ラビダの竪琴


Harfa Rabid 20120120

 深夜。
薔薇の踊り子ラビダはサーカステントの中、蝙蝠の群を生薔薇の花に変える魔術を一人、訓練していた。
他には、檻の中に動物達がいるだけで人はいない。
団員達も全て今は出払っていた。
スタイリッシュな黒レースレオタード衣裳であり、胸部に白フリンジと黒の蝶ネクタイがついている。手首のフリンジグローブに金の釦が光っていた。グレーラメタイツの足は、鋲が打ち込まれたくるぶしまでのブーツで、鋭いヒール横にサーベルが立った。
それをかざすと、くるんと回してシルクハットの中の蝙蝠達が出て来た。
群青シルクのヴェールをさっと空間に広げ引くと、黒に銀粒のアイマスクの中の彼女の瞳が咄嗟にサーベルの柄でふっとシルクを青い鳥の様にした。
生薔薇が舞った。
蝙蝠たちは自由気ままに飛んでいる。
「………」
やはり難しい。
本来、空間をすい星の様に流すシルクの方へ蝙蝠達が星屑の様に飛んで来て、そしてそれらが赤の生薔薇に変わって宙を舞うのだ。
父のような魔術師には自分はやはり向かないのだろうか。
それでも訓練を続けた。
姉グレンダは手先が器用で、それに猛獣達との信頼関係も深く、手並みも素晴らしい。
とても幼い頃、桃色の衣装を着て髪に銀色の星と背に蝶の羽根をつけて姉妹で踊り子をしていた時代とは、もう随分違う。観客の温かな笑顔をもらい、そして白と銀ラメの縞タイツをとんと上げても、ぴんと伸ばしても、黒いバレエシューズの足で回って見せても握手がわいた。
甘えていられない。訓練を続けた。
檻の中の猛獣達は欠伸をしてごろごろしていた。
練習を終え、蝙蝠たちにエサをあげてから六角形のステージ端に坐った。
膝に頬を乗せ、アイマスクの中の金コンタクトレンズの瞳が観客席ベンチを見つめた。
その横を、鉄塔が立っている。
ランタンを消した暗がりの中、猛獣達の息遣いが聴こえ、そしてラビダは歩いていった。
カツカツと地面を進んでいき、テントの幕を上げさせた。
タッセルを引き終えると引っ掛け、視線を上げる。
銀世界は青く所々光っていて、そして月光が伸びて来た。
一瞬凍て付き震え、白い息が上がって行く。その白い息はキラキラと一瞬で銀粒子に光った。
「ラビダ」
驚いて恋人を見た。
馬術用の馬を雪の中、向こうで歩かせていたようだ。ラビダの彼氏は馬から降りると、薄手の衣裳の彼女の肩に、テント入り口横にある外套をサッと掛け包んだ。
「動物達と会話でもしてたのか」
「ええ」
落ち着き払って彼女は言い、まさか道化師以上の訓練をしているなどと、今は母以外には知られたくは無かった。
今年で十四歳のラビダはまだ父から許されていなく、厳しい伯父ときたら全くその点で相手にはしてくれない。
ラビダは可愛らしい顔立ちをし、そして澄み切った声は小鳥の様に歌い、伯父が指示するどんな難しい舞いも習得してみせる。
体は柔軟なのだが、何しろ手先だけがどうも心許ない。密かに小さな頃から魔術師の父に憧れカードを練習したりしても、うまくいったためしがない。
竪琴を繊細に弾けるのに、魔術や手品がとんと苦手とくる。裁縫だって得意だ。刺繍も母に習いつづけ、姉より女性らしい部分が多い。きっと、普通の人より器用なはずだ。リズム感だってある。向き不向きと考えたらお終いだ。また訓練しよう。
彼氏は腰に結わえ付けてあった毛皮で包まれたポットを出すと、ステージ端に坐るラビダの前で開けた。
温かなホワイトソース野菜スープが湯気を上げ、ラビダは笑顔になって共に食べ始めた。
「おいしいわ。どうもありがとう」
彼氏も微笑み、スープを食べる。
蝙蝠たちは遥か上の鉄枠に停まっていた。
彼氏は横目でちらちらと彼女を見て、またスープを見た。
実は今、愛する彼の踊り子のラビダに衣裳を作らせている。団員達は誰もが自分たちで衣裳を裁縫し、思い思いのものを身につけた。最終的にオーナーがデザインは大丈夫か、サーカスの意向に合っているかを判断するのだが。
彼はオーナーに許しを得て、さすがに裁縫が得意では無いので大まかなところ以外は女の団員が秘密で縫ってくれていた。オーナーは喜んでいた。それを渡して、それにこれまでこつこつ溜めてきたお金で指輪を買い、ステージの上で彼女に求婚すると決めている。
チュチュ衣裳で、そのチュチュ部分が孔雀羽根のやつだ。白いビスチェは皮製で、しっかり彼女の柔らかな身を包んでくれる。それと、銀レースのアイマスクには白孔雀の羽根をトップにつけるのだ。胴の編み上げに細いビロード黒いリボンが付き、そして腕を包むのは黒レースのロンググローブ。


