アクリルガラスの厚さ、もどかしい、薄さ
夢から覚め、現実の世界へと引き戻される、あの夢と現の中間地点にいる時の微睡みがとても好きだ。
意識が徐々に戻り始めた時、まず初めに感じたのはこうだ。
コーラが飲みたい。それも、無性に飲みたい。
口の中でシュワシュワと鳴り響き、そしてキンキンに冷えたあのコーラを。
あの色、あの炭酸と程よくマッチする刺激的な甘さ。喉元を過ぎるほど良い刺激。
完璧だ。
飲みたい。コーラを。こんなにコーラを飲みたいと思うことは今まであまり体験したことが無いのだが。何故、今こんなにコーラを飲みたいのだろう。
しばらく寝返りを打ち、怠惰の余韻に浸っていたが、決断した。
買いに行こう。今すぐコンビニに。決断すると僕は行動が早い。
目を開け、勢い良く起き上がり、ドアを開けようと手を延そうとすると、目の前には鉄格子があった。
そして自分が今、留置所の中にいることを思い出した。
自分がこの先進国において法律という範囲の中で平和に、自由に生きられるという恵みに預かっていると思いきや、なんと法律を犯したことにより、この先進国において最も自由の利かない場所にいる現実を今、直視している。
コーラを買いに行ける自由があると思いきや、コーラを買いに行く自由すら無い場所にいることに気付いた虚しさったら無い。これ以上の絶望があるだろうか。
思わず3秒ほどの長い溜め息が出た。
「なんや、吉野、辛気臭いのぅ」
鼻で笑いながら明るい声で、同じ房にいる西野さんは言った。
僕はげんなりして答える。
「いやあ、僕さっき、寝惚けてて、シャバにいると勘違いして、コーラを買いにいこうと思い起きあがると、今留置場に自分がいたんやって思い出して、めっちゃショック受けたんですよ。あります?そういうの」
西野さんは笑いながら、あるかもしれんなぁと言った。良く肥えた丸坊主の愛嬌のある顔をしている西野さんは44歳。罪状は覚醒剤の売買と使用。
西野さんは背中に、どこかの神社に居そうな、いかつい顔をした神様の入れ墨が彫ってある。
その入れ墨は何か?と質問したところ、越後かどっかの酒の神様の入れ墨らしい。
酒が好きなのか?と質問したところ、酒は全く飲めないらしい。
しかし風貌は酒好きそうなおっさんだ。
というよりも何故酒が飲めないのに酒の神様の入れ墨を彫っているのだろうか。
と疑問に思ったが、そのことを聞くのは何か野暮ったい気がしたので質問をせずに、酒の神様の刺青の話はそこで終わった。
いつかまた思い出した時に聞いてみることにしよう。
「お前、入ってまだ二週間やからな、時差ボケみたいな感じのがあるやろ」
と西野さん。
シャバボケとでも言おうか。
この日方警察署は田舎の警察署で小さく、房が二つしかなく、一つの房には三人まで収容出来るようになっている。
今は西野さんと僕しか収容されていない。
本来ならば僕は加古川警察署の留置所にお世話になる予定だった。
僕が言える立場では無いのは重々承知だが、悪いやつが多い世知辛い世の中だ。
加古川警察の留置所が満杯で、いくつかの警察署をたらい回しにされた後に、この姫路の離れの、ド田舎にある日方警察署に落ち着くこととなった。
シティボーイの僕は例え留置所であろうとも都会が合っている。田舎は退屈だ。
しなびた田舎の留置所なんてつまらない。加古川警察署はかなり大きい留置所がある。
きっとそこに収容されている輩もスケールの大きいものから小さいものまで粒ぞろいだろう。
この日方警察署はしょうもない、良くあるパターンの平々凡々とした犯罪者ばかりが収容されているに違いない。
などと言ってみるが、いちいち区別して入れる訳は無く、空きのあるところに適当にぶちこまれるだけなのだが、なんとなくそんな気持ちになる。
適当なことばかり言っているが実はかなりショックで落ち込んでいるのだ。
それもそのはず、初犯、つまり初めての逮捕、留置所初体験なのだから。
抵抗と憂鬱を覚えないわけがない。しかも僕には接見禁止がついているため、愛する彼女である由紀恵とまだ面会が出来ないのだ。
接見禁止とは、勾留中の被疑者・被告人に対し、弁護士以外の者との面会や手紙の受け渡しなどを禁じることである。
接見禁止がつく理由としては、共犯がいて、その共犯が逮捕されていなかったり、面会にて何かしらの罪の証拠隠滅が出来る可能性がある場合につく可能性がある。
しかし僕の場合は共犯はいることはいるのだが、それよりも刑事との取調べの時に、あまりにも僕が犯行当時のことを覚えていないせいで、頓珍漢なことばかり言っているので、何か証拠隠滅を謀っているのではないかと思われているからである。
「お前、接見禁止ついてるってことは共犯おるんやろ?」
西野さんは暑そうにパタパタと手うちわをしながら、そう質問をしてきた。
8月の留置所は冷房が入る。しかし節電のために入れたり切ったりを繰り返す。
