ノスタルジア・ハードボイルド

ノスタルジア・ハードボイルド

雨尾 秋人

二作目です。 【完結済】

列車・階段の街・西地方東街

 列車に揺られるのは、久々のことに思えた。僕の仕事に列車は欠かせない代物なのだけれど、それでも何故か久しぶりな感覚に陥った。まるで久々にお袋の手料理を食べたような、懐かしさが感じられた。間隔を空けて並んだ木の板のレーンを車輪が走る音は、鼓膜をやすりで直接擦るような轟々しく禍々しい音だった。
 列車の車窓に吹き飛ばされていく景色に目をやると、そこは山に並んだ建物だった。その丸みを佩びた膨らみには、様々な高さの建物がそびえ立っていた。まるで収穫時を迎えた畑の野菜のように高さはどれも異なり、しかし共通点は二つあった。一つは細長い輪郭をしていることで、二つ目はどれも同じ色合いという事だった。
 高さは成長期を迎えている子供のように低いものもあれば、高いものもあったが、形はどれも塔のように細長かった。そしてすべての屋根が明るい橙色の煉瓦で、そして外壁は雪が積ったように純白だった。その同じ建物たちは間隔を空け、まるで粗い作業で埋められているようだった。
 その並んだ建物が窓から投げ飛ばされていくのを眺めていても、何も変わっていないように思えた。色合いが統一されているせいか、まるで同じ景色を繰り返しているようだった。車輪の軋み音は耳を鋭い爪で引っ掻くような悲鳴を僕に浴びせ、耳を塞ぎたくなった。耳障りだ。


 この世界も聞いた話によれば、国も幾つかに別れていたらしい。しかしいつの間にか国たちは結んでいき、こうして今では一つの国だけとなってしまったのだ。地球一つに国も一つだけだ。昔は様々な言葉や伝統があったらしいが、僕はそれがまるで見当もつかない。聞いたこともない響きの喋り方――深く考えをめぐらすと脳がどうにかなりそうなので僕は中断した。
 この国は広すぎた。一つの国だが東西南北の地方に分裂されており、その各地方の中にも東西南北に部があった。その広すぎる国を列車で観光するのが、僕の仕事のようなものだった。列車に乗り、様々な地方に長時間かけて行き、そして一日ほどで戻る循環なのだ。石のように硬くなっていく尻の皮にも僕は慣れ、そろそろこの仕事も辞めたい気分になってきていた。
 獣還師(じゅうかんし)、というのが僕の仕事だった。それは長期の練習と資格が必要な職業だ。内容は〈獣森〉から脱け出し、〈人間界〉に侵入した獣を森に還す、というものだった。
 〈獣森〉とは、この世界に義務づけられている事だ。人間は人間同士が豊かに生活する場があるのと同じように、獣――動物ともいうのだが――にもそれに適した環境がなければいけないのだ。だから東西南北の地方に別けられ、その地方の中の二つ以上の街は、必ず獣たちの為の森にするという義務だった。その獣たちの街を〈獣森〉といい、人間たちが住む街は〈人間界〉と名づけられたのだ。そして人間は〈獣森〉には特別な事情がない限り入ってはいけない。それは獣も同じだった。
 けれど、その与えられた環境に不満を抱く獣は少なからず存在した。その不満を抱く獣は〈人間界〉に侵入し、暴力を振るだったり、食べ物を奪い取っていく行為をするのだ。それを止めるのが、僕の仕事だった。獣還師は、獣とコミュニケーション――正確にはそれに近いもの――を取ることが可能なのだ。そうして獣を〈獣森〉にへと還すというものだ。難しく思えるかもしれないが案外、獣にも脳はあるらしく、大人しく帰っていくものが殆どだった。そして――これは獣たちの方のルールなのかもしれないが――獣還師に忠告された獣がいる森は、最悪三年は事件を起こさないのだ。何故かはまだ解明されていない。


 そして今回もその仕事依頼で僕は西地方に訪れていた。西地方も何度か来たことはあるのだけれど、東街という場所は、初めてのことだった。窓の景色が黒いペンキを被ったみたいに暗く染まり、西地方入り口のトンネルに突入したことを知らせた。トンネルの中はゴオオオウ、と轟々とした音を篭らせていた。まるで巨大な怪物が僕たち乗客を覗いているように思えた。
 その闇は風をまるで早朝の鳥の群れのように窓に走らせながら音を急速に上げていき、差し込む光と共に勢い良くしん、と静まり返らせた。僕はこの感覚が好きだった。僕は荷物を肩に担ぎ、持ち手をぎゅっと握った。揺れが落ち着きを取り戻していくのを見計らい、腰を持ち上げた。
 扉が錆びて乾いた悲鳴を上げながら開くのと同時に僕は西地方の中心街にへと降りた。一度瞼を閉じ、何度か息を吸い込んだ。体のあちこちが皮を何重と張ったように硬く、痛かった。肩を上げ、首をぐるりと回して骨を鳴らした。そして視界を開き、西地方の中心街を、前から見上げた。
 西地方の中心街は別名「階段の街」と呼ばれていた。それはそのままの意味だった。人が大勢横に並んでも大丈夫そうなほどの広い面積をした階段がゆるく蛇行しながら上がっており、その階段を挟むように淡い色をした建物たちが建っていた。その建物はすべて木材で作られた三角屋根の建物で、薄いピンクや黄緑、スカイブルーと淡い色合いをしていた。白と茶色の煉瓦を積んだ台の上にその建物たちは置かれており、とても洒落ていた。
 僕は、この景色を延々と見ていられる気がした。まるで狭いエリアに詰め込まれたような建物たちは、苔を壁に這っているものや立派な木を生やして飛び出させているのもあった。その緑がさらに雰囲気を醸し出す飾りとなっており、実に洒落た街並みだった。
 「お訊ねしますがー……」と男の声がした。僕が呼ばれた、という確信はないのだけれど、僕は首を後ろへ曲げた。そこには老人がいた。「あなたが――獣還師さんですか?」
「あ、はい」と僕は忙しなく言い、素早く体勢を老人の方へと向けた。「今回の仕事依頼を担当させていただきます」そう言って僕は名紙を取り出して、男に渡した。
「私はこの西地方の地長です。よろしくお願いします」と男は頭を下げたので、僕も釣られるように頭を下げた。できれば名紙を先に受け取ってほしかった。
「西地方に来るのは、初めてですか?」と地長は訊ねた。
「いえ、来るのは何度かありますが、西地方の東部は行った事がありません」
「それはよかったです。いい街ですよ、東部は」
「街案内の方も、よろしくお願いしますね」と僕は言って微笑んだ。「西地方の別名は確か――」
「ああ。一応地長なんでね。言っておきます」と地長は目を細めて微笑みながら、頬を指先で掻いた。
「どうぞ」と僕は言った。

「ようこそ、西地方――別名「ノスタルジア」へ」


 できれば中心街でゆっくりと体を休めていきたかったが、そんな時間すらも与えずに東街到着の列車が来てしまった。僕は渋々地長と列車に乗り込み、空いている座席を探して腰を下ろした。「列車続きですみません」と地長は恐縮そうに言った。「構いませんよ」と僕は笑みを浮かべて言った。「慣れてますよ」と言いつつ、僕のお尻は限界を訴えていた。
「西地方は別名「ノスタルジア」と呼ばれているんですよ」
「意味は確か……故郷を懐かしむ気持ち、のような感じじゃなかったですか?」と僕は訊ねた。
「そうです」と地長は肯いた。「よく知ってますね。ここ西地方は、何か故郷を思い出すような雰囲気があるんですよ」
 僕は先程の列車でのことを思い出した。そして「確かにそうかもしれませんね」と言って微笑んだ。
「西地方(ノスタルジア)全体は空からの目線で見ると、円型の島になっています。ですので列車も延々と横にカーブしていることが多いです」
「なるほど」と僕は肯いた。それは酔いそうだな。
 地長は――これは想像力の乏しい僕の予想なのだが――六十代後半といったところだった。すこし老け顔で、目元に皺を刻んでいる。髪は奇麗に明りのない白で統一されているが、禿げてはいなかった。紺色のコートを着込んでおり、すこしサイズの大きいカーゴパンツに黒いブーツを履いていた。
「それじゃあ」と僕は話を切り出した。地長ははい、と肯いた。「依頼内容を詳しく、確認させて頂きます」

獣森・超巨大マンション・東街到着

 中心街を出発した列車は南街に突入し、東部までの線路――線路はゆるいカーブを延々と描いており、湾曲している――を走っていた。体から力を抜くと、自然に体が偏ってしまうので、手で傾く体を支えていた。窓際から覗ける光景は、広々と伸びている海だった。それはとても奥行きがある風に僕には見えた。
「それでは」と僕は前屈みになって言った。「仕事の内容の確認なのですが」
「はい」と地長は窓の景色を瞳に映しながら肯いた。「ここ最近、東街では毎晩のように獣が〈人間界〉に侵入してくるんです」
「毎日ですか?」と僕は訊ねた。
「ええ、毎日です。夜の八時頃を基準に、毎回現れてまるで何かを探すように数分暴れて帰っていきます」
 「何かを探すみたい?」と僕は反芻した。地長は「はい」と言うだけで、後から続く言葉は何もないようだった。列車は不規則に揺れを発して、僕らの尻を僅かに浮かせた。何かを探すみたい、という言葉を僕は何度も脳裏で反芻した。数分間暴れたあと、そのまま去って行く? それが何を示しているのか、僕にはわからなかった。獣の意図が僕には見当もつかなかったのだ。
「人達はちゃんと室内に隠れさせていますか?」と僕は確認を取るように訊ねた。
「はい。それぞれの家に戻しております」
「それとなんですが、獣たちは何か目立った行動はとりますか?」
「目立つ……行動はしませんねえ。街に現れて、挨拶代わりとでもいうように、暴れて食料を奪い、辺りを見渡して帰っていきます」と地長は昨晩の記憶を辿るような声で言った。
 僕はすこし考えをめぐらせてみた。しかし、これといった事は見つからなかった。何かを探すみたいに、というのは多分地長の比喩でしかないのだろう、と僕は――深読みするのは億劫なので――決め付けた。今回のこの仕事も、今までと同じケースだろう。明日には帰れる、と僕はすこし気を緩めた。大概、獣が〈人間界〉に出現する理由など、「食料がなくなった」だとか「子孫を増やしすぎて森が狭い」といったことなのだ。
「わかりました」と僕は息を吐いた。「もう大丈夫だと思います」
「本当ですか?」と地長は安堵の声を洩らした。「ありがとうございます」
「はい。今日も多分獣は現れるはずなので、今日のうちに還しときますね。多分それから三年は〈人間界〉には現れないでしょう」と僕は胸を張るように言った。
 地長は安心したような顔で「よかったです」と強張らせて緊張していた体の紐を解いた。背を座席の背もたれに掛け、僕を見て微笑んだ。その瞬間に揺れが襲い、地長は体制を崩した。そして照れくさそうに笑った。僕も「大丈夫ですか?」と訊ねながら笑った。地長は一目見るだけで良い人だと断言できる雰囲気を醸し出していた。顔も知らない他人の傷みもまるで自分が受けたように悲しみ、他人の幸福を喜ぶような、心優しい人間なのだろう、と僕は感想を覚えた。