 昼の二回公演が本日は終了し、夜の公演も無事終えるとグレンダは夜の訓練をしおえてからぐっすり眠っていた。
彼女は夢から目を醒まし起き上がって、一瞬震えると窓を見た。
思い出した。カーテンを閉めずに、綺麗な星空を見ながらいつのまにか眠ってしまっていたのだ。
しばらくは毛布を引き上げ、窓外の星空を見ていた。
夢は、脳裏に残っていた。星空を透かして思い出される。
雪の上に落ちている生薔薇。それはロゼット咲きの大振の薔薇で、どこか寂しげな態だった。向こうでは多くの子ども達が耳当て付の帽子を被って外套に身を包んで遊んでいるのに、自分はただただ薔薇を見ている。
声も遠のき、響いた。幻想的な女の声が。まるで霧の先から聞こえてくるような神秘的な声は、グレンダを呼び寄せていた。呼び寄せて、帰ってこさせなくする予感だけはしていたから、足は動くことも出来ずに、振り返った。
雪吹雪が視野を一気に奪い、生薔薇が舞う中に見かけない女がいた。長身の自分より背が高い女で、その彼女は北欧の出なのか金髪だった。
手招きされ、彼女は消えて行った。繊細な口許は何かを言いつづけたまま。
グレンダは起き上がると窓辺へ歩き、カーテンに手をかけた。
「……?」
窓の外を、サーカステントのある方向からラビダが歩いてきている。
ドキッとして、その背後を見た。
彼女の月光に照らされるコサック外套の背に影を射しているのが、あの夢の中で見た細かい金髪ウェーブの女だった。吹雪の無いなか、思った以上に氷のような冷たい顔立ちをしている。
ラビダ、と声を掛けようとした瞬間、彼女の手から生薔薇が落ち、ラビダはそれを見おろした。
雪の上の薔薇。
自分と、夢と同じだわ。
ラビダは薔薇を拾うこともせずに、しばらくして誰も居ない前方を見た。ただただ愛らしい顔も無表情のままに。
休憩時、幼い日のことを懐かしんでいた時と同じ目だ。寂しそうで、伯父が指摘した通り神経質な目元をしている。
彼女の背後に立つ女が、一瞬でこちらを見て来た。
目が合ってグレンダは口を噤み、目を鋭くして黒皮のマント外套を手にして部屋を出た。
廊下を進み、リビングから石の通路を通って外への鎧戸を思い切り開け放った。
だが猛獣より鋭くなっていたグレンダの目は、一瞬を置き短く叫んでラビダに走り寄った。
彼女は気を失っていて、金髪の女はその彼女を抱き上げていた。
「あなた、誰なの?」
彼女は無言のままグレンダを見ては、一瞬で消えてしまうかもしれないと思ってラビダを奪い返す為に腕を伸ばした。
その瞬間、驚いて叫び掛けた。目の前が赤い薔薇の花びらと香りに占領され、そして凍て付く気温に嗅覚を奪われた瞬間重さでよろめきラビダを支え、頬を掠めた薔薇の花びらの先、女は消えていた。
そして、どこかいつだったか異国で聞いた小夜曲が流れた。彼女が歌っているんだ。あの女が。
雪だけの世界になっていて、脳裏に一瞬で甦った。
薔薇の花びらと共に、孔雀の羽根を舞わせはしゃいだ姉妹の記憶。小さな頃で、そして彼女達は竪琴を奏でる異国の女性にその時、懐いていた。薄れ掛けては消えて行った美しい記憶……。
ラビダの頬を撫でて目覚めさせる。
「大丈夫? 起きて。父の魔術師の新しい演術相手かしら」
「姉さん」
花びらの赤はどこにも無くなっていた。ラビダが落とした薔薇は足元、ブーツの横に落ちている。ベルベットのような光沢を受けて。
「くしゅん! 寒いわ。さあ、入りましょう」
さばさばした性格のグレンダが言い、ラビダがまだ頭がぼうっとしたまま頷き歩いていった。
一度振り返る。誰もいない……。
寒いリビングを通り、厨房へ来ると温かなココアを作りはじめた。
「何か、隠し事でもしてるの?」
火を確認しながらグレンダが言い、ラビダは首を振っただけだった。
「ママに心配だけは掛けてはいけないわ」
「大丈夫よ」
それでもラビダ自身が彼女にだけは言ってしまった事を母はどう思っているのだろう。いつも何ごとにも反対すること無かった母は今、この深夜を眠りに就いている頃だろう。
「何か怖い夢でも見るの?」
「夢……綺麗な夢なら見るわ。竪琴の練習、思う様に進んでないからね」
まさか、呪われてるんじゃないかと思ってグレンダは肩越しにラビダを見て、ポットからココアを注いで持って行った。スティックパンも持って行き、二人で浸しながら食べ始める。
温かいココアは多少苦めだが、心を落ち着かせた。
「どうしたのよ。姉さん、顔が蒼い」
「あまりにも美味しくて青ざめてるのね。さっきは喉が渇いてたの」
「おかしなグレンダ」
ラビダは笑い、姉の手を見た。自分より多少大きい程度の姉の手は、実にそれでも逞しく思えた。細いつくりをしているのに、彼女の手にかかると猛獣使いのマジックかのように、ステージ上は華やぐ。
焦りなのだろう。それも、足が地に付かない焦り。まるで自分は舞い続けているかのような感覚だった。
夢と言われて、思い出す。
誰かに言った事も無ければ恋人にも言った事は無い、竪琴の夢。星を背に、金の竪琴を奏でるのは白の長衣を着た女性で、春の風にゆらゆらと細かいウェーブの金髪は揺れていた。彼女は歌う。懐かしい小夜曲を。言葉も分からないその歌を。
共に聴いていた姉に言うことも無かったと今思った。
見始めたのは一ヶ月前からで、竪琴の難しさにいきなりぶち当たった時の事だった。いくらでも音楽には壁が立ちはだかっていて、それを超えた咲きの崇高な旋律を、そしてその先の舞いを体現する事。息詰まった果てに見た完璧な演奏の夢は、彼女を悲しくさせたのかもしれない。
だが好きな夢だった。大切にしている夢でもあった。
「あなたラトビアに入って予防接種もしたのにね。熱でも出たら大変だわ」
あまり夢とは掛け離れたグレンダは、十四歳の妹がジフテリアや破傷風、百日風邪とポリオやB型肝炎の予防接種を時期や訪れる国、各所ごとで受けて来たラビダを見てから彼女はまた可笑しそうに笑った。
「今日はあなた、良く笑うわね。体も温まったらよく寝ましょう」
「ええ」