冷房を切ってしばらくすると、冷たい風が段々と留置所から去っていく。(僕も冷たい風と一緒に出ていきたいものだ。)
そして次第にこの隔離された場所は温度が上昇していき、サウナ一歩手前にまで熱する。
そこで冷房が再び入る。これが繰り返されるのだ。
まるで生かさず、殺さず、みたいな感じだ。
「いますよ。でもそいつはもうパクられて、どっかの留置所に居るんですけどね」
西野さんの真似をして手うちわをしながら僕はそう答える。
ドアが空き、看守の吉野さんが入ってきた。
「36番、調べ。出るぞぉ」
36番、僕に与えられた番号だ。
被告人は看守、刑務官からは番号で呼ばれるようになっている。
冷たい響きである。しかし慣れてしまえばどうってことはない。
慣れとは恐ろしい。人権侵害もこうやって慣れていくのだろうか。ということは無いだろう。
留置所の鉄格子は、金属が激しく擦れる音とともに開かれる。
まるで牢屋ですよと匂わせるような、冷たい音である。まぁ、牢屋なのだが。
牢屋から出れた、と思いきやすぐに手錠を掛けられる。
犯罪者の僕は法で裁かれ罪を償うまで、決して自由は与えられない。
あの2週間前までの自由だった頃が本当に懐かしい。
いつも、いつも、失ってから気づくこの歯痒さったらない。
留置所から外の鍵のついたドアを看守が開けると短い廊下だけの部屋がある。
留置所とシャバの境界線みたいな部屋だ。
その目の前に、また1つ鍵のかかったドアがあり、鍵を開けてもらい、さらに進んでいくと警察署の事務所らしきところがあり、そこの奥を通っていくと取調室がある。
たまに留置所から逃げ出した奴がニュースで報道されるが不思議で仕方が無い。
どう頑張って考えても、ここから脱走する方法が見つからない。
相当警察官が手を抜いていないとそんなことは出来ないはずだ。
ということは相当警察官が手を抜いているから、脱走出来るのだろうか。
薄暗い3畳ばかりの取調室に入れられ、椅子に座り、右手と椅子を手錠で固定される。
ノートパソコンを開いた刑事が僕の前にいる。
見事なまでの一重の、身長が低く体格の良い40代半ばの刑事。
「元気しとるか、吉野」
眼光の鋭い一重の目が僕を睨むように見つめながら低い声でボソッとつぶやくように言う。
「はぁおかげさまで」
僕はペコッと頭を下げ照れたように笑いながら答える。
「何がおかげさまや。俺なんもしてへんがな」
と言いながら、怖い顔から笑みがこぼれる。
無表情だと怖いが、笑うとなかなか愛嬌のある顔をしている刑事さんだ。
吸えと言わんばかりに僕のタバコを前に出してくれる。
取り調べでは唯一タバコが吸い放題なのだ。これほどの特権は無い。
「さぁ、今日もやっていこか。じゃあ今日は窃盗に入る前日の話聞かせてもらおかな」
刑事さんはカタカタとキーボードを打ち始める。
後ろには若手の刑事が腕組みしながら立っている。
「朝は何時に起きた?」
「確か朝7時ぐらいに目が覚めましたね」
「えらい規則正しい時間に起きるな。仕事もしてないくせに」
「いや、いつもは朝寝て夕方起きたりしてるんですけど、その前の日に早く寝たんで」
「なんでその前の日に早く寝たんや?」
「いや、シャブ(覚せい剤)で2日間寝てなかったんで」
「じゃあ朝7時に起きて、まず何をした?飯食ったんか?」
刑事さんはうっとおしいぐらい事細かく聞いてくる。
刑事に対していくら口裏を合わせても嘘がバレるのは良く分かる。
僕は必死で当時のことを思い出す。
というのもクスリのせいで頭がボケていて犯行日辺りの記憶がほとんど無いのだ。
「由紀恵が具無しカレーを作ってくれました」
「なんや具無しカレーって」
「ルーをお湯で溶かしただけのやつです。ご飯も無いのでそれを飲むだけです」
「そこまで金無かったんか」
「そこまで無かったんですよ」
「なんでそれでも働かんかったんや」
「いやぁ、もうホント気力が無くて」
僕は頭を搔きながら笑って誤魔化す。調べは昼から夕方まで4~5時間続く。
刑事は僕達の刑を重くするのが仕事と言っても過言ではないだろう。
調書は裁判官にいかに印象を悪くして作るかを明らかに意識している。
一日の調べが終わる最後に、パソコンで作った調書を刑事が読み上げ、「これでええか?」
と聞いてくる。
「もし、不服なところがあったら言いや。1からまた作りなおすから」
1からまた作りなおすというのがこの上ない狡猾な手法だ。
数時間かけて刑事さんと一対一で狭く息苦しい取り調べ室で問答した僕はすでに疲れて果てていて、いくら不服があろうとも、いくら印象が悪くなろうとも、1から作り直す気力は残っていない。
「いや、大丈夫です」
と僕はいつも言い、そして拇印を押す。刑事の忍耐力には恐れ入る。
「タバコ美味かったか?」
房に入るとやる気の無いパンダのような格好をした西野さんがそう聞いてきた。
「最高でしたよ」
「ええなぁ」
そう言いながら西野さんは微笑みながら遠い目をしてタバコを吸う仕草をしてみせた。
朝7時半。NHK教育テレビで流れてそうなメロディが留置所の中に響き渡る。
それと同時に僕達は素早く布団を畳む。
「さぁ、朝や。朝や。おはようさんさん。朝日がさんさん」
西野さんは決まって独り言のように、そう呟く。
「起床~」
と間延びしたような声で看守さんが3人留置所へと入ってくる。
房の鍵が開けられ、5分以内に房のすぐ側にある洗面台で顔を洗い、歯を磨く。
戻って20分もすると朝食が出てくる。
「餌や、餌の時間やで」
と、卑下したような言い方をしながら、待ってましたと言わんばかりに手を叩く西野さん。
食事や支給品、購入した品物等を差し入れする房の隅っこにある小さい窓のようなものが開き、食事を看守さんに入れてもらう。
「おっ、今日は焼き魚とタクアンかぁ。よしよし」
と言いながら西野さんは飯にがっつく。
「ええなぁ。今日の俺の朝食よりも豪華やなぁ」
と看守さんが僕達に話かける。
「一緒に入って食いませんか?」と西野さんが笑いながら言う。
一同爆笑する。
「僕焼き魚嫌いなんすよねぇ」と箸で魚をつつきながら僕は答えた。
「最近の若モンは好き嫌いが多いなぁ。なんでも食っとかな刑務所行った時困るでぇ」
と看守のリーダー的な人であろう50代半ばのメガネをかけた小柄な深谷さんは言った。
「いやいや、勘弁してくださいよ。縁起でもない。僕、執行猶予つきますよね?」
「どうかなぁ」と西野さんは含み笑いで答えた。
看守は留置所の中に2人か3人いて、交代で僕達を見張る。看守達の仮眠室や部屋が留置所にあり、そこに大体居て、何かある時や、たまに会話してくれる時に僕達の房の前に現れる。
奥には女性用の房もあり、たまに女性達の話し声が聴こえる。
顔が見れないようになっているので見たことはないがどうやら今はおばさんと、東南アジア系のカタコトの日本で話す若そうな女が二人だけいる。
「運動~」
飯を食らいしばらくすると看守がまた声をかける。
留置所の外に唯一出れる時間だ。
といっても塀に囲まれた5畳ほどの場所だ。まさにこの名ばかりの運動の時間のために作られたような場所である。
この運動の時間は僕らのタバコが吸える時間だ。
この時に3本までタバコが吸える。調べが無い時はこの時間が唯一の喫煙が許された時間。
風が気持ちが良い。人間はやはり自然に触れないといけないとか思う。
15分の運動の時間。運動というより日向ぼっこと喫煙の時間。
――夢から覚めるあの微睡みの中、ふと由紀恵にメールをしようと思った。
なんだか無性に由紀恵と会いたい。どうしてこんなに会いたいのだろうか。
久しく会っていない気がする。寝ている時、携帯はいつも枕元にある。
が、しかしこの時は枕元には無い。手探りで届く範囲を探り回してみるが無い。
ポケットの中にも無い。
おかしいなぁ、しょうがないなぁと思い目を開けて短く呻きながら上半身を起こして、ここが留置所だと気づいた。
僕はここが留置所だということ、そして由紀恵と連絡が取れないというダブルショックにより、自分の中の絶望感を追い出すかのごとく、深いため息を付く。
嗚呼、僕は一体全体これからどうなるのか。
どうして僕がこんな目に。いや、明らかなほどに自分で蒔いた種の結果なのは分かっているが。なんというか、まさか僕がこんなことにといった感じ。
一体留置所暮らしを体験する日本人が何人いるだろうか。
ワルに箔が付くと思えるほどの余裕が無い。
「なぁなぁ」
「なんすか?」
話しかけてきたのは福田さん。昨日の夜、布団を敷いて寝ようとしているところに入ってきた迷惑なおっさんだ。何かこう、生理的に受け付けないのでずっとそっぽ向いて無視して話かけるなオーラを出していたのだが、ついに話かけられた。
西野さんは隣の房に移動し、この福田さんと僕が同じ房になった。
福田さんは激しくどもりながら僕に話しかける。
「ぼぼくな、飲酒運転やねんけどな、どどないなるのかな」
「いやぁ僕全然わかんないっすね」
シラっと答えて目を合わせようとしない僕。
それにしても変な顔だ。目がこれでもかというほどまんまるで、やたらと大きい。
鼻がミニローラーで引かれたように見事なまでにぺしゃんこで、タコのような口をしている。
やや小太りで身長が低くゴムマリのような体型をしている。
手の甲の毛深さときたらもはや人間のそれではない。
「12番、調べ行こかぁ」
と看守が言った。
「12番はお前のことやで、福田」
と西野さんが言った。
福田さんはそこまで驚くか、普通。と思うほど驚きながら、大きい目をさらに大きくして看守のほうを見る。
近づいてくる看守に福田さんは「ひぁっ!?」と奇声を発し、後退りする。
こいつ馬鹿じゃないのか。
僕はイライラした。
何が起こるのか分からないと言った感じで戦慄している福田さんと西野さんと看守さん達は「大丈夫大丈夫、刑事と取り調べするだけや」と落ち着かせる。
「だだ、だ、だ大丈夫ですよね?」と何度も繰り返しながら「大丈夫、大丈夫」と励まされながら、凄まじい挙動不審のまま福田さんは取り調べ室へと連れていった。
西野さんは笑いながら「ええ相棒やな」と言っている。
気楽なもんだが、こっちは怖い。
「西野さん、良く考えたら留置所ってめっちゃ怖いっすね。どんな犯罪者が入ってくるか分からんから、精神異常者とか入ってきたら、逃げ場無いから殺される可能性とかめっちゃ高いじゃないですか」
西野さんは含み笑いのまま「そうやでぇ。どうする?はっと夜起きたら福田が上から見下ろしながらじぃっと見つめてたら」と脅してくる。
僕は裏返った声で「勘弁してくださいよ!」と少し叫んだ。
「あいつ相当おかしいやつやで。良かったなぁ」と西野さんは他人事のように嫌味に笑う。
しばらくすると福田さんは顔面蒼白状態で目を見開いたまま戻ってきた。
一体何があった。
「けけけ、刑事に、すす、凄い睨まれて脅されましたよ」
「なんて言われたんや?」西野さんは隣の房から少し声を張り上げて聞く。
「うぅう、う嘘つかんと、ちゃんとホントのこといいい言えよって言われました」
「なななんか捕まった時ね、袋にふぅぅって息吐け言われたんですよ」
西野さんは聞く
「それで何mgやったんや?0.25mg未満やったら酒気帯び運転で済むぞ。」
「おおお、覚えてないんですわ」
「そんぐらい覚えとけよ、アホ」
「酒気帯びやったら罰金50万で出れるわ」
福田さんは素っ頓狂な声をあげた
「そそっそそんなお金無いですよ」
「身内が出してくれるやろ。おとんかおかん、おるんか?」
「いいいいますけど、出してくれるかわかりませんわ」
隣の房同士だから少し大きい声でこういった会話が続く。
僕は寝っ転がり、両手を頭の後ろで組みながらその会話を聞いている。
会話が途切れ、しばらくの静寂。
福田さんは急に僕の真似をするかのように、僕の隣で寝そべって両手を頭の後ろで組んた。
なんだか、この人の一挙一動にとても腹が立つ。
そして僕の方に顔を向け、僕の顔を見ながら言った。
「きき君、綺麗な顔してるなぁ」
さも感動するかのようにそう言った。
隣の房で西野さんが吹き出す。
「あ、ありがとうございます」
僕は目を合わせないで引き気味でそういった。
「小室哲哉みたいやね」
西野さんはまた吹き出す。
「いやいや、ロン毛で金髪やからでしょ。髪型ですよ」
「いいやいや、ほんまに似てるよ」
こいつホモなのだろうか。
「トヨタのマークあるやろ?」
唐突に話が飛ぶ福田さん。
西野さんは小声で「また言ってる」と言った。
たぶん僕が取り調べに行っている間に同じことを喋っていたのだろう。
「はぁ…ありますね」と僕は相槌する。
「あのマーク作ったんな、僕やで」
「!」という顔で福田さんの顔を見た。
「凄いじゃないですか!天才だったんですね!」
この人の会話の全てがあまりにも狂気じみているので僕はこの人の会話を全部信じている演技をすることにした。単なる暇つぶしである。
「福田さんマジで凄いですね。トヨタのマーク作っていくらぐらい金貰ったんですか?」
「それが、騙されて一銭も貰ってないんや」
僕はあたかも憤慨しているかのようにしている表情を見せてみた。
「最悪じゃないですか。トヨタの社長訴えましょうよ。」
と声を荒らげて言ってみる。
他にも福田さんは、自分は精神病院に何年も隔離していて、クスリをたくさん飲まされて、ずっと監禁されていた。とも言っていた。監禁かどうかは置いといて、それはおそろく本当だろう。
福田さんとの同棲生活2日目の朝、
「さぁ、朝や。朝や。おはようさんさん。朝日がさんさん」
と隣の房から西野さんのいつものメロディ調の声が聴こえてくる。
一人になっても相変わらず言っている。
「ももも、もう起きなあかんの?寝てたらあかんかな?」
と福田さんは頓珍漢なことを言い、僕は低血圧で余計腹が立ったので無視をした。
看守さんが留置場に入ってきて、まだ布団をたたまずに寝ている福田さんに「何してんの。はよ起きぃ」と言われ怒られていた。
運動の時間。
福田さんはタバコを持っていないようだ。
パクられてすぐに持っていた物は全て預かられるが、タバコは運動の時間と調べの時間に持ってきてくれる。
そして水曜日に菓子パンや日用雑貨類等が買えるのだがその時に、持参金があるなら、タバコも買えるようになている。
被告人3人と看守さん3人で日向ぼっこをする。
吸えるタバコは3本のみ。
「よよよ、吉野君、内緒で僕にタバコくれへんか?」
と小声で言ってくるがすぐ隣に看守さんがいるのでまる聞こえだ。
