レゾンデートル

レゾンデートル

雨尾 秋人

一作目です。【完結済+プロローグ・エピローグ】

時よ止まれ――お前は美しい 前編

 一円を馬鹿にする者は一円で損をする。のと同様に、たかが一秒と笑う者は一秒に損をする。そんな事を、僕は脳裏で述べていた。たった一秒とはいえ、その一秒が事態を大きく変化させる事があるのではないだろうか。そんな事を脳裏で考慮している僕は、哲学者でもなんでもない。
 けれども、そんな些細な事を考えるような僕は、自分という存在に余裕を感じているのだと思う。通常の人間は――ましてや哲学者くらいしか――こんなことに興味が湧く人間はいないだろう。
 そこなのだ。その「通常考えない事を考える」自分に、優越感を抱き、自分を快楽へと導いている気がした。気がした、ではなく、そうした。
 無数に降り注ぐ雨粒が、滞ること無く傘に弾く律動を奏でる。空は憔悴な印象を抱かせる灰色をし、アスファルトの地面の色を、乾いていた黒色を深く甦らしていた。
 傘に打ちつける雨音が耳元を覆い、どれが幻聴で本当なのか、区別が出来なかった。
 歩道には傘を差した人達が僕と同様に足を赴くように歩いており、傘に身を詰めて、窮屈そうで憂鬱そうな表情を浮かべている。歩道の柵を越えれば道路があり、様々な車が水溜りを派手に飛び散らせながら僕を通り過ぎて行く。冷えた風が頬をすり抜け、僕は舌打を洩らした。落ち着きを戻した水溜りは、水面の鏡を歪ませている。歪みが直るのと同時に、再び車に潰された。まるで人間の精神のようだな、と僕は脳裏で憫笑した。これから拷問を始める拷問者のように。

 黒縁の眼鏡をした男が不気味な微笑を浮かべながら、僕の隣を通り抜けた瞬間だった。紺色のスーツに身を包み、黒縁眼鏡を人差し指と親指で支えながら位置を調整しているその男に僕は、他人とは異なる奇異な印象を抱いた。
 男が僕の横を通り過ぎる。男の差していたスーツと同じ紺色の傘が僕の透明な傘と一部が重なり、垂れ流していた雨が飛び散る。飛び散った雨の粒が眼鏡のレンズにつく。男が鼻筋を撫でるように、黒縁眼鏡の位置を固定した。
 男の背に釣られるように僕は、首を振り返った。違和感を覚えたのだ。遠く離れて行く男の背を見つめ、何かが「違う」白色不透明の違和感に謎を抱く。何かは分からない。だが、何かがおかしい。
 雨は止む気配すら窺わせず、収まりきれていない僕の肩と袖を濡らす。湿気が髪や肌に絡まり、むず痒い。まるで空間そのものが変哲したかのような違和感が、さらに肌を絡めた。
 何台もの車が、颯爽と僕を通り過ぎて行く。その道路を挟んで、向こう側にも歩道がある。
 そして僕は思わず二度見をした。怪奇な恐怖感すら心臓を包んだ。向こう側にある歩道に、傘を差した男女二人組が視界に映る。
 一人は背が低く、ノートパソコンが入ったケースを脇に挟んで持っている女性だった。焦げた茶色のような色をした髪を後ろで束ねており、清楚で凛々しい雰囲気を漂わしている。秘書のような官能的な印象を抱いた。
 もう一人は全身が黒で覆われた様ような男だった。黒く暖をそのまま身に纏っているようなタートルネックに、黒一色のジーンズを履いている。唯一黒くないといえば、召しているスニーカーだった。有名なスポーツメーカーのロゴが堂々と刻まれた白と黒の単純な色合いをしている。傘から僅かに覗ける髪も、深い闇に潜ったような濃い暗黒を佩びている。
 僕は、言い表せない奇妙な感覚に酔いながら、辺りを見渡す。雨は降り止む事はない。頭上に広がる深い灰色をした雲を眺める。
 もしこの降り注ぐ雨がすべて一瞬にして停止したら、なんて悠長な事を脳裏で呟いた。そんな下らないことに興味を抱く僕は、そんな自分に余裕を感じているのだと思う。そんな僕は、哲学者でも何でもないのだけれども。
 身にまとう違和感は、まだ解けることはない。         続

一話

 僕はこの世でたった一人の、逸材だ。
少々過去の話をする。神様なんていう存在は微塵と信じていなかった僕は当時、些細なことから、「いじめ」というものに遭っていた。小学五年生の頃だったと思う。
 友人の消しゴムを僕は指先で弄んでいた。やや硬めの素材が指先に吸いつき、その感触が癖になった僕はその消しゴムをすこし丸みを佩びさせるように曲げたり、親指で力を込めて押してゴム製独特の弾力を楽しんだりと指先で冒険した。ただ、なんとなく指先で暇を持て余していた。
 あらゆる方向へ湾曲を沿うように曲げたりとしていると、消しゴムがほぐれ、柔らかさを取り戻すかのような感覚がした。体温が移り、親指などで押すと先程よりも深く沈んだ気がした。その程度で躊躇しておけば良かったのかもしれない。そのまま僕は、その消しゴムを割ってしまったのだ。
 ぐんにゃり、と片手の人差し指と親指で限界まで曲げたつもりだったのだ。けれども、その境界線を越えたかの様に、一瞬にして奇麗に割れたのだ。まるで刃か何かで切断したかの様に奇麗な断面を露にし、付く事のない消しゴムの面と面が密着した。
 まずい、僕は咄嗟的に、状態反射の如く、首を左右に振った。辺りを見渡し、見られていなかったか、という確認をする。仮に見られていたとしても、どう口止めするかなんて事は考えていないけれども。その感情に委ねてだった。
 僕は再び二つに分裂した消しゴムに目をやった。とりあえずその消しゴムを友人の筆箱に隠す様にして戻し、自分も席にへと戻った。
 正直、僕は自分の失態が招いた事態に反省の志は微粒子程も考えては無かった。謝罪したところで、結局のところは責められるのだ。ならば、隠し通せばいいのではないか?と僕は澄ました顔でいる事にした。
 それが、世間でいう「いじめ」の始まりだった。そんな事の原因は、大概がそんな些細な事からなのだ。


 結果をいってしまうと、その日の内に僕は疑いの視線を向けられ、翌日には犯人は僕だという事が明らかになっていた。「いじめ」という事態に発展したのは、すぐだった。
 僕がやったのと似た様に、僕の消しゴムが無残に割られていた。それを見た時、僕は「始まったか」と溜息を吐き、それでも謝るという行動をしないでいた。
 次の日には消しゴムが細かく小刻みに木っ端微塵となっているのだから、思わず僕は苦笑した。正直、僕はこの現状を楽しんでいたのだ。「消しゴムを割られたくらいで、小さい男だな」と僕はその男と目が合う度に脳裏で憫笑をしていた。
 ざまあみろ、と嘲笑う様な余裕に満ちた視線が、僕を捉える。僕はその勝ち誇った顔が見ていておかしくて堪らなかった。笑みが漏れそうになる度、僕は腕で囲いを作り、その中に顔を埋めて寝る真似をしていた。肩が痙攣するかの様に揺れ、笑っている事を隠しきれていなかった。 


 給食の中に消しゴムで出した滓が詰まっていた時には、さすがに僕も身震いを覚えた。若布が無駄に多く入った海草サラダの中に、消しゴムの滓が少々入れられていた。
 消しゴムを割られただけで何をそこまで、と僕はその男の方へと視線を送った。その男は僕に対する「いじめ」のグループとやらを作っており、教室の男子大半は占めていた。
 僕はそのグループに目をやり、「小さい奴らだな」呆れた、と溜息を洩らした。その僕の溜息を確認する度に、そのグループはわざと大声で高笑いをしたりもしていた。
 その笑い声を脳内で何重と重ねて、自らの意思でも再生する。堪らなく、醜い。僕も釣られて憫笑してしまいそうだった。
 その給食を無理矢理口にかき込むと、教室内がざわついた。それは何ともご満足そうな表情で、僕の言動一つ一つに嘲笑をしていた。まるでそれがこの上ない幸甚の様に。
 僕はそれを哀れに思いながら俯瞰で眺める様に見下し、自らも高揚していた。その自分の余裕な笑みに、グループの奴らは苛立ちを覚え、さらなる仕打ちをするのだった。


