合唱部のものがたり
五月
今日は俺が二年生になって初めての部活だ。しかしだからといって特に感慨もなく「第二音楽室」と書いてあるプレートがかかった教室の扉を開けた。
室内は静かで、窓の外からは野球部の掛け声が聞こえてくる。他の活動が盛んな部活にとっては、今日は特別な日だろう。というのも、今日から新入生の部活が開始されるからだ。つまり、一年生が一斉に入部してくる日なのである。
だが我が合唱部は、部員なんと一名の超少数精鋭な、校内一影の薄い部活なのだ。したがって新入部員がやってくる望みは薄く、事前にあった部活動見学にも一人くらいしか来なかった。
まあ、もともと思い付きで始めたような部活だ。受験中に聞いていたラジオで流れていた歌がすばらしく、自分でも歌ってみたくなった。他にやることも趣味もないから帰宅部にはいるくらいなら……。そんなくだらない理由だ。顧問もたまにふらっと顔を出すだけで、もはや合唱部というよりは俺の趣味である読書部みたいな感じだ。たまにCDに合わせて適当に歌ってみる程度である。
そんなんだから、部員に期待などしていなかった。来年はおとなしく帰宅部に入るか。そんなことまで考えていた。
「失礼します」
彼女がこの部活に入ってくるまでは。
六月
失礼します、彼女は毎日、そう言って第二音楽室へ入ってくる。それは彼女が入部した五月からずっと変わらない。
その日、芹沢なずなという女子が、俺の後輩となった。大人しいおさげ女、というのが第一印象だった。しかし入部から一か月経った今でも俺が彼女について知っている要素は、あまりしゃべらないことと、歌に関しては非凡な才能を持つ、そのぐらいだ。
たった一人の後輩なんだからもっと大事にしろよ、と思われるかもしれない。だが大事だからこそあまり干渉できないというのもまた事実である。彼女の歌のセンスは、俺みたいな歌が趣味なだけの一般人が下手に手を出すと崩れてしまうように感じるのだ。
どうやらこの芹沢という少女は、感覚で歌っているようだった。入部した当初は、楽譜を見ると混乱したような顔をしていたし、今でもたまに楽譜の読み方を訊かれることがある。CDを聞くだけでその通りに歌えるというのは確かに一つの才能だが、楽譜がなかなか読めるようにならないというのはデメリットだなと、一人で苦笑いした。
また、芹沢に対しての情報が少ないのには、二人の会話が非常に少ないという理由がある。そもそも自分もあまりしゃべるタイプの人間ではないのだが、芹沢は俺にほとんど話しかけてこない。それこそ一日に三・四回言葉のキャッチボールがあれば良いほうだ。二人がそろうとピアノの音に合わせて発声練習をし、初心者向けの楽本を読んで適当に歌う。
そんな部活実態にもかかわらず、毎日俺が部活に来ているのは、芹沢の歌が気に入っていたからだった。彼女の歌声が俺の好きな歌手に似ていることが理由だった。歌い方も、耳にすっと入ってくるようなシンプルさだった。
もっと彼女の歌を上達させてやりたいとは思っている。だからといって指導ができるわけでもなく、日々はだらだらと過ぎて行き、何もしないまま夏休みが来た。
八月
夏休みが明けた日の放課後、部室で本を読んでいると、背後でドアが開く音がした。失礼します、と言って芹沢が入ってきた。俺は芹沢のほうを向いて軽く会釈した。
今しがた入ってきた彼女は、片手にメロンパンを二袋持っていた。芹沢は五月に入部して以来、毎日部室にメロンパンを持ってきている。なぜなのか気になっていたが、そんなどうでもいいことを聞くのも何なので理由はまだ知らない。
俺は、いつものように発声練習をしようとピアノの前に座ろうとした。しかしその前に、芹沢が声を発した。
