サルバ

[salva]120815


<1>

スコゲン・ユリクの月光


 サルバは月光を受け青に染まっていた。
 林は静かな夜に落ち着き虫の音が渦巻く。踊る彼女は花に飾られ甘く香り昼間なら周りを蝶が囲った事だろう。低い声で歌いながら影と共に舞う。涼しい夜風は彼女の肌を撫で長い髪を翻させる。
 サルバの裸体が林に白く浮き、蹄音で途端に長い髪を体に巻いた。
「誰」
 細かい葉をつけた枝が揺れ気ままに踊っていた彼女の前に現れたのは女だった。
「驚いたわ。ラキ」
 ラキはサルバと同じ崇拝を執り行ない十六歳の少女で、彼女を見上げたサルバは驚いた。ラキだったことで離された手は柔らかな体を露にする。
「いらっしゃい。そんなに泣き濡って……」
 優しく両手を広げられた胸部に崇拝のシンボルが記されたペンダントが下がり、黒髪が肌を装飾していた。
 サルバはスペイン系のジプシーだ。彼女が一家を離れ定住し、羊を育てながら羊毛で衣服を織り生活し始めて五年目。それでも舞いは止められなかった。林でラキが自然崇拝をするペンタグラムの女だと知り、彼女も自然界を崇めていたので加わった。サルバはスペイン語と下手なフランス語しか話せなかった彼女はこの北欧の美しい国の言葉をラキから覚えた。
「何かあったの?」
 二十五という年上のサルバはラキの金髪を撫でながら囁いた。
「父に結婚させられるの。知らない男の人とだわ」
「え?」
 サルバはラキがレスボスだという事は知っていた。そんな無茶な事を。彼女の両親は知っている筈だった。
「貴女からも言って頂きたいの。一家を離れる覚悟までしてくれた貴女がありながらわたくしに殿方との婚姻なんて有り得ないわ」
 夜に梟がホウホウと心落ち着く声で鳴き、静かに包括し合う二人を安堵とさせた。淡い香りの花が黒髪を彩り、ラキは指を絡ませながら涼しげな月光が降り注ぐ。

 羊達は草原にいた。明るい草地に陽が差し込み紋白蝶が舞っている。
 小屋の中では父の元から逃げて来たラキがいて、サルバは彼女の馬を小屋背後に括りつけ餌を与えてから井戸の水を汲み帰って来た。
「今、飲み物を淹れるわね。ハーブを摘んできましょう」
 落ち込んだラキは漸く小さく笑みうなづいて、拾ってきた数本の薪をくべポットに火を掛けたサルバは柔らかなラキの手を引き寄せ外に出た。
 干草が詰まれた荷台の縁に座りながら陽と影の中でハーブ茶を飲んだ。柔らかな草地は自由に羽ばたく蝶と柵に囲まれた羊達がいて、ラキそれを見つめていた。蝶は柵を越えゆらゆら飛んでゆき、昼時のいる柵の中に入っていく蝶もいる。
「わたくしも羊の様なものなんだわ。柵の先は見えているのに羽根のある蝶や鳥の様には……」
「後ろ向きにならないで」
「でも」
 ラキの頭を引き寄せた。彼女は頬を肩に預け羊達を見て言った。
「浚って行ってもらいたい。遠く遥か遠くのジプシーの踊る場所によ。戻りましょう? わたくし金髪だって隠すわ。舞いだって覚えてみせる」
「ラキ……」
 視線を落す視野のラキは顔立ちに陰影つけ林の妖精に思わせた。柔らかい頬は白い光に透き通り睫は光り、淡い影が鮮明に降りる。金髪は変った髪形で編まれ艶が跳ね、鼻梁下の唇は不安げだ。柔らかいなだらかな肌を衣に包み、首から下げられたシンボルは真っ直ぐな陽に照らされる。光が味方して暮れれば上手に逃げられるが、ジプシーの旅は生易しくなく強さがなければならない。危険だって多いし食べられない日もある。白肌だって浅黒くなり目も鋭くなるだろう。蝶よ花よと育てえられたラキにはとても続けられるとは。
「シャルエルナ」
 二人は顔を上げ、夫人を見た。
「帰りません」
 ラキの母だ。この一帯はラキの一族の持ち物なのでサルバは彼等からこの場所を借りていた。
 ゆっくり歩いてくるラキの母は影に入ると日傘を閉じた。
「サルバ。貴女は流浪の旅人へとお戻りなさい。あたくしは二年前、貴女の父から言伝を預かってね。いつでも帰ったら出迎えると」
 ラキが立ち上がり、首を振った。
「離れたくなんか無いわ。別れの時があるのに共にいさせてきたなんて」
「若い貴女は分かってはいないのよ」
 ラキの顔は泣き崩れ、裾を翻させ光るのへ走って行った。あちらの木の幹に泣き付き、母は静かな視線を落した。ラキの背を木の影が優しくなでる。草木の香りが彼女を慰めた。涼やかな風は彼女のために一時を共にいてくれている。