 それは僕がいつもの様に下駄箱で上履きを取り出している時に起こった。
 学校に登校すると、「いじめ」なんて知らない教師が相変わらずの爽やかさを伴う声で「おはようございます」と挨拶をして来る。僕は小さく相手の耳元に届くか届かないか程の声で、「おはようございます」と返す。
 生徒玄関に入れば、昨晩放送したドラマの感想などで盛り上がる女子達。お互いの昨晩で更新した成績を自慢しあう男子達。といった喧騒が広がっており、耳障りで仕方がなかった。自分の名前が記された下駄箱に履いて来たスニーカーを入れ、上履きを取り出す。僕はその上履きに、やや違和感を覚えた。
 中を覗いてみると、丁度爪先辺りに達する奥の方に、画鋲が三つ敷かれている事に気付いた。「漫画か何かの見すぎだろ」と僕は思わず吹き出してしまう。僕はその画鋲を摘み、下駄箱の上にへと投げた。念の為、と靴を反対にして何度か振る。もう何も落ちてはこない。
 その上履きを荒々しく地面に落し、足で直そうとした時だった。
 僕の右側の脇腹を掬い取る様な蹴りが、体に重みを乗せてぶつけて来たのだ。僕はその蹴りにたじろき、尻餅を付いて何だよ、と託つ。
 それは案の定。僕をいじめている男だった。僕は体制を起こそうと試みるが、男は足を前に突き出す様に僕の右肩を強く蹴った。再び僕は足元を崩す。
 そのまま男は僕の髪の毛を鷲掴みの様にして掴み、勢い良く引っ張る。毛穴が拡大しそうな程に躊躇のない力の入れ方で、僕は思わず「痛い」と声を洩らした。
 髪の毛を上へ引き、僕と顔を合わせる。男の愉快そうな表情が、僕の視界に広がる。男は右腕の拳を丸め、僕の鼻筋辺りを捉える。「やめて」と僕は畏怖さを滲ませた声を漏らしてしまう。
 男子が勢い良く拳を振った。僕の鼻を目掛け、宙を裂く。正直僕は、一発で済むのなら良いか、と諦めまで感じ、恐怖心から目を強く瞑った。が、
「え?」
 男の振った拳が僕の鼻を突くのに、やけに時間が掛かるな、と疑問を覚えた。その疑問が浮ぶ時間すらあったのだ。恐怖が解けた様に僕は瞼を開き、拳を確認する。
 今にでも僕の鼻を強く潰す様な勢いを纏っている拳が、視界の大半を覆っている。だが、それだけだった。唐突の激しい鋭さを纏った喧嘩慣れしている拳が、固定されているかの様に動作きを滞らせていた。
 停止しているのは、拳だけではなかった。男の表情も、唇を尖らせて拳に力を込めている様に勢いを作る表情のまま、静止をしている。さらに言えば、あちこちでがやがやと喋り声がしていた学校内も、一瞬にして静まり返っていた。一人一人の動作は動きを忘れた様に停止しており、テレビの一時停止の様な静けさだった。
 さらに言ってしまうと、この世界が、この地球自身が、動くのを止めた様だった。 
 まるで「時が止まった」様だ。そんな現実味が毛頭とない感想すら、抱いてしまう。僕の髪を掴んでいた男子の手なんてものは簡単に払う事が出来、僕は拳が当らない程度の距離を空ける様に男から身を離した。なぜ僕だけ動けるの?、なんていう疑問が浮んだ時には、世界は動きを取り戻していた。

二話

 一瞬、幻覚か何かを見てしまったのかの様な感覚に陥った。けれども、すぐに違う、と断言出来た。幻影を催した経験はないけれども、幻ではない事は確かだった。
 では何故か?、と僕はあらゆる事を勘案した。けれども、あきらかにあの現象は「自分が起こした」という結論に導いてしまうのだ。もう一度、考えを直す。神様という存在を信じない僕は非現実的な思考もあまり好ましくなかった。テレビなどでよく拝見する自称超能力者だとかいうのも、胡散臭いインチキだと脳では決め付けているし、ましてや天から授かった何か、なんてものは毛頭と信じる事はなかった。「奇跡」というものさえ、「偶然」という言葉に変更させる僕だ。正直僕は、そんなものを信じる人間が愚かで醜く、哀れだとすら抱いていた。起こる出来事すべてに、「神様」なんて言葉を使い、すべて口実にして現実から逃げている様に思えたからだ。
 それに便乗するかの様に、非現実的な思考もあまり僕はしたくはなかった。自分もそういった何かに飲み込まれそうな気がしてならない。自分は粗野に、悶える様に思索を繰り返した。
 が、出る答えはすべて自分が起こした「奇跡」だった。
 ならば仮に自分がその「奇跡」を起こしたとして、自分は何をしたのか?漫画の様な事を考えている自分に苦笑する。出てくる案は一つだった。
 自分はあの日。「時を止めた」。
 それが妥当だろう、と自らの結論に納得の頷きをした。確実にあの時、時間というのは動きを止めていた。校舎の外で爽やかに挨拶をしていた教師達も、まるで回っていた薇が切れた様に、停止していたのだろう。友人と下らない話題で雑談していた生徒達も、会話が途切れる様に静止し、背負っていたランドセルの弾みで起きる僅かな揺れすらも滞ったのだろう。
 その中で、僕だけが行動する事が可能だった。僕が、「時間を停止させた」。捻くれているかも知れないが、僕はそこでまた疑問を抱いた。
 時間が止まってしまえば、その場を彷徨っていた空気すらも止まるのではないだろうか?、と。人間は空気を吸わなければ生きる事は不可能だ。だから時間が停止した、という事は空気も滞る。同じく停止した人間も息をする事すらも「止まっている」ため、結論から言えば息をしていない。
「それじゃあ僕は」
 自分だけが息を出来る。違う。僕は「停止した時間を動く事が出来る」超能力という事か、と結論付ける。しかし僕は、またしても納得出来ない点があった。捻くれているかも知れないけれども。
 「止まった時間を移動出来る」という表現を、僕はあまり気に入らなかった。何故なら、時というのは「止まらない」からだ。ならば「止まった時間」とは何だ、という事になる。
 じゃあ僕は、時を停止でき、さらにその中を自由に行動出来るのか、と頭を捻る。
 通常。人間という生き物の中で、一日の時間も感覚は二十四時間と決められている。その二十四時間の中に僕は「自分だけの時間」を「追加」出来る。自分が一番納得出来たのは、その表現だった。
 通常人間の「二十四時間」という囚われた檻に、僕は「自分だけの時間」を僅かながらに追加出来る。もし僕が本当に超能力を開花させたのであれば、それに違いないだろう。
 非現実的な思考を好まなかった僕ではあるが、そう推測してみると僅かな高揚を味わえた。


 じゃあ仮にそうだとして、僕はその「時間を追加出来る」能力をどうすれば発動出来るのか、という考えに移った。
 「時間よ止まれ!」と有名なフレーズを叫んでみたり、「ザ・ワールド!」なんていう単語まで、いろいろ思い当たる事をした。親指を中指の第二間接に付け、強く弾いてみたりもした。そして一人で羞恥心を覚えては悶える事を繰り返した。
 そして僕が決定的な答えを掴んだのは、算数の授業中だった。
 黒板をチョークが突く軽々しい律動が、耳元でも同じ様に突かれる様な感覚だった。ノートを広げ、白紙のままのページに鉛筆で「時を止める」だとか「超能力」だとかのワードを上げていた。傍から見れば、自分に酔っている人間の様な風景だが、自分は至って真面目だ。
 あの日の一件以来、僕は消しゴムを割った、という事よりも、「奇妙な事をした」という事で益々孤立をしていた。クラスの皆から僕は気味悪さを感じられるようになり、完全で完璧な独りとなった。
 僕は何となく、スイッチの様なものをノートに描いた。画力というのは僕は乏しかったが、何となく指先が赴いたのだ。
 自らの動きに委ねる様に、ノートに描いたスイッチを脳裏で想像をする。算数だけ教師が変わるのだけれども、その教師は何か黒板に書く度に「ここは何だっけ?」とクラスの生徒に訊ねるので、さすがに煩わしさを感じている様だった。一部の生徒が発言し、すべて言い終わってもいないのに「そうだね」と相槌の如く呟く。その循環だった。
 脳裏で描いたスイッチを、脳裏の中の僕が手に持つ。握る型の輪郭をしたスイッチを持ち、ボタンの元へ親指を沿える。脳裏で「時間追加!」と呟きながら、そのスイッチを押した。
 そこで僕は理解した。確実にその瞬間、僕のいた世界が静止したのだ。消しゴムを何故か机の端に立たせ、ノートを無我夢中に書き込んでいた女子生徒は指を止め、発言していた男子生徒は話の途中で滞り、黒板を突いていた担任は固まる。
 これだ、と僕は確信した。非現実的な思考が好きではない僕でも、これはさすがに認めざるおえなかった。僕は確かに、
 自分だけの時間を追加出来たのだった。それはほんの二、三秒という奇跡。


 それからの僕は、一日に何度と時を止めてはこれ以上ない程の高笑いをしていた。少々嗚咽する程の勢いで声を張り上げ、停止して、なすすべの無いクラスメイト達を視界に収めては嘲笑う、といういわゆるストレス解消方を身に付けた。
 それは給食の時間や授業の時間。帰りの会。あらゆる時間に発動させては机を薙ぎ倒す勢いで笑いを放った。一瞬にして静寂へと変わる校舎内に自分だけが特別という優越感に浸かり、自ら沈んで行った。自惚れすらも、僕は覚えていた。
 それと同時に、僕に対する「いじめ」というのは強まって行き、給食の中には必ずと言っていい程、小石が詰められていた。僕はその給食を見る度に、「哀れな人間だなあ」と憫笑をし、貶めた。憫笑ばかりだ。
 僕は、この世でたった一人の逸材だ。
 優越感に溺れるこの感覚が堪らなかった。狂おしい程に雄叫びの様な笑い声を響かせる事で、自分の特別さが肌を撫でる様に実感出来たからだった。
 そう高揚して行く度に、脳裏に浮ぶ疑問も芽生えるものがあった。僕は本当に、この世でたった一人なのだろうか?
 もしかするとだけれども、僕のように他人とは逸脱した「奇跡を起こせる」者は他にも存在するのでは?、という疑問だった。その事だけが、気に掛かっていた。
 自分のこの「奇跡」に、さらなる興味を抱たのだ。


