practice(65)


六十五







 ジャック・ブラウンのことを表すに際して,名前にある色はやっぱり欠かせない。無地のものでもストライプのものでもそれが入っている,休日の公園で出会った彼であっても一緒で,ボタンを締めたジャケットの中からこちらを窺うように顔を見せていたという。そう,ブラウン。ブラウンだった。彼のネクタイはきっとブラウン。ビジネス街において人気のコーヒー店でテイクアウトをしていた若者も,人通りが多い正午の噴水に腰掛けて数度見かけたことがあるというだけのお爺さんも,口を揃えて述べるその印象は場所を選ばず,だから彼に関して収集した目撃情報を文字の上でも,彼はブラウンのネクタイを身につける始末になっていた。数ある自宅の写真立てにも,友人宅でも。ジャック・ブラウンのネクタイの色は,きっとブラウン。
「警部はどうですか?」
「さあ,どうだろうな。ストライプは好きだが。」
 時間になっても樹々より高い,街灯の上に寝そべる猫は古い作りのレリーフのように見えて警部がお孫さんのために拾い,この後にレストアする予定の車の助手席に乗せて連れ回している一匹だ。耳が縦に長い。黒い。目は丸い。座った姿勢がスッとして綺麗で,尻尾は時々ひゅっひゅっと動く。そして何かによく気付く。警部はそこに期待を寄せているようだったが,さきのコーヒーショップで新しくテイクアウトした二杯目のものを慎重に口にしながら蓋を開け,「おっ!」という驚きでこちらに振り向き,「ブラウンだな,これも。」と言ったのだった。
「ブラック派なもので。」
「ほう。まあ,そんなことは聞いてないがな。」
 より高く,猫の背筋が伸びたのだった。
 霧が歩く,そう形容するのが適しているひと固まりの気象は随分と局所的なようで道の左端を行きながら,ここに向かって来ていた。真ん中に居る,その手には恐らくリードに繋がれた散歩させられている,それも居る。壁際の任意の箇所で立ち止まって,匂いを嗅ぐ様子を窺わせるから思わず犬かとも思うけれど,跳びもする。しかも滞空時間を長く,つんのめる着地のハプニングの気配もその飼い主の慌てた様子と感じさせながら,顔となる広めの結び目は寄れた感じを,与えないのだ。
 ブラウンだった。ストライプでなかった。
「こんばんわ。」
 霧の中からそう聞こえた。
「こんばんわ。えー,ジャック・ブラウンさん?」
「ええ,そうです。僕をお探しで?」
「いえ,探していたわけではないんです。ただお聞きしなければいけない事がありまして。これから,この先にあるペットショップへ?」
「ええ,そうです。『これ』がまた,買い込んだ食料を食べてしまったもので,それを入れていた平皿もまた齧って壊すものですから。」
「その二つとも,いや食料はごっそりと購入ですかな?」
「ええ,ごっそりと。平皿も念のため五枚ほど。」
「結構な量になりそうですな。」
「ええ,でも『こいつ』も咥えて持ってくれますから。」
「躾られてる。」
「ええ,まあ。」
 警部はそれで珈琲に口をつけた。離した蓋からは細い湯気が立った。
「ところで,先週の◯◯日,まあ先週の『今日』ですな。この時間は何を?」
「先週ですか?えー,確か片付けやすい残業を文字通りに片付けてから,その帰りに,電球の展示会に行きました。その日の閉館はいつもより延長されていたのですが,それでも一時間ばかりしかありませんでしたから会場に急いで向かって,展示ブースも急ぎ足で見ましたね。一応最後まで。」
「ふむ,一応最後まで。」
「ええ,一応最後まで。」
 猫は,まだ背を伸ばしている。尻尾は時々ひゅっひゅっとしている。
「そこでは何も買わなかったのですよね?」
 警部のその質問に,ジャック・ブラウンは『頷いたかも』しれなかった。
「ええ,そこでは何も買っていません。それが,何か?」
 警部はトールサイズのカップで,否定の返事を表した。それから重ねて,言葉を続けた。
「いえいえ,ただその確認をしたかっただけです。どうもすいません。こんなところで,呼び止めてしまって。」
「ああ,いえ。構いませんよ。」
 それからジャック・ブラウンという『それ』は,リードに繋がれたものと現れた時と変わりなく,同じように,先の道を歩いて行くように,小さくなっていった。
「ああ,ジャック・ブラウン!」
 ただ様子をじっと見ていた,警部は霧が渡るように向こうに散って,分からなくなりそうなタイミングで『ジャック・ブラウン』を呼んだ。
 振り返った,ようだった。
「視界にはご注意を!」
 ハハッ!
 声高く聞こえた短い返事は霧の中から出て見える,はっきりとした手の形として,返事と別れを示したのだった。
「良かったですね,警部。」
 そう言って肩越しで見た,警部は遅れて手を上げていた。
「ああ,良かった。ジャック・ブラウンは,ジャック・ブラウンだったな。」
「ええ,そうですね。ジャック・ブラウンは,ジャック・ブラウンだった。」
 猫はそれから降りてきた。目は丸く,軽々と,その身を僕の首元に乗せてきた。温かく,重く,きっと黒いと思える尻尾は,視界の隅で短毛の黒だった。
「さあ,行こうか。孫も待ってる。『立った』卵も,パックで買って帰らなければな。」
 そう言って踵をかえす,警部はカップで珈琲を底まで傾けていた。ブラウンはもう飲み干される。ブラック派は一人いる。
「警部,もう一杯いきますか?」
 それは猫の喉を触りながらいう。返事は鳴きの,一声だった。

practice(65)

practice(65)

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-03-18

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted