ユリイカ

ユリイカ

雨尾 秋人

三作目です。【完結済+エピローグ】 

一話

 1
 なにか才能がある、または他人とは違う特技を持っているという人間が、葉山たどるには理解できなかった。葉山たどるという人間には、才能と呼ばれるものが何一つないのだ。それはまだ「見つかっていないだけ」という可能性は十分にあった。しかし葉山たどるには、それを見つけようとする努力すらも、拒んでいた。いうならば、努力する才能すらも、備えていないのだ。だから葉山たどるは学校での成績も悪い。しかし、それを改善させようという気は葉山たどるには無い。葉山たどるは何事にも、「自分には才能がない」という事を口実にして逃げているのだ。それは葉山たどる自身も、わかっていた。しかし――葉山たどるにそれを改心しよう、という気は毛の先程にも満たないのだ。
 中学校の校舎は、放課後を迎えると暗渠の中みたいな静寂に包まれる。それは好奇心旺盛な子猫のように、眠気を覚えると潔く沈むのだ。葉山たどるは、この時間帯が好きだった。自分だけを残して世界が遠のいていくように思えるからだ。
 外からは、部活動の声がまるで遠くから渉ってきた余韻のように聞えていた。野球部が金属製のバットでボールを打つ甲高い音がし、サッカー部がパスを求めて叫ぶ声が響いていた。夕陽を称える橙色の日差しは葉山たどるの肌に同化してまとわりつくようで、葉山たどるはいささかな眠気を覚えた。その眠気は心地よく身にまるで効き過ぎる頭痛薬のように溶けていき、ゆっくりと浸透していった。まるで壮大な海面に小降りの雨がひとしきり降るような、音もない静かで穏やかなものだった。 
 葉山たどるにも、所属している部活動はある。陸上部だ。葉山たどるは陸上部の百メートル走を種目としていた。土の地面を歩くと妙な違和感しか残らないスパイクシューズを一丁前に履き(土地面専用のスパイクピンもあるが、わざわざ交換するのが億劫なのでそのままにしていた)、特別速くもないのに気取りを張っていた。正直、葉山たどるは陸上部という肩書きだけが欲しかっただけなのだ。
 葉山たどるが部活を時々休むようになってきたのは、一年の終り頃(三学期も終盤を迎えた時期)くらいからだった。休む理由など、ごく一般的な事だった。「部員からいじめを受けている」というような、大それた原因ではない。ただ、その部活に楽しみというものが無いからだ。
 元々葉山たどるは体を動かすこと――いわゆる運動というものが――苦手だった。決して運動神経が悪いというわけではないが、無駄に体力を消費するという行為に葉山たどるは面白みを感じなかった。陸上部に入った理由はといえば、母親に「スポーツ系に入れ」と言われただけなのだ。しかし、それも今思えばそんなもの無視しておけば良かったと葉山たどるはいささか後悔する。文芸系の部活に所属していれば、こんなことにはならなかったかもしれない、と。けれどそれも――ただの口実に過ぎない。もちろん葉山たどる自身も自覚している。
 葉山たどるは自分だけしか存在しない静かな教室で、本を読んでいた。しかし、内容は一切脳には渉ってこなかった。文章だけが自動的に読まれていくだけで、内容は数ページ前から入ってきてはなかった。文章だけが円滑に読み進まれていき、内容は閉塞している。溜息を洩らしながら葉山たどるはその文庫本を閉じ、机に置いた。そして緩慢に脳を包んでいく眠気に委ねて瞼を閉じた。教科書などが詰め込まれたリュックを机に持ち上げ、そこに顔を埋めて沈黙している教室と一体化するように、全身の動きを心臓の鼓動と血管を流れる血液だけにした。すぐに意識は遠のいていった。遠くから聞える部活動の声と、時を刻む時計の秒針だけが静寂の中に旋律を奏でていた。
 教室の廊下を誰かが歩く足音がした。二人組で、何かを話している。声からすると女子生徒だろう、とたどるは予想した。しかし正解かどうかの確認はしなかった。気にするほどでもない。



 たどるは静かに眠りに浸かり、静かに目を覚ました。規則正しく時を刻む時計の音は止め処なく続いていた。教室の端側に付いている掛け時計に目をやると、午後五時を超してすぐだった。たどるが睡眠していた時間は、僅か十五分ほどだった。たどるは一度頭部を掻き、再び文庫本を手に取った。しかし丁度栞を挟んだページが文字数の多いところだったので、読む気が失せて再び本を閉じた。
 たどるはもう一度時計に目をやった。すべての部活動が終了するまで、あと約四十五分もあった。――なぜたどるは放課後の教室で時間を潰しているかというと、親に疑われないためだ。そう、たどるはまだ母親に部活をサボっていることを話していないのだ。理由など当然だ。なかなか言い出せないからだ。だからたどるはこうして部活動が終了する午後六時まで(母親が仕事から帰ってくる時刻は、約午後五時半だ)、暇を教室で持て余しているのだ。
 たどるは椅子から腰を浮かせ、窓際の方へと向かった。この二年生の教室があるのは二階で、窓から見ると高いのか高くないのかよくわからない中途半端な高さだった。普通に飛び降りても足を痺れさせるだけで済みそうな距離だ。たどるはまるで新鮮な人参のような色をした夕焼けの空を眺めた。カラスが数羽ほど、空を横切って宙を駆けていた。たどるはそれを目で追い、黒い点にしか見えなくなったところでやめた。たどるは空を眺める事に飽き、再び自分の席に戻った。そして文庫本を開いて、目を文章に滑らせた。
 たどるの脳は未だにぼんやりと靄を佩びていた。メトロノームのように優雅に揺れており、上手くシーンの想像ができなかった。やがてたどるは諦めて、本を読む事を中断した。そして溜息を吐いた。それは真冬の吐息のように宙へ紛れて消えていった。
 たどるは教室から出、廊下をひとしきり眺めた。すでに廊下には夏の空気など漂ってはおらず、肌を撫でるような丁度良い気温をしていた。去年の秋はまだたどるは部活に行っていた。それが一年後にはこの様なのだから、空しいものだな、とたどるは自嘲気味に苦笑した。沈黙はそんな苦笑すらも逃がさずに掴んでそれを廊下へと響かせた。
 特にすることも無いので、たどるは図書室にへと向かった。歩みを運んでいると、途中で吹奏楽部が演奏の練習をしているのが耳に入り込み、それをしばらく堪能した。まだ未完成らしく、所々でミスが致命的だった感じの演奏ではあったが、たどるは別に構わなかった。中学生なんだし、こんなもんか、というのがたどるの素直な感想だった。図書室へ向かう足取りを再開させる。
 図書室はまるで散歩に連れて行かせてもらえないことに慣れた飼い犬みたいに、静かで無愛想な空気が佇んでいた。たどるはその空気を気にすること無く、図書館へと入った。図書室内はとても空いていた。たどるを合わせても二、三人ほどしかおらず、ましてやたどると同じ二年生など――どうやら一人だけいた。たどるはその事に驚いた。僕と同じ二年生が何をしてるんだ、と。
 単行本サイズの本を立ち読みしているその少女に、たどるは見覚えが無かった。同じ二年生という事を証明させる青い靴紐は確かにあった(一年生は靴紐が赤色で、三年生は黄色だ)。たどるはその女子生徒を横目で見てみる。やはり見覚えは無かったが、なかなかの優れた容姿だという事はわかった。夕方の色を馴染ませると似合いそうな黒髪は脇ほどまで伸びており、二つに結んでいる。顔はいかにも文学少女、といった凛々しい顔つきでおり、中学二年生よりかはすこし大人びた官能さを佩びていた。瞳は奥行きが深く奇麗な黒色をしており、睫毛が長かった。肌はバターのように白く、身体はいささか細すぎているのではないだろうか、とたどるは思った。しかしその細さも魅力と化していた。
「もしかして、これ見たいの?」と彼女はたどるの視線に気づき、読んでいた本の表紙を見せてたどるに訊ねた。
「いや、そうじゃないんだ」とたどるはいささか焦って言った。「なんで二年生がここにいるのかなあ、て」
「君もじゃん」とその子は言った。
「僕もだけど」とたどるも言った。

二話

 彼女は本を抱えるように持ち、まるでシリアスな顔をしながらワインの香りを誇張して味わうみたいにゆっくりと視線を文字列に渡らせていた。たどるは今の状況に勿な勿体無さを感じていた。異性との会話という機会は、たどるにとってとても珍しい事態だった(さらにいえばたどるは同姓との会話も少ない)。そんな珍しい機会をたった一言だけで終了させるには、何か惜しい気がした。たどるはもう一度彼女を見る。変わらず彼女は文章を規則正しく読み進めていた。
「本が好きなの?」とたどるは訊ねた。
 彼女の反応は無い。自分の声だけが図書館内に小さく響き、場がさらに強く鎮静したような感覚にたどるは囚われた。僅かな羞恥心を覚える。
 しばらくして彼女はもしかして、と確認するような顔でたどるに目をやった。「私に言ったの?」
「そうだけど」とたどるはいささか歯痒さを感じながら言った。君しかいないじゃないか。そしてもう一度「本が好きなの?」と訊ねる。その質問への意図は微塵と無い。
「うん。好き」と彼女は言った。扁平な板の上に玉を転がすような機械的な喋り方だった。
「僕も好きだよ」とたどるは言った。「読書家ほどではないけれど」
「私も」と彼女は言った。それだけだった。あちらには会話を続けさせようという気は無い。彼女は一番先に浮んだ言葉だけを使うみたいに淡白として簡潔な口調だった。
 その口調にたどるは困惑し、やがて会話を続けさせる事を諦めた。そしてなぜ会話を続けさせようとしたのか、たどるは自分のしようとした意図がわからなかった。彼女はまじまじと本を見据えている。たどるはその彼女を見つめている。
 図書室内はまるで真冬の夜空のようにしんと徹底した静寂を守っていた。会話が途切れるとそれはそれでたどるは困った。何となく彼女の持っている本に視線が行く。彼女はその視線に気づき、怪訝そうにたどるの顔を窺う。
「もしかして、これ見たいの?」と彼女は訊ねた。持っていた本の表紙をたどるに見えるように立てる。そうすると本が彼女の口元を隠した。
「いや、そうじゃないんだ」とたどるは手を横に振って否定した。「なんでこの時間に図書室にいるのかな、て」
「だから君もじゃん」
「僕もだけどさ」とたどるは肯く。
 それからたどると彼女は図書室の椅子に腰を下ろし、テーブルを挟んで向かい合うように座った。彼女は先程持っていた本を棚に戻し、また違う文庫本を持ってきていた。たどるも適当な本を一冊選び、それを自分の前に置いた(特に理由は無い。彼女に倣っただけだ)。彼女はたどるの制服の胸元に付いた名札を一度見、「葉山君」と言った。たどるも彼女の名札を一瞥する。「新崎(あらさき)さん」
「確認だけどさ、二年生だよね?」と新崎は必要のない確認をした。靴紐を見ればすぐわかるのに。
 見てのとおり、とたどるは言った。そして持ってきた文庫本を手に持った。知らない作家の、見た事のない本だった。
「もう一つ質問してもいい?」と新崎はたどるに訊ねた。「部活には入ってる?」
「入ってるよ」とたどるは澄ました顔で言った。そしてそれがまるで自分の長所だとでもいうように、「幽霊部員だけどね」と言った。若干強調するように。
「なんで?」
「まあいろいろあったんだよ」とたどるは意味深さを装った口調で言った。
 もちろん、理由など無い。ただ行きたくないから、というだけなのだ。しかしたどるはわざとそれを誇張して話す癖があった。そうすれば、他人はたどるに同情の目を向けてくれるからだ。たどるは劣等感や疎外感、自己憐憫が強い人間だった。他人から心配や不安の眼差しを浴びることで、たどるは密かに高揚するのだ。孤独な僕を心配してくれている、という事実をゆっくりと咀嚼する。そうすることでたどるは――幸甚といってもいいだろう――とても心地よい感覚を覚えるのだ。
 たどるはよく、部屋の隅で身体を収縮するようにして座る。いじめられているわけでも、貶められているわけでもない。しかし、自分は悲劇のヒロインだと思うことで疎外感や孤独感が身を覆う。僕は死んだ方がましな人間だ。僕という人間は自殺するために生まれてきた、という感傷が淡々と脳裏に浮んで心を縛り(それも自分が勝手に生んだものだ)、たどるは「存在しない劣等感」に身を沈める。そうすると、涙が溢れそうになる(正確には涙など現れない。作った啜り声だけがしているだけだ)。無理に嗚咽を試み、声を殺して咽び泣く、という振り。たどるは他人の目を気にしながら自己憐憫に溺れる仕草をし、容易く人の心を欺いて同情の視線を貰う――狡猾な人間なのだ。
 そしてたどるは目の前にいる新崎という人間も僕と同じだろう、と推測していた。
 たどるは自分が新崎に徐々に敵意識を抱くようになってきているのが理解できた。僕と同じなのだ。こいつもどうせ人の視線を気にして悲劇のヒロインを装う腹黒い人間なのだ。格部活動が活動しているこの時間帯に、図書室なんかにきて本を読んでいるなんて僕のような思考を備えている人間しかいないだろう。あるいは受験勉強に励む受験生か、だ。
「そう」と新崎はあまり興味なさそうに言った。
「君は部活に入ってるの?」とたどるはあえて訊ねる(たどるの中学校は何か事情がない限り、部活には入らなきゃいけないのだ)。
「まあ、入ってるよ」と新崎は言いながら椅子から腰を浮かす。そしてテーブルの上に置いてあった本を棚に戻した。「一応ね」
「どういう事?」
「私にもいろいろあるってこと」と新崎はそう言い捨てて、図書室を後にした。
 僕も帰ろう、とたどるも椅子から腰を上げた。そして教室に戻り、リュックを担いだ。もう一度だけ窓から空を見る。黄昏はさらに濃さを強めていた。いささかな闇も佩びている。夕陽が一日の終りを知らせるかのように盛んに燃え、たどるの肌を赤く染めた。