「おっ」と地長さんは声を出しながら、窓の景色の方へ目を向けた。何だ? と僕も同じ方向に目をやった。
 列車は今、東南の街を入り込もうとしていた。列車は黒々とした濃い煙を宙へ線を描きながら、その目の前に現れた巨大な建物の中に突入していった。光が遮断され、視界を暗く染める影に僕たちは覆われた。どうやら東南街に入ったらしかった。
「東南街の名所はなんといってもここですよ」と地長は町を紹介するように丁寧な口調で僕に言った。「「超巨大マンション」です」
 凄い、と僕は思わず声が洩れてしまった。その影を作った建物の正体とは、巨大なマンションだった。大きさの異なる箱を淡々と盛り積んでいったような複雑な形の楼の建物が列車の線路を挟むようにして四軒ほど、そびえ建っていた。コンクリートで作られており、非常に頑丈そうで、後から付け足されたような部屋が扁平だったはずの壁から飛び出していたりと、非常に複雑な構成をした建物で、それを支えるように太いパイプ管が壁に沿って伸びていた。コンクリートの壁には鉄錆びのような茶色っぽい赤色をしている部分もあった。瓦屋根のついた一昔前の銭湯のような建物も多少強引に取り付けられており、著しく壁から飛び出して浮いていた。壁には田の形をした窓縁をした窓が一定の間隔を空けて並んでおり、どれも住人がいる風に思えた。使い古され、錆を隠せ切れていない青色の階段はあらゆる場所に付いており、まじまじと見ているとごちゃごちゃで頭が痛くなりそうだった。立派な木もなぜか様々な箇所に生えており、壁を這っていた。その木は列車の風に吹かれて葉っぱを何枚か宙に舞いさせていた。そんな建物が四軒くらいあり、限られた位置に一切の隙間すらも作らず詰められていた。その巨大な建物に挟まれて走る列車は非常に窮屈に思えた。
「凄いですね」と僕は思わず声を洩らしてしまった。
「そうでしょう」と地長は笑った。「西部(ノスタルジア)東南街最大の名所〈超巨大マンション〉。この建物は南部の住人は殆どがこのマンションに住み、あまりにも人気なので部屋を増やしたりとしていたらこんな不格好で複雑な形となってしまったのです」
「瓦屋根の建物もあれば……ん? あれはなんですか」と僕は目に入った箇所を指差した。
 目に入ったのは神社のようだった。多分後から追加されたように思える飛び出た空間(へや)――それはべつに何とも思わないのだが――の上に、赤い色合いをした神社らしき建物があった。立派な門もある。驚いている僕の顔を見て、地長は非常に笑い声を上げた。
「あれは神社ですよ。どう見てもそうでしょう? なぜ建てられたのかは私にもわかりませんが」と地長は言って、もう一度ひとしきり笑った。
「僕はもっとわかりませんよ」もはや不思議の渋滞だ、と僕は呆然としていた。
 四軒ほどに別れているとはいえ、必ずその建物たちはどこかで繋がっていた。飛び出した部屋の空間で繋がれている箇所もあれば、巨大な橋がマンション同士の壁と壁の隙間を埋めているところもあった。僕がもしここで住むことになれば――と僕は想像してみた。多分自分の部屋に入る前に入り口がどこにあるのかすら見当もつかなくなるだろうと思った。
「私も若い頃はここで住んでいました」
「そうなんですか?」と僕は訊ねた。なぜ東街――先程聞いたが、地長は現在は東街に住んでいるらしい――に越したのだろうか?
「西地方(ノスタルジア)の地長でありながら恥ずかしいことに、迷っちゃうんですよ」と地長は言って再び笑った。
「やっぱりですか」と僕も笑い声を洩らした。それはそうだろうな、僕もそうなる自信があった。
「だから東街に越したんです。しかし東街も〈獣森〉が隣なので…ね」
 西地方での〈獣森〉は、西南部と東北部に属するらしい。ちなみに西南の方の〈獣森〉の動物は、何の騒ぎも起こさなかった。東北の方だけなのだ。
 マンションの影を抜け、列車は再び太陽に晒された。時刻は午後三時を過ぎ、一日のうちで一番眩しい時間だ。もうすこしで街中は青く染められることだろう。僕は影を抜けた瞬間に襲い掛かってきた日差しに耐えれなく、窓についている遮光を下ろした。「あのマンションを抜けたので、もう着くはずです」と地長は列車を降りる準備をしていた。僕も見習うように荷物をまとめた。一度息を吸ってから吐き、勢い良く伸びがしたい気分になった。長時間の列車旅なので、体は錆びついた鉄パイプのように硬く疲労を抱え込んでいた。
 「さ、着きましたよ」と地長が言い、立ち上がった。「そうらしいですね」と僕も屈していた膝を伸ばして立った。肩を何度か回し、扉が開いたのを確認して歩みを始めた。

街並み・タンク・拳銃

 東街の街並みは僕の想像していた雰囲気とは大分違っていた。列車を降り、地長の歩みを後ろから追ってついていくと、「東街にようこそ」と書かれた看板が見えた。その看板の奥には人たちが賑わうようにいた。僕はその看板を超え、一度足の歩みを止めた。
「ここが西地方(ノスタルジア)・東街です」
 僕は視界に広がるその景色をまるで一枚の繊細に描かれた画を全体的で見るように、眺めた。それは僕の想像とは異なっていたが、確かに故郷を思い出させるような光景に思えた。僕は非常に懐かしい気分になった。いつしか顔も合わせていない母や父の顔が、脳裏に淡く浮んできた。「なるほど」と僕は、それだけ呟いた。
 まるで瞳に差し込む光のように真っ直ぐと伸びた道があり、その道を挟むように木で作られた建物が並んでいた。屋台のようなものも出ており、そこらで人々は買い物をしていた。先端が鋭く尖った山らしきものが遠くの方向に見え、その山の先からは色とりどりのテープが広がって伸びていた。さらに見渡すとあたる所に木が生えており、実に色鮮やかな街光景だった。
「どうですか? 私が好きな街は」と地長も僕と同じように街並みを眺めながら、訊ねた。
「絶景です。この雰囲気には人を惹かせる何かを感じます。初めて目にする光景なのに、僕にはこれが初めてだとは思えないんです。まるで幼少期に戻ったようなんです。ところ構わず走り回っていた子供の頃の景色が脳裏に浮んで、それに釣られるように故郷にいる両親を思い出しました。良い意味で、僕はこの雰囲気に支配され、呑み込まれてしまいそうです」と僕は長々と語った。そしてすこし間が空き、僕は追いついた羞恥心から「すみません」と言った。
「そこまで言われると、私も嬉しいです。私も何年とここに住んでいますけれど、相変わらずの絶景です」
 僕は一度空気を大きく吸った。口を窄めてそこに東街の空気を大量に口に含み、大袈裟に僕は息を吐いた。まるで雨が上がり、覗き込んだ澄んだ空の下で長靴を履いてはしゃぐ幼女のような気分だった。汚れることを承知で水溜りの上を派手に飛ぶのだ。僕はすぐにでもこの街を歩き回りたくなった。
 僕はもし僕がこの街に住んだら、ということを妄想してみた。窓から差し込む日差しで僕は目が覚め、非常に心地よい起床をするのだ。そのあとに僕は身軽な服装のまま家を出、外の空気に浸りながらいつもの散歩コースを優雅に歩くのだ。それはとても爽やかで実に心地いい朝だ。僕は獣還師の仕事を辞めたあと、ここに住むのはどうだろう? と考えてみた。悪くないものだった。
 「それじゃあ部屋に案内させていただきます。ついて来てください」と地長は言い、歩みを再開させた。「はい」と僕も後を追う。地長の背中を僕はしばらく見据えていた。それはまるで生まれたての小鳥の群れのような優しさと、妙な貫禄を伴侶していた。


 地長の家は――先程の東街の時もそうだったが――自分の想像していたものとは大分異なっていた。僕が勝手に想像を膨らませていたのは、さすが地長と言わんばかりの巨大な建物で、まるで宮殿のようなものだった。おびただしい数のお手伝いさんがおり、常に清潔な輝きを放っているものばかりだと僕は自分とは程遠い世界を想像していた。
 しかし、地長の家は思ったよりも普通だった。錆びのような薄汚い色に変色した木の壁で、弾丸すらも貫通しないような頑丈さを備えた鉄の扉が印象的だった。地長は「想像と違いましたか?」と僕の気持ちを読み取ったかのように訊ねてきた。
「そ、そんなわけないじゃないですか」と僕は引き攣った笑みを浮かべて言った。
 地長は分厚い鉄板のような扉を引き、「中へどうぞ」と僕を先に招いた。僕は「お邪魔します」と呟きながら中へ踏み入り、光という概念を認めないような暗闇の中に身を晒した。そこで僕はとっくに空が夜を迎えていた、という事に気づいた。視界は真っ暗闇が広がっていた。それはまるで黒一色に塗り潰された淡い壁を長々と眺めているような感覚になった。その前に僕は今瞼を開いているのだろうか? という疑問すら浮かんだ。
 ところで僕の耳元では――この家に入った時からだが――まるで強風が風力だけを殺して、宙に流れているような音がしていた。さらに虚空の暗闇の中は、凍えるのような寒さを篭らせていたので、僕はここがどこかの地下室のようなものに思えてきた。ゴオオオウ、と重苦しい轟音は耳元にまとわり、離脱する気配は毛頭と感じられなかった。僕にはこの轟音の原因が、まるで見当がつかなかったのだ。
 その時、天井にぶら下って不規則に揺れていた電灯が僅かな熱を佩びながら点き、僕とその周りの闇を振り払うように照らした。僕は地長にも目をやらずに、轟音の正体を探った。辺りを見渡すと、見るからにそれしかあり得ない物体が、地面に置かれていた。
 鉄でロール状の巨大なタンクが、堂々と場所を占めていた。僕の体と同じほどの大きさで、似たような機械がもう一台隣に並んでいた。それと同じように反対の壁にもそのタンクがあり、合わせて計四台並んでいた。そのタンクが何かはわからないが、これが原因だということはすぐに理解できた。そのタンクの下から水がいささか洩れており、コンクリートの地面に――そこで僕は今立っている地面が、コンクリートの地だということに気づいた――まるで氷柱のように鋭い棘の形を描いて暗く染めていていた。
 鉄網の階段があり――僕には段々とこの家が工場かなにかに思えてきた――その階段を上ると、人が三人ほど寛げる面積の少々厚い板があった。その板にはなかなか使い勝手の良さそうな机が置いてあった。その机の上には西地方(ノスタルジア)の地図らしきものが置いてあり、それの資料本だと思う厚めの本が三冊立ち並んでいた。その板を上から支えるように小さい階段があり、その階段を上るとようやく二階に到着した。
 二階の面積は実に狭かった。一階の約半分も達していないほどの面積しかなく、まず目に入ったのは古びた台所だった。深緑色の冷蔵庫が窮屈そうに納まり、それを詰めるように必要最低限ほどの広さしかない台所があった。流し台の前は窓があった。その窓の奥には十字に仕分けられた柵があり、そこには並べられた本のように皿や食器が整頓されていた。台所とは反対の方向に目をやると、細い道の廊下があり、幾つかの部屋に繋がるドアが並んでいた。丸いドアノブが間隔を空けて虚空の空気に向き出している。
「狭い家ですみません」と地長が申し訳なさそうに言った。「地長とはいっても、お金はあまりないんですよ」
「いえ、構いません」と僕は言って、荷物を下ろした。
 僕は荷物の詰まった鞄の中を確認しながら、地長にいろいろと好奇心に引っ掛かることを地長に訊ねてみた。
「一階にあった、あのタンクはなんです?」
 地長はやっぱりそれを訊くか、という顔をした。
「あれは雨水などを溜めて、奇麗にする機械なんです」と地長は慣れた口調で説明した。どうやらここに来る客人は皆、この質問をするのだろう。「妻が買ってきたんです」
「奥さん、いらっしゃるんですか?」
「いたんですよ。妻は数年前に亡くなりました。病死でした」と地長はまるで他人の過去のように何ともないような声で言った。多分、過去にも同じことを説明してきたのだろう、と僕は思った。そう思うと僕はとても申し訳ない気分になった。「妻の買い物は少々豪快でしてね」そう言って地長は苦笑した。
「あの……すみません」と僕は謝った。これも今まで何度もされてきたのだろうな、と僕は再び後悔した。申し訳ない。
「構いませんよ。今は娘と二人で暮らしているんです。もう少ししたら帰ってくるでしょう」
「娘さんがいるんですね」
 僕は気まずくなる沈黙が始まると悟り、すぐに話題を変えようと試みた。地長も同じように窺えた。パン生地を捏ねるように僕は脳にあらゆる話題を勘案していたが、これだという逸材な案は見当たらなかった。僕は鞄の奥の方に潜っていた小型ナイフを引っ張り出し、普段から使う小さなバッグに移した。他になにかあったかな、と手探りで鞄の中を冒険していると、頑丈に強張ったような塊に指先が触れた。それを掴む。引っ張り出すと、それは拳銃だった。必要ないな。僕はそれを再び鞄に埋めた。
「昼間も言ったかもしれませんが」と僕は言った。拳銃は見られていないようで一度安堵した。「今日中に獣は現れるはずなので、ここに泊まらせて貰うのは今日一日だけだと思います」
「そうですか」と地長は何ともないような顔で言った。「仕事が終わるとすぐに列車に乗って帰るのですか?」
「いや、明日は一日東街を観光しようと思ってます。なにか、すごく気に入ったんです。この街が」と僕は言った。
「そうですか」地長は、単純に嬉しそうだった。 

