夜の鍵 La cle de la nuit
[夜の鍵]2012/08/26
感情表現のために生み出された人形、キラ。
彼女は<夜の鍵>の呪縛に縛られていた。
キラ (設定;二十四)八年前に作られた人形
ルドル (四十二)キラを作った職人
アシュハ (四十三)二人の前に現れた男
始まり 月の目
1キラの八年間
2現れた男
3キラの誘拐
4アシュハの館
5シャリーの怒り
6夜の舘
7ルドルの工房
決意 蛇の目
月の目
キラは黒いマントのフードで顔を隠し走って行った。
月は何処までもその背を咎め追い掛けて来る悪魔の目で、息せき切って逃れて行く。
草地に入るとその先に潮騒が空間に反響し、渦巻く音が彼女の心を震わせ膝をつき、耳を押さえ塞いだ。
フードから覗く白い鼻は罪の苦しさに歪む口許に影を落とし、しばらくは動けない。
だが背を伸ばし、影から透き通る青の瞳が月に照らされ、表情の無い顔を柔らかな金髪が包む。
それは汗で濡れて頬に張り付き、ゆっくり立ち上がってよろめき歩いて行った。
崖に来ると眩暈のする波の飛沫が白く砕け飛び込み、潮の香りが一層強くなった。
「どうか、どうかお願いだから」
キラは呟き、そして首から下げられた革紐を骨ばる手で引き上げた。
マントの間から引き出されたそれは、月光を一粒纏ったアンティークの古びた金の鍵で、既に古い時代に呼ばれていた名を知る者はあまりいない。
<夜の鍵>
螺旋を描く幾何学な蛇がトップにつき装飾する鍵は、二匹の蛇の黒石の目が夜の海を背に風で揺れて真っ直ぐキラを見ている。
声が聴こえる。
「忘れた物は無いか。忘れ去った物は、天の雲の中落ちている」
鍵から響く囁き声。潮騒と砕け散る飛沫に紛れることなく脳裏に響く波の声だった。寄せて引き繰り返される。
彼女は首から外し、崖から夜の鍵を掲げた。
「どうか……」
目を閉じ、革紐が開かれた手からフッと、離れて行った。重力に引き寄せられて。
しばらくは息を飲みつづけ、闇に自然の音だけが包み聞こえた。
「………」
目を開き、真っ白く細い手を見る。
口許が緩み、見開かれた目は汗が染みても閉じられずに、暗い海だけを見つめた。
上空の月を仰ぎ見る。拳を握り締め。
彼女は身をざっと返し早く去るために走ろうとした。
トコンッ
「………」
彼女は足がビタッと止まり、胸部にぶつかった小さな衝動に心臓がドキドキと脈打った。
そろそろと、視野の広がる草地から、視線を落とす。
「夜の……鍵」
それは静かな蛇の目で彼女の首から下がり、月光も届かない影の中で揺れていた。
<愛を成し遂げる鍵>
絡みつく二匹の蛇の如く、二人の心と手首を鉄枷の様に、そして鎖の様に縛り付けて離さない程の。
黒のパンツの脚が震え、膝丈ブーツの細いふくらはぎに絡みつく。逃しはしないという、記憶の籠から染み出て地を這ってきた金の蛇が、脚を伝って胴を進み、鍵の一部となってはスウッと消えて金に光った。
忘れたい。忘れたいというのに、それが出来ない。
手に入れてしまった時から逃れられない。自分は愛という名の箱になってしまったのだ。
キラはフードマントを剥ぎ取り緩くパーマ掛かるボブ髪が翻って一瞬月光を透かし、白いシャツのボタンを飛ばした。
駄目だ。
胸部の鍵穴は消えていない。
これがある限り、相手は止めどなくやって来て心の鍵をあけていっては無情に去って行く。去って行くというよりも、連れ去られていく。鍵の心は愛で彼女を充たす為にも忘れさせてはくれないのだ。どんなに愛が寂れても。
鍵穴に鍵を下げた革紐が撫でる様に揺れ、膝を崩して口端から笑いが漏れた。
「ふふ、ははは……」
髪で顔が隠れ見えなくなり、そして首を反って天に笑った。潮騒が反響する中、途端に狂った笑い声が響いて。
その頬は涙が濡れ幾重にも流れて行き、既に何も分からなくさせる。愛の喜びがなんだったのかも、優しさも。
1・キラの過去
ルドルは壊れて帰って来た人形を台に寝かせ修理を行なっている最中だった。
真っ白くやつれた体の人形は心をいれられた生きた人そっくりの質感で、ただ、四肢関節の継ぎ目に取り外し可能なビスが嵌っている。それは潤滑に動くのだが、多くの愛の対象を抱き寄せて来た腕はあまりにも細かった。
八年前、人形に心を入れることに成功したルドルはキラと名付けた彼女に踊り子をさせた。バレリーナだ。感情と表現が必要とされる世界では、絶好のチャンスだった。自己で判断して悲しみや喜び、怒りなどを調節して行動して舞うことが出来る人形。
その存在は見事に成功を収めた。
だが、問題はキラ自身の心だった。愛を理解するごとに欲求は増え、彼女の美貌は多くの男から求められ本物の人では無いからと崇めの対象にもされバレエ界では感情があり過ぎると気難しがられ、最終的には踊りの世界から見放されてしまった。
人形はバレエを失い衣裳部屋の中心で崩れ過ごす事が多くなり、ある日ルドルはどうにかしてあげなければと友人の人形師に相談をした。
人形師はキラの心を取り戻させる為にたくさんの子供と触れ合わせる事を勧めたのだが、子供以上に必死に遊ぶキラを次第に保護者たちは恐れ始めた。
その内に彼女の心はぽっかりと空き始め、暗い穴はどんどん広がっていくと、口でも話さなかったキラの心の声が染み出始めたのだ。
さみしいよ、かまって、すてられたくない、だれか、だれかわたしをあいしてほしい……。