 そして時間は遡り、現状にいたる。小学校なんてものはもちろん。中学、高校と卒業した僕は、ある探偵事務所の様な建物の前に訪れていた。
 あれから僕は、「奇跡を起こせる」者達が集まる業界というものを発見した。僕が立ち止っているこの事務所は、その業界の一つらしい。
 この事務所の中に、どんな人物がいるかは僕はまだ知らない。けれども、自分は断言出来るものが幾つもあった。どんな超能力があるのかは知らないけれども。
 いかんせん、僕は自分が一番最強だと思っている。

  

三話

 埃っぽく古臭い貫禄を備えているチャイムを人差指の先端で強く押す。ピンポン、と音が反動するかの様に、扉をすり抜け、外にまで聞えた。壁が薄すぎないか?、と窺う。
 「はいはーい」と独特な音程を佩びた口調の男性の声が扉の内側から耳元へ流れて来た。横に引くタイプの扉らしく、錆が擦れる様な甲高い軋み音を轟かした。耳を防ぎたくなる。
 「うーん」扉から登場した男性は僕の顔を覗くやいなや、「どちら様?」と訊ねて来た。男性は黒縁の眼鏡をしており、口を囲む様に少々の髭を蓄えている。焦げた琥珀色の髪は耳に被さる程度の長さで、最近梳いたばかりなのか、僅かな揺れだけでも、軽々しい鰹節の如く踊っていた。
「ここの事務所を知り、やって来ました」
「ああ。とりあえず入ってよ」
 黒縁の男は僕を客の様に中へ招待し、僕は流される様に事務所の中にへと足を踏み入れた。「カミタニ」と名乗る男性の背を追う様に僕は足を運んだ。エレベーターの空間にへと招かれ、ボタンが集められたパネルにカミタニさんが触れる。分厚く、重々しさを漂わす扉が力強く閉まった。
 僕はこの平衡感覚を歪め、麻痺させる様な独特の空間が苦手だった。緩慢に上昇し、いや上昇とはいっても、この事務所は二階までしかない。閉、や開、のボタンと同様に並んだ数字のボタンは2、までしか無かったのだ。足元を掬い上げる様な浮遊感も僅かな時間だけであり、再び扉が左右に開く。
 カミタニさんは僕を客室専用の室内の様な場所に招き、革生地のソファを指差して「そこで待ってて」と軽い口調で指示する。僕は言われるがままにそのソファへと腰を下ろした。腰が沈み、身を預ける。我ながらに緊張感の無い態度だな、と苦笑しそうになる。
「コーヒーを淹れてくるよ」
「恐縮です」
 僕は軽く頭を下げ、カミタニさんがコーヒーを淹れに室内から出て行くのを何となく見つめた。木製の扉が壁と合致する音が発する。僕は視線を逸らし、左側の壁の方へと顔を向けた。外からだと僕が丸見えに映る硝子の窓が付いていた。僕は僅かながらの気恥ずかしさを抱くのと同時に、無防備になった様な感覚を覚えた。
 こんこん、と扉をノックする音が室内に響いた。「はい」と気軽な返事を返すと、「失礼します」と凛々しく真面目な印象を抱かせる女性の声がした。ドアがゆっくりと隙間を見せ、徐々に拡張して行く様に慎重だった。何をそこまで、と僕はその光景から何故か目が離せない。やや背が低めで、スーツをこれ以上ない程に着こなしている女性が室内に入って来た。僕はその女性にOLの様な印象を覚えた。さらに秘書の様な官能的な雰囲気も備えているな、と点数を付けるかの様に脳裏で述べた。顎が尖り、輪郭が整っている。
 その女性は書類の様な物を、僕の前に置いてあるテーブルの上に、僕と向かい合うように置く。
「こちらのアンケートにご回答ください」
「なんのアンケートなんですか?」
「いろいろでございます」
 僕はそのいろいろを訊ねているのだけれども。とはさすがに言う事を躊躇した。添える様に置かれたボールペンを手に取り、二、三枚に束ねられた書類を捲る。それと同時に、先程の女性の慎重さを壊すような陽気さで、カミタニさんが室内にへと戻って来た。お盆を片手に持ち、湯気を漂わせているカップが二つ並べられている。「タチバナもいるなら言っておくれよ」、とカミタニさんがテーブルにコーヒーを運んでいたお盆を置く。「私は結構です」と女性が恐縮するかの様にお辞儀をする。僕は丁寧な人だな、という印象を脳裏で呟いた。魅力ある女性だ。と、僕は素直に憧憬した。
「アンケート取りながら聞いてくれよ」カミタニさんがそう呟きながら、僕と向かい側のソファへ腰を掛ける。
「はい」
「改めまして。俺はこの事務所の社長的立場な人のカミタニです。あくまで社長「的」ね」
「はあ」僕の理解力が乏しいのか、いまいち理解が出来ない。
「それでこっちが、」
「秘書的な立場のタチバナです。あくまで秘書「的」です。曖昧です」
「曖昧ですね」僕の理解力が足りないだけかもしれないけれども、やはりよく分からない。
 僕はとりあえず一枚目の書類に記された空欄に自分の名前を書き、年齢や電話番号などの情報を記した。二枚目から、アンケート用紙のようになっている。
 「どれどれ」カミタニさんは記入を待っていたかの様にその一枚目の用紙を手に取り、目を通す。「トオル、というのか」と顎に蓄えた短い髭を撫でながら呟く。僕は気にせずアンケート用紙に○やら×を記していた。
 「ここに来たという事だからそうだろうけれど」カミタニさんは僕の記入した用紙を何度も目を配りながら、僕に訊ねる。「トオル君は超能力者、なんだよね」はい、と僕は素早い返答をした。まるでその質問を今か今かと心待ちしていたかの様な素早さで。いや、実際今か今かと返答の準備をしていたのだけれども。
「それは、どんな現象なんだ?」
「それは教えません」それも僕は、質問を反射させるかの様な素早さで答えた。
「なんでさ」
 僕の思索通りに行き過ぎて、本当は心を読まれているのか?と逆に疑いたくなる程だった。それか僕は人すらも操れるようになったのか?、と高笑いしてしまいそうだった。頬に力を込め、堪える。息を吐く様にして落ち着きを取り戻す。「わかりませんか?」僕は滑らしていたボールペンを一旦テーブルに置き、カミタニさんの顔を見つめた。
「そちらの方が、面白いじゃないですか」
「面白い事を言うね。君は」
「実際面白いですからね」
 僕は笑みを表しながら、言葉を続けた。カミタニさんが眼鏡の位置を調整し、外の日差しがレンズに一瞬流れる。
「いかんせん僕は、自分がこの業界で一番。最強だと思ってますから」
 面白い事を言うね、とカミタニさんが笑みを零した。僕も釣られる様に笑みを洩らす。


 「〈蝶硝〉の者からの仕事依頼です」とタチバナさんが僕に仕事の依頼を連絡して来たのは、それから数日間後の事だった。どうやらカミタニさんからのリクエストらしかった。お気に入りに追加されたのかもしれない。
 業界に入って数日間で、はや仕事依頼とは。僕はもしかすると強力な幸運に恵まれているのかもしれないな、と昂りを覚えていた。事務所へ向かう仕度をしながら、僕は自分を謳う。
「トオル君。さっそくだが仕事だよ」
「承諾するまでに二秒とかかりませんでした」
 相変わらず面白いね、とカミタニさんが謂う。そんな事よりも早く仕事の詳細を把握したい僕は、高まりのあまり「それで、仕事の内容は?」と忙しない口調でタチバナさんに訊ねた。
 今云いますから、とタチバナさんは何の変哲もみせない。僕とカミタニさんの顔を交互に視線を送りながら、ノートパソコンを開いてメールか何かを読みながら声を発した。
「この業界の超能力者が二人組。〈蝶硝〉の護衛をしていた二人組なのですが、その二人が逃走しました」
「それを捕まえろという事ね。把握把握」カミタニさんは革の手袋をはめ、早くも外へ向かう準備を整える。
「捕まえればいいんですね」
「はい」
 僕は高揚で頬が怯むばかりだった。自分でも、さすがに気味の悪さを感じる程だった。
 これを着たまえ、とカミタニさんが衣類を僕に目掛けて投げて来た。それを僕は上手くキャッチし、「何ですかこれ」と訊ねる。
「仕事服的なやつだよ。あくまで「的」なのね」とカミタニさんが回答する。
「曖昧です」とタチバナさん。
「曖昧ですね」と、僕。
 やはり僕の理解力が乏しいだけかもしれないけれども。相変わらず、いまいち掴めない。