「それはあかんよ」
と若い看守に福田さんは怒られた。
福田さんは僕と西野さんの吐き出す煙をタコのような口を更にタコのようにし、必死で吸っていた。
西野さんはアホかと言いながら笑っていた。
しばらくすると、新入りが来た。若いやつだ。
西野さんの房に入った。
奴は無免許運転だった。くだらない犯罪者ばかり入ってくる。
大変だ。次誰か入ってきて誰も出なかったら房には3人になる。
この狭い房に3人はしんどい。
「ききき君、綺麗な手してるねぇ」
と感嘆しながら福田さんが言ってきた。
「はぁ…ありがとうございます」
「ぼぼぼ僕の手なんかガサガサやで。ずっと紐を編む仕事してたからね」
「はぁ…そうなんですか」
「ききき君、綺麗な手してるねぇ」
と感嘆しながら福田さんが約10分後にまた言ってきた。
「はぁ…ありがとうございます」
「ぼぼぼ僕の手なんかガサガサやで。ずっと紐を編む仕事してたからね」
「はぁ…そうなんですか」
それが4回ほど繰り返された。
隣の房の新入りの奴は「あいつなんかおかしいっすよ」と小声で福田さんに言っている。
7回目に福田さんが「ききき、君、」と言いかけたところで福田さんに面会が来た。
「福田、面会やで。お父さんや」
福田さんは目を大きく見開いて驚いている。
そして福田さんは面会に行ったまま二度と帰ってこなかった。
罰金を払ってもらい、保釈されたのだろう。
看守さんが言うには福田さんの親父はまるでクローンかのように福田さんと姿形がそっくりだったとのこと。
奴はクローン人間ではないのかという話でしばらく盛り上がった。
「36番、接見禁止とれたみたいな。面会やで」
僕は勢い良く起き上がった
「誰っすか?」
「藤井由紀恵さんや。彼女やろ?」
ドクンと一回、胸が高鳴った。
「おぉ、良かったなぁ吉野。フられてなかったか」
と西野さん。
僕は鉄格子を握って早く開けてくれと表情で訴えた。
面会室は留置所から出る扉の右の扉だ。2つの扉があり、どちらも面会室となっている。
看守さんにドアの鍵を開けてもらい、面会室に入った。
丸いポツポツの穴がついたアクリルガラスで仕切ってある面会室。ドラマや映画で観るのと全く同じ作りだ。
まだ由紀恵は入ってきていないみたいだった。
看守さんが後ろの椅子に腰掛けている。
しばらくするとガラスの向こう側のドアが開いた。
看守さんの後ろから真っ白なブラウスにベージュのカーディガンを羽織り、膝丈のスカートからすらりと伸びる脚が見えたそれは由紀恵だった。
僕は由紀恵を目を見開いて見た。実に2週間ぶりの対面である。
その瞬間僕はしゃっくり混じりに泣いた。
「由紀恵、ごめん」と言いながらアクリルガラスに手を置いた。
由紀恵も同じように泣いてくれるのかと思いきや、由紀恵は泣いていない。
無表情でこちらを直視していた。
あれ?と思うと同時に由紀恵はアクリルガラスをおもっきり殴りつけた。
ガラスを殴った音が歪に反響する。
焦った看守さんが「ちょ、ダメですよ」と由紀恵に声をかけた。
「ここまでどんだけかかると思ってんねん。アホ!」
と由紀恵は叫んだ。僕は呆然としている。
僕としては、お互いが泣きながら、ごめんね、ううん、あたしが悪いのと言い合うようなシチュエーションを期待していたのだが。
嗚呼、人は自分と違うからこそすれ違い、わかりあうことはないのだろうか
僕は触れあいたくてガラス越しに手をおいたが、彼女は殴りたくてガラス越しに殴った。
しかし共通して感じたのは、もどかしいガラス越し1枚の差の重みだ。
たったこの壁1枚でお互いの世界の遠さをかんじる。たった何センチのこの差。
別に自分を庇う訳ではないが、人間もたった少しの差で犯罪者になりうるのだ。
全ては経ったの、数センチの出来事。
由紀恵がヒステリックだということを忘れていた。
しかし救われたのは由紀恵が「会えなくて寂しかった」と言ってくれたことだ。
そして1万円、差し入れしてくれた。
昔働いていたキャバクラで働き出したらしい。
なんでも僕のために私選弁護士を雇ってくれるとのことだ。
留置所では金が唯一の生命線である。
金が無いと菓子パンやタバコが買えない。それは耐え難い苦痛である。
留置所の中での唯一の楽しみなのだから。
由紀恵は「手紙を書く」「また近々会いにくる」と言い、帰っていった。
20分間の触れられない看守付きのデートだったが、心は喜びと自由を感じた。
留置所に戻ってくると西野さんがヒュウと口笛を鳴らし「良かったやんけ。色男」とチョッカイを出してきた。
僕はまんざらでもなく笑った。
ちなみにもう一人の若い無免許運転の奴はいつも「嫁が、嫁が」と嫁の話をしているが、肝心の嫁は1週間経っても面会に来ず、そのまま親が面会に来て罰金を払ってもらい釈放されていった。
――「そんで、お前が先に誘ったんか?