 サルバとラキは暗がりに落ちるなか馬を進めさせていた。追手はいない。夜の小道は草から季節が蒸せ香る。露を飛ばし馬の息が白く行く手の闇に浮き、白い身体が前へ前へ進んで行く。森は夜行性の動物達が行動している。涼しさは肌から体温を奪い、マントに包ませた。月さえ見え無い夜は何処までも暗く、行く先を考えさせるがもうそろそろ河が見え始める。
 森へ入って行き流れが木々の間から見え、漸く月光が射したらしい。水面は蒼く光り闇の中だった森にも月光が伸びていつしか二人の姿も照らした。草地の岸に来ると馬から降り、白馬は蒼く染まり河の水を飲み始めた。ゆったり横たわる河の向うは森の先に緑の山が連なり、雲も引けば水色の夜空は星が白銀の様に細やかに光る。
 ラキはビロードを広げサイコロと振子を袋から出していた。サルバは寝床の準備に入り馬の背から布を広げ始めた。枝に縦に縞模様の羊毛布を張りテントにする。河の水を汲み栓をすると振替った。
「朝霧が煙る内に出るわ」
 ラキは頷き森の霧の中、木々の影と共に朝霧が斜めから射した日の事を思い出していた。あちらにとざされた霧の壁は美しく光を広げ、そして聴こえたものだ。鈴の音、掻き鳴らされる弦楽器と歌声が異国情緒漂って。今でも夜の森の霧先に見えた彼等の舞いが甦る。流れて行く霧の先から目の鋭い凛としたオオカミが現れ、少女だったラキは立ち止まりオオカミを見つめ、さらさら肌を撫でる朝霧の先に垣間見たジプシーの舞う影がゆらめく幻想的な中、涼しげな眼差しのとても美しいオオカミのいる森林は神聖さを感じ、少女は惹き込まれてじっと見つめていた。
 高い歌声に目を向けた。ジプシーキャラバンがそこにはいて、オオカミは少女が佇みつづけるので彼等の方へ戻って行った。踊り手の母はオオカミの示した方向にいる少女を見て招いた。霧を掻き分け進み、彼女は美しいジプシーを見た。幽玄に足首の鈴を鳴らし舞い、黒髪をなびかせ鮮やかな衣を翻させるラテンの女性。朝霧と光のヴェールの中影を落としていた。綺麗だった。オオカミが太鼓を叩いていた青年の横に戻り、静かな目で少女を見た。
 異国の歌はとても魅力的で、舞子は優しく話し掛けたがラキには通じずに少女は赤面してはにかみ、森を霧の煙る中走って行った。舞子は追い掛け、少女に腕輪を嵌めてあげた。しばらくぼうっとシャラシャラと鳴る腕輪は葉や枝を鮮やかに透かし始めた陽を受け光り、見上げた鳶色のジプシーの瞳とその先のオオカミの姿はラキを虜にした。
 その日から、オオカミを連れたジプシーキャラバンと森や街角で会う様になり踊り子のサルバは彼女に優しくしてくれた。
 静寂の深夜は記憶をさやしく包む闇でラキを決して一人にしない。いてくれる。サルバが。
彼女は羊の毛皮を黒革の紐で結った肌掛けをラキに掛けてやり、良い夢でも見ているのだろう、微笑むラキの髪をなでてあげた。
 サルバ自身は違う記憶が夜を包む風に感じていた。キャラバンに連れていたオオカミにも会える。柔らかな草地に寝ころがり、草花で染めた羊毛を編んだ枕に頭を預け草の香りを思い切り吸い込む。
 オオカミはサルバの弟が見つけた時は赤ちゃんだった。近くに母オオカミは見当たらず、お腹を空かせてミーミー鳴いていた。弟は山羊を育てている蓄膿家に、家族でチーズを作りたいからと頼み込んで薬草と彼等が編んだマットを引き換えに山羊の乳をもらってきてオオカミの赤ちゃんに母オオカミの変わりに与えていた。五日間しても母オオカミは現れないままだが、父は野生のオオカミを崇める彼等ジプシーのしきたりで母オオカミが現れたら森に返してあげる事を言った。木陰から現れたオオカミは他に三匹の赤ちゃんがいた。威嚇されすぐに赤ちゃんを返しキャラバンへ走り帰って行った。
それが翌日、弟が泉で顔を洗っていると不思議な事に親オオカミが現れ、木の実をたくさん置いて行った。何度も振り返りながらオオカミは森の深くまで戻って行き、五ヶ月間その森に留まっていたキャラバンの内に弟は太鼓を叩いていると成長していく子ども達がひっそりと物陰から見ている気配や姿を感じたり、歌っているサルバに合わせて遠吠えが響くことがあり、ある日の夜、子供の中の一匹が弟の真横で眠っていることがあった。背中の毛が一部濃いのであの山羊乳を飲ませた子供で、柔らかな草の香りの先から獣らしい香りがしていた。夜風は緩やかに流れ、朝がくるまで眠るオオカミを見つめ続けた。
 オスオオカミの巣立ちの時期オスの二匹は巣立って行き一匹は母オオカミの元に残っていた。だがあのオオカミだけが一匹キャラバンについてきた。理由は分からなかった。姿形も香りも違うのに産まれたときからいたからかもしれない。実に異例なことで父はどんなに離れても匂いを辿って現れるオオカミを弟がしっかり世話をする約束をして連れ歩く事になった。
 オオカミは彼等の神聖な森の神であり、偉大な存在だ。彼等の守り神でもあり、彼等自身もオオカミの存在を尊び守った。
 サルバはあのオオカミの匂いを思い出しながら眠りに付いた。森は彼等の母だ。自然の力が充ちている生命の溢れる源。