三話


 森屋幸太という人間には、友達という関係を持つ人間が少なかった。いない、といってもいいだろう。それには葉山たどるとは違い、「原因」というものが存在した。その原因はアスファルトが欠けて石ころになったみたいに、くだらなく些細な事だった。そんなくだらない事で、友人という関係は「元」友人にへと変更されるのだ。
 まだ森屋が小学生の頃(六年生の中間辺り)、当時森屋は仲良くしていた友人と喧嘩をした。諍いが止め処なく続き、お互い引き下がれない状況となってしまう。そしてそのまま関係は途切れた。制服の糸がほつれるみたいに。
 森屋は自分が先に謝罪をしなかったことを悔やんだ。それと同時にそれは相手も同じことを考えているだろう、と勝手に想像した。絶対そうだ、俺たちはまた友達に戻れるはずだ、と。
 しかし、森屋のそんな希望はことごとく消滅する。気がつけば森屋は孤独となっていた。その「元」友人以外の友人からも、関係は途切れていた。それに気づいたときには既に独りにへとなっていたのだ。なぜだ? と森屋は考えを巡らせる。そしてたどり着く答えは、必ずそれだった。
 喧嘩相手の「元」友人が、森屋の悪い噂を広げているのだ。
 そうに違いない、と森屋は断言できた。「元」友人は、そういう性格なのだ。まだ友達関係だった頃にも、幾度か他人の悪口を叩いていたのを思い出す。それが森屋にはやるせなさに変わり、やがて腹立ちに変貌した。そして、悲しさと淋しさを伴った。つまり「元」友人は、森屋と復縁する気など、毛頭と(それは宙を舞う塵ほども)無かったのだから。絶交したら、とことん嫌うのだ。
 それからの森屋はまるで暗渠に住み着く虫のように薄暗く以前の明るさ(それが森屋の長所で取柄だった)も見せなくなった。問題が勃発する前までは仲良くしていた友人たちは、まるで森屋を脱ぎ捨てられたシャツを見るような目つきで俯瞰に見、そしてそこには貶めを佩びさせていた。
 森屋は悔しかった。実に遺憾に思えた。自分の言動が、どれだけ醜かったかと激しい後悔をし、そして「元」友人に対する怒りは止め処なく蓄積され続けた。そんな日々は地獄よりも過酷だと森屋には思えた。それでも学校を休むという事は森屋はしなかった。そうじゃないと完璧に敗北した、と思えるからだ。そんな日々の繰り返しを過し、森屋は中学に入学した。新しい友人を作ればいい。森屋は以前の明るさを(多少無理矢理ではあったが)取り戻し、新たな友人を作ることに努めた。
 しかし、森屋はまたしても失望する。友人と呼べる関係を持てた人間は二、三人ほどできた。しかし、それすらも粉砕された。「元」友人のあくどさは、中学になっても続いたのだ。またしても悪い噂の波紋を広めたのだった。
 それを知らない森屋は、いつものように新しくできた友人たちに話しかける。しかし、どこか妙なよそよそしさを感じる。そして、気づく。なんでだよ、と何度も託つ。どうして俺だけがこうなるんだ? そこまで俺を蹂躙し、何が楽しいのだ? そして森屋はまたしても孤立した。休憩時間になれば机に身を預けて眠る、という振りをし、放課後になれば潔く下校した(当時森屋は習い事で空手をやっていた事もあり、部活には入っていなかった)。
 習い事で通っていた空手には、楽しさというものは感じなかった。ただただ淡い使命感のように委ねられ、そこはかとなく通うだけだった。ましてや空手が強いというわけでもなかったし、強くなろうという努力もしなかった。言われた練習メニューをただただこなし、終了の時間がくれば誰よりも早くに家に帰った。
 森屋の母親は、そんな息子の日々にどこか薄気味悪さを感じていた。家に帰っても寡黙をつらぬき、夕飯ができればそれをひとしきり食べ、風呂が沸けば赴くように入って身体を洗う。宿題を終わらせ、決まって午後十一時には就寝した。それはまるで機械のように規則正しく、そして生きる気力を捨てたような生活だった。
 母親はそんな森屋を見ていれなかった。空手の日になると当然のように仕度する森屋を見て「行かなくていいのよ?」と訊ねるが「なんで?」と返ってくるだけだった。そして母親は森屋に空手を辞めさせた(森屋が何も話さないので、母親は何が起きたのかも把握していなかった。小学校の担任にも何度も訊いた。しかし、担任の教師も首を横に振るだけだった。同じく、中学の教師も)。
 空手をやめたところで森屋が以前の明るさを取り戻すとは思えなかったが、母親はこれでいいんだ、と自分で無理矢理解決に持ち運んだ。そして森屋に「何かやりたい部活はない?」と訊ねる。二年生になったら部活をしない? と。
 森屋はひとしきり黙ったあとで、「陸上部」と小さな声で(ほぼ囁き声で)呟いた。そしてもう一度、もうすこし音量を増して「陸上部に入りたい……です」と言った。それも丁寧な口調で。母親ではない誰かによそよそしく喋るみたいに。それが母親には辛かった。
 それでも森屋がそう言ったことに母親は嬉しかった。「じゃあ」と母親は微笑みながら言う。「陸上部に、入部届け出しましょ」と。森屋はすこしだけ頬を緩めた気がした。それと同時に、不安を抱く顔色になった気もした。それは否めない事実だった。



 二年生になった森屋は新しい教室になり、新しいクラスとなったが以前のように友達を作ることはしない気でいた。どうせ円滑にいくはずもない。しかし、どこかで孤独の淋しさを抱えているのも事実だった。思わず友達になれそうな生徒がいないか教室内を見渡す。そして森屋と同じように一人でいる生徒を見つけた。
 それが「葉山たどる」という人間だった。退屈そうに机に身を委ねて顔を隠している。森屋は椅子から腰を浮かし、葉山たどるの方へと向かう。友達になれるかな、という淡く僅かな期待を抱いて。
 しかし、足が思うように動かなかった。それは葉山たどるに話しかける事を身体が拒んでいるようだった。再び過去の出来事が脳裏に淡々と浮ぶ。上手く決意できなくて逡巡を繰り返す。指先が震えているような気がする。笑みが引き攣っているのもわかる。そして葉山たどるに話しかけることを、躊躇した。
 森屋は葉山たどると自分の共通点を探った。いろいろ模索し、ふと葉山たどるの入っている部活は何か、と思い当たった。担任の教師に「葉山たどる君の入っている部活は何ですか? 友達になりたいんです」と訊ねる。
 陸上部だった。これだ――と森屋はまるで決定的な証拠を掴んだ探偵のように一人で高揚した。そして一人で本を読んでいる葉山たどるに目をやる。森屋は一度こめかみを掻き、重く鈍い足を前に出して歩みを始める。緊張で胃が強張り、息が苦しい。どう話しかけようか、一言目をいろいろと考えてみる。何も浮ばないことは見えていた。
 葉山たどるは森屋の存在に気づく。そして森屋は訊ねる。上擦った声を通常に戻そうと葛藤が混じったぎこちない口調で。
「俺さ、陸上部に新しく入ろうと思うんだけどさ。どう思う?」
 は? と森屋はまたしても後悔する。どう思う? と言われても……と自分で思う。どう思う?