 ラビダの恋人で二十歳の青年は、オーナーに言われた様に深夜彼女の様子を窺っていたら、マジックの練習をしていたので困った事になったと思った。
既に完成した白革ビスチェと孔雀羽根チュチュの衣裳は今目の前にあった。仮面も、シューズも、タイツも、指だしレースグローブも揃っている。
あの彼女の竪琴がよく似合う。
「どうしようかなあ。渡す事」
実際、明後日の朝に彼のプロポーズを事前に義兄から知らされるラビダの母は慌てふためくだろう。
彼は最高の踊り子である愛するラビダを分かっている。ステージ上では儚さに加えて完璧な踊りを魅すラビダは一際輝いている。
まさかオーナーに明日の朝、報告することは躊躇われた。
「どうすればいいんだろう……」
彼はテントの中でステージ中央、大の字になって骨組み細部を見上げていた。
そのままうとうと眠ると凍えるので、とっとと起き上がって歩いていった。
猛獣達は静かで、あまり物音はしない。彼も彼女へ渡す贈り物の入った包みを抱え込んで静かに出て行った。
「………」
何かの旋律に、彼は立ち止まった。振り返る。一瞬孔雀の影かと思ったが違った。
薔薇が花びらで舞い、そして影は風に揺らめくながい髪だった。
振り返ると、竪琴を持った女が立っていて彼は見上げた。
「………」
爪弾いている。
美しい音が鳴る。
それは透明なクリスタル枠の美しい竪琴で、澄んだ音色を響かせた。
不思議そうに彼女を見上げ、こんなに凍て付く寒さの中、まるで幽霊の様に薄手の衣裳が風に靡いていた。月光を透かす程の薄さであり、美しい胸部に薔薇の花びらが落ち、そして金装飾の蛇が光っている。
首を傾げ、遥かな記憶がかすめた。
その瞬間、危険を感じて彼は走って行った。
旋律が耳を掠め、音楽の精霊にあの幼い日の秘密の姉妹が見初められてしまったのだと分かった。
その中でも、竪琴を任せられた繊細なラビダを彼女は連れ去るつもりだ。
幽霊? 精霊? 女神? 分からない。
だが、初夏の宵が深まらない内に団体を抜け出した姉妹の後を追っていった彼は知っていた。彼女達がどこに向かって行き、そして誰に会いに行っていたのかを。
明るい夜の林の中、草地に座り美しい女性の竪琴と小夜曲を彼女達は聴いていた。
そして彼女達は思い思いに蒼い夜のもと、踊っていた。軽やかに、愛らしく踊っていた……。
その横にいたのが、あの女だった。
息を切らして走って行き、姉妹のいる鎧戸に手を掛けあちらを振り返った。
薔薇が香った。
あの時、初夏の宵に女神のような美しい女から薫った薔薇。黄緑色の瞳は林の心そのものであり、そして淡い唇は薔薇そのものだった。
戸を開け走って行き、恋人の部屋を開けた。
「ラビダ」
彼女はいなかった。
カーテンが開けられ窓も開き、そして椅子には竪琴が立てかけられている。
「ラビダ……」
足を踏み出し、躊躇ったものの走って窓辺から下を見た。
一瞬叫び掛けたが、それは数多のロゼット先の大輪の薔薇だった。それが雪の上にまとまり落ちているのだ。
ラビダはいない。
彼は包みと共に竪琴を持ち駆け出そうとした。
だが、竪琴を見て、そして衣裳の包みを見た。
それでも走った。
ステージ上で彼女は悪戦苦闘していた。魔術師になりたがっていて、どう見ても向かない手先はステッキを落し、カードをバラバラにさせ、薔薇を突拍子も無い方へ飛ばさせ、最後には蝙蝠達が好き勝手に飛び回るのを彼女は見上げるだけだった。
踊り子として、竪琴奏者として立派になっていく事を見守って行きたい自分と、その場から逃れたがっているらしいラビダ。
「どうしたの?」
すれ違ったグレンダが何故か妹の恋人がいるので血相を変えている彼を見た。
「ラビダがいない。グレンダ」
「え?」
「音楽の女神が彼女を連れ去ったんだ」
「は?」
グレンダは笑いかけて、だが妹の恋人は走って行ってしまった。
「待ちなさい!」
彼女も走って行った。
 サーカステントに来た彼等は、どこにもラビダがいないために雪を蹴散らした。
「馬を連れてきましょう」
「ああ」
すぐに厩から馬を連れて来て、それに飛び乗って進んでいった。
街中を探すのだが琴の旋律もしなく、人影も無い。
馬は雪を舞わせて走って行き、雪のそれは軽やかに踊るラビダかのようだった。
「その金髪の女って、あなたも知ってたのね。秘密の時間だったのに」
「オーナーには言わなかった。二人が訓練の厳しさの慰めにしてたことを知っていたからな。それに……」
彼は言いよどんだが、それでもグレンダに言った。
「あいつ、きっと父親と同じ魔術師になりたがってる」
「え?!」
驚いたグレンダに馬が驚き、彼女は一瞬で落ち着かせてからひっつめている黒いロングの髪毎小さな頭を振った。
「分かったわ。きっと、あの子も夢を見ていたんだって言うこと。竪琴から逃げようとしていたから、その彼女が怒ったのよ。小さな頃慰めた竪琴を忘れるなんてって」
「女神は怒ると恐いな」
グレンダは若い団員達を集めに向かった。


