女らしくならんのかね、まぁ、好きな人が出来たら変わる事を祈るか)
聡は考え、ビールグラスと自分の食器をキッチンに運び、洗物をして書斎へ鞄を持って入って行った。
書斎へ入った聡は、部屋の明かりを点け鞄の中の書類を出し、手に持って机の前の椅子に腰かけるとリクライニングを倒し、何の気無しに書類を机の前の電燈に透かす。
聡は、驚いて椅子からひっくり返りそうになった。
「何だ、今の妙な一致は・・・これか・・・これが脳波の一致と言う事なのか」
聡が透かした被験者数人分の脳波がある一点を頂点としたグラフが、全く同じラインを描いていた。
「どう言う事だ、これはこのライン・・・そうか、1人の被験者ともう1人の被験者、此処に来る認識がこのラインを形成している。そうに違いない。出ないと理由が付かない、発動時間は、全く同じだ、これも、これも、これも、わかったぞ、純粋に意識が同じ方向性を持っていると脳波が同じになる・・・と言う事はだ・・・落ち着け、落ち着け、俺、・・・うーん・・・出会う、場所、うーん」
ドアをノックする音が聞こえた。
「いいぞ」
「お父さん、どうしたの、大きな声で」優子が顔を覗かせた。
「うん、少し、興奮してな、新発見したんだ。これとこれとこれ、透かして見て呉れ」
聡は、優子にそのグラフを渡した、優子が電燈に透かして見ると
「此処、同じだよね」
「そうだろ、そうなんだその部分だけが全ての被験者に一致しているんだ」
「良かったね、発見したんだよね、取り敢えずその興奮を鎮めないと寝れないよね、ワイン飲む」
「おぅ、祝いのワインだな」と言い笑う。
優子は、久しぶりの父親の笑顔に嬉しくなって微笑み、
「ワ~イ~ン~♪」と歌いながらリビングへ急いだ。
聡は、書類を鞄に入れ、机の下に置くと娘の後をリビングへ行った。

「かんぱーい」優子がワイングラスを差し上げる。
聡もワイングラスを差し上げ、乾いたガラスの音がリビングに響いた。
「よかったね~、あっ、つまみ、何が良い? サラミでもハムでもビスケットにレーズンバター、サラミを焼いてる間、ビスケットとレーズンバターにしよっか」優子がワインを飲みながら立ち上がり冷蔵庫からレーズンバターとサラミを取り出し、バスケットからビスケットを取り出してサラミをキッチンに置いて小皿とビスケットとレーズンバターをリビングのテーブルに運んだ。
急いで戻り、サラミを炙り、4mm程度に刻んで小皿に盛って戻って来る。
「もう一回、かんぱーい」優子が言って乾杯し、ワインを1本、2本と空けて行く。
「優子、お前、ほんとに酒、強いな」
「だってお父さんの子だよ、一緒に呑む親子ってのも良い物だよ~、感謝感謝」
「ハッハッハッハッ、謝謝(しぇいしぇい)」
聡は(あいつも生きていたら3人で呑めたのにな)とふっと亡くなった妻の事を思う。
「あー、母さんの事、思い出してる、愛妻家だねーぇ、わかったわかった」
優子が立ち上がり仏壇にワインとグラスを持って ふらふらと歩いて行き、
「母さん、お父さんがまだ思い出してるから 一緒に呑もう」と言いワインとグラスに注いでいる。
そのグラスに自分のグラスを当てて乾いた音を響かせて戻って来た。
「これで3人で呑めるよ、さぁ、さぁ、お父さん、ぐっ、ぐっと」
「ありがとうな、これでお前が結婚出来れば、あいつも喜ぶよ、わっはっはっは」
「それ、それ、禁句ね、あー、一寸酔っぱらって来た」優子がほっぺたを膨らませて抗議した。
「2人で3本も空けりゃ酔うわ、よし、後は、俺が片付けておく、美容の為にもう寝ろ」
「ありがと、おとうさん、寝るわね、明日、よろぴくれーす」と言いながら手に持ったグラスのワインを一気飲みして「おやすみなさい」と頭を下げて自分の部屋へ戻って行った。
聡は仏壇の前へ行って胡坐(あぐら)をかくと「もう一杯、付き合ってくれ」と言い、グラスを当て、自分のグラスに入ったワインを飲み干した。

研究

相馬聡は、月曜日の朝早くに家を出た。
助手席には書類やデータの入ったヨレヨレの鞄が置いてある。
子供に戻った様なウキウキドキドキした気分でハンドルを握っている。
聡は、洋服や持ち物、車に至るまで全く興味が無い男であった。
13号線を北に抜けて大学に向かう、朝の7時だと言うのに天王寺の交差点がえらく混んでいた。
車の横を路面電車、通称チンチン電車が何台か通り過ぎる。一両編成の鉄の塊だ。
何時だったか、この路面電車とダンプカーが衝突した事があったがダンプカーがぐしゃぐしゃに成ったにも関わらず、路面電車は、脱線すらして無く、ペンキが剥がれただけだった。そんな事や、妻と初めてデートした喫茶店はもう無く、新しいビルが建ち表通りは、あの頃の雰囲気は残ってはいなかった。
(少し、寂しいな)1人で車に乗るとついつい思い出してしまう。
「優子があんなに大きくなったんだ、俺も年を取った、あいつはどんな男を選ぶのだろうか、よしんばその恋が実り幸せな結婚生活を送って欲しいなぁ、お前」ハンドルを少し左に切りながら独り言を言った。
車は、谷町筋を北に走って行く。
大学に着いた聡は、車から降り、研究室に急いだ。
研究室のドアを開けると助手や学生が「教授、早いですね、おはようございます」と挨拶して来た。
「おう、遂に発見した。この今まで取ったデータに隠されていたんだ、これで研究が新たな方向にようやく動き出せる。君達のお蔭だ。このデータを纏め上げるのを手伝ってくれ」と叫んだ。
研究室の助手や学生達が傍に集まって来る。
「これ、を透かして見て呉れ」聡が言う。
助手にグラフを渡す、「何で気が付かなかったんだろう」透かした助手が言い、学生達に回す。
「まぁ、俺も何度も見てるけどこの部分は、見てなかった。試験が始まる前の事だからな、試験、試験で頭が一杯で装置を被験者に装着させた直後から座った所なんて誰も見ないよ」聡が言い、
「さぁ、これを纏めて行く、奥の部屋に居るから又、何か思いついたら遠慮無く部屋に入って来て呉れ」
言い残してドアを開けて行ってしまった。
椅子に座った聡は、「さぁ、遣るか」と上着を脱ぎ、ワイシャツの袖を捲(まく)り、机に向かった。



朝起きた優子は家の中を走りまわっていた。
「やばいよ~、遅刻しちゃうよ~、お父さんもう行っちゃたよ~」
リビングのテーブルの上には、トースト、コーヒー、オレンジジュース、サラダ、が並んでいる。
「お父さん、ありがとう、頂きます」とトーストを咥えながら洗面台に走り、髪の毛をセットして、又、戻って来て、コーヒーを一気飲みし、サラダを掻(か)き込んでオレンジジュースも一気飲みし、黒の革のつなぎのチャックを締めながら小走りに玄関に向かう。
玄関でヘルメットをひったくると玄関のドアを勢い良く開ける。
「わ、びっくりした」御手伝いさんと鉢合わせになりぶつかりそうになった。
「わ、ごめんなさい、よろしく御願いします」優子は、ガレージに走りながら後ろを向いて言う。
上着のジャケットからキーを出し、バイクにキーを差し込む、少し大きなカバンを後部シートに設置したゴムネットの下に押し込んで固定する。鞄には、会社の制服が入っているので少し大きな鞄だ。
ヘルメットを被る。此の為に伸ばしていた髪を切ってショートカットにしていた。
バイクをガレージから出し、跨(またが)ってキーを捻る。
液晶パネルにランプが点く。
左手を握ってクラッチを切ってスターターボタンを押してセルモーターをまわす。
マレリ製電子制御燃料噴射がガソリンを送り込んで行くとボア径94mmのシリンダーの中をピストンが61,2mm上がり圧縮比13.2 : 1の圧力を発生させる。
楕円形スロットルの内部を空気とガソリンが竜巻の様に流れだす。
テスタストレッタ11度、L型ツイン2気筒 4バルブ デスモドロミックエンジンが咆哮を上げ息づく。目の前の液晶パネルの回転数が跳ね上がりゆっくりと下がって行く。
右の手の平をゆっくりと下方へひねりアクセルを開けて左のクラッチを繋いで行く。
ドゥカティ、ストリートファイター848がメカノイズを発生させながら発進して行った。



聡は、計算機を叩きながらレポート用紙に数値を書き込んで行く。
そしてある一点に気が付く
(こ、これは何だ)もう一度、すべての数値データを見直す。
そこには、装着した瞬間の数値が、小数点以下2桁まで全く同じだった。
スイッチを入れた瞬間、跳ね上がる、これは、電流が流れた瞬間の数値として解る。
だが、それが落ち着き、3~5分の間に一回、跳ね上がる。
聡は、装着者の名前を見る、毎回違う学生が担当していた。
被験者は、当然、全員が違う名前が被験者本人がサインしている。
聡は、ビデオを見てみようと思い、パソコンに向かい試験室入室から装着し、着席するまでの映像データに数値化したグラフを打ち込みし、助手と残っている学生を部屋に呼んだ。
集まった全員に説明し、パソコンからテレビ画面に映像とグラフを一面表示する。
「まばたき・・・でも無いですね」学生の1人が言う。
「視線が全員、同じ所を見てませんか? 気のせい?」違う学生が言った。
「何、本当か、もう一度、全員、其処に注目して呉れ」聡が言う。
パソコンを操作して最初に戻す。
ビデオが映し出される。最長30分程度に短縮してある。
唾を飲む音が聞こえた。全員の目が被験者の目の動きを追う。
画面の中で被験者達は正面やや上辺りを見ていた。
数値ピークと全く同じタイミングで全員が同じ目線で見ている。
「本当だ、この位置って」と言いながら全員が試験室に移動する。
「教授、このシミじゃないですか」学生の1人が言う。
聡は、被験者達の座る椅子に座り、この視線だと言って脚立を持って来る様に指示する。
学生の1人が脚立を設置し、脚立に上ってカメラの位置まで上がる。
「カメラを」上った学生が言うとカメラを助手が渡し、シャッターを上った学生が切った。
脚立を降りた学生が、「教授、これを」カメラを渡す。
カメラの液晶を見た聡は、「そうだな、あのシミだ」とシミを指差した。
「あんなシミありました?」助手が言うと全員が「さぁー、覚えがないな」と答える。
「何か動物に似ていません」女学生が言うと
「そうだな、此処が足っぽい4つ足だが、体よしっぽのバランスが可笑しいよね」
「身体と同じぐらいのしっぽみたいだ」
「8cm角ぐらいの大きさだな、でも何でこれがそんなに気になるんだろうか」
「うーん、一度、電話で被験者に聞いて見て置いてくれないか」聡が言うと
「わかりました。今日中に全員に聞いておきます」助手が答え、学生達に
「みんな、大変だろうが宜しくお願いします」と言い、リストを開き綴じしろを解いて、渡して行く。リストを受け取った学生達は次々に机に向かい電話を掛け始めた。
女学生が3人集まって壁のシミを見ながら
「ねぇ、何かに似てないかな」
「何か気になるよね」
「わかる、わかる、私も気になってた」
「何だろ、この感じ」
「だよねー、此処だけ妙な違和感があるよ」
「あ、教授、鉛筆で落書きしても良いですか」「チョット貴女、何言ってるの」
聡が「何か有るのかい」と聞くと
「このシミの形、が気になって」
「うーん、確かに気になるね」
「でしょ、なぞって見ようかなって思って」
「心理学の図形に似ているね、良いよ。君達のインスピレーションで描いてみなさい」
「教授、マズイですよ」助手が割り込む。
「鉛筆なら良いじゃないか、もしかしたら凄い発見に成るかもわからないよ」
「ありがとう、教授」と言いながらカバンを引き寄せ中から鉛筆を取り出すとなぞり始めた。シミの外形をなぞり終わると
「やっぱりココって足だよ」
「で、ココがやっぱ 頭だよね」
「何か、見たことない?」
「動物図鑑?」
「違うよ、そんなんじゃ無いよー」
「鉛筆貸して、この後ろの尖ってる所からこう波線を描いて行くと」
「あ、私、解ったー」
「九尾狐だー」
「スッキリしたね〜」
「何だっけ、たま、玉御前だっけ」
3人が聡の部屋に駆け込んで行く。
「教授、わかりました九尾狐です」
「?九尾狐?」
「玉御前です」
「おいおい、其れを言うなら玉藻御前(たまもごぜん)だろ」と言いながら3人に付いて行き、壁を見た。
「えらくハッキリと描いたな」
「違う、私達、こんなにきつく書いてない」
「ホントだ、濃く成ってる」
「・・・」
「どう言う事?」
「うん、判んないけど・・・怖い」
「え~、オカルト!」
聡が消しゴムを持って「良いじゃないか、消してみよう」と言い、壁のシミ全体をゴシゴシと擦る。
ゴムカスが黒くなって壁の汚れと鉛筆の跡が削り落とされていく。
するとシミも薄くなっていった。
「ふぅ、シミも消えたんじゃないか」聡が言うと
「本当だ、何だ、良かった」
聡が時計を見て「お、もうこんな時間か、私は、講義に出て来る、その後、少し寄る所があるからそのまま帰りますね。貴方も適当な時間に帰って構いませんよ」助手に言うと部屋に戻り、資料を机の山積みの飼料の中から器用に取り出すと急ぎ足で出て行った。
「教授もはっきり墓参りだって言えば良いのに」助手が呟くと
「教授って一途ですよねー、私も結婚する相手が一途な人が良いなー」女学生の1人が言う。
「ストーカーも一途だぞ」別の女学生が言った。



優子は、会社を正午過ぎに早退して母の墓地に向かった。
途中の山道のカーブを曲がって行く。
墓地の手前の花屋で花を買い、それをバイクの後ろのネットに挟む。
そのままバイクで墓地の入り口を徐行で通過すると山を駆け上がって母の墓のある近くの空き地に止める。すぐ脇にある洗い場でバケツとひしゃくを借りるとバケツに水を入れてその中に買って来た花を差し入れるとバケツとひしゃくを持って母の墓に向かう。
「盆に来て掃除したのにもうこんなに雑草が生えてるわ」独り言を言いながら雑草を抜いてポケットから出したティッシュに抜いた雑草の山を包む。
墓石に水を掛け、雑巾で丁寧に拭いて行き、最後に花を飾ってろうろくと線香に火を点ける。
手を合わせ、「おとうさん、もう少ししたら来るはずだから少し待ってあげててね」と言いながら頭を下げてバケツにひしゃくとティッシュに包んだゴミを持って洗い場に向かい、バケツとひしゃくを返却してゴミ箱にごみを入れてバイクに向かった。
バイクに跨り、エンジンを掛けてゆっくり山を下りて行き、家路に着いた。