四話

 3
 「今日は部活こいよ」と森屋は毎日のようにたどるに訊ねる。たどるはそれをいつものように無視する。人が蟻の存在に気付かないみたいに。「おい」と森屋はしつこくたどるに声を放つ。唾がほとばしる。たどるはそれに徹底した無視をつらぬく。
「なんで部活来ないの」森屋は訊ねる。
 たどるは誇張に森屋を気にしない振りをする。窓の方へ目線を向けたまま、森屋と顔を向かい合わせないことに努めた。やがて森屋はたどるに呆れたように溜息を宙へ洩らし、自分の席へと去っていった。やれやれ、とたどるは思った。この頃毎日のことだ。
 たどるが森屋と出会ったのは、中学二年を迎えた初日だった。森屋は二年生から陸上部に入部するらしく、これからよろしく、というようなことをを言われた。たどるは「そう」と平然なまま表情を変えずに言う。正直、興味など無かった。部活に行かない僕に言われても、とたどるは脳内で苦笑する。しかし、森屋はそんなたどるの態度など気にせずにいろいろと語り出した。荒く間を置くことも考慮しない勢いだけの口調で、次々と唾が宙を踊った。たどるは顔をしかめる。
 森屋はただ必死に思いつく事があればとりあえずそれを声に出す、ということを努めた。話題が途切れるのが怖かったのだ。森屋は沈黙をはばかり、脳裏に浮ぶ言葉をひとしきり喋った。空手を辞めたことや、陸上部では四百メートル走をやりたい、ということをだ。あまりにも勢いで話すものだから、森屋自身も思考が追いついていない。
 たどるは雄弁と語る森屋を思わず軽蔑した。初対面からよく喋るなこいつ、というのがたどるが森屋への第一印象だった。森屋は脳裏に浮び続けていた話題が作る渋滞を歓迎していたが、それはすぐに枯渇してしまい、一瞬にして獲物を狙う深海魚のようにしんと静まった。閉塞感に囚われる。森屋は焦りを覚え、耳たぶを掻く。



 そして予告どおり森屋は新しく訪れた新一年生と共に、入部してきた。しかし、たどる以外の部員たちは森屋の入部を歓迎してはいなかった。一年生たちを歓迎する表情と森屋へ接する態度が著しく偏っているのだ。一年生たちにはいろいろな種目を勧誘したり、基本の練習を教えたりしたが、森屋には何一つとして口も聞かなかった。たどるはその現場に妙な薄気味悪さを抱いた。いくら同級生だろうと、森屋への態度が冷たすぎる気がしたのだ。
 森屋はその周りの態度に、慣れているようだった。屑箱から溢れて、地面に零れたゴミを見るような視線が森屋に向けられていたが、森屋はそれを案の定と予想していたみたいに気に留めてはいなかった。
 それからたどるは、森屋が孤立しているという事実を知る。たしかに陸上部の部員のなかに森屋と話したことの無い人はいたはずだ。しかし、その人ですら森屋を――まるでそれが自分の使命かのように――毛嫌いしていた。たどるはその世界が理解できなかった。意味がわからない。やれやれ。息を何度か吐く。
 しかし、たどるはその現状を救おうだなんて事は毛頭と脳には無かった。森屋と仲良くしようという気もさほど芽生えなかったし、そのまえに森屋が来るから、という理由で部活にきている自分が信じれなかった。
 結局、たどると森屋はそれきりだった。たどるは翌日からは再び部活を休むことに努め、森屋は孤独のまま時はまるで山水のように流れていった。森屋は毎日のようにたどるに訊ねにくる。「部活こいよ」と。たどるはその馴れ馴れしい口調に腹立ちを覚えた。いつから仲良くなったんだ僕たちは。たどるは心境の中で首を傾げる。この森屋幸太という人間は、一体どんな思考を自身で完成させているのだろう?
 森屋は独りの状態を保ったまま、変わらず部活に行っている。決してたどるのように意味も根拠も存在しない理由で休む事はしない。たどるは部活へ行っていない。顔も出していない。陸上部の部員たちは葉山たどるという存在を憶えているかすら、危ういほどだった。たどるはそれでも構わなかった。しかし、森屋がそれに納得いかないようだった。理由はわからない。まるで見当もつかない。



 給食の時間が終了し、校内は昼休みを迎える。チャイムが鳴ると同時に教室にいた人たちはまるで物音に反応した鳥の群れみたいに教室の外へ消えていき、教室は喧騒から見放された空間となる。その中に――取り残されたその虚ろな空間に――葉山たどるは存在する。もちろんたどる以外にも生徒はいた。似たようなイラストばかりをノートに描いている女子、熱心に勉強に励む男子、場の空気を読むように小声でまるで作戦会議か何かをするように話す女子たちのグループ。それらの存在はたどるの視界からすれば、風景の一部に過ぎなかった。
 たどるにとってそれらは森林でいう樹にしかならず、どれも同じに見えた。羊の大群に見分けがつかないみたいに。
 たどるはとくにすることも無いので、図書室へ向う事にした。昨日の放課後と同じ道程を歩む。昨日の静けさなど余韻も残っていない騒がしい廊下に足を運ばせ、耳が痛くなるような喧騒としている階段をくだる。前々から不満を憶えていることだが、いささか図書室が遠すぎる気がする。
 図書室内も放課後とは著しく違い、様々な生徒たちが静けさを求めて室内をうろついていた。たどるは昨日新崎が占めていた本棚の位置へ向う。そこには四、五人ほどの生徒が並べられている書籍をひとしきり眺めていた。たどるもそこへ混じる。そして新崎が昨日目を流していた本を発見した。それを棚から引き抜く。見たことも無い本だった。
 どうやら恋愛系の話らしかった。さらに詳しく目を通す。どうやら女性同士の同性愛な恋愛の話らしかった。たどるはその本に何か示唆的なものが隠されているのではないか、と勘を巡らせてみる。理由は無い。しかし何も掴むことはできない。たどるはその本の表紙をひとしきり見つめた。
 たどるは図書室を後にする。新崎との関係は毛頭無い。しかし、何か複雑な心境がたどるの胸を抉った。示唆的なものはまだ見えない。探すつもりもそれほど無い。

五話

4  
 放課後を迎えると校舎は鎮静する。まるで空に特定されて精密に点検されるみたいに、よそよそしい静けさが場に佩びている。その海底に沈んだような教室は葉山たどるだけの物となる。その中でたどるは読書をする。空は夕陽をたたえ、グランドからは部活動の声が渉ってくる。たどるはこの自分だけを残して見放された教室に、心細さを感じながら(自分で作り上げた感情だ)ひとしきり読書を進める。僕は孤独な存在、と脳裏で呟きながら。耳元を覆う静寂が、たどるを憫笑しているような錯覚に陥る。それは自分が作り出したものという事をたどるは自覚している。
 暗澹たる深淵にたどるは自身から飛び込む。劣等感がまとわり、孤独と疎外された感覚がまるで風呂場から放出した盛んな湯気みたいに脳裏を浸食し、曇らせた。
 やがてたどるはそれに飽き、自己憐憫を中断した。自分だけしか存在しない教室でやっても、空しいだけだと気づいた。そして読んでいた文庫本を机に置き、教室内を眺めた。淡い橙色を佩びた空は風を伴っている。夕陽に照らされ明晰な輪郭をしている巨大な雲は宙を泳ぐように凪がれている。教室の窓は風通しのために開いたままになっており、そこからは心地よい弱風が侵入してきていた。窓を隠しているカーテンはまるで息を吹きかけられるタンポポの綿のように悠々と宙を舞っており、教室の地面にウェーブを描きながら踊る薄い影が映されいた。たどるはそれらを眺める。
 教室内は変わらずしんと完結した静寂をまとっている。黒板は粗く消されたチョークの跡がそのまま残されており、出鱈目に霧が渦を巻いたような霞みが浸食している。その隣に掛けてあるホワイトボードには明日の日直と時間割が記されている。ホワイトボードよりも高い位置に飾られた掛け時計は刻々と乾いた音を放ちながら、順調に世界の進行を音で知らせている。後ろには一定の距離を守って隔てられた机が並び、さらにその後ろには生徒の荷物を片つけるための木製のロッカーが横長に佇んでいた。そのロッカーには殆ど荷物は無く、空洞となっている所が大半を占めている。たまに美術でつかう絵の具や習字道具のバックが置き忘れたままの所も存在した。
 たどるはその光景を満足するまで視界に収めたあと、自分の椅子から立ち上がり掃除道具が整頓されたロッカーからほうきと塵取りを取り出し、教室の床を掃く作業をはじめた。教室の床はまるで掃除がされていなかった。ここを掃除の担当をしている生徒たちの億劫という意図が、そのまま地に染みついているように埃が目立った。たどるはそれを掃く。いささか列からずれている席を正確に直し、ボウリングレーンのような奇麗な一列を完成させる。チョークを消した色がそのままな状態である黒板消しをクリーナーで掃除し、そして荒い霞みのようなものが広がったままの黒板を元の深緑色に甦らした。次に先が丸みを佩びて凸凹になったチョークを几帳面に横に並べる。それが終了すると、妙なやりきれなさに支配されていた教室は元の清潔さを取り戻したようにたどるには思った。
「何やってるの?」と誰かが廊下から言った。
 「え」とたどるは乾いた声を洩らしながらそちらの方へ振り向く。そこには新崎の姿があった。それからたどるは「そっちこそ」と言う。
「え」と新崎は声を洩らす。「そっちこそ」と新崎も言う。たどるの反応を楽しんでいるようだった。
「僕は教室の掃除をしていただけだけど」とたどるは手に持っていた、ほうきと塵取りを新崎に見せた。捕えた獲物を見せつける狩人のように。
 新崎は一度うなずく。それから「今日も部活行かないの?」とたどるに訊ねた。
「そっちこそ」
「葉山君それはもういいよ」と新崎はたしなめる。
「ごめん」とたどるは言う。「それで新崎さんも部活はサボりですか」
「別に下の名前でいいよ。「ことね」でお願い。新崎、てなんか長いし」とことねは訂正し、「部活は今日もサボり」と言った。たどるは昨日と比べてことねの口調がどこか明るい気がした。妙な違和感を覚える。
「それで、何の用?」とたどるは訊ねた。それから若干口調が偉そうだったな、とたどるは頬を掻く。
「いや、私もする事が無いし、廊下を歩いていただけだけど」
「僕もそれはよくやるよ」
「そうなの?」とことねは言った。「部活サボるあるあるなのかな?」
 知らない、とたどるは言った。今日はよく喋るな、とたどるは勘を巡らせてみる。もしかして僕ともう一度話したいから来たのではないだろうか? とおこがましい思考が脳裏に浮ぶ。それは無いな、とたどるはそれを拭き消そうと努めるが脳裏にその考えは焼きついたように剥がれない。丸太に釘を打たれたみたいに、それは離脱しないでいる。
 実際、新崎ことねは退屈していた。一人で教室にいても何もすることが見当たらない(宿題も済ませてしまった)。椅子に背を預けて宙の空白を見据えていると、ふと葉山たどるの顔が脳裏にいささかな揺らめきを佩びながら浮んだ。彼は今日も部活に行っては無いだろう、という気がし、散歩を装って会う事にしたのだ。そこには彼に対する好意のようなものが僅かではあるけれど、あっただろう。しかし恋愛などという大きなものではない。
 たどるは自分の席の椅子に腰を下ろし、ことねはその前の席の椅子を借りた。従ってたどるとことねは向き合うようになる。たどるは思わず赤くなる。異性と顔を合わすなんて、そんな機会など今までにあっただろうか? 無い。そんな記憶はたどるには無かった(仮にあったとしても、それは砂が覆い隠すみたいに憶えてはいない)。
 ことねはたどるの机の上に置いてあった文庫本を一瞥する。「何読んでるの?」と訊ねる。たどるはその文庫本の表紙を見せる。面白い? とことねはそれを見て訊ねる。わからない、とたどるは言う。少なくともつまらなくはないよ、と付け足す。ことねは「そう」と肯く。
 会話が途切れる。場に重い沈黙が淀みはじめる。風に靡いたカーテンとその揺らめく淡い影が、その間を埋める。それは存在しない第三者のような役割を演じている。たどるはその淀む沈黙をはばかり、何かないかと勘案する。「昨日も訊いたけれど」
「うん?」
「どうして部活に行っていないの?」とたどるは訊ねた。特に興味はない。たどるは彼女の企みは理解しているつもりだ。何せ自分と同じなのだから。
 彼女は顔をしかめた。それを訊くか? というような事を表情で訴えている。たどるはその青臭い演技に内心で嘲笑する。傍から見ると、こんなに痛々しいのか、とたどるは自分を振り返る。これからは改心しようという考えはまるで無い。
「私の初恋の話をしてもいい?」と彼女は確認を取るように訊ねた。
 構わない、とたどるは言う。
「私の初恋は小学五年生の時だったの」
「奇遇だな。僕もだ」嘘ではない。本当に偶然、同じ時期にたどるは初恋を覚えていた。その初恋の女子は今じゃ不良となっている。どう道を踏み間違えてしまったのだろう? 興味は無い。
「そう」とことねは興味なさそうに言う。「でもその初恋が駄目だったの」
「なんで」
「私ね、女の子に恋したの」
「奇遇だな僕もだ」とたどるは驚いたように言う。そして昼間に見たあの本の表紙が脳裏に過ぎる。そういうことか。
「君のそれは当然のことでしょう?」
「まあね」
 それから彼女は訥々とではあるが、一度息を吐いてから言った。「それでね、私はある日決意をきめてその子に告白する事にしたの。まあ結果は予想するまでもなく、見えていたけれど。それでも私は告白することにしたの。絶対に失恋して落胆することは予想できたけれど、これできっぱり終わらせようと決意したの。
 私が恋したその子は当時やっていた習い事のバレーで一緒になった子でね、行っている小学校は違ったけれどとても仲が良かったの。本当に仲良しだったし、正直私はあの子に会うためにバレーに通ってたようなものだった。そして私、告白したの。勇気を出して。彼女は困惑してた。まあわかってた反応だけど、実際そうなるとやっぱり後悔したわ。でももう遅いから、彼女の返事がくるまで黙っていたの。それで結果はわかるよね?」
 たどるは肯いた。作り話にしては毅然としているな、とたどるは関心した。もしかすると本当なのかもしれない。
「それで私は初恋にして初失恋をしたの。返事は「ごめん」とそれだけ。「友達のままじゃだめ?」とかそんなのも無い。謝罪されただけ。正直もうその子との関係は終わった、と私は思った」
「でも彼女は優しかった、という事か」とたどるは言った。部活に行かない理由とまるで関係の無い話だな。
「違う。本当に終わったの。次の日、緊張しながらバレーに行ったら、その子は複数の女子を連れて私を見ていたの。それで私はとても緊張しながら喋りかけたんだけれど、何も返ってこなかった。こうして私は無視されるのが始まったの。それからも私は無視されたわ。それからバレーで履いているシューズを隠されたり、いろんな事をされた。私は本気で告白を試みた自分に後悔したわ」
 たどるは不覚ながら、その話を途中から同情してしまっている自分がいる気がした。「それで部活に行かなくなった理由は?」と訊ねる。
 ことねはしばらく黙り込む。たどるは彼女に猜疑を抱いている……はずだった。彼女の顔は、何かを堪えている。それが涙だということはたどるはすぐに気づいた。ことねの脳内には、あの時の光景が強制的に再生されていく。ことねはその過去を思い出すことを拒んだ。しかし、求めていない涙が高速に上昇し、目元に浮ぶ。反射的にことねは涙をたどるに見られないように隠す。とてもぎこちない仕草だった。たどるはすぐにそのことに気づく。ことねは迂闊に思わず鼻を啜ってしまう。ことねは口を結び、涙の存在を拒否する。しかし狡猾な涙は拒絶することねを構い無く、流れる。涙は止め処なく、溢れる。涙が頬に線を引く。そして、ことねは泣いた。
 たどるはその静かに泣き出すことねを見つめたまま、戸惑いを覚えていた。どうすればいい? たどるはその話の続きをしなくていい、と言った。するとことねは「いや、話す」と言う。そして彼女は、喋り出しす。喘ぎが喉につまり、嗚咽に襲われながらも、彼女は話す。たどるは唾を呑む。