毎夜眠るルドルの耳を占領する白い壁に隔たれた囁き声が、彼自身を攻め立てた。
ぽっかり空いたキラの穴はいくらコルクで栓をしようと無駄で、口から漏れ轡を嵌めても目から溢れ、目隠しをしても耳から漏れてルドルを悩ませ、一時は鈍器まで振りかぶったが美しい人形を壊す事など出来ずに、何本もの鎖で吊るし石の檻に閉じ込めるまでにノイローゼに陥ったが神秘的な美貌を見て手元に置いておきたくなった彼は病院へ入った。
キラはルドルを恨み悲しみの中で抜け出すと、一人花に囲まれ星を見た。
ルドルが探し回った翌日の朝方、林の先の原で色とりどりの花が咲き乱れた中心、胸の穴を黒く空け停止したキラを見た時には泣き崩れた。蝶が辺りを舞い、それを視線で追い続ける事は途中から適わなくなってくることと同様に彼女のどこかへ行ってしまった心は草花の中を探し回っても見つからず、殻の人形の前に跪きあんなに鳴っていた目に耳を当てても、口の枷を外しても音は漏れず、人形師が詰めた魂まで抜けさせてしまったキラの黒くぽっかり空いた心の穴に目を凝らし覗き見た。肌だけは生きたままの柔らかい質感の腕を掴み。
暗がりの先で、鼓動していた赤いハートは今や鎖に吊るされるだけでキラという箱の中で無情に揺れるだけ。それも、目を近付きすぎれば外気の光さえ遮り闇に落ちてしまう様で、ルドルは後じさりキラを見て、顔を抑え走って行った。
ルドルは古くから伝わる迷信を思い出し、それを手に入れる事にしたのだ。
それは劇的な愛に生きた女の人生が終った後に心が作り出したという鍵だった。
情熱の愛は夜に生まれ、朝にはその交わった記憶など消えて行く儚さだ。恋人達は誰もが夜の熱がさめる事を恐れる。鍵は愛の目覚めの時、夜の鍵と呼ばれていた。それを得た女は最大の幸福の愛を受けることが出来ると伝えられていた。
噂を頼りに見つけ出したのは、小さな田舎町の教会だった。のどかな地方のその地下で忘れ去られた鍵は、ルドルが見つけ出した時にはなんの変哲も無い錆びた鍵だった。その時は蛇の彫刻も見えずに、キーの部分さえもこびりついた錆びで跡形も無く管理の行き届いていない様に閉口したものだが、修道士に譲られた後に磨けばそれは輝く金の鍵であり、錆びだと思って削ぎ落とした全てがきらきらと作業台の上から消えていった。
それは心から出来上がった鍵。錆びに見えたものは、鍵自身が身に纏った鎧か放置された寂しさだったのかもしれない。心を落としたキラと同様に。
これがあればキラは戻って来る。ルドルはキラの横たわる台の前に来て、彼女の首に掛けた。
だが、穴は塞がらずに古びた革紐が呼吸で動く事も無かった。
まさかなと思い、胸の穴に鍵を差し込むと途端に皮膚は穴を塞ぎ始め驚いた時には鍵は挟まれ動かなくなり、ルドルは焦点があったキラの目を見た。彼女はルドルを見て起き上がり、鍵のトップを持ったままの彼はキラの腕が首に回って受けた口付けに驚き手を離した。
キラは胸部の鍵穴に差された金の鍵を見て、ルドルを見て、美しく微笑んだ。
それが愛を生き、愛を分つ人生を貰い受けたキラの始まりの時だった。
ルドルとキラは信じた。そこはかとないぬくもりの時間が彼女に訪れ、そして光の加護を一身に浴びる事の出来る人形になったのだと確信した。
だがキラは知らなかったのだ。愛には終わりや今まで恐れつづけた悲しみがつきまとう形も存在するのだという事が鍵の力もってしても受けることであり、それも愛の一部である事は。
2・現れた男
キラは目を覚ますとルドルの背を見た。
いつでも人形の自分は頭は目覚めてもしばらくは動けない。脳まで動く心が届くと起き上がって視線を落とす。
紐に下げられる鍵はまるで殊勝に笑った顔に錯覚した。
「目覚めたのか。修理は済んだよ」
キラはまた横たわり、彼に背を向けて窓の外を見る。
「壊れたままで良かったんだ」
ルドルはその悲しげな背を見て、しばらくして微笑んでから言った。
「さあ、気晴らしに野原の兎を観察しに行こう」
「兎」
「ああ。好きだろう?」
「大好きよ!」
キラが単純に笑顔で起き上がり、台から下りて歩いて行った。小屋の外は森に囲まれた原に小動物達が駈けて行く。生まれたての頃はキラの心を動物への愛情で育てはじめたものだ。小鳥で歌を覚えさせ、やってはいけないことで悲しさと怒りを覚えさせ、そして様々な感情を育ませた。
光の中で生きて来たキラは幸福の中にいて、ルドル自身も彼女を大切にしていた。
だが、言われた期日を越しても連絡がこない研究機関はルドルの夢の実現を遮断するが如く連絡を入れたのだ。
キラの産まれた目的は、バレエダンサーの人形を作ることだ。だがそれも結局は失敗に終ったのかもしれない。人形に心を入れればどうなるかなど、誰にも分からなかったのだから。
今のキラは明るい草原に出て兎を探していた。今は穏やかな時の流れの中。
また鍵の力が暴走し、どこからともなく男を引き寄せる事など無ければ。そして、キラ自身が鍵に過去を思い返させられなければ。
だが愛の時間は夜に生まれる。宵も闇に落ちれば、「愛を終わらせるのか、感情を眠らせるつもりか、新しい愛さえも知らずに……」鍵の蛇は囁き続け、キラの心を締めつける。そして求めさせるのだ。囁き声を男の愛の囁きに変えるが為に、新しい恋人を手に入れる。
今は安堵の時であり、ルドルはずっとはしゃぐ彼女を見ていた。