壁面

金曜日の夕刻、聡は、今日の講義を終えて研究室へ向かった。
研究室の中から学生達の声がうるさく響いて来た。
聡は、研究室のドアを開け、「君達、討論、議論は、良い事だが 少しうるさくないか」と注意する。
1人の女学生が、走って来て「教授、大変なんです、一寸こちらへいらっしゃって下さい」と聡の手を握って奥の実験室へ連れて行く。学生達は、道を空け教授と女学生を通す。
「この壁、見て下さい」以前シミのあった壁を指差す。
「あれ、消したはずだよね」聡が言うと
「はい、確かに私達も見てましたし、火曜日以降、無かったんですよ」一緒に消した女学生達が言う。
「それにね、教授、この写真とあの壁のシミ、見比べて下さい」
「これは?」
「はい、消す前にこの子がこのスマホで撮ったんですよ」
写真よりもあきらかに2周りは、大きくなり、はっきりとした形になっていた。
「濡れたタオルかで擦ったんじゃないんですか?それで中の汚れが浮いて来たとか」男子学生が言う。
「いや、普通に消しゴムで擦ったら消えたんだ。壁紙じゃないんだからコンクリートやモルタルの壁を濡れた雑巾で擦ってもこんなに大きく成らないよ。中の汚れを取るなら重曹をまくとコンクリートの油脂が、浮き出て来るけど雑巾の水分程度だとこんなに分厚い壁の中まで水が浸透する前に蒸発してしまうよ。」聡が言い、「それに此処には、重曹なんて置いてないからね」と付け加えた。
「なんなんでしょ、一体」男子生徒が聞く。
「理科学をやっている先生に壁を見て貰おう」聡が言うと助手が、安藤教授でよろしいですかと聞くので、「うん、良いよ。安藤君に電話しよう」と言ってポケットからスマホを取り出し、電話を掛ける。
「安藤君、相馬だけど、すぐに見て貰いたい物があるんだけど、動かせないからすぐに来てよ」
「動かせない物? うん、わかった、1人2人、学生を連れてすぐに行くよ」返事があった。
「取り敢えず、コーヒーでも用意しておくか」聡は言い、炊事場で浄水器から出した水をポットに継ぎ足して目で人数を数えて人数分プラス3名分の紙コップを用意した。
「あ、教授、私、後やります」女学生の1人が走り寄りポットの湯が沸くのを待って並べられたカップにインスタントコーヒーをスプーンで入れて湯を注いで行く。
長机にそれらを持って行って「此処に置きますね」と言って皆に声を掛ける。
丁度、ドアが開いて「来たよ、相馬ちゃん。動かせないって言うからかなり重い?」安藤が声を掛ける。
「かなり重いでしょうね」聡が言うと どれどれと実験室に入って来た。
「これなんだけど」聡が指をさす。
「・・・、ぷっ、あっはっはっは、これは動かせんわ」安藤が笑い、「壁のシミじゃんか」と言った。
「君、いきさつを安藤君に説明してあげて」聡が写真を見せた女学生に言うと
「はい、実はですね・・・・・・・」と事の起こりから今までの経緯を残さず伝える。
安藤が連れて来た学生の1人がそれを手帳に速記していた。
安藤は話を聞き終わると「うーん、不思議だな。取り敢えず物質の成分を調べるか、サンプル取るぞ」と誰に言うでも無く言うと安藤の連れて来た学生2人が、返事をして金属製の耳かきの様なものでシミの部分とシミの無い部分、違う壁と3種類のサンプルを採取し始めた。
「相馬、お前何で脳外科辞めたんだ。お前程の腕なら権威に成れたかもって聞いたぞ」安藤が問うと聡は、「あの緊張感に堪えられなかったのさ」と答え、「良いじゃないか、インスタントで申し訳ないがコーヒーでも飲んでくれ」と長机からカップを2つ取り安藤の前に一つを差し出した。
「全く、食えない奴だな」薄くわらいながら ありがとうと呟きカップを受け取る。
聡自身は、失敗は無かったのだが、(同僚が失敗し、その遺族を見て、思い、辞める決心をした)等と口に出来る程 聡は、厚顔な性格では無かった。
「愛娘の優子ちゃんは、元気か」安藤が聞くと
「元気過ぎてな、3ケ月程前にバイクを買って今は其れに夢中になっている」聡が答えると
「あの別嬪さでバイクか?」安藤がびっくりすると
「相馬教授の娘さんって綺麗なんですか」話を横で聞いていた女学生が問うと
「おぅ、綺麗ってもんじゃないな、いつだったか雑誌やモデル事務所からの誘いもあったしな」
安藤が答えると「その話は、辞めようよ」聡が照れ臭そうに言う。
「私、貴方達の様な黒い噂のある業界では働きませんって断ったらしいぞ」安藤が笑う。
「え、すごーい。そのセリフ、帝国製薬の会長の名言ですよね」女学生が少し興奮して言うと
「あそこの会長、すっごい美人でな、テレビに一回だけ帝国本社ビルの一階ロビーでインタビューに写ったのを見たけど、芸能人でもあれ程綺麗な人は見た事がないな、あの人がテレビに出たら他の有名処の俳優は、全員一気にみすぼらしく見える」安藤が頷うなずきながら答える。
「頭もバリッバリッに良いそうですよね」女学生が言うと
「結構な数の芸能記者が追いかけてたらしいが、全く暗い噂も影も無かったから諦めたらしいな」
聡が言うと「その瓜二つの名言を吐いた優子ちゃんも凄いな」安藤が大笑いする。
「てっきり芸能界に行くと思ってた。あいつは歌が好きでな、家でもしょちゅう歌ってる」
聡が、右手を横に振りながら言い「今は、900だったか1000ccだったかのバイクで走りまわってる」
「え、そんなに大きなバイクに乗ってるんですか、かっこいい」女学生の1人が言った。
「一度、家の近くで走ってるのを見たけどバイクを横に倒しこんで曲がって行ったし、ヘルメットを被るのに邪魔だと言って髪を短く切ってるし・・・金曜日だって俺と2人でワイン3本空けるし・・・」
やれやれと言った感じで聡が告げた。
「相馬、お前と恵子の娘が何でそんな行動的な子になったんだ」安藤が聞く。
「恵子のお腹にあの子が宿った時、行動的で優しい子に育つ様にって恵子が度々話しかけてたからな、恵子は体が元々弱かったから仕方が無かったし、私にしても外出が嫌いだったからな、お互いに無い物ねだりの希望を託したんだよ、それをあの子は、ああやって具現化させて呉れた。感謝すべき何だろうが、女性、結婚と考えると頭痛の種にもなっているのが現実だ」聡が言う。
「女の男も好きな相手が出来ると変わる物さ、また、変わらない二人だったらダメな物だよ」
安藤が言い、「これはお前の受け売りだけどな」笑う。
女学生が「じゃ、付き合ってる間って言うのは、其処を見なきゃダメって事ですか」と聞くと
「変わるってのは誰でも変わるんだよ、どう言う風に変わるかが一番、重要なんだ。人は環境で変化する、それが人類をここまで発展させた要因、原動力かも知れない。その回答をだすのは、もしかしたら君達なのかも分からないんだ。僕達は、その基礎を築く為の研究をしている。それは、安藤君達だって同じだ、学部、学術の範囲を超えなければならないのかもわからないよね」聡が話を聞いている学生達に言う。
金曜日の夕刻、聡は、今日の講義を終えて研究室へ向かった。
研究室の中から学生達の声がうるさく響いて来た。
聡は、研究室のドアを開け、「君達、討論、議論は、良い事だが 少しうるさくないか」と注意する。
1人の女学生が、走って来て「教授、大変なんです、一寸こちらへいらっしゃって下さい」と聡の手を握って奥の実験室へ連れて行く。学生達は、道を空け教授と女学生を通す。
「この壁、見て下さい」以前シミのあった壁を指差す。
「あれ、消したはずだよね」聡が言うと
「はい、確かに私達も見てましたし、火曜日以降、無かったんですよ」一緒に消した女学生達が言う。
「それにね、教授、この写真とあの壁のシミ、見比べて下さい」
「これは?」
「はい、消す前にこの子がこのスマホで撮ったんですよ」
写真よりもあきらかに2周りは、大きくなり、はっきりとした形になっていた。
「濡れたタオルかで擦ったんじゃないんですか?それで中の汚れが浮いて来たとか」男子学生が言う。
「いや、普通に消しゴムで擦ったら消えたんだ。壁紙じゃないんだからコンクリートやモルタルの壁を濡れた雑巾で擦ってもこんなに大きく成らないよ。中の汚れを取るなら重曹をまくとコンクリートの油脂が、浮き出て来るけど雑巾の水分程度だとこんなに分厚い壁の中まで水が浸透する前に蒸発してしまうよ。」聡が言い、「それに此処には、重曹なんて置いてないからね」と付け加えた。
「なんなんでしょ、一体」男子生徒が聞く。
「理科学をやっている先生に壁を見て貰おう」聡が言うと助手が、安藤教授でよろしいですかと聞くので、「うん、良いよ。安藤君に電話しよう」と言ってポケットからスマホを取り出し、電話を掛ける。
「安藤君、相馬だけど、すぐに見て貰いたい物があるんだけど、動かせないからすぐに来てよ」
「動かせない物? うん、わかった、1人2人、学生を連れてすぐに行くよ」返事があった。
「取り敢えず、コーヒーでも用意しておくか」聡は言い、炊事場で浄水器から出した水をポットに継ぎ足して目で人数を数えて人数分プラス3名分の紙コップを用意した。
「あ、教授、私、後やります」女学生の1人が走り寄りポットの湯が沸くのを待って並べられたカップにインスタントコーヒーをスプーンで入れて湯を注いで行く。
長机にそれらを持って行って「此処に置きますね」と言って皆に声を掛ける。
丁度、ドアが開いて「来たよ、相馬ちゃん。動かせないって言うからかなり重い?」安藤が声を掛ける。
「かなり重いでしょうね」聡が言うと どれどれと実験室に入って来た。
「これなんだけど」聡が指をさす。
「・・・、ぷっ、あっはっはっは、これは動かせんわ」安藤が笑い、「壁のシミじゃんか」と言った。
「君、いきさつを安藤君に説明してあげて」聡が写真を見せた女学生に言うと
「はい、実はですね・・・・・・・」と事の起こりから今までの経緯を残さず伝える。
安藤が連れて来た学生の1人がそれを手帳に速記していた。
安藤は話を聞き終わると「うーん、不思議だな。取り敢えず物質の成分を調べるか、サンプル取るぞ」と誰に言うでも無く言うと安藤の連れて来た学生2人が、返事をして金属製の耳かきの様なものでシミの部分とシミの無い部分、違う壁と3種類のサンプルを採取し始めた。
「相馬、お前何で脳外科辞めたんだ。お前程の腕なら権威に成れたかもって聞いたぞ」安藤が問うと聡は、「あの緊張感に堪えられなかったのさ」と答え、「良いじゃないか、インスタントで申し訳ないがコーヒーでも飲んでくれ」と長机からカップを2つ取り安藤の前に一つを差し出した。
「全く、食えない奴だな」薄くわらいながら ありがとうと呟きカップを受け取る。
聡自身は、失敗は無かったのだが、(同僚が失敗し、その遺族を見て、思い、辞める決心をした)等と口に出来る程 聡は、厚顔な性格では無かった。
「愛娘の優子ちゃんは、元気か」安藤が聞くと
「元気過ぎてな、3ケ月程前にバイクを買って今は其れに夢中になっている」聡が答えると
「あの別嬪さでバイクか?」安藤がびっくりすると
「相馬教授の娘さんって綺麗なんですか」話を横で聞いていた女学生が問うと
「おぅ、綺麗ってもんじゃないな、いつだったか雑誌やモデル事務所からの誘いもあったしな」
安藤が答えると「その話は、辞めようよ」聡が照れ臭そうに言う。
「私、貴方達の様な黒い噂のある業界では働きませんって断ったらしいぞ」安藤が笑う。
「え、すごーい。そのセリフ、帝国製薬の会長の名言ですよね」女学生が少し興奮して言うと
「あそこの会長、すっごい美人でな、テレビに一回だけ帝国本社ビルの一階ロビーでインタビューに写ったのを見たけど、芸能人でもあれ程綺麗な人は見た事がないな、あの人がテレビに出たら他の有名処の俳優は、全員一気にみすぼらしく見える」安藤が頷うなずきながら答える。
「頭もバリッバリッに良いそうですよね」女学生が言うと
「結構な数の芸能記者が追いかけてたらしいが、全く暗い噂も影も無かったから諦めたらしいな」
聡が言うと「その瓜二つの名言を吐いた優子ちゃんも凄いな」安藤が大笑いする。
「てっきり芸能界に行くと思ってた。あいつは歌が好きでな、家でもしょちゅう歌ってる」
聡が、右手を横に振りながら言い「今は、900だったか1000ccだったかのバイクで走りまわってる」
「え、そんなに大きなバイクに乗ってるんですか、かっこいい」女学生の1人が言った。
「一度、家の近くで走ってるのを見たけどバイクを横に倒しこんで曲がって行ったし、ヘルメットを被るのに邪魔だと言って髪を短く切ってるし・・・金曜日だって俺と2人でワイン3本空けるし・・・」
やれやれと言った感じで聡が告げた。
「相馬、お前と恵子の娘が何でそんな行動的な子になったんだ」安藤が聞く。
「恵子のお腹にあの子が宿った時、行動的で優しい子に育つ様にって恵子が度々話しかけてたからな、恵子は体が元々弱かったから仕方が無かったし、私にしても外出が嫌いだったからな、お互いに無い物ねだりの希望を託したんだよ、それをあの子は、ああやって具現化させて呉れた。感謝すべき何だろうが、女性、結婚と考えると頭痛の種にもなっているのが現実だ」聡が言う。
「女の男も好きな相手が出来ると変わる物さ、また、変わらない二人だったらダメな物だよ」
安藤が言い、「これはお前の受け売りだけどな」笑う。
女学生が「じゃ、付き合ってる間って言うのは、其処を見なきゃダメって事ですか」と聞くと
「変わるってのは誰でも変わるんだよ、どう言う風に変わるかが一番、重要なんだ。人は環境で変化する、それが人類をここまで発展させた要因、原動力かも知れない。その回答をだすのは、もしかしたら君達なのかも分からないんだ。僕達は、その基礎を築く為の研究をしている。それは、安藤君達だって同じだ、学部、学術の範囲を超えなければならないのかもわからないよね」聡が話を聞いている学生達に言う。
安藤が「そうだな、俺もそう思う。だから相馬共、こうして交流を続けている」と締め括った。



安藤達は、サンプルを自分達の研究室に持ち込み、早々に物質の解析を始める。
サンプルを耳かきの小さくなった金属の棒ですくい上げ、顕微鏡を覗く者。
試験管数本を並べ、アルカリ水、酸性水等の薬液に浸け遠心分離機に掛ける者、等、其々、安藤の指揮の元、白衣を着た学生達が分担して結果を急ぐ。
安藤の研究室は、喧噪に包まれる。
モーターのうねる音、議論しながら作業を進めて行く。
「教授、成分の周波数結果が出ました」学生の1人が言い、パソコンの画面を大きな画面に写し出す。
「其処に他の壁で取った周波数結果を透明度30ぐらいで重ねて見てくれ」
「違い、あるのかなー、ただのシミにしか思えないけどな」学生達の中の1人が言うと
「相馬の直観を信じるしかないな、あいつは、そう言う所、かなり鋭いからな」安藤が言った。
「出来ました。写し出します」パソコンを操作していた学生が言い、「出ます」
「何だこの突き出た周波数、タンパク質の周波数体じゃないか」安藤が言い、スマホを取り出し、相馬に電話した。「今、研究室に居るか」と聞くと「分析結果を持ってすぐに行く」と言い、学生達と部屋を飛び出して行った。



優子は、会社から戻って家のガレージでバイクを洗車していた。
「後でバイク屋さんに行ってオイル替えて貰おうね」バイクを拭きながら一人でぶつぶつ呟いている。
相馬家に来て呉れているお手伝いさんは、毎週土曜日に帰宅する以外は、泊まり込みで仕事をして呉れていた。裏庭に面した廊下をごみ袋を片手に歩いていると庭先に気配を感じて立ち止る。
「キャー」と悲鳴を上げた。
その声をガレージに居た優子が聞き付け、声のした廊下へ玄関から走って行く。手には、バイクを拭いていた雑巾を握り締めていた。
「どうしたの!」と走り寄りながら聞くが その姿を見てはっとする。
座り込んで燈籠を指指さしている。
優子はその指で示されたほうを見ると黒い靄もやの様な物が蠢うごめいている。
思わず手に持った雑巾をその靄の様な物に投げつけ、お手伝いさんの前に立つ。
驚いた事にその靄は、投げつけられた雑巾を嗅ぐ様なしぐさをして「ふん」と声を発して掻き消えた。
「大丈夫よ」優子は、中腰に成りお手伝いさんの両肩に両手を添えた。
両足が震え、膝から下に力が入らないらしくなっていたので優子が肩を貸し立ち上がらせてリビングへ運んだ。移動する間中、「大丈夫よ、大丈夫」としきりに声を掛ける。
優子自身も声を掛けなければその場で座り込んでしまいそうだった。
優子は、リビングへ着いてソファーに座らせるとカップを2つ用意し、紅茶を用意した。
紅茶にブランデーを数滴垂らしてソファーの所へ持って行き、紅茶を飲む様に促す。
お手伝いさんは、カップを手に取り、一口飲みむと体の痙攣が収まった。
「ありがとう、大丈夫、ごめんね」と優子に謝る。
「でもあれはいったい何なの?」
「わからない」優子が言い、「でも、雑巾を投げたら匂いを嗅いでたみたい、まるで犬みたいだったわ、バイク屋に行こうかって思ってたけど、今日はもう何処にも行かないよ」と言った。
「そうね、その方が良いわ」と返事があったので、
「お父さんが帰って来るまで此処に居よう」と優子が言い、そうねと返事があった。
優子は、テレビをつけた。ニュースをやっていたがチャンネルは、そのままにした。
テレビでは、著名人が行方不明になっていたり、有名な人格者が、自殺したと言う報道で明るい要素は何も流れていない。経済も経済効果が発揮されて景気が回復していると流れているが庶民の暮らしは何一つ改善されておらず、マスコミによる情報戦略の様相を醸しだしていた。
「あーあ、暗い世の中だよねー、上場企業が良くなっても経費削減しての話で経費削減すると中小企業が苦しむだけで貧富の差がさらに加速されるだけなのにねー」優子が言った。
「仕方ないですよ、いつの世も苦しめられるのは庶民だけになりますよ」お手伝いさんが言う。
「他所の家ってほとんど知らないんだけど、此処ってどうなんですか?しんどくありません?」
「以前働かせて頂いた所に比べると全然楽ですよ、庭は、庭師の方がして頂けますし、私は、掃除と食事の用意だけなんですから、これでつらいって思ったらバチがあたりますよ」笑いながら言った。
「良かった、どうしようも無い家って思われていたらどうしようって思って」優子も笑った。
「私も聞こうって思ってた事があるんですが」
「良いよ、この際だから何でもって言っても知ってる事だけだけどね」
「教授は、ずっと再婚なんて考えてらっしゃら無いんですか」
「愛妻家だからね、先週の金曜日も2人でワインを呑んでたらね、母さんの事思い出したみたいでね、それで私が仏壇にワイングラスを持って行ってワインを注いだら喜んでたよ。もうあそこまで一途な男も天然記念物物だよね」優子が言いながら笑う。
「そうなんですか、面白いですね、外で呑んで来るって言っても学生に誘われたとか同僚に誘われたばっかりですし、車にも興味無さげだし、この人、趣味あるのかなーって考えたりしてました」
「あっはっはっは、車ねぇ、あの通り錆てるし、磨いている所なんて私も見た事がないよ」
優子が 言うと2人で笑った。
ガレージの方からマフラーから排気ガスが漏れて独特の音をした車の音がした。
「あ、帰って来た。あのポンコツの音、間違い無くお父さんだよね」優子が言った。
玄関で鍵を回す音がして次いでガラガラと引き戸を開ける音がした。
「ただいまー」聡の声が聞こえた。
「おかえりー」優子が答える。
聡が居間の戸を開けて
「あれ、珍しいな、若林さんが此処にいるなんて」と声を掛け、「他意じゃないですよ、余りこの時間に此処に居ない方だからつい」
「お父さん、今日ね怖い事があったんだからね、話は後でするから先ずは、着替えて来て。食事の用意するからね」優子が言いながら立ち上がってキッチンへ向かう。
「若林さん、ゆっくりしてね」と言い残し聡は、自分の寝室へ向かった。

神職

聡、優子、若林がリビングに居る。
夕方6時前後の出来事を聡に話す優子は、お手伝いさんの若林さんに見た時の事を聞く。
「私が洗濯物を取入れて部屋で畳んでから各御部屋へ運んでいる時でした。御主人様の部屋に置きリビングの物を持って廊下に差し掛かった時に何やら動く気配が致しましたので其方を見ました時に丁度、奥の梅の木から燈籠の立って居る間の所を黒い影がゆっくりと移動してました。最初は、背丈も無いですので犬かなと思ってもっと良く見ようと廊下の端まで出た時に影だとわかり、思わず悲鳴を上げて腰を抜かしたしだいで御座います」若林が言う。
「でね、私がガレージから廊下に走って行って それを見た時は、燈籠の所にいたの。怖くなって握っていた雑巾をその靄もやの様な影の様な物に投げつけたら落ちた雑巾の匂いを嗅ぐ様なしぐさをしてフンだったか鼻で笑った様な感じで何か言ってスッと消えたんだ。それから若林さんを連れてこのリビングに来たって訳なんだ」優子が言った。
「何なんだろうね」聡が言い、「ん、優子、鞄を取ってくれ」と言うと優子が鞄と聡に渡す。
「ありがとう」聡が鞄を受け取り鞄の中をごそごそしながら
「一寸、2人に見て欲しい物があるんだけど・・・お、これだこれ」
言いながらプリントアウトした写真を目を鞄に向けたまま正面に差し出した。
若林が受け取り、優子と一緒に覗き込むと
「・・・・」
「これ」
「お父さん、何処でこれを」優子が聞く。
「大学の研究室の事件室の壁にあったんだよ。月曜日に学生達と一緒に消したんだけどね、今日・・」
聡が言い掛けた時、優子が
「こんな形だった、ね、斉藤さん、これよね」興奮して叫ぶ。
「はい、確かに雰囲気はこんな感じでした」と答える。
「実はね、この壁のシミ、んー、笑われるかな・・・よし、化学部で成分分析して貰ったんだ」優子と斉藤は怪訝な顔をしている。
聡はその顔を見回して焦った様に続ける。
「でね、この壁ってコンクリートなのに動物、つまり哺乳類のタンパク質があったんだ」
優子と若林は訳の分からない顔を互いに見合せている。聡は更に焦りを表あらわにして頭を掻きながら「ん〜、ちょっと待ってて」
言い立ち上がり自分の部屋へ走って行った
戻って来た聡の手にはA3サイズのスケッチブックと鉛筆が持たれていた。
ソファーの元の位地に座るとスケッチブックを開き何かを書き始めた。
書き終わって其れを2人に見せる。
科学者らしく絵では無くフローチャートが書かれていた。
化学式を四角やひし形で囲み其れらの図形を線で繋いである。
優子が「お父さん、私達、科学者じゃ無いから これ見てもサッパリ分からないよ、ホント素人への説明が下手なんだから〜」
「今、説明するよ」聡が言い、
「この左手の縦のラインこれが通常のコンクリートの精製式で この最後の四角でコンクリートが完成すると思ってね・・・」
2人の反応を待つ
優子が「うん、続けて」と言う
「うん、で問題なのは枝別れしているこっち、壁の表面から深さ5mm位の所に動物性タンパク質が高密度で存在していた。その密度はおおよそ生物の密度じゃなかった。一匹の犬をそのままの形で体重を減らさずにどんどん小さくして20cm四方の大きさにしたと思ってくれたら理解が早いと思う。これが如何に異常な事かはわかるよね」
「絶対ありえない事って事は理解できる」若林と優子は互いの顔を見ながら頷く。
「この写真のこれと同じ様な形をした黒い・・・この場合、影って言おうか。うーん、科学者にとっては禁断の領域になるけど、霊的な物を感じるね・・・科学者の癖にって笑わないでね」
「私も見た時にそう思った、若林さんは?」
「私は、完全におばけだと・・・すいません、参考になりませんよね」
「3人がそう思ったんだ。私は直観で思った。明日にでも霊能力者を学校で聞いて見よう」
聡が言い、「若林さんも呑む?」
「初めてだね、3人で呑むのって」優子が言ってグラスを取りに行く。
ワインで良いよねっと言いながらスパークリングワインとワイングラス4つを持って戻って来た。
「え、グラス4つ」
「そう」と答えながら仏壇の前に行ってワイングラスを置き、ワインの封を切ってグラスに注ぎ、リビングに戻ると残り3つのグラスにワインを注ぎ、ソファーに座り、「お父さん、お願いします」と言いグラスを掲げた。



聡の研究室に聡と安藤が長テーブルに肘をつきながら話をしている。
その周りを数人の学生が囲み、其々が椅子に腰かけている。
話の内容は、科学者同志にとって最も毛嫌いすべき話題、【霊】、【超能力】であった。
かつてその分野に踏み込んだ研究者がいた。言わずと知れた福来友吉博士である。
彼はマスコミに寄ってたかって吊るし挙げられ大学を追われてそして亡くなった。
一方では、当時の東大に寄って策略を持って潰されたとの噂もあった。
だが、今回は違った。
物的証拠が、ここにあった。
超高密度に圧縮されたタンパク質の塊。
現世界において存在すらも許される事のない分子構造を持った物質。
「この分子構造、説明が出来ないな、宇宙空間なら未だしも・・・」安藤が言う。
「ん・・・そうだな」聡はため息を付き
「君達の中で信用出来そうな霊能者知らないか?」
一瞬、研究室に沈黙が訪れる。
「オイオイ、俺達は科学者だぜ」
安藤が言うと聡は
「色々な方面から見るのも科学だ。今 現在これ程の物的証拠が有りながら何も解決策が見出せ無いなら俺達と違う世界を見ている者に見て貰う、最善とは思わないか?」
「そ、そうだな。お前の直感は鋭いからな」
「教授」学生の1人が手を挙げた。
「知ってるか」
「神主さん何ですが、良いですか」
「ズバッとセンターだな。神職なら申し分ないな、私は名前を聞いても知らないだろうから、連絡を付けてくれないか、他には?」
「探偵さんなんてのは?」
「明らかに胡散臭いなー、パス、他は?」
「・・・」部屋の中が鎮まりかえる。
「神主さんに頼もう」聡が決定する。
窓際で電話を掛けていた学生が振り向き、
「教授、今なら居るそうです」と言うと
「良し、行こう。安藤、どうする?」
「お前の車だといつ動かなくなるか分からんから俺の車で行こう」と答えると
「そう言う事で3人一寸、外出するよ」
聡が他の学生達と助手に言い、鞄を取りに隣の部屋へ駆け込み、直ぐに出て来た。
「悪いけど案内を頼むね」
同行する学生に聡が言って3人は研究室を後にした。