六話

 5
 小学五年生のときに、篠木さゆと新崎ことねは出会った。当時通っていた習い事の女子バレーが発端だった。まるでそれは必然的なもののように、新崎ことねと篠木さゆはすぐに仲良くなった。
 それから幾日か経った頃、ことねはふと自分が篠木さゆに友情とはまた別の感情を抱いているという事に気づく。その正体は曖昧にぼやけており、理解するには長時間を要するようだった。ことねにはその感情がわからない。まるで人間がさらなる欲を求めるように、その曖昧模糊とした感情は篠木さゆと出会えば出会うほど、強みと深みを増していった。ことねにはその感情がわからず、非常に曖昧なまま行き詰っている。川の淀みみたいに。篠木さゆの顔が脳裏に浮べば新崎ことねはそれに悶え、そして頭を抱える。
 バレーボールを手で弾ませる篠木さゆの姿を見ながら、ことねは妙に緊張する(それが何を示唆するんのか、ことねはまだ理解できない)。身がこわばっていて空気を肺に取り込む作業も苦しく、億劫になる。彼女はそんなことねの様子など察することも無く、普段通りの口調で話す。ことねだけが顔をいささか紅潮させてぎこちなく相槌をうっていた。傍から見れば奇妙な光景だ。ことねはうまく篠木さゆと顔を見合わせる事ができなかった。日光が眼球に目掛けて射てくるようで、思わず周りの方へと視線を逸らす。逃げてしまう。本当は延々と篠木さゆの姿を視界に映していたかった。しかし、それを第三者が否定するみたいに、ことねはさらに煩悶の茂みにへと彷徨わせていく。
 それが恋愛感情というものだと気づいたのは、それから何週間か過ぎた頃だった。ことねはこれまでに、そういう根拠で好意を抱いた人間など存在しなかった。そう、それが新崎ことねの初恋だった。それも異性ではなく、同姓に。私はどこへ向かっているのだろう? とことねは何度も悩む。苦悩する。



 女子バレー自体に対することねの興味はすでに皆無に近かった。習い始めた頃はまだ興味があり、楽しさを感じていた。しかし、人間は飽きる生き物だ。ことねは女子バレーに飽きていた。篠木さゆと会うためだけにことねはバレーに通う。それくらいしか通う理由はなかった。それだけの事でも、ことねは休むわけにはいかないのだけれど。
 ことねが女子バレーに楽しみを感じなくなったのは、飽きたという理由以外にもあった。それはいつからか、ことねが「期待される」ようになってしまったからだ。ことねには、才能があったのだ。相手チームをまるで伝説の闘牛士にでもなったかのように、奔放に翻弄させ、抵抗しようという余地も微塵と与えない。彼女のその動きに、無駄な部分はまるで無かった。なんども考え直して、ほんとうに必要最低限な物しか詰めていないリュックサックみたいに。それはまさに「才能」の精だった。
 篠木さゆは同じ練習メニューしかしていないのに、もはや格が違う新崎ことねを不快に思う時が多々あった。それは妬みがもたらす醜いものだということは自分でも理解している。さゆはことねに嫉妬を覚えてしまう自分自身が何よりも不愉快だった。しかし、ことねはそんなさゆの事情など察することも無く、当然のように隣に座ってくる。思わず不快な感情を表情に露にしてしまっている時もあっただろう。この時から徐々に篠木さゆは、新崎ことねという存在を猜疑しはじめていたのだ。



 そして問題が――新崎ことねにとっては事件が――起きた。篠木さゆは、目の前で顔を紅潮させている新崎ことねのその発言に、脳内が虚無な空白に支配された。何も考えることはできなかった。声を発するという行為がいささか難しい。「え」とだけ、脆い声が洩れただけだった。急速に喉が涸れを佩びていくのがわかる。強い日光を浴びていた砂を口に含んでしまったように、水分が急速に吸収され、感覚が強く麻痺する。
 ことねに告白された。さゆは困惑よりもはやくに、腹立ちを憶えた。
 その瞬間から篠木さゆは、新崎ことねが完全に「嫌い」となった。それは森に住む獰猛な獣がすべて溶けてしまうくらいに。さゆは彼女に嫉妬しているのだ。同じ練習メニューをこなしているのに、なぜここまで差があるのだ、と。とても深い憎悪を心の隅で抱いていたのだ。
 さゆは同姓に告白された、という事実よりも新崎ことねという人物が告白をしてきたことに苛立ちを覚えていた。理由は自分でもわからなかった。バレーでの才能が彼女とわたしでは差がある、という事と、彼女がわたしに告白する、という現状にはどこにも関連したものは無い。交わる点など無い。規則正しく一定を隔てて並んだボボウリングレーンのように、それは交差することなど決してありえない。篠木さゆはただ、新崎ことねという存在に怒りを覚えているのだ。
 なぜここまで腹が立つんだろう? さゆは自分の思考が正常かどうかが思わず不安になる。さゆの前でしばらく返事を待つことねは、いささか自分の気持ちを正直に吐いたことに後悔しているような顔つきに変わっている。なにかを言わなければいけない、とさゆは焦った。何といえばいいだろう? さゆはいろいろと思索する。このような状況の時、どういった言葉を返せば妥当なのだろう。
 さゆは自分でも把握できていない謎の苛立ちに苦悩されつづける。そして同姓に告白されたという状況にようやく気づく。とても複雑な心境が互いに癒着し、さゆは自分という存在を定めていた箇所が歪んでいくような感覚に催される。
「ごめん」ようやく落ち着きを――僅かではあるが――取り戻すことができたさゆが言った言葉が、それだけだった。その一言だった。そのあとに付け足す言葉は見当たらなかった。
 空気がとてつもなく重い。沈黙が二人の周りを漂う。ことねは案の定、と予測していた結果を知り、これで今まで抱えていた苦悩から開放されると安堵の息を吐いた。――いや、吐けなかった。ことねに与えられたのは、失恋がもたらす巧みに研がれた鋭い刃が心臓を突き刺す痛みだけだった。
 しばらく間があり、「そうだよね」とことねは弱く小さな声でそういった。
 返事は無い。
 気がつくと前にいたはずの、さゆの姿は消えていた。吸い終わった煙草の煙みたいに、消えいたのだ。さゆはこの状況が作り上げた空気に耐え切れず、逃げたらしかった。その重く虚無な空間に、ことねは一人取り残される。ことねの視界から、世界が遠のいていくような気配がした。そこはかとなく憫笑やことねを嘲笑する声が聞える。
 ことねの視界が、まるで蛇の腹のように大きく歪む。どうやら、私は泣いているようだった。



 次の日からことねは孤独となった。昨日のこともあり、いささか気まずさが余韻のように身に残っていることねは、嫌々ではあったがバレーに向う。誰とも喋りたくないな、とことねは祈る。肌がこわばり、体育館に足を踏み入れることに緊張してしまう。みんなが昨日あった事(ことねが告白したこと)を把握しているのではないだろうか、という不安が過ぎる。体育館からは普段とは異なる気味の悪いよそよそしさが浮遊しているような、幻の感覚が肌に張りつく。
 体育館の中に入ってしまうと、ことねはさらに忙しなく辺りからの視線を確認する。そこにいる人たち全員が、昨日ことねにあった事を知っている。そんなことばかりが脳裏に浮び、思わず存在しない視線を感じてしまう。ふと、さゆはまだ来ていないのだろうか? と浮ぶ。今日はあまり顔をあわせたくはなかいな。けれど、やはり気になってしまうのは否めない事実だ。
 篠木さゆはすでに体育館へ来ていた。さゆの姿が視界に入り、ことねは反射的に身を隠そうと動じてしまう。それと同時に、私のせいでバレーに来なくなるんじゃないか? といういささかな不安が消失し、安堵を得る。そして緊張がさらに身を覆う。深夜に訪れた墓地みたいに気分が荒く無茶に昂り、敏感に意識が反応をしてしまう。ことねの神経は擦り減っていく。逃げだしたくて、身体が引きの大勢を取ってしまう。耐えろ、耐えるんだ私。
 そして彼女は落胆する。さゆの視線が、ことねの瞳を捉えたのだ。ことねはもちろん、その視線を拾う。猫の尻尾が逆立ち、太くなるみたいにことねは固まる。湯気を発しそうなくらいに肌へ紅潮を完成させ、脳内から複雑にもつれていたあらゆる感情が一瞬にして抹消する。ことねの脳内は真っ白となる。淡白とした、虚ろなものにへと変貌してしまう。すべてが完結したみたいに。
 彼女の視線は、鋭く鋭利な刃物のようで、ことねは思わず目をそむける。直感が走る。ことねは最悪な状況を育んでしまったのだ。失敗だった。なぜ思いを伝えようとしてしまったのだろう、と過去の自分に憎悪を憶える。なんて馬鹿なことをしたのだ。そしてことねは、失恋を味わった。すべてを呑みこむ深淵が、彼女を襲うみたいに。
 それからのことねはバレーを辞めた。バレーそのものに楽しさは感じなかったし、雄一のさゆとの関係も消失した今では、通う理由などどこにも無かった。期待されている事など、どうでもよかった。辞めることに対する逡巡は毛頭無かった。潔いものだった。ことねは深く重い溜息を洩らす。