愛の鍵を手放させる事。それが、彼等の目的、願いだった。
太陽で金に眩く光り、まるで愛の美しさだけを生む為に形作られた鍵に見える。今ならば。
「ねえ。彼、誰かしら」
「……?」
ルドルはキラの示した方向を見た。木々の間からやって来るのは、馬に乗った男。どこか物厳しい顔をした恐い男で、騎士というよりは役人に思える。品の良い仕草と顔ではあるのだが、ルドルが苦手な規律ある性格では無いだろうか。年齢は四十二ぐらいで、ルドルと同じ程か。
相手は林を抜け原を見渡していたが金髪が柔らかな陽を受ける美しい女に気付くと彼女を見た。そして、その首から下げられた鍵のネックレスも。
「お前が噂の女か。上から言われ、視察に来た」
ルドルが肩を竦めてから大股で歩いて原の中心にいるキラの横に来た。
「施設に連れて行くつもりなら断ります。歌で売り出すとか、モデルをやらせるのも同様だ」
「心が不安定らしいな」
颯爽と男は馬から降り、黒ビロードの軍服に金のボタンや腕章が木漏れ日の下から歩き陽を満遍なく受け、鋭かった顔立ちを光が和らげさせた。
彼がルドルに握手を求めて手を取り、キラは真っ直ぐと男を見た。彼が無表情のまましばらく彼女を見て、そこで初めてふと微笑み瞳が光った。それは男らしく。
「綺麗な子だ。安心しろ。連行しに来たのでは無い」
キラは頷き、咄嗟に彼女の首から下がった鍵を手に取ったのはルドルだった。もし見ていぬまに男がこの鍵を鍵穴に差し愛の無い悲しみの心を鎖してしまえば、彼等の愛は始まってしまうからだ。
「視察も済んだという事で、どうぞお茶でも飲んでいって下さい。町からは遠かった事でしょう」
山を幾つか越えた先のこの住まいは実に静かな場所だった。
「それはどうもありがとう。遠慮なく頂く」
男が横目でキラを反らすことなく見つづけ、グローブをすっと外し身を返し歩いて行った。その薬指に、金とオニキスの結婚指輪が嵌っていて、それをキラは見ていた。背で見えなくなり、彼の横顔を見上げ彼女を鋭い微笑で見ては歩いて行ったその眼力に眩暈を覚え、太陽に目を細めた。心が鳴る。早く鍵をさしてもらいだがって。
3・キラの誘拐
ルドルが目を離した隙に役人の馬はキラまで連れて何処なのか分からなくなっていた。
キラは男の後ろに跨り馬が山を越え疾走していくままに心躍っていた。緑の世界を駆け巡るのは光と彼女の心も同じで唄を歌い笑った。
馬から降り、人形の彼女は飲み物や食べ物は必要無いが男と馬は泉で水を飲み喉をうるおした。
キラは木の上でくつろぎ湖面を滑り飛んで行く水鳥を目で追ったり、髪やシャツを風に弄ばせている。男の様な身なりでも美貌は尚も引き立ち、男が五年前に娘を連れて観に行った舞台上のまま変わらない。
役人であって上から言われてやって来たなどとは偽りだ。とあるワインセラーの主だった。鍵の声が聴こえ、彼はその声に夜導かれてやって来た。
だが年を取らない人形の五年は男に年齢を重ねさせる。彼は四十三の年齢になっていた。
「ねえ。名前を教えてよ。あたしはキラ。キラ・ド・ドール・ルドル」
男は葉枝のレース先に見えるキラを見上げて言った。
「アシュハ・ヘッセー」
キラは腕枕をやめて男を見て、名前を繰り返した。
「アシュハ……変わった名前」
「父がエジプト人でね」
キラは頷き、八年間で得る情報の中でエジプトという人種を思い起こし木の上から降り立った。
「アヌビスって、言われた事があったの。ダンサー仲間だった恋人によ」
「君が?」
確かに、その顔立ちは中性的な風雅はあの冷静にして沈着な顔立ちのアヌビスの様だ。細く鋭い手も、長い首も。
だが、柔らかな髪は手を差し入れれば太陽で温まり、透き通る肌は唇に色味を与えていた。
人形になど思えない、どこか、触れることだけを許された背徳の美を感じる。相手は骸でも無く殻でもない人形であって、生身でもなければ女かも不明な。だが、それでも良くさせる。構わなくさせた。少女が欲しかった縫い包みを手に入れられて大事にする感覚とは異なる。巨大な鳥籠に入れられたキラに翼を一つ一つつけさせる感覚だ。慎重に、決して傷などつけない様に注意を払いながらも。
まだこの作品は完成していない。自分の手でなら……その気にさせるのが感情を持った人形、キラなのだと思わせる。
あの人形職人がバレエに賭け彼女と自己の力を試みた気持ちと同じなのだと悟る。この高揚感は、勝ち取れば正に男のプライドに成り代わるのでは。
アシュハは彼女を引き寄せ、森を見た。蝶が木と木の間を番で舞って行き、光の柱を満遍なく降り注がせ美しい羽根を透かし飛び神秘の存在にしている。
キラはきらきら光る泉で瞳を光らせ、背に手を当てて目を閉じた。
アシュハは思い至らないらしい。元恋人に震え囁かれたアヌビスの意味が愛により心理の終わりを告げる時を支配する瞬間の残酷すぎる闇の中で見た彼女の表情を心によって浮き彫りにされた時に呟かれた名だったのだと。
絶対同じ結果にならないわ。キラは彼から離れて行き馬の横に来て手綱を持った。
いつからか気付き始めた。愛情を撒き餌に感情を分ち、鍵自身が愛を栄養に生き、そして幸せなどにはさせない力で金蛇は持ち主を拘束する悪魔だと。思う様にさせないわと毎回思う度に愛に呑まれて形振りなどどうでも良くさせる。一時をのめり込めるからだ。それが道を踏み外させるの結果でも、キラは心躍らせた。慎重になっても臆病になり恐怖の砦で明日を待ち、恐がらずにいただけでは確実に全てを失う。上手に愛を進められる器用さなど持ち合わせないままで。