神社に着き、社務所で神主の所在を聞き、面会を申し入れると直ぐに応接に通された。
5分程 待つとバタバタと走る音がして応接室のドアが開いた。
「すいません。御待たせしまして」
黒袍(輪無唐草紋)、白奴袴(白八藤紋)を着ている。階級は特級になる。
「神主の樋口と申します」頭を下げ礼をする
「急に押し掛けまして申し訳ありません、此方の学生、高橋君から貴方の事を御聞きしましまして、私、相馬と申します。横に居るのが安藤と申します」聡が言うと後に続いて
「安藤と申します」
「樋口さんとは会うのは2度目になります、高橋と申します」
「どうぞ御掛け下さい」樋口が言い、
「大学の先生方が・・・どんな内容ですか」
聡は 大学の研究室の壁のことと自宅であった怪異を話した。そして
「我々2人の科学力では 説明の着かない事ばかりで、そこで全く違う目線を持った方を頼りにした次第です」と付け加えた。
樋口は、写真を見ながら
「結構 赤いな」と呟つぶやく
聡と安藤は 怪訝な顔をして、安藤が聞いた。
「赤いとは、写真には灰色のコンクリの壁とシミ、グレーの本棚しか写ってませんが」
「あ、すいません。念の種類なんです。白、青、赤って言う感じなんですけど、赤に行く程、何て言うか・・・邪悪って事なんです」
樋口が言い「写真なのではっきりとは言えませんが、どなたか動物に怨みを買ってるとかって人、いません?」
「え、動物って、何で動物なんですか」
聡が聞くと
「4本足だし、ん〜、キツネかな、九尾・・」
写真を見ながら言う。
「このコンクリの壁とシミを成分分析したんですよ、シミの所に動物性タンパク質が含まれていてしかも考えられない程の高い密度で出来上がっているんです」聡が言う。
「あ〜、流石に大学の先生だ。解析って凄いですよね、物質の構造が何で出来ているのかが何か分かっちゃうんですものね、うーんと・・・どう説明したら・・・念って言うのはエネルギーと考えて下さい、念が強いと質量が発生する、いわゆる具現化ってのも考えて下さい。えーっと代表的な処で【おもかる石】や【髪の伸びる人形】って言うのを知っていますか? 気持ちの在り方で重さの感覚が変わるし、容姿も変わる、この場合は髪の長さですね。此処で大事なのは自己暗示って言う言葉を取り除いて考えて見て下さい。念は念を発生させてる者の言わば 分身なんです。念を発した本人に似るんです。理由は本人がその念の意図を1番理解してるからなんです。犬や猫の気持ちや考え方を1番理解している人なんて居やしません、つまりそう言う事なんです」
「・・・」
「人や動物の思いに重さが発生する?」
「ちょっと考えられ無いですね」
聡と安藤は唖然とした顔で樋口を見ていた。
「ですから、この場合は【狐】ですね」
聡は 唐突に思い出した。
(あれは26か27才の時に脳について真剣に悩んでいた時に啓示の様な物を受けた。あの時の相手がまさかキツネなのか)
聡は、頭の中で考えた。
「どうやら心辺りがありそうな顔をしていらっしゃる」樋口は聡の顔を見ながら言った。
安藤と高橋は聡の方を見る。
「この世界には、神と神、神と人、妖と人の中立に位地する一族が居てます。表向きは探偵をなさって居られます。私もその方に助けて頂いた1人です、その方に理由を話して救いを求めるのが良いと思います」
樋口が付け加えた。

河童

聡は過去の過あやまちを思い出し悩まされていた。
当時は結婚する事すら考えてもいなかった。
自分の探究心だけが全てであり、其れだけを盲信して追求する事が自分がこの世に生まれた理由だと勘違いしていた。
悪魔に盲信に付け入られた。
生まれる子供を寄越せと言う約束で一時的な満足を得られた。
そうなのだ、全ては勘違いだった。
恵子と出会い、結婚して数年後に優子が生まれた。
恵子は優子が生まれてすぐに逝ってしまったが、共に過ごした日々は 本当に幸せだった。
優子を幼稚園、小学校、中学校、高校、大学を出し、就職させた。
其れなりに忙しくも有ったが 思えば楽しい日々だった。
その大切な娘を差し出す何て出来ない。
親として絶対に出来ない。
絶対にそんな約束は守れない。
あの時の啓示は まやかしだったのだから。
詐欺として約束は反故ほごにさせて貰う。
心の中で固く決意し、電話を掛けた。



相馬家のテレビは、特別報道番組を映している。行方不明の著名人2人が惨殺されていた事を伝えていた。
一方は東京、もう一方は高松であった。
獣に噛み砕かれた腕と脚、爪で掻かれた背中の傷。どちらも同じ獣の疑いがあると報道しているが、死亡推定時刻が数分のズレしか無い為、移動困難との理由から警察は同種の大型肉食獣との見解を発表したと伝えている。
牙や爪の大きさから体長2m以上、体重350Kg以上、番組は、動物学者を招き解説を加えているが、こんな大型の肉食獣は、日本に居ない事は明らかで動物園から逃げた物が居ないか其々の動物園に派遣員を送り出し、動物園の状況を伝えながらの生中継になっていた。
顎の形からは、熊では無く犬系の動物、すなわち、野犬と結論づけているが、犬でそんなに超大型が居るはずも無く議論は平行線を辿る。
「東京都心でそんな大きな動物がうろうろしてたらすぐに見つかるよ」優子が言った。
「そうですよね」若林さんが答えた。
若林は、庭先で影を見て以来、部屋に一人で居る事が怖いらしく家事が終わるとリビングに来る様になっている。
聡も優子もその事を歓迎し、連日、晩酌を共にする事を御願いしている。
「急にこんな事件が増えましたよね」若林が言うと
「そうですね、先週もあったし・・・たしか山口県だっけ」
「この庭先の事とは関係ないですよね」若林が怯えた様に言った。
「だってあれは、雑巾投げたら消えちゃったもの、本物だったら襲ってくるよ」優子が笑いながら言うが(あの化け物だったら消えたり出たりできるわ)と考え、(何故、著名人なの、偶々(たまたま)にしては先々週辺りからだと4人、否、6人になるわ、偶然にしては出来過ぎている、獣が選んだとしか考えられない、でも獣の頭でそんな事が可能?なの?其れとも操っている者がいるんじゃ・・・)



夕方、聡は神社に居た。
昼間に会った神主に面会を申し込んだが 来客中との事で境内で待つ事にした。
15分程して慌てた様子で男が社務所から走り出て来る。
境内をキョロキョロと見渡して人影のある方へ走って行く
聡を見つけた男は、走って来て
「すいません、昼間来られた大学の先生でいらっしゃいますか」と聡に聞いて来たので
「はい、相馬ともうしますが・・・」
「良かった、先生が来られたと言伝を聞いて樋口神官が直ぐに探す様に言われて慌てて飛び出して来ました。私、探偵をしております真宮寺と申します」と名刺を差し出しながら頭を下げて挨拶をする。
聡も「脳の研究をしております、相馬と申します」と名刺を差出し、
「もしや貴方が樋口さんのおっしゃられた探偵では?」と聞くと
「あ、そんな事まで言ってましたか、残念ですが多分違います。同じ霊に関する事を扱う意味では同じですが、神官の言う探偵とは顔見知りですが違いますよ。ただ、この所続く惨殺事件を調べているだけで・・・、一寸、しゃべり過ぎましたか、神官が御待ちです、いきましょう」
と言ってさっさと社務所に向いて歩き出してしまった。
聡も追う様に後を急ぐ。
(神社と探偵ってそんなに親密な関係だったのか、知らなかった)後を追いながら聡は呟いた。
社務所の玄関で靴を脱ぎ、応接室に入って行く。
「樋口さん、連れて来ましたよ、境内の中に居られました」真宮寺が言う。
「ありがとう、御苦労だったね」樋口が言った。
真宮寺が「相馬さん、樋口さんの事、変に思われていません?、彼は陰陽師でもありますから突然 変な事を言いだしたりしますけど、余り気にしないで下さいね」と言うと
「おいおい、陰陽師は皆 そんなんじゃないぞ、理解出来ない君が悪いのだよ」樋口が言う。
「もう、言われましたよ、写真を見て かなり赤いな、なんて事をね」聡が言うと
「それだ、すいません、私にも見せて頂けませんか」真宮寺が言い、
「先生、ちらっとだけ見せてあげてみては」樋口が助け舟をだす
「ええ、良いですよ」と言いながら膝の上に鞄を乗せ開くと手を突っ込んでこれですと差し出す。
樋口はにやにやと笑いながらソファーの肘掛に頬杖をつきながら見ている。
聡の見ている前で真宮寺の目の色が変わりだした。
聡は、「えっ」と短い驚きの声を出す
真宮寺の目が真紅に変わると「うーん、なるほどね。例の犯人、こいつだな、間違い無いが、本体は何処にいるんだろう」と樋口以上に変な事を言いだす。
聡は、体が硬直し頭の中でが(なんだ、なんだこいつは)と言うフレーズが山彦の様にコダマしている。
「ぷっ」吹き出す声がした。樋口だった。
樋口は笑いながら
「失礼、だから言わんこっちゃ無い先生がびっくりなさってるじゃないか・・・先生、こいつは人じゃないんですよ。人の格好をした化け物なんですよ」と言うと
「化け物はひどいな、妖ですよ、んー、妖怪?と言う方がてっとり早いかな」
聡は思わずたちあがって
「嘘だ、妖怪なんて架空の物だ」と叫ぶ。
「まぁ、まぁ、先生 落ち着いて下さい、先生も見たでしょ、こいつの目が赤くなる所」
樋口が言うと聡が
「コンタクトかも・・・」
樋口はやっぱりなと思いながら
「水辺に行ってこいつを蹴り落とせば正体が分かるんだけど、正体は不気味な格好をしてるから初めて見る人には刺激が強いし、私自身も余り見たい物じゃ無いですからね」
と言った。
「正体って?」
「こいつね 先生、河童かっぱなんですよ」
「か、っ、ぱ・・・?」
と言いながら腰が抜けたようにソファに座り込み(そんなのが居る筈がない)と思いながら真宮司の顔と樋口の顔を交互に見る。
「知り合う前には 九州に居たらしいんですよ、その前は知りませんけどね、私が小学校低学年の頃からの付き合いなんですよ、まぁ最も年齢を聞いた所で400才だとか 訳の分からない答えが帰って来るだけなんですけどね、信じられない事でしょうがこれが私達の世界なんですよ」樋口が言う。
「・・」聡は言葉を失って呆然としている。
樋口が続ける。
「河童だけじゃない、天狗、九尾狐、土蜘蛛に大蛇数え上げるだけでも容易な事じゃない、勿論、妖が居るのだから神様だっていらっしゃる。貴方達の記憶に留まら無いだけで 貴方にも見えているんですよ。其れが彼らの持つ妖力の基本的な部分ですから・・・ 誰かと話していたけど顔すら思い出せないとか、何か今通った様な・・・とか有りませんか」と聞く。
「確かに有るし、脳は嘘つきだと言うのもわかっている、潜在意識、DNAなのかは分からないが目は見ているが脳が見ていない事にしている事だって沢山ある」聡が答えるが、
「妖は何となくわかっただが、神と言うのは信じられん。あれは、人が恐れた自然を敬う為の物であったり、心の弱さや希望、願いが縋すがった拠り所のはずだ」と言う。
「妖達は、同じ3次元に暮らしています。ただ神は5次元から7次元の存在だと我々の世界では考えられて来ました。上級神に行くと7次元になります。彼らは次元其の物が違いますので水、大気、気候等は、ある程度自由になります。ただ、彼らもこの地球に生きています。地球に生きているからこそ自由に出来ない物がある、其れは地球そのものなんです。地震等は、地球の鼓動に寄って引き起こされていると考えた事はありませんか? 彼らも又、地震だけはどうしようも無く、太古の昔から海へ逃れたり、月へ上ったり場所を移動したりと避難を繰り返しています。話が逸れましたが、要するに3次元で5次元、7次元を理解する事は、ほぼ不可能と言っても過言ではありません。科学者は、物的証拠と理論を持って理解しようとします、物的と言う事によって3次元を抜ける事が出来ません。これは私達、陰陽師とて同じですが、根本の発想が異なりますし、アプローチも当然、異なりますが未だに科学者は、個々には信仰しているにも関わらず神の世界に入ろうとはしないし、何故か団体として拒否している。世界で有名な科学者達はいますし私達も彼らの業績を認め敬ってもいます。陰陽師も錬金術士、練炭術士も科学者なんですよ」
樋口が言った。
「うーん、今はどうも理解しがたい事が多すぎます。樋口さんの言われる通り、今の科学者は、ある一辺に偏っている事は間違いなく事実です。科学者の世界も其々は個別なのにアカデミー等のわけの分からない団体が組織化して方向を捻じ曲げている事も事実だと認めましょう」聡が言うと
「さすがに理解が早い」樋口が言うと聡は照れた様に
「昔、学生の頃ですけど古事記や日本書紀、竹内文書を読んだ事があったんですよ」
と言い、「私も河童と言う物をこの目で見てみたいんですが・・・真宮寺さん、御願いできませんか」
「御願いって・・・樋口さん、御願いされてしまったよ」
「良いじゃないですか、人に御願いされるなんて」樋口はニヤニヤ笑いながら言うと
「え〜・・・う〜ん、分かりましたよ」
「ありがとうございます」聡が言う
「全く、何でこうなるんだよ。樋口さん人払いお願いします」
「今はこの建屋には私しか居ないから存分に変身しておいで」笑いながら言う。
真宮司はブツブツ言いながら 風呂借りますよっと言いながら応接を出て行った。
15分ほどして真宮司が戻って来た。
「入りますよ」
と長い爪と水掻きのついた深緑色の長い指が扉を開く。一方の片手には着ていたスーツを柔らかく握っていた。
顔が現れた。
聡はソファーに座りながら一歩引いた。
身体は手と同じ深緑色をして所々 皮膚?粘膜?が千切れ垂れ下がっている。目は赤く光り細く、鼻と口は肉食亀の様な形をしているし、背中は甲羅では無く角質層の様な物で笹くれ立っていた。足の指も長く手と同じ様な水掻きが付いていた。それがペタペタと音を出しながらソファに歩いて来て座った、そして
「先生、これが河童の姿です」
声は確かに真宮司の声だ。
「・・・」聡は何も答える事が出来なくて首を縦に2回させるのが精一杯だった。
「先生、大丈夫ですか」樋口が問う。
聡は ハッとして樋口を見ると
「本当に居たんですね」と返事をした。
「もう良いですか、元の姿で陸上は辛いんですよ、人に化けますね」と言うと返事も聞かずに立ち上がると身体の表面がグネグネと蠢き始め、しだいに人の形になって行く。
聡はそのVFXの様な変化に目を奪われ、呆然と見ていた。
真宮司は人の姿に化けると持って来たスーツを着始めて着終わるとソファに座わり、
「で、樋口さん、どうするねこの狐」
と言うと樋口は、
「先生は何をこいつと約束させられているんですか」と聡に聞く。
「一寸待って下さい」と言い、深呼吸をして
「娘を差し出せ、と言う約束です」
「じゃ、殺された人達と同じだ」
真宮司が言うと聡と樋口は真宮司の顔を見る
「警察発表でもそんな事言って無かったぞ」
樋口が言うと聡も頷いた。
「あのねぇ、俺は一応、河童だけど探偵だぜ。其のぐらいの事は調べてありますよ」
真宮司が言うと樋口が
「と、言う事は、先生、貴方が危ない。真宮司さん、目的を直ぐに調べて下さい。其れと先生の家に私、寝泊りできますか」と言う。
「直ぐに用意させます」と返事してスマホを取り出して 帝塚山の自宅に電話する。
「用意して来ます」と言いながら樋口は立ち上がり応接を出て行った。
電話機の向こうで優子の声がする。
「お父さん、お疲れ〜」
「優子か、今から陰陽師の先生と一緒に帰るから寝泊り出来る部屋を用意しておいてくれないか、其れと晩御飯も2人分頼む」
「うん、分かった。珍しいね、気を付けて帰って来てね」
「すまないが宜しく頼むよ、じゃ」
聡が電話を切ると樋口がスーツケースを一つ持って現れ「さぁ、行きましょう」と声を掛けた。

陰陽

聡と樋口は相馬家のガレージに着いた。
車を降りると樋口を促し 玄関に周る。
「純和風ですか、良いですね。最近は洋風ばかりだから中々こんな家に御目に掛かれないですよね」樋口は聡の後ろを歩みながら言った。
聡が玄関を開け、さぁ此方ですと樋口を招き入れると「ただいま〜」と家の中へ向かって声を掛ける。
「おかえりー」「お帰りなさいませ」と中から女性2人の声が聞こえ、1人がバタバタと走って来た。
「若林さん、迎えなんて要らないよ、でも丁度良かった。此方が樋口さん、陰陽師をしていらっしゃいます。樋口さんを部屋に先ず案内してあげて下さい」聡が言うと
「畏まりました、どうぞ 此方です」と樋口を連れて奥へ歩いて行く。
聡はリビングに顔をだすと優子がキッチンで夕食の準備をしていた。その光景をちらっと見て自分の書斎に行き、鞄を置くとリビングへとって帰す。
「お父さん、お疲れ様」優子が声を掛け、
「一緒に連れて来た人って、チラッと聞こえたんだけど陰陽師だって?」
「ああ、普段は神主をしている方だよ」
「陰陽師って九字を唱えるあれでしょ」
「お嬢さん、良く知ってますね」樋口が若林に連れられリビングに入って来た。
「あっ、すいません。娘の優子と申します」
慌てて優子がお辞儀する。
「2人は もう済ませたのかい」聡が言うと
「うん、お腹すいちゃって」優子が答える。
「樋口さん、食事にしましょう。話はそれからっと言う事で 良いですか」聡が問い掛けながらテーブルの椅子を引き 手招くと「ありがとうございます。頂きます」樋口は言いながら椅子に座った。
食事の間に若林を紹介し、取り留めの無い世間話をして食事を終える。
食事を終えた聡と樋口は、隣のリビングへ移動するとそこへ若林がコーヒーを持ってやって来て「お嬢様が洗い物をして下さっておられますので暫く御待ち下さい」と言うとキッチンへ戻って行った。
「気さくなお嬢さんですね」樋口が言うと
「男勝りなのが玉に傷で。あの2人が庭で黒い影を見ているんですよ」と言う。
「じゃもう一度同じ話を当人達から聞きますね」樋口が言った。
暫くして優子と若林がリビングにカットケーキと茶菓子、自分達の飲み物を持ってやって来たので聡は2人にもう一度 庭先で見た事を説明する様に促した。
2人は聡に言った同じ内容を樋口に説明すると樋口は 自分が庭に出るので見たと言われる場所からどの辺りだったかを教えて欲しいと言い出したので4人はリビングを出て庭に面した廊下へと移動する。
「じゃこのサンダルを御借りして行きます、御指示宜しくお願いします」と言ってサンダルに履き替えてさっさと梅の木の下へ向かって行く。
「あっその辺りです」若林が言う。
「其処から灯籠に向かって灯籠を出た辺りで消えました」優子が少し大きな声で言った。
樋口は右手を挙げて了解したと合図を送り梅の木、地面、灯籠を立ち上がったりしゃがんだり、時に這いつくばったりしながら慎重に調べ、胸元から取り出した和紙に何かを採取している。20分程 そうした行為を続けると和紙を左手に持ち軽く畳み再び胸元に仕舞うと調べた辺りに今度は袖から出した巾着に一方の手を差込みブツブツと何かを言いながら巾着の中の砂の様な物を4方向、8辺へ撒き、右手を目の前に垂直に立てて軽く握り人差し指と中指を真っ直ぐ立てて水平に腕を振り続けて縦 又、水平と九字を切った。
其れから足を踏み鳴らしながら4方向、8辺を円を描く様に周り廊下へと戻って来て
「リビングに戻りましょうか」と言ったのでまた4人はリビングへと移動した。
リビングに戻ってソファに腰掛けて聡は、
「何かわかりましたか」と聞くと
「今夜にでもこの和紙の中身を調べてみます」と言い、胸元から畳んだ和紙を取り出し何やら難しい言葉の書かれた封書に仕舞い混みテーブルの端に置いた。
「あれって九字ですよね、あの指を立てて横縦とやった奴」優子が言うと
「はい、良く知ってますね」笑いながら樋口が答えると
「前に 陰陽師って映画でやってましたから・・・でも本物を見たのは初めてです」と優子が言いながら若林を見て頷き、
「でも最後の足踏みして回るのは知りません」と言い足した。
「足踏みして回るのは 悪意のある物に呼応して集まった魍魎を退けて結界を張る準備をしたんですよ」樋口が答える。
「そうなんだ、色々有るんですねー。ところで お父さん、どうやって樋口さんを見つけたの」優子が聡に聞くと横で若林も頷きながら聡に目をやる。
聡は 樋口と出会ったいきさつを簡単に優子と若林に説明したが、魔との契約は一切言わなかった。横で聞いていた樋口も其れを察して何も言わずに黙って聞いていた。
聡は、説明しんがら樋口の目を見て少し安心する。
説明が終わり頃合いを見て樋口は、
「明日の朝にこの家を結界で包み混み、霊的侵入者にこの家その物を見えなくしてしまいますね」樋口が言い、コーヒーを口に運び、「これは良い豆を御使いだ、コロンビアとキリマンジェロ其れにモカを少し加えてありますね」とコーヒーを褒めると
「若林さん、本当?」聡が聞くと
「流石で御座います、コーヒー専門店で特別に調合して頂いております」
「え〜そうなんだ、友達がうちのコーヒー美味しいって言ってたけど・・・外でコーヒーって殆ど飲まないからわからなかった。ごめんね」優子が言い、
「私は研究室ではインスタントばっかりで」
聡が笑いながら言うと若林が、
「旦那様がコーヒー御好きだと言われたのでコーヒー通の友人と買っている専門店の方とで色々調合してこのブレンド比を見つけたんですよ」笑ながら言う。其れを聞いていた樋口が、「実に良い家庭ですね、相馬さん、お互いに気を使いあっている。お互いに敬う心が無ければあり得ない事ですよ」と笑いながら言い、うん良いな、と言いながらコーヒーを口に運んで頷いていた。
「陰陽道って具体的にどう言った学問なんですか? 私はほとんど知りませんので、西洋のエクソシストの様な物かと」聡が聞くと
「かなりエクソシストとは違いますね、簡単に言いますと陰陽とは字のごとくプラス、陽ですねこれとマイナス、陰を混ぜ合わさった物を指します。基本は陰陽五行思想に乗っ取り、星読み等の天文学に始まり統計学、算学、地学などの多分野に別れます。五行とは 木、火、土、金、水に寄って世界が成り立っていると言う思想で其々に相性と相剋に寄ってバランスされていると言う考え方なんです」
と樋口は説明した。
「うーん、成る程、日本の算術はその流れを汲む物なのか」聡は頷きながら言うと
「今は数学だよ」優子が口を挟む。
聡は、「算学はね江戸時代中期から後期に飛躍した学問なんだよ、瓦版のクイズ欄にルートや円周率、三角関数等の問題が出されたりしていたんだよ」と言うと
「え〜、其れを丁稚さんや町人、武士が見て解いてたってこと?」優子が言うと
「その通り、徳川幕府は教育に熱心だった、熱心過ぎて国民の思想が多様化してしまい、攘夷に寄って潰された。当時の有力者、幕府には日本と言う国の認識が少なく、徳川幕府と言う存在になってしまっていた。この体制が脆弱過ぎたと言う事だね」樋口が言った。
「自分で自分の首を締めたって事」
優子が聞く
「学問がもたらす最も大きな物、【好奇心】【探究心】がそもそもの改革の原動力に成ってしまった。って事だよ」
「そうか、其れで地方の塾生から始まったのかー、納得ですね」優子が納得し頷いた。

