影法師。
僕が小さかった頃、優しい人になりたかった。
でも、それはとても難しいことで。
僕は今、優しい人にはなれていない。
「坂巻。お前、やりたいこととかなりたい職業とかないのか?」
放課後、僕は職員室に呼び出されて、強制的な押し付けも甚だしい進路相談に乗ってもらっている。
頼んでねぇっつの。
「もう高校の二年、それも夏休みに差し掛かろうとしているんだ。目的意識の強い奴なら、高校の頭から考えてる時代なんだぞ」
さすがに高校選びからっていうのは、稀とも言えないがな。そう言って担任は進路相談の紙を取り出す。
「うちの高校は、最低でも取り敢えず大学の進学を勧めている。決して無駄になりはしない。親御さんはなんて言っているんだ?」
ウチは、殆ど家に居ない。僕と話す機会がそもそもない。進路は自分で決めるしかない。大学とかは好きにしろとしか聞いてない。
「ふーむ。坂巻の成績なら、取り敢えず選べはする。人気というか、選ばれやすい大学は競争率が高いからな。名前だけで選ぶなら、ランクを一つ落とす方が無難だろう」
大学ね。名前とか興味ないかな。
「四大の魅力は就職に有利という点だ。先を見据えて、やりたい事がないなら経済とか潰しの効くところがいいだろうな。坂巻は予備校通っているのか?」
毎日のようにラブレターは届きますけど、返事はしていないですね。
「それなら、そろそろ答えを出してやれ。返事をするのも大切なことだ。待つ側にしてみれば、無回答ほど無慈悲なことはない。そうやって人は成長していくんだ。相手の気持ちを思い計ってな」
冗談ですよ。
「お前自身の未来を考えて、思い計って、答えを出すんだ」
マジになんなよ、先生。
僕だって、悩んでるんだ。
「坂巻、お前。本当にやりたいことはないのか? どんな事だっていい。小さい頃の夢でも、途方もない妄想でも、何だっていい。先生は笑わないぞ。理解のある方だ。先生がこの教師の道に進んだのは、ある一冊の小説を読んで感動して、憧れたからなんだ。フィクションの世界に憧れて、この道に進んだ」
僕は…………。
「今すぐでなくていい。何だったら、夏休みに答えを出すのだっていい。取り敢えず予備校の夏期講習とかは、取り敢えず考えておけ。それは受けておいて、予備校選びをした方がいいぞ。受験戦争は過酷だ遊び呆けて恋に走るのも大切だ。それは分かる。でもな、嫁さんをいつか貰って養う時に、仕事。どうなってるかな。今のこの時期が響くかもしれないな」
わかんないよ、そんな先。
「もしも、特殊なプロの道に進むなら、専門学校という道だってある。ナースとか医療の道や、音楽、映像、物作り。なんだってある。自分で切り拓く道だってある」
プロの道。自分の道。
「坂巻、人生の時間はまだまだこれからだし、未来はとても大きく広く無限に見えるだろう。だけれど、それをものにして、自分で舵取りをし、自由に出来る人間は……。
……一握りだ。
その一握りになれるかどうか。その第一歩を踏む瞬間が、今だ。秋までの宿題だ。色々本を漁ったり、ネット見たりテレビ見たりして探せ。ビビッとくるもんがきっとある。そういうもんだ」
はい。
わかりました。
頑張って、探してみます。
ありがとうございました、先生。
僕は引き出しから煙草を取り出して一本咥える。オイルライターの香りを嗅ぎながら火をつけた。葉の燃える音がして、火が灯る。紫煙が充満して、灰皿を持って窓際に立つ。
窓を開けた。
野球部の野太い声とソフトボール部の甲高い声が、初夏の風と混じって流れ込んでくる。
ああ、青春時代が懐かしく感じる。
もう、そんな歳か。僕も漠然とした未来像しかなくて、まるで陸の見えない海を彷徨いながら溺れかけているようなものだった。
なんて押し付けがましい進路相談なんだ。相談なんて名ばかりだ。残酷なことをしているとさえ思う。子供に何を強要しているのだろう。世界も、文化も、社会も、現実さえも知らない未熟な子供だ。何もわかるわけがない。それでも、今から考えて選択しなければきっと、後悔するだろ。
僕の所為で。
優しくて、強くて、格好いい大人になりたかった。
そういう人間になりたかった。
そう思って四十と幾年。僕は今でもなれていない。
今でも、優しい人間になれていない。
僕は優しくなれていない。
自分のことばっかりだ。
煙草を咥えたまま、大きく息を吸い込んで、溜息とともに紫煙を吐き出した。
紫煙は初夏の湿り気を帯びた空気に撒かれて、放課後の空気の中に散ってしまう。
口の中に残った後味は、とても苦いものだった。
影法師。