 朝が明け星が柔らかな色になり天の中に銀の光を飲み込ませて行く。河から水を飲みラキは顔を上げた。
「出発しましょう」
 サルバに頷きラキは馬の仕度が出来た鞍に乗り込んだ。サルバが手綱を引き進んで行く。朝陽が大きな葉を光や影で彩らせた。
 旅に出て三日後、旅先の安易と安全を願いペンタグラムを広げ崇拝に入った。森の自然の安泰を願い呪術を唱え自然界を巡る五つの力に感謝した。木々や動物達に大地の生命力が行き渡る様に祈りを唱え崇拝する。
 何度も月が上がり太陽は沈み日が流れる、ある街角で彼等のキャラバンを見かけた話をきいた。それらを辿って探し放浪するのだ。巡回は決められている事もあるので追う様に進んで行く。
 サルバは森で薬草やハーブを摘みそれを擦ったり乾燥させ売ったり、歌や踊りを見せたりジプシーに伝わる薬で治療したりして金や食料を得た。ラキは昼間宿で掃除や家事を手伝いながら日当をもらったり、今まで自分がされていたお嬢さん達の髪結いをしたり街角で花売りをして金やパンを得て毎晩サルバのラム皮のテントに帰って行った。
 それらの生活が二年続いた流浪の先、山を越えた森で漸く出会う事が出来た。オオカミを連れたジプシーキャラバンに。
 ラキはその時には金髪が爪先まで伸びていて顔つきも凛としていた。弱さなどなくなった毅然とした美しさを兼ね備えた女性になっていて、山賊に狙われてもサルバと共に戦って来たのだ。とある森で手に入れた背に担げる小ささのハープもすっかり上達して手先の起用さは壊れた小物の修理屋首飾りも作れる様になっていた。
 夜、雲も低く垂れ込む森は深く鬱蒼としていた。キャラバンは薪を集めて焚き火をしては地面や囲う周りに影を落し踊っていた。懐かしい旋律と歌が二人の耳に聴こえた。それはよく耳に馴染んだ声。近付いてきた二人を見たのがオオカミだった。オオカミは明りと陰を艶やかな毛に揺らめかせスッと長い脚で立ち、そして大きな尻尾をゆらると揺らした。低木の向うからオオカミがやって来て、あちらの明るい方でサルバの家族が歌い踊っていた。自然を称え、その中に生き、宇宙と星の恵みと調和を賛美して、森の生命の神であるオオカミを敬い尊んだ。それらに捧げる唄と舞いが彼女達を包んだ。
 サルバが進み、オオカミを見た弟が姉を見て、母が駆け出し彼女を抱き締めた。父はラキをしばらく見つめてから招き入れ彼女のために祈りを捧げると、自然神と宇宙に二人を無事にキャラバンまで導いてくださった事に感謝を捧げた。
サルバは二十七になっていて、ラキは十八の乙女になっていた。
その日からラキは彼等と共に生き、放浪を続けて国々を回った。時々一人出て街角でハープを奏でて来る事もあり母を思い出していた。ラキの母はよくハープを奏でていたからだ。今思えば、母はラキを逃す為に二人の下へ訪れ、そしてジプシーのサルバを頼ったのではないだろうか。それが今のラキには分かった。もしかしたら厳しさを知って帰って来ると思ったかもしれない。そのまま強く愛する者と生き続けるかもしれない。彼女の心中を思うと、ラキは彼女を見守りつづけてくれている大いなる森に感謝をした。