「愛は怖い物だわ。分かってるんだ。あたしはもう泣きたくない」
アシュハは蔦の這う木によりかかり、優しい手で馬の鬣を撫でるキラをみた。
「涙を知らない人形になりたいの。悲しみを知らないってね」
「キラ」
「怒らないで。分かっているわ。喜怒哀楽のバランスは崩れればいずれ均等な足許が抜け落ちる。関節のビスも固まってしまうかも」
馬は何か早口で言ったキラ、といっても生物の香りもしなければ物体と声だけが存在するらしい不思議なキラの頬に頬を寄せた。彼女は目を閉じ馬の頬をなで抱えては、鳥の羽ばたき音に水飛沫を上げた泉を背に目をあけた。欲張りな愛は冷静さを失わせる、その事さえ恐い。
「……私だけのものになりなさい」
キラは緑の草地にさす黄色い光りからゆっくりと彼を見た。
「深刻な顔で思い悩んで。お前に幸福を分からせるために男が現れたことがあったのか。美貌を求め一時の愛が為に過ごして来た男達に」
「でもその後は」
人形という変りもしない事実は横たわる。また傷つくのだろうか。鍵は幸せの中の男を奪い、キラを泣く人形にさせる。月光の中、彼女の頬を光らせて。鍵はその美しさを見たがった。愛を失う瞬間の美しいそのキラの顔を。鍵自身が虜になっていることを、キラはまだ知らない。
結局は渡したがって無い。鍵自体がキラを愛している。今に、あのルドルさえも引き離してキラの涙と哀しみで形成されていく心で金の蛇は大蛇となり、そして元の悪魔の姿を取り戻し彼女を自分だけの物にする。それまでは、多くの男の愛を引き寄せさせる。
光の中それらの鍵の心は隠され紛れ、やはり静かだった。
蛇の黒石の目はアシュハを見た。男は冷静な目で呪縛の鍵を見て、身を返し歩いて行った。
男は考える。あの鍵は曲者で、町でも噂になっていた。男達は愛を分つ毎に気配に不気味な不可解さを感じていたと。それは人形に心が入る瞬間だと思い続けた。いくつもの愛を知り、得ていく心を翳らせる気配だったのだと。だが感じていた正体や影さえ見え無いが、夜の闇の中にひっそりと潜んでいたのかもしれないもの。
あの鍵が何か重要なのかもしれない。以前は持ってなどいなかった。いつからあんなに大切な風で持ち始めたかは分からない。ただのネックレスの筈が、あの蛇の目こそが愛に死を与える為に開かれる心の鍵なのでは無いか、それを支配し男達を破滅に導く彼女自体がアヌビスの心なのでは無いのか、分からなくさせる。
馬の横まで来るとキラに言った。
「あと一山超えると、山間の麓に私の所有する舘がある。ついた瞬間から私とお前の場所だ。行こう」
手を引き馬に乗せ、彼等は馬を進めさせた。
4・アシュハの舘
深い夜の中、馬を生い茂る木々の陰先に進めさせた。大きな影の様な舘は月光さえ今は届かない程に闇に落ち、誰も寄り付かない不気味さがある。ランタンを掲げていたアシュハは既に眠った人形を見てから馬を降り、抱え上げて舘横に来る。
ドアをあけランタンを掲げて進む。
廊下を歩くしんみりした音で人形は目を開き、しばらくして視線を上げた。脳まで起きると降りたがる。
「おはよう。キラ」
「ええ。アシュハ。ここは……舘?」
暗がりを見回す。
闇の中だと、夜はキラにはあの金の蛇が地を這う気配を感じた。月光が無いから見えはしない。まだ鍵はさされていないから自由に動いているのだ。男を見つけたから夜の囁きは止んでいて、久し振りの静けさで夜に目覚めたキラは安心していた。だがそれも束の間の安堵とならない為にもアシュハを見る。
「疲れたでしょう? 腹ごしらえをしたら休みましょう」
心が疲れる以外は一定の運動量を超えれば勝手に眠るキラは体自体が疲れる事は無かった。なので、男に気を遣ってあげなければ気付かない。バレリーナ時代、彼女は疲れを知らないダンサーだった。自己を突き詰めプロまでのし上がるまでに眠りを知らずに教室で踊りつづけたが、相棒と先生が倒れてしまった。普通、人が疲れや不眠を超えるといけない事をルドルの場所から離れ暮らし始めたキラは知らなかったのだ。熱心なのは良いが、飲み込まれすぎるのは壊れる。バレエの先生に頼まれルドルはキラに一定の運動量を与えたのだった。
キラ自身は食べものなど食べてしまったら大変な事になるのでいつでも二人の食事は形式だけ。時々ディナーショーよと微笑んで食事をする男にバレエを踊り見せる愛嬌さえあった。
舘を管理しているのは二名で、毎回利用する二日前に来させて準備をさせる。
本来、作らせているワインも彼女に飲ませたいがそれが出来ない事は分かっていた。
舘の人間に言い食事を作らせる間に汗を洗い流しに行った。人形のキラは防汚コートが施されているので雨や涙も泥やチリも飛び跳ねればさらっと振動と空気で流れて行く。なので彼女は一人ピョンッと兎の様に飛び、アシュハは苦笑して彼女を見た。
「どうかしたのか。兎の様に」
「気にしないで」
彼女は廊下を歩いて通されたリビングに来た。アシュハは出て行き彼女は窓へ歩き、ドアを振り返ってから閉ざされたカーテンに手を当てた。もしも月光が出ていたら面倒だわ。だから、そっと狭くあけてから視線だけで見上げた。
「………」