 夜の林を馬で疾走させた。
馬車が通る林道は踏み固められた雪が跳ね、黒い木枝は明るい月が照らす先に、動物達がたまにいる。
グレンダは馬から降り、進んでいった。
ランタンの明りがぼうっと照らし、踏み鳴らされていない雪の上をしゃりしゃりと進んで行く。
毛皮に囲まれたシャープな顔立ちは、割と暗がりに慣れきっている。普段猛獣達を調教し躾ている猛獣使いのグレンダは動物達の息遣いにも敏感だった。嗅覚はいまのこの凍てついた中、頼りにはならない。
それでもやはり、繊細な旋律の記憶に連れ去られた妹ラビダの気配も無ければ、彼女を連れ去ったと思われるあの美しい女もいない。
記憶を探る。
林を歩いて行くラトビアはバルト三国の一つであり、森林はマダニの感染地なので長袖長ズボンを履いたほうが良かった。寒暖差が激しいので気管支が乾き易いし、様々な予防接種有り、冬場は-三十℃になるものの海に面しているので夏場は湿度もある。それらの理由でラトビアを訪れるのは極寒の冬場だった。猛獣達もいるし、動物達や団員達の定期予防接種を考えても、できるだけ巡回に負担と問題を生じない時期を選んでいる。基本的に水道水も飲めないので、夏場の汗を掻き水分が必要な時は水道水が飲める場所や水のできるだけ安価な国へ回る事も必要だった。
なので、春から初夏の林の記憶があるのでヨーロッパの中でもより西側の国だった筈だ。
今は冬季のサーカス団巡り。
やはりこの林では無い、どこの国だったろうか。移動サーカスはヨーロッパ各地を巡回する時期はあり、どの国も言葉が通じなかったために、幼心に巡った国毎の美観から覗う国意識が脳裏に収められていたか、厳しい訓練を続けていたので、特定の記憶は駆け巡り乱舞している。クラシックに乗せるかの如く華麗に思い出される様はたまにメリーゴーラウンドの様でもあった。
明るい林で出会った美しい女性は、姉妹で泣いて歩いていた先にいた。滝がきらきら光り、滝壷は緑と木漏れ日が跳ね返っていた。
岩の彼女は金の竪琴を起き、そっと白い衣をかえしながら進んできた。爪弾いていたその細い指先で彼女達に触れ、そして優しく微笑んだのだ。
そのながくウェーブ掛かる金髪も、胸部の繊細な金蛇の装飾も、その頬に光が跳ねる繊細な笑顔も少女達を虜にした。
言葉は通じなく、そして聴かせてくれた。
美しい旋律に乗せた歌を。
その時代は母は寝込んでいて、母国にいた。なので彼女達は母にあえない日々が寂しかった。なので二人はまるで美しく優しい女性を母の替わりの様に思っていたのかもしれない。
彼等が時間を過ごしたのは、その国のその地区にいさせてもらっていた三ヶ月間のことだった。その時はサーカステントでの演術だけに留まらず、固体で呼ばれれば宴での道化師をやったり、舞台で魔術を魅せたり、リビングに呼ばれ踊り子と小人達が踊ったり、街角で鼓笛隊と孔雀が踊ったりもしていた。
春から初夏をに掛けてのとても美しい時期の事だった。
グレンダは腰元の長い鞭を手に回し持ち、慎重に進んだ。
黒いグローブ上の指輪が光る。繊細な枝先の星を見上げる。
だが……、これまで成長しても回り続けたヨーロッパ各地の中でも、他に聴いた事の合った言語だっただろうか。
独特であり、光の様な言語だった。
「Poupi sairuy poiphy safiuyu pesafarake soruha
zain piuri neroe ruttopi zaiu robetto forukansa,,,」
記憶にある歌がグレンダのハスキーな声から発された。
「彼女だけの言語?」
不明だ。
精霊の歌だったのかもしれない。実際今思ってみれば、彼女は林以外であった事は無かった。彼女達は秘密で厳しい伯父のいない所で大人の団員がくれた甘いお菓子を持ち寄って、林を訪れた。
薔薇の時期と夏に抜け落ちる孔雀羽根の時期が混ざり合うと美しく舞わせた。
輝く記憶の筈だ。
あのラビダの背後にいた時の凍てついた顔は、確かに同じ女性だった。
あちらこちらでランタンの明りが揺れた。サーカス団員達の顔が浮かび上がり、コザックコートの胴に火影がゆれた。軽快に木々の間を飛んできたり、空から回転して降りてきたり、木の幹を蛇の様にぬっと伝い降りて来た団員達もいて雪を舞わせてやってきた。
「お嬢。向こうから歌声が」
馬を引いて来た団員から手綱を預かり、飛び乗り走って行った。
激しく雪を舞わせ、馬が雪に足をとられながら走って行き、グレンダは開けた場所で降り立った。
彼女は黒い釦が並んだ真っ白いコサックコートに身を包んだラビダを見た。
耳当て付の黒い毛皮の筒帽子を頭に乗せ、木々に囲まれた場所にいた。
「ラビダ」
頬の薔薇色に染まる顔立ちがふんわりした髪に囲われる赤い唇が、震えていた。
「思い出したの。あたし、約束をしたんだったわ。姉さんが眠っていたから一人で林に来たの。それで、鏡ばかりに囲まれて、林の緑が映る不思議な空間で、サーカスのじゃない、真っ白い孔雀がいた。あたしは彼女に言ったわ」
黒のロングブーツの足を進めたラビダが、向こうを指差した。
「いつか成長したら、貴女の様に竪琴を奏でる様になりたい。だから、とても貴女の声が欲しいって、言ったのよ。美しくて繊細な歌声で、それで」
グレンダはラビダの腕を持って言った。
「やめて。あなたの声は元からあなたの声だわ。小さな頃から歌の練習をママから教わっていたのはあなたじゃない。幼い頃に会ったあの精霊の様な美しい人の声と、あなたの今の歌声は」
「でも逢いたいの! 林で歌っていれば彼女が現れてくれるはずだし、竪琴を教えてくれるかもしれない。伯父にも父にも竪琴だけ認められて無い。歌声も、舞いも称えてくれても不安なのよ」
「だからって父の道を辿るのね。どんなに彼自身が味わってきた厳しい挫折が大きいか分かって無いのよ。今にあんーなーにおっそろしい顔になっちゃうわ」
「んもう!」
ラビダは怒っていつでも楽天家な部分が強い姉の手を離させた。
グレンダは驚いて一度ランタンを取り落とした。そのことで、真っ暗になってしまった。
星明りが射すものの、木々の影は枝垂れる林の中を、気配を濃密にした。
結構馬で来たから、団員達は遥か向こうかもしれない。
ラビダを引き寄せ、辺りを見回す。
ふと気づき、小屋があることに気づいた。彼等は歩いていきながら言った。
「あんたの恋人が心配してる。彼があんたを認めてくれてるのに。ママもね。あたしだって。だから、少しは頭を温めて頂戴」
小屋を見上げると、人の気配があった。
「幽霊が出たらどうする?」
「姉さん、鞭持ってるじゃない」
「相手は危険な猛獣じゃ無いわ。あの女神だと思って持ってきたのよ。幽霊だなんて話は別。エサの肉だって持って無いし」
煉瓦の壁にうっすら雪が張っている。
見合してから、団員を呼ぼうと思い、雪に音が吸収される前に空に向かって笛を吹いた。
甲高い音が林に響く。
だが、驚いて向き直った。
扉が開いたのだ。
暗がりの先を見て首を傾げ、彼女達は進んでいった。
その瞬間、艶の走る黒い石の空間に囲まれた場所だった。辺りを見回し、羽根を広げた何かを見た。
「孔雀……」
今の時期なのに、しっかり生え揃った飾り羽根の長い色孔雀がいるのだ。孔雀飾り羽根は、春から初夏に羽根を広げる。夏に抜け落ち、秋は飾り羽根が無い。冬のうちに伸びてくるのだ。気が早い孔雀は冬にも短い羽を広げる事もあるが、この孔雀、不思議だった。
その背後から白銀毛並みのペルシャ猫が音も無くあるいてきて、黒い石の床にも映っていた。
猫と孔雀を見ていた二人は、驚いて見上げた。
咄嗟の事にグレンダが鞭を引き延ばし構えたが、それはやはりあの女性だった。
だが、黒い衣裳を身につけている。やはり裾がながく薄手のものだ。胸部の蛇が、様子や顔立ちを変えた古めかしい金装飾になっていた。
「あなたは……」
彼女は、頬を濡らしては表情も無く彼女達を見つめた。
途端に、あの記憶に包まれた。
輝いた緑の中での記憶。
「連れ去りたいの? ラビダはあたしの妹。サーカスの大切な踊り子だわ」
まるで彼女の悲しい心が表れたかのような黒い衣裳は、羽根を広げた孔雀羽根に彩られては鮮やかなものだった。
ラビダは感覚がぼうっとしているのか、歩いていっている。
一瞬をふらつき倒れこみ、グレンダが腕を伸ばす前に彼女が支え、間近でグレンダを見た。
声が出せないのか、その眼力だけ見て、何を言っているのか理解できた気がした。動物達が目で訴えてくることがある事と同じだった。誇り高い眼をしていた。
それでも妹の腕を掴み引く。共に思い出した。
本当に嬉しそうに踊っていた季節の事を。サーカスの訓練が辛くて逃げられなくても、あの時は鮮やかな緑の中で幸せだった。
「ラビダ!」
ラビダの恋人が来て扉が背後で開けられ、グレンダがラビダを奪い返し振り返った時、雪に転がった。
周りを見回す。
精霊か悪魔か分からないが、消えていた。
「………」
三人で見上げた。
無数の生薔薇。
繊細に香り、そして、雪へと消えて行った。