「先輩、屋上へ行きませんか」
夏の屋上は、とにかく暑かった。コンクリートの地面が強い太陽の光を受けて、鉄板のようになっている。
それまで柵の向こうに目をやっていた芹沢は、突然俺に顔を向けた。
「先輩に質問があるんです、個人的に」
その質問に、俺は正直面食らった。彼女は今まで、俺に必要最低限の用事で話しかけなかったし、興味があるとも思えなかったからだ。思わず、どんな質問が飛んでくるのかと身構えてしまう。
芹沢は、そんな俺には構わず言葉をつづけた。
「先輩は、なんで合唱部を創ろうと思ったんですか」
だが俺に向けられた質問は、拍子抜けするほど簡単なものだった。
「なんでそんなことを聞くんだ? 」
そう尋ねると、芹沢は眉根を寄せて呟いた。
「気になっていたんです。この、部員が二人しかいない地味な部活を作ってくれたのは誰だったのかなって」
言葉だけ聞くと、嫌味を言われているようにも感じられるが、芹沢は満面の笑みで俺のほうへ顔を向けた。つい、どぎまぎしてしまう。
「私、中学生の時から歌が好きでした。でも、人がすごく少なくて、私が入る前に廃部になってしまったんです。家で一人で歌うのは嫌いじゃなかったけれど、上達しなくて困っていました。だから、中学校を卒業したころにはあまり歌わなくなっていたんです」
俺は、唐突に始まった芹沢の昔話に黙って耳を傾ける。
「でも、入ったばかりの時に先輩が歌っているのを聞いて、昔の気持ちが湧きあがってきたんです。――あ、覗いていたわけじゃないですよ。音楽室から歌が聞こえてきたとき、なんか、すごくドキドキしたんです。ああ、私がやりたかったのはこれだったんだなあ、って」
彼女はえへへと、照れたように笑った。子供らしい仕草は、普段の真面目そうな姿はかけ離れていた。
「だから、先輩には感謝しているんです。歌への情熱を、もう一回目覚めさせてくれたから」
そして慌てて、話しすぎちゃいましたごめんなさいと早口で言った。
「それで、先輩はどうして部活を創ったんですか」
頬を紅潮させ、彼女は僕に訊いた。握りしめた両手には強い力がこもっていた。
「歌いたかったから、だよ」
芹沢は丸い目を大きく見開いて、えっ?と言った。
「それだけの理由だ。期待させてごめん」
「本当にそれだけなんですか? 」
「何か不満があるのか? 」
逆に訊き返すと、芹沢は唸った。少し黙ってから、
「えーっと、部活を創るのって、申し込みとか手続きとか大変じゃないですか。だから、そうするだけの深い理由があるのかと思って」
と言った。その言い方に、俺は少し違和感を覚えた。先ほどと違い、芹沢は俺の目を見ていない。理由も、とっさに思い付いたような言葉だ。まあ、芹沢が嘘をついていようがいまいが特に関係のないことなので、それについて問い詰めるのはやめた。
代わりに、以前から気になっていたことを言ってみた。
「俺からも、一つ質問していいか」
芹沢は、一瞬身をこわばらせた。詰問されるとでも思ったのだろうか。
「お前は、なんでいつもメロンパンを持っているんだ? 」
俺の質問に彼女は小さく笑って、先輩と同じですよ、と答えた。
「単純に、好きだからです」
はいどうぞ、と言って彼女はその片手に持ったメロンパンのうち一袋を俺に差し出した。俺が面くらっていると、芹沢は微笑んで言った。
「部室で食べるよりこっちで食べましょうよ。音楽室は、埃っぽくて嫌になります」
それにつられて、俺も少し笑った。メロンパンはすこし甘すぎたが、芹沢が嬉々として食べているので、黙って食べることにした。
九月
「吉岡先輩、こんにちは」
第二音楽室のドアを開けると、パイプ椅子に腰かけた芹沢は、こちらを振り向いてそう言った。屋上での一件以来、彼女は必ず俺より先に部室へ来るようになっていた。