光はキラの青い瞳を透かし光らせ、そのサファイアの嵌る目は窓の中カーテン先に見え、舘の壁には鮮明に木々の影を落としている。トカゲが壁を這い、大振の蜘蛛を狙っているがキラによって開けられた窓で明りがいきなり射し、トカゲも蜘蛛も一気に去って行った。
カーテンを閉ざし室内を歩いてから、彼女は辺りを見回した。鍵とあの時同化した金の蛇は見当たらない。
「失礼します」
女の声に彼女は振り返った。
「旦那様が食堂へ通される様にと」
「ええ。役人じゃないのね」
「はい? 役人、でございますか?」
「いいの。ルドルの勝手な思い込み」
「はあ……さようでございますか」
老婆はさておき笑顔でキラを案内し、廊下を歩いて行った。
扉を越えると席を引かれ座る。しばらくしてアシュハが来て彼女に微笑み、席についた。
キラはお腹がすくという感覚が分からないので、食事が美味しく見えるから食べたいという感覚が一切無かった。ルドルが幸せ顔で食べていても、自分が素晴らしい絵画を見ていて感じるそこはかとない喜びや、自然世界に包まれている時に感じる高揚感と同じだろうと思い見てきた。感情で出来上がっているキラは精神の構築を大切にする。
口に入れても味は感じないので良いのだが、人は食べなければ生きていけないという。いつでも考えた。自分だけは一生存在し続け、恋人は結婚しても先に年老いるのだから若い体力で看取ればまた若い子を探して結婚し、最後には看取る人生の中に、愛を、そして信頼や心の灯火を分つのだ。
でも、目の前の彼は? それが可能だろうか? 金には鷲のオニキスで象嵌の施された指輪が嵌められ、家族がいるはずだ。
ルドルのこともいずれは自分が年老いた彼を一時面倒を見ることが出来ればと思っている。苦しい心や喜び、愛の時間を与えてくれた、時に容れられた心さえ落としたただの箱と変わる事もあるが愛を発見した時の巨大な心を毎回感じさせてくれるから、ルドルは彼女の心のふるさとでもあって、壊れても絶対に見捨てる事の無い保護者だった。男達は一部、ルドルの元に最終的には戻るのだろうとか、彼こそが愛の対象に相応しいのではないかと責め立てる者もいるが、それは違う。ルドルは愛を知らない。だからキラを作ったのだ。自分の女を作ったのでは無く、自分に無い人形師の心を試したがった。確かに作られる人形に魂を込めて作る彼は愛情はあっても、それは女へ向けた恋心とは全くの別物で、その愛に関して彼は完全に臆病なのだ。
食器を操る指に光る指輪。キラはおぼろげに見つめていた。
5・シャリーの怒り
いきなりの衝撃にキラは驚いて顔に掛かった髪を払いのけた。
朝の森を歩いていたら突然腕を引かれ、顔ががくんとあちらへ向いたからだ。
顔を戻して黄緑色の世界を見た。
「……?」
女がいて鋭い目で彼女を見ている。自分よりも年齢が上だが先ほどの力は自分がバレエでスピンをする体を一瞬で支えて持ち上げる男ダンサーの体力に匹敵するだろう勢いがあったが、何の優しさも無かった。
「綺麗な顔して若い身空ですることは人の夫を奪う事?」
「アシュハの」
「馬が見当たらなかったから追ってみれば舘は開かれていて、すぐに分かったのよ」
「シャリー」
白樺の向うからアシュハが走り、一気に彼女は歯を剥いて夫からキラを見た。
「ふざけないでよ!」
シャリーが持っていた袋を放り中から短剣を出し、彼女は驚いて避けアシュハが向うから走ってくるが、シャリーはキラを追いかけてくる。動体視力は良いので手元を蹴りつけ短剣を飛ばし、シャリーは飛んで行くと手元に当った大きな石を手に掴みキラを睨み見上げた。
「やめろ」
アシュハがシャリーの手首を引いたが石が刹那キラに投げつけられた。
「キラ!」
「きゃ!」
キラは拳以上ある石が上腕にぶつかった途端、柔らかかったあの白い肌が一気に陶器の様に砕け散って薄い破片が白く飛んで舞い、目を見開いたキラは突然の事に瞬きをして空間から、自分の砕けて大きな穴の空いた上腕を見た。何も詰まっていなく、空洞の下腕の中にも薄い破片が落ちて手首の関節に溜まり、アシュハが言葉をなくしてそれを見た。
シャリーは夫の腕を掴みながら彼女に言った。
「人形のくせに、愛に傾向しようなんて」
「それは違うわ……」
腕を見ながらおぼろげにキラは言い、顔を上げ彼女を見た。
「人形は、愛しか知らないのよ。愛される為に生まれて、それが人から形作られた人形のさだめ。だからこそ……」
激しい衝撃を受けた事で運動量に加算され、キラはそのまま彼女をおぼろげに見たまま停止し、薄い瞼だけが閉ざされた。
アシュハは驚きのあまり動く事など出来なかった脚が動きキラに駆けより、腕を見てから触れた瞬間がくりと体が柔らかく崩れて紐を失ったカラクリ人形の如く彼の肩に崩れしなだれ、シャリーは一瞬を躊躇い、流石にそれを不安げに見た。娘は舞台上の踊る人形に大はしゃぎしていたので、その写真を今も大切にベッド横に飾っている。
「まさか、こんな事になるなんて」
「人形職人の所へ連れて行く」
「でも……このままの方がいいんじゃない? どうせ男達に毎回捨てられる人形だわ」
「それは違う」
「何がよ」
「分からないが……違うんだ」
「もう!」
シャリーは目を怒らせ人形を担ぎ上げた旦那から身を返し歩いて行った。
「帰るわ! 当分あなたの顔なんて見たくも無い!」
彼女はズンズンと歩いて行き、向うにあった馬車に乗り込んで御者にさっさと引き返させた。