 明日の最終公演を前に、サーカステントの中は訓練が続いていた。
誰もが昨夜の事をグレンダ達の伯父や両親には言わなかった。
桃色ビロードの衣裳で薔薇の踊り子の練習していたラビダは、ふと顔を上げて歩いていってしまった。
グレンダは猛獣達を躾ていて、どれほどかの団員達は骨組み確認をしていたりする。
伯父は明日、朝に姪ラビダの事を家族に知らせるので機嫌が良かった。
彼女は銀の装飾を光らせ、進んで行く。
シューズや腕の飾り、チョーカーやタイツは銀スパンコールで、今はアイマスクはつけてはいない。
彼女がテントを出ると、雪かきが終えられた街並みに、あのペルシャ猫がいた。サーカスの孔雀は今鉄塔の上で眠っていた。だがペルシャ猫といた孔雀はいない。
感覚は、白孔雀に変わったのだから雪に溶け込んでいるんだわと、おぼろげに思っていた。
ラビダは額に大きな銀の星をつけた姿で進み、猫の横を見た。
竪琴が落ちている。
しかも、透明なクリスタル製の……。
彼女は不思議に思ってその、随分とずっしりと重い竪琴を両手で抱え上げた。花瓶に水が入ったぐらいの重さはあった。
世界はきらきら光っていて、また見る。
猫を見たが、いつのまにかいなくなっていた。
またテントへ引き返すために歩いていき、外套を纏ってから歩いていった。
小屋まで来ると温かな格好に着替え、母のいる宿屋まで歩いて行く。
しばらくして到着すると、布に包んだものを母に見せた。
「幼い頃に会った女の人にもらったの。きっと。あたし、竪琴諦めずにやっていこうと思うわ。ママにも、綺麗な演奏を聴かせて上げたいから。その人ね、いつでも癒してくれていたの」
彼女の母は頷き微笑んだ。
「ちょっと弾いてみるわね」
彼女は微笑んでから椅子に座り、それを奏で始めた。紡ぎ出される音に目を閉じ、透明になって行く心のままに奏でた。それは、脳裏にどこかの国の林が浮かんだ。あの記憶をすぐさま思い出せる。夢の中の様な感覚だった。
緊張感も無く、心が安らぎ、そして歌ってた。
奏で終わり、瞳を開いた。
「テントに戻るわ。ママはゆっくりしていて」
ラビダは微笑むと、竪琴をまた包んだ。
雪の中を歩いていき、目は彼女を探していた。
声を失ったのか、本当に自分に与えたからだったのか、それとも自分達が創り出していた春と初夏の中の幻想だったのか……。
夢でならまた会える感覚はあった。
クリスタルを奏でればいつでも見えて来る。あの美しい林。そして澄んだ歌声と、あの女性と、グレンダの笑い声。