「そうです。僕が雄介を誘って一緒に空き巣に入りました」
「で、盗った金は折半したんか?」
「いや、僕ほんまに金無かったんで多めに貰いました」
「翌日はなんで一人で空き巣に行ったんや?雄介はどないした?」
「なんかビビってましたね。僕のやり方があまりにも大胆過ぎてついていけないとか言ってました」
「そりゃそうやなぁ。だって白昼堂々とガラス割って入るもんなぁ。凄いなお前」
僕は3つ年下の雄介と一緒に空き巣を3件した。
大した収穫は無かったが、味をしめた僕は翌日一人でワンルームマンションへ空き巣に行き、窓ガラスが割れた音に気付いた隣人が部屋へ侵入する僕を見て、警察に通報した。
そして僕が部屋を物色している時に、パトカーの音が聴こえて来たために慌てて玄関から出るとすぐ目の前にパトカーが止まった。
パトカーから降りてきた警察に対して隣人が「こいつです」ですと僕を指差し、僕は
「え?何がですの?」とシラを切ったが、警察が4人がかりで僕に向かってきたのでダッシュで逃げた。
その時、大量の安定剤と睡眠薬を摂取していたため、おぼつかない足で走ったが、10mほど走ったところで取り押さえられた。
ここまでの明確な調書を取るために刑事さんは普通の奴の3倍ぐらい時間がかかったらしい。
というのも僕が犯行に至った前日から当日までの間、僕は覚せい剤と向精神薬の過剰摂取によりほとんど記憶が無く、錯乱状態だったために、共犯の雄介と被害者の証言を基に、僕の話を聞き、僕の話がきちんと辻褄が合うまで思い出してもらうために何度も同じ調書を取らないといけなかったためだ。
日方警察署でお世話になり、70日目ほどのことだった。
西野さんと僕はまた二人きりになり、同じ房に入っていた。
西野さんが調べに行き、20分も経たないうちに帰ってきた。
3人の看守さんに抱えられながら心臓の辺りを抑えてとても苦しそうに呼吸をしていた。
そのまま房の中に入り、汗をボタボタと畳に落としながら西野さんはそのままうずくまるように倒れた。
看守さんは「大丈夫か?18番。今救急車を呼んだからなぁ」と言い、西野さんは胸の辺りを抑えながら「すいません、ありがとうございます」と息絶え絶えに言った。
僕はおたおたしながら、「西野さん大丈夫っすか?」と震える声で言った。
すると西野さんは「別に大丈夫や……そういえば、わしが、調べ行った時な、お前の刑事、おったから、今日、調べあるから、タバコ吸えるからな」
とヒュウヒュウと息を鳴らしながら言ってくれた。
西野さんは心臓発作の様な状態なのに、僕のことを気遣ってくれたその言葉にジンときて、涙ぐんだ。
西野さんはそのまま救急車で警察病院に運ばれていった。
西野さんはそのまま留置所に戻ってくることは無かった。
2日ほど、僕は一人で過ごしていたが、2日目の夜に新入りが来た。
新入りといってもこの62歳の爺ちゃんは大先輩である。
覚せい剤の所持と使用で逮捕された爺ちゃんの田所さんはなんと前科18犯。
刑務所歴は27年とのこと。
人生の半分は刑務所で過ごしているという、一体どれだけヘマを打てばそれだけ逮捕されるのかと疑問に思うほどだ。
渋い顔をした、全身にタトゥが入ったスラッとしたルックスの良い爺ちゃんだ。
言うことも中々クールである。
「吉野、お前そんぐらいの事件で初犯やったら執行猶予つくわ。大丈夫や。でも出来るだけ刑軽くするためにな、公判の時は……」
と色々アドバイスをくれた。
「もうこの歳なったら人生どうでもええから、刑務所なんか屁でもないわ。前ムショいった時も別に仮釈なんかいらんから自由に暴れたったわ」
「同じ房にガキがおってな、俺にエラそうな口聞いてきたから、あんまイチビっとんちゃうぞこのガキャァって言って、熱々の味噌汁、バシャって顔にかけたったわ」
田所の爺ちゃんはこういった武勇伝を数多く持っていて毎日聞かされる。
武勇伝と田所流人生哲学を聞くのは中々楽しかった。
田所爺ちゃんが入ってきて一週間後にまた新入りが来た。
なかなか忙しない。
田所爺ちゃんが隣の房に移動して僕の房に新入りが入る形となった。
金髪のセミロングでパンキッシュな服装な明らかに悪そうな奴である。
僕と同い年だ。名前は瀬野譲二。
アメリカ人と日本人のハーフで端正な顔立ちをしている。
覚せい剤の所持、使用で2回逮捕され、2回目に刑務所の中で、定期的に来るキリスト教の牧師の話を聞き、涙を流してジーザスを信じてクリスチャンになったとのこと。