還れ・幸せの笑顔・サンドウィッチとコーヒー

 僕はバックの中身を覗き、ナイフがあるかどうか確認した。ナイフは確かにあった。僕はそのバックを背負い、獣の出現を待った。夜の東街の光景は、どこか祭りを連想させるような景色だった。屋台が放つ明りが道を照らし、黄昏の空の足元を華やかにしていた。
 街の外にはまだ僅かに人気があった。僕もその屋台をいろいろと見回りたかったのだけれど、そんな暇もなかった。地長は僕の隣で「そろそろ来るはずです」と言い、一口水を含んだ。確かに獣の気配――何回かこの仕事をしていると、獣独特の気配というものも読み取れるようになるのだ――は徐々に深みを増してきていた。僕は一度瞼を閉じ、夜空よりも濃い暗闇に浸かった。そろそろ「獣を還す準備」が必要なのだ。
 獣の出現を皆に知らせる警告音が、街中に響いた。地長は「みなさん、素早く帰ってください! 建物の中へ」と皆に警告した。街にいた人達は、素早く自身の家にへと歩みを始めた。僕はただただ暗闇に沈んでいた。街中を駆ける警告チャイムは、僕の耳元にまとわりつき、強く這いついた。
「そろそろ地長さんも隠れてください」と僕は地長に呼びかけた。「獣というのはなかなか繊細なんです。僕だけにしてくれませんか?」
「わかりました」と地長は肯き、陰に身を潜らせた。できれば室内に入って隠れて欲しいのだけれど、そこはもう黙っておくことにした。
 僕はゆっくりと瞼を開き、視界を徐々に甦らせていった。首を下に向けていたので、まず目に入ったのは僕の足元と、石の一本道だった。その石道は屋台の明りに左右から照らされており、まるで夕焼けの空のような色合いをしていた。その道に一定の間隔を空けて刻まれているへりを僕は漠然としたまま見据えながら、重い石を持ち上げるようにゆっくりとした動きで視界の先を虚空な空にへと上げていった。そして僕の目の前に現れた「それ」に視線を合わせた。
 獣はそこにいた。真夜中の月光のような色をした瞳で、獣は僕を見下ろしていた。僕もその瞳を見つめ、一度唾を飲み込んだ。獣は僕の他人とは奇異な違和感のようなものを、察したようだった。
 獣は栗色――黄金のように上品さに溢れている――な毛皮をしており、昼間の日光を吸収したような輝きに包まれていた。丸太のように太い腕は、鋭利なナイフのように鋭く尖った爪を空気に晒しており、蒼白い光を走らせていた。そして雨降りを憂鬱そうに眺める少年のような顔は、とてつもなく陰鬱そうな表情を滲ませていた。口元から牙を覗かせ、死んだみたいに奥行きを濁らせた青い瞳に僕の姿を映していた。
 冬の昆虫のように大人しい獣を注意深く僕は神経を緊張させながら、その奥行きのない瞳をまじまじと見据えたていた。獣とコミュニケーションを伝えるにはまず、相手を強張らせなければいけないのだ。動いてしまうと、言葉を伝えるのは難しい。その準備が僕には億劫だった。
 獣は壁にできた凹みに体を窮屈そうに押し込まれたように、じっと動きを見せなかった。けれどその視線は警戒の色を浮かべていた。地長――他人でもだが――にはこの光景がどう映るのだろう? と僕はいささかな興味を覚えた。時間は刻々と歩んでいた。緊迫とした沈黙が空気に重みを与え、僕と獣の間を混沌とした空間に仕上げていた。耳が痛くなるような鎮静の中にいると、僕はただのぬいぐるみか何かと対峙しているのではないか? とも思えた。
 静かな空間には時が流れていく軌跡すらも見えそうだった。あるいは今、時間は停まっているのかもしれないとすら思えた。そして獣が瞼を一度閉じる――これが獣がコミュニケーションの許可を与えた合図だ。僕は安堵し、すぐに乾いた声を開いた。
 ――還れ
 風に長時間当っていたような乾いた声は、獣の耳元にへと確かに流れた。獣は耳を小刻みに揺らし、そして怪訝そうな顔をした。不吉で大きな雲を齧ったみたいに表情が青褪め、そして戦々恐々を訴える震えをその上品な印象を与える毛皮に走らせた。尻尾が電流が流れたみたいに太くなっていき、僕に巨大な恐怖を覚えたようだった。しかし油断はしてはいけない。僕は獣が去るまで、威嚇をしていなければならないのだ。
 獣は視線を逸らすように僕に背を向け、元来た道に沿って歩みを始めた。〈獣森〉に逃げることにしたのだ。やれやれ、と僕は思った。見つめ合うだけなのに、体力を大分消費するこの仕事は何度やっても堪えるものだ。
 「終わりましたか?」と地長が顔を覗かせて僕に言った。僕は「ええ」と肯いた。地長は一度息を吐き、胸を撫で下ろして安堵を得た。僕も微笑み、一度伸びをした。
「これで三年は大丈夫かと思います」と僕は言った。
「そうですか。いやあ、これで安心です」
「それじゃあ依頼も完了しましたし、明日東街の案内をお願いしますね」と僕は確認をした。
「了解です」と地長は胸を張って言った。「任せてくださいよ」
「それは楽しみです」
 石ころでも埋め込んだような肩を僕はもう片方の手で揉みながら、いささか睡眠を求めた。今日はもう就寝したかったのだ。



「おはようございます」と地長は寝ぼけて朦朧としている僕の前にコーヒーを置いて言った。僕もぷかぷかと浮遊している眠気が混じった声でおはようございます、と言った。「よく眠れましたか?」
「はい。眠れました。ありがとうございます」と僕は寝ぼけ眼を擦りながら、コーヒーを一口飲んだ
 地長はリビングの部屋を抜け、台所のほうへと向かった。僕は今座っているリビングの部屋を眺めた。食器を並べてある窓――ケースのようなもの――があり、その窓からは僅かに廊下にある台所が見えた。地長が朝食を作る姿も見えた。四人ほどが集まって飯を取る家庭的なダイニングテーブルが部屋の殆どの面積を占めており、それ以外の目立った家具はこれといってなかった。窓が二つあり、――台所に繋がる窓を合わせば三つだが、あれは窓というよりも食器棚だ――どこにも繋がっていない方の壁には田の形をした窓枠の窓があり、朝の日差しと青空を映していた。もう一つの窓は細長く大きな形をしていて、ベランダに繋がっているらしかった。木製のウッドデッキのようなベランダが窓からは見えた。そして青空と日差しも当然のように広がっていた。
 隣に部屋がある方――何の部屋かはわからないが――の壁には、なかなか大きいサイズのコルクボードが掛かっており、そこには白く面白みのない暦(カレンダー)や幾つかの写真、それとラジオのようなものが掛かっていた。僕はダイニングテーブルの椅子から体を起こし、その写真を眺めてみた。写真には若い頃の地長と思われる男性と、その妻らしき女性、そして白いワンピースを着た娘さんらしき人物が写っていた。その写真に写る三人は、本当に平凡な家族にしか見えなかった。いや、実際そうなのだが、僕にはこれ以上に幸せそうな家族を見たことがなかったのだ。皆幸せに溢れているような軽く優しい笑顔で、そして何よりも若かった。
「若いでしょう」と地長の声が聞こえた。顔を向けると、地長が朝食を持っていた。「それは多分――私が四十後半かそれくらいの時ですね。まだ超巨大マンションにも行っていない時です」
「そうなんですか」と僕は言った。「とても幸せそうです。これぞ家族、と思います」
「そうですか? ありがとうございます」と地長はテーブルに朝食を置き、僕と真正面の椅子に腰を下ろした。「さ、朝食でも食べましょう。コーヒーもおかわりはいっぱいありますよ」
 僕も椅子に腰をかけ、尻を置いた。玉子やベーコンをパンで挟んだサンドウィッチだった。元は四角だったパンは斜めに切られ、二つになっていた。ほどよく焦げ目があり、実に朝から食欲をそそる朝食だった。そのサンドウィッチをより目立たせるように彩り豊かな野菜が盛り付けられており、どれも水を弾くようなシャキシャキとした新鮮なものばかりだった。
「いただきます」と僕は言った。
「いただきます」と地長も言った。
 僕は一口コーヒーを飲み、サンドウィッチを一口齧った。美味しいですか? と地長が訊ねてきたので、美味しいですと僕は正直な感想をいった。お世辞でもなんでもなく、このサンドウィッチは美味しかった。歯ごたえも丁度良く、玉子はとても柔らかかった。僕はすぐに二口目を齧った。やはり美味しい。これを不味いと感想を覚えるものは、味覚症かサンドウィッチになにかしらトラウマがある者だけだろうと僕は思った。
 僕は地長の後ろにある窓――田の形をした窓枠の方だ――に目をやった。新しい朝を迎えた空は無垢な少女の瞳のように澄んだ空をしており、雲は存在しなかった。鳥が三匹ほど宙を舞っており、まるで新たな朝を歓迎しているようだった。そしてはしゃぐ子供の声も外からした。その声はまるで余韻のように遠いところから聴こえてくるものに思えた。そして実に平和で、懐かしく思えた。
「平和でしょう?」と地長は自慢するかのように言い、先程見た写真のように幸せそうな笑みを浮かべた。「この街は私の家族のようなもんですよ。いや、この西地方(ノスタルジア)は私の家族です」

平凡・獣のSOS・娘

 朝食を済ませ、僕は窓から東街の街並みを眺めていた。街並みは実にいそいそしさに溢れていた。僕もその光景を視界に広げているだけで、まだ見ぬ世界を冒険するような活発とした気分となっていた。飄々と柔らかく優しい風が街に流れており、外に出ている人々の髪や服を靡かせていた。子供たちは陽気な声を上げながら、街の一本道を数人で駆けていた。
 地長は朝食の皿を洗っているようだった。水道から水が放出し、ステンレスの流し台に打ちつけている音がしていた。静寂な空間に音と呼ばれる音はそれだけだった。外からは遠くから流れてきた余韻のような子供のはしゃぐ声と、小鳥が数羽ほど鳴いている声だけだった。その音はどれも平和そのものだった。地長はその静かな空間に淡く流れる音に耳を澄ませているようだった。僕も耳を澄ましてみると、体の何もかもを癒して淡い眠気を誘ってくるようだった。小鳥のさえずり、子供の陽気な声、水がステンレスを叩く音、それはまるで耳の癒しだった。
「東街のどこを案内しましょう?」と壁越しから地長の声が聞こえた。
 僕はどんな場所をこの東街に求めているのか、考えを巡らせてみた。まるで故郷を彷彿させるような懐かしい気分になる場所…。日頃の疲れを癒す、自然に包まれた場所…。列車で長旅をする価値がある絶景…。そんなことを僕は求めているのだ。そしてこの西地方(ノスタルジア)東街には、そのすべてが凝縮されているように思えた。だから僕は、「地長の好きな場所をお願いします」と大声で返した。
「了解です」という地長のはきはきとした声がした。「思わず東街に住みたくなるような所に連れて行きますよ」
「お願いします」
 もう一度僕はコルクボードに貼ってある写真を見た。何度見ようとそれは幸せな家庭が写っていた。僕は口元が緩んでいるのがわかった。まるで自分の幼少期のアルバムを見てるみたいに、笑みが零れてしまうのだ。写真に写る地長は、皺などは一切刻んでなく、髪の色も黒一色だった。四十後半と地長は言っていたが、少々若すぎではないか? と僕は思った。三十代前半と言われても僕は多分信じてしまうだろう。そんな事を僕は一人で脳裏に呟きながら、冷めたコーヒーを飲んだ。
 地長が洗い物を終わらせたらしく、タオルで手を拭いながら「さて、行きますか」と言った。僕は「はい」と肯き、羽織ってきたコートを着た。まだ季節は寒いのだ。もうすぐ春風が空気に流れ、気温も温かさを佩びていくだろう。地長も昨日と同じの紺色のコートを羽織り、それを丁寧にボタンを閉めていった。
 準備が完了し、地長は首を幾度か曲げて骨を鳴らた。そして開いたままだった窓を閉めた。やや肌寒かった風が途切れ、室内は完全なる沈黙となった。地長と僕の足音だけがその場に取り残された。木板の軋む音だった。「靴を履いてください」と地長が言った。僕はブーツを履いた。鉄網の階段を下り、コンクリートの地面に着いた。ブーツの踵がコンクリートの地面をこつこつと蹴り、まるで時計の秒針を刻む針のようだった。それと轟々と機械の音が耳元に甦ってきた。昨日の記憶を鼓膜がそっと引っ張ってきたようにその音はいきいきと耳の奥をくすぐった。
 外の空気に肌を晒すと、まだすこし冬の余韻を残していた。柔らかく身にまとわりつくような弱い冷気を頬に感じたのだ。すこし風を靡かせており、僕の背を押している。僕はコートのポケットに手を入れ、地長の方を見た。地長はどこに案内しようか、いろいろと考えているようだった。
 その時だった。街中に聞き覚えのある音が響いたのだ。それは昨日聴いたばかりの獣の出現を知らせる警告チャイムだった。「え?」と地長と僕は声を洩らした。「故障ですかね?」と地長は警戒する様子など見せずにチャイムが置いてある建物の方へ歩みを始めた。警告音が止まる気配はない。
 しかし僕はこれは故障ではないような気がした。あり得ない話だが――その前に認めたくないのだが――僅かに獣の気配を悟ってしまったのだ。昨日と同様だった。僕は気配の漂う方へ体勢を向けた。風が顔にかかり、前髪が左右に離れた。風が当り、目玉がすぐに乾燥してしまうので僕は目元を歪めた。
 僕は驚きを隠せなかった。驚かざるを得ないと僕は思った。素直に驚愕していたのだ。獣というものは〈獣還師〉に注意されれば、必ず三年間はじっとしているのだ。土に埋められた石ころのように、じっとしているのだ。それは確定した事実のはずだった。暫定的なものではなく、獣という正体が明らかになった時からの研究でわかりきっていることなのだ。しかし、二日に続いてその獣は、僕の目の前に現れたのだ。
「………なんで」と僕は思わず声を洩らした。
 強く脳を打ちつけられたかのように、僕は呆然としていた。目の前に立ち塞がる巨大な獣は本物の獣か? 僕にはわからなかった。なぜまた現れた? まるで見当もつかない。獣は僕をまじまじと見下ろしていた。その青い瞳には、昨晩のような濁った奥行きは感じれなかった。まるで希望の光をようやく発見したような…。
 希望を発見した?
 僕は昨日地長の言っていた「まるで何かを探すように」という言葉が脳裏に過ぎった。これは――助けを僕に求めているのではないか? 僕にはわからなかった。とても忌々しい気分だった。たとえそれが僕に対するSOSだったとしても、僕には「獣のSOSに応えよう」、という選択肢は毛頭となかった。
 とりあえず、僕は昨日と同様で獣を還すことにした。これでいいのだろうか? 僕にはわからない。本当にこれでいいのか? もう一度いう。「僕にはわからない。まるで見当もつかない」