結界

樋口は朝の4:00をまわった頃、相馬家の玄関口に立って八画の板の真ん中に方位磁石を乗せて針の動きを見ている。
八画の板、それは八卦を見る為の板である。
樋口は正装しておりその立ち姿は 何をも寄せ付けない雰囲気を漂わせている。
八卦板を左手で水平に持ちながら右手の人差し指と中指の間に札を挟んで立てて軽く握ると右手を目の前で垂直に立て、歌の様な呪文を唱えてから、指で挟んだ札を玄関口に押し当つけてから更に違う呪文を唱えると札が玄関口に溶け込む様にゆっくりと消えて行く。
当てていた指をどけその場で北、東、南、西へ九字を飛ばすと玄関より家の中へ戻っていった。その行為を家の壁や庭の塀に順番に行い、一連の作業が終了したのは8:00を回った頃だった。
「ふー」と息を吐き 烏帽子と八卦板を左手に持って自分の為に用意された客間へ移動し左手に持った物を丁寧に置くと正装を着替えて昨日着て来た和装でリビングへ向かう。
リビングへ入ると聡、優子が声を掛けた。
「おはようございます」
「おはようございます、お疲れ様でした」
樋口も良く通る声で
「おはようございます」と挨拶をし、ソファに座る。
背後のキッチンから若林が
「おはようございます、今日の朝ご飯は和食でよろしいでしょうか?其れとも洋食に致しますか」と声を掛けると
「樋口さん、どちらが御好みですか」
聡が問うと「ありがとうございます。御手間で無ければ和食を御願いします」と答えた。
「良いですか、若林さん」聡が言うと
「はい、用意は出来ております」と答えたので、聡、優子、樋口は目を丸くしてキッチンを振り返ると 若林がテーブルに椀に入った味噌汁を置くところだった。
「良く分かりましたね、まるで超能力みたいだ」聡が言うと若林はにっこり笑って
「どうぞ用意出来ております。冷めない内にどうぞ」と3人を促す。
テーブルにつきながら優子は
「ねえねえ、若林さん何でわかったの」と聞くと若林は笑いながら
「質問の仕方で誘導しただけですわ」と言い、「樋口様は遠慮を御存じの方でしたので先に説明のすぐ後に和食と聞き 付け足す様に洋食と聞きました」コーヒーを用意しながら笑顔で答える。
「相馬さん、良く若林さんの様な方を見つけましたね、一流ホテルのホテルマン並の接客応対だ。頭が切れますよね」樋口が言うと
「若林さんの前職はまさにそれですよ」
聡が言うと
「えー、そうなんですか」樋口が驚く。
「若林さんがうちに来て呉れる様になって何年になるのかな〜」優子が言うと
「もうすぐ5年になりますね」若林が答えた
「そうだね、お父さんが家事に疲れた〜って言ってたのを覚えてるよ」
クスクス笑いながら優子が言い、
「其れから近所の方や知合いに聞いて6か7人目の面接で若林さんに決めたんだっけ」
「そうだね、何人目だったかは覚えていないけど面談して この人、凄く頭の良い人だって思ったよ、同じ印象を優子も持ったんだよね、で、誰にするって2人で別々に紙に書いた名前を見せ合ったら若林さんだった。あの時は大笑いしたね、でも履歴書にはホテルのフロントマネージャーとは書いて無くってホール係りってあってさ、優子の誕生日にたまたま予約したレストランが若林さんが前に居たホテルだった。その時初めて若林さんがフロントマネージャーだったってっわかったんだよね、あの時は驚いた」聡が笑いながら言った。
「すいません、隠す積もり無かったんですけど」若林が謝ると
「良いんですよ、全然、気にしてませんよ。でもあの時は本当にびっくりした。外資のホテルのフロントマネージャー何て普通は年行った人が漸く出来る重要なポストだからね」
聡は言い、大笑いした。
樋口も顔は笑っていたが、
(なるほど、そう言うカラクリか)と心の中で思いながら「相馬さん達は仕事は?」と聞くと
「私は、今日は講義がありませんので休みを貰っています」聡は言った。
「私も有給取っちゃったよ」優子が言うながら「味噌汁、美味しいねー」と呟いた。
「じゃ、朝はこの建物に結界を曳いたのでこの建物自体は全く術者からは見えなくなっています。後は、個々の結界を細かく分けて行って行きますので、それと真宮寺からメールがありまして影の痕跡が部分部分で見え隠れしているとの事です。今は、その影とは別の妖狐が一匹、別の人間を調べている様です」
樋口が言う。聡が、「その人の所に行かなくて良いんですか」と聞くと
「その人は、寺に逃げ込んでいる様です」と言い「任せておきましょう」と言い、
「御馳走様でした」と食事を終えると「一寸、部屋に行ってます。すぐに戻って来ますので、又、美味しいコーヒーを御願いして良いですか」と若林に言う。
「はい、皆さんの分、用意しておりますよ」とにっこり笑いながら言い、「私、今日、午前中だけ私用がありますので失礼させて頂きますね」と聡に言う。
「あ、そうか今日は、病院の日でしたね。ゆっくりして来てください」と言った。
「買い物あるなら書いておいて下さい。私、行ってきますから」優子が言う。
「昨日、買い物はすべて済ませてありますので、では、コーヒーを用意させて頂きましたら用意して出ますので、よろしく御願いします」若林が言い、リビングのテーブルにコーヒーを3つ用意して自室に行った。
「若林さんの子供さん、気の毒だよね。治る見込み、無いのかな」優子が小声で聡に聞くと
「うん、難しい問題だね。明るく振舞っているから尚更に・・・ねぇ」聡が言った。



若林は、自転車に乗り相馬家から出る。行先は、大きな池を挟んだ向こう側にある大きな病院であった。
池をぐるりと半周し、信号を渡ると歩道を右に曲がると左手に病院が見えて来る。
若林は「ふぅ~」とため息をつきながら病院の駐輪場に自転車を止めて玄関へと向かって行く。
人がごった返しているロビーを抜け、小児科病棟に向かう。
エレベーターで5階に上がり息子のいる病室へ向かう。
病室は個室部屋になっていて奥の窓際に向かうとカーテンを開け、
「おはよう、毅」と声を掛ける。
だが、返事は、無かった。
いつもの事だった。
若林は、ベットの横の椅子に座り、寝ている息子の頭を優しく撫でると
「ちょっと待っててね、体を拭いてあげるから、さっぱりするわよ」と一人で言う。
ベットの上の息子は、目を瞑り鼻と口は、透明のホースのついた半透明のカップで覆われている。
左手にはいくつかの注射針の付いたホースが刺さり、血液や栄養剤などを体の中へ送り込んでいる。
そう、息子は目覚める事の無い病気に侵され生まれて8年間この病室から出た事が無かったのだった。
(あの時、夢の中で天使と約束したのに、やっぱり夢だった。其れに天使なんかじゃ無かった、あれは魔物だった、私は魔物に騙されていた)若林は呟きながら洗面器に湯を注ぎ、タオルを絞って息子の体を拭いてやる用意をして病室に戻ると寝間着のボタンを外し 優しく身体を拭いて行く。
全身を拭き終わるとバッグから表紙の擦り切れた本を出した。
息子が生まれた時に今はもう他界した夫が買って夫が息子の横で読んで聞かせていた本だった。夫は不慮の事故に寄り6年前に死んだ。生前、ずっと息子に読もうと夫と約束したが、いつも2〜3頁も読むと本の文字が涙で見えなくなって読めなくなってしまっていた。
だが、今日は違った。
取り出した本の裏表紙に挟んである封筒を取り出し、其れを持って病室を後にするとエレベーターを使い、一階に降りるとそのまま病院の裏に回る。
病院の裏は いづれ此処にも病院の建屋が出来る事を容易に想像が出来る程の広いグラウンドになっていた。
若林はしゃがみ込み封筒の中身ごと持って来たライターで火を点ける。
紙の焼ける匂いと共に髪の毛の焼ける様な匂いが辺りを漂うが風が匂いと灰を何処かへ運んで行った。
(これで良いんだわ、あの夢に出て来て私にこの毛をあの家に置かせたのは、天使でも何でも無かった。あの黒い影の魔物だったんだわ。相馬さんには本当に優しくして貰っている。これ以上、私のわがままで苦しめる事等出来るもんですか)と呟き、(毅、ごめんね。母さん、馬鹿だったわ。許してね)と呟くとその場で泣き崩れた。



「貴女は決して悪くない」樋口の良く通る声が響く。
相馬家のリビングである。
聡と優子の座るソファの前で若林が正座して謝っている。
「そうとも若林さんは悪く無い。悪いのは貴女をそそのかした黒い影を操っている者だ」
聡が言うと優子が
「そうですよ。だから立ってソファに座って今後の事を話合いましょ」と立ち上がり若林の手を取って言った。
樋口は「若林さん、ありがとう。あの影が入って来たかを相馬さん達にどう説明しようかと悩んでいたんですよ」と言うと
「え、御存じだったんですか」若林が聞く
「昨日、庭で狐の毛を見つけて拾い集めて若林さんと同じ方法で処分しました。強い意志を持って火で焼き尽くすのは、不動明王の力を借りる行為に成りますよ」樋口が言うと
「術の名前って有るんですか」と聡が聞く
「ええ、不動明王火炎呪と言います」
樋口は笑いながら答えた。

病院

一週間が過ぎ、若林は病院に向かっていた。
樋口は3日程、相馬家に滞在し様々な行事を行い、携帯の番号を教え帰って行った。
若林は池を半周周りいつものように病院に着くと真っ直ぐに息子の病室へと歩んで行く。
エレベーターに乗り、小児科病棟の廊下を歩んで個室のドアを開けて窓際へ進みベットの上の動かない息子の顔を見てその頭を優しく撫で物を言わぬ息子に「どう?調子は」と囁く。
すると
「ナゼ、あの家が見えなくなった、以前は入れた。何をした」ひしゃげた様なガラガラ声がした。
若林は驚いてカーテンを開け部屋の中を見ると何処から入ったのか一匹の狐がいた。
驚いたが気を取り直し、
「天使のフリして近づき、私を騙した貴方達に教える理由が有りません」
「フン、お前が助けを求めた癖に・・・ん!、お前、渡した物は何処へやった」
「燃やして捨てたわよ」
「裏切る気か、息子はどうする」
「治すと言いながら全然変わらないじゃない、治して貰わなくてもう、結構です」強い口調で若林が言うと
「そうか、仕方ないな」
「もう、帰って下さい。私達 親子の事は放っておいて下さい」
「放っておく?、違う。俺達の存在を知った以上、生かしておく訳には行かない」
「たかが狐に何が出来るっていうのよ」
「フッ、見くびられた物だ。息子の死を見て絶望の中で死んで行くが良い」
狐が言い終わると天井の蛍光灯がパキッと言う音と共に割れ尖った割れ口が息子目掛けて飛んで行く。
若林がとっさに息子に被さると割れた蛍光灯は若林の右肩の後ろに突き刺さった。
若林は左手を伸ばしナースコールを押した。
ナースステーションでは待機していた3人の看護師が慌てて飛び出した。
「チッ、無駄な事を」狐が呟くと今度は若林とその息子が乗ったベットがカーテンから引き出された。狐は依然として一歩も動いていなかった。
若林はナースコールのボタンを握りしめていた為、ボタンの付け根からコードが千切れたが気にする余裕が無かった。
ベットが狐の正面で止まる。
狐は静かに「あばよ」と言うと口角を吊り上げ笑う様な表情を作る。
個室のドアが大きく開かれ、ナースコールに呼ばれた看護師3人が部屋に走り込んで来た。
看護師がどうしましたかと問いながら部屋の中を見て驚く。
狐を見て足が止まった。
「助けてー」若林が叫びながら片手を挙げる。
看護師達は、思考が追いつかず動けない。
ベットが浮き上がり勢いよく窓に向かって飛んで行く。
「キャーーー」と言う若林の悲鳴に似た叫びが響く。
重さ100kgを越える物体の猛烈な衝撃を受けたアルミサッシの窓は 窓枠ごと破壊され外に押し出されると宙を舞って落ちて行く。
少し遅れてベットも若林と息子の毅を乗せたまま空中に躍り出た。
五階の高さから地面に向けて落下して行く。
「これで3人、会えるよ、毅、御免ね」
落下しながら若林は息子を強く抱きしめた。
動かない筈の息子の手が若林の手を握る。
「あぁ、神様が最後に願いを叶えてくれた」
落下の加速により意識が遠のく寸前に若林は一粒の涙と共に呟いた。



優子は会社で書類を片付けながら背筋に悪寒が走った(何?今の、電話しなくっちゃ)と取りつかれた様に携帯を握り締め部屋を飛び出して行くと階段の方に走りながら聡に電話する。
「お父さん、何とも無い?」と聞くと
「あぁ、私もお前に電話する所だった。胸騒ぎがする」
「私も・・・樋口さんかな、まさか若林さん」
優子が言うと
「樋口さんに今から電話するからお前は若林さんに。切るぞ」聡は電話を切ると直ぐに樋口の携帯へ電話して無事を確認すると直ぐに優子から電話が入った。
「ダメ、圏外、病院だから切ってるのかなー、私、早退して今から病院に行って来る」
「うん、そうしてくれ。私も今から向かう」
電話を切った。
優子は電話を握りしめたまま仕事部屋へ走って戻ると上司に駆け寄り早退の許可を強引に得る。
更衣室に駆け込み皮の上下に着替えてブーツを履くと制服をロッカーに残してヘルメットを手に取ると更衣室を飛び出し(急がなきゃ)と呟き、バイク、ドゥカティを置いている会社の駐車場へ走った。
バイクを駐車場から引き出すと跨ってキーを突っ込み捻るとセルモーターを起動させアクセルを捻る。
L型2気筒1,099ccのエンジンが唸りを上げ始動する。
タコメーターが落ち着くのを確認して左手でクラッチを握り、左足でセカンドギヤに入れアクセルを開けながらクラッチを繋ぐとフロントタイヤ側に体重を乗せた。
フロントタイヤは接地したままでリアタイヤが白煙を上げ、煙とメカノイズをまき散らす。
ギョワと言う音を残し加速して行く。
ドゥカティ、ストリートファイター848の真骨頂、ロケットスタートだ。
目の前に迫った信号は青、右手右足で前後のブレーキを一瞬かけると右膝(ひざ)を地面に擦れるかと思う程にバイクを傾けるとリアタイヤを左方向にスライドさせながら戦闘機の様に曲がって行く。
歩行者がいない事を確認するとアクセルを開けてトルクが出る回転数までそのまま加速する。
歩道を歩いている人がびっくりして見ている。
優子は気にする暇もない。ただ早く安否を確かめたかった。
(お願い、無事で居て)心で叫びながら
(今の信号が青だからここから次の信号を抜けれれば天王寺まで一気にいける)ヘルメットの中で呟く。
次の信号の歩行者信号が赤に変わった。
アクセルを開け加速する。
フロントタイヤが浮き上がって来る。
優子は自分の体重を思いっきりバイクの前に乗せる。
信号が黄色になった時、バイクは交差点の真ん中を通過していた。
(やった、後は65km/Hrをキープすればノンストップで天王寺)呟き、頷く。



樋口は、聡から聞いた病院へ慌てて出かける。
(しまった、彼女や相馬さん親子に護符を今日、お邪魔して渡すつもりだったのに・・・一歩遅かったか)と自責しながら自分の車に乗り込むと神社を後にする。



聡は助手に緊急事態だ、俺は今から外出する後の事は任せると言い車に走って行く。
スーツの上着のポケットからキーを取り出し、車のドアを開けて中に乗り込みキーを一段回す。
コッコッコと燃料ポンプの音を確認するとアクセルを2回パタパタと動かしてアクセルを半分開いた状態でキーを回してセルモーターを起動させる。
セルモーターが重い音を鳴らしながら周り始め、直ぐに軽い音に変わる。
年代物のS20型エンジンがボッボッボッボッボッボッブロロロンと掛るとギヤをローギヤに入れゆっくり前進させると重いハンドルを大学の出口へと向ける。
大学の敷地を抜けるまで徐行するとエンジンは十分に温もっていた。
大学のすぐ近くにある大きな公園の周回道を走り、自動車専用道路に出て病院のある南方向へ走って行った。



病室内は大騒ぎである。いや、病院中と言う方が良いかも知れない。
大きなガラスの割れる音で駆け付けた患者数名と看護師3人は、狐を見ていた。
狐は、「フン」と鼻で言うと壊れた窓に向かって走って行く。
条件反射で患者数名と看護師が後を追うと狐は壊れた窓に向かって飛び跳ねて消えた。
「・・・き、え、た、?」患者の1人が言う。
その声で気を取り直した看護師が「あ、若林さん」と大声で叫ぶと、ナースセンターへ走って行く。
看護師の1人は、病室から見に来た患者達に「危ないですから出て下さい」と追い出しにかかる。
ともう一人も我に返りナースセンターへと走る。
地上ではナースセンターから連絡を受けた救急隊員達数名が2人の容態を見る為に担架を担ぎ走っていた。
しばらくするとパトカーのサイレンが聞こえて来た。
パトカー数台は裏のグランドより侵入して来た。
病院の警備員がグランドと病院の仕切っている金網の門を開きに走り寄る。
門が開き、私服警官数名と鑑識数名、制服警官数名が病院内に走り込む。
制服警官達は、一階の転落現場を現状確保の合図と共にブルーシートで被い外部との遮断に取り掛かる。
鑑識は一階と五階に2組に分かれて作業を開始する。
救急隊員達は2人共の死亡を確認し、2人の運び出しの許可を待って2人を担架に乗せてシートを掛けると病院内の死体安置所に運んで行った。
五階では、鑑識が写真を撮り床や窓枠等を調べ回っている。
私服警官も2組に別れて事件発生の目撃者達から聞き込みを開始していた。
優子が病院に着くと病院内は、物々しい雰囲気に包まれていたのを肌で感じ取り、(まさか、若林さん、無事で居て)小児病棟へ祈りながら走る。
五階に着くとエレベーター前にいる警察官に止められた。
事情を話していると看護師の1人が優子に気づき、優子に駆け寄り
「相馬さん、若林さんが大変な事に」
と言うと手を引っ張ってナースセンターへ連れて行く。
後に残った警察官は、少しバツの悪そうな表情をしたが次々エレベーターから現れる人の対応に追われていた。
「警察に話をしたんですけど信じて貰えなかった。でも、本当なんです」看護師が優子の前に座り言う。
「私は、信じます。狐ですね、狐を見たんですね」と言い
「電話、借りても良いですか」と聞く。
優子は、怒りで涙すら出ていない自分に気がつかなかった。
看護師は、外線へ繋ぎ変えて受話器を優子に渡し、電話機を優子の方へ向ける。
優子は、プッシュホンを操作して電話を掛けた。
「お父さん、若林さんが亡くなった」と言うと
「そ、そうか・・・」聡が答える。
父の声を聴いた瞬間、涙が出て来た。
「お父さん、お父さん、早く来て、お願い」涙声で叫んだ。
「天王寺を越えた所だからもうすぐだ」聡が答える。
電話の向こうで受話器が床に落ちる音がした。
看護師が受話器を拾い上げ、電話の相手に
「相馬さんでいらっしゃいますか、私、小児病棟で看護師をしております飯山と申します。御嬢さんは無事です、ただ、泣いているので電話に出られません。通話を切ってよろしいでしょうか」と言う。
聡は「はい、わかりました。よろしく御願いします。私の今、そちらに向かっております」と告げると
「正面玄関の警備の者に連絡しておきますので同行して来て下さい」と返事があり、通話が切れた。