壊れたキラを見つめてアシュハは俯き、舘へ運んで行った。
腕は有り得ないことになっているが、何処から見ても他は生身に見える。質感も重みも。
だから恐れた。まさか、体も顔も穴が開けば一瞬で粉と崩れて驚いた指に血を流れさせ男に傷を残したまま愛の記憶を残酷に残し、目の前から彼女は消えてしまうのでは無いのかと。
白い麻の袖なしノースリーブと黒い丁寧な織りのスカートを履いているキラは動かないと本当の大人しい人形の様で、悲しさを覚えた。首から下げられた鍵はただただ今も妖しげに光り、静かに男を見ていた。
アシュハはその鍵から目が反らせなくなり、手に取っていた。鍵の魔力により、微かに窓から射す光に蛇の黒い目が光る。静かに、アシュハのこげ茶色のエキゾチックな瞳も共に。
6・夜の舘
ルドルが舘を見つけた時は深夜になっていた。二日間ずっと山を馬で駆け抜けさせて行方を探し、見つけた舘だった。
大きな扉前に来ると馬を探したが見当たらない。お腹もすいているし疲れてしまった。徹夜でまた動いたので馬が機嫌を損ねて動いてくれなくなった所だし、彼はノックをした。
しばらくして暗がりの中開かれたドアから光が漏れ、彼は安心して微笑み老婆を見て言う。
「こんな夜分に実に申しわけ無い。良かった。道中疲れてしまいまして」
「まあまあ、それは大変でしたわね。どうぞ。どうぞお入りください。旦那様は……」
「それは……」
彼は招かれた舘の中を見ながら言い、老婆を見た。
「黒髪とこげ茶の瞳が鋭い男かい。髪は全部後ろに流されていて、黒軍服に白いストレッチパンツとブーツだった」
「あら。ええ旦那様でございます」
「彼はここに?」
「昼下がりからお姿が無くて。コックも料理を用意するべきか」
舘を見回し、この夜、あの鍵の気配を探る。張り詰めた空気は無いのだがあの体に馴染んだ感覚は潜んでいた。それが舘に入ると分かった。まだ、キラもあの役人顔をした男もいる。
老婆は客人をリビングへもてなし飲み物と軽い食事を出し、彼は有り難く頂いた。
「お料理を用意しますね」
「いや、これ以上お構い無く。ここの主人の物だったんだろう。私も彼を探しますよ」
「え。でも」
「ご馳走様。とても美味しかった」
老婆の横をとおり歩いて行く。
老婆が探して見当たらないぐらいだ。ドアを開けてすぐいるとは思えないが一つ一つ開けて行った。暗い空間が横たわるだけで、中には女物の部屋があったり、少女が好むだろう部屋があった。
鍵が掛かった部屋があり、使用人だからといえ私的な空間には入れないだろうと一階の老婆に確認する事は止めて耳を澄ませてドアの様子を窺う。
音は聴こえない。
ルドルはノックをすると、しばらく待った。廊下を見回していると、間口から月光が差していて波の様に揺らめいている。雲が上空で流れているからだ。高い背の木々が枝垂れて細かい陰を落とし、ホウホウと梟も鳴いていた。
カチャ
鍵が開けられた音がしんみりと響き、ルドルは顔を上げ男を見た。
「………」
一気になだれ込んでドアから溢れ出す夜の鍵の気配は、暗がりの室内から溢れて月光に炙られたかの様に姿を現し、一瞬を金色に光った気がした。キラがいつも言っていた。金の大蛇が地をのたうち、時に体を締め上げて来るのだと。
男はあのこげ茶色では無い、金の瞳を月光に一瞬光らせ、一歩中へ引いてルドルを招き入れた。
初対面の時の様に明朗な口調で話す事も無く、無言で身を返し歩いて行く背が一寸先の闇に紛れて行き、鮮明に月光が指した踵さえも飲み込まれていった。その薄い光と濃密な影の間際、ルドルは立ち止まった。入れば何があるか分からない。
男がソファーか一人掛けに座った気配が音で伝わり、そして火が小さく灯ってランプに明りがつけられた。
ぼうっと広がる中に、男が座っている。長い脚を組み揺らし、確実に金の目が鋭く彼を見ていた。
「<夜の鍵>か……」
声になった言葉は背後の月光が無ければ消え入っただろう。心が畏怖に繋がり上目で男を見た。灯で黄金に光る無駄の無い頬は表情も無く、悪魔の様にどこかに美を誘う。
「キラはどこだ」
慣れて来た目で見回し、彼女はテーブルの上に横たえられていた。上に着ていた衣服が短剣で中心から裂かれ、そして胸部にはあの金の鍵がささっている。青い目は開かれ意識がある様には思えず、ルドルは見ていられずに男を見た。
「何をした。腕まで崩れているじゃないか。俺の人形に何をしたんだ」
「違うの……」
まるで壊れて動けないままキラの声が響いた。
「彼は守ってくれた。シャリーが石を投げたから」
修理すれば動く範囲の声とは思えない。心が分からなかったからだ。ルドルは声の感じでキラが殻なのか、魂があるのか、心を戻したのかが分かる。
極めて空虚の状態で、今話しているのだ。記憶だけが話している。
夜の鍵は立ち上がり、一瞬大蛇の姿に戻り金に鱗を光らせながらも進んだ。鋭い目でルドルを見据え、顔を反らし男に戻って歩いて行く。
キラは頬を撫でる男に陶酔した目で見上げ、瞳は青く潤んでいた。それは情熱の愛情だった。
男の横顔は微笑し、ルドルは足許を金の細い蛇達に拘束され動けないまま男を睨んだ。彼が悪魔なのだろう。愛の悪魔。
男は愛しく美しいキラを優しく見つめている。
「修理をしてもらおうか。腕がまさかこのままではな……私の妃にはなれぬ」
「連れ帰る。返してくれ。修理をしなければ一生お前はキラを手に出来ないぞ」