その後覚せい剤は辞めてまともに職に就き暮らしていたが、同僚と喧嘩をし、鼻とあばらを折り、傷害罪で再び逮捕。1年刑務所に入り、出所して職に就き、まともに暮らしていたが、次は居酒屋で喧嘩をし右フック一発で顎を砕き、傷害罪でまたもや逮捕され、今に至る。
体を鍛えているのだろう。細マッチョだ。
気さくな奴で、良く看守さんと僕達を笑わせてくれる。
音楽の趣味が合い、すぐに打ち解け仲良くなった。
刑務所ではいつも聖書の話をしたりするので「牧師」と呼ばれていたらしい。
背中には大層な十字架のタトゥと、左胸には「右の頬を打たれたら、左の頬も差し出せ」と刻んであるのを「ほら、かっこいいやろ」と見せてくれた。
僕は左胸の言葉を指して言った。
「お前、全然その言葉の通り出来てへんのになんでそれ彫ってんの?」
譲二は言う。
「俺が一番出来ひんから彫ってんねん。今の俺はこんな強く生きられへんヘタレやけどさ、そのうち」
まで言って言葉が詰まった。
「この言葉の意味分かる?」と譲二。
「いや、分からん。マゾみたいやな」と僕。
「あんな、これはジーザスが言った言葉やけどな、理不尽な事に対して、殴られて殴り返すのは、言ってみれば罪に対して罪に対抗してんねん。悪に悪でお返ししてるんや。
それじゃ悪に負けたまんまや。でもな、右の頬を打たれて左の頬を差し出すというのは、悪に対して義で戦ってるんや。右の頬を打たれて頭を垂れて「ごめんなさい」って謝るのは悪に対して降伏や。右の頬を打たれて右の頬を打つのは悪に対して悪で返してるから悪の仲間入りや。でもな、」
譲二は握り拳を作って僕の前に出して見せ、興奮しているのだろうか。震える声で続けた。
「右の頬を打たれて、毅然とした態度で動じることなく左の頬を差し出すのは、唯一の悪に対する抵抗。悪に屈せず、悪で報いず、相手に悪を気付かせるという、義の真骨頂や。そしてそれこそが唯一の悪に対する勝利や」
「天安門事件の翌日、戦車の前に立ちはだかった男がいた。何人と殺してきた戦車の中の人間は、その経った一人の人間を殺せんかった。なんでと思う?」
譲二は畳を前に出した握り拳で叩いた。
「罪に気付いたんや」
「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ。これほどの、ロックは無いで」
僕は深く感嘆した溜息をつき、胡坐をかいて上を見上げながら言った。
「なんや、俺今までキリスト教っていうんはなんか一番ロックと程遠い生きモンやと思ってたけどめっちゃロックやなぁ。イカすなぁそれ」
譲二は目を輝かせて興奮して僕の目の前に来ていった。
「せやろ!クリスチャンこそ最高のロックやで。聖なるロックや」
譲二は歌うように叫んだ。
「ジーザスイズロックンロール!」
看守が笑いながら「アホ、うるさい」と叱責した。
「でも、クリスチャンってもっと真面目なもんやろ?お前見た目もそうやし、クリスチャンなってもパクられたりしてるやん」
譲二はムっとした表情で言った。
「クリスチャンになってから俺シャブはもうやってへんぞ。窃盗も恐喝も。ジャンキーで窃盗と恐喝で生活していたような俺がまともに仕事就いて働いてるだけでも凄いことやぞ」
「まぁ、そう考えると凄いなぁ」と僕は納得して言った。
「せやろ。後はすぐにキレてまうこの性格だけや。だからこのタトゥ入れてんの」
といって譲二は自分の右胸を指指した。
田所爺ちゃんが鉄格子を手で握りながらこちらの房を見ながら、言った。
「キリスト、キリストってなぁ。ここは日本やぞ。日本やったら神道と仏教やろうが。んなもん邪教や。仏はおるけど神なんかおらんわ」
譲二も同じように鉄格子を手で握り田所爺ちゃんの房を睨みながら言う。
「なんでお前がそんなん知ってんねん。ボケ。ニュートンもアインシュタインも神はいると言ってんぞ。お前はそんな世紀の科学者よりも偉いんかよ」
田所爺ちゃんは声を荒げた。
「なんやとこらぁ。調子乗っ取ったらいてこましたるぞガキャァ」
譲二は笑いながら言う。
「何がやねん。俺はただ聞いてるだけやろ。お前はニュートンやアインシュタインよりも偉いんかって聞いてんねん。はよ答えろや」
そこで看守さん達の仲裁が入った。
犬猿の仲と言ったところだろうか。両方とも傷害のベテランなのでかなり怖い。
――由紀恵から手紙が来なくなって3週間。あり得ないことだ。
いつもなら3日に1回は手紙が来ていたはずなのに。
一日中留置所の中で何もせずにくだらない会話をし、腑抜けた生活をしていると、手紙が待ち遠しくなる。そして由紀恵のことばかり考える。
だからこそ、不安が募る。由紀恵の身に何かあったのではないだろうか。