 河の流れのたゆたうは
 光の子供達に導かれ
 艶のせせらぎ そして流れる木の葉
 天は大きな雲を抱き
 微笑む母の風
 香る花はあの子の頬を彩った
 

 森のささやきは生命の声
 朝霧の中の落ち着きと
 清らかな光が巡る だから喜びに舞いましょう
 遥かな時は悠久から続く恵
 宇宙である父も見つめる
 宵の星は瞳に輝く輝石みたいで



<2>

愛のロンド



 <夜の波>

 滑らかな柔らかいラム革パンツに包まれた長い足は、黒のベルトブーツに続いていた。
形の綺麗な谷間は黒革ベストから覗き、長く白い腕が伸びている。
長いホワイトブロンドの顔立ちは涼しげで、中性的な美しさである。
サシャは森林の中、馬の横で幹に背をつけ座っていた。夜空はうねる様な星屑。星座は詳しい。
草むらを蔦が這う木の幹から蛇が這い、昆虫が歩いて行く。するすると蛇はサシャの体を登ってきて。腕に絡みつき手に行き着くと彼女は蛇と見詰め合い、ちろちろと出す舌に唇を寄せた。
木の上の恋人、ガイザーが横笛を吹く静かな夜。
緩く冷たい風に吹かれる彼の黒い長腰衣と併せがゆったりした黒い衣は、胸部のネックレスや銀のリングを光らせた。
長めの黒髪から覗く細面から、灰色の目が鋭く覗いて戻って来た蛇を見た。枝にするする巻きついては葉に隠れて行く。
サシャはまるでモダンバレエのボレロを踊る様に足を広げ、実際おぼろげな視野先は木々が生い茂る下でボレロの曲がうねる。
五年前、見世物小屋で鞭係だったガイザーは無断でサシャを誘拐した。その日から彼女は彼のもので、彼は彼女のものだ。
いつも小屋の中、椅子に座る客の前でサシャは特異な体を見世物にされて来た。ガイザーはいつも客の後姿を見ていた。彼女はグラマラスハードな装いをし、いつでもアングラでドープな曲がうねる中、ブラックグレーメイクの顔がうつろいでいた。円形に赤いビロードで囲われた空間は狭く、天井から下がるランタンに飛び交う大きな蛾を見ながら。いつでも彼女は自己をその蛾だと思っていた。
金の蓄音機から流れる曲では無く、アダージョやアレグロ、壮大なバロック音楽やエキゾチックなギター曲が彼女の脳裏には響いていた事をわかっていた。一節聞き逃すことなく厳密に。いかに難儀なギターの旋律も。蛾の鱗粉を浴びながらも。
見世物は自由を許されなかったが、彼女はリュートを秘密で許されていた。
鞭を無駄に振るわなくなった今、ガイザーはそれでもサシャが求めるとき彼女を鞭払った。体罰係だったが、サシャが不用意に逃げ出すことも客のどんな要望にも犯行することは無かった。何も無くても言われれば鞭打った事は以前からだった。