 やりきれない思いのまま、ことねは中学へ入学する。そして部活は「篠木さゆが絶対に入らない」と勘を巡らせながら導き出した答えの、「文芸部」選んだ。篠木さゆとはもう顔を合わせたくない。過去が再び彷彿してしまう。それを拒むために、篠木さゆとはもう会わない。
 それは篠木さゆも同じだった。もう新崎ことねとは会いたくはなかった。あれからさゆは女子バレーにいるメンバー全員に、ことねから告白されたことを広めた。詳しい理由は自分でもわからなかった。ただ、腹立ちが止め処なく身体の芯を揺さぶっているのだ。かつてはあれだけ仲が良かったのに、そんな関係は脆いものだな、とことねは思う。それはガラス製の食器みたいに、皹が入れば潔く崩壊するのだ。
 なので、部活を選ぶときでも「新崎ことねが絶対に選ばない」部活に入ろうとさゆは決めていた。あらゆることを思索し、考慮した結果、思い当たったのが「文芸部」だった。
 そして、再び二人は会ってしまう。
 予想外な展開に、新崎ことねは困惑し、そして部活にも行かなくなかった。それは両親には言えていない。一年生の頃はまだ一週間に一度ほどの程度で行っていたが、二年生になると、それすらも億劫になった。文芸部自体にも、そこまで面白みは感じなかったのだ。


 6
 たどるはその事をことねから聞いたあと、その深い余韻に身を沈める。たどるはことねの顔を見る。そして現在の時刻を確認する。そろそろ下校しても悪くない時間だった。もうすこしだけ、彼女と話していたいな、といささか思う。空は薄汚い藍色に染まっている。真夜中の深海のような、奥行きのない色合いだった。そこに墨を含んだ埃のような雲が飾られている。無造作に貼り付けられた切り絵のようだ。その空をたどるは見据える。それからもう一度、彼女を見る。自分が偽者なら、彼女は本物だなと思う。
 その時にはすでにたどるは、彼女が篠木さゆに抱いた感情と同じものを、彼女に覚えている。

七話

 たどるは、今が授業中だということをすっかり忘れていた。その日は不規則に地を濡らす雨だった。空が翳りを覚えた薄暗い色合いをほのめかしている。今は歴史の授業をしており、中年な男教師のくぐもった声が延々と静止したかのように静かな教室を渉っていた。それと同時進行でチョークが軽やかに動き、黒板に削られて微細な屑を散らしながら文字を板に浮かべている。乾いた音が一定した律動で流れる。それはどこか時計の秒針が刻む音ににていた。生徒の殆どがそれを機械的にノートに書き写している(机に顔を埋めて寝ている者も確かに存在した)。たどるは何度か黒板に目をやるが、さっぱりわからない。
 たどるの脳には、四六時中どこかに新崎ことねという存在が引っ掛かっていた。コルクボードにストラップが掛かってるみたいに。おかげで授業にも集中できず(集中したことなど無いが)、虚ろな静寂がこもる廊下を延々とながめていた。たどるは苦悩した。どうして僕が新崎ことねのことなど考えているのだ? と。僕は彼女に過去話に同情しているのかもしれない。いや、あるわけないとたどるは、かぶりを振る。
 ここ最近のたどるは、常に葛藤に蝕まれている。たどるはそれに忌憚の意識を向けようと努めるが、その葛藤がおさまる事はなく、未だに明晰としてたどるの身に沈んでいた。たどるは廊下から視線を離し、シャープペンを手に取る。それを二、三回指の腹の上で回転させ、殆ど授業始まりから時が進行していないままの空ろなノートに立てる。ノートは空白が八割方、いや九割方を占めているにも関らず、消しゴムで粗く消された霞がところどころで致命傷なしみみたいに残っていた。頭が漠然としたまま進まず、思わずペン先が走る。しがない落書きを描いては、粗く消す循環がこの溝の中みたいに静かな教室の中で行われていた。
 ノートの端部分に、立体の四角を描く。よほど暇なんだな、と自分でたどるは思った。それをまた消す。次に扇型の形をノートに作ってみる。描いている途中でそれを消す。しばし静寂に浸る。ノートも碌に取っていないのに、机には消し粕がまるで空き巣に侵入を許してしまった部屋みたいに、散らばっていた。
 授業終了を知らせるチャイムが規則正しく鳴り響いて辺りの静寂を破る。その瞬間に生徒たちも規律良くシャープペンやノートを片付ける。そして当然のように立ち上がり、たどるも釣られるように椅子から腰を浮かせる。そして皆は億劫そうに頭を下げる。
 べつに尿意など催していない。しかし、たどるはトイレへと足を運ぶ。それはトイレをすることが目的ではない。わざと遠回りをしてむかう。二年生教室をすべて通り過ぎるためだった。そうすれば新崎ことねがたどるに気づくかもしれない。たどるはそこで邂逅を装ってことねと話す。それがこの行動がしさする意図だった。やはりたどるは、ことねが気に掛かるのだ。
 そんな浅はかな思惑どおりに進行するわけもなく、たどるはただただ無駄足でトイレに来てしまった。仕方が無いので、尿を済ませようとしよう。男子トイレの中は、たどる以外誰一人としていなかった。細長い空間の真ん中に狭い道が延び、それを挟むように小のための便器と大のための便器が設けられた個室が並んでいる。自然とたどるは隅側のトイレにへと向かう。 
 換気扇が順調に回転している飄々とした音だけが、その空間に流れていた。たどるはベルトを外すために、手をかける。そこでトイレのドアが開いた。
 森屋だった。森屋がトイレに来たのだ。それはたどるに毎度のことのように「部活来いよ」と言うためだけに来ただけかもしれない。それともただの偶然かもしれない――。
 たどるは何も言わない。森屋はたどるの隣の便器の前に立つ。それをすこし不快に思う。
「よう」と森屋が言った。
「ああ」
 沈黙。換気扇の音がとめどなく間を満ちる。
「なんで部活来ないの」案の定、そのことを森屋はたどるに訊ねた。
 たどるは舌打ちをしたくなるのを堪える。「いろいろあるんだよ」
「いじめでも受けているのか?」
「ああ、そうだよ」と適等に受け流そうとする。
「嘘つけ」
「ああ」
 鎮静。その空間は再び静寂に囚われる。トイレの外からは、騒がしい男子の声が響いている。トイレの中は、まるで放課後の校舎のようだった。
 しばらく間がある。空気がやがて重みを佩びていくような気がした。「俺はお前のいいところいっぱい知っているつもりだ」と急に森屋が言う。
 なんだ急に、とたどるは思わず噴き出す。しかしすぐにそれを堪える。「は?」
 森屋が訥々と喋り出す。「俺も最初部活に行く時、不安だったよ。行きたくなかった、と言ってもいいくらい。小学校の頃にいろいろあって、部活に入ってもそれがまたどうせ始まるんだな、て思って嫌だった。母親がそれを心配して、今まで行っていた空手を辞めさせたんだけど、正直いって空手を辞めたところで意味は無いのよ。でも、その気持がなぜか嬉しかったんだよな。それで二年生から部活何はいりたい? て訊かれて。正直参ったよその時は」
 たどるは肯く。深く肯く。そのときにはすでに彼の尿は済んでいる。蛇口を固く閉めたみたいに。しかしまだたどるは尿をしている振りをした。森屋の話には、新崎の話とどこか似通った点がある気がしたからだ。
「だって小学校で俺嫌われたんだぜ? なのにそいつらがいる部活に入れ、て言われるんだから。空手はまだ小学校違った奴もいたし、何ともなかったんだよ。まあ友達はいないけど。いやー正直、母親の考えてる事がわからなかったわ。でも、やっぱりその気持って嬉しいんだよな。やっぱり母ちゃんってそういう事なんだろうな。よくわからんけど。だから嫌でも何か言わなきゃ、て思ったのよ。それでぽん、と浮んだのが陸上部だった、ってだけだ」
 たどるはどう反応すればいいのか、思わず困惑した。ベルトを締め、水が便器に流れるのを見届ける。尿を洗い流すために、水の膜が便器に張り付くようだった。何か返さなければいけない。どうすればいい? 思考がもつれ、たどるは平然な表情を装うことができない。たどるはこめかみを掻き、「あっそ」とだけ言った。声が小さかったからか、森屋は聞えていないようだった。
「ん?」と森屋はベルトを締めながらたどるに訊く。「なんか言った?」
 たどるは舌打ちを零してから、不機嫌そうな顔をした。理由はわからない。そして声量を上げてもう一度言った。
「あっそ」
「うん」と森屋は肯く。
 たどるがトイレを出ようとしたとき、後ろから森屋が訊ねた。「なあ」
「なんだよ」とたどるは下手な演技にしか見えない態度をして、森屋を睨む。
「俺。今四百メートルやってるんだ。楽しいよ。たどるも一緒にやらない? 俺と」
 たどるは舌打ちを零す。上手くできない。何を意固地になっているんだ僕は。たどるはそんな自分に舌打ちをした。


   