 一日だけ宿泊するだけだったはずが、僕は泊り込みでこの事態を調べる事となった。僕自身も今日のこの出来事は不思議でしかたなかった。結局、この街を案内してくれるという約束も中断し、僕は獣について書かれた図鑑を読み漁っていた。
 図鑑には、獣の様々な習性が説明されていた。びっしりと堅苦しい文体の文章が羅列に並び、非常に分かり難い図が載っているページもあった。僕は頭を抱えた。どこのページを捲っても、〈獣還師〉に注意された獣が何事もなく澄ました顔で翌日も街に訪れるなんて例外な行動は、一切書いてはいなかったのだ。それどころか、SOSの合図すらも解明されてはいないそうだった。獣の習性はまだ解りきれていないことが多いのだ。
 その日は一晩中図鑑を読み漁った。しかし、同じページを行き来するばかりで、何もわからなかった。僕は頭を強く掻き、舌打ちを零した。図鑑を鞄に戻し、地長の元にへと向かった。地長はリビングにいた。ダイニングテーブルに座ってほ頬杖をしながら、コルクボードに掛かったラジオから流れてくる陽気なジャズの音楽に耳を澄ませていた。
「おや、どうしました?」と地長は僕に気づき、眠たそうな顔をしながら訊ねた。それはまるで優しくゆっくり女性の衣類を脱がすような声だった。「とても難しい顔をしていて、大変そうです」
「まあ……予想外な展開となったので」と僕は溜息をついた。
「コーヒーでも飲みますか? あ、お風呂沸いていますよ」と地長はまるで僕の親にでもなったかのように自然な言い回しで言った。僕も喋りやすいのでありがたい。
「地長はもう入ったのですか?」
「はい。もう入りましたよ。老人の入ったあとのお風呂は嫌ですか?」と地長は笑いながら訊ねてきた。僕を和ませようとしてくれているのか。僕は本当に久々に父親と会話しているような感覚に陥りそうだった。
「まさか」と僕は笑いながら否定した。「お風呂、お借りします」
「どうぞ」
「あの――娘さんは大丈夫なのでしょうか?」と僕は気になる点を質問した。
「ああ。気にすることないですよ。もう入りました。私よりも早いです」
 僕は未だに地長の娘さんを見ていないのだ。地長が言うにはすでに帰ってきているというが、僕は一目としてその姿を見てはいない。極度の人見知りなんですよ、と地長は笑いながら僕に言った。「今に会うでしょう。なにせ同じ空間にいるのですから」
「そうですね。それじゃあ、お風呂いただきます」
 そう言って僕は頭を下げた。そして風呂場へと足を運んだ。風呂場はまるで今の僕の気持ちを表したような、もやもやとした湿気と湯気に包まれていた。  

就寝時間・「平和」という概念・クラシック

 翌日も獣はまるで挨拶でもしに回ってきたかのように、街に現れた。僕はそれを当然のように還したのだけれど、やはり不気味だった。一昨日とも昨日とも同じような反応を獣は見せ、毛を逆立てながら〈獣森〉にへと帰っていくのだが、翌日になると獣は何事もないように現れるのだ。まるで一日しか記憶できない病気でも患ったようだった。
 僕は毎日のように体力を激しく消耗するので、就寝する時間も徐々に長引いていった。永遠と洞窟の中を彷徨っているような感覚だった。僕は毎晩頭を抱え、頭を激しく掻いて図鑑に目を通してはの繰り返しだった。図鑑を僕はまるで道に線を作る蟻の大群を一匹一匹異なる特徴点を探すようにじっくりと何度も目を通したのだが、やはりヒントとよべるヒントも見つからなかった。
「大変そうですね」と声がした。それはとても優しく美しい声だった。
 僕は声がした方へ目をやった。そこには白い服装に身を包んだ少女が僅かに開いた扉の隙間から覗いていた。僕にはその少女に覚えがなかった。しかしあまりにも自然な口調で僕に声をかけてきたので、いささか不気味だった。それはまるで幽霊のような儚げがある少女だったのだ。
「えっと――」
「地長の娘です」と少女は割り切るようにそう言った。「初めまして」
「あ、どうも。初めまして」と僕は首を下げた。
 地長の娘さんは、まるで雪の妖精のようだった。清純そうな白色のワンピースは天然な環境から生まれた氷のように僅かに透けており、そして肌も白かった。まるで生まれて一度として太陽の光に身を晒した事のないような奇麗な白色だった。栗色の髪は癖など一切なく、真っ直ぐと肩まで伸びており、とても軽やかだった。睫毛が長く、瞳は澄んだ奥行きを覗かせていて、大きい。
「父親から聞きました。緊急事態、らしいですね」と少女は慣れていないような丁寧語で僕に訊ねてきた。とてもぎこちない口調が僕は気になった。
「そうなんだ、緊急事態なんだ」と僕は言った。そのあとに「普通の口調で構わないさ」と僕は付け足した。
「ありがとう。そうさせていただくわ」と少女は遠慮なく口調を自然体に戻した。「やっぱり〈獣還師〉という仕事は大変?」
「今まではそこまでじゃなかったんだ。体力を激しく一気に消耗する事に慣れれば、簡単だったさ」
「けれど、緊急事態なのね?」
「そうなんだ。君に言ってもわからないと思うけれど、見ての通り僕は今相当参っている」
 少女は僕の顔をまじまじと見つめた。僕はなんだ? と首を傾げた。
「それは…私に性欲の矛を向けているのかしら? ごめんなさい。私まだ処女なの」と少女は軽々しくそう口に吐いた。その口調から仕草まで、まるで人生を何度か経験しているかのような大人びたものだった。
「ど、どうしてそうなるのか教えて欲しい」と僕はなるべく平然を装いながら言った。少女が躊躇なくそんな事を言い出すので、僕はどこか動揺していたのだ。
 僕は図鑑を机の端に置き、一度伸びをした。強張った筋肉をほぐすように何度か肩を自分で揉み、二回ほど肩を回してみるとポキポキと骨が骨を軽く叩く乾いた音が発した。そのあとに僕は瞼を閉じ、暗闇の中で目玉を上下左右に動かした。そして指で瞼と目元を優しくほぐした。
「ねえ」
「なんだい?」
「とてもネガティブな思考なのだけれど、私の話を聞いてくれないかしら? 獣還師さん」と少女が僕と自分の前にコーヒーを置いて、その場に腰を下ろした。コーヒーは砂糖もミルクも含まれてなく、無垢なまま育った少年のようなブラックだった。立ち昇る湯気が僕の顔を下から煽いでくる。
 僕は構わない、と言った。
「私ね、この世界がいつまでも平和のまま続くとは思えないの。というより、この世に「完全な平和」というのは存在しないんじゃないかと私は思うのよ。例えば、光がある場所には必ず影があるでしょう? それと同じで、幸せがそこにあるのなら、背後には不幸も佇むと思うのよ。誰しもが平和で幸せな世界なんて、ありえないわ。誰かに幸福が訪れたとしたらその分――いや、その倍くらい――他人に不幸が襲うのよ。あるいは、ある人の幸福のせいで不幸になった人間もどこかにはいると思うわ」
「よくわからない事を君は言うんだな」と僕は二度、三度と肯いた。「確かにそうかもしれないな」と僕は思わず本音を言ってしまっていた。
「とてもネガティブだとは思うけれど、私は常に現実と向き合っていたい人なの。今この世界は「平和だ平和だ」と言うけれど、そんなはずないと私は断言できるわ。歴史の本などを私は何冊も読んできたわ。今じゃ考えられないかもしれないけれど、昔は「戦争」なんてのも実際にあったのよ?」
 僕は肯いた。「戦争」というものがあったことは、僕も知っていた。まだこの世界が様々な国に分裂していた頃の話だ。意味もないような争いを、人々はしてきたのだという。そんな過去があったからこそ今の時代は平和なのだ、と決まって皆はそう吐くが、確かに少女の言うとおりかもしれないと僕は思った。
「けれど、仮にその闇の部分があったとして、僕はそれを見つけれない。見えないものを助けるなんて、難しい話だよ」と僕は言った。そのあとで僕は、自分がとても馬鹿な事を洩らしたことに気がついた。無意識に零れてしまったのだから、今のは僕の本音なんだろう。そう考えるとさらに僕は自分を殴りたくなった。
 少女はまるで大切な約束日が雨降りだったかのような、がっかりとした顔をしていた。どうやら失望しているらしかった。それもそうだ、と僕は自覚した。僕はなんて馬鹿な発言をしたのだろう、と僕は今更になって後悔した。
 そしてしばらく深い沈黙が場に佇んだ。僕は息が詰まりそうだった。自分に嫌悪を抱き、そして彼女の視線がたまらなく僕の心に凍みたのだ。傷口に唐辛子をすり潰したのを塗りたくられているようだった。
 「私は〈獣還師〉の仕事はわからないけれど」と少女は呆れたような顔つきのまま僕に背を向け、部屋を出て行く間際にそう言った。「わからない事があるなら、この街の〈森の図書館〉にいってみてはどうかしら。あそこにはいろいろ資料が並んでいるし、獣の事に関しての本も多いわよ」
「そうなのか?」と僕はその情報を脳に刻んだ。何か手掛かりが掴めるかもしれない、と思ったのだ。思わず僕は期待した。
「ええ。けれど、すこしそれまでの道程が危険だから気をつけて」
「ありがとう。明日地長に訊いてみるよ」
 そうとだけ少女は言うと、まだ湯気が昇っているコーヒーを手に持ってさっさと出て行った。それは逃げるようだった。部屋はさきほどよりも増して沈黙が深まったように思えた。空気が貫禄を備えた岩石のように重く、僕の身に容赦なく襲い掛かってくるようだった。
 その後で僕はあの少女のことを考えてみた。地長からは人見知りだと聞いたのだけれど、そうとはとても思えなかった。確かにどこか不思議な雰囲気はまとっていたが、人見知りというのからは大分離れていた。僕はどこか夢心地だった。まるで今まで幻想でも見ていたかのように、それは潔く消えていったのだ。とても白く、儚い。僕はあの子は本当に地長の娘なのか? とも思えた。
 コーヒーの僅かな香りと少女の髪の匂いが淡く室内に残っていたので、あの子がこの世に実在する人物だとは確信できた。芳醇そうな甘い匂いが、うっすらと部屋に漂っており、その香りはまるで僕に遠慮しているかのように、憚っている印象を覚えさせた。



 お風呂から上がり、湯冷めしないうちに今日は就寝しようと思ったのだけれど、リビング部屋の方からクラシックの音楽が聴こえてきたので、僕はリビングに向かった。リビングには地長がいた。頬杖をして、ラジオから流れてくる様々な楽器の音に耳を澄ませていた。 
「おや、先程娘にコーヒーを持っていかせたんですが、どうでした? 可愛かったでしょう」と地長は僕に気づいてすぐに、娘の話題を切り出した。僕はいささかそれが億劫だった。自己嫌悪に再び填ってしまいそうで、怖いのだ。
 ラジオから流れてくるクラシックは、まるで憂鬱そうな表情でトイレ掃除をする少年のような音楽だった。扁平な板の中に詰め込んだような、静かで盛り上がりのないものだった。眠気が瞼の裏に這い寄ってき、僕の脳をくすぐった。
「よくわからないです」と僕は正直なことを言った。
「よくわからない?」と地長は反芻した。「私の娘がですか?」
「はい。彼女はとても難しい考えをしています」
「それは面白いです」と地長は陽気に笑っていた。僕はそれじゃあおやすみなさい、と言って部屋に戻った。