氷炎

若林を襲った狐は京都南西部の荒地を次の目的地へ向かって急ぎ走っていた。
涼しくなったとは言え 雪の降る季節でも無い時期だと言うのに草が地面が凍っている所に出た。
(人間共が氷を捨てて行ったな)と思いつつ走って行くと左手に炎に焼き尽くされた大地と右手に氷漬けにされ崩れた木立の中間を走っている事に気付き立ち止まる。
狐の目の前の木が 突然、燃え上がり木の上から消えて行く。
灰も煙も出ない燃焼温度だ。
驚き、後方へ大きくジャンプすると今度は燃えている木に何かがぶつかると信じられない事に燃え上がりながら凍って行く。
炎すらも凍らせる勢いだ。
「こ、これは」狐が呻(うめ)く。
頭の上、上空に危険を察知した狐が上空を見上げる。
上空から炎の玉が辺り一面に降り注いで来る。
狐は慌てて元来た方向に懸命に走り出す。
「そこか」狐の右方向から声が聞こえた。
狐には誰かの声が聞こえ、突然、右脇腹から左肩口に激しい痛みを感じ、絶叫しながら左前方に転がった。
横倒しに倒れぜぇぜぇと息をしながらも狐はそばにあった拳大の石を数個 声のした方向に飛ばす。
狐の視界の中で飛んでいく石に矢の様な物が次々と突き刺さる石は空中で粉々に砕けて行き残らず粉砕された。
石を粉砕したその矢は 次々と狐に向かって飛んで来ると狐の居る上空で停止すると切先を地面に向けて回転する。
次々と辺り一面の上空に矢が集まったその時、地面 目掛けてヒュンヒュンと降って来た。
狐は声を上げる事はおろか目を閉じる暇さえも与えられず矢に串刺しにされ地面に縫い付けられるとそのまま絶命した。その遺体と周りの地面には、数十本もの氷の矢が突き刺さっていた。
「凍次郎、私はこっちだ。お前又、関係無い奴を殺っただろ。遊びはやめだ、お前の殺った奴を見に行く」と凍次郎と呼ばれた者は まるっきり見当違いの方向からする声に驚き、
「そっちかよ。またやっちまったか」と言うと空気が波打ち姿を現すと歩き出す。
串刺しにされた狐のそばに2匹の巨大な狐が現れた。狐と呼ぶには大き過ぎる大きさで馬を少し小さくした程の巨躯をしている。
一方は黒い漆黒の毛が艶やかに黒光りし、もう一方は眩しい程の金色の毛を纏っている。
2匹共、九本の尻尾を持っていた。
「なんだ、悪狐じゃねえか」漆黒の狐が言う。
「凍次郎、何でいつも関係無い奴を」
金色の毛を纏った狐が頭を左右に振りながら呆れて言うと
「俺達の遊びの間に入って来た奴が悪い、この辺りの奴らは俺達を見た時に全部 逃げて行った、其れに今回は悪狐だ。良いじゃねえか、どうせロクな事してねぇ奴だろう。そうは思わねぇか、白雲よ」
白雲と呼ばれた金色狐は、「今回は悪狐だったから良いですが・・・。全く」
白雲が首を横に振りながら言う。
「なんだ、またやるか」凍次郎が言う。
「今日はもうやる気が失せてしまいましたよ」
「そうだよな。ふ~、俺もだ。帰るわ、じゃ、またな」
「あぁ、また今度な」
黒い疾風と金色の疾風が互いに反対方向に地面すれすれを飛んで行く。
実際は走っているのだが速過ぎて飛んでいる様にしか見えず、どんどんスピードが上がり その巨体も判別出来ない速度だった。
残ったのは氷に覆われ半透明になった草木が崩れ落ち未だパキパキと氷の割れる音のする大地と焼き払われ何も残っていない焼けた赤っぽい土の大地だけが残っており、静寂だけが支配していた。
奇しくも優子の仇(かたき)を 白雲と凍次郎、実際に引導を渡したのは凍次郎が、取った形となったが、この時まだ、優子は白雲、凍次郎の事は知りもしない、彼らも又、知りはしない。



優子は看護師から見た狐の姿、形を詳しく聞いていた。
化粧が落ち憔悴しきった面持であったが、目は鋭い光を持ち、怒りを抑えているのが如実に現れている。
看護師は、絶叫する程泣き心が悲しみで引き絞られると人はこうも面持ちが変わる物かと思い、その悲しみの深さに触れる。
自宅の庭で見たあの影との相似性を頭の中で描く。
大きさは看護師が見た狐とは大きく違っている。
そこへ聡が走って来てナースステーションのドアを開け、優子の名を呼ぶ。
優子は、椅子から跳ねる様に立ち上がると聡の方へ走って行き、
「お父さん、若林さんが、息子さん共々ね、うっ・・・」とそこまで言うと、聡に抱きつき泣き出した。
聡はその胸と両手で優子を抱きしめる事しか出来なかった。
やがて鳴き声が嗚咽に変わり始めた頃、聡の携帯が鳴る。
「優子、電話だ、一寸、待っててくれ」と優子の背中を左手だけで優しく二度叩き身体を開くと右手をスーツの内ポケットに入れて携帯を取り出す。
「はい、相馬です」と電話に出ると
「すいません樋口です。エレベーターの前で警官に止められて入れません。御手数掛けますが迎えに来て頂けませんでしょうか」
電話の相手は、樋口だった。
「わかりました、すぐに行きます」と答えると優子の目の位置まで腰を曲げて目を合わせると
「優子、樋口さんが来てくれた。エレベーターからこっちに入れないそうだ。私は、迎えに行ってくる」
と言うと「看護師さん、優子を椅子に御願いします」と言った。
看護師は優子の傍に駆け寄ると優子の両肩に軽く手を乗せて
「さぁ、こっちにいらっしゃい」と優しく言い、優子の手を取って優子の座っていた椅子へ誘導する。
優子の様子を見届けた聡は、ナースステーションのドアを開け、エレベーターホールへ歩き出した。。
樋口は、烏帽子こそ被ってはいなかったが、神主の服装で上の羽織だけを着替えていた。
聡の姿を発見すると手を挙げて挨拶する。
聡がテープの内側から警備している警察官に被害者との関係を話し、樋口をテープの内側へ招き入れる。
2人は、歩きながら軽く挨拶をした後、樋口が、
「私のせいかも解りません。すまない事をした」と言うと
聡が「誰のせいでもありませんよ。余りに理不尽過ぎる」と珍しく怒りを露わにしている。
「気をつけて下さい、相馬さん。貴方は、奴らに監視されている。怒り、妬み、嫉妬、恐れ等の負の感情は、奴らにとって甘いエサに過ぎません」樋口が言うと
「そうは言っても・・・、そうですね。気をつけます」と返答した。
ナースステーションの扉を開け2人は看護師3名と優子の居るテーブルへと進む。
聡はまっすぐ優子の元へ行き、その手を取って両手で優しく挟むと
「一寸、落ち着いたかい?」と聞くが 首を縦に振るだけで物は言わなかった。
樋口は、看護師に
「誰か現場を見た人はいませんか?」と尋ねたところ
「私達3人と患者さんが数名」と樋口の容姿を不思議な物を見る目で見ながら答える。
「この人は、樋口さんと言って最近、私達や若林さんが懇意にしている神主さんです。知っている事や、質問された事に対して答えていただけませんか」
聡が看護師達に言うと看護師達は黙って頷いた。
「どんな状況で事故が起こったのでしょうか?」樋口が聞く。
「私達がナースコールを受けて走ってこの部屋のドアを開けると真ん中に狐が座ってました。其れから、うーん、其れから壁際に設置されていたベットが部屋の中程まで移動されてました」
「居るはずのない動物が居た物ですから私達は、一歩も動けませんでした」
「若林さんが手を挙げて 助けてっと叫ぶ声がした時に・・・あの、信じられないでしょうが」
「良いよ、続けて」樋口が言う。
「若林さんと息子さんを乗せた鉄のベットが突然、空中に浮きあがり窓に向かって勢い良く飛んで行き階下に落ちていきました」言った看護師は、他の仲間の看護師と顔を見合わせながら頷く。
「その時、狐は何をしていましたか」樋口が問う。
「ただ、ベットの方を向いて座っていました」
「それから?」
「窓に向かって走り、壊れた窓に向かってジャンプしたと思ったらそのまま消えました」
「ねぇ、本当に消えたんだよね」
「うん、消えたよね」
看護師達は、口々に言う。
「そうなんですか・・・、狐はどのぐらいの大きさでした?」
「普通の狐、だよね」他の看護師の顔を見ながら言う。
「多分ね、大型犬よりも小さいから、狐って余り見ないから解らないけど」
「テレビで見たのと大体同じぐらいの印象だった」
「わかりました。ありがとう」
「樋口さん」聡は、声を掛ける。
「此処に来たのは、間違い無く狐でしょう、多分、悪狐。ずっと座ったままだったと言う事は、ベットを飛ばしたのはその狐を操っている本体の力だと思います。本体は、狐なのか人なのか解りません。それに、これは重要な事なんですが、恐らく若林さんは、その狐を通して本体と話をしたと思われます。そして相馬家で私や私のした事を話しなかった。まぁ、裏切ったと言う表現が正しいのかどうかは別として決別したのでしょう。そして其の代償として殺されたと見るのが正しいと思います」
「若林さんが私達を裏切る事なんて無い物」
優子が鼻声で言うと聡も横で頷いて
「警察官に言っとかなきゃ、優子、父さんはね、若林さんと彼女の息子、毅君の葬儀をうちで出そうと思うんだが、ほら、若林さんの身内って息子さんしか居なかった訳だしね、良いかい?」と聞くと
「お父さん、そうして上げて」優子は顔を上げ聡を見上げながら言った。
「じゃ、さっそく警察官に言って、どう言う手続きが必要なのかを聞いてくるよ」
聡が優子に言うと樋口に目で挨拶をしてナースステーションから出て事故のあった病室前で警備をしている警察官に話す。
警察官は一寸、待ってて下さいと言い、事故現場で指揮を執っている刑事に報告し、刑事を連れて戻って来た。
「相馬さん、でしたっけ」刑事が舐める様な視線で聡を見ながら言う。
「はい」
「被害者との御関係は?」
「うちで家政婦をして貰っていました」
「家政婦の葬式を出すとは、また・・・」
「彼女の身内は、息子さんだけなので 私達しかいないんですよ」
「わかりました。連絡しますので電話番号を教えて頂けませんか?」
聡は、刑事に携帯の番号を教えると刑事は自分の携帯にその番号を打ち込み発信する。
聡の携帯が鳴り、間違い無い事を確かめると
「今日は帰って頂いて」警備をしている警察官に告げた。

御符

若林が亡くなり、十日程が過ぎた。
相馬家は、一応の落ち着きを取り戻した。
聡も優子も今は、大学に会社に其々が出勤し、平穏な日々が戻っている様に思える。
家に帰る度に若林の事を思い出してしまうので2人共、家に居たくなかったと言うのが正直な彼らの心情なのだろう。
あの日、優子は病院から帰る時にバイクに乗る気力も無く、購入店に電話して病院から家まで車載車で運んで貰い、久しぶりに父の運転する車に乗って帰った。
父の車の助手席には優子は乗らない。
家族だけで乗る時、其処は、亡き母の席だと今も思っている。
父がこの車を手放さないのは、母との思い出がいっぱい詰まっているとそう考えている。
聡は優子のそんな気持ちを有り難く思い、助手席を勧めようとは決してしない。実際、聡が一人で乗る時も鞄や書類の手荷物は、後ろのシートに置き、助手席には決して物は置かないし、運転している時には、助手席に話掛ける様にしゃべっている事さえあった。この時代に笑われるかもわからないが聡は今でも妻を愛している。再婚は尽く全て断ってきたし、余程の事が無い限り呑みにも行かない。
元々、研究以外に殆ど興味を持たない聡であったが、妻が死んでからは益々拍車が掛った様になるが、其れを引き留めたのが、優子の存在に在った。妻の面影を残しながら育った優子は、聡が最も愛しい娘である。
「ただいまー」聡が家の扉に入って言い、玄関に揃えてある2足の革靴に目が行く。
(客かな)呟きながら靴を脱ぎ、玄関に上がった所で
「お帰りー、お父さん、お客さんが来てるよー」リビングの方から優子の声がする。
(誰だろう、うちの学生か、助手かな)と思いながらリビングに入ると
「お邪魔してます。相馬さん」樋口が珍しくスーツを着ていた。その横に真宮寺が小さくなって座っている。
聡がソファーに座ると、優子が
「御飯、もう直ぐ用意出来るからね、樋口さんも真宮寺さんも御飯まだなんだって、久しぶりに大勢で食べれるよ」嬉しそうに言い、
「真宮寺さんの事、樋口さんが言ってたけど・・・カッパさん何だって、お父さんは知ってるって言ってたけど、本当?」と聞く。
「あぁ、もう聞いたのか。そうだよ、河童さんだよ」聡が言う。
「御嬢さん酷いんですよ。樋口さんが河童って言ったら俺の頭をコンコン叩いて、何だ普通じゃんって言って髪の毛は避けるわで大変な目に逢ったんですよ」真宮寺が泣きそうに成りながら言う。
その表情を見て思わず、樋口も聡も大笑いし、聡が、咳き込みながら
「優子、お前、それ」と言い、笑いながら
「良いなその触診」と笑う。樋口も触診って言いながらクスクス笑う。
「用意出来ました。今日は、ミンチカツとエビフライ、其れにポテトサラダと生ハムにわかめスープ、さぁ、こっちで皆で食べよう」優子が笑いながら言った。
食卓に着く真宮寺に優子が
「カッパさんって日頃、何食べてるの? やっぱり話に聞く[あれ]かな?」
「[あれ]ってなんだい?」聡が聞くと
「え、言って言いの?・・・うーんとね、金玉」優子が言うと
樋口が横を向いて思いっきり吹き出し、真宮寺と聡は、唖然としている。
聡が、「女性がそんな事言って、ほんとにお前は」
「だって、聞いたのはお父さんだよ。其れに昔話であるじゃない」ふくれっ面をしながら言うと
「生まれてこの方、そんな物、口に入れた事ありませんし、一族で食べたって言う噂すら聞きませんよ。全くもって河童をなんだと思っているのやら・・・そもそも河童と言うのはですね、ある一種の魍魎が作り出した逃げ水を其処に定着させてですね、田や畑に供給させる役割がありまして」
真宮寺は真剣に抗議すると涙をハンカチで拭き終えた樋口が真宮司の話に割って入って
「あー、可笑しい、そうなのか、カッパは[あれ]を食うのか、あっはっはっは」大笑いする。
「じゃーさー、何食べてるの」優子がむくれながら言うと
「人の話を最後まで聞けって・・・人間と同じ物ですよ」真宮寺は、少し怒った様な口調で言った。
「最初から言えば良いじゃない。残さず食べなさいよ」優子が命令口調で言ってテーブルに着いた。
「何で俺が怒られるんだ」
真宮司が文句を言いながら茶碗と箸を持つ。
食事をしながら優子が
「樋口さん、妖怪にも悪い奴も居れば良いのも居るんだね、人と同じだね」と言うと
「そのね、難しい所何だけど、人と妖怪ってのは、基準が全く違うんだよ、人は長生きしても百歳前後だろ、彼ら妖怪は、二千年、三千年てのはごろごろいる。其れに良い悪いの判断は、人間の基準だけど彼らには無い。ただ、この人間は、好きだなと好意を寄せるとその人間が死ぬまでその好意は、続くし、助けても呉れる。彼らの社会は、力と階級だけの世界でその中でも階級は絶対的な権限を持っている。ただこの階級がミソで人間社会に著しい悪影響を与える思想や行動をした者は思想、行動をした時点の階級を生涯背負う事になる。だから良識、ここで言う人間社会における良識だね、良識を持っている者は人間社会で会社に勤めたり、重要なポストにいたり様々な形で社会に貢献しているよ」
樋口は、そう言いながら横目で真宮寺を見る。
真宮寺は、一心不乱に食事に喰らい付いている。その真宮寺の姿を見て頭を抱える。
「そうなんだー、何だか大変な世界だね。それにしても真宮寺さん、お父さん、見て」
優子がクスクス笑いながら聡を肘で突く。
視線に気づいた真宮寺は、バツの悪そうな顔をしながらも
「美味いです。食事にありつけたのも三日ぶりっす。御飯、お替りしても良いですか」
優子に聞くと優子はクスクス笑いながら
「いっぱい有るから大丈夫だよ。十杯でもお替り出来るよ。オカズ足りなかったら海老フライなら直ぐに揚げれるからね」と言って真宮寺から茶碗を受け取るとすぐ脇のカウンターの上に置いてある炊飯器から御飯をよそって山盛りにすると真宮寺に渡す。
「お、大盛りだ、有難う御座います」嬉しそうに両手で受け取り再び箸をつけて行く。
「そんなに大変な張り込みしてたんですか」聡が聞くと
「気配を殺して佐賀県まで狐を追ってました。あ、だから間違い無く病院に現れた奴じゃありませんよ」
真宮寺が言う。
「と、言う事は」樋口が言い掛けると
「まぁ、食事が終わってからじっくり話合いましょう」聡が言い、引き続き、食事を促した。



少しくすんだ白面金色の何物かが岩の上に立って居る。
(気配が消えた、京都北部に向いて移動していた途中だったはずだが)その物は考える。
(協力者の人間を一人、裏切者として断罪し、京都南部に俺が転送させたが、その後、突然、気配が消えた。何かに逢ったのか・・・)考えても解らない。
意識をあいつにも少し残して置くべきだったか、と悔しがる。
もう一匹の九州へ行かせた狐は、無事に祖母の部下達に逢えたし、話も出来た。これでこの国の南部からの制圧は、可能になった。
(しかし、もっと力の、妖力の強い奴が欲しい、本当に強いかどうかは別として噂に聞く九尾狐の白雲や凍次郎クラスが欲しいものだ)と呟いた。
(最も、俺の妖力が完全に補充されたなら最強が手に入る。それまで此処に居なきゃならんのが腹立たしい事だが この国を守る神共に知られる訳にはいかんからな、祖母の願いと計画、この俺が達成してやる。この国を闇に沈めたら神代の時代の遺物、天の浮き船を悠久の時を超えて復活させ地上の全ての人間共に地獄を与え、妖怪の世界を作り出してやる)自分の立って居る岩を踏みしめた。



聡と優子がリビングにコーヒーを運び、テーブルに並べる。
真宮司はソファに座りお腹をさすりながら満足げにニコニコしている。
樋口は手にした鞄から封書を二通取り出してソファに座った聡と優子に其々、一通づつ手渡して
「苻と言われる物です。中身は決して見ないで下さい。印の書かれた和紙と護摩を焼いた粉が入っています。其々、常に身に付けて下さい」
「先生とお嬢、こいつね結構 腕の立つ陰陽師なんだぜ。珍しく御堂にこもってそいつを作ってた。妖術にはかなり効くぜ」
真宮司は前かがみに成り真面目な顔で言う。
「妖術って? 妖怪の持つ力の事ですよね」優子が聞くと
「ま、俺なら妖気と水を練り合わせた水槍とか、妖気で近くの池や沼から水を呼んだりとか、そう言ったもんだ」
言いながら真宮司が自分の人差し指の指先に水の玉を作って見せる。
優子が驚いて其の指先に浮いている水玉に触ろうとした時、
「触っちゃいけない。その水自体は、恐らくキッチンか何処からか呼び寄せた物で、形作っているのは、真宮寺の妖気だ。人が妖気に触れるとどうなるか解った物ではありませんよ」
樋口が言って優子を制止する。
「これをこうすると」樋口が言って 
聡に手渡した符をもう一度受け取り、真宮寺の指先にある水玉に持って行く。
「ギャー」と大きな声を上げて真宮寺が仰け反る。
水玉は、黒い煙と成って消え、真宮寺の指先が消えた。
聡と優子が目を丸くして見つめている。
「この符の効果がお分かりになりましたか? そう、技を消し去る事はおろか、術者に多大な損傷を与えます。この符を持っている限り、相馬さん、貴方達に術を行使する事は、術者に取って危険極まりない事になります。若林さんが亡くなったあの日、私は符を御渡ししようとしていました、が、この符程の相手に対する攻撃性は持たしていませんでした。ただ身を隠す事だけに特化させた符でした。若林さんの死後、私の中であの方を死に追いやった相手に対して憎悪に似た気持ちが生まれ、この二日間、御堂に籠り 私の全能力の限りを突くしてこの符を完成させました。ぜひ、忘れずにこの符を常に持って外出して下さい」樋口が頭を下げ符に対する思いを打ち明けた。
「ありがとう、樋口さん。是非、この符を持たせて頂きます」
聡が言うとその横で優子が、大きく頷いた。
「これで私の用は済みました。ほっとしました」樋口が言う。
「もう、こんな時間だし、風呂に入って酒でも付き合って貰えませんか、今日は、泊まって行って下さい」聡が言うと
「ありがとう」樋口が隣で呻いている真宮寺を見ながら、
「そうさせて頂きます」と頭を下げた。
「じゃ、お風呂の用意してきます。それと部屋は御二人 一緒の方が良いですか? それとも」
優子が問うっていると横から
「こいつと一緒、冗談じゃない」真宮寺が片手を押さえながら言う。
樋口は笑いながら真宮寺を見て
「風呂に入ったら 直ぐに治るだろ」と言った。