 グレンダは白獅子に寄りかかり腕を掛け、手鏡を見ていた。
金のタッセルを手の甲で揺らすと猿が目で追い掛け始める。ビロードの垂れ幕を弧を描かせまとめているそれに飛び猿が遊び始めた。
黒シルクのレオタード衣裳にシルクハットを斜めかける彼女はルージュの唇から歯を覗かせ、獣の様にシャンデリアから降りて来た大蛇に低い声で威嚇した。
蝶ネクタイの横から方にひっつめられた髪が流れ、キャンドルの艶を受けている。
大きなビロードクッションに網タイツの長い足を乗せている彼女は、ハイヒール先を交差してから獅子の白い毛並みをショートグローブの手で撫でては目を閉じた。
ライオンのメスは今花が装飾された円筒でトップがアーチ型の檻の中で眠っている。
あちらで、一人掛けソファーに足を曲げて収まっているのは道化師の女で、白いレースの扇子を煽いでいた。
金の煙管を吸い付くと、溜め息混じりにグレンダの従兄弟を見た。
その従兄弟はガーガーうるさくイビキをかいていて、二人は眠っていられずに仮眠から目覚めたのだ。二十分前に。
従兄弟は臥体がいい分肺活量も半端無い。少年時代は金枠の中の水槽芸で綺麗な花や飾りが浮く中を息継ぎもせずに泳ぎ踊っては観客を魅了した。それも十七を超える辺りから筋肉が着き始めいよいよこれは拷問男に見え始める勢いであり水中芸からもう一つの演目の蛇使いを本格的にしはじめていた。
何しろイビキは巨大なので、近くでは仮眠できない。
カチャ
扉があけられ、そちらを見た。
ラビダだ。
「ラビダ。どこかへ行っていたの?」
「ママの所へ」
彼女は布から楽器を出しながら進むと、狭い空間の中、天井から下がる大振の銀製香炉に火を灯して香らせた。
ハーブが練り込まれているためにその香りのものだ。
しばらくすると従兄弟のイビキがなりを潜め始めた。
彼女は絨毯の床に座りソファー座面に肘を掛け、片脚を立てて坐るとクリスタルの竪琴を構えた。
「どうしたのよ……そんな高価そうなもの持って来て」
「ええ。落し物か贈り物のどちらかよ。預かっているつもり」
「それって、男達の話の?」
女道化師が嬉しそうにラビだの所まで来た。
「へえ! 綺麗だわ」
暖色の中では透明な竪琴が光で露になり、彫刻が繊細に覗える。
獅子が顔を上げ、グレンダは頭を撫でた。
「弾いてみてよ」
グレンダが言い、彼女は目を閉じて息を着くと爪弾き始めた。
旋律は心がリラックスし、いつもの彼女の指先の強張りを和らげさせた。腕は良いのだが、絶対に何かの壁にぶちあたる楽器演奏は難しい戯曲毎に難易度が上がって行く一方だ。ラビダには多少の癖があり、それを克服しない事には。
確かにグレンダが聴いていて毎回完璧な演奏に聴こえるし、ギャラリーからの拍手も反応も良いのだが、彼女自身も伯父もまだまだ満足出来ていなかった。
目を閉じて旋律を奏でると、広がる情景が彼女を虜にする。
頭に叩きつけた楽曲は何百回も練習を続け、そして滑らかに弾きこなす事をしなければならない。
水が流れるように演奏を続ける。
ラビダの恋人が扉を開け、喜んで進んで行った。
笑顔で空いたスペースに胡座をかくと、演奏を聴き始めた。
グレンダは曲の心地良さに銀鷲が羽根を広げる黒いステッキでハットを横におき、微笑み眠り始めていた。
夢への扉は、緩やかなもので、女道化師も、それにラビダの恋人も、ラビダ自身でさえも誘われて行った。
線から指が徐々に離れて行き、ラビダは眠りに落ちた。
そして、林の中にいた。
雪の積もる林であり、彼女は進んでいく。
白兎が飛び跳ねて行き、そちらから辺りを見回した。
腕にはクリスタルの竪琴。
そして、彼女は見つけた。あの女性だ。ラビダは微笑んで駆けつけた。
名前は分からないし、言葉も通じないが、彼女の前まで来て見上げる。
真っ白の衣裳は雪そのものだった。
楽器を大切そうに抱えるラビダを見て、彼女は微笑んだ。
昨夜の様な悲しい顔でもなく、恐い顔でも無い。夢の彼女だ。
「貴女に声を返したいの……」
だが女性は首を横に振った。
ラビダはラビダ自身の努力で鍛え保ち続けた声だ。
彼女はラビダの頬に指を当て、微笑んだ。
ラビダを見つめてから、彼女はそっと身を返し歩いて行く。
不思議なことに、雪原に羽根の生え揃った白孔雀がいた。羽根をとじると、林の精霊の後をゆっくりと歩いて行く。
不思議でラビダはその孔雀の背と、彼女が林へと歩いて行く長引く裾をおぼろげに見つめ続けていた。
そして雪原を撫でて吹雪き、彼女の髪が靡いて顔を上げた。
振り向いた彼女の頭部に黒馬のたてがみが立つ黒い冑がはめられ一瞬にして銀の馬車と黒馬が現れ、黒馬は額につけられた黒い羽根を一瞬ふわつかせると、一気に天へと駈けさせて行った。
「待って!」
ラビダは見上げ、水色の空を駈けて行っては粒子を飛ばす馬車を見て、涙を流した。
彼女が歌っている。
ラビダは目を閉じ、爪弾き始めた。
奏で合う声と旋律が夢の世界を踊る様に巡る。
馬車の上から白孔雀も雪原で竪琴を奏でるラビダを見つめ、首の方向を戻した。
これから、自分たちの林へと帰るのだ……。
林の精霊は優しく微笑み、粒子となって水色に溶け込んで行った。