四話

 カミタニさんの車の中で、僕は「超能力者」について、一人で論じていた。正確には人間の「思考」についてかもしれない。
 僕に訪れた仕事の依頼というのは、「ある大手組織の護衛を勤めていた超能力者二人組が逃げ出したので、捕まえてほしい」という単純なものだった。カミタニさん曰く、この業界には多いケースらしかった。
 「たまにいるんだよ」カミタニさんが慣れた手つきで運転をする。車窓から覗ける外の景色の建物は、次々にほいほいと軽々しく投げられて行く様で、僕だけが加速している、という想像を抱いてしまう。
「超能力者っていうのは本当に僅かな存在だからね。それが自分の自惚れになって、道を踏み外してしまう人も少なくはないよ。いわゆる、優越感だね」
「なるほど」
 無愛想に僕は頷いた。カミタニさんのその口調には、僕に警告する嫌味の様なものを感じ取れたからだ。自動車の中の暖房が深く溜まって行き、重みに変わって行く感覚がした。乾いた空気が身を覆い、息苦しさを感じる。思い切り入れ替えれないだろうか。
 カミタニさんは、僕の様子を読み取る様にして窓を僅かの隙間開けた。本当に心を読まれているのではないか、という疑問を抱く。それと同時に「ありがとうございます」と、顎を引いた。
 そういえば、とカミタニさんが口を開いた。僕は耳を澄ませる仕草をとった。
「仕事服的なのは、サイズはピッタリかい?」
「まあはい」
 仕事服的、という何とも曖昧な表現をしたそれは、僕を黒一色に包んだ。上はまるで暖を発電しているかの様に温かい黒のタートルネック。その独特な生地が僕の肌に擦れて若干の痒みを生じさせる。我慢した。下も同じ様に深い黒一色のジーンズだった。サイズどころか、丈すらも折り曲げなくても良いようにと正確に作られているので、僕は素直に気味が悪くなった。渡された用紙にも身長などは記していないのに、ましてやモデル志望の女性でもないのに、僕の体格に見事に合致するサイズのパンツだった。なぜわかったんですか、なんて訊ねる気にもならない。
 その代わりとは言ってなんだけれども、僕は一つ僅かな興味を抱いていた事を訊ねた。
「あの、先程タチバナさんが言っていた〈蝶硝〉って、なんですか?」
「ああ。トオル君は知らないよね。簡単に言えば、というか大雑把に言えば、俺達の業界の中で頂点に君臨する組織みたいなの」
「組織「的」ですか?」僕はなんとなく、強調して再度訊ねる。
「今度は曖昧じゃないよ」
 カミタニさんが苦笑した。それはあまり面白いとは思わない事に無理矢理笑うような、阿諛な子供に似ていた。首元に纏わり付く毛糸が肌を擽り、痒みに耐え切れず僕は右手でぼりぼりと少々乱暴に掻いた。それが逆に肌をかぶれさせる様な感覚を残し、毛糸と再び密着した時はひりひりとした痛みを生じた。
 それは掻けば掻くほど肌を爛れさせる様な、表せない感覚だった。


 着いたよ、とカミタニさんが車を止めたのはそれから渋滞に巻き込まれ、しばらく経過した頃だった。動いたかと思えば止まったりと、悠々な速度を一定にしている。思わず淡い眠気が脳を襲い、瞼に重みを纏わせた。そのタイミングを見計らった様に、カミタニさんが車を到着させた。ががが、と細かい物が無数に転がり、お互いを擦る様な音を発しているので僕は、砂利の道だという事を推測する。
「なんですか、ここ」
 僕は停車した車から身を降り、前に聳え立っている建物を一瞥し、素直な感想を述べた。「今回の仕事場」カミタニさんが車の鍵を掛け、砂利を踏みながら僕の隣に並び、煙草を一本口に咥えた。
 カミタニさんが言う今回の仕事場、というのは――廃虚のビルだった。それはもう誰が何処から見ようと廃虚で、放置されて何年と経っていそうな程の立派な廃虚ビルだった。硝子の窓は粉砕したかの様に荒らされた形跡を残しており、コンクリートで出来ている壁には亀裂の皹を走らしている。百人に訊ねようと、千人に出題しようと、全員が「廃虚」と答えると断言出来る程の、廃虚ならではの怪しい雰囲気を漂わせていた。写真に写せば何かが映り込みそうな印象を覚える。建物を囲む様に伸び放題となった雑草が生え茂り、枯れた根が無数に分裂して建物を一部を覆っている。
 空は灰色とまでは行かないが、少なくとも澄んだ青空ではない。月光を弱めた様な、蒼白い色合いをしていた。それが逆に光となり、眼球に差し込む鋭い眩しさとなった。
 カミタニさんが「話によるとここに犯人達はいるらしいよ」とタチバナさんから送られて来たメールの内容を見つめながらそう呟く。
 「なにかドラマのようですね」と僕は緊張感のない声で述べる。そうだね、とカミタニさんが氷柱の様な冷たさを纏った声で、僕のを軽くあしらった。僕のこめかみがぴくっ、と弾んだ。
「すでに気づかれているかもしれないから、注意して」
「わかってますよ」
「あくまで仕事だという事を忘れないでくれよ」
「大丈夫です」
 カミタニさんは先程とはまるで変貌したかの様に雰囲気が変わり、微妙な緊張感を纏っていた。僕には何故そこまで真剣になるのか、見当もつかない。
 カミタニさんが廃虚の入り口の方にへと進む。僕も背を追う様に歩いた。一歩進むごとに砂利が擦れる音がなり、見えるか見えないか程の淡い煙を上げた。僕が柔道選手の様に足を滑らしながら前に進んでいるからだ。砂利を足で払う様に歩く事で、本来の乾いた土の地面が露になった。


 廃虚の中は、薄い闇を漂わせていた。明りがなく影が深い。一瞬夜になったかとも思わせる程だ。暗い所は夜だ、と僕は何処かで決め付けているのだ。
 埃を大量に被った壁と床は、立ったままの肉眼からでも確認出来た。本来の鼠色を覆い隠す様に、埃で白色にへと変色している様だ。鼻に飛び舞う埃が付き、むず痒い。さすがにくしゃみは堪えた。
 カミタニさんは咥えていた煙草を地面に落し、右足で吸殻を踏み躙っている。出来れば埃が舞うので止めて頂きたいのだけれども。カミタニさんは予め用意していたかの様に、マスクをダウンジャケットのポケットから取り出し、口元を隠した。
「トオル君もいるかい」
「そりゃあ、ねえ」思わず軽い口調で返事をしてしまった。
 カミタニさんはもう一枚水色のマスクをポッケから取り出し、僕に渡した。僕はその仕草をとても無愛想に感じた。片手で荒くポッケに突っ込み、そのまま曲げていた肘を僕の方へ真っ直ぐ伸ばしたのだ。
 僕はそこで、カミタニさんの機嫌が悪くなっていると思った。何故か苛立ちを覚えているかの様だったのだ。けれども僕は、気にしない事にした。正直、「くだらないな」というのが一番大きかった。
 影の中へと入ると同時に僕は、夜を迎えた。



 

五話

 犯人らしき男二人組を発見したのは、廃虚ビルの三階に上がった時だった。微妙な緊張感を備えているカミタニさんは既に神経を尖らせており、気配を察した瞬間に右手を横に伸ばし「ストップ」と緩慢な歩きをしている僕の身を止めた。それは「赤上げて」と命令されてすぐさま赤の旗を上げるかの様だった。
 僕はその手の素早さに足を停止する事ができず、カミタニさんの伸ばした手首が腹に練り込んだ。「壁に背を付けて」とカミタニさんは出来る限りの声を殺し、僕にすら届くか届かないかの小声で指示した。僕はカミタニさんに釣られる様に背中を壁に密着させる。
 僕とカミタニさんは膝を屈してその場にしゃがんだ。耳を澄ますと微かではあるが、確かに男の声が耳に流れた。「これからどうすんだよ」と焦りを積らした声がした。「さてトオル君」カミタニさんはマスク越しに僅かな音量の声で僕に呼び掛けた。
「作戦を立てようか」
「え、作戦ですか?」
「当たり前じゃないか。相手は何といっても超能力者だ。しかも俺達はその超能力の詳細を知らないんだよ?」
 必要ないです大丈夫です、と僕は本心を包み隠さずそう言った。すでに僕は、腰を浮かせて男達の方へと向かうタイミングを見計らっていた。少なくともナイフは携帯しているだろう、とそれだけ推測を勘ぐる。
 「何を言っているんだ」とカミタニさんが予想外の返事に驚愕し、大声を張り上げそうになった。それは少々大袈裟なしゃっくりを想像させるものだった。一瞬の緩みが迂闊だった。
 「おい誰かいるのか!」先程の焦りを見え隠れさせていた男が声を張り上げた。しまった、とカミタニさんが反応し、息を殺す。その隣で僕は「大丈夫ですって」とまるで「ま、次があるって」と肩を叩く上司の様に言った。
 僕は、腰を浮かせて体勢を整え、身を構える。馬鹿はよせ、とカミタニさんが必死に僕を食い止めようとして来るので、さすがにしつこいなあと僕は息を吐いた。
「いかんせん僕は、自分が一番最強だと思っていますから」
 正気かこいつは、という表情をしているカミタニさんを無視し、僕は男達の方にへと駆けた。「なんだてめえ」と男が僕に気づき、手に持っていたナイフを開いた。
 僕は体制を低くし、地面を蹴る様に駆けた。男の持っているナイフを一瞥する。刃からして使い古している感じだった。男がナイフを縦に振る。僕はそのナイフをすり抜けるイメージを脳内で再生しながら、身を逸らした。のと同時に、脳裏に浮かべたスイッチを押した。
 男が停止した。ナイフが描いていた軌跡すらも滞り、無事成功した事を確認する。僕はナイフを避けて男の顔に近づくと同時に右足を出し、男の左足を掬い取る様にして絡めた。男が後ろにへと傾くがそこで止まる。そのまま僕は右手で男の首を掴み、頭部から倒れた。
 休憩していた世界は再び起動した。一瞬にして薙ぎ倒されているのだから、男は戸惑いを隠せずにいた。僕は見計らう様にナイフを握っている男の腕を捻り、自分の左肩に乗せるようにして固定する。反対の腕は付け根辺りを右足で強く踏み付け、もがきを防いた。
 口元から泡を吹かせる勢いで僕は男の喉仏を右手で押し付けた。男が「降参です降参です」と涙を滲ませている。僕はその顔に快楽を覚えた。
 けれども、その快楽が僕の気を緩めた。迂闊だったのだ。もう一人の男の存在を、忘れていたと言っても過言ではない。毛の先程の警戒すらも破棄していた。その僕の迂闊さが招いてしまった。
 冷えた視線を向ける男の姿が目の前にあった。ナイフの鋭い先端で僕を捉え、勢い良く振り落とす。飄々と宙を裂く靡き音を走らせた。しまった、と僕は目を瞑る。
 おかしい、僕は即座にそんな感想を抱いた。僕の頭部を突き刺したはずの男は勢い良くカミタニさんの蹴りを脇腹に突かれ、体勢を崩していた。そのまま覆い包む様にカミタニさんは男の上へ跨り、つらい姿勢に固めた。
 ちっ、と僕は舌打を洩らした。助かった、と安堵してしまった自分に腹立ちを覚えたのだ。自分一人で出来たはずだった。
「甘いよ。トオル君」カミタニさんが安堵の息を深く洩らす。
「いえ、むしろしょっぱいくらいです。僕一人で対処出来ていました」
 カミタニさんは僕を見据え、苦笑ではなく溜息を吐いた。