臨床

研究室の時計が午後四時半を回っている。
研究室の窓から向かいの校舎の窓ガラスに反射した夕陽が部屋を紅く染めている。
珍しく誰も居ない研究室の実験室。
壁に有ったはずのシミが床にあった。
良く見るとモゾモゾと蠢いていた。
意思を持つかの様に移動している。
床から元あった壁の位置へ移動して行く。
床から壁に辿り着いた時、移動がピタリと止まった。
研究室のドアが開き、ペチャクチャと笑いながら三人の学生が入って来た。
「だーれだ、ここのドア、開けっ放し」
女学生の一人がドアを閉めようとノブを握った時、実験室の奥に倒れている人の片足と手前にひっくり返った靴が見えた。
「あれ?」と言い、実験室のドアを大きく開く。
「どうしたの」一緒に研究室に入って来た一人が聞くと
「人が倒れてる」と言いながら女学生は
「どうしたんですか? 大丈夫ですか」
と言いながら入って行く。
研究室に入った他の二人も後を追う。
「キャー」先に入った女学生が叫び、続いて入った女学生も叫び声を上げる。
男子生徒一人は 声を上げなかったが 目を丸くしてガタガタと震え出し、女学生二人の手を取ってドアの方へ引っ張った。
廊下で声を聞きつけた学生達が 研究室に走り込んで来て
「どうした。何があった」大きな声で聞く。
「警察を、それと相馬教授を、人が血塗れで倒れている」
男子生徒が大声で言いながら女学生二人を連れてドアから研究室に戻る。
「警察だな」飛び込んで来た学生の一人が近くの電話器を掴み 受話器を取りながら
「相馬教授を、今ならうちの教授と一緒に第三会議室に居る筈だ、呼んで来てくれ」
そばに居る学生達に言うと学生一人が頷き、駆け出して行く。
15分程して聡と安藤が駆けて来た。
「人が倒れてるって?」
聞きながら研究室を通り、実験室のドアから二人が中に入った。そして凡そ人間技で出来た死体で無い遺体を目の当たりにした。
遺体の主は 助手であった。
かつて助手であったその体は 首は鋭利な刃物で切られた様に綺麗に切断され、腕は引きちぎられ体の両側の壁際にあった。
腹は大きく裂けていた。
見た二人は其々が 口を手で押さえ吐くのを堪えながら腰を曲げヨロヨロと研究室に戻る。
研究室の長机周辺に置いてある椅子に腰掛けて呼吸が整うのを待った。
丁度、呼吸が整った頃、警察官が二名現れて
「どうしたんですか」質問をして来る。
「遺体がこの奥に」聡が答えると
「おい」と警察官の一人がもう一人を促しながら実験室に入って行き、直ぐに戻ると無線で本部に問い掛け、刑事と鑑識を要請して救急車を一台、遺体搬送用と告げ、遺体が猟奇的な状態で有る事を告げる。
「第一発見者の方は貴方ですか」
警察官が聡を見て言うと
隣に座って青い顔をした男子生徒が
「僕と彼女らの三名です」
と、男子生徒の前で未だガタガタと震え真っ青な血の気の無い顔色をした女学生二人を手のひらを上に向けて指す。
「警察に電話したのは?」
「俺です」と電話器のそばに立っている男子生徒が手を挙げた。
彼らの顔を見た警察官が又、無線で
「臨床心理士の先生をお願いします。第一発見者の精神状態が不安定なので」
「本部、了解しました。手配します」



臨床心理士の安倍は、センターでの講義が終わりホッとしながら事務所に戻ると事務員の出して呉れた熱いコーヒーを目を細めて応接用の丸いテーブルの脇にある椅子に腰掛けてススっていた。
「最近、変な事件 多いねー」
同僚の一人に問いかける。
「あー、あの超大型犬の事ですかね」
「うん、其れもそうだけど。高熱で焼かれた原っぱとこの時期に凍った大地」
「どうやったらあんなの出来るんですかね」
「テレビで言ってたけど 8千度以上の高熱でないとあんな風に成らないって、そんな装置、何の目的であんな何も無い場所に持って行ったんでしょうね。其れに凍った木や大地、液体酸素でもあそこ迄凍る事は有り得ないらしいですよ、何でも絶対零度で分子、電子に至るまで凍らせてあって少しの衝撃で粉々に成ってしまうらしいですよ」
「あの広大な所だと相当、電気代要るね」
「先生、電気代の心配ですか」
クスクス笑う。
「電力会社に問い合わせてもそんな電力を消費した履歴が無いそうだよ」
「じゃ、電池?、どんだけ大きい電池だろ」
「問題は動機だよね」
「唯一の被害者がいたらしいです」
ニヤニヤしながら同僚が言う。
「被害者だって。死亡記事は無かったからなー、凍傷か火傷でもしたかな?」
同僚はクスクス笑いながら
「被害者は 狐 ですよ。なんでも身体中に穴が何ヶ所も空いて死んでたらしいですよ。それと今朝の新聞、見ました?」
と言いながら 同僚は鞄から新聞を取り出し、現場の空撮された写真を手渡すと
「焼かれた部分と凍った部分が入り乱れて、まるで何かが争った様なイメージでしょ」
「まるで・・・そうだな」
阿部はその写真を見て答えながら 幼少の頃、田舎で同じ様な物を見た記憶が蘇る。
(あの時、爺ちゃんと婆ちゃんが 御狐様が遊んでいらっしゃるから邪魔するんじゃないよ とか言って怒られたな・・・そう、稲刈りの終わった田で此処も危ないから逃げようって言うと、こっちには決して来ないから良いんじゃ今日は家の中で遊んでおれ、とか言われたな)
コーヒーを持った手をじっと見ながら阿部が考え、思いを馳せていると
「先生、大丈夫ですか」
「あ、う、うん。写真を見て昔の事を思い出してね。祖父や祖母が【お狐様】って言っていた事をね。似ているんだ、この現場・・・似ている・・・あの頃見た景色に・・・ホント、そっくりだ。其れと死んだ狐、関係が有るのかな〜」
阿部が答える。
事務所の電話が鳴り事務員が対応している。
同僚が「田舎の昔話の狐ですか?、おっと、電話だ」笑いながら内線に掛かった電話に出て
「先生、警察から目撃者のセラピーの依頼です」と言って受話器を阿部に手渡した。
「はい、安部です。・・・・はい、・・・わかりました現場に行けば良いんですね」
と答え、電話を切った。
「また猟奇殺人だって。発見者は女子大生二名と男子生徒一名。今度のは今までに無く凄惨な惨殺体だそうだ。第一発見者三人は、其れを見て全身が震えているそうだ」
安部は言い、「可哀そうだ。PTSDを発症しなきゃいいが・・・じゃ、行ってくるね」
と言うと「僕も一緒に行きましょうか」
同僚が言ったが、安部は、警察が出来るだけ内密にしたいそうだと言う理由で断り出掛けて行った。
安倍は、現場へ向う車を運転しながら妙にあの写真の炎と氷の惨状が自分の記憶の中と似ているのが気になって仕方が無かった。
大学に着き、相馬教授の研究室は、パトカーや学生達の喧騒で容易に見つける事が出来た。
いつもの合皮で出来た角や持手の剥げた鞄を持って安部は研究室へ急いだ。
研究室のある建屋の前の警官に挨拶すると、奥から警官の1人が走って来て
「臨床心理士の先生ですね」と声を掛けて来たので
「はい、要請頂き寄らせて頂きました」安部は答えながら名刺を差し出した。
差し出された名刺を見て警官が「こちらへどうぞ」とテープを上げ招き入れ、
「聞こうにも 男の子の方はまだ良いんですが、女学生二人は、体自体も硬直してどうにも」
警官は部屋へ案内しながらしゃべる。
警官は安部を研究室の向かいの部屋へ招いた。
長机に椅子が六つあり、入って左側に女学生が二人座っていた。
安部は女学生の向かいの椅子に座ると
「臨床心理士の安部と申します」と言い、女学生の反応を見る。
「うーん、ショックだよね」暫く様子を見てから自分の鞄から一冊のファイルを取り出すと
「手を合わせているけど、両手、離せる?」と聞くと
「えっ」と言いながら上を向き安部の顔を見る、そして机の上に置かれた一枚の名刺を見て
「こ、こんにちは」女学生が返事をした。
「僕はそこの名刺にある様に臨床心理士の安部です。よろしく御願いします」
にこやかに微笑みながら女学生二人の目を見る。
「手を離せる? ぎゅって握ったままなんだけど、痛くないの?」安部が聞くと
「あ、ほんとだ」と二人の女学生は自分の両手を見て言った。
「肩を後ろに回そうか、僕の合図で回してね、三回だよ。良い?」
「手は?」
「そのままで良いよ。さぁ、行くよ。深呼吸してね、いーーち、にーーい、さーーん」
「どうだい? 指、動くだろ?」安部が聞くと
「あ、あれ? 簡単にほぐれちゃった」二人の女学生は、顔を見合わせてびっくりしている。
「うん、もう大丈夫。 両手を机の上に置いて少し揉んでおくと良いよ」
「はい」二人は両手を机の上に置いて両手でぐにぐにと揉み始めた。
「ちょっと、コーヒーでも貰おうか。君達は、手を揉んでいてね」安部が言うと
「あ、はい」と言いながら作業を続ける。
安部がコーヒーを持って部屋に入ると 二人の顔色は、大分と良くなっていた。
(さぁ、ここからだ。彼女達にPTSDが残らなきゃ良いけど)
心の中でぐっと拳を握るが、顔は穏やかに微笑んでいた。

友人

聡と安藤は学生達の事情聴衆に付き合った。
警察の聴衆は実に簡素な物で聡と安藤は少し拍子抜けした感が彼らの態度に見え隠れしている。
二人は廊下に出ると安藤が、
「なぁ、相馬、何でこうだと思う」
警察の調べに対して思った事を聞いた。
「他県の事件との類似性だろう」
聡が答える。
「やっぱりそう思うか」
第一目撃者である生徒達の居る部屋からは明るい笑い声が聞こえて来た。安藤が怪訝に思いドアをノックすると中から男性の声で
「どうぞ、開いてますよ」
返事があったのでドアを開くと生徒三人が泣き笑いし、その中心に見知らぬ男がいた。
「あっ教授」男子生徒が挨拶すると男が立ち上がりながら振り返り
「初めまして、私、臨床心理士の阿部と申します」名刺を差し出しながら言い、頭を下げる。
聡と安藤も名刺を差し出し
「安藤と申します」
「相馬と申します。うちの生徒が御世話になっております」と挨拶を交わす。
聡は、生徒達三人の顔を見渡して
先程までのくもりが無い事に驚いた。
「相馬、彼等の表情・・・見たか?」
「ああ、これが臨床心理士の力なんだな・・・うーん、実際、驚いたよ」
「僕は彼らの話を聞くだけですよ、何もしちゃいない」
二人の会話を聞いていた阿部は笑いながら告げる。
「興味本位で御聞きしますが、昔ね催眠術とかの本を読んだ事あるんですけど臨床心理士の先生から見て催眠術とはどう思われますか」聡が聞くと
「難しい質問をされますね。各個人個人の性格が違いますから暗示に掛り易い人とそうで無い人がいます。暗示に掛り易い人は、何をしても掛り易い訳ですから催眠術と言うのは、現実的では無いと思っています。ただ、誘導は、有り得ると思います。脳は結構、嘘を突きますからね、其の影響は、目や耳、匂いや味覚までも左右させますからね」安部は答えた。
「・・・うーん、なるほどね。脳の事に関しては全く同意見です。ありがとう。変な質問して」
聡は言い、
「君達はもう大丈夫かい?・・・警官と話が出来るぐらいに落ち着いたかい?」と聞くと
二人の会話を聞いていた学生達もはっと現実に帰り、
「はい、阿部先生のお陰でこの辺に乗ってた物が すぅーってなくなっています」
女学生の一人が言うと
「だよね、先生は臨床心理士じゃなくって除霊師じゃないんですか?」
もう一人の女学生が笑いながら言った。
「本当に臨床心理士だって」
阿部も微笑みながら返すとドアが開き、
「あの・・・御話を伺っても」
警察官がドアと壁の隙間から顔を覗かせ聞く
「良いですよ、私達も此処で聞いていて良いですよね」阿部が答えると
「同席して頂いて結構です。じゃ、早速に」
警察官と刑事が二人入って来た。
「じゃ、廊下から部屋に入って来た所からで良いでしょうか」
椅子に座りながら刑事と警官が聞き取りを始めた。

・・・・・実験室のシミは、ゆっくりと壁の元の位置へ移動して行く。



仕事を定時に上がった優子は、会社の同僚に誘われ会社の近くのカフェでガールズトークに花を咲かせている。久しぶりの友人達との時間は、楽しい物だった。
「優子、何時までバイクに乗ってるの? 社内の男共が、美人なんだけど近寄りがたいっとか言ってるよ、あんたこのままだと婚期、逃すかも」友人の一人が言うと
「きっと、こんな私が惹かれる相手が現れるって。それまで待つしかないね」優子が言う。
「今のあんたが好きになるって言ったら、後、特殊能力者か何かじゃないの?」友人が言った。
「あんたねぇ」違う友人が言い、
「私なんか、もう焦っちゃってさぁ、この際、言い寄って来る奴でいいかってまで思ってるんだから」
みんなで、大笑いしていると優子の携帯が鳴った。
「あ、ごめん。お父さんだ」優子は言いながら立ち上がって
「もしもし、お父さん、何?・・・うん・・・え~、大丈夫なの?ほんとに・・・怖いね、うん、もう暫くしたら帰るよ」と電話を切ると
「お父さんのトコの大学の研究室で惨殺死体が出たんだって」優子が言うと
「あの例の犬がやったって奴?」
「そうみたい」
「大阪に出たんだ、北上してる見たいだね」
「あれ、絶対、犬なんかじゃないよ。そんなに大きい犬って居ないと思う。優子はどう思う?」
「うーん、よ・う・か・い、かな」
「うん、可能性有るね」
「笑うとこかも、だよ」
「笑え無いって、京都のあれ、知ってる?」
「おっと、話、飛ぶね〜」
「ニュースでしてた焼野原よね」
「そうそう、それさー、超高熱と超低温の焼野原でしょ。で、狐が穴だらけで死んでたって。狐の一匹を殺すのにそんなに大袈裟なハイテク使うかよ〜」
「そうなんだ」優子が言うと
「あんまり、うち、暇だったから新聞読んでたら書いてあったよ」
「なんで あんなとこに狐がいたんだろう。狐ってもっと寒いとこじゃ無かったっけ」
「北狐の事?、違う、違う。普通の狐ってあちこちに居る見たい」
「タヌキもそうだしね」
(病院に現れた狐かな、だったら誰かが仇を打って呉れた事になるんだけど、あり得ないことかな)
優子は、そう考えながら未だ湯気の少し上るカフェラテに口を付けた。



目撃調書の終わった三人の学生を聡は其々、家まで送る事にして住所を聞き始めると安藤が女子生徒一人の家は自分の家の方向だから乗せて行くと言い。
もう一人の女生徒と男子生徒を乗せて聡自身も帰る事にした。
刑事と警察官、阿部氏に挨拶をして三人は駐車場に向かった。
「相馬教授、教授の車、自動車部の人達が欲しがってますよね」男子生徒が聞くと
「教授が手放さないのは、亡き奥様との思い出がいっぱいある車だからよ、超有名な話よ」女生徒が言い、「助手席に座っちゃダメよ、奥様の席なんだからね」と言った。
「何で君は知ってるんだい?」
聡が聞くと
「さっき、安藤教授から聞きました」
答えて、舌を少し出して微笑んだ。
「私も教授みたいな旦那さんが良いな〜」
女生徒が呟くと男子生徒がクスクスと笑っているので
「なによー、その笑いは」
ムッとしながら女子生徒が男子生徒を睨む。
「まぁまぁ、さぁ乗って」
聡が二人の学生を促し、車に乗せた。

遭遇

夜、
研究室の時計は 0時を少し回っていた。
シミがグニグニと蠢いている。
真ん中が黒く丸く盛り上がって行く。
半球に盛り上がった球面に赤い光が灯る。
赤い光は球面上を忙しなくクルクルと動き出した。
まるで目の様に辺りを見回すとシミ全体がせり出して行きやがて床にゴトンと言う音と共に転がった。
シミから物になった。
転がった物は流線型の両端が尖った物体へと変化して行く。
壁にあったシミの大きさからは考えられない大きさに、
大人の人間と同じ様な大きさに成った。
壁のシミのあった場所には紅黒く血が塗られた様な跡がべったりと残っている。
変化しながらくすんだツヤの無い金色を帯びた毛に覆われ やがてゆっくりと消えて行った。



聡は学生二人を乗せて近畿自動車道を走り環状中央線に乗り換え、水走(みずはい)で降りるとそのまま直進して石切神社前に出る。
旧外環状線へと進路を取る為に右折した。
少し行くと右手のスーパー手前を右折し、一人目の自宅前に車を停めた。
聡がドアを開け車の外に出ると 女生徒がドアを開き車の外へ出て家の玄関へ走って玄関を開ける。
「お父さん、お母さん、ただいまー」
家の中から走って来る音がして
「大丈夫なのか? 平気か」等、
娘を心配する声が聞こえ
「教授に送って貰ったんだって? 挨拶しておこう」と言いながら 夫妻が玄関を出る。
「遅くまで申し訳ありません。娘さんは無事です。ショックがかなりあった見たいで」
聡が言うと
「臨床心理士の阿部先生がね、ケアしてくれたんだよ」女学生が言った。
「何から何まで、御世話を掛けました」
父親が頭を下げると母親と女学生も頭を下げた。
「私は何もしてませんよ。しばらくは学校休んで阿部先生の所へ通うと良いよ。私が学校には事情を説明しておくからね」
と言い、
「もう一人、送って行きますので後、宜しく御願いします」聡が言い、頭を下げ車へと戻る。
車が発進して角を曲がるまで女学生と彼女の両親が見送っていた。

「うちも母親が生きて居たらあの位 女らしく育ってたろうに・・・」
聡が呟くと後部シートに座って聞いていた男子生徒が
「おてんば だ そうですよね」と聞く
「バイクを傾けて凄いスピードで走っているよ」少し笑いながら言うと
「好きな人が出来たら変わりますよ、男も女も。もっとも、子供が出来てからの女性の変わり方は半端じゃないですけど」
ため息をつきながら言う。
「随分と達観してるんだね」
「うちの姉貴、見てれば・・・結婚に二の足を踏みたくもなりますよ」
笑ながら言った。
「急激な環境変化と責任か」聡が言う。
「姉貴の旦那が可哀想で」
「其れが自然何だろうね、ところで君は良く普通にしてられるね」
「うちは店をしてるんでしょっ中、イタチが残したネズミや蛇の死骸を俺が片付けさせられていますからね、でも流石に腰が抜けそうになって思わず彼女達の手を取って引き寄せて其の儘 研究室に逃げましたよ」
「火事場の何とかってヤツかい?」
「その場で腰を抜かすともっとマズイって本能の様な物ですね、結果的に其処から逃げる事を優先しました」
「君も一応、阿部先生を訪ねるべきだね」
「はい、そうします。思い出すとドキドキしています」
「学校には言っておくから阿部先生を訪ねなさい。うーんと君の家ってこの辺りかな?」
「其処の角を曲がって直ぐです」

聡は男子生徒を送り届け、彼の両親との挨拶を済ませて家路へついた。
(ここからだと川沿いを帰るか)
聡は進路を大和川沿いに取る。
13号線に差し掛かろうとした時、前方を霧の様な物が急激に湧き出し視界が奪われた。
聡はトグルスイッチを操作しパーキングランプを点滅させ、後続車がいない事を確認すると車を降りた。
前方の霧の中で何かが蠢いた。
聡は目を凝らしてジッと見ていると
「約束は覚えているな」
頭の中で響く嫌な高音を伴った声がした。
「お前か!、あの約束は無効だ!、お前は私に偽りの情報を寄こした。娘は遣らん!、其れと一連の怪異もお前の仕業だろう。関係の無い人達をこれ以上巻き込むな」
いつに無く激しい口調で聡が叫んだ。
「クックック、あの手伝いをしていた女と助手とか言う奴か、俺を裏切った罰を与えただけだ。それと例の情報、お前が望んだ内容だったろう? クックック」
「お前が何者で目的は何かなんて知らない、だが、お前のした事は許す訳には行かない」
「其れで? たかが人の分際で? 俺に何が出来る。幻術、妖術の一つも使えない癖に」
「なに‼︎ お前はいったい」
「知る必要は無い、娘は必要だと分かったら力づくで奪ってやる。お前の言う通り 無駄な殺しは お前を殺した後で考えてやらんでもない。話は終わりだ。此処で死ぬが良い」
言うと聡の頭の上、前方に巨大な獣の手が現れ、その手の先端にはこれも巨大な鉤爪の形をした爪があった。
ムチがしなる様な柔軟性を持って 一気に聡に振り落とされる。
ビィーーンと鋼と鋼がぶつかる音と共に辺りの空気が振動し、空間に裂け目が出来た。
聡はその衝撃で後ろへ弾き飛ばされ、転がった。
聡はとばされwながら裂け目の向こうの景色を見た、海と岩山、岩山の上に獣がいた。
「何!、グゥッ」
短い声を発した魔物とも言うべき相手は後ろへ一歩退き
「お前、何をしやがった」と叫ぶ。
「・・・」
聡は何がどうなったのかが分からず道路にひっくり返った上半身を起こし、右肩を左手でもみながら考える。
右肩は飛ばされた時に打った様だった。
立ち上がって周りを見ると霧がどんどん薄れて行く。
(私は助かったのか)
聡は呟き、自体を把握して内ポケットの封書を取り出した。
封書は斜め上から半分近くまでナイフで切ったかの様に裂け目が入っていた。
聡は、封書の状態を見て持つ手が震えている。
震える手で内ポケットからスマホを取り出すと樋口に電話する。
直ぐに電話に出た樋口に聡は、今あった事を説明し、封書の状態を伝えると樋口は、もう一通あるので聡の自宅へ届けると言い電話を切った。
聡はまたすぐに自宅へ電話する。
優子に樋口が来る事を伝え、自分の現在地を伝えると電話を切り、車に乗り込んだ。
車は、13号線を北へ走り、20分程で自宅に帰り着いた。

