紅茶とスコーンと憂鬱と。

高校二年生の今の私は、砂糖なし・ミルクたっぷりの紅茶と、東京で一人暮らしをしているお兄ちゃんが、年に数回実家に帰ってくる途中、新宿駅で買って来てくれる『成城石井』のスコーンが大好きで、毎日楽しく生きているつもりだけれどちょっとしたことで憂鬱な気分になってしまう、そんな私である。

人見知りガール

“あ、それ私も好き”
“うん、その話すごくわかる!”

人の会話を聞いていてこう思うことは多々あるけれど、
だからと言って、その会話に加わることはしない。
心の中で一通り共感すると、私の心は膨れ上がるけれど、
端から見たら、きっと何も変わってない。
無関心。
無表情。なんだろうな。
もしかしたら、本当に少しだけ、針を通した穴を探すくらいにじっと私のことを見つめれば、ほんの少し、口角が上がるかもしれません。
でも、そんな人はきっといない。
だから、誰にも気付かれない。
気付かれないのか、気付いてもらえないのか。
私の心の一時の盛り上がりは、風に舞った桜の花びらのように、
そっと華やかだけれど、自然に収まって、何事もなかったかのように。
終わって行きます。

さえずり

コーラス部が歌っている。

いや、さえずっていると言った方が適当か。
小鳥のように、何の苦労もなく、お腹から自然と声が湧きあがってくる。
笑顔で、時に手拍子をしてリズムを刻みながら。
昔流行った所謂“名曲”も、何と言っているのかわからない、どこの言語であるかも計り知れない外国の歌も、見事に歌い上げる。
彼女たちの歌声はまるでシャワー。さんさんと観客席へ降り注ぐ。
そのシャワーはきっと、春、森の中に降り注ぐシャワー。
とすると、そのシャワーを体から発する彼女たちは女神とでもいったところか。
彼女たちの顔に浮かぶ慈愛に満ちた笑顔を見れば、女神という言葉にもなんの抵抗もなく頷ける。

私は彼女たちをこっそりと舞台袖から見ていた。
ステージの袖というものは、うす暗くて緊張感があって、息苦しく感じる場所だ。少なくとも私にはそう感じる。
けれど、彼女たちのさえずりを聴けば、陰湿な空気の舞台袖も、一気に植物の息吹でいっぱいになる。
私の肺は呼吸が容易になり、胸がどきどきする。
もちろんそれは、これから何か素敵なことが起こるんじゃないかという、期待によって起こる鼓動である。
四月、新生活が始まって感じる胸の高鳴り。
春特有の胸のときめき。
そう、彼女たちは、歌で春を運んで来た。
私はそれを、こっそりと舞台袖から見ていた。
あまりの興奮に、息も出来なかった。
私の手の平は、汗でびっしょりになった。

私はずっと、舞台袖から見ていた。
春の女神が、さえずったと思ったら、春を感じた。
私は息もせずに、舞台袖から見ていた。
私は、初めて女神というものを見た。
私は、初めて女神のさえずりを聴いた。それはシャワーだった。
私は、初めて春が来たところを見た。
それは他でもない、陰湿な空気の舞台袖にいる、私のところに来たのである。
私は忘れない。
春の女神の輝きも、森に降り注ぐあたたかいシャワーも、一番に私のところに来てくれたこの新しい季節も。
私はきっと忘れない。

紅茶とスコーンと憂鬱と。

紅茶とスコーンと憂鬱と。

高校生の今感じていること、考えていること、思っていることを綴っていきたいと思います。 つたない文章ですが、よろしくお願いします。

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-03-17

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  1. 人見知りガール
  2. さえずり