その時代は細かく綿飴のようだった髪の横に黒で象嵌のされた円形の飾りをつけ、白と黒ストライプのハーフボンデージに、胸部を強調する革バンドとパッチ、黒いルージュは艶掛かりパール掛かる黒とグレーの目元は退廃が艶美な中を包んでいた。強調される両性具有の特徴が革のレッグバンドと黒革のタイツ上に表され、そして鋭いピンヒールは腰の両サイドから丸い飾りで止められたヴェールの裾を撫でた。
彼女を独占したくなったガイザーは見世物小屋の馬を奪い、そして彼女を乗せ嵐の夜を疾走して行った。二度と戻らないつもりだった。肌を飛沫が叩く中、馬を鞭払い激しく駆けさせ、一手が来る前に逃げたのだ。
長い腕で操る鞭の手並みは繊細なハープの音色を紡ぎ出す風に似ている。あの時、リュートも持って来るべきだったが今やそれは昔の後悔。いつぞやの宿屋で横笛を譲り受け、それを奏でている日々だ。
ガイザーが降り立ち、彼女の髪にキスを寄せると座った。彼女は口端で微笑み彼の胴に背をあずけ彼の肩に金髪がうねり背にかかった。
彼女は手元のリンゴをナイフで切りながらガイザーが手を添え微笑み、蛇がするするとガイザーの首元から黒髪を避け現れ腕を伝い、彼等の手首をまるで手錠の様に巻きつき彼女を檻の中の囚人の様に締め上げた。リンゴを落とし転がって行く。
彼等は冷たい風の吹いた方向から視線を見合わせた。
竪琴の旋律が聴こえる。
彼等は進んで行くと、木の間から見えた。女だ。低い声で歌っている。顔立ちはラテン系か麗しかった。
長い焦げ茶髪は淡い大輪の薔薇を飾り結われ流れている。白いX字の衣から黒い長袖が覗き、腰を金の民族的な帯で留め流している。そして長い中割れの白い広がったパンツの片胡座で座り裸足の足首に銀の鈴が光っていた。
彼女の横にはドーベルマンが二匹控えている。
竪琴は聴いている人間がいて、それは十三歳ほどの少年だった。
辺りは森が続き、そして谷や崖のある地帯。山脈に一方を囲われた場所で、人は踏み入らない場所だ。
だがこの先に洞窟と泉が沸いている事は分かっているので、そこで一時の休憩場所に移動中を一服しているのだろうか? 魔的な妖しさを忍ばせる音色は不可思議な物であって一陣の風がどこかの魂を包んだ。
サシャはおぼろげに進んで行き、手にしていた短刀を落とし歩いていった。
女は顔を上げゆらりとサシャを見て、ガイザーは木の幹に手を当てていた。
「言葉は通じるか」
サシャの言葉に女は「ええ」と言い、竪琴を横へおく。ドーベルマンが顔を上げ彼等を見るが、静かで賢い顔だ。
「サシャだ。あれはガイザー。放浪の途中で美しい音色を聴いた」
「私はハコシャ。彼はお使いのタヨー。村を吟遊詩人として回っているの」
「なる程」
サシャは少年の横に座りドーベルマンと目が合った。ガイザーは滅多に喋らない為にその場に留まっている。少年が彼をサシャ越しに見上げていたが視線を向ける事も無かった。
「聴かせてくれ」
「ええ」
ハコシャは微笑み、ゆったりと視線を戻しては竪琴を奏で始めた。
彼女も目を閉じる。
ほう、ほう、と梟が鳴いていて、彼女は歌い始めた。