 その後僕は二人をロープで縛り、車に積んだ。その時のカミタニさんは「仕事が終わった」とタチバナさんに電話しており、すべて僕一人でやらせていた。 


「君の超能力の詳細を推測してみようと思う」
「なんですか」
 あれから僕とカミタニさんは車に戻り、再び渋滞に巻き込まれていた。その車内で僕とカミタニさんは、今回の反省会を開いていた。いや、反省会「的」なものだ。曖昧だ。
「俺は一瞬、瞬間移動かと思ったよ。でもどうやら違うようだね。あれは「時を止めた」というのが一番しっくりと来る」
「正確に言えば、「自分だけの時間を追加出来る」というものです」
「変わらないじゃないか」
「まあ、そうですけれど」
 男二人組はロープで縛られ、後ろの座席で眠っていた。寄せ合う様に縛ったので、お互いが持たれかかっている。愛が強いカップルの様で、素直に気持ちが悪かった。
 「話を戻すけれど」カミタニさんはハンドルを握り、青にへと変色する信号を眺めながら訊ねて来た。話を戻す、とは反省会的なものの事だ。「君は自分に自信を持っている。それはいい事だと俺は思うよ」でもね、とカミタニさんが冷えた印象を伴わせる声で続けた。
「自分勝手な行動は控えてほしいな」
 僕にはそれが、ただの嫌味にしか聞えなかった。自分勝手、というわざと人聞きの悪い言葉を選んでいるとしか思えなかった。僕は自分が恣意的な行動をしたとは認めていないのだ。
 しかも、控えるとはなんだ。僕があの時行動をしていなければ、今こうして車の中にはいないのではないか。脳裏で思い付く限りの愚痴を託つ。
「僕一人でやれたはずです。援護なんて必要ありませんでした」
「そうかい」
「そうです」
 軽く受け流される事に、僕は苛立ちを覚えていた。この人は何を考えているのだろうか、見当もつかなかった。
 車内は何故か知らないが廃虚と同じ様に埃を舞っていた。暖房も入れていないのに、と疑問を抱くが気にしない事にした。
「君一人じゃ無理だよ。失礼だとは思うけれども」窓を据えるカミタニさんが突然、そう言った。
「なぜそうやって言うんですか」
「じゃあ後ろの席見てみなよ」
 僕は言われた通りに体を捻り、男達が縛られている方へと振り向いた。「あれ?」おかしい。僕は思わず、目を見開いた。
「君が捕まえた方の男が逃げた」
 その言い方にも僕は、悪意を感じた。

六話

 僕は体内の細胞を破壊していくような洪水が身を浸食していくのがわかった。味わった事のない感覚だった。未体験なのだ。
自分の迂闊さが招いた事態に僕は焦りを額に浮かべていた。そのせいか少々早口になってしまい、しかも「どうするんですか!」と怒号のように音量が無駄に大きい声を発してしまった。僕を翻弄するかのように落ち付きという悪魔は逃げて行く。そんな自分にじれったさを隠しきれず、僕は今起こしている自分の言動に後悔をしていた。
 それなのに隣で飄々としているカミタニさんに僕は人間かどうかすらも疑った。正直、さっぱりわからない。この人は何を企んでいるのか見当もつかない。
 「まあ落ち着きなよ」とカミタニさんが言った。それはまるで僕の今の現状を俯瞰してすべてを把握しているような余裕さを醸し出していた。「逃げた男も馬鹿じゃないんだよ」カミタニさんは続けてそう言った。
 そんなのわかってるさ。僕は本当にこの人は頭がおかしいとまで思っていた。頭が悪ければ自惚れが強くなんてならないし、その前に逃げる事すら考慮しないはずだ。当然だ、と僕は断言する。何故なら僕も馬鹿じゃないからだ。
「何が言いたいんですか」ところで僕はあくまで自分の失態がもたらした、とは考えていなかった。考えるほどでもないのだから、当然だ。
「そのまんまさ。逃げる側が馬鹿じゃないなら、追いかける側も馬鹿じゃ務まらないだろう?」カミタニさんが遠回りに僕を揶揄してきている気がした。「何を勿体付けているんですか」と僕は苛立ちを洩らす。
「先程俺はタチバナに仕事完了の報告をしていただろう?」問題を出すようにカミタニさんが言う。
「そうですね」
「その時に聞いたのさ。「二人の超能力の詳細」を」
 それでもわからなかった。一直線に進めばすぐに到着する道を知っていながらも、あえて遠回りをして僕の焦りを大雪のように積らしている。からかわれている、と僕はすぐにわかった。
 カミタニさんは僕の表情の変わりを見て楽しみながら、ダウンジャケットのポケットから携帯を取り出した。それをドリンクスタンドに置き、タブレット式の携帯を立たせた。僕は目を細め、その画面を見据える。単純な地図マップだった。
 そこには赤い光を放つ点と青い光を放つ点がゆっくりではあったが動いていた。「どっちが僕達ですか」と訊ねると、「赤い方」とカミタニさんが言った。
「それでね。俺はタチバナに聞いたんだよ。超能力の詳細をね?、それで教えてくれ」
「はやく教えてください」僕はその話を割り切るようにして声を挟んだ。
「一人は「遠近法を操る」というものらしい。本当は遠い位置にいるのに、相手にはまるで目の前にいるかの酔うな、いわゆる幻覚を魅せる事が出来るらしい」
 そこで僕は同定した。僕の目の前でナイフを振り下ろす寸前だったあの男は、本当はナイフが当らない程度に距離が空いていたのだ。それを僕はまんまと騙され、恐怖のあまり目を瞑るなんていう情けない失態を晒してしまったのだった。「でもその能力じゃ逃げれないじゃないですか」僕が訊ねると「それは後ろにいる男の超能力だよ」とカミタニさんが僕の焦りを嬲るように返した。
「肝心なのは逃げた方さ。彼の能力は簡単に言えば「空間移動」というものだ」
「空間移動?」
 そう、とカミタニさんが肯く。「もっと詳しく説明するとだね?元いた場所と「空気」を入れ替える事が出来るんだ」
「わからないです」僕は正直にそう言った。
「そうだね。逃げた男は元々どこにいた?」
 「廃虚ですよ」当然じゃないですか、と僕は言う。「そして今までどこにいた?」カミタニさんがそう訊ねる。「車内ですよ」当然じゃないですか、と僕は強弱のない一定を保った声で答えた。なんだこれ、と脳裏で託つ。「その通りだ」カミタニさんが正解です、と言った。
「先程の廃虚とこの車内の空気を「入れ替えた」のさ。彼はその入れ替える空気に紛れる事が出来るのさ。だから簡単に逃げれる。瞬間移動みたいなものだね」
「という事は奴は廃虚に戻った、という事か」
 正解です、とまたカミタニさんが言った。僕は舌打を堪える事に努めた。完全に下に見られている、という感覚が僕は嫌いなのだ。それは立場が逆な気がしてならないからだ。そうやって僕は少年時代から過している。
「その事を電話でタチバナさんに聞いたんですか」
「ああそうだよ」
「それで対策は何かしたんですか」僕はカミタニさんの携帯電話を見据えながら訊ねた。正直にいうと、すでにわかっていた。
「彼の服にGPSチップを装着しといた。今そこに戻っているわけさ」
 どおりで埃が舞っている気がしたのだ。僕はすぐに窓を開け、車内の喚起を始めた。そして毛糸が肌と擦れる痒さに耐え切れず、指先で掻いた。冷えた風が頬を撫で、頭部を覆った。焦りは嘘だったかのように引き、落ち付きさと冷静を僕は再び備える事ができた。出来れば深呼吸をしておきたいところだったけれども、カミタニさんにそんな姿を晒す事は拒否した。僕は業界最強なんだよ?何を悶えているんだ、と唱え続けた。そうすれば、以前の優越感が甦ると思ったのだ。しかし、優越感はつぼみすら出さない花のように固く閉じ篭っていたままだった。