 ラビダの恋人ルドルキは、蛇枠の丸い鏡を見ながら目の下にアイラインを入れていた。
上腕に黒いバングルが嵌められ、腰からは黒絹の帯が下がり、黒い蹄がある茶色の山羊足を履いている。尖った黒い爪でカラス羽根のピアスを両耳につけ、蛇ネックレスを首にかけた。
鏡の前から離れると、銀の大振の輪を幾つも回すサーカスの演目の道具を箱から出し始めた。
十センチ台の四つのクリスタルの玉もジャグリングするのだが、それはまだ出さない。
ある種の緊張はずっと続いていた。
今日、ラビダにプロポーズする。
ルドルキは歩いて行き、何度も深呼吸をしてから目を開いた。
ソファの上に置かれた箱を見る。ラビダのための新しい衣裳一色と、それとリングだ。
この今朝、オーナーはラビダの両親や姉にも本日サーカス演術が終了した後に彼等のことを言ってくれている。
ノックされ、返事をした。
「どうぞ」
「入るわね」
ラビダだ。
ルドルキは慌ててクッションを箱の上に置くとその横に座って手を置いた。
扉が開けられ彼女が入って来た。
テーブルの上の銀の輪や、クリスタル玉の入る重厚な箱を見てからラビダは微笑み、ルドルキの横に座ろうとクッションを退かそうとした。
慌ててルドルキは場所をつくってそちらに座らせた。
「今日で冬季のサーカスは最終だわ。伯父にクリスタル竪琴の許しがもらえればいいのに。昨夜は妙な時刻に起きてしまってね。さっきまで練習していたの」
ルドルキは相槌を打ち、珍しく無言なのでラビダは首を傾げた。
彼は腕を伸ばすとサイドチェストの上にあるラッパを手に取っては音を確かめてから置いた。
「可笑しな人。落ち着かないのね」
ラビダは肩を竦めてから小さなメリーゴーラウンドのレバーをぐるぐる回し始めた。
「ねえ。姉がなんだかおかしかったのよ。自棄に私を見て慌てて締め付けていたビスチェの革紐をギュッと締め過ぎてゴホゴホ咳してたり、ママときたら紅茶にお砂糖を十杯も入れすぎていて慌てて気づいて困っていたり、父は咳払いばかり一人で繰り返していて、例の竪琴を練習してはいたんだけれどなんだか妙だったから一人出て来たわ」
回転を止めると、それを置いて台の上のメリーゴーラウンドが回転し始める。下のミュージックボックスも共に鳴り始めた。
「雪の踊り」 だ。あとは「アンダルコ」や「カバレフスキーの変奏曲」、ジプシーの「花の季節」にもオルゴールの円盤は替えられる。
十二いる精巧な馬が細いポールで上下しながら回転していて、ラビダはそれを見つめてから顔を上げた。
「そろそろ戻るわ。練習してこなければ」
「ああ」
ラビダはルドルキも可笑しかったので部屋を出て行った。
オルゴールは廻りつづけ、雪の踊りに乗せ回転しつづけた。ルドルキの感情も廻りつづける様に。
回転する中に、ラビダがいる。
新しい衣裳を身に着け、そして緑に木々に囲まれるメリーゴーランドの周りでクリスタルの竪琴を抱え、演奏しては踊っている。綺麗な仮面の口許で微笑んで。

 黒い衣裳に桃色の薔薇が舞った。
銀色の珠が幾つも跳ねて行くステージは銀色のアイマスクのラビダを微笑ませ、ステッキの先が光る。
蝙蝠達はここぞとばかりに流れ飛んで来てパタパタとサーカステント内上空を螺旋を描き、「決まった」と思っていたラビダは瞬きをして唇を噤ませ、観客の拍手の中上空を見上げた。咄嗟に道化のピエロ達が失敗を悟って踊り出て、おどけている。ラビダは悔しくてステッキを持って地団太を踏みたくなったが抑えた。
今季最後の公演でしでかしてしまった。
繊細なクリスタルの琴を弾き鳴らした感覚は素晴らしく心を落ち着かせ、そして彼女に今までには無かった魔術をする上での必要不可欠な度胸と自信を備えさせたのだ。
やはり厳しい世界なのは分かっていた。
口許だけは微笑みお辞儀をして背を伸ばし、ちらりと叔父である団長を見た。
彼は同じく笑顔を貼り付けたまま次の演目を声高らかに説明していて、一度だけこちらに気をつかってバチッとウインクしてくれた。ラビダは後から怒られる事は承知でくるっと皆の前で回転してみせてから美しく退場していく。
見てくれた観客達にも申しわけ無いわ。ラビダは幕から引くと落ち込んでスツールに座った。
三人の小人達が躍り出てきて飛び跳ねたりリスに玉乗りをさせていて、ピエロ達も周りをきゃっきゃと飛び跳ねている。
「よく頑張ったわ」
「ママ」
彼女は優しくラビダの肩を撫でて微笑んだ。
「申しわけ無いわ。たかを括っていたのよ」
「失敗はつきもの。あなたがずっとがんばっているんだもの。できる日が来るものよ」
「ありがとう。ママ」
公演中なので父親の猿が母親の腕にしがみついている。蝙蝠達がぱたぱた飛んで来た。
「お前達もありがとうね。初なのによくやってくれたわ」
聴こえるわけも無いが蝙蝠達は一通り上を羽ばたくと向うへ飛んでいった。
彼氏が馬を操りながら準備をしていて、ラビダに向うから微笑む。
母親は彼等を二人にしてあげることにして、彼に微笑んでからテント内へと戻って行った。彼氏は緊張してラビダを見てから馬から降り、彼女の狭い背を引き寄せた。
「見てたよ」
「お休みの間に絶対に技を磨くわ」
「俺も手伝う」
「うん」
観客達が沸き、ラビダにくれた温かい拍手も甦って元気つけられた。
「あなたの番ね。いってらっしゃい!」
「ああ。行って来るよ」
彼氏はラビダの頬にキスを寄せ、馬に乗って歩かせて行った。
クリスタルの竪琴を持ちに行く。彼女は馬車からそれを出すと急いで戻り、彼氏の演術を見た。大切に抱えられた竪琴は線が光り、いつでもワクワクする演術に躍る心を映しているかの様だ。
「見ていてね。聴いていてね。貴女の竪琴を、初めてお客様達は聴くのよ。これが今季最後のサーカスでの公開演奏だけれど、依頼があれば個人のお宅で聴かせたいの」
雪の世界に一時和みをもたらすサーカス団は夢の世界を与える事ができる。そのことに彼女達は誇りを持っていた。
厳しい冬の折にやって来てくれる彼等がいてくれると嬉しくて、蝙蝠達を薔薇の花に変える演術が成功していたら良かったのにと思う。
響かせるのだ。琴の音色を銀世界へと。
彼氏の演術が無事成功し、今度はサーカスの目玉である猛獣使いグレンダが現れる前の間の演目。団員達がフェンスを張り巡らせる間を竪琴の演奏に入る。
グレンダがラビダの背後から来て、見送ってくれた。
彼女は姉に微笑み、颯爽と踊りながらステージへあがって行く。
ラビダの竪琴は人気が高いので、彼女がその楽器を持って無いことに観客達は気付いた。透明で抱えた状態では見え無いのだ。
彼女は笑顔でお辞儀をし、他の女道化師達が針金先の青い蝶を揺らしながら幻想的に踊り始める。その中央でラビダは座り目を閉じた。
子供の可愛い道化師達は花をゆらしながら踊っていて可愛らしく、髪をふわつかせている。
ポロンと、爪弾いた瞬間澄み切った流れが空間に響いた。それは温かな息吹の音色であり、心へ輝きを流し込む様な音色。雪原を舞う煌きでもあって、美装された粉雪達が揺れ踊っては季節を巡らせ青い蝶の舞へと変って行く。神秘的な旋律だった。
団長は新しい曲を見事彼女が弾きこなしたので微笑み、頷いている。
フェンスが設置され終えるといよいよ大目玉の時間だ。
猛獣使いのグレンダが現れ、勢い良く白獅子と白虎達がやって来た。
金と銀の装飾が照明で煌き、ラビダは息を飲んで見守り続けた。彼氏が横に来て肩を抱き、共に見守る。
「気合が入っているわ。姉さん、本当に楽しんでる」
「ああ」
グレンダは輝いていた。一身に。猛獣達は華麗に跳び、歓声が湧き上がる。
いつでもハラハラしながら見守り、無事に演目を終えると胸を撫で下ろす。虎たちは顎を上げ帰って行く。
ラビダはグランダに微笑み、彼女も投げキッスをして微笑んだ。