東北の森・孤独な建物・絶対漆黒の洞窟

 地長は〈森の図書館〉に向かうことに否定を覚えているらしかった。「あそこは危険なんです」と何度も僕に説得を試みてきたのだが、僕は頑なに首を横に振った。「いや、これもこの街の平和のためです」
「しかし、〈森の図書館〉は危険なんです。あそこは東北にあるんです。わかりますか? つまり〈獣森〉と繋がっているんですよ?」と地長は大袈裟に腕を横に伸ばして語勢を強くし、僕に説明してきた。
「〈森の図書館〉の森とは、東北の〈獣森〉の森と同じなんですね?」と僕は理解ができているか確かめるため、訊ねた。
「そういうことです。ですから獣と出くわすかもしれないんですよ? 実はいうと私も行ったことはないんですよ。あそこの図書館には管理人の青年が住んでいるという噂も耳にしたことはありますが、会った事もないんです。その前にそんな青年の噂が本当かなんてわからないし、あくまで噂なんです。危険が大きすぎます」
「しかし、今の事態は前代未聞なんです。地長もそれはわかりますよね? 〈獣還師〉に忠告された獣は三年間は確実に大人しいと決定されてた事なんです」
「それはわかりますが、あそこは危険すぎる。ましてやあそこに隠されたヒントがあるかどうかも解らないんですよ?」と地長は必死だった。何をそこまで、と僕は眉間を寄せた。「やめましょう。ね?」
「その〈森の図書館〉には隠されたヒントがあるかもしれないんですよ?」と僕は地長の言葉をそっくりにして返した。
 地長は僕の頑固さに諦めたらしく、大きく息を吐いた。それはとても長く、止め処ない溜息だった。わがままな息子にやれやれと苦悩する親のような顔つきだった。地長は何度かまばたきをしてから、「わかりました」と承諾した。
 「ありがとうございます」と僕は許可を頂いたことにお礼をしてから、バックを背負った。「べつに地長までお供しなくていいですよ。危険らしいので」
 その発言が可笑しかったのか、地長は笑みを噴き出した。「いえ、案内しなきゃならないんで私も行きますよ」
 案内も何も、地図どおり歩けば到着するんじゃないだろうか? と僕は思ったが、わざわざ訊ねるのは億劫なので「そうですか」とだけ吐いて僕はブーツを履いた。地長はタンスらしき物の引き出しを開け、何かが入った袋を取り出して小さなバックにそれを詰め込んだ。「何ですかそれ?」と僕は訊ねた――それは何となく訊ねておいた方がいい、と無意識に思ったのだ――地長は「これですか?」と言った。「〈森の図書館〉に行くには、途中の道のりで〈絶対漆黒の洞窟〉という場所があるんです」
「はあ」と僕は肯いた。また新たな名前を耳にし、いささか脳が混乱しそうだった。
「そこはとてつもなく暗いそうなんです――私は行ったことがないんですよ――それは一つの病のように、人体に影響を及ぼす闇らしく、洞窟を抜けたあともその洞窟の暗闇が瞼に焼きつくらしいのです。それは視界が朝なのに夜に見えたり、全体的にまるで影がかかったように暗く見えたりするらしいのです」
 そんな障害を防ぐための薬のようなものです、と地長は説明した。僕はなるほど、と肯いた。なるほど、わからない。しかし詳しく言及しても意味はなさそうなので僕はそれ以上訊ねることはやめた。「それじゃあ行きましょうか」そう言って僕と地長は〈森の図書館〉にへと向かう仕度をした。仕度をするほどの物などあまり持ってはいなけれど。



 およそ二時間ほど僕と地長は歩いていると、様々な種類の草や花が茂っている地面に足元が変わった。その地を踏みながら進んでいると、石を積んで作られた壁が――壁というよりは柵ほどの高さだが――遠くに見えた。僕は歩みを早め、その煉瓦のような石が積まれた場所へと向かった。そこには平たい石が敷かれた地面が真っ直ぐ伸びており――途中どころ不安定ではあるが――その石と石の隙間には伸び放題の雑草が浸食していた。その茂る草に紛れて、途中で積んでいくのを挫折したような中途半端な長さの煉瓦柵があり、その隙間からも花や草を生やしていた。乾いた土のような色をしている。
 その光景はまるで死んでから有名になった英雄のような、貫禄を備えていた。とても複雑な石の道はゆるい段差となっており、まるで中心街の建物のように複雑に異なった形の草や木たちがその地の傾きを誤魔化していた。
 その石の板を――ゆるい段差を――登っていくと、とても古い建物があった。この石の板と同じ石で作られているらしい薄汚い茶色の建物は、時計台のような細長い形だった。幾つかの細かい皹を刻んだ建物は一部ハンマーか何かで壊されたかのように荒く破損しており、瀕死状態の老兵のような佇まいだった。いや、とっくに死んでいるのかもしれない。
「なんですかね、ここ」と僕は宙にぼそっと呟き、その建物の中へ入った。
 建物の中はとても空虚で淋しく、そして孤独な空気だけが漂っていた。扉のない入り口からはすでに出口から覗ける外景色も見れた。まるで空気と風を通すだけのトンネルだ。
 僕はこの建物の過去を――もちろん、僕の架空だけれど――脳裏に描いてみた。決して広くはないこの面積に、幾つものランプが置いてあり、とても明るくて、暖を作るストーブがあり、春になれば桜の花弁が入り込んでくる。そんな光景が目に浮んだ。僕は白い少女の言っていた「平和」のことを思い出した。もしかすると、彼女の言っていたことはこういう事かもしれない。
 この建物以外にも建物は存在していたのだろうな、と僕は思った。もう一度外に出て、先程の煉瓦などの柵などを見てみると、それは他の建物の一部だった、という事に気づいたのだ。そう考えると僕はとても淋しい気持ちになった。孤独なまま、この建物は延々とこの死んだ後の土地のような草原に立ち竦んでいるのだ。感情輸入が得意というわけではないのだけれど、涙が浮びそうになった。涙の淀みが邪魔する視界に映るその建物は相変わらず淋しそうで、そしてこの地の遺産のようで、実に美しかった。
 地長は初めてここを見たらしく、「こんな美しい場所があったとは、私も地長失格ですね」と微笑を浮かべていた。それから軽い沈黙があり、「私もいずれはこうなるのでしょうか」と静かな声でそう言った。
 空気が通り抜けていくのがわかった。孤独に彷徨っている空気はその場に淀みながら、その駆けて行く空気を見守っているのだ。



「さて、ここが〈絶対漆黒の洞窟〉です」と地長はその洞窟をまるで何度も見ているかのような、初見とは思えない口ぶりで言った。「といっても私も初めてですが」と補足を言って、ふぉふぉと笑った。
 洞窟からは、溢れんばかりの忌々しさが漂っていた。石を積んで作った洞窟らしく、冷えた空気を伴侶するその洞窟の中はまるで真夜中に覗いてみた深い井戸の奥のように、完全で完結した暗闇だった。僅かばかりの光も窺えないのだ。
 さらに――忌々しさの原因はこれだろう――その漆黒の奥からは何者かがこちらを覗いているような、不吉な感覚が身にまとわりついた。今にも黒々とした手がその闇から伸びてき、僕を引きずり込むような恐怖がその場には漂っていた。
「何か、怖いですね」と地長も同じ事を考えていたらしく、身にまとわりつく寒気に翻弄されていた。
「仕方ないです。行きましょう」と僕は逡巡する余地も作らずに決意をして恐怖と対峙し、足を前に踏み出そうとしたところで先程地長が言っていた「薬のようなもの」の存在を思い出した。
 地長はその場に生えていた木に近寄り、その木の幹に間抜けに伸びてた枝を折って手に持った。「見ててください」と地長は言いながら、持った木の枝の先を洞窟の虚ろな中に差した。そして何度か枝先を回して暗闇に円を描き、再び太陽の下にそれを晒した。
「なんですかこれ」と僕は素直に驚いた。
「わお」と地長も自分でやっといて驚いていた。
 暗闇を差していた木の枝の先は、黒い水切りのような――黒ずんだ霧のようなもの――がまとわりついていた。それは薄い膜のように透けており、しかし不吉な黒色だった。その闇の霧は太陽の光に浄化され、空気にひらひらと消えていった。
「これが影響をもたらす原因ですね、絶対」と地長は興味深そうに言った。
「影響の原因はそれでしょうが、この霧自身の原因はわかりませんね」と僕は言った。多分、この先もわからないままだろう。仮に解明されたとしても、それはまだ遠い未来の話だと僕は思った。宇宙の概念と同じだ。
 地長は腰に巻くタイプの鞄から袋を取り出し、その中から縫い針のような形をした物を僕に渡した。「何ですかこれ」と僕はまるで埃を指先でさっと拭うような声で訊ねた。
「〈闇避け(コンタクト)〉という代物です」と地長も絞った雑巾をぽいと投げるような口調で返した。

闇避け・暗闇・長時間

 肉眼に針を突き刺すという感触は、とても慣れるようなものではなかった。柔らかく中身の詰まった物のなかに異物が侵入してくる感覚だ。傍から見ても、それはとても気味の悪い光景だと思う。しかし、その行為に痛みという概念は遠い位置に放置されているみたいに、まるでなかった。
 地長もこの感覚に慣れなずにいるらしく、まじまじと針先を見つめているだけだった。僕は目玉に刺したのはいいのだけれど、針を抜くという事に恐怖を覚えて逡巡していた。
 地長が渡してきた〈闇避け(コンタクト)〉という物の正体は、針だった。それはまるで道端に咲いた花の茎から型を作ったかのように細く、鋭いものだった。その針の先――鋭く尖っていない方だ――に、なにやら薄い影色をしたゴム製の風船のようなものが付いていた。それは丸みを佩びており、ワインのコルクほどの大きさだった。中に液体のようなものが入っていた。
 「これをどう使うんですか?」と僕は地長に訊ねた。いや、悪い予感しかなかった。僕は悪い勘には鋭い方なのだ、と自負している。まず針という物を渡されるところから、僕には嫌な予想しか働いていないのだ。これを飲むというのか? そんなわけないだろう。
 地長も顔を歪ませ、「それを訊きますか?」というような顔で僕を一瞥した。そしてまた針に視線を戻して、「これを刺すんです」と冷静沈着な口調で――しかしそれは冷静さを装っている偽りだと、すぐにわかった。声が緊張して定まらない箸のように震えているのだ――言った。「何にですか」と僕は嫌々ながらに訊ねた。地長も僕も得をしない話だ。
「………目玉にですよ」地長の声は横たわって立てない虫のように、弱々しく情けない間抜けな声だった。
「で、ですよね……」と僕は針先を見つめた。紫色をして、忌々しさを全開に漂わせた毒液が、その先からは溢れてくるような恐怖があった。
 目玉に水以外の異物を侵入させる、という自体、僕には考えられない世界だった。見当もつかない。子供の時、遊んでいる最中に友人の指が僕の目を突いた時はあったが――案の定といっていいほど、そういう事態が起これば場はしらける――そんな痛みなのだろうか。しかし、あれは入っていない。今から僕と地長がやろうとしているのは、「目玉に針を刺す」という事なのだ。
 僕はとりあえず針を自分の頭より高く上げ、尖った先端を向けてそれをまじまじと睨んだ。ゆっくり手を下ろしていく。まるで高級蟹を贅沢に頬張るような体勢だ。思わず瞼が閉じる動きをみせる。僕は踏ん張った。そのせいか僕の目は腫れでも抱えたように出鱈目に歪んでいた。ピクピクと弱い痙攣を起こすかのように瞼が震えるのだ。
 針の先端が瞳を捉えた。目の前にある針は、僕からは黒い点にしか見えなかった。それすらもぼやけており、どこに本物の針が定まっているのかもわからなかった。しかし、〈森の図書館〉に行くためにはここしか道はないのだ、と決意してそれを僕は目玉に挿入した。
 痛みはない。細長く硬い針が目玉を突き刺し、それがゆっくりと潜り込んでいくだけの感覚だ。僕は自分の身体が――目玉も含めて――強張っているのがわかった。風船のところを二本の指で持ち、ゆっくりと押した。そうすると中に溜まっている液体が針を伝って、瞳の中に流れてくるのがわかった。針の先から、いささか粘りを佩びた液体が瞳の面に広がってきた。
 液体が全部なくなったことを何度か指で押して確認し、僕は針を抜こうと試みた。しかし、やはり恐ろしい。針を抜いた瞬間、目玉から血がまるで小さな穴の開いていた袋から水が漏れるみたいに、流れるような予感がするからだ。ゆっくりと僕は針を引いていった。そして針の先端部分だけが刺さっているくらいにまでにした。目玉に粒ほどの小石が埋まったような、違和感が走った。その違和感が僕には堪らなく、無意識に針を抜いてしまった。
 違和感が目玉から消える、のと同時に抜いてしまった、という自分の軽率さが沁みた。僕はすぐに手をそこに当てた。しかし、血が漏れているようには思えなかったので、僕は溜息を伴う安堵を得ることができた。やれやれ。
 針を抜いたにも関わらず、自分の目には未だに違和感が残っていた。それはまるで死んでなお、執拗にまとわりつく霊のように、目玉に這っていた。どうも慣れない。僕はもう一本をもう片方の目に刺し、何度かまばたきをして目玉の潤いを戻した。
「そちらは終わりましたか?」と僕は手の甲で涙を拭いながら、地長に訊ねた。
「なんとか」と地長も袖で目元を拭いながら言った。
 僕は地長の顔を見た。それは何気なく目をやっただけなのだが、思わず二度見してしまった。地長の瞳が紅いのだ。それは致命傷な傷口から溢れる血液のように、深く赤みの濃い色合いをしていた。地長も驚いているらしく、僕と地長はしばらく見つめ合っていた。お互い、呆然としている。充血――とは違うものだった。瞳が紅いのだ。深紅なのだ。まるで童話に出てくる血を吸う怪人のように、不自然で物騒な印象を抱かせる、実に場違いな色だった。
「……実にわかりやすい薬ですね」と僕は笑みを洩らした。
 地長も「そうですね」と苦笑いを浮かべていた。どうでもいいけれど、地長にその目玉は似合っていなかった。「あまり似合っていませんね」と地長に笑われたので、どうやら僕も似合っていないようだった。
「これで、洞窟に入っても構いませんね」と僕は言った。「さ、行きましょう」
「私はあまり望んでいませんけどね」と地長は拗ねた子供のような顔をしながら、鈍重に歩みを始めた。