七話

 過去を消し去って新しくリセットしたかのような淡白とした空には、雲というものが存在しなかった。本当にすべてを消滅させたように広々と蒼白い空が覆っていた。僕はカミタニさんの車から降り、カミタニさんに一度肯いた。それは舐めるなよ、という僕からの挑発のつもりでやったのだけれども、カミタニさんはそれを嘲笑うかのように「頑張って」と一言そう言った。君一人じゃ無理だよ、と先程のカミタニさんの言葉が脳裏で流れた。ただの嫉妬心からだ、愚かな人間だな、実に哀れだ、と僕は便宜的に脳内で唱え、僅かな優越感を掴む。それは濡れた紙を引っ張った瞬間に千切れたような、そんな儚いものだった。
 色鮮やかなあらゆる種類を揃えた花屋と何をやっているのかよくわからない不気味な雰囲気を漂わせた店舗の隙間に人が二人くらい共に入れそうな間隔の路地裏があった。僕はそこへと足を運び、中へと入った。
 路地裏の中は、放課後の校舎のような静けさを佩びていた。左右にある建物の影が重なり、頭上の虚無な空を遮るように薄暗い闇を抱いていた。壁の隅には大量の苔を蓄えており、どれも憔悴したかのように暗く深緑だった。薄い膜となって壁や地面に這い蹲っている静寂は、僅かな足音すらも捕え、波紋を描くように響いた。超能力を発動したわけでもないのだけれども、すべてを静止させたかのような程に静かだった。
 僕は先程男から取り上げた小型ナイフをポケットから取り出し、刃を開いた。冷え切った左右の壁から僅かに覗ける虚ろな空は光を走らせ、それを刃が吸い込み、蒼白い光を纏った。試しにと僕はナイフを何度か振り、軽々しく宙を切り裂く音を確認した。その後に僕は脳裏で漫画等でよく見る爆発ボタンのような物を創作した。いつ時を止めれてもいいようにと、準備は常に必要なのだ。
 僕は右手にナイフを握ったまま、やや駆け足で路地裏内を捜索した。男は近くにいるはずだ。鋭く勘を巡らせ、常に耳を澄ましておく事を恒常させる。神経の鎧を身に纏うように、僕は全身に注意を流していた。
軽々しく靴底が地面に弾み、音が反動した。左右に塞がる壁にボールのように跳ね返り、路地裏内を走った。ナイフをすこし傾けると光はそのまますり抜け、元の角度に戻すと再び光を吸収し放った。
 ここの路地裏は迷路のような仕組みとなっており、行き止まりがあったりだとか、同じ道に戻ってしまったりするのだ。僕は所々で電話を取り出し、地図マップを開いて確認をした。ところで男は見つからない。
 僕は先程の迂闊さを改め、神経の針が大量に付着したマントに包まっていた。男はどこだ、と僕は繊細に辺りを見渡した。
 影が被さり、鼠色の壁を暗く染めている。凍みるような空気が辺りをうろつき、巨大な網の冷気が頭上から降り落ちたかのようだった。僕は気にせず足を動かした。ところで服装のせいか、僕は影と一体化したかのような感覚を覚えていた。自分でも自嘲するくらいに、黒いのだ。まるで黒と黒に挟まれ、引っくり返されたようだった。
 マップに示された青い点は達しかに僕の近くを彷徨っていた。僕はその方向にへと足を進めるのだけれども、中々出くわさないのだ。それは何故か、僕はすぐに確信した。見事に僕も迷っているのだ。地図を持ち、僕の方が圧倒的に有利なのだけれども、迷ってしまったのだ。
 僕は一度、瞑想をする事にした。それで何かが閃くわけでも、男が無防備に出現するわけでもない。けれども、一度僕はすべてを無にした。脳内で描いていたスイッチも白紙に戻し、地図マップからも目を逸らした。ナイフを収め、ポケットに戻して耳を澄ました。深々とした虚ろな空間に耳を澄まし、瞼を閉じて闇の海に潜る。
 壁や地面に剥れまいと密着している静寂の上を滑るように響く僅かな音も逃がさずに耳を澄ました。まるで獲物を狙う鸚鵡のようだった。意味がない事は承知の上でだ。ただ、落ち着きが欲しいだけなのだ。
 目を開き、僕は視界を広げた。僕は携帯電話を再び取り、地図マップに目を通す。青い点はまだ近くをうろついていた。
 その時――僕は曲がり角の壁から食み出ている男の腕を発見した。藍色の暗めな色合いのダウンジャケットを着た男だ。間違いがなかった。僕はナイフを構え、右足で地面を強く蹴った。男の方へ目掛け、宙を跳ぶように駆けた。
 男が僕に気付き、夥しく腕を引っ込めて前へと逃げた。男がいた曲がり角に身を寄せて僕は勢い良く男の背を赴いた。その場に漂う氷のような空気を蹴って払うように僕は全力で男を追い駆けた。男は右にへと曲がり、僕も同ように速度を落さず右に湾曲するように曲がった。
 僕は必ず勝てるという自信があった。自分の方が有利なのだ。僕は把握済みなのだ。その先は、行き止まりとなっている事を知っているのだ。
 男が目の前に塞がる壁に気付いた。僕は笑みを洩らし、脳裏に再度爆発ボタンを描いた。この力はどのタイミングで発動させるかが大事となるのだ。制限時間は二、三秒と限られている。その時間の使い方により状況が大きく変わるのだ。僕は男が逃げるのをやめた瞬間に停止させようと結論を叩き出した。男はまだ走るのを止めていないのだ。
 脇腹に走る痛みを堪えて僕は駆けた。喉を奥深くにへと圧されるような息苦しさを感じ、鉄のような血の味が口に広がった。それを見計らうように、男の回し蹴りが僕の腹に重みを乗せた。
 男が逃げるのを止めたかと思うと、瞬時に切り替えるように男は右足を後ろにへと振った。右足の踵が僕の腹部の中心を捉え、蹴り飛ばしてきたのだ。突然の行動に対処しきれなかった僕はそのまま足元を崩し、膝が屈した。それは小学五年生の時の僕がこの超能力に気付いた日に似ていた。男が身を僕の方へと振り返り、そのまま右足を前へと振った。踵で僕の右肩を突き、僕は微妙に浮かしていた腰を派手に打ち付けた。
 身体を起こし、尻を浮かせようとした瞬間、僕の額の先に銃口があった。僕は全身が竦み、浮き上げていた尻も萎縮して再び尻持ちを付いてしまった。
 拳銃なんて見た事がなかったのだ。その小さな円の窪からは異様なほどに危険な何かを漂わし、僕にはそれがすべてを飲み込んでしまうような底のない空間に繋がっている渦に見えた。
 冷や汗が滲んだ。どうする、どうすると僕の声が脳裏に鳴り響き、想像していたスイッチが消えていくのがわかった。まずい状況だ。あれほど注意していたのに、油断してしまった。目を見開いたまま、僕は戦慄で声が出ない事に気付いた。
 まずい。とてもまずい。どうする、どうする?迂闊だった。
 僕は銃口から視線を逸らす事を試みた。しかし、逸らした視線は引き寄せられるように銃口にへと戻ってしまうのだ。その小さな円の渦に、僕は飲み込まれていくようだった。
「さっきは俺も油断していた。てめえは見た事のない面子だ」と男が言った。「新入りかよ」
 僕は戦々恐々としている自分に苛立ちを覚えていた。さっきもそうだったじゃないか、と自分を叱った。最強のはずだぞ、と銃口から目を逸らす事に努めた。僕は大雪が積ったかのような身の重さと肌寒さを感じた。恐怖と焦りがもたらすものだ。
 僕は再び瞑想に入る事にした。そんな悠長な事していられないのはもちろん理解している。けれども、今は落ち着きが必要なのだ。冷静でなければ人間というのは弱くなるばかりなのだ。目を閉じると瞼の裏が漆黒の網を広げた。僕を包み、深く潜り込ましていく。僕は焦りを削除する。恐怖を削除する。驚悸を削除する。削除した、とはならなかった。が。
 闇に飛び込む事で僕は銃口の威圧感から逃げ出す事が出来たのだ。威圧感から逃れる事で、僅かな余裕を取り戻せたのだ。落ち着きが戻った事で、脳裏で消えかけていたスイッチを想像できる事ができたのだ。そのスイッチが創作できる事により、僕は優越感を抱く事ができたのだ。男はもしかすると、人差し指を引き金に掛けているかもしれない。けれども、気にする事はなかった。
 闇から帰還した僕はすかさずスイッチを押した。
 男が今にでも引き金を引いてしまいそうな持ち方で拳銃を突き出したまま、停止した。その場に漂っていた冷えた空気すらも固定された。まるで今にでも屈服してしまいそうな眠気と戦っていた世界が、疲れから耐え切れず寝てしまったようだ。
 僕はこれまで蓄積していたものが膨大して破裂したかのように優越感が身を包み込んだ。