 「その蛇はあなたの蛇か」
洞窟内で少年タヨーはガイザーに聴いていて、彼は頷いた。彼が持つ笛の手と腕に絡みつき少年のこげ茶の目を見ている。タヨーはアラブの人間らしく魅力的な浅黒い肌をしていた。
泉の横でハコシャが竪琴を奏でている音色が響き、そちらは枝垂れかかる葉枝と蔦が蔓延るカーテンの中、空は丸く切り抜かれた岩場から覗く緑蒸す霧の中、青を称える水は鏡だった。
サシャは枝に横たわり聴いている。
「私は二年前にハコシャ様に拾われ、彼女に付いている。舟で村を渡った」
「俺達は陸をずっと進んでいる。海は見たことが無い」
「とても風が心地いい。嵐は死を覚悟するが開けた航路は青が広がっているから。どこまでも青い。様々な生物が跳ねているんだ」
「きっと、俺達の見たことの無いものだ」
少年は頷き、目は遠くを見た。
星が出始め、円形の中をぐるぐると回り始めた。泉にも映り、今にも円盤の様に回転を始めるだろう。
「共に少し旅をしないか。ハコシャ様がお許しなら」
ガイザーは洞窟の巨大な入り口から覗く風景を見た。旋律は木霊している。まるで悲しげな幽霊が啼く声に思えた。あわせてシンと澄み渡る鳥の声が長く響き、尾の長い鳥がゆったり横切って行く。
苔蒸す入り口から蔦が降りる先を手の甲で避け、サシャが入って来る。
「麦で飯を炊きます。実と香辛料でスープも」
タヨーは麻袋からそれらを用意して行った。落ちていた薪で火を起し、歪んだ鍋で作り始めた。
「ニワトリが卵を産んでいる」
足を繋がれた雌鳥が籠の中で跳ねていた。
「手馴れているな。旅は長いのか」
「私は物心ついた頃から家族で旅を。しかし五年前家族はキャラバン中に盗賊に遭いました。私は連れて行かれ、売られたので食いつなぐ事はできたのです」
「それは大変だったな」
タヨーは仕度をしながら小さく微笑んだ。

 藁を編んだものを上に掛け眠っていた。
ガイザーは目を開け、物音に静かにしていた。
ドーベルマンの歩く音が聴こえ、二匹が歩き回っているのだと分かる。主人のハコシャから離れないドーベルマンは視線だけを向けると彼女の眠る周りで回っていた。立て掛けられた竪琴は闇をいつかせている。
静かな水滴が涼しい中を綺麗な音で落ちつづけている。
サシャはいつでも壁にもたれて眠る。タヨーがいなかった。
起き上がるとドーベルマンが見て来た。
彼は洞窟を出て行き、明るい月光が射す中を見渡すがいない。夜は獣が現れやすいのだが。
しばらくは出歩く事にしたが、タヨーはいなかった。
泉の横へ戻って来ると水煙を月光が幻想的に透かしている。その先に、白い長衣のハコシャがいた。
まるで呪術でもする巫女の様に腕を掲げ何かを唱えている。
腕がしなやかに伸び、銀の靴は白い足を覗かせている。シダが生える中を立ち、腕を下げて泉を見ていた。その瞳に泉の光が跳ねていた。
泉を瞳にした様な煌きは滑らかだ。
ドーベルマンは眠ったのか、姿は見えなかった。
彼は草むらを歩いて行き、彼女は神秘的な目を向けた。
「タヨーは夜に出歩くらしいが」
「放っておいて上げて。夜は家族を思い出してしまうのよ」
相槌を打ち、見渡した。
「何をしている」
「占いを」
「へえ」
再び彼女は両腕を今度は広げ目を閉じた。
寒さで白い頬は染まり長いまつげが装飾している。
「恋人がドーベルマンを枕に眠っているわ。横にもならずに体も強張るでしょうに」
「ああ。あいつの癖で」
横になれないのだ。ある一定の恐怖感から。見世物小屋ではあまり気が休まらなかった事もある。性奴隷にされて来た夜はガイザーは彼女を哀れんだ。
だが今は自由を手に入れた彼女は毒蜘蛛の巣に絡まれ繭にされた獲物ではなくなった今でも夜は横になれない。
ガイザーが体を抱き締めてやり眠る夜は横になれた。
髪を優しく撫でてあげ続けながら。
星は瞬きを強くしていく。