 洞窟の中は、まるで世界中の暗闇と呼べる暗闇すべてを合体させたように徹底とした深い闇だった。何も見えず、瞼を閉じているのかすらわからないほどだった。地長は僕の後をついていきているのか、それとも隣に並んでいるのか、もしかすると浮いているのかもしれないが、それすらも確認ができなかった。宇宙の底のように沈んだ深くて強い闇なのだ。そんな空虚な暗闇には、砂利道を踏む僕と地長の足音だけが響いていた。その足音すらも暗闇に呑み込まれていくように、甲高く響くことは決して無かった。
 洞窟の壁と壁は、どこまで幅があるのかも把握できなかった。僕の心中には不安と不吉な予感だけが窮屈に埋まっていた。砂利を踏む度に無数の石ころがお互いを削るように転がる乾いた音が鳴り、それを僕と地長の足が踏み、そして重みを佩びた冷えた空気の呻き声が耳元に流れていた。
 洞窟の中は結露がびっしりと張っているかのように、冷えていた。さきほどの闇の霧か何かはわからないが、肌を淡い蒸気のようなものが撫で、冷えだけを残してすり抜けていった。鬱陶しい。
「しかし、本当に暗いですね」と僕はどこにいるかもわからない地長に声をかけてみた。「地面に何かがあっても気づかず踏んでしまうでしょうね」
「怖いことを言わないでください」と地長は怪談話で怯える子供のように、畏怖を晒した上擦った声を上げた。どうでもいい事――むしろ良いことなのだが――この人は見た目からは思えないほど、心は若いように思えた。「ところでどこにいるんですか?」
「僕からも地長の姿が見えないので、わかりませんよ」と僕は苦笑した。
「恥ずかしいことながら、私こういう暗いところが苦手なんですよ」
「ここは暗すぎますよ」
 僕の苦笑する声だけが深い眠りについたような沈黙に響いた。ところで洞窟の中は氷を這わせたみたいに冷え込んでいた。鼻水が流れ、鼻下の肌に鼻水が這うのがわかった。それを啜る。戻ってきた鼻水は冷たかった。



 長々と僕は歩いていたと思う。正確かどうかは自信はないけれど、一時間弱ほど僕は洞窟の中を進んでいた。暗闇の中に延々といると、まるで僕は地下に巣を作る不吉な虫になったような感覚だった。べつに優雅に歩けるほどの広さなのだけれど、どこか窮屈に思えるのだ。あまり認めたくない事実だが、正直僕は苛立ちを覚えていた。どれだけ歩いても、外からの光が見える気配など一向と無いのだ。どれだけ歩こうと、辺りは徹底的な闇だけだ。
 人間一人が入れるか入れないかほどの大きさの空間に挟まれているような感覚を僕は覚えていた。だから腕を横に振ったり、跳んだりと自由奔放な動作をしてみるのだが、場の暗闇はまるで重みでも佩びたように、窮屈さがほどけることはなかった。思わず愚痴を零してしまいそうになるので、口を噤むことに努めた。
 重苦しい暗闇は刻々と時を経てるにつれて、深みと重みを増している気がした。しばらくその暗闇を視界に広げていると、それは明るいのか暗いのかすら、理解できなくなってしまいそうだった。漆黒に包まれ視界に、赤ワインのような赤紫色の光のようなものが描かれているのだ。もちろん、幻覚だろうとは思うけれど。
 

日差し・本棚・青年

 長時間の暗闇は、僕の精神状態を躊躇いなく貪っていった。すでに僕の限界は底の面を一部覗かせており、じだんだを踏みたくなるような苛立ちを幾度か催した。まるで沸騰寸前のお湯みたいに、僕の気持ちは不規則に昂ったり焦らしたりと忙しなかった。
 闇の中はまるで遠くから聴こえる波の押し寄せのような音がしていた。乾いた空気が重なりあって擦れるような――いや、深く掘られた地下に潜む怪物の呻き声に似た、非常に耳障り極まりないものだった。地長も同じことを思っているのか、僕と地長の間は深い沈黙がどっしりとあった。
 光が目に差したのはそのときだった。まるで筒状に丸めた紙の穴を覗くみたいに、光は先から一直線に走ったのだ。そこで僕はようやく微かな希望を抱くことができた。「やっとですか」と地長は声を上げた。先程の沈黙が晴れるような歓びに浸った声だった。
「行きましょう」と僕は歩みを急かした。ええ、と地長も言って鈍重だった足を軽やかに前へ踏み出す。
 僕は自分の頬が緩んでいることに気がついた。とても気味悪い笑みを浮かべていると思う。けれど僕は表情も直さずに、ただただ奔放に歩みを進めた。身の重みは宙に浮いていくように葬れ、肌を縛るような窮屈さは風に吹かれて消えた炎のように消えていった。
 視界の先に伸びた光は、歩みを進めるほど徐々に拡大していった。暗闇の闇が浄化され、洞窟の中に僅かな光が佩び始める。肌に久しく浴びていなかった光が差し、強張りが剥がれていく。僕はこの暗闇から抜け出したくてたまらなかった。大人になってようやく再会を果した親友同士の女学生のように、僕の気分は高揚していたのだ。
 洞窟を抜けると、闇に慣れていた瞳には強すぎる日差しが容赦なく僕を照らした。僕はすぐに目を瞑り、光を遮った。瞼の壁で途切れた光は、目を瞑っているのに視界は夕陽のような色が覆っていた。日差しは僅かな温かみを佩びており、僕が洞窟を歩いている間に季節は春を迎えたのかと思うほどに優しく僕を包んだ。地長も遅れてやってきて、突如として視界を焼く光に「うわっ」と声を上げて地長は背けるように瞼を閉じた。
 瞳を光に慣れさすため、僕と地長はしばらく無言で瞼を瞑っていた。その間も光は僕の皮膚に熱を与え、暗闇に支配されていた身を安らいでいった。「そろそろいいかもしれませんね」という地長の呼びかけで、僕と地長は視界を広げた。まだやや強い気もしたのだけれど、すぐに慣れるほどの程度だ。
 僕らはどうやら草原にいるらしかった。無垢に明るい黄緑色をした草の地面は優しく流れる風に揺られており、その頭上は大空が広がっていた。草原といってもあまり面積は広くはなかった。視界の先には丸太で作られた柵が立っており、その柵から前はどうやら崖らしかった。僕はその柵から身を乗り出して、そこに広がっている壮大な景色に目をやった。
 「これは凄いな」と地長も僕の隣で、思わず声を洩らしていた。確かにそれは凄い光景だった。海――巨大な河かもしれない――を挟み、中心街の〈階段の街〉が堂々と佇んでいてそれを一望できた。「どうやらここは北東街の端っこらしいですね」と地長は言った。「何せ西地方(ノスタルジア)は円状の形をしているので、各街の内側の端に行けば中心街が一望できるんですよ。いわゆるドーナツですね。真ん中に空いた穴に中心街〈階段の街〉があるようなものです」
 〈階段の街〉はどこからの方向から眺めようと、鮮やかな色合いをしていた。まるで空を喰うようにたくさんの建物がある。僕はあの〈階段の街〉にいる人達のことを考えてみた。あそこで買い物をしている人らの中で、僕の存在に気づいたものは多分、いないだろう。気づくはずがない。あそこからは僕なんて豆粒ほどにしか見えないのだ。
 草原の右側は森となっていて、どうやらそこが〈東北の獣森〉らしかった。その森はとても不気味で陰鬱な雰囲気に充ちていた。深い霧が彷徨うように深く、奇妙なものだった。順調に育ったような美樹をした木が窮屈に生え、獣の姿などは見えない。
 左を見ると、草原の地面が地中で切れていることに気がついた。それは切れているのではなく、段差になっているらしかった。二、三段ほどの低い階段で、それを降りると〈森の図書館〉に到着した。
 数々の木が生えており、その木に紛れて巨大な本棚のような物が置いてあった。雑草が這っている地面にも本が山積みで置かれた所も多々あった。本棚には木の根がへばりついていて、本が取り出せなくなっている所もあった。
 僕はあらゆる位置に山積みで置かれた本に注意を払いながら、その巨大な本棚の方へ向かった。――そこで地面にまるで井戸のような穴がある事に僕は気がついた。
 その穴は石で囲まれており、覗いてみると地下室らしき場所に繋がっているような石の階段があった。「なんですかね、ここ」と地長は不安の声を洩らしていた。「誰かいるんでしょうか? ここに」と地長は階段を指差す。声が若干震えているようだった。
 僕はその階段を無視し、本棚の方へと向かった。本棚には大量の本――殆どが図鑑のような分厚いものだった――が並んでおり、長年放置されたみたいに古い物ばかりだった。埃を自ら歓迎するかのように大量に被っており、真っ白となっている。試しに一冊引き抜いてみると、まるで硝煙のような埃が宙を舞った。とてもじゃないが、読めたもんじゃないと僕は感想を覚えた。
 地長はその本棚に並ぶ本をまるで古代文字でも読み解くように、渋い眼差しで眺めていた。ひとしきり眺めた後で、「何が何の本かも私にはわかりません」と地長は自嘲的に呟いた。僕もそれは否めなかった。確かにわからない。
「おや、お客なんて珍しい」と、何者かの声がした。
 僕と地長は反射的に振り返った。その声の主はどうやら青年のようだった。若々しい声で、凛々しくいささか官能的な魅力を佩びている声だった。「ここに来る人なんて何年ぶりでしょうね」
 階段を上っている足音がする。石を踏む音だ。先程の地下室かどこかに繋がっているらしき穴から、誰かが上ってくる。それは心優しそうな顔をした青年だった。身長が高く、足が長い。顎が尖っており、顔つきも爽やかな風を吹かせるような整っていた。僕は地長の言っていた噂話の事を思い出した。
「もしかしてあなたは」と地長はその青年に話しかけた。
「自分はここに住んでいるんです。――いわゆるここの管理人みたいなものです」と青年は軽く自己紹介を済ませ、その場に置いてある本の上に腰を下ろした。「何かお探しですか? というより殆ど色褪せていますが」
「……らしいですね」と僕は洩らした。
 青年は苦笑し、それから「あなた達は?」と訊ねた。「ここに来るなんて相当な人とは思いますが」
「獣還師と西地方(ノスタルジア)の地長です」と僕は言った。青年はなるほど、と肯いた。
「それで、何かご用でもあったんですか?」
 僕は今この東街で起きている事を、青年に話した。青年はどこか険しそうな表情を見せていた。

世界の未来・深森・死体

 〈森の図書館〉の管理人の青年は、とても愛想のいい笑みが特徴的な人だった。その顔つきには青臭さがどこか残っており、良い方の理由で不甲斐なさが滲んでいる。僕はこの好青年に今現在起きている事態を全て話した。この青年なら、何か知っている事があるかもしれないと思ったからだ。
 「そうなんですか」と青年は僕に同情をするかのような口調で言った。僕はここ最近の〈獣森〉の様子に変わった事はないか、と青年に訊ねてみた。正直希望を抱くような回答は期待していなかったのだけれど、青年は「そういえば……」とここ最近の日を思い出してそこから示唆を探すように話を続けた。
「以前は獣――ではありませんが、小動物たちがよくこの図書館にも遊びに来ていました。自分にも慣れていて、よく肩とかに乗ってきたり、遊んだりしていたんですが……最近は見ないですね。来ない方が多いかもしれない。」と青年は淡々と語った。「きっと何らかの原因で生存が減少しているんですよ」
「なるほど。何か関係したものがありそうだな。ありがとうございます」と僕はいろいろと共通点があるかどうか考えを巡らせてみた。
 毎日の獣の登場――小動物の生息の減少。なにか共通点があるはずなのだ。一般的に獣が〈人間街〉に訪れる理由の大概は、「子孫が多くなり、森の狭さを訴える」とか、「自分達の森が〈人間街〉と比べて小さいことに不満を抱く」というものだ。
 生存が減少してきている、と青年は言った。それはそうかもしれない、と僕は思った。なら森の狭さを訴える、というのはまずないだろう。大きく×マークを描くようにその可能性を消去する。ならば〈獣森〉が〈人間街〉よりも小さいことへの不満? これも違うとみた。確証はないけれど、それはないだろう。いろいろと考慮し、思考を巡回させた後に導き出した答えは「そんな安易な問題ではない」という事だった。何も解決していない。
 獣のSOS――僕はその可能性を脳の片隅から引っ張った。何か――それが何かはわからないが――問題が〈獣森〉に発生しており、それを獣還師の僕に助けを求めている? あるかもしれない、と僕は思った。今まであまり考慮には入れていなかった可能性だが、それが一番大きいのかもしれない、と僕は思った。
「食料が足りないのでは?」と青年はふと思いついたように呟いた。「安易かもしれませんが、それが一番大きそうだ」
「それは僕も考えてみたんだ。でも――」
「自分思うんですけど」と青年は急に口調を急変させて、非常にシリアスな顔つきになった。「この国はそろそろ駄目なのかもしれない、と思うんです」
「それはどういう?」と僕は興味本位から言及した。前にもこんな話を聞いた覚えがあるからだ。
「この国が平和なまま続くはずがない、という事です。確かに今のこの時代は平和かもしれませんが、少しずつこの国は変色していくのだと思います。この獣らの問題はその何らかな事態の示唆を知らせる予兆なのかもしれません。自分はそれが心配なんですよ。近いうちにこの世界の未来は、惨酷で残虐なものに変わるかもしれない……」 
「そんなことは起きない。僕にはそう信じることしかできない」と僕は言った。
 地長の娘――あの白い少女――も似たような事を言っていた。流行中なのだろうか、と僕は思った。しかしそのような似た話を聞いていると、実際にそうなるかもしれない、という不安が浮ぶのは否めない事実だった。確かにこの世界の未来は暗いのかもしれない、と僕は感傷するような気持ちになった。
「信じることしかできないんだよ、僕らは」と僕は言った。自分でも何を言っているのかわからなかった。
「信じるだけ、ですかね。本当に」と青年は意味深のような事を吐いた。しかし、やはり何を言ってるのかわからない。
 青年はひとしきり〈獣森〉の方向を眺めていた。髪をふわっと持ち上げるような軽やかな風が、草原の地を靡かせていた。僕も青年と同じ位置を見つめていた。それは何も起こる気配もなく、ただ風に弄ばれている草が揺さぶられているだけだった。
 地長は本棚にもたれながら、瞼を閉じていた。長時間歩いたからか、疲れているようだった。木が揺れ、そこから葉っぱが数枚飛び散り、宙を舞った。揺れていて忙しない木の影に身を覆われながら、地長は昼間の海底のように穏やかな眠りに浸かっていた。