八話

 7
「そいつに僕のなにがわかるんだよ、て言いたいね」「なにが四百メートル一緒にやろう、だよ。僕がなぜそんなことしなくちゃならないんだよ」「第一、僕は才能が無いんだ。何もかもに。そんな僕に何を期待することがあるんだっていうんだ?」
 喧騒を忌憚しているような静けさの覆う放課後の教室には、たどるとことねがいた。お互いに顔を向き合っている。たどるはひたすら森屋に対しての愚痴を託っていた。口が開けばどれだけでも愚痴は零れた。たどるは唾が飛ばないように気を配りながらも、延々と喋り続けた。ことねはそんなたどるを眺めている。まるで校舎の長い廊下を目にやるような視線だった。そこには何の感情も伴っていない。ただただ葉山たどるを、はばかるような眼差しだったのだ。
 新崎ことねは、葉山たどるの現在考えている思考が漠然として摑めなかった。彼は何を言っているのだ? というのが一番に抱く感想だった。たどるの話している内容の八割方、ことねはまだ正確に理解をしていない。抽象的な感情で、暫定的に解釈しているだけのだ。たどるはことねの相槌も求めず、ただ森屋に対して言いたい意見をことねにぶつけていた。ことねはもはや、たどるの話に耳を傾けていない。たどるの声は静寂と共に流れている。潮の香りに、波の寄せ上げる音が伴うように。または沈黙の部屋に、耳鳴りが虚ろに響くみたいに。
「僕に一体どうしろというんだ? あいつは。ほんと、考えていることが理解不可能だ」ことねからすれば、現状のたどるも十分理解不可能だ、と思う。それでも、たどるは逡巡の余地も覚えず口を走らせている。そこには躊躇というものが問われていない。
「ねえ」
 ことねがそこで、たどるの話を滞らせる。なんだ、というような顔をたどるはする。眉をしかめている。
「葉山君、さっき「僕には才能が無い」って言ったよね?」
「うん。言ったよ」
 いささかな音も監視する敏捷な沈黙が二人を覆う。たどるは突然、口を挟んできたことねに訝りを抱く。彼女の瞳はたどるに何かを語っていた。たどるはその意図を読み解こうと努めようとする。それは宙へ浮ぶ塵を掴もうとするみたいに、困難なことだった。たどるは潔く諦めた。
 彼女はたどるの顔を見つめたまま、口を開く。「これは今になってのことじゃないけど――前から思っていたことだけど――葉山君って「才能」ということを高く捉えすぎている気がするの。葉山君にとっては余計なお世話かもしれないけれど、やっぱり私はそう思っちゃうの。なんていうか……TVとかに出ている人たちとか、賞状を貰っている生徒とか、そこで始めて葉山君にとっての「才能のある人」になるんじゃないかな、て思うの。違う? いや、そこまではいかなくても、多分葉山君が捉えている「才能」というのは、そういう事なんだと思うの。自分の届かない場所に、「才能」というものを置いている」
 たどるは黙っている。懇々と話していることねを、ただ虚ろに見つめている。それはまるで秋が終ったが、冬の始まるにはまだ早い空虚な期間みたいに、曖昧としていた。輪郭が正確に合致せず、たどるに見えている世界はぼんやりとしている。
「一体何を――」
「厭われても仕方ないと思う。でも、言わせてほしいの。葉山君、君は多分――ううん、絶対――便宜的に口実を作って逃げているだけよ。私は断言できる」
 たどるは再び黙り込む。自分でも不甲斐ない行為だと思う。彼女の言っていることは、正確にたどるの急所を定めて虐げた。鋭利なナイフがチーズを丸く切り取るみたいに、たどるの胸は乱暴に抉られたような痛みを覚えていた。今まで見え隠れしていた空洞が、ついに露になった気がした。その空洞は誇張して、たどるの体に刻まれたようだった。水も流れないような空洞だ。
「そのとおりだ。君のいうとおり」たどるは、俯きたくなるのを堪えて、十一月に偶然降った雪みたいに弱い声で言った。
 彼女はたどるを見つめている。そこには腹痛を及ばせるような気まずさが漂っている。たどるはその気まずさ含め、あらゆることに歯痒さを抱いた。僕は一体、何がしたいのだろう? そんな疑問が、まるで溶けた氷から垂れる滴ように生まれる。僕は苦悩する。彼は悶え苦しむ。たどるは煩悶する。
「君のいっているとおりだ。本当にそのとおりだと思う」たどるは言う。
「……うん」
 たどるは笑みを作ろうと努める。その空間が僕を嘲笑っているようだった。たどるはことねの顔を窺うことができなかった。そして、僕は教室から逃げ出した。
 その空間に残されたことねは、独り俯いたまま、自分のなにも掴めない虚無な手の平をみた。静かに深みを増す夕焼けが、さらにやるせなさを誇張した。


 8
 無垢な夕陽が世界を不思議に炙っている。たどるは陸上部を遠くから眺めていた。そこには白い粉で線を描がいたトラックに沿って加速走をしている男子部員や、ハードルを最上まで上げてそれを飛び越えようとしている女子部員がいた。その女子部員は飛び越えれず、派手に尻もちをついていた。そしてそれらと同じように、部員たちと愉快そうにはしゃぐ森屋の姿があった。たどるに絡むときの神妙な顔つきの森屋は、そのグランドの一部には存在していなかった。まるで使い古した石鹸のように、それは原型を留めていない。たどるはやるせない思いに駆られた。たどるは気づく。僕は本当に孤独になったんだ、と。
 たどるには世界が歪んでみえた。孤独が虎視眈々とたどるに狙いを定めていたのだ。浴槽の窓のように、それは強い霞を佩びている。たどるの足元から、地面が爛れていく。爛れ、剥がれていく地面からはうっすらと陰謀を企む狡猾な闇が覗いている。やがてその闇は深淵へと変貌する。深い井戸の奥のように、それは底を窺わせない。たどるを呑みこもうとその闇が震える。暗黒がたどるを覆い、たどるは孤独に埋もれていく。たどるは一人、夜を迎えた。何者かの声が聴こえる。
「あの」それは幻想ではなく、実在する声だったことにたどるは気づく。
 その声が一瞬で闇を剥奪する。たどるは目を覚ました。抽象的に歪んでいた世界が明晰に輪郭をえがいて、もとへ蘇る。夜が明けた。たどるは声がした背後を振りむく。聞き覚えのない声だったが、それが女子の主だとはわかる。そして既視感も覚えないまま、たどるは彼女を見る。
「葉山たどる……君?」と彼女がたどるを上目遣いで見ながら訊ねた。
「そうだけど」とたどるは言う。知らない人だ。
 篠木さゆは、たどるの顔を覗きこむように、見ている。



 

九話

 9
 夕陽が彼女の肌を、まるで熟した柿みたいに鮮やかな色合いで染めている。たどるはやはり彼女に見覚えは無かった。いささかな勘も浮ばなかった。まるで雲の存在しない朝方の空のように、たどるの脳裏は極端な空白を広げていた。何も浮びはしないし、なにも消えることは無い。たどるはもう一度、前にいる彼女が自分と関係している箇所があるか、模索してみた。何一つ浮ばない。そして断定する。彼女と僕は無関係だ。他人なのだ。
 彼女はたどるの顔をひとしきり見つめたあと、自分の名前を言った。順番が逆だろう、とたどるは思う。いや、顔を見つめるという行為は必要ないんじゃないか? 篠木、さゆ。たどるはその名前を知っているかどうか、自分に問う。たどるはかぶりを振った。知らない。やはり他人だ。これが初対面だ。関係など無いのだ。
 篠木さゆの瞳は、一瞬の乱れも窺わせずに、たどるの容姿をその世界に映し続けていた。彼女の瞳は毅然としており、懇々とした意思が何かを物語っている。たどるは茫然としたまま、彼女の顔に目を向ける。すこし自分の頬に熱が佩びるのがわかった。ところで彼女の瞳は、なにか光沢らしき物を連想させる。その丸い瞳には、明晰にたどるの姿が描かれているのだ。鏡に映るみたいに。
「な、なに?」とたどるは小さな声で訊ねる。
 篠木さゆはたどるの姿から目を一瞬だけ逸らす。そしてまた視線を戻す。「葉山たどる君だよね?」
「だからそうだけど」と小さいままの声でたどるは言い、頬をぽりぽりと掻く。わかりやすく照れているのだ。自分でもわかる。
「その……新崎ことね、と一緒にいるよね?」と篠木は訥々とたどるに訊ねる。
「え」たどるは目を丸くする。それから「う、うん」と肯く。「そうだけど」
 新崎ことねという名前が登場し、おもわずたどるは戸惑った。なぜ新崎ことねの名前が登場するのだ? たどるはいささか彼女に訝りを抱いた。夕陽の明りを、彼女は髪に馴染ませていった。彼女の奥行きの深い瞳が、夕陽を浴びて鮮やかな光を蓄える。まるで真夏の真夜中に光る海辺のような煌びやかさをおぼえていた。それは迂闊なたどるの懐へと侵入し、演繹的にたどるに様々な悶えを与えた。
 それからたどるは彼女が一体何者なのか訊ねた。篠木さゆは一度口をつぐみ、間を置いて新崎ことねと自分の関係をたどるに吐いた。そこにはそこはかとない気恥ずかしさと、自分で自身を述べるという、おこがましさが声調に含まれていた。そしてようやく、たどるはすべての謎を、合点することができた。
 彼女が、新崎ことねの過去の――あの暗澹な初恋の――重要人物だったのだ。
 たどるは思わず彼女に強い訝りの目をした。自身に戒めを刻む。一体何のようだ? 彼はさゆを警戒した。その警戒が孕んだ沈黙を、校舎の屋上にいたカラスの鳴き声が埋めた。夕方の空は、まるで何かの予兆のようにいささか紫を佩び始めている。虎視眈々と闇に沈めていこうという空の示唆が、たどるにはわかった。空が夜を迎えるための仕度をしているのだ。時刻はすでに、五時五十五分を過ぎていた――。
 先に静寂を破いたのは、篠木さゆだった。神妙な表情で、彼女はたどるに忠告するみたいにこう言った。「ことねとは、これ以上絡まないほうがいいよ」
「どういう事?」とたどるは訊ねた。
「もし彼女に浅はかな希望を抱いているのなら、やめた方がいい。いつか葉山たどる君も、失望する。わたし解るの。嘘じゃなくて、本当にやめておいた方がいいよ」
 たどるは首を傾げる。「どうしてそんな事言うの?」
「だって、本当にそうだから……」
「正直、意味がわからない」たどるは、いささか腹立ちをおぼえていた。「この前、新崎さんから彼女が小学校の頃の話を聞いたんだ。当時通っていた習い事で、君を好きになってしまったという事も聞いた。告白した事も聞いたし、失恋したことも聞いた。そしてその翌日からの話も聞いた――」それからたどるは息を呑み、続けた。「今日僕は篠木さんに初めてあったけれど、決して良いイメージは持っていない」
「……わかってる」と彼女は言う。不満がありそうだったが、たどるはさらに言い続けた。いささかな怒りが、淀みなく言葉を運んでくるのだ。
「今、新崎さんが部活に行っていない理由も聞いた。篠木さん、僕は君たち二人の間には何も関係ない立場だし、ただの第三者に過ぎないのだけれど、それでも篠木さんと友達になって、と誰かに言われても僕はできない。その二人の関係には僕は何も口を挟めなくても、僕は多分……」そこで一度たどるは口篭る。唾を呑み、口を開く。「新崎さんが、好きだから。彼女が篠木さんに抱いたのと同じ感情で、好きだから。だから、僕はあなたを敵だと意識してしまう」
 彼女は黙り込む。案の定とはいえ、やはり口答えはできなかったのだ。高い声で鳴いていたカラスが思い出したように、地に落ちていく夕陽のほうへと赴いていった。
 たどるは迂闊に露にしてしまった自分の感情に、否定をしようと努めた。しかし、自分が彼女のことを好きだという事に――自然と零れたその言葉に――抵抗を覚えることはなかった。それは、事実なのだ。たどるは彼女に誇張された感情を、抱いてしまっていたのだ。それと同時に、先程の自身の言動が(つい逃げ出してしまった事)場面となって、たどるの脳裏に過ぎった。それから、その教室に残された新崎ことねの姿がゆっくりと浮んだ。それはアスファルトを這う陽炎のように、曖昧としていて揺らめいていた。彼女の事を考える。すると強い後悔がたどるの身に浸食していき、空いた空洞をさらに広げた。その空白を埋めるものを闇雲に模索した。
 篠木さゆは、無言となっていた。必死に言葉を探っているようだった。虚無な世界をうろついているような濁った瞳にへと変哲している。さゆは遺憾をおぼえていた。たどるに忠告をしなくてはならないのだ。さゆの脳には、あの日の光景が上映されていた。彼も、いずれは落胆の渦へと彷徨ってしまう。しかし、篠木さゆには、新崎ことねを憚らなければならない、という理由を説明することはできなかった。その根拠が、見つからなかったのだ。
 黙り込む彼女を、たどるはひとしきり見つめた。そして、無言が終わらないことを確信すると、たどるは潔く背を向けた。「それじゃあ」
 やがては順調に深い暗黒に包まれていく空は、無遠慮に風を吹かせた。たどるとさゆの髪を踊らせ、グランドの砂を舞わせた。出鱈目な形をした砂埃が、地を軽やかに走った。それはたどるの足元も、すり抜けていった。
 何か言わなきゃ。篠木さゆはレーンを駆けるボーリングボールのように離れていくたどるの背丈を、ただ眺めていた。教えなくてはならない。新崎ことねはいつか、彼を失望させることとなるのだ。
 彼女の「才能」が、たどるを絶望させる事を、さゆは知っている。ただそれを説明することは、忌わしく難しい。できなかった。