聡は自宅に戻ると優子に封書を見せ、川沿いであった事を話した。
優子は庭先で影を見たせいもあってかブルブルと震えながらも父、聡を心配して声を掛けた。
「お父さん、少し、休もう。私も有給使うから。やっぱり、今は家が一番安全だと思うよ」
「そうは言ってもな・・・明日、大学に行って目撃した三人の学生の事を話して私も休みを少し、貰う様にするよ」
「うん、それが良いよ」
優子が言い終わった時、玄関の呼び出し音が鳴った。
「おっ、樋口さんだ」聡は、言い、玄関へ向かった。
「夜分遅くにすいません。上がって下さい」聡は、樋口を招きいれると樋口の後ろに真宮寺が、にっこりと笑いながら同行して来ましたと言う。
樋口に続いて真宮寺も同行していたので聡は、
「優子、樋口さんと真宮寺さんがいらっしゃった」と家の中へ向け、声を掛ける。
「はーい、食べる物要るよね」優子が返事をした。
三人は、リビングへ移動する。
「御嬢さん、こんばんは」樋口が声を掛ける。
「夜分、不躾ながら来させて頂きました」真宮寺が言う。
「真宮寺さん、ピザを取ったんだけど食べるよね」
優子がにっこりと微笑みながら真宮寺を見ると、
「ピザ!、い、頂きます。ありがとうございます」
優子は、ピザを温めながら
「樋口さん、泊まっていけますか?」と聞くと
「あ、は、はい」
「じゃ、ピザだから・・・ビールで良いですか」
「頂きます。ありがとう」
優子は温めたピザ2枚をソファーのテーブルに並べ、ビールグラスを4つ並べるとキッチンに取って返し、小さなビールクーラーに缶ビールを数本入れて戻り、ビールを取り出すと樋口、真宮寺、聡とグラスに注ぎ、自分の分を注ぎ終わると
「お疲れ様」とグラスを宙に差し出した。
他三人が、慌ててグラスを手に取り、差し出されたグラスに手に持ったグラスを合わせる。
「お前、こんなに食べるつもりで取ったのか」
聡は、テーブルに並ぶピザを見て驚いた様に聞くと、
「どっちにしようか迷ったから両方頼んじゃった。残ったら明日も食べれるしね。でも来客があって良かったよ、幸いだね、ついてるね。真宮寺さんも来てくれて良かったよ」明るくしゃべる。
「そう言って頂けるだけで泣きそうに嬉しいです。毎日でもOKですよ」
真宮寺が言うと樋口が思いっきり真宮寺の頭を後ろから殴った。
「イッター」真宮寺が頭の後ろを抱えて樋口を見る。
「遠慮と言う物をしろっていつも言ってるじゃないか」樋口が冷静な顔をして言い、
「これだから妖は・・・」と言った。
「来る時は、樋口さんに了解を貰ってから来たらいいじゃん」優子が言う。
「はい、すいません、そうします」真宮寺が頭の後ろを撫でながら言った。

退魔

聡は樋口に川沿いであった事を喋り、封書を差し出しながらその時に見た光景、空間の亀裂の向こうにあった景色を言う。
樋口は、切れた封書を左手に持ち、
「恐らく・・・嫌、間違い無く術者の今 居る場所と術者でしょうね」と言う。
横で左手にビールグラス、右手にピザを持った真宮寺が
「すげぇ、そいつ、この封書を一撃でこんな風にしやがったんだ」と言うと樋口が
「相当な術力、呪術と言ったところだな」
「樋口のコレに手を出しただけで消滅した奴、いっぱい知ってるぜ」
「一度は完敗したけどな」
樋口が呟く様に言う。
「あー、あの時か」真宮寺が言うと
「今は相馬さん一家の方だ」
樋口が真宮寺の言葉を遮る様に言い、右手で懐から新しい封書を取り出して聡に渡し、左手に持った封書を見つめて
「相手の妖気が少し残っている」と言いながら左手を伸ばして自分の目の高さにすると呪文を詠唱すると封書がひとりでに宙に少し浮き上がり炎を纏って焼跡、灰も残さず消え失せた。
真宮寺が思わず、
「オイオイ、此処でするか」と言う
聡と優子は 声も出ず、ただ目を丸くして封書の消えた空間を見ている。
「今のが不動明王火炎呪と言われる技だ」
真宮寺が言う。
「す、凄い、これが陰陽術の一つですか」
聡が言う。
優子が「紙を燃やしたのに灰も無いよ」
「今のは密教・・・退魔法の一つです」
と樋口が言った。
「貴方は一体・・・」聡が聞くと
横から真宮寺が口の周りの粉を拭いながら
「陰陽師で在り、退魔師でもある。この世界じゃかなり有名な退魔師だぜ。どっちが本業か分からんけどな」
と言うと
「え、え、一寸待って下さい。神官ですよね。坊さんじゃ無いですよね」優子が聞くと
「神社と寺院は統合されているんだよ、確か、神社の下に寺院と言う、そう、序列じゃ無いけどそんな風に位置づけられてるよ」
聡が説明すると
「そうなんだ、じゃ、何で二つあるの」
優子が尋ねた。
「神道は神様、仏教は仏様、仏道は人が死んだら進む道、神様は五次元より上の次元に住んで居られる。仏様は霊魂、三次元もしくは四次元で住み分けしている」
「あ、なる程。妖怪は?」
「真宮寺達は肉体は三次元、魂は四次元。中途半端なのさ」樋口が言う。
「はん、中途半端ですいませんねっと」
真宮寺はふて腐れながらピザを摘み上げる。
「妖達は肉体が三次元の影響下にあるので人間と同じ様に老化や劣化は避けられない、でも魂は四次元に在る為に時間に左右されない、其処で肉体の老化、劣化を魂の力で修復する。この力が妖力と言われる力の源と成っています。魂の肉体への干渉する力です」
聡と優子は身を乗り出す様に聞いている。
「今回、この封書が封じた事になるんですか?」聡が聞くと
「この妖力、全ての妖達が持っていますが、種類と言うか・・・うーん、特性だね、特性は 個々に異なる為に特性に合った対処を行う必要があります」
樋口は言い、グラスのビールを一口呑む。
連られて聡と優子も手に持ったままのビールを呑み込んだ。
優子が空いた各々のグラスにビールを注ぎながら
「封書に込められた力が妖気の特性に合ってたって事ですよね」と言う
「よく特性がわかりましたね」
聡が問いかける。
「分からなかったですよ」
樋口は にっこり笑いながら注がれたビールに口を付けて言って、
「分からなかったので、陰陽五行に乗っ取った相剋を使った呪文で防御し、同じく相剋を用い、相手が力を使った場合、合気に依って攻撃が発動する封書を作りました」
「そうなんだ、何か、これって凄いんだね〜」
優子は言いながら胸ポケットから取り出してマジマジと見つめる。
「嬢ちゃん、見て分かるかよ〜」
真宮寺が言うと
「うっさいわねー」
優子が封書を真宮寺の目の前に突き出す。
「止めろー」
大声を出して真宮寺が後ろに仰け反る。
「優子、」聡が声を掛ける。
「冗談よ、冗談」
「御嬢さんに妖達の教育を頼もうか」
樋口が笑いながら言った。
「妖達って真宮寺さん以外に?、ん?」
優子が聞くと
「どいつも気の良い奴らですよ、争いが嫌いで弱っちい奴ばっかりですけどね」
真宮寺が言うと
「真宮寺さんも弱い?」
優子が聞くと 今度は樋口が
「こいつは水を自在に操る。普通の人だったら身体中の水を無くす事の出来る力を持っている、でもね、理由は分からないけど人が好きなんだそうだ。たまに柏餅をお土産であけると何処かに持って行き、食べたあと目を真っ赤に腫らして帰ってくるよな」
「真宮寺さん、柏餅が好きなんだ。あっ、有るよ、昨日のだけど、持って来てあげる。さっきの御返しね」
優子が立ち上がってキッチンへ走り冷蔵庫を開けて包みを持って戻ると真宮寺に手渡す。
「ありがとう」と言って両手で受け取り何度も頭を下げる。
「ねぇ、何で柏餅が好きなの?」
優子が聞くが真宮寺は頭を下げるだけで言おうとしない。
「ほら、答え無いと失礼だろ」
樋口が肘で真宮寺の脇腹をつつきながら言った。
「うーん、恥ずかしい」真宮寺が言う。
「誰にでも有るよ、私も好きな物、リンゴなんだけどお父さんに聞いたらね、お母さんは私が生まれて直ぐに入院してて赤ん坊の私をお父さんが見舞いに連れて行く度にお母さんがリンゴを擦ってジュースにして飲ませてくれてたからなんだって。私にとってリンゴはお母さんの味なんだよ」
優子が言うと
「お、俺も小さい時に居た沼の近くの村人に虐められてて・・・沼の裏の山に住んで女の子を連れたおじさんにいつも助けて貰っていてね、キズ薬貰ったり・・・時々、柏餅をくれたんだ。ある日、女の子が裏山の川で溺れそうに成ったんだ、俺は沼に居たけど水の声で分かって沼の水流に乗って川に飛び、女の子を救っておじさんに手渡したら偉く喜んでくれて村人達にも伝えてくれて・・・其れからは虐められ無くなった。上手く言えないけど・・・其れから人が好きに成って、柏餅が俺と人とを結び付けてくれた・・・さっき、樋口が柏餅を渡したら何処かに行くって言ったのは、そのおじさんと女の子のお墓に持って行って其の前で食べてたんだ」
頭をかきながら真宮寺は優子に言った。
「うん、よくわかったよ、ありがとう話してくれて、其れと人を好きに成ってくれてありがとう。真宮寺さんの小さい頃ってきっと何千年も前の事だよね〜、その時の気持ちのままで居られるって凄い事だね、立派だよ」
優子は真宮寺の手を取りながら言った。
真宮寺は嬉しくって遂には泣き出して、泣きながら柏餅を食べていた。

邂逅

時計が深夜二時を回った頃、優子は眠くなったと言い、
「おやすみなさい。ごゆっくり、御二人の部屋を用意して其のまま寝ます」と言って立ち上がり、お辞儀をしてリビングを出て家の奥へと行った。
樋口は優子がリビングを出て行く時、笑顔を持って送りだすと身を乗り出し聡に小さな声で
「どういった経緯でこんなとんでも無い妖力を持った化け物に目を付けられたんですか」
と聞く。
「とんでも無い力を持った相手なんですか」
「ええ、遠隔呪法でこの力ですから・・・私の作った符を切り裂く程の力、もし、相対して目の前に現れたら対処出来ずに殺されてしまう程の強大な力を持っていると簡単に判断出来ます」
樋口が言うと聡は若い頃からの一連を話すると
「うーん、狙いはお嬢さんか、お嬢さんに何かの力が有るのか、まだ眠っているのか・・・」
樋口が呟くと真宮寺が
「そうか、一連の獣に寄る殺人はそうやって近づいて能力が無い事が分かると証拠を消す為に惨殺して行ったのか」と言い、膝を叩く。
樋口は俯きながら
「其れにしても其処まで時間を掛けてまで手に入れたい力・・・どんな力なんだ。之ほどの力を持ちながらも欲する力とは・・・、其れと過剰な程の隠密性と用意の周到さ・・・まさか、クーデターを企んでいつのか?、この世界を変えるつもりなのか?、おい、真宮寺、心当たりは無いか?」
聞かれた真宮寺は、身を乗り出しながら両ひざの上に両肘を乗せ手を組みながら、暫く上を向いた後、正面を向くと
「俺の知ってる限りじゃ・・・そうだな・・・九尾狐率いる狐一族、天狗一族、土蜘蛛一族、大蛇一族に狸一族、その辺りしか思いつかねぇ・・・みんな、一族を守り、監視し、人と共存する方針を打ち出している。狐一族は妖最強の二人が他を抑えて平和を保ってる、まぁ、この間の京都の荒れ野原みたいにしてたが、ありゃ、その二匹がたまに遊びでじゃれ合っただけなんだけど、土蜘蛛一族は自衛隊で国を守る立場だし、天狗一族や大蛇一族は国を代表する会社を幾つか経営してるし、狸達は酒盛りに余念が無いし、今の妖達にそれ程 人に恨みを持ってる奴って・・・、多少は居るけど、個人レベルって程度だから、ここまで人に目を付ける理由が無いしなぁ」
「ちょ、一寸待って、あの京都の事件は狐二匹が・・・?」
(ハイテクを持ってしても簡単に作り出す事の出来ない 超高熱と絶対零度、その能力を戦いでは無く、遊びの上の戯言であの状態にしたと言うのか)
聡は驚愕を隠し切れなかった、手が勝手に震える。
妖達の底知れぬ特異な能力、否、彼らの魂の力、超能力、妖力に恐れを抱く。
聡のその様子を見て、真宮寺は、(びびらせちまったか)と思い、
「並の狐じゃねーぜ、馬ぐらいの大きさで九本の尾を持った、一匹は眩い金色でもう一匹は漆黒の狐、奴らは其々の神社に仕えている神使で善行しか行わない、あの時、一匹、野狐が犠牲に成っててな、問題はそいつが野狐だったって事だ。俺が思うには、野狐は南から北方向に走っていたらしいし、近くの妖達は事前に知らされていたから避難してたって事だから、もしかしたら病院を襲った野狐かもわからん。あの二匹の九尾は悪行を働く奴には悪魔も裸足で逃げ出すぐらいに無慈悲で冷酷で・・・なぁ」
「そんなに強いんだったら味方になってくれないかな」
聡が言うと
「残念ながら、神に仕えてはいるけど、なぁー、人嫌いで、神からの指示でもなきゃ、指一本 動かしゃしないよ」
真宮寺が答える
「相馬さん、私が私の力の限り守ります。ですが、もし、私が倒されたら 神と人、其れに妖と人との間に立つ一族が太古の世より存在しています。勿論、彼らは人間です。悠久の頃から私達、人間にはその人物の名や場所を語る事は禁忌とされて居ますので、教える事は出来ませんが、その方を探して下さい・・・お願いします」
樋口が言い、頭を下げた。
「頭を下げないで下さい。私が御願いした事なんですから、貴方を巻き込んでしまって悪いとさえ思っております。すいません、よろしく御願い致します」
聡は頭を下げながら両手を差出して樋口の手を掴んで握手した。
聡、樋口、真宮寺の三人は、この話題から離れ、世間話や冗談を言いながら酒盛りを続け、外が白じんで来た頃、漸く三人は、眠る為にリビングを後にした。



庭のツツジが赤く晩秋到来を告げ始めた日、
優子が会社から戻るとリビングで聡が電話を持ってつっ立ったまま背中を向けていた。
「お父さん」
優子が声を掛けるが、其の儘で居る。
「おとうさん」
少し大きな声で言うと聡は飛び上がって振り返ると
「びっくりした、お帰り」
振り向いた聡の顔を見て優子は驚いて聞く。
「ど、どうしたの⁉︎ 顔色、真っ青だよ」
「樋口さんが大怪我をして病院へ運ばれた」
ボソリと呟く様に言った。
「えー、あの樋口さんが‼︎ 何で⁉︎ もしかして、例の化け物⁉︎」
「真宮寺さんの話では どうもそうらしい。直ぐに着替えて病院へ行くよ」
聡が言った。



時は半日戻り、神社裏手の祭事の間に樋口は座って居る。
樋口の正面には角材を互い違いに組合わせた
囲炉裏で護摩を焚いて、和紙を巻いた榊を右手に持ち、四方に足を打ち鳴らした後、八方にも打ち鳴らしながら歌の様に呪文を唱えていた。
突然、護摩の炎が立ち上がると
「お前、俺の存在を何故、知っている」
炎が喋った。
「お前は、何者だ。何を企む」
樋口は榊を顔の前に掲げながら言う。
「先に答えろ」炎が言った。
「言う必要等、有りはしない。この国をどうするつもりだ」
「ほう、勘の良い奴だな。さっきから尻尾の一つが痒いから其れを止めろ」
「この国から手を引け」
「何を馬鹿な事を。祖母の代からの悲願を引けと、ケッ、笑わせるな。青二才が!」
「祖母とな。祖母の名前とは、如何なる名じゃ」
「答える義理は無い。其れとも 俺の手下に成って働かんか? くっくっくっ」
「働かせて その後は・・・殺すか?」
「おう、正解だ。流石に勘が良い」
と言うと炎は大きな声で笑い出した。
「私にはそんな野心は無いし、化け物に指図されるのは、もっと嫌だ」
「ならば、サッサとシネ‼︎」
大きく成っていた炎が更に大きく成って樋口に巻き付き始めた。
「うわー」
樋口の叫ぶ声がした時、真宮寺が飛び込んで来た。
「樋口!」と叫ぶと 真宮寺は手から大きなバスケットボール大の水球を出して樋口目掛けて投げつけた。
樋口に取り巻いていた炎は小さく成り、消えた。
「ひぐちー」
叫びながら真宮寺は倒れて行く樋口を掴み、両手で抱き留めた。
護摩の火も消えていた。

事故

病院に着いた聡と優子は、玄関入り口の受付カウンターで樋口の入院先を聞き、病室へ急いだ。
病室は、個室では無かったので聡は少し、ほっとする。
ベット脇に真宮寺が座っていた。
「樋口さんは」と聡が聞くと
「トイレ」と真宮寺が答えた。
「どんな様子なんですか?」優子が聞くと
「体は、軽度の火傷程度で済んだんですが、なんか、ねぇ。あ、帰って来た」
「こりゃぁ、相馬さん、見舞い、ありがとうございます」
両手、両足を包帯で巻かれ、顔の左半分も包帯で巻かれた樋口が言った。
「ど、どこが軽度なんですか。大火傷じゃない」
優子は真宮寺に抗議すると
「見た目はこんなんですが、完全に元に戻る程度ですよ。いやぁ~、油断しました」
痛々しい包帯でグルグルと巻かれた体を揺すり、笑いながら樋口が言う。
「ほら、本人も言ってる」真宮寺がふてながら言う。
「真宮寺が居なかったらヤバい所でした。護摩を焚いてたらその炎に奴が現れましてね、こう、体中に炎が纏わりついて思わず、叫んだ所へ真宮寺が来て水でその炎を消してくれたんですよ」
樋口が説明した。
「ありゃ、妖火じゃなかった。野郎、本物の炎を扱いやがった」
真宮寺が拳を握り締めながら言った。
「そうなんだ、まやかしの火じゃなかった。おかげで俺はずぶ濡れ」
樋口が笑いながら言う。
「仕方ないだろ、池の水、半分くらい使ったんだから」真宮寺が言うと
「池?、あー、道理で臭いはずだ。風呂に入りたくなって来た」
樋口が苦笑いし、真宮寺の顔を見ながら言った。
「元気そうで良かった、なぁ、優子」聡が優子を見ながら言う。
「そうだね、真宮寺さんの話から想像して、やさぐれちゃったのかと思ってた」
優子は、にっこり微笑みながら言った。
「じゃ、長居も無用だし、私達は帰るよ。お大事に」
聡は言うと、優子を促し、病室を出て行った。
「なぁ、真宮寺、あのお嬢さん、鋭いな」樋口が呟くと
「あのなぁ、その態度を見てたら誰にでもわかるわ。相馬さんも早々に帰っただろ。お前、大丈夫か? まさか、初めっから無いプライドが傷付いたなんて言うなよ。それはお前の気の迷いだ。プライドなんて物は、言葉のアヤだ。形の無い物にすがるのはお前ら人間は得意だろう。言葉にすがってそれで終わる気か? 俺達から見ればたった百年生きてるかどうか分からん癖に。時間が勿体ないだろ」
真宮寺が少し怒りながら言った。



翌日、聡は大学へ向かった。
久しぶりに研究室に行くと学生達が聡を取り囲んで
「教授、壁のシミが無いんですけど、教授が消したんですか?」
安藤達が言った(動物性蛋白質)に事の発端がある様で 校内では壁のシミが助手を惨殺したと学生達の間でもっぱら話題になっているらしかった。
「何!」聡にも心当たりがある為、壁を見に行く。
「此処、此処にありましたよね」
壁の一部を指先で丸く円を描きながら学生の一人が言った。
聡は、「あぁ、うん」と壁のシミの有ったらしい場所を見つめたまま 頷く事しか出来なかった。
(あの樋口さんでさえ・・・。腹をくくらんと)聡は、心に誓った。