「次は何を言い出すかと思いきや……」と地長は呆れたような声で言った。「〈獣森〉に入ろうなんていくらなんでも危険すぎます!」
「ここまで来たなら、行きましょうよ」と僕は頑なに言った。厚い壁でも僕の前に立てるみたいに。
 それから二、三分ほど言い合い、また長くなるぞと覚悟をしたのだが、地長は一度僕の頑固さを知っているからか、一度口内に淀んでいた息を吐いて「わかりました」と呆れた声で渋々承諾した。「で、す、が、すぐ帰りますよ?」という条件は伴った。
「わかりました」
「襲われてでもしたら助けてくださいよ?」と地長は額を押えながら、溜息を吐いていた。
「獣は繊細な生き物だとこの前も言いましたよね? 僕らの気配を感じたら逃げていくはずです。襲ってきたら任せてください」
 青年は地長に「大変そうですね」と他人事に首を突っ込んでさらに揶揄をするような笑みで、一言だけそう言った。地長は青年を一瞥し、「大変ですよ」と言ってもう一度溜息をした。
 僕と地長は〈獣森〉の方面に進み、その森の中へ足を踏み入れた。「気をつけて」と青年が言った。僕と地長は頭を下げ、深い霧の中にへと進んだ。もう一度後ろを振りかってみると、青年が舌打ちを零しているような表情が見えた気がした。気のせいだろう、と僕は気に留めなかった。



 深森の中は、自然がもたらす冷えを佩びていた。全体的に靄が彷徨っているように銀色の霧が宙を這っており、地面は繊細な鮮やかさをした緑色の苔が覆っていた。苔に支配されて深い緑色をした樹や、苔を被ったような岩、苔が樹を孕んだように生えた様々な植物。もはや僕らが楽に歩けるような足場はなかった。全体が苔に這われた深い森には、獣の姿は感じれなかった。
 どこかにはいるのだろうけれど、森の中はまるで植物そのものが息を殺しているみたいに静寂だったのだ。その静寂は耳鳴りのような現象すらもたらすほど深く、まるで世界が終焉したかのようだった。頭上を眺めても鋭い銀色の霧が浮遊しており、空を確認することもできない。地長は寒気を訴えるように震えた声で「不気味ですね」と黙々とした森を見渡していた。
 さりげなく夜明けを迎える空のように静かな深森は、僕と地長の足が地面を這っている木の根を踏んだ音で一瞬だけ破れた。しかし、それすらもまるでその音を外に放り投げられたかのように消失し、再び沈静となった。
 止め処なく歩みを進めていると、遠くに若干の丸みを佩びた木が倒れているのがわかった。白銀色をした霧がその輪郭を覆い、ぼやけて曖昧なシルエットとなっている。それは人の死体のようにも見えた。僕はその倒れた「木」に死体が息を吹くかのような不気味さを悟った。僕は歩みを急かした。
「こ、これは」
「なんですか、これ」
 それは木ではなかった。生気が腐って不吉な漂いをしているそれは、獣の死体だったのだ。目が開いたまま生気を失っており、月日の経過したトマトのようにくしゃくしゃとなっていた。そう、腐っていたのだ。開いたままの瞼からは裸子植物のように目玉が飛び出ており、その目玉は熟過ぎた柿のように――もはや半液体化となっていた。身を覆う毛皮は中年男性の陰毛のように縮れており、萎縮していた。腐臭を発しており、思わず僕と地長は鼻を摘む。
 獣の口元からは、抜け落ちて自らの唾液で溶けたような牙と、不吉な赤紫色をした果実のようなものが、一口齧られただけで転がっていた。  

暫定的な解決・深淵の答え・煩悶

 獣の死体は、一体だけではなかった。歩みを進めれば進むほど死体の数は増えていき、中には骨が一部露になっているものもあった。それはとても殺伐としている雰囲気が漂っていた。忌々しく、残虐な冷えた空気が霧と同様に泳いでいる。地長は吐き気を催しているようだった。「そろそろ帰りましょう」と地長は訴えかけるように僕に言った。
「そうですね。何かとても嫌な予感がしてならない」
 僕と地長は森を下り、草原に戻った。青年は「お帰りなさい」と微笑みながら近寄って来、「どうでした?」と訊ねてきた。「何か、ヒントは見つかりましたか?」
「何もない」と僕は言った。それと獣の死体に関しては何も言わないことにした。
「そうですか……」と青年は期待の視線を僕から逸らし、地を見据えていた。「何なんでしょうねえ」
「とりあえず食料不足が一番可能性があると思いますので、明日にでも獣の食料が実る樹を植えましょう。その樹が実を作るまでの期間は、人間の食料を置いておきましょう。大体、三日分ほどですかね」
「わかりました」と地長は萎れた野菜のように青褪めた表情のまま肯いた。あの獣たちの死体が脳に焼きついているのだろう。



 街に戻った僕と地長はそれらを村人たちに説明し――獣の死体については触れずに――村人たちからの承諾を貰った。僕は地長の家に戻り、すぐにベッドに横になった。足が中に水でも溜めているみたいに重く、筋肉が強張って痙攣のようなものを引き起こしていた。
 ベッドに身を預けながら、本当にこれでいいのか? と僕は考えてみた。今までの事を脳にリストアップしていき、正解を導き出そうとしたのだけれれど、やはりどれが一番正しい行為なのか、僕にはまるで見当もつかなかった。そして振り出しに戻り、また一から考えていく。しかしわからないので、もう一度考える。わからなかった。頬を軽く掻いてから、僕は瞼を閉じて光を遮断した。 



 覚醒までの皮を僕は剥がしていき、僕は漠然とした脳のまま目を覚ました。窓から差し込む光は先程浴びていた光よりも濃い色合いをしていた。身を起こして確認すると、すでに時間は夕方を向かい入れていた。夕陽の訪れを歓迎するように、空は緋に染まっており、太陽がもどかしいほどにゆっくりと沈んでいく。最後の一搾りの力を発するように街を橙色で包み、僕の肌を大袈裟に日焼けさせたみたいに染め上げていた。
 僕は足を地につけ、ベッドから離れた。部屋から出て、廊下に足をつけると急な重みに驚いたような軋み音が木の板から響いた。リビングに向かおうとしたところで、僕が寝ていた部屋――客室――の隣にある部屋のドアが開いていることに僕は気づいた。その部屋を僕は通り過ぎようと歩みは止めなかったのだが、その部屋はどうやら地長の娘――あの白い少女の部屋らしかった。
 あまりこういうことは駄目な事だと思うが、僕はその部屋が気になった。ドアが僅かな隙間を覗かせて開いている。僕は躊躇いを感じながら――そのドアを開いてしまっていた。人は好奇心に支配されて動くものなのだ、と思う。
 部屋の中は片付いて奇麗なものだった。白い壁に、白い勉強するような机があって、白いタンスが置いてある。地面も白いカーペットが敷かれており、木製のベッドもシーツはみな白色だった。雪でも積ったみたいに、その部屋は白々としていた。
 僕はその部屋に足を踏み入れることを躊躇したが、やはり気になった。僕は表情を引き攣りながらなるべく音を立てずにその部屋に侵入し、その部屋をひとしきり眺めた。白い机の引き出しが気になった。僕は子供の頃にしたかくれんぼの時のように、胸に鼓動を昂らせているようだった。
 引き出しを開いてみる。かたかたと木同士が当る乾いた音がし、慎重に引き出しを引いた。僕はその中身に目をやった。そして自分の視界に疑った。驚愕したのだ。自分の予想していた想像力じゃそれは相当浮ばない代物だったのだ。僕は身震いを覚えた。
 拳銃が一丁、そこにはあった。
 モデルガンではなく、偽物じゃなかった。紛れもなく本物で、手に持つと銃弾が六弾ほど中には入っていることがわかった。なぜ拳銃が? 僕にはわからなかった。どういう経路で拳銃が現れるのか、僕には微塵と見当もつかなかった。銃口を僕の顔に向けてみると、自分の体から血が後退していくのがわかる。それを持っている自分の手が、弛緩していくのが理解できた。それは拳銃という物に畏怖を感じているのではなく、あの白い少女がこれを手にしているという事実に血の気が引いたのだ。
 僕はすぐにそれを引き出しに戻し、その部屋から出た。見てはいけないものを見てしまった気がした。拳銃を離してもなお、手は痙攣するかのように震えていた。悪寒が肌に這いつき、冷や汗が滲む。それから自分の歩きがぎこちない事に気がついた。
 それから自分のミスに気づく。あの時、白い少女は近くにいたかもしれない。



 翌朝。僕と地長は再び〈獣森〉に向かい、図書館の管理人と三人で樹を植えた。獣の食料となる実が実る樹だ。育ちが早く、三日もあれば立派な樹にへと成長する。それまでの間は人間が食べている果物や野菜で辛抱してもらわなければいけないけれど。
 僕は街から持ってきた果物や野菜の人間の食料を大量に森中にばら撒き、〈獣森〉を後にした。これで安心ですね、と地長は安堵の息を吐いていた。僕もそうですね、と言いつつ、何か嫌な予感がしていた。その妙な不自然さに僕は馴染めなかった。
 どうも「これで解決した」、とはとても思えなかった。僕は客室のベッドで横になりながら、改めて正解を幾度となく探した。しかし正解と呼べる正解も見つからず、手探りで手を伸ばすも、虚無な宙を手で何度も振っているだけに思えた。答えは深い溝の深淵に隠れているのだ。
 僕は消化不良な気がしてならなかった。何かがあるはずななのだ。僕はいろいろと苦悩し、脳を強く絞った。洞窟の岩に張りつた結露を真剣に舐めるように、僅かな考えも咀嚼して思考を巡らせてみた。しかし何か引っ掛かるようなだけで、決して正解は闇に包まれたままだった。
 とても焦燥になり、僕は何度も頭を掻いた。針に糸が通せないみたいに、僕の考えはまとまること無く、むしろ自由奔放に散らかるばかりだった。僕の脳に様々なワードが浮ぶ。白い少女の言っていた「平和」という文字や、図書館の管理人の青年が言っていた「未来」。それらが螺旋を描くように脳をからかい、その螺旋の道を僕はされるがままに滑っている。
 そう煩悶している時も、時間は刻々と経過していった。明日には僕は帰らなければならない。僕は本当に、帰っていいのだろうか?