練習しよう。そう言うと、芹沢はそれまで読んでいた文庫本をキーホルダーがたくさんついた鞄にしまった。そしてその中から、幾枚かの楽譜を取り出した。そして椅子から立ち上がった彼女は、中央のピアノの前へと座った。
鍵盤を一つ一つ、芹沢の細い指が丁寧に押していく。音に合わせるように、俺と芹沢は声を発していった。そして十分に声を伸ばしたところで、鍵盤から指を離した。彼女が立ち上がって、椅子が軋む音がした。その音も消え、数秒の無言の時間が生まれた。
ドの音を、唸るように、芹沢の細い喉の奥から鳴らした。その音を消さないように、一オクターブ低いソの音を重ねる。その状態がわずか五秒続き、彼女は大きく息を吸い込んで、澄んだソプラノを音楽室に響かせた。俺の低いコーラスが重なり、そこにハーモニーが生まれた。教会でよく聞かれるような、なんの変哲もない讃美歌である。そんな歌でも、魅力的に聞こえるような才能が、芹沢には確かにあった。
そしてその音色の重なりを壊すように、ドアが大きな音を立てて開いた。突然の闖入者に、俺と芹沢はそろってそちらに目を向けた。
「あ、お姉ちゃん」
来客の正体は、芹沢あまねだった。俺の同級生で、後輩である芹沢の実の姉でもある。
「吉岡くん、ちょっと用事があるんだけどいいかな」
芹沢あまねはそう言った。俺は言われるがままに、彼女と第二音楽室を出た。つれられた先は、俺のクラスだった。彼女は、部活中なのに呼び出してごめんねと謝ってから、話し始めた。
「そろそろ文化祭があるでしょう?だから、吉岡君にもいろいろ聞いておこうと思ったのよ」
「いろいろ、って? 」
思わずそう訊き返すと、芹沢姉は口元を緩めた。その笑い方をどこかで見たような気がして、そしてすぐに、唯一の後輩の笑顔とそっくりなのだと分かった。
「合唱部の出し物のことよ。私、生徒会入っているでしょう?だから、プログラムとかもつくらなきゃだし、そろそろ予定を決めなければいけないのよ」
彼女の言葉に、少なからずとも衝撃を受けた。情けない話だが、文化祭の存在を忘れかけていた。というより、合唱部として参加しようとは考えていなかったので、知らず知らず存在感が薄くなっていたのだろう。だがそれは俺一人の話であり、
「多分、吉岡君の後輩はやる気だと思うのよ」
芹沢はやりたいというに違いない。だとすると今から、練習しなければいけないだろう。
「あ、今日じゃなくてもいいのよ。でもなるべく早くにお願いしたいかな」
黙りこくってしまった俺を見かねてか、彼女はそんな言葉を掛けた。俺は小さく頷いて、わかった、と言った。
「あとね、なずなをよろしく!――じゃあね、吉岡君。また明日!」
俺が言葉を発するより早く、芹沢あまねは教室を走って出ていった。残された俺は、一人でさっき来た道を戻って行った。第二音楽室へ戻ると、芹沢なずなはいつものパイプ椅子に座って楽譜を見ていた。
「なあ、芹沢」
俺が声をかけると、芹沢は首を傾げた。
「文化祭さ、何の曲歌おうか」
芹沢はその言葉を聞いて、鳩が豆鉄砲をくらったような顔をしたが、その表情はすぐに笑顔へと変化した。
「文化祭、歌うんですか? 」
にやつきを抑えられない様子で、彼女は訊いてきた。
「芹沢は、絶対歌いたいっていうだろうと思ったからな」
「歌いたいです!絶対、歌います! 」
「じゃあ曲決めて、練習しないとな」
芹沢は、普段の彼女からは考えられないような大声で、やったーと叫んだ。そんなうれしそうな芹沢の姿を見て、必ず文化祭に出させてやろうと、歌わせてやろうと思った。
そんな決意をした一週間後。
「どうするか……」
俺は、一人きりの第二音楽室で頭を抱えていた。