十話

 10
 たどるの視界を占めるのは、空白を支配する活字の羅列だ。しかし、その羅列で構築された世界を、たどるは読み解くことができなかった。たしかにたどるは、その小説の世界に浸ろうとしている。努めている。しかし、たどるはその描写がほのめかす世界が、まるで読み取れなかった。なぜなら、たどるは最初から、文章など読んでいなかったのだ。
 まるで海岸を浸食する藻のように、たどるの思考はもつれを強いれさせていた。昨日の放課後の夕陽が脳裏に浮ぶ。そこには篠木さゆがおり、たどるに「新崎ことねとは絡まない方がいい」と忠告している。たどるはその事について思索を巡らせてみる。「絡まないほうがいい」それが示唆する意図を、たどるは暫定的に考える。篠木さゆは、なににあれほど懼れていたのだろう? 新崎ことねと、篠木さゆの関係――。
 彼女らは、小学生のときに通っていた「習い事」がきっかけで知りあった。そこでたどるはふと、彼女たちが参加していたという「習い事」が何かと疑問を抱く。ことねからは、「習い事」としか言われてないのだ。彼女はたどるに、告白したことが原因でああいう事態になってしまった、と言った。はたして本当にそうなのだろうか? 彼女の方にも――篠木さゆの方にも――なにか複雑な事情があったのではないのだろうか? あのとき訊ねておけばよかった、とたどるはいささか後悔を覚える。
 まるで春先の光を浴びて、凍結していた氷板が溶けた湖のような煌びやかさをまとった篠木さゆの瞳が、たどるの脳裏に揺らめく。その揺らめきに委ねられながら、明確に再生される。
「もし彼女に浅はかな希望を抱いているのなら、やめた方がいい。いつか葉山たどる君も、失望する」と彼女は言った。たどるはそれを幾度も反芻する。
 その言葉には、深い示唆が隠されているはずだ。それは新崎ことねの告白だけが原因ではない気がしたのだ。もちろん確証は無いし、たどるにはそれを探るという選択肢の余地は与えられていない。二人の間に、葉山たどるという人物は要されていない。その二人の関係にたどるが苦悩する必要などまるで無い。小鳥のさえずりが聴こえなくなったみたいに、夜空が星を散りばめることを停止したみたいに。たどるには、何一つとして関係のないことだ。たどるはただ、彼女に好意を抱いているだけなのだ。
 たどるの脳には、必ずどこかに新崎ことねの存在が明瞭と佇んでいた。それは釘を打ち込まれたみたいに、頑なに離脱しない。常に新崎ことねは、たどるの脳内を漂っているのだ。彼女はなにをしているのだろう? いささかな興味がほつれた糸みたいに著しく、そこにある。たどるは彼女のクラスを把握していないのだ。
 たどるは篠木さゆのことを考え、新崎ことねのことで悩み、森屋幸太のことをふと思った。あれから森屋はたどるに、部活の誘いをしてこない。それは自分に諦めてしまったのかもしれないし、呆れてしまったのかもしれない。以前のたどるはその事実に、自己憐憫が風に吹かれるカーテンの影みたいに踊り、高揚を覚えていただろう。しかし、今のたどるにとってそこには淋しさだけが虚ろにとり残されただけだった。たどるは、自ら孤独となったのだ。
僕にはもう、新崎ことねしかいない。


 11 
 森屋はスターティングブロックをグランドに設置していた。釘を打ち、それを強く固定する。そして自分の足の裏をブロックの表面にあて、スタートダッシュの体勢を暫定的に完成させる。自分の膝を乾いた砂が舞う地面につけ、何度も弾みを確認する。SD五十メートルを三本、という練習内容を森屋はこなしていた。体勢が定まり、一旦スターティングブロックから離れる。同学年の部員、福嶋が声をかけてきたのはその時だった。
「なあ」と福嶋が言う。
 森屋は首を福嶋のほうへと曲げる。そこには警戒が伴われている。
 福嶋はかつて、森屋を貶めて虐げていた人間の一人だった。最近になって、まるで何事も無かったかのように森屋に絡むようになったのだ。なので森屋は彼がまた何かを企んでいるのではないか、という訝りを備えることを忘れない。その猜疑心がかえって著しく態度に表されすぎてしまい、要していない緊張が癒着する。「な、なに?」
「お前さ、葉山たどると仲良いじゃん?」と福嶋が訊ねる。
「お、おう」と森屋は曖昧に肯く。はたして自分が葉山たどると仲が良いのか、それは曖昧なままなのだ。しかし、きっと仲が良いと森屋は便利的に解決している。「それがどうしたの?」
「お前あんな奴と絡んでいるのかよ。やめとけよ。あいつ構ってほしいだけだから」と福嶋は軽やかな口調で言う。「いつも一人でいるしな。なんか喋り方も苛立ちを誘うような口調だし、調子乗ってるよ」
 なぜそんな事を忠告されなければならないのか、思わず森屋は福嶋に嫌悪を抱いた。いや、一度として彼に好印象など抱いた憶えは無い。その感情はさらに強みを増したのだった。それと同時に、なぜ今更になって葉山たどるの名前が登場するのだろう? と疑問も覚えた。「ど、どうして?」
 福嶋は誇張した素振りをしながら、森屋に言う。「あいつ、新崎ことねといつも放課後いるらしいぜ。気持悪いよな。やっぱり、ぼっちはぼっちといるんだな」ふっ、と福嶋は鼻で笑う。
「新崎ことね?」その名前を森屋は知らなかった。
「知らねえのかよ」と福嶋は驚いた表情でいう。「噂聞いたことねえの? あいつ小学校のとき、女子に告ったんだぜ。同姓に告白とか、気持悪りいよな」
 「そうなのか」と森屋ははじめて耳にしたその名前の女子生徒を想像する。どこかで会ったかもしれない。葉山たどるはいつから、その女子と仲が良くなったのだろう? と考える。「その人、何部?」
「さあな」と福嶋は首を振る。「でも部活行っていないらしいぜ」
「なるほど」なるほど。森屋は肯く。
 森屋はふと思い出して、自分の足に調節したままのスターティングブロックに目をやった。それは訓練を受けた賢い犬みたいに、じっと森屋を待っていた。ひとしきりの沈黙がその場に完成されている。やがて別の女子部員がやってきて、そのスターティングブロックをくずした。自分の足に調整しはじめる。まあいいか。森屋はふたたび福嶋に視界を戻す。
「とりあえず絡むなよ」と福嶋が森屋に戒めをする。「あんなのと一緒にいれば、お前またぼっちになるからな」
「……ああ」と森屋は小さく肯く。肯くというより、俯いた。
 森屋は推測する。きっと誰かが葉山たどるに嫌悪を抱き、捏造を加えた悪いうわさを広めているのだろう。それはかつて森屋も経験したことのあるものだった。はたしてその噂を拡げている張本人が誰かは、森屋には見当もつかない。しかし、そうに違いないだろうと森屋は確信をおぼえる。根拠は無い。だが、確信がある。
 森屋は自身の怒りがその犯人よりも先に、福嶋を捉えていることに気づいた。彼はこの噂に便乗しているだけなのだ。何者かが拡散させた波紋を、ただ興味本位で拾っただけなのだ。それは森屋のときもそうだった。彼は第三者で、それ以上なんでもない。部活が同じだっただけなのだ。彼と葉山たどるの繋がりなど、それだけだ。
 葉山たどるのことを考える。彼はこの状況を把握しているのだろうか? 森屋はストレッチ用のマットに腰を下ろす。砂の粒子が、マットの表面を白く覆っている。それに従って、森屋の体操ズボンの尻が白く染まった。それを手で払い、そのマットの表面も払う。そしてもう一度腰を下ろす。森屋は福嶋のことについて、思考を巡らせる。もしかすると彼は、その新崎ことねという人物に好意を寄せているのかもしれない。そう森屋は暫定的に解釈してみる。頭上を見上げてみると、空の昂りを表したような色合いをほのめかしていた。



 翌日、森屋はたどるに声をかけれずにいる。どこからか、福嶋の視線をかんじたのだ。森屋はたどるの未来よりも、自身の過去が連鎖することを、懼れている。森屋には、世間と葉山たどるを隔てる空間が、視界に映っている気がした。その空間に、自分が逡巡し彷徨っているようにも思える。

最終話

 12
 僕には、新崎ことねしかいないのだ。放課後を迎えた校舎は、必然的な静寂をつくる。その静寂が、やがて訪れる夕陽を待ち侘びる。まるで深い森の奥のような静けさを孕んだ教室の中で、たどるはひとしきり思考を走らせる。教室の室内をみわたす。歪な靄が残ったままの黒板がある。その隣には明日の時間割が記されたホワイトボード。そのうえに掛け時計がある。時計の秒針は乾いた音を奏でて、沈黙を満たす。その韻律は延々と耳元に置いておくと、不思議な感覚に陥らせる。たどるは宙にを虚ろに触れていた自身の手の平に目をやる。そこには、重要な何かが廃られてしまったような無機質さが佇んでいた。窓から差し込む淡い光が、その迂闊な手の平に落ちた。その疲弊した光の直線は、たどるの制服の上を著しく走っていた。
 手の平を視界から除き、たどるは教室の天井を眺める。無機質な表面には、まるで蜂の巣のように細かな穴が無数にできている。それは何か奇妙な生物が住み着いているような光景を連想してしまう。
 たどるは新崎ことねの存在を脳裏に出現させる。遵ってたどるの脳内には、空想の世界が構成されていく。放課後の教室、時計が一秒を刻む音、肌に毅然とした色を与える夕陽。それらが明瞭にたどるの脳裏に完成する。そこに、たどるとことねが向き合って雑談している。他愛もない会話がなされていて、たどるはいささか頬を撫子色に染めている。そこにいるたどるは、笑っていたのだった。
 僕は新崎ことねが好きだ。その事実にかぶりを振ることをたどるはしない。それは認めざるを得ない感情なのだ。たどるは彼女に好かれようとしている。まずは、謝罪をしなければならない。たどるは、反省しなければならないのだ。