夜の仕事なだけに不安だ。ヤクザと揉めたりしたりして拉致監禁されたのでは。
ストーカーチックだった元彼に拉致監禁されたのでは。
などと最悪な結末ばかり考える。
そのせいで鬱になり1日寝込み、食事もろくに喉が通らなくなっていた。
「大したことちゃうって。彼女と俺らじゃ住む世界が違うからな。ただ単に忙しいとかそんな理由やで」
譲二は心配してくれていた。僕は由紀恵のことしか考えられなくなっていた。
「36番、手紙きたでぇ」
僕は飛び起きて、看守さんから手紙を奪い取るように手紙を貰った。
手紙には、殴り書いたように短くこう書いてあった。
「何度も心配、心配、手紙ちょうだいって送ってこないで。こっちだって忙しいんです。ただ鬱な感じだったので、手紙を書く気力どころか便箋を買いにいく気力も無かっただけです」
僕は心の底から安堵した。
「ほらな、大したことなかったやろ」
と譲二は笑って言った。
「お前、彼女おるん?」
と僕はほころんだ顔で言った。
「教会で知り合って結婚した嫁がおったよ」
と譲二は言った。
「離婚したん?」
と僕は聞いた。
「死んだ」
譲二は無理に造った痛々しい笑顔でそう言った。
僕は小さい声で、え?と聞き返した。
理解できるまで時間が少しかかった。
「信号無視の車に轢かれてな」
僕はそれを聞いた瞬間怒りが込み上げてきて言った。
「なんで。神様そんなことするんか?」
譲二は頭を搔きながら言う。
「ちゃうよ。人間の罪がそんなことさすねん」
「でも神様守ってくれへんかったんか?そんなん悲しいやんけ。俺そんなんいやや」
と僕は言った。
「俺もそう思って初めのうちはキレとったよ。でもな、人間と神様の思いは違うからな。神様やったらその車から守ってくれることも出来たよ。でも全部のことを考えたらそれが最善やってん。悲しいことやけどな。神様もそれは悲しい決断やで。でも天国で会えるからな。強みはそこや。それでも苦しいけどな」
「全部のことって?」
僕は更に聞いた。納得がいかなかった。
「森羅万象。初めから終わりまで。トータルで考えた結果や。それは必ず善い終わり方にするねん。人間の罪も勘定してな。それは難しいことやで。だから人間には分からん」
僕は頭ではなんとなく理解したが感情では理解出来なかった。
しかしそんなことは譲二のほうがそうだろう。それなのに譲二はこの神様を信じていた。
「ありがとうな」
と譲二は唐突にそんなことを言った。
「何が?」と僕は聞き返した。
「さっき俺の気持ちになって悲しんでくれたやろ。それは俺は嬉しかったから。お前やっぱりいいやつやな。俺の行ってる教会絶対来いよ。俺は今から刑務所、大した罪じゃないから、まぁ半年は行くやろ。お前は執行猶予で出れるやろ。半年後、教会で会おうや。そんで一緒に頑張って真っ当に生きようや」
隣の房からすすり泣く声が聴こえる。
「どうしたんすか?田所さん?具合悪いんですか?」
田所爺ちゃんはしゃっくり混じりに言った。
「譲二、お前ええやつやな。今までムカついてたけど、ええやつやわお前」
なんだかそう言っている田所爺ちゃんもいい奴のような気がした。
前科18犯という社会的にみると極悪人なのだが。
僕らのいいやつの定義ほど適当なものはない。否、それは全ての人間に共通することだ。
ちっぽけな器の狭い僕らは、人間は、みんなどっこいどっこい、五十歩百歩だ。
しかし、譲二のように、罪を犯しはするが、悔い改めて、良くなろうと頑張っている奴は本当に良い奴な気がする。
天と地ほどもある、牢屋の中とシャバの外。
しかしその壁の差はアクリルガラスの厚さ、わずか数センチ。
人間の違いも同じく壁の差、数センチ。五十歩百歩。
「田所さんも教会来てや。待ってるで」と譲二は言った。
「おう、2年半まっとれ。獄中で老衰せんように祈っといてくれや」と田所の爺ちゃんはすぐさま返事をした。
僕らはみんなで声を出して笑った。
その時僕ははっとして思わず「あっ」と声が出た。
「なんや?余罪でも発覚したか?」と譲二。
「いや、西野さんに酒の入れ墨の訳聞くの忘れてたなぁ。もう一生謎のままや」
僕は溜め息交じりに悔みながら言った。
「なんじゃそりゃ。っていうか誰やねんそれ」と譲二は鼻で笑った。
「まぁ、誰でも言いから取りあえず西野さんが無事なように祈っててや」
――僕は明日、拘置所へと移動する。そこから1か月ほどすれば公判だ。
その時に僕が刑務所へ行くか執行猶予で出られるか分かる。
まぁ、おそらく執行猶予だろう。というのがみんなの結論だ。
アクリルガラスの厚さ、もどかしい、薄さ