 タヨーは袋から何かを出した。
荷とハコシャが乗るポニーを引くタヨーが止めて草陰へ進んでいった。
「ピヨピョ」
雛の声だ。
「三羽生まれました」
「ええ」
袋ごと持ってきながら言う。
「時々孵化させて成長させてから肉として食べるんだ」
他の袋から藁を裂いて草と共にいれ、袋をまた括りつけた。
深い森の中は鬱蒼としていて様々な生物の声がし姿を見せる。その中を進んでいった。
大きなドーベルマンは二匹ポニーの前後を歩いている。良く躾られていた。
少年は昨日は夜半にどこかへ出かけた様子も無くはきはきとしていた。
タヨーは母サルバに似た彼女と出会い、共に彼女を護る為に旅に連れ立った。もう五年前のひ弱な自分ではなく、森で遭遇する男達からも護れた。母サルバは実に剣豪的な人でもあって、そして美しい舞を見せた。
ハコシャは髪色は母とは違い人種も異なる金髪だが、本当に良く似ている。こうやって鮮やかな陽の差し込む広大な樹木の間を歩くと、南国の植物の間を馬に乗り進んでは白い裾を波の様にひらつかせ、金の華奢な脚を飾って彼女を守っていた。
タヨーは家族の無事を確認していた。それだけは確固とした救い。星に毎日祈り見上げる。青の星は彼等を望みへと導いた。
しばらくすると、大きな葉が重なり合う向うに泉の煌きが見えて来た。青を称えた小さな泉で、鮮やかな色の鳥達が水を浴び、そして滑り羽ばたいている。
円形に覗く空を見上げ、あたりを彼等は見回した。
「ここで休憩をしましょう」
彼はあたりにガイザー以外の蛇や毒蜘蛛がいないことを確認してからハコシャに頷き、彼女の手を取り馬から下ろした。
「綺麗だね」
「喉を潤そう」
サシャが進み、ガイザーが水筒を出す。
魚達が銀の鱗を光らせ群をなして泳ぐ姿が見え、ゆらゆらと藻が彼等の腹や身を撫でては守っている。
タヨーはおぼろげに目に光を反射させ見つめていた。ハコシャは微笑み、歩いて行った。タヨーは思う。自分はいままであの美しい藻草の様に守られてきた。今は藻だった家族は他を彷徨い風に撫でられているのだ。彼等が今、朝なのかも、昼なのかも、夕方なのかも不明な時間を過ごしているが、同じ様に森を行くジプシーキャラバン。
今はハコシャを護れているだろうか? 村から村へ渡り歩き歌を歌いリュートを奏でるハコシャ。流麗な言葉を投げ掛けては魅了した。
二匹の犬は草地に背を撫で付け転がっては欠伸をし、しばしの休憩をしているが、全く隙は無い。目は、そして欠伸をするものの耳はピンとしていた。
サシャはドーベルマンの横に片脚を放り座り、幹に背をつけては細い腹部を撫でてあげている。
翠緑の輝きはまことに美しくて……。


つづく

サルバ

サルバ

深い森。それはどこか不思議な自然の力が働いていて……。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-03-18

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