悩んでいるのは、文化祭の歌についてだ。課題曲はもう決まっている。だが、肝心の指導者がいないのである。二人でも練習できないことはないが、優秀な指導者がいればそれだけ上達も早くなるだろう。なにより、芹沢の歌声をもっと伸ばしてやりたい。
ノックの音が部室に響いた。入ってきたのは見知らぬ初老の男性だった。男性は俺の手元にある楽譜を見て、ぼそりと言った。
「それが、芹沢なずなと歌う曲か? 」
「そうです。彼女をご存じで? 」
「ああ。僕を呼んだのは彼女だからな」
銀縁眼鏡のレンズを光らせて、彼はそう呟いた。そしてまったくの無表情で、部屋の本棚にある楽譜をあさり始めた。どなたですか。そう問う前に、芹沢が扉を開けて入ってきた。
「すいません、委員会で遅くなりました。――あっ、小牧先生。先にいらしていたんですね」
彼女は開口一番そう言った。
「吉岡先輩、小牧先生は隣町の○○高校の先生なんです。うちの音楽の先生に、紹介してもらったんです」
本当はうちの先生でもよかったんですけど、吹奏楽部と軽音楽部の担当で忙しそうだし。芹沢はそう続けた。
「僕は、これから君たちを文化祭まで指導する。確か十一月までか?短い期間だが、よろしく頼むぞ」
小牧氏は、厳しそうな顔をピクリとも動かさずに言った。
十月
「小牧先生、厳しすぎですねー……」
小牧氏の指導が始まってしばらくしたころ、芹沢は彼女にしては珍しい弱音を吐いた。熱血指導によって部活はだいぶ遅くまで延長され、帰り道の上には星が一つ二つ瞬いている。
確かに、彼の指導はとても厳しい。歌の練習のみならず、基礎の基礎――芹沢が最も苦手な、専門用語や歌い方の形式――まで、毎日すごい量をやる。
はじめのうち芹沢は、それらのハードな練習にも、歌への情熱によってついてきていた。だがしかし、彼と芹沢の相性がすこぶる悪い。
芹沢は今まで、それこそ歌を始めた当初から、自分のやり方を貫いてきた。だから、発声方法もボイストレーニングの仕方も、大部分が自己流なのだ。合唱部での活動に関していえば俺も同じであるが、こっちの場合は受験の間にラジオを聴いて始めた、まだアマチュアである。歌い方を変えろと言われてもすぐに変更でき、逆に言えば自分の歌い方というものがまだない。つまり芹沢の中には、自分の歌い方というのが強く根付いているのだ。
それに対して小牧氏は、そのやり方をまさに根本から打ち砕いていく指導なのだ。彼は、本に載っているような型にはまった歌い方を強要してくる。そのやり方はたしかに歌いやすく、歌を始めてまだ一年足らずの俺にとってはありがたい。
しかし芹沢にとっては、自分が続けてきた歌い方がぴったりくるのだろう。部活中に何度も首を傾げ、声を出しては水を飲み、軽いフレーズを歌ってみて、の繰り返しだった。
小牧氏は芹沢の「自己流」の歌い方が気に入らないらしく、彼女が指導と違った声の出し方をすると、すかさず烈火のごとく怒鳴るのだった。
「お前がそんなことを言うのはめずらしいな……」
芹沢はこっちを見上げて苦笑いした。
「ちょっと疲れました。でも、初めてですよ、人前で本気で歌うの。中学生の時とか、目立ちたくなくて小っちゃい声で歌っていたんです。だから、がんばらなきゃ」
そう言って芹沢は少しの間黙った。T字路に差し掛かると、では、と言って右方向へと駆けていった。二三歩歩くと何かが足元で音を立てた。音の主は、ピンク色のマスコットがついた、ウサギのキーホルダーだった。そのキーホルダーには見覚えがあった。芹沢がいつも鞄に着けていたものだ。慌てて前を向くが、芹沢の背中はすでに見えなくなっていた。ため息をついてそれをポケットへしまった。