「条件を出して来るわけか」
「お前の好きなやり方のはずだが」
「フフ」
低く笑い、手の甲でキラの頬を撫でる指には金の指輪は嵌ってない。
金の鍵を外せばキラの心の錠が解かれる。この悪魔の姿も錠に掛けられ、今度こそは身動きが取れない様に厳重な箱に入れて修道院にでも戻さなければ。あの錆びは妥当な錆びだったのだ。悪魔の心を寂しくさせたまま、身動きの取れない状態にさせる事が一番の対処法だったのだ。誰も構われることも無く静かに静かに過ごし、自分は愚かにも現れ鍵の力を解き放ってしまった。徐々に悪魔が力と体を手に入れる場所、キラという器を用意までしてしまったという事だ。
充分休んだキラは片腕で体を支え起こし、愛しいアシュハがいる事で心の愛が動き気をしっかり戻した。
「帰って来るんだキラ。お前が壊れたら、この先誰が修理出来るというんだ」
「でも」
体さえ壊れなければ、キラは心で動く。運動機能に定めをつけなければ眠ることもしなくなる。ダンサー時代の様には人の疲れにも鈍感ではなくなった。
「とにかく、どっちにしろ時間をくれ。修理が先だろう」
その内に鍵を外させ悪魔を封じ込めなければ。
「私も観察させてもらう」
「………」
静かにルドルの目を見て、ルドルは見据えた。
7・ルドルの工房
工房でキラ用の腕が棚から出さた。今までの腕のビスを外して壊れた腕から手首を外し、新しい腕に今までの手を固定させてから動作を確認する。潤滑材を挟んでからビスを嵌め、そしてキラの肩にも潤滑材を挟み取り付けビスをつけた。
手首と肩の境目を目立たなくする為に研磨を掛けて行き、ヤスリで整えてから皮膚となる防汚コート液に腕を浸らせて張力で乾くまでは動かない為に腕用の乾燥機に入れさせた。それが落ち着くと境目を革で磨いて滑らかにしていき、ようやく完成するのだがチャンスは乾燥が一日掛かる内の事だった。昼になれば蛇は力を隠し声も聴こえなくなると言っていたが、その内に鍵を抜く事が出来れば。だが、すでに男の体を手に入れてしまった目の前の悪魔が昼にも力を保持する程になっていてもおかしくは無い。
徹夜で三日目を迎えたルドル自身も翌日の昼に起きているかも不明だ。
それを悪魔は狙っていた。
翌朝、大きな窓から輝く緑は細かい葉が枝垂れる黄緑の木に囲われその先から眩い原が見えていた。
眠ってしまっていたのだ。修理を終えてすぐに。ルドルは暇に脚をふらつかせているキラを見て、その窓の外の緑に装飾され一部も金に光っている悪魔を見た。彼は腕と脚を組んだ昨夜の体勢のまま座って乾燥機の中の腕を見ていて、悪魔も眠りを必要としないらしい。それか、今が光の中で停止した状態だろうか? 人肌は所々金の鱗が光り、目は金に光る焦げ茶だった。
あの軍服では無く、白に黒い併せを交差させたローブの腰部分を黒い帯で縛っては黒いズボンを履いている。髪は一筋顔横に鋭く前髪が下りていて、他はゆるく耳に掛けられている程度だった。
悪魔の前まで来てルドルは手をひらつかせた。
途端に不機嫌な目で彼がルドルを視線だけで鋭く見上げ、これは元から目覚めていたらしい。
「これは殿下。お目覚めの所を目の保養前に邪魔立て失敬」
「茶化しは要らぬ」
視線を静かに戻しその目の保養のキラは動けないので不貞腐れていた。
「はやく踊りたいわ。心も壊れていないのにずっとこの体勢」
「分かってる。もう半日の辛抱だ」
「人形の体なんて!」
じたばた暴れかけたので抑えさせた。シャツの併せから覗く金の鍵は今は陰に入り革紐が揺れている。
「食事は?」
「不要だ」
「それでは自分だけ頂くので」
ルドルは馬に干草をあげにいってから自分の朝食の準備に掛かった。
先ほど、窓の中の二人を見たらどこか幸せな空気が流れていた。それは誤魔化し様も無い事実であり、悪魔自身が見つづけたキラという女の生き様を手に入れ様と目論んだ男自身の心が、やっとで二人は一生愛し合える相手を手にいれられるのかもしれないという願いと、互いの愛情への望みを垣間見た時だった。
それを無視してルドルは朝食作りを済ませてパンと目玉焼き、山羊乳とハーブの野菜を食べる。
多くの愛の心を犠牲にして来た悪魔が本当にキラを愛し続けるかは分からないのだから。
だが光が射す中で交わされた二人の視線は、それがごく新鮮でもあり、自然な物に思えた。元から光り輝いていた金の鍵だ。宿った者が悪魔の心だと自分達が捕らえているだけなのか、片一方の側面だけを見ていても分からない。それが愛の形だと面と向かって男から言われてしまえば、感情ある人形を作ったものの責任として最高位の上にある愛に人形を生きさせる事は親としては当然させるべきことでもあるからだ。頷かざるもえないのかもしれない。
これはキラ自身がどうしたいのか。それが問題なのだから。もしも失わない覚悟があるのなら、一生それはいたい場所にいさせてあげたい。
「で、あんたは何者なんだ」
「名はお前が言った通りだ」
「悪魔なのか?」
「ハハ、お前から見れば魔的な存在という事か」
「キラ。お前はどうなんだ」
「分かってる筈だわ。共にいたいっていう事が」
複雑な心境のままルドルは食器を片付けに行った。このどれ程かでキラが言い方を男から得たらしく、彼等が同じ種類に見えて自分には立ち入れない気がした。見るたびにどんどんそれを感じる。では、自分の心はどうだ?