八話

 時間から枠が外れ、その中で僕だけが行動出来る。僕はすかさず右腕を振り、男の拳銃を払った。拳銃は結構の重みを備えており、躊躇無く振った僕の右手の手の甲に当って骨に響いたような痛みを残した。男の腕から離れた拳銃は宙に浮いたまま固定した。まるで糸で釣られているようだった。ところで今回の発動時間は「二秒」で終了しそうなのだ。
 やや急ぎで右足を横に振ろうとした瞬間に時間が目を覚ました。二秒は短い。僕はたった一秒でもこれほどに状況が変わるのかと思い知らされた。男は持っていない拳銃の引き金を引く仕草を取ったのと同時に、僕は右足を男の脇腹に振った。それは確かに脇腹の中部を捉えており、僕は自信に満ちた笑みを浮かべた。 
 ところが男は動じず、カウンターのように拳銃の持っていた腕を振った。その瞬間に僕は視界が一変し、空が入り込んだ。左足だけで支えていた体を崩し、みっともなく横転した。まずい、と僕は体制を直そうと試みる。だが視界の先には男の靴底があり、鼻を潰されたような衝撃と共に吹っ飛んだ。それはまるで台風で宙を舞う三角コーンのようだった。
 「てめえがどんな能力かはわからねえけれどよ」男が声を発した。生徒に懇々と説教する教師のような声だった。「拳銃を払われた腕に僅かな痺れがあるな」
「この手の痺れ方で俺は分かるぜ。経験ってやつだ。俺から拳銃を払おうとした時、お前も腕を痛めたはずだ。それと今お前がやった蹴り。これもまるで伸びていない。上手く力を放つ事が出来なかった消化不良の蹴り方だなこりゃ」
 男は淡々とそう言った。それはまるで僕の心を荒く掬い取るように、正確な意見だったのだ。何も間違った事は言っておらず、僕は思わず足が竦んだ気がした。全身が透け、何もかも見破られているような羞恥心が襲った。「本当に新入りとはな」と男が言った。
 「お前にアドバイスをしてやるよ。新入りのお前にな」男は僕を見下しながらそう言った。その上からの視線が僕には不愉快で仕方なかった。先程の優越感をすべて奪われたような、そんな余裕な口調だったのだ。これ以上の屈辱はなかった。そしてその負けを認めているような僕の姿勢に、腹が立った。
「この業界で生き残るためには、だ。いかに自分の超能力を上手く利用するかだ。それはお前もわかるだろう?」と男が訊ねた。
「当然」僕はそう一言言った。
「肝心なのはその超能力の「デミリット」な部分をいかに受け入れるかだ。それでこれからの道が分かれるんだよ」偉そうでさらに見下しの声が、僕には耳障りで仕方なかった。
 僕は再びスイッチを想像していた。僕の場合、一度超能力を発動させれば次に出来るのは何呼吸か置いた後だ。そこが男でいう「デミリット」であり、どうしようもない概念なのだ。詰まるところ、大量の体力を伴うのだ。全力で走ったせいか、息切れも激しく脇腹に針を刺すような痛みも解けないままだ。
 蹴られた鼻からは血が垂れている事に気付き、冷え切った地面にぽたぽたと落ちていた。男は最後に、と言わんばかりに息を吸ってこう一言吐いた。
「あらゆる超能力の可能性を推測しろ」
 その言葉を聞いた瞬間に僕はまさか、と想像を巡らせた。脳のあらゆる管に血流を十分に流し込み、男の今までの言葉を咀嚼した。
 デミリットを受け入れる。
 僕は悪夢から覚めたかのような素早さで時を停止させた。息を飲み込む寸前に発動させた事で、強い噎せが喉を襲った。咳を零しながら男の方へと視線を向け、体勢を起こした。しかし、時はすでに遅かった。現在は止まっている。
 男の姿はすでになかった。空気に包まり、空間を飛び越えて消えていた。逃げた場所はすでにわかっている。正確には「戻った」のだ。思わず僕は、自分が嫌になった。何というか、醜いのだ。あれだけ自分を謳っときながら失敗するのだ。歪なものだ。
 しかし僕はそんな自分すらも「自分らしくて良い」という結論に至って認めたのだった。僕も人間なのだ。失敗も犯すものだ。つまり、僕は悪くないのだ。僕は変わらず、自分は一番最強だと思っているのだ。
 僕はポケットから電話を取り出し、カミタニさんにへと繋げた。僕は靴の先端を上下に動かし、地面を叩く仕草をした。画面に耳先が触れ、冷えた空気が弾んだ気がした。鼻血はすでに凍っていた。
 『もしもし』カミタニさんの声が現れた。『どうなった?』とカミタニさんが訊ねた。
「逃げられました」と僕が言った。「けれども逃げた場所は限られています。さっさと行きましょう」
『やっぱりそうか』とカミタニさんはまるで案の定、といわんばかりの声を発した。僕も出来る限りの余裕さを装っていたのだけれども、その返答には思わずたじろいた。
「驚かないんですね」
『当たり前じゃないか。君の先程の言動から大体予想はできるよ』とカミタニさんはそんな事を簡単に口から出すのだ。僕も思わずちっ、と舌打ちを洩らした。気に障るような事を吐くカミタニさんが悪いのだ。僕は頭部をぼりぼりと掻いた。
「ですが、奴は廃虚に戻っただけです。GPSもありますし、今度は成功させま」
『いや、もう結構だよトオル君』
 「は」と僕は漠然とした声を洩らした。もう結構――とはなんだ。僕はその言葉の意味を勘ぐってみた。いろいろと思索してみたのだ。僕は出来る限りカミタニさんの感情輸入を挑んだ。カミタニさんの身を二つへ割り、棺桶に入るように僕は身を重ねる想像をする。マトリョーシカように中へと重ねた。そして自分の反省すべき点を深潜りで探った。けれどもだ。それは僕の感情輸入が乏しいだけなのかもしれないが、何も思い当たるものなどないのだ。確かにミスは犯したかもしれないが、それだけで「結構だよ」は僕はカミタニさんを人として疑ってしまう。カミタニさんになりきって考慮している時にいうのはおかしいのだけれども、僕はそういう人間なのだ。
 「どういう事ですか」結局見当もつかず、僕は訊ねた。毛の先程すらも、わからなかったのだ。
『この事を推測したからだよ。俺は今、廃墟の前にいるよ。追い駆ける側も馬鹿じゃ駄目なんだよトオル君』
 その瞬間に、先程の男の言葉が脳裏を過ぎった。一本の透明な糸を引っ張ったように浮んだ。「そうですか」と僕は声を吐き、電話を切った。僕が起こす現象のように、電話を切った瞬間にあらゆる言葉が脳裏へぽんぽんと浮んだ。君一人じゃ無理だよ、とカミタニさんが悪意に満ちた表情で僕を俯瞰で見下ろす。新入りかよ、と男が余裕な笑みを滲ませながら僕を揶揄する。僕はひとまず瞑想に入る事にした。身を見えない壁で囲いたかった。
 強く目を瞑り、眼球を潰すような勢いで闇を求めた。まるで布団の中に入るなり凍えてすぐさま頭まで被ってしまうようだった。壁に背を付けて持たれ掛かり、ゆっくりと腰を滑らせて尻を地に付けた。瞑想の箱へ篭ろうと試みるが、苛立ちがもがいてとても難しいのだ。僕は指先に力を込め荒々しく髪を掻いた。まるでキャベツを千切りにするかのようにだ。
 僕を抱く闇は僅かに赤紫色のような光を佩びていた。その光は脳裏に置かれた記憶から引っ張り出したような、曖昧な光景を写していた。蛍光色のような黄緑色と暗黒な濃い赤紫色が暗く闇に沈みかけである。その正体不明の光が描くのは、二つの巨大な目玉だった。
 男性か女性かもわからない。見当もつかない。だが、二つの何かを訴えているような大きい瞳だった。僕は、その瞳に呑み込まれそうな恐怖感が込み上げ、すぐさま光を求めた。視界を再開させると、世界が止まったような沈静を佩びた薄暗い路地裏だった。先程の瞳の奥は虚空の真っ暗闇が広がっており、夥しい程に僕は身震いを感じた。僕は目を落し、足が付いた地面を俯瞰で眺めた。
 身を凍らすような空気は氷のようだった。雪はまだ降らないが、冬の訪れを感じさせるのには十分すぎた。今にでも悴みそうな手の平をポケットに挿入し、頭上の空にへと目を移した。変わらず雲一つ存在しない。淡白な薄汚い白色をした虚ろな空だった。僕もその色に染まりたかったのだけれども、現状の自分じゃ無理に近かった。いつか見た教科書に載っていた「かげおくり」のように、白い空に白い影で何かが浮びそうだった。
 ひたすら僕は、「僕は最強だ」と何度も繰り返して呟いていた。それはいつか降る雪のように、脆かった。