次の日、放課後に部室へ向かうと、珍しく芹沢がいなかった。二十分ほど本を読んで待っていると、小牧氏が部室に入ってきた。彼は芹沢の不在に少しだけ驚いていたが、そのあとすぐに、練習するぞと言った。いつも練習熱心な彼女がいないのは、寂しかった。
結局その日、芹沢は部活へ来なかった。
そんな日が何日か続いたある日。
今日も、第二音楽室の電気をつけるのは俺の役割となった。
鞄を床の適当な位置に置くと、第二音楽室を出た。図書室に行って、音楽の本を借りてこようかと思ったのだ。僅かな重みを感じてポケットを探ると、ウサギのキーホルダーが出てきた。ポケットに戻して、歩き始めた。
図書室へ向かうには、三階の一年生の教室前を通る必要がある。放課後とはいえ、ほかの学年の廊下を通るのは少し抵抗があったため、速足で通り抜けようとした。一年生の教室は、全部で五クラスある。最後の教室である一年E組の前を歩いていると、そこからすすり泣きが聞こえてきた。
ドアが開いていたため、好奇心から教室の中をのぞいてみると、泣いていたのは芹沢なずな、俺の後輩だった。
思わず教室の中へ入ると、芹沢がこちらに気づいて目を見開いた。体をそむけて逃げようとする彼女の腕を掴んで、問いただした。
「どうしたんだ、芹沢」
そう声をかけても、芹沢はただ首を横に振っている。ついかっとなって、強めの口調になってしまう。
「文化祭まで、あと一カ月もないんだ。芹沢、お前、歌いたいって言ってたじゃないか。なんで、今更来なくなるんだ。小牧先生の指導が厳しくても、頑張ってついてきたじゃないか」
小牧先生、の言葉に彼女はビクッと体を震わせた。芹沢の丸い両目からは滴が落ち続け、かみしめた下唇は真っ赤になっている。小さく息を吸って、芹沢はしゃくりあげながら話し始めた。
「だって、先輩、小牧先生の指導、楽しそうにしててっ、二人のときより全然うまくなってたじゃないですかっ。私は、」
そこで言葉を区切って、赤くなった瞼を伏せた。そして、決意したように面を上げた。
「――先輩のことが、好きなんです。吉岡先輩の歌も、見た目も性格も、全部が好きなんです! ……先輩と毎日、二人で練習するのが嬉しくて、全部を知りたくて、構ってほしくて、悔しかったんです。先輩が面白そうに小牧先生の指導を受けるのに、嫉妬していました。毎日、部活後は先輩について行きました。私の家の方向、真逆なんです。いっつも、本当なら歩いて帰ることのできる距離をわざわざバスに乗っていたんですよ、先輩と一緒に帰りたかったから! 」
訥々と言葉を連ねる。涙の跡が残る頬は蒼白で、いつもの柔らかい表情はすっかり消えていた。思わず言葉を失う。
「もう、放っておいてください。先輩にこんな姿を見られて、この後普通に話すことなんてできません。……明日には退部届を出すつもりですから」
腕、放してください。芹沢は悲しげな笑みを浮かべてつぶやいた。諦めたようなその表情に、それまで停止していた脳が動き出した。
「ふざけるな……。確かに芹沢、お前とふたりでやるより今の練習のほうが楽しい。けど、だからって二人でやる練習がつまらないわけじゃない。それにな、」
涙目でこちらを見上げる彼女の目を見据えて言った。
「俺は、お前の歌が好きなんだ。才能があると思うし、ソプラノなんかは正直ものすごく綺麗だ。アマチュアの俺でもわかるくらい綺麗だよ。他の人とは違う。それを他の奴に聞かせないのはもったいないと思うし、俺は、お前の歌をもっと聞きたいんだ! 」
少し恥ずかしくなって、言ったことを後悔した。けれど、嘘、と零した芹沢の声には、わずかに明るい感情が含まれていた。
「本当だ、芹沢。俺は、お前と文化祭の歌を成功させたいんだ」