 13
「どうした? 葉山」
「先生、すこしいいですか?」とたどるは口ごもりながら言う。「……部活のこと、なんですが」
 そのたどるの発言をきいた男教師は、「おお、おーおーおー」と昂りの声を洩らしながら腰を持ち上げる。そして小さな声量で「ちょっと待ってて」と男教師は言った。たどるは肯く。その教師は、他の教師になにか話し、一度顎を引いて、微笑みながらたどるの方へと戻ってきた。「じゃあ教室へ行こうか」。たどるはこわばった表情のまま肯く。
 たどるのクラスを担任している礒部雄二(いそべゆうじ)は、突然自分を呼び出してきた葉山たどるに思わず首をかしげてしまった。礒部はたどるが部活に行っていないことを既に把握している。そしてこれまでにも何度か、たどるに部活動のことで相談を持ちかけていた。それは主に礒部が顧問を務めているバレー部に転部しないか、というものだ。しかし、たどるは億劫そうに黙り込むだけだった。やがて礒部はたどるに部活動のことで相談するのを諦めた。生まれつき、諦めは潔い方だった。成績表をつくる際に「部活に行っていない」という事実を記す行為に、いささか拒みはあったが、仕方なかった。
 そんな葉山たどるが突然「転部したいのですが」と言い出すので、礒部は思わず困惑する。しかし、それは善い兆しだと思う。すぐに承諾した。「わかった。陸上の顧問からは、俺が言っておくよ」



 翌日。たどるは放課後になると、新崎ことねの姿をさがした。新崎ことねを発見するのは、湖に小石を落すくらいに簡単なことだった。案の定、ことねは図書室にいたのだ。たどるは図書室の入り口のまえに立ち、泡沫を眺めるような表情で、ことねを見た。たどるの視界の主役が、ことねとなる。彼女はカーテンの隙間からしたたる夕方の光を、その黒髪に浴びていた。黒髪は煌びやかさを佩びて、神秘的な色に染まっている。本をめくる仕草のたびに、彼女の髪は寄せ波のように揺れる。その不規則な揺れにたどるは見惚れる。
 たどるは前に足を踏み出そうと努める。ことねの元へ行き、「何を読んでいるの?」と自分が訊ねる想像をする。彼女はまたページをめくる。髪が夕陽の光を震わせながら、正しく揺れる。たどるの足は、根を複雑に生やした樹みたいに重くなっており、指示を無視していた。夕陽が彼女の肌の明暗をはっきりと偏らせている。光を強め、翳は濃さを増す。彼女の背中は、たどるの存在を拒否しているような気を物語っていた。それがたどるの足に鈍さを煽ぐ。匿名的で陰鬱な重みを含ませる。たどるは図書室のなかに足を踏み入れることができずにいる。
 水銀の淀みのように重い自身の足に、たどるはじれったさを覚えていた。たどるはその邪気をはらおうと努める。この閉塞感から脱け出そうと試みる。ことねの背中が視野に現れる。抽象的で虚飾な光が辺りに漂っている。たどるの視界を眩ませた。
 しばらくして、ことねはたどるに気づく。たどるは思わず身をこわばらせる。そして視線をことねから逸らした。ことねはそんなたどるの仕草を見て、思わず頬が綻んだ。「葉山くん」とことねは呼びかける。たどるはその声を耳にして、迂闊に安堵してしまう。何を僕は緊張しているのだ。たどるの頬が赤くなる。夕陽のせいにしよう、と言い訳を考案した。
 夕陽に頬の紅潮をごまかしているたどるを目にし、ことねも思わず安堵の息を洩らした。ことねも、たどると同じ不安を抱いていたのだ。たどるが逃げ出してしまったあの日から、ことねの脳裏には篠木さゆの存在が著しくあった。あのときの鋭く冷たい氷柱のような視線が、再びことねの脳裏に過ぎる。自然とその視線の主が葉山たどるにへと変更されて、想像してしまう。教室のカーテンから覗く放課後の空が、ことねの頬を走る涙を見据えていた。


 僕と一緒に転部しないか? とたどるは訊ねる。静寂がただよう茜色の明りに包まれた図書室は、たどるのその意思の強さをたたえている。ことねは「え」と一度息詰まり、顎を引いてたどるを上目遣いで見つめた。ひとしきり見つめる。たどるはさらに頬を紅く染める。思わず自分の膝下に視線を落としてしまった。そのまま視野は固定したみたいに、首を上げようとする意図を阻む。
 ことねも頬に熱を佩びる。思わず怯んでしまう口角を、忘れないようにと口を結ぶ。それでも、ことねは微笑んでいただろう。「……いいよ」と一言、それだけことねは言う。そしてたどるが顔を上げる動作が窺えた。ことねも逸らしていた視線をたどるに戻す。そしてようやく二人は目が合った。二人は頬を染めている。お互いに、それは気づいていた。夕陽のせいにしよう、と言い訳を考える。
 葉山たどるは微笑む。新崎ことねも微笑む。新崎ことねは、自身が二度目の誇張した感情を覚えていることに、既に気づいている。たどるのその誇張した感情は、さらに増している。


 14
 なにか才能がある、または他人とは違う特技を持っているという人間が、僕には理解できなかった。僕という人間には、才能と呼ばれるものが何一つないのだ。何の才能も、僕には無い。僕は神様が寝起きにつくったような人間なのだ。
 放課後を迎えた教室に、僕はいる。僕が眺めているのは、そこから見える夕陽の空だ。空に飽きると僕は、隣にいる少女に視線を移す。僕の隣にいる少女は、その夕方がほのめかす色を髪に馴染ませている。僕はつい見惚れてしまう。迂闊に口元が開いていただろうと思う。校舎の外からは、各部活動の声が曖昧に渉ってくる。川の流れに委ねた舟みたいに。
 聴こえてくる部活動の声のなかに、森屋幸太の声が紛れていた。中学二年が終了してからは、彼とは一度も話していない。顔も見ていない。つまり、興味が無いのだ。「俺はお前のいいところいっぱい知っているつもりだ」という森屋の言葉を、僕は思いだす。僕はふっ、と鼻で笑った。
「なに?」と隣にいる少女が訊ねる。
「なんでもないよ」と僕は頭を振る。
 その森屋との記憶に倣うように、ふと僕は新崎ことねの存在を思い出す。新崎、ことね。僕は自身の膝下に視線を落す。僕の表情に翳りができる。それから、ふふっと笑みが零れた。「だから何よ」と隣にいる少女が僕に訊ねる。若干可笑しそうに笑みを含んでいる声調だった。「なんでもない」と僕はもう一度言う。僕もいささか笑みを表情に作っている。
 「そう?」と、僕の隣にいる篠木さゆは、ゆっくり微笑んだ。    END

君は花の雨

 降りしきっている外の雨は僕の耳に柔らかな音を奏でながら、脳にへと侵入してきた。地をぽつぽつと突く無数の跳ねた音が幾度とくりかえされて僕の脳に一つの音楽として定着した。そのくりかえされる音の群れは僕の奥底から眠気を引き摺りだしてくるのだった。いささか瞼の頭に重みが佩びられ、気がつけばまどろんでいた。そのまどろみの中で、その薄暗く優しい闇のなかで、僕は雨に包み隠されてぼんやりと曖昧なものとなってしまった彼女を思い出した。また逢えるのだ。まどろみの向こう側に、彼女は花の雨を降らしながら僕を待っていた。

 どうして秋という季節は、僕に寂寥の息をはかせてしまうのだろう。いなくなってしまった人のことを思い出させてしまうのだろう。秋の夜は僕にはいささか長すぎる。金色の丸い月が静かに僕に語りかけてくる。ほつれてもろい雲を携えた月は、僕にあの時代の恋を思い出させるのだ。
 放課後の校舎はいつも赤かった記憶がある。僕はそこでなにをしていただろうか。そうだ、本を読んでいた。その果実は手にとり、皮を丁寧に剥くと様々な活字があふれだしたんだ。それを瞳の中に垂れ流し、僕は静かにその描写の想像をした。白いはずの小説の紙は、夕日に赤く塗り替えられていた。それがなんの小説だったかも覚えていない。芥川龍之介かもしれないし、三島由紀夫だったかもしれない(当時僕はそういう系統を好んで読んでいた気がする。けれどそれを理解して読み解いていたのかどうかは定かではない)。
 あの時はまだ中学生だった。それだけは断言できる。でも、それだけだった。中学生の僕は、一言で済ませば馬鹿だった。なにも理解しなかったし、理解する気もなかった。夕日とは違って、青かった。へたも取れていないような未熟だった。あれから何年経ったのだろう? 数えるのも億劫だった。中学生のときから僕は、なにひとつ得ていないし忘れていないのだ。あの放課後のことも、根拠の存在しない劣等感も、彼女の存在も。僕はまだ影と共にそれらを引き摺って歩いていた。
 彼女とはじめて出逢ったのも、季節は秋だった。秋の放課後の中学校だった。赤く熟した気持ち悪い空の下の図書室だった。僕は彼女を見つめていて、彼女は僕を見つめていた。
 どうして、僕はこうなってしまったんだろう。不思議だった。もう逢えない人のことを、もう僕の前にはいない人のことを、考えたって仕方ないのに。僕が馬鹿だったから、彼女との距離はまるで遠くなったのだ。それをいつまでも後悔している。何年と経過したいまでも苦しんでいる。
 夢のなかで、君は本を読んでいるようだった。僕はその彼女の様子を遠くから見つめることしかできなかった。彼女の容姿は見えなかった。降りしきる雨に覆われて、ぼんやりとしか見えなかった。それでも僕はよかった。そこに彼女がいるのなら、それだけでよかった。すべて、僕が馬鹿だったからこうなったんだ。中学生のときの僕が馬鹿だったから。
 謝ることもできないけれど、今こうして夢で会えるのなら、それでいい。ゆっくりと、僕を抱いていたまどろみが後退していく。目が覚めることに、恐怖する。今の自分の様をみて、恐怖する。
 どれだけのものを僕は失っただろう。どうして僕は気づかなかったんだろう。馬鹿だったからだ。今になって、惜しい。戻れないもどかしさが静謐な部屋のなかで積もっていった。秋の夜はいささか長すぎる。月が静かに僕に語りかけてくるようだ。窓から滑りこんできた風も、冷えを佩びはじめた空気も。
 窓の遠くから僅かに青い色彩がみえてきた。この夜も、明ける。また朝を迎えるのだ。雨はとっくに止んでいた。庭に咲いていたコスモスが、夜明けの風に揺れている。規則ただしく揺れて、風の糸をみつめている。夢で出てくる君も、あのコスモスの花のようだった。そして君を隠してしまうやわらかな雨粒たちも、あのコスモスの花のようだ。
 僕にとって、君は花の雨だ。花の雨が、僕の古びた青春の記憶をいつまでも引き摺らせている。そして僕はおもむろに、自分の手首をみた。

ユリイカ

この作品は、一番苦悩しました。 恋愛など、僕に語る価値ないですが。 【追記】君は花の雨というのは番外編というか、エピローグみたいなものです。その後のユリイカの話、ですかね。

ユリイカ

なにか才能がある、または他人とは違う特技というものを備えた人間が、葉山たどるには理解できなかった。 中学二年生の葉山たどるは、所属している部活に行ってはいなかった。それには原因というものは存在しない。いじめられているわけでもなく、孤立しているわけでもない。ただ、行きたくないのだ。 しかし、葉山たどるはその「部活に行っていない」という事実を誇張して話す癖があった。葉山たどるは、自分を哀れな目で見て欲しいという人間なのだ。劣等感のようなものを感じると歓び、可哀想と思われる同情の視線を求め、そして心配される事に葉山たどるは生きる実感が湧いた。 そんな彼は部活をサボるいつもの放課後に、「本物」の女子生徒と出会う。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-03-16

Copyrighted
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Copyrighted
  1. 一話
  2. 二話
  3. 三話
  4. 四話
  5. 五話
  6. 六話
  7. 七話
  8. 八話
  9. 九話
  10. 十話
  11. 最終話
  12. 君は花の雨