 ステージ上、ラビダは意気揚揚としていた。
いつでも最終公演の高揚感はずっと長引くものだ。箒で掃きながら道化師や姉達と会話をしていて、団員達もポールを拭いたり、網を丸めていく。子供団員達は客席の掃き掃除をしていて、小人達はバケツとモップを持って唄を高らかに歌いながら掃除をしていた。
縄をまとめる作業をしながら彼氏はちらちらと今は補強分の幕を確かめているラビダの背を見ていた。プロポーズをするのだ。ステージや客席の掃除を終えた後に。
移動中は衣裳の手直しや、幕の補修、縄の補強などに手一杯になって動物達の世話も暇がなくなる。
「おい」
彼氏はラビダの従兄弟を見上げた。
「成功する為にこれ持ってろ。お守りだ」
「はは。ありがとう」
彼はそれを受取り、首から下げた。
一通りの掃除が終了し、誰もが彼氏に意味ありげに微笑んでステージに集まっていく。ラビダだけは知らない。
彼女はフォローしてくれたピエロ達と和気藹々と話していて、やはり気付いていなかった。
団長は彼等を一時静かにさせ、今季のサーカス終焉についての皆へのねぎらいの挨拶を始めた。次回の予定と移動国の事や計画も話された後に、それも済むと、団長は嬉しそうに一度ラビダの彼氏を見た。ラビダの父親と母親も顔を見合わせてから微笑む。
皆が顔を見合わせ、肩を押し合ってステージを降りて行った。
ラビダははしゃぎながら彼氏と共に降りていこうとして、彼が手首を掴んで引き止める。笑顔の彼女が振り返り、彼を見上げた。
最高に美しくて、瞳は輝いている。グレンダが向うから包を持って来ていた。
それを皆の間を進んで行って彼に持たせ、ウインクしてステージを降りていく。
彼等は「がんばれよ」と口パクで言い幕を引いていった。
「ラビダ。今日の演術、本当に素晴らしかった。惚れ惚れしたよ」
「どうもありがとう。あなたの演術もよ」
彼は微笑み、そしてサーカステント内を見回した。感慨深い。ずっと彼等と来たのだ。親元を離れてラビダ達と共に成長してきて、共に泣いて共に笑い、感動を分かち合ってきた。
「俺……」
多少まごついていたが、顔をあげた。
包を前に出し、ラビダはそれを見た。彼氏を見る。
「私に?」
「ああ」
彼女は微笑んで「ありがとう」と言い、「あけても?」と訪ねた。
「もちろん」
笑顔で包が開かれていく。赤い薔薇が添えられ、綺麗な衣裳が出て来た。
「……まあ! 可愛らしいわ!」
ラビダの頬が薔薇色になり、途端に彼はラビダを抱き締めていた。
「将来ずっと共にいたいんだ。それで俺達の子供に笛とか習わせたり、孔雀の調教させたり、竪琴引き継がせたりしたい」
「え?」
ラビダの高い声が驚き、彼氏の目を見た。
「だから」
ラビダが口を丸く開けて瞬きをしていて、彼氏は言葉がつまり、駄目かと思った。
「えっと……」
完全に頭が真っ白になり、どうすればいいというのか瞬きを続ける彼女から目をそらせずに、まさかバカなことを言ってしまったのかという心が流れ込み始めた。
「その……」
いきなりラビダがふらっと力を無くして影で見守っていたグレンダが驚いて走って来た。
完全に気絶したラビダを支えた彼氏は当惑し、グレンダは「フ、」と可笑しそうに一度ふきだして彼の肩を叩いた。
「きっと、返事は良いものの筈よ」
「本当か?」
グレンダはくすくす笑い、幕から見ていた母親は父親と顔を見合わせ、彼等を見た。
朦朧とするラビダは夢の中で繰り返される今しがた聞いた彼氏の声が木霊していた。幸せすぎて何がなんだか分からなくなり、夢へと落ちて行った。
夢の中、クリスタルの竪琴を弾くラビダの周りを明るい林の中、サトゥルヌスの装いの彼氏が踊っている。踊っている……。幸せな光の中で。
眠りながらもラビダは微笑んでいた。


[終]

ラビダの竪琴

ラビダの竪琴

サーカスで竪琴を奏でる唄い子ラビダ。彼女は密かに父と同じ魔術師に憧れていた。今宵も一人テントで蝙蝠を薔薇に変える訓練をしているが…。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-03-18

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