ルドルは初めてキラを失うかもしれないという感覚に向き合った。彼女を三年間掛けて創り上げたことや、感情を教えていった事、バレエをクビにされたと泣いて帰って来たり、愛情の縺れの中心になって帰って来たり、心が壊れたから帰って来たり、魂を入れ続けたこの十一年間はルドルとキラの尊い時間だった。
「………」
ルドルは手を見つめ、立ち上がって出て行ってしまった。
キラは追いかける事が出来ずに首を極限まで振り向かせて背を見て、ドアの先の明るい原を林の方へ馬で走らせて行ってしまった。
「怒ったのよ。彼」
キラは顔を戻し、溜め息をついた。
「罪悪感って分かる? 今まで育ててくれた親から離れる罪悪感よ」
「さあ」
「愛のために生まれた貴方なら、分かるはず。今に」
鍵は立ち上がり彼女の前に来て、頭を抱き寄せた。
「……ずっと共にいれる」
彼女は目を閉ざし背に片手を回し、ずっと闇の中で聞きつづけた静かな囁き声にそっと頷いた。苦しめてきて、それは焦らしてきていたという事だ。こうやって会えるまで。彼も、どんなに待ち焦がれつづけた事だろう。
悲しみなどを餌にして来た彼が、本当にこれからその逆の力としての終わりの無い愛をくれるというのなら、彼を選びたい。
蛇の目
男は小屋を出て、途端に金の大蛇になり鱗が眩く陽に照らされ一気に原を進んで行った。
林はルドルをカモフラージュで隠しどこにいるのか分からなくさせるが、今の内に見つけ出して心を操る必要がある。あの鍵を奪われてなるものか。
河が横たわり眩しさに蛇は目を細め、男に戻ってルドルの背を見た。馬を放っておいて木の幹に泣き付いている。
どうやらあれは自己の中のキラへの愛に気付いてしまったのだろう。
ルドルは顔を拭ってはばしゃばしゃと河で顔を洗い、横で水を飲んでいた馬は迷惑な主人を見てから顔に跳ねた水をいななきながら払った。それでドンッとルドルのケツを顔で押し河に落としてしまった。バシャンと水に塗れてルドルはバシャバシャ馬に水を掛け、馬は怒って前脚を掲げて土をバシバシ後足でルドルに掛けまくり、ルドルは叫んで腕でかばって叫びさっきから馬と遊んでいる。
大蛇に戻って蔦這う木の幹をするするあがって行き、木の間から様子を見て太陽を見た。夜行性の蛇はとぐろを巻き、木枝の上でねむりについた。
夜、乾燥した仕上げ前の腕のままキラは二人を探しに出ていた。
男の馬で林を探し回り、星光りと月が明るい。
ルドルは川辺にいて、静かに涼んでいた。
「ルドル」
彼は顔を上げ、彼女に微笑んだ。
「鍵を壊さないで。彼といたいから。お願いよ。また、傷ついて帰って来たらなら修理してほしい」
「その不安があるのか?」
「無いわ」
「どこへ行くつもりだ」
「分からない。でも、幸せな場所のはず」
ルドルは視線を落とし、相槌を打った。
「いつでも帰って来い」
静かに木の上から見ていた蛇は、月の光も届かない場所で葉の裏にいる。
キラは立ち上がり、馬の手綱を引いて歩いて行き肩越しに彼を振り向いた。
「今までありがとう。ルドル。生んでくれたこと、愛を教えてくれたこと」
ルドルの背は何も言わず、キラは俯き、顔を戻して歩いて行った。木々の間に進んで行き、ルドルは最後まで振り向かなかった。見送る為に振り向けるほど、彼が気付いた愛はまだ心強くは無かったからだ。
馬が凹んでいる主人の背を頬で撫でてやり、その勢いが強くてバシャッとルドルが河に突っ込みのめり馬は停止してしたが、何ごとも無かったかの様に戻って行った。ルドルは派手にくしゃみをして、顔の水を手で拭った。
崖まで来たが男は見当たらず、しばらくキラは海原を見つめていた。
いつの間にか横に男がいて、彼女は目を閉じ彼の肩にこめかみを預けた。引き寄せられる中の静かな潮騒。今は安堵して、砕ける飛沫さえ小夜曲だ。
男は彼女の鍵に手を掛け、キラは瞼を開き海原を見つめた。
彼はもう一度鍵を回し、この体で受けさせつづけてしまった悲しみの記憶を鎖させて、そして顔を上げたキラの首に革紐を掛けた。
肩の継ぎ目に微かな肌触りを残したまま、彼女の肩に腕を回し引き寄せた時には金の鍵は形を変えてハートの形の鍵に戻った。
渦巻く潮の香り。心落ち着かせる海の音。これから何処へ行くのか、何処へ向かうのというのか、愛情だけは変わらない。変わらなく、そしてずっと続いていく。
肩にキラは触れ、ルドルとの八年間の記憶を触れるごとに思い出せる為に仕上げもせず、残す事にした。また気が向けば、遊びに来たと理由つけて会いにいける気がするから。
「家族はどうするの」
「私の分身がいる。まだ舘で眠っているが、今に目覚めて日常へ帰っていくことだろう」
キラは頷き、彼を見上げ金の瞳が静かに光った。彼等を見ている月光で。
彼は微笑し、彼女も綺麗に微笑んだ。
風の声を聴く 光と影の乱舞する中で 鮮やかな葉をつける木を見つめ
風の心を聴く それまでの愛は優しく光りを宿し
そしてキラへと温かく返り咲く 既に苦ではない 既に悲しみではなく清らかさ
空の中にある 記憶が降っては流れさせる 涙と共に必死になりすぎた素晴らしい愛の時
そして新たな愛が始まる 風の様にキラを包み 安堵とさせる もうこれからは
<終り>
夜の鍵 La cle de la nuit