九話

 男は吊り上げられたマグロのように無防備な姿を晒しながら後部座席に伸びていた。二人とも睡眠薬を飲まされたかのように気絶している。その二人組からは牛の交尾のような生々しい気持悪さを漂わせていた。腰掛けて眠る男の膝に、男の頭部を預けているのだ。暑苦しくて極まりない。表現ではなく、真剣に嗚咽を僕は感じた。
 車内は、水底に潜ったように静けさを佩びていた。窓の外側から風を切る音だけが飄々と耳に残るのみだった。カミタニさんは正面を見据え、一定の速度を保ってハンドルを握っている。僕は窓の方へ目を向けたまま、悠々と通り過ぎていく景色を眺めていた。後ろで男二人は魂が透き抜けたように指一本動きを見せない。まるで脱皮した後に虚しく残された殻のようだった。
 僕はそこはかとなく、電話の時刻を確認した。廃虚ビルに到着した時はまだ午前十一時前だったが、気が付けば午後十三時を回っていた。どおりで腹が減っているわけだ。僕の胃袋は、住人のいない部屋のように空虚となっていた。喉も絞られ、数日経過した雑巾のように乾き、水分も管に流しておきたいところだった。
 「初の仕事はどうだったかな」と突然、カミタニさんが僕の心臓に針を刺すかのように鋭く訊ねた。僕は俯き、遺憾な声で「一人で出来ました」と言った。
 僕の精神は今、雑草が生え茂る道を永遠と彷徨っていた。行き先も分からず、見当もつかない。けれども、歩き続けていた。足場を奪われ、不安定となりながらも、だ。
 「そうか」とカミタニさんが言い、一呼吸置いたあとに「そういえばトオル君。君は昔この業界ですこし有名になった奴を知ってるかい?」と訊ねてきた。
「有名?」突然の質問に僕は戸惑い、首を傾げた。「知りません」
 「そうか」とカミタニさんは肯き、「一時的に一部では業界最強とも称されていたよ。今はわからないけれどね」と言った。それは亡くなった友人の過去を語るような、思い出に浸った口調だった。僕には毛頭とわからない。見当もつかなかった。
 けれども、その話題は僕の興味をそそらせるには十分過ぎるものだった。詐欺師には都合の良い人間のように、僕は食いついた。「どんな人なんですか」と僕は訊ねた。
「名前は覚えていないけれど、超能力は現実離れしていたよ」
「それは僕らもそうじゃないですか」と僕は訂正した。まるで自分が普通の人間のような言い方だったからだ。
「現実離れしている超能力、と同じように超能力離れした超能力なんだよ」とカミタニさんが言った。よく噛まずに言えたな、と僕は意味不明な関心を覚えた。僕は超能力という響きが難しいのだ。言っている途中で舌が絡まりそうな忙しい動きをするので、口が回らないのだ。
「「目に映したものを異世界に飛ばす」という能力だったよ」
「わかりません」と僕は即答した。
 僕は思わず呆れの溜息を吐きそうにもなった。それは「時間を停止させる」だとか、「心を読む」などのものではない。「異世界に飛ばす」なのだ。突然そんな聞き慣れない単語を耳にしても、僕は気が狂うだけだ。参ってしまう。なにせ「異世界」なのだ。もうこの世界だけじゃ収まりきれなくなっているのだ。僕は苦笑した。
 「じゃあ仮に」僕は百歩譲って仮定をし、カミタニさんに疑問を述べた。「それで消された人間はどうなるっていうんですか。異世界ってなんですか」
「いい質問だねトオル君」カミタニさんは教師のように言った。「その飛ばされるものは決まって、異世界での同じものの近くにループされるのさ」
「わかりません」僕は再び即答した。
 「ドッペルゲンガーは知ってるかい?」とカミタニさんは訊ねた。僕は「まあ」と曖昧に肯く。「その人が言う「異世界」ってこの世界と似たようなものらしいね。すこし何かが違う、というだけらしい。
 それでその能力を受けた人間は異世界にワープするだろ?で、飛ばされた人間が気付くとそこは異世界での自分。いわゆるドッペルゲンガーの近くに登場するのさ」あくまで話だけどね、とカミタニさんが最後に付け足した。「詳しい事は俺も分からない」僕にもわからない。見当もつかない。しかし、あり得ないとしか感想は浮ばなかった。
 「わかりません」僕はもう一度、そう言った。


 事務所に帰って来た僕は戻るなり、パイプ椅子に腰を下ろして瞼を瞑った。すべてを無にしたかった。散らばったあらゆるものを、棚に整理したかった。落ち着きを僕は求めていた。以前の優越感を取り戻したいのだ。しかし、その消えた感情を追い駆けている自分に不甲斐なさを感じた。以前の僕が現在の僕を客観的に見ると、一番先に「醜い」と言うだろう。僕は、この業界に入った事にも若干の後悔を覚えているのかもしれない。
 初の仕事は僕の恥晒しという結果で終了し、カミタニさんからの信頼も今じゃ皆無といっていいだろう。今の僕は、醜いものだ。それは以前の自分が求めていた僕の姿ではなかった。
 僕の抱いていた優越感などは、雪崩に呑み込まれて奪い去られたようだ。実際、呑み込まれたのだ。僕は。
 失踪した以前の感情を取り戻すため、僕は時間を停止させた。そして、高笑いをしようと試みたのだ。声を強制的に引っ張り出すように張り上げ、笑みを作った。顔面の筋肉を強張らせ、口を盛大に開いた。しかし、静止した世界は虚ろな空間だけが漂っていた。
 気が付けば、時間は再び動きを取り戻していた。僕は窓に目をやり、空を見上げた。昼飯もまだ口に運んでいないのに、辺りは墨汁のような深い闇を包まれていた。それが僕には、落胆を連想させる黒に思えた。多分、僕は病んでいるのだ。事務所の二階から眺める街中は色鮮やかで、昼間の騒がしさを忘れさせない光が辺りに散らばっていた。
 「こんな所のいましたか。電気も付けずに」と女性の声がした。その声と同時に頭上に明りが灯り、すこし体の芯がぴくっと反応した。「タチバナさん」
「はいタチバナです。あ、ご飯食べませんか?トオルさんからしたら昼飯になるのでしょうか」とタチバナさんは僕を察するような声で言い、語尾には「曖昧です」と付け足した。ふっと僕は思わず笑みを洩らした。
「いただきます」と僕は言った。曖昧ではなく、本当に腹を空かせているのだ。内臓が先程から、きゅるきゅると補給を訴える叫びを上げていた。
 「といっても」タチバナさんが若干口元を手で隠しながら言った。視線を斜め下に落した。「カップ麺しか作れませんが」
「構いませんよ」と僕は返した。意外な一面というのは、僕は嫌いじゃない。


「いただきます」と僕は言った。
「いただきます」タチバナさんは手の平を丁寧に合わせ、さらに軽く会釈のように顎を引いた。
 タチバナさんは、カップ麺を啜るだけの仕草も凛々しく美しい印象を抱かせた。大人の女性、がテーマで雑誌のコーナーが出来るのならば、すぐさま応募したいとも思った。端の持ち方から、汁を飛ばさないように繊細かつ器用に口へ運ぶその姿は、身長の低さな毛頭と気にさせないほどの官能さを備えていた。絶妙な凛々しさを纏っている。麺はタチバナさんの口元にへと赴き、その麺の動きすらも僕には刺激的だった。
 僕は視界が固定されたかのようにタチバナさんに見惚れたまま、カップ麺の存在すらも忘れたいた。「どうかなさいました?」というタチバナさんの声で夢心地から覚めた。先程僕を浸食していた落胆なんてものはタチバナさんの魅力に塗り替えられ、それはそれで不甲斐ないものだった。
「いや、いちいち奇麗だな、と思って」と僕は隠さずにそう言った。
「そうですか?ありがとうございます。身長は低いですが」とタチバナさんは自嘲気味に言った。
 そのまま僕はタチバナさんに魅せられたまま、妙な緊張感を佩び始めてしまい、カップ麺を啜る事に苦戦した。麺は僕の鼻筋のように、伸びていた。

十話

 タチバナさんは一滴残らずスープも飲み干した。箸を丁寧に重ねて器に置き、ハンカチで口元を叩くようにして拭った。「ごちそうさまでした」と言いながら手を合わせて顎を引いた。僕はその光景を隣で眺めていて、美しいとしか感想が出てこなかった。
 タチバナさんは流し台へ空となった器を運び、ピンク色の布巾を持ちながら戻ってきた。タチバナさんは自分の器を置いていた位置の机を半円を重ねていくように拭いた。熱心に尺の短い腕を忙しく動かしながら、机を拭き取るその姿にも無駄なくらいに可憐さが充ちており、僕の頬を撫でた。
 僕も食べ終えた容器を流し台にへと持って行き、器を傾けて余ったスープを放出させた。そして僕はパイプ椅子に再び腰を預けた。
 「どうぞ」とタチバナさんが僕の前にコーヒーを差し出し、「あっどうも」と僕はありがたく受け取った。タチバナさんも僕の隣に座り、両手でマグカップを支えながら口元へ運んだ。僕は一度塊のような唾液を飲み込む。白色のマグカップの縁をタチバナさんの唇が銜え、一口含んで飲んだ。一秒一秒が画になる女性だ。若干僕は悶えた。
「今日はお疲れ様でした」とタチバナさんが言った。コーヒーが熱かったのか、息を