夕方、早めに大学を出た聡は、片側3車線のある大きな通りで ふと、優子の事が気になり、車線を抜け出して路肩に駐車している車の列の間に止めるて電話をする。
「お父さん、うん、何?」
いつもの明るい娘の声で聡は今日一日の暗い気持ちが吹っ切れた気がした。
「今日は、何時に家に着く予定だ」聡が聞くと
「うん?、何?、そうだね~、7時ぐらいかな? どっかに食べに行くの?」
「そうだな、お父さんは、今、大学を出た所だから・・・家の近くのステーキ屋でも久しぶりに行くか」
「OKぇ~、じゃ、7時前に着く様に頑張るよ」
娘の声がなぜか懐かしく思えた聡は、路肩に止めた車を車線に戻す為にバックミラーを覗き、目視で右後ろを見た瞬間だった。
一台のタンクローリーが聡の3台後ろに止まっていた車にぶつかった所だった。
タンクローリーはそのまま路肩のガードにぶつかると擁壁に激突して止まった。
聡は慌てて運転手の安否を確かめる為に車を降りると聡のすぐ後ろの四駆の運転手が大声で叫ぶ。
「ガソリンが漏れている。降りちゃだめだ。もっと前に逃げろ」
聡は慌てて車を発進させる。
聡の前の車もほぼ同時に発進する。
後ろの車も発進する。
3台、4台と次々に発進するが、車線に入る所で止まってしまう。
タンクローリーに当てられた車の部品や、タイヤが邪魔で車線其の物が閉塞を起こしていた。
聡達、駐車していた車は車線に入るべく斜めに向いた状態で止められてしまった。
急ぎ、車を降りた聡の後ろの車の大男が、聡の車のドアを開けて走って逃げましょうと言って聡を促すと、また、前の車に駆けて行って窓を叩いている。
聡も降りてその男を追う様に駆けだした時、後ろのタンクローリーが爆発を起こした。
爆風で後ろの車が前タイヤを地面につけたまま後ろが跳ね上がった。
聡の車も少し浮いた様に思えた。
聡の体も前に持って行かれそうになる。
タンクローリーを真ん中にガソリンがアスファルトの上に広がって行く。
ガソリンの上を炎が走る。
大惨事であった。
周りの車からも次々と人が飛び出し、炎から遠ざかる為に車を放置したままで車道を走り出す。
後ろの車に乗っていた大男が走り込んで来て
「大丈夫ですか? こっちへ」と言い聡と聡の前の車の運転手を誘導する。
男は、坂になった上り口まで誘導すると
「此処なら風上になります。御二人共、大丈夫ですか?」と聞く。
「はぁはぁ、あ、助かりました。ありがとうございます」
聡は、息を切らしながらもやっとの思いで答えた。
「無線で消火ヘリを呼んであります。到着したら消火が始まりますから口や鼻を布か何かで被って下さい」大男が言うと
「あ、貴方は、いったい」聡が聞く。
聡の前の車の運転手も息を落ち着かせながら大男を見る。
「自分は、奈良の陸上自衛隊の者です」大男が答える。
聡と前の車の運転手が顔を見合わせ、納得した。
機転、判断、誘導、対策、どれをとっても最善、最速の決断をしていた。
「さすがですね」前の車の運転手が言った。
「助かりました。ありがとうございます」二人は言い、頭を下げた。
「自分は、逃げ遅れてる人がいないか確認に行きますのでこれで」
大男は言うと頭だけを少し下げると振り向き炎へ向かって走って行った。
聡と前の車の運転手がその後ろ姿を見送った。
大男の姿が見えなくなると 聡は内ポケットから携帯を取り出し、優子に電話を掛け事故の状況、無事である事を伝えた。
15分程すると消火ヘリが3機飛んで来て空中から消火剤を撒き始め、やがて炎は、鎮火した。
聡が、目を細め、ハンカチで鼻と口を覆って消火剤の粉塵をやり過ごして暫くすると携帯が鳴った。
聡の知らない番号からだった。
「はい? 相馬ですが」聡は訝しみながら電話に出ると
「相馬さん、俺です。真宮寺です」
「あー、真宮寺さん。今、事故に巻き込まれて 大変なんですよ」
「知っています。土蜘蛛から連絡ありました」
「へっ? 土蜘蛛?」
「貴方を安全な場所に誘導したって聞きましたよ」
「あれは、自衛、あ、もしかして、あの人も・・・そうなのか?」
聡は隣に居る男に聞こえない様に小声で言った。
「はい。彼も妖です。無事で良かった」
「ありがとう。本当、感謝してる。今度、会ったら礼を真宮寺さんから言っておいて下さい」
「彼らは、ほら、葛城山が本拠地ですよ。会ったら言っておきます。では、」
「ありがとうございます。宜しく御伝え下さい」
聡は、携帯を切った。

償還

交通事故は、大きく報道されていた。
連日、テレビでは その惨状を映し出し、各局では特別番組が組まれ、事故の原因となったタンクローリーの運転手は、追突直前に死亡していた事が明らかになり、彼の所属する会社での勤務状態や、運行状態が話題になったが特に問題は無く加害者死亡のやり場のない事件として取り扱われ出した。
やがて道路設計にまで話が及び、結果、避難場所を十分確保出来て居なかった建設省を非難する世論へとシフトして行く一方、救済に逸早く駆け付けた自衛隊には賞賛の賛辞を送っていた。

優子は会社へ出かける前に聡に車での移動は、危険だから電車等の交通機関を使う事を勧めると聡は、いつも使う道路が暫くは、不通になり、事故被害者と言う二つの理由から仕事を休み、退院した樋口の元を訪ねると話すと優子は頷き、良い事だねと言い残し、小走りに玄関を出て行った。



「樋口さん、相馬です」
社務所の玄関を開けると聡は声を掛けた。
玄関すぐ脇の応接室のドアが開き、真宮寺が顔を覗かせて片手を挙げて
「お、来た来た」と室内に入る様に促しながら
「相馬さん、駐車場にハマーH2が停まってたでしょ」真宮寺が言うと
「あ、あの車、聞こうかと思ってたんですよ、あの自衛隊の人が来てるんですか?」聡が聞く。
「まぁ、まぁ、どうぞ」
聡が応接室に入ると一人掛けのソファに樋口が座り、片手を挙げている。
その横で立っている大男が立ち上がり、敬礼し、
「胤景(いんけい)と申します。挨拶が遅れまして申し訳ありませんでした」と言った。
聡は大きく頭を下げて礼を言った。
「相馬と言います。その節はありがとうございました。おかげでこうして無事に過ごさせて頂いています」
「まぁ、まぁ、二人共、座って下さい。特に胤景さんが立っていたら圧迫感が半端無いですから。で、 彼が土蜘蛛一族だって事、もう 話しましたか?」
樋口は笑いながら真宮寺に言い、返事も聞かずに脇にある電話を内線に切り替えてコーヒーを4つ頼む。
コーヒーが来るまでに胤景が事のあらましを話だした。
彼が言うには事故現場に偶然 居合わせた訳では無く、あの辺りに不穏な波動を事故の二日前に島根から戻って来た部下から報告を受けた。其れとは別に真宮寺とは千百年程昔、九州で知り合っており、その真宮寺からも怪異の事を聞き及んでいた。この二つの情報を合わせて卦を占うと丁度、あの辺りと出たので事故現場付近で事故の前日より待機しており、待機場所からヘリ三機と救命班を基地に待機させた、彼は発進指令を出すと同時に特殊消火剤散布を基地に連絡した。
聡が彼の前に停車したのは全くの偶然であったと思われたが、聡が電話をするタイミング、停車したタイミング、そのどれを取って四人で検証しても仕組まれたとしか考えられない状況になっており、応接室に居た四人は、必然であった事を認識すると共に術者の巧妙な罠の恐ろしさが露呈した。
四人が顔を青ざめて居る所にノックの音がして若い女性がコーヒーを運んで来た。
「どうしたんですか? 皆さん、顔色が悪い」女性が聞きながらコーヒーを其々の前に並べて行く。
「あぁ、ありがとう。そうだ、丁度良い。紹介しておくよ。こちらが相馬さん」
樋口が言うと
「渡部芳江です。よろしく御願いいたします」とやけに色っぽい声で女性が言う。
「そ、そ、相馬聡です。よろしく」聡が色気に押されながらも挨拶すると、
「もう、御分かりでしょ。相馬さん、彼女もそうなんですよ」樋口が少し、小さな声で言う。
「えっ、もしかして、そうなんですか」聡は目を丸くして渡部と名乗った女性の顔を見ると
「え、嫌ですわ。相馬様、そんな目で見ないで下さいまし」女性が微笑みながら言う。
その片手を口元に持って行くだけの動作だが、聡は、脳髄を焼かれる思いで見入っていた。
「あー、おっほん」咳払いをしながら樋口が、
「昨日から少しの間、霊傷による傷の治療である方から御預かりしていましてね。渡部さん、良いよ。ありがとうね。こっから先の話に君が入るのは危険だ。あの人達に知れたら私が怒られてしまう」
「はい、わかりましたわ。傷の治療に専念します」
渡部は、右手でその長い髪をうなじから肩の後ろへ跳ね上げ、少しむっと怒った雰囲気を醸すが、それすらも官能的、いや、扇情的な動きになっている。
渡部は、くるりと踵を返すと部屋を出ていった。
「ま、無難だな」胤景が言った。
「だな、あの人は怖いから」真宮寺が言う。
「あの人って?」聡が聞くと
「相馬さんには前に一度、話をした事のある人達ですよ」樋口が言うと
「あの・・・あの一族の事? ですか?」少し思い出しながら聡が言った。
「はい、妖達に恐れられる唯一の一族の事です。あの一族の存在は、しっかり覚えておいて下さい。彼らの事についての話は終わりにして、今後の作戦を練りましょう。非常にやっかいな相手です、策略を練り、此処までの計画を立てて実行する力を持った相手です」樋口が言った。
胤景と真宮寺は二人の会話をじっと聞いていたが、樋口の顔を見て頷いた。
聡も一気に官能に痺れた脳が活性化して頷いた。

午前中から始めた四人の相談は、結局、これと言った結論が出ないまま夕方になり樋口は当面、真宮寺を聡の送り迎えの運転手として聡に預ける事にした。
真宮寺は、毎日、飯が約束された事を喜び、住込み運転手万歳と両手を挙げて素直に喜んでいる。
次の日、聡は、真宮寺の運転する聡の車で大学へ向かうと、学長を訪ねて学長室に行き、当分の間、真宮寺に送迎をして貰う事になったと報告し、了解を貰う。
聡が大学に居る間、真宮寺は、聡の研究室で過ごし、昼は、聡と共に学食を食べる日が暫く続いた。

最悪の日が来た。
その日、朝 早くに真宮寺は電話を受けて首を傾げながら聡を近くの駅まで送ると樋口の待つ神社へと向かった。
「おーい、樋口、何の様だ? 相馬さんを駅に連れて行ってから直ぐに来いって」
真宮寺は、神社境内脇の社務所の玄関を開けると叫んだ。
奥からバタバタと走って来る音がする。
「相馬さんは?」樋口が聞くと
「お前が駅まで送れって言ったから送って行ったぞ」真宮寺が首をひねりながら言うと
「しまった。おい、直ぐに相馬さんを追うぞ」
樋口はそう言うと下駄箱から下駄を出して真宮寺をせかしながら社務所を飛び出た。
「私はそんな電話をした覚えが無い」
樋口は車に走りながら真宮寺に向かって叫ぶ。
「なにー!、奴の仕業か」真宮寺が同じく走りながら叫んだ。

聡は駅に着くと改札を抜け、直ぐに来た普通電車に乗り難波駅に向かう。
難波駅に着くとエスカレーターを乗り継いで地下鉄に向かい、千里中央まで地下鉄で向かった。
千里中央からはバスにするかモノレールにするか迷った挙句、バスを選んだ。
聡がバスに乗り込んだ頃、樋口達は、新御堂筋を千里中央に向かっていた。
バスの通るルートは、丘陵地帯で上ったり下ったりと道は上下を数回して折り、丘陵地帯を抜けると平坦な広い道、万博周回路に出る。
丘陵地帯を間もなく抜ける時、突然、其れは起こった。
道路脇に停めてあった工事車両が突然、道路脇の石積が崩れて道路へ転がり落ちて来た。
バスは右にハンドルを切り中央線を跨ぐ様にして止まった。
激突は免れた。
落下の衝撃で工事車両の先端部が大きく振られる先端部がバスの中央付近のボディを切り裂いた。
聡が乗車していた辺りを切り裂きながらバスの車内に先端部が侵入して来た。
聡の前の席の乗客の頭から鮮血が飛び出す。
目の当りにした次の瞬間、聡は、左大腿骨から骨盤に掛けて鈍痛を感じた。
はっとその位置を見るとベルトから左下、足に掛けてズボンが裂け、皮膚が裂けていた。
聡は固まって自分の裂けた下半身をじっと見ていた。
裂けた傷口が赤くなって行き、一気に血が噴き出した。
何故か痛みは無く、他人事の様にその様に見入っていると傍に立って居た女性が悲鳴を上げる。
バスの運転手が焦って通路を走り、聡と聡の前席の男を見る。
急ぎ、運転席へ駆け戻って緊急無線でバスの基地へ連絡を入れた。
運転手は、車内へもアナウンスを入れる。
「怪我人搬送の為、このまますぐの所にある病院へ急行します。御急ぎの方には、御迷惑でしょうが、何卒、御容赦の程を御願い致します」
車内からは、「急げ」「飛ばせ」の声援とも思われる様な声が上がった。
それでも運転手は、静かにバスを走らせながら
「御協力、感謝いたします。病院に着いたら替わりのバスを御用意致します」と告げる。
バスは、万博周回路に出て暫く走った所にある大きな病院の急患受付口に横付けした。
慌てて走り寄る警備員を無視して運転手は、病院へ駆け込む。
暫くすると病院内から患者搬送用の担架を2台押して4人の看護師と一人の医師が走り出て来た。
運転手は、バス中央の非常用乗車口を開き、乗客を下ろしている。
通常の乗車口から乗り込んだ医師が、すぐに聡を担架に乗せる様に指示を出し、看護師達は、四人で運び出し、担架に乗せると其のまま病院内へと搬送する。
残る聡の前の席の男性は、即死して折り、医師は、残った二人の看護師に丁寧に下ろして病院内へ搬送する様に伝えると走って病院内に消えて行く。
残った乗客全員を下ろすと運転手は無線で基地へ連絡を入れ、替わりのバス一台と現在の状況を伝えると基地から警察、消防への連絡は済ませてある旨の事を聞く。
運転手はダッシュボード内のメモ用紙に下ろした乗客全員に氏名、連絡先等を書いて貰うと病院内ロビーへと誘導し、乗客全員を椅子に座らせた。
聡の後を追った医師が、聡の鞄から身分証明書を見つけ、直ぐに大学に連絡をいれる。
樋口達は、丘陵部で事故があった事を知り、真宮寺の勘に頼って病院に行くと路線バスが有り得ない場所に停車している事に気づく。
樋口が病院ロビーへ走り込むと帽子を被った運転手が目についたので駆け寄った。
「丘陵で事故したのは、バスですか」と聞く
「はい、一名の方は即死、もう一名は、救急に行っています」と答えられた。
(まさか・・・)樋口は、考えた。
樋口は病院の正面玄関を出ると回り込み、救患入口に居る真宮寺に大声で呼び掛ける。
「相馬さんがそっちに居ないか確かめてくれ」
「今、聞いてます」返事が返って来た。
救患入口で真宮寺は、
「大学の先生なんです、名前は相馬聡、こっちに運ばれてませんか」
「一寸、待ってて下さい」受付の警備員が中へ走り込んで行き、直ぐに戻って来た。
「半身裂傷であのバスから運び込まれてます」
「なに、本当か」真宮寺が叫び、振り返ると樋口がこっちに走って来ているのが見えた。
「樋口さん、怪我で運び込まれてます」真宮寺が叫ぶ。
「娘に連絡しろ」樋口が叫ぶ。
真宮寺は、返事もせず、携帯を取り出すと優子の携帯へ電話を入れた。
「はい、相馬です」
「真宮寺です。相馬さんがバスで通勤中に大怪我しました。場所は、千里の大きな病院です」
「えっ、・・・無事なんですか?どうなんですか?」
「いや、まだそこまでは聞いていないんで」
「すぐ行きます」
優子は電話を直ぐに切ると上司に走り寄り、父が大怪我をして病院に運ばれた事を伝え、
「と、言う事なので私、早退します」と言い残すと部屋を後にした。

寂滅

優子は、部屋を飛び出ると更衣室でライダースーツに着替え、制服をハンガーに吊るし、バッグを手に取ると中へ手を入れバイクのキーを取り出した。
チーン、甲高い音がした。
焦ってバイクのキーを床に落としてしまう。
手の指が震えている。
震える指で床に落ちたバイクのキーを拾い上げながら足でロッカーの扉を締めると更衣室を急ぎ飛び出て行く。
エレベーターに向かうが9階のフロアに停止していた。
ここは、4階。
(階段の方が少し早い)
優子は呟き、階段に向かい、段を飛ばして駆け降りる。
途中、数回、転びそうになるが、左手で手すりを握って体制を立て直す。
体制を立て直し 走る。
会社の玄関を出て、駐車場へ走る。
ストリートファイター848に走り寄るとキーを差し込み一段 捻る。
ロックが外れる。
バイクに跨り、右手に持ったヘルメットを被ると目を瞑って深呼吸を一つした。
キーを捻ると液晶画面に光が灯る。
左手でクラッチを握り、スターターを作動させ、左足は、ギヤペダルを操作してローギヤに入れている。
一連の流れ作業だ。
アイドル状態のまま、ゆっくりと会社を出て右へ曲がった。
信号は青。
瞬間、極端な前傾姿勢を取り、セカンドギヤに入れてアクセルを開けるとクラッチを突き放した。
デスモドロミックエンジンが咆哮を上げた。
後輪から白煙とゴムの焼ける匂いとメカノイズを残してストリートファイターが猛然とダッシュする。
信号を通過して裏道の一方通行を北上して行った。
向かう先は、千里にある病院。
(お父さん、無事で居て)
心でそう呟きながらアクセルとブレーキ、シフトを繰り返して急ぐ。


優子は、万博周回道を周り、病院入口に着くと駐車場にバイクを置き、ヘルメットを被ったまま正面玄関へと走る。
走りながらヘルメットの顎ひもを外す。
玄関の自動ドアが開く間にヘルメットを脱ぐと中を見渡す。
「お嬢さん、優子さん、こっち、こっち」
真宮寺の声がした。
優子はその方向を向き、真宮寺を確認すると走り寄った。
はぁはぁと息をしながら
「どうなの?、大丈夫なの?」
真宮寺の上着を掴み、揺すりながら聞いた。
「かなり、酷い状態らしい。今、緊急で外科手術が行われています」
「どこ? 連れて行って」
真宮寺は、こっちですと言いながら優子を手術室のある方へ早歩きで連れて行く。
手術室の前に樋口が立っていた。
「樋口さん、どうなの?」
優子が思わず駆け寄って聞く。
「今、手術中なんだが・・・かなりの重傷だそうだ」樋口が後の方を少し小さな声で言った。
「暫く此処で待とう」真宮寺が優子をベンチに座る様に促しながら言った。
真宮寺は、樋口と自分の間に優子を挟むようにベンチに腰掛けると
「くそっ、俺が、悪いんだ。電話でもう一度 確かめてたら」
拳を握り締め、自分の膝を叩きながら言った。
「えっ、どう言う事なんですか」
優子は真宮寺の顔を見ながら聞くと真宮寺は、今朝の流れを全て優子に話をした。
「じゃ、あの魔物の仕業・・・」優子が呟く。
「封書があるから直接 妖力で出来ないと判断して事故に見せかけたかもわからない。出ないと真宮寺を相馬さんから偽の電話で離した理由がつかない・・・不覚だった、まさかこんな手で来るとは、予想すら出来なかった」樋口が呟いた。
三人が俯いて黙っていると廊下の向こうから三人の男達がやって来た。
一人は帽子を被り、制服に身を包んだ運転手っぽい男。
後は、スーツを着た初老の男と若い男の二人組の男であった。
三人は、樋口、優子、真宮寺の前で立ち止まると
「中で手術をなさっている相馬聡さんの身内の方ですか? 私、こう言う者です」
スーツを着た初老の男が警察手帳を開き、身分を明かしながら聞いて来た。
「私ですが、こちらの二人は父の友人で」優子が答えると
「バスの運転をしていた石田です。この度は、御迷惑を御掛けしまして申し訳ありません」
身体を九十度に曲げて頭を下げる。
優子はその男に対し(何で避けれなかったのよ)と怒りが込み上げて来たので 男を無視したかの様に
「事故だったんですよね?」と初老の刑事に聞く。
「おい、事故を説明して差し上げろ」年配の刑事は、もう一人の刑事を促す。
「あ、はい、事故は道路脇の石垣が壊れて石垣の上に駐車していた工事車両、通称バックホーと言われる車両が落下して発生しました。此方のバス運転手から取った調書では、石垣が崩れて来たので右へハンドルを切り停車、工事車両との直撃は防げたが落下の衝撃で工事車両のアームが旋回してバスの中央付近を切断した。アームにより即死一名、重体一名、を運転手は確認したので基地へ報告、救急車を待つ余裕が無いと判断し、切断された車両をこの病院まで運転して救急窓口へ行き患者の容態を説明して現在、手術中です」
「お判り頂けましたか?」
年配の刑事が聞くと
「わかりました、迅速な対応をして頂けたと言う事で良いんでしょうね」
優子が答えた。
若い警官が、はい、と答えた。
六人はそのまま押し黙り、時間が過ぎて行く。
真宮寺が 手術中のランプが消えたのを見て 小さく「あっ」と叫び指をさした。
優子は、バネ仕掛けの人形の様に飛び上がる様に立ち上がった。
ドアが開き中から手術服を着た医師が出て来ると
「御家族の方はおられますか」と言った。
「はい」優子が返事をする。
樋口が優子の背中を押すと優子は樋口の顔を見る。
樋口と並んで立っていた真宮寺の二人が頷いて無言で促す。
医師が「こちらへ」と言いながら手術室へ誘導すると優子は、医師に付いて部屋の中へ消えて行った。
樋口と真宮寺は二人並んで立ったまま 医師と優子が消えて行った手術室のドアを見つめていた。

九尾の孫 番外編【策の章】

完結しました。最後まで御読み頂き、ありがとうございました。

九尾の孫 番外編【策の章】

九尾の孫 番外編【策】になります。相馬優子が中司優介と出会う前の話です。相馬家に起こった怪異、九尾狐、玉藻御前(たまもごぜん)の孫、玉賽破(ぎょくざいぱ)の企みが浮かびあがってきます。 小説家になろうにも投稿しています。

  • 小説
  • 中編
  • 冒険
  • アクション
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-03-19

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 家庭
  2. 研究
  3. 壁面
  4. 神職
  5. 河童
  6. 陰陽
  7. 結界
  8. 病院
  9. 氷炎
  10. 御符
  11. 臨床
  12. 友人
  13. 遭遇
  14. 退魔
  15. 邂逅
  16. 事故
  17. 償還
  18. 寂滅