 黄昏が闇を引っ張り、街は漆黒に覆われる。僕は地長に気づかれないように家を出、東北の〈獣森〉に向かった。こっそりと盗んだ〈闇避け(コンタクト)〉を鞄に詰め込み、僕は夜の西地方(ノスタルジア)の街を駆けていた。持ってきたものは闇避け(コンタクト)とナイフ、それと――持参してきた拳銃だった。
 僕は自分のバックの底に隠していた拳銃を引っ張り出して持ってきた理由は自分でもわからなかった。とても忌わしい予感が僕の脳に漂っているからだろう。僕は拳銃をあまり使いたくはなかった。今まで発砲したこともなければ、使用したこともなかったのだ。
 答えは一向に僕の脳に浮ぶことはなかった。深い深淵に身を潜めたまま、何かを示唆する気配すらもなかった。だから僕はそれを振り払うように全力で駆けた。脳にまとわりつく、じれったさを吹き飛ばしたかった。地面を蹴り、もはや自暴気味に走った。足は筋肉痛を引き摺ったままだったが、それすらも忘れ去るように強く地を蹴った。
 僕の耳元で声が聞こえる、気がした。あり得ない、と僕は思った。きっと幻聴だ。声などは聞こえるはずはないのだ。しかしその幻聴は何を示しているのか、僕にはわかる。
 獣のSOSだ。

最終手段・腹立ち・死

 『どうしても獣が命令を聞かない場合、または乱暴さを失わずに街を襲い続ける場合、拳銃の使用を認める』というのを僕は脳に思い出していた。獣還師のルールの一つだ。最悪の状況の場合の最終手段――というものだ。
 長時間の洞窟をようやく抜け、疲弊が縛りつけてくる足を堪えて僕は〈獣森〉の方へと突入した。真夜中の深森は、昼間の霧がかかった森よりも一段と深みを増しており、不気味さに充ちていた。まるで深海の底のようにその森の中は静寂に包まれており、冷えた空気が耳を通り抜けていくような音だけがしていた。
 僕は鞄から拳銃を取り出し、その静寂に身を重ねるように音を立てず、歩みを進めていた。まるで小石を袋詰めされたものを無理矢理捻じ込まれているような僕の足はもはや限界の領域にひびを入れており、悲鳴を上げていた。
 漆黒な深色をした樹がおびただしく聳えており、僕の視界を狭める。まるで何かの大群に狙われて囲まれたみたいに、僕は奇妙な視線のようなものをその樹たちから感じていた。暗闇に紛れて吹く冷風に樹が揺れ、葉が重なって擦れる乾いた音が耳を襲う。それに僕は驚き、自分が通常より誇張に意識が敏感になっていることに気づいた。
 実に、忌々しい。正直僕は真夜中の〈獣森〉という場所に、心霊的な意味で恐怖を覚えているのだ。身を震わせ、僅かな物音にも敏感に反応してしまう。樹の呼吸だけでも、それがまるで霊的な何かが僕をさげずむように僕は捉えてしまい、安堵の息を洩らすと同時に魂まで抜けてしまいそうなほどの深い溜息をつくのだ。
 僕の神経は、漆喰の壁に無理矢理擦りつけられてるみたいに、粗く削られていった。恐怖心だけが積もり、精神はみるみる崩壊されていった。
 荒い喘ぎが僕の耳元を支配していた。それは僕の上がっている息だった。戦慄で肺が強張り、空気を送り込むのが難しくなっているのだ。足も刻々と重みを増していき、疲労が圧し掛かる。辺りを漂う暗黒をどれだけ厭おうが、そこに光が差す気配は毛頭と無い。
 なぜ僕はここにいるのだろう? と僕は自分の言動に後悔せざるを得なかった。あれで解決――暫定的ではあったが――したではないか。それなのに、なぜ僕はここにいる? わざわざこの暗黒の中を彷徨っているのだ? 
 そこはかとなく歩みを続けていると、何か硬い物――まるで果物のようなもの――を叩き割るような鈍い音がした。当然のように僕の針山のように尖った神経はそれを捉えるのだが、気のせいだと決めつけた。そうであってほしい、という僕の恐怖心からの切実な願いだった。懇願する。しかし、それは気のせいではないようだった。
 その鈍い音は、幾度か耳元を襲った。それは余韻を残すような甲高いものではなく、硬い皮をまとった果物のようなものを叩き割る音だ。その真実を僕は洞察できることができなかった。
 戦々恐々とする足を躊躇いが襲う。これ以上は危険だと、無意識に僕の脳が指示しているのだろう。しかし、ここでやめるわけにはいかなかった。ここでやめれば意味がなくなるのだ。僕は鎖を巻いているように鈍重な自分の足を必死に前へと踏み出した。
 やがてその影が見える。
 誰かが、何かを叩き割っている。誰かは見当がつかないが、それは人間の姿だと確信した。曖昧な影ではあるが、棒を勢い良く振り下ろす人の姿だと一目見ればわかる。僕以外にも、この森の中に人間がいたのだ。僕は竦みそうになる足を堪える。力を込めて地を強く踏みつけた。拳銃を震えながら構える。一歩ずつ、歩みを再開させた。棒を振り切る人の姿は、どうやら男性らしかった。まるで薪を斧で両断するみたいに必死に棒を振り下ろしていた。
 闇が徐々に剥がれていき、その姿が露になっていく。輪郭が正確となり、体格が確認できた。僕は目を凝らす。目を細めて、視界を狭めた。そこで僕は驚愕した。「え」と僕は思わず声が洩れた。意味がわからず、状況が判断できずにいるのだ。整理が追いつかず、あらゆる物が整頓されてまとめられていた棚が引っくり返ったみたいに、僕の脳は散乱した。
 そこには、必死に僕たちが撒いた食料を叩き潰している〈森の図書館〉の青年の姿があったのだ。



 夢かもしれない。そんな漠然とした希望を抱いて、僕は可能性を考えてみた。そんな可能性は毛の先程もない、と一蹴される。僕にはまるで理解できなかった。
 青年はやみくもな素振りで食料らを叩き砕いており、その顔はまるで道幅で蟻に食われている虫の死骸を見るような目つきをしていた。肌に戦慄が走り、僕の心は氷をまとった拳で何発も殴られたみたいに不規則な強張りを覚えていた。痙攣を催し、視界が正確に定まらない。
 ――しかし、原因は掴めた気がした。彼が何かをしているのだ。獣に害のある樹を植えたりなどの行為をしているのだろう。彼はまだ僕には気づいていないらしかった。僕は止め処なく震える手を両手で支えあいながら、拳銃を握る。慄く足を踏ん張り、定まらない視界――曇り空みたいにそれはぼやけている――に向かい、声を上げようと試みた。
「な、何をしてるんだ!」と僕は大声で言った。それはぎこちなく上擦り、裏返っていたかもしれない。
 青年は手を停め、僕の方へ目をやった。「ああ、いたんですか」
「そ、そこで何してんだよ」と僕は語勢をきつくして訊ねた。銃口を青年の方へと向ける。青年はつきつけられた拳銃を一瞥し、「わお」と余裕な笑みを浮かべて言った。
「何って、見たとおりです。あなたらがいらない事をしたから始末してるんじゃないですか。全く、余計な事をしますよね。わざわざこの森に入ってまで」
「何を企んでるんだ」と僕は震えた声で訊ねてみた。定まらない銃口を誇張して向けながら。
「企む? 違いますよ」と青年は言った。「正直、自分は動物というのが嫌いなんですよ。見ているだけで腹が立つし、不愉快だ。なのに小動物らが毎日のように自分の家に来るもんだから、殺すしかないじゃないですか。ところで獣がのたうちまわりながら死んでいくのって見たことありますか獣還師さん? どれだけ人間よりも巨体だろうと、無力なものですよ。あいつら」
 青年は息を一度吐き、再び話を続けた。僕は唾を飲む。拳銃を落さないように注意する。
「すこし話が変わりますが、自分は今のこの国の制度に腹が立って仕方ないです。どうして獣なんかの為に人間が住む街を削って譲らなきゃいけないんだ? と思います。自分はまるでわからない。しかも街を二つも譲ってやったのに獣たちは人間達に何か良い事をするのか? 御返しとやらをするのか? 何もしないじゃないですか。さらに獣はそこに不満が生まれれば〈人間街〉に現れ、街を荒らしたりと………。
 そんな奴らのために居場所を作る人間らも自分にはわかりません。何が平和だ。獣還師さん。自分は思うんですけれど、完全な「平和」というのは存在しないと思うんですよ。人間という生き物がいる以上、この世界は平和にはならない。あなたのような人もいれば、自分のような人間もいるんですよ。わかりますか?」
「悪いが、僕には君の思考がわからない」と僕は言った。
「だから、そういう話をしているんじゃないですか。人間は一人一人違うからね。争いも起こるし、幸福の数だけ不幸が起きる。そういうことですよ」
「それでお前はなぜ獣を殺すんだ」
「腹が立つから、て言ってるじゃないですか。自分はこの森のように、獣たちだけの居場所を与える人間達の思考が理解できないんです」
「居場所を与えているのに獣たちは人間達に良い行いをしない。だから殺しても構わない、と君はいいたいのか」
「おおまかにいえばそうですよ。なんか、見てて殺したくなるんですよね。何もしないくせに優雅に飯食って、飯が足りなくなったら人間らを襲って。自分勝手というか、調子に乗っているというか。自分は獣というのは存在しなくても良いものだと思ってますよ」
 そんな事を偉そうに言うお前の方が自分勝手だ、と僕は思った。青年の口調が徐々に荒くなっている。青年は息を飲み、さらに続けた。
「だから殺すんです。鋭利なナイフで切り刻んだり、生きたまま燃やしたり、毒入りの果実を食わせたり。何せ獣らは馬鹿ですからね。ほいほいとついてくるんですよ。そして自分が騙された、という事にもわからずもがき苦しむんですよ」
「狂っている」と僕は本心から呟いた。もはや、狂気を覆っている。僕は拳銃の引き金に指を回した。生かしておけない。「お前は、生かしておけない」
 拳銃の引き金を引く事は、今じゃ簡単なことに思えた。僕はとてつもなく腹立ちを覚えているのだ。この男を生かしておく理由が見当たらない。僕は躊躇をしない。これが正解だと――誰かが僕に間違っている行為だ、と責めようと――僕は自分のこの行為に悔いは残らないはずだ。
 引き金に指が触れた。僕は口を結び、歯を食い縛った。青年を見据え、銃口を正確に定めた。深呼吸をしている余地はない。僕は引き金を――。
 銃音が静寂を弾き飛ばすように轟いた。鼓膜が張り裂けるような甲高い咆哮が耳を急襲し、僕は身に走る痺れから拳銃を地に落した。膝が屈しる。その地面に僕は倒れた。何が起きたんだ? と疑問が浮ぶ。その発砲は、僕が起こしたものではなかったのだ。
 呼吸がまるで巨大な腕に撓まれるように、苦しくなってくる。息が歯の隙間から洩れていくのがわかる。どうやら僕は撃たれたようだった。誰に? 決まっている。青年だ。あの青年も、拳銃を隠し持っていたのだ。真夜中に揺れる樹の影みたいに不安定な歪みを佩びた青年の姿が、まるで湖に映る月みたいに遠く離れて消えていく。意識が高速でかけ離れていくのだ。まるで夜が僕を見放すみたいに。
 僕は死ぬ。どうやらそうみたいだった。このまま瞼を閉じてしまえば、そのまま僕はこの世界から消失するだろう。だから僕は、瞼を閉じずにいた。目玉が乾き、涙が強制的に溢れる。遠のいていく意識の中で、僕は青年の姿を探した。けれど、青年の姿は見当たらなかった。
 どこにいった? きっと獣を殺しに戻ったのだろうな、と僕は思った。そう考えると、僕はとてつもなく悔しい気持になった。獣を助けれなかった、という事実は僕に巨大な屈辱を与えた。しかし、怒りだけが脳に湧くだけで、僕の体はすでに植物と一体化したみたいに動かなくなっていた。呼吸も弱まっていくのがわかる。視界が白い霞みに浸食されていくのもわかる。
 そこで僕は青年が消えたわけではないという事に気づいた。青年は地に倒れてのたうち回っていたのだ。僕にはそれが何を示唆するものか、理解できなかった。しかし僕はそれを思索することは不可能だった。どうやら僕の限界の境界線が撃ち割られたようだった。
 僕は、青年の喉辺りから血が吹き出ている事に気がついた。どうやら、青年は何者かに撃たれたようだった。一体誰に? わからない。
 もしかして――この森に僕と青年以外の人物がいるのか?
 やがて僕は眠くなる。煙突から盛んに上がる煙みたいに深くて巨大な眠気は、僕を押し潰して、脳を凍結させた。眠くなってきた、という感覚は刹那にして失せ、どうやら僕は死を完了させたようだった。    END

ノスタルジア・ハードボイルド

ファンタジー世界というのに憧れて書いた作品です。 

一作目の「レゾンデートル」よりも短いし、読みやすいかと。

ノスタルジア・ハードボイルド

人間の住む街に侵入してくる獣を森に還す「獣還師」が仕事の主人公はある日、西地方(ノスタルジア)の東街から仕事依頼を受ける事となる。 一見、いつもどおりの順序で終わると思っていた仕事だったが、徐々に平和の背後に住む悪にへと、主人公は気づいていく。光が当る場所には影があり、幸せで溢れる陰では不幸が佇むのだ。ファンタジー世界環で起きる、この世の惨酷さの中での正論。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-03-16

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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  1. 列車・階段の街・西地方東街
  2. 獣森・超巨大マンション・東街到着
  3. 街並み・タンク・拳銃
  4. 還れ・幸せの笑顔・サンドウィッチとコーヒー
  5. 平凡・獣のSOS・娘
  6. 就寝時間・「平和」という概念・クラシック
  7. 東北の森・孤独な建物・絶対漆黒の洞窟
  8. 闇避け・暗闇・長時間
  9. 日差し・本棚・青年
  10. 世界の未来・深森・死体
  11. 暫定的な解決・深淵の答え・煩悶
  12. 最終手段・腹立ち・死