そして、いつの間にか強くつかんでいた腕を放す。芹沢はもう、逃げようとはしていなかった。そこにあったのは、いつか屋上で見たのと同じ、満面の笑みだった。
「ありがとうございます、吉岡先輩。その言葉、ちゃんと覚えておきます」
行きましょう、と芹沢は言った。どこへ?そう聞くと、彼女はいたずらっぽく微笑んだ。
「決まっているじゃないですか。部室ですよ。小牧先生がたぶん、怒っていますよ」
そう言って指した先をみると、時計の針はなかなかに遅い時間を指していた。小牧氏はもうとっくに来ているだろう。きっと、銀縁眼鏡の奥の目を吊り上げていることだろう。その光景を想像すると可笑しくて、声を立てて笑った。
十一月
四方八方から聞こえる拍手の中に、俺たちは立ち尽くしていた。あるのは歌いきったという達成感とのどの渇きだけで、あとは体から根こそぎ奪われたように感じた。
「先輩、やりましたね」
芹沢がささやいてきた。頬は紅潮していたけれど、脚は対照的にかたかたと震えていた。
とりあえず、目の前の人々に一礼してステージの暗幕へ隠れるようにして退場した。スポットライトの当たっている舞台とは違ってステージ脇は暗かったが、今の俺には何より安心する場所だった。
文化祭の発表は大成功だった。リハーサルでは涙が出るほど緊張していた芹沢も、最後まで歌いきれた。小牧氏は彼女がいつ失敗するかハラハラしていたようだったが、俺自身にも芹沢にも特に大きな失敗はなかった。
ただやはり、芹沢がしばらく部活に来なかったため、小さなミスがいくつも目立った。ほんの二、三か所の失敗だ。けれど今になってそれが気になってきたらしく、さっきまで成功の余韻に浸っていた彼女は頭を抱えてポロポロと涙をこぼし始めた。
「芹沢、そんなに気にするなよ」
そう声をかけると、こちらを見て小さく首を横に振る。
「私のわがままで、失敗したのに気にしないなんてできません。吉岡先輩にも、小牧先生にも申し訳ないです」
しゅんとなって芹沢は言った。呆れてものも言えない。
「まだそんな事を言っているのか。ここ最近の放課後、謝罪は飽きるほど聞いた。もう発表は終わったんだから、気にしなくていい」
俺の言葉に、芹沢は眉を八の字にして笑った。
「吉岡先輩のそういうところ、好きです。……そうですね、もう文化祭が終わったんですね」
彼女は寂しげに苦笑した。その肩に皺の寄った手が乗せられて、彼女の体が小さく跳ねた。小牧氏はまたな、とただ一言告げて人ごみに消えていった。その後ろ姿をしばらく眺めた後、俺と芹沢は顔を互いに見合わせた。彼女の丸い瞳に涙は浮かんでいなかった。そこにはただ、いつものおとなしそうに見えて好奇心に満ちた輝きがあった。
次の発表者である軽音楽部が、楽器のセッティングのためにステージへ上がってきていた。舞台裏の階段を下りて日の当る場所へ移る。どちらともなく、自然に第二音楽室へ向かっていた。
「――この人を見よ、この人にぞ、こよなき愛はあらわれわたる」
となりから歌声が聞こえた。芹沢が、いつもの練習曲を歌っていた。「まぶねのなかに」というその讃美歌は、中学生のころから芹沢が歌っていた曲だった。俺は初めのころ、妙な歌詞だなと思っていただけだったが、いつの日からか彼女とそれを歌うのが好きになっていた。
「この人を見よ、この人こそ、人となりたる生ける神なれ」
途中のフレーズから声を合わせて歌う。普段の力の一割も出していないようなやる気ない歌だった。それでも芹沢は楽しそうだし、俺も楽しかった。
まだ、俺たちの部活は始まったばかりなのだ。
合唱部のものがたり
だいぶ昔に書いたものなので完成度は低め。
もはやキャラクター小説です。
ですが、芹沢さんのキャラが結構気に入っているので、自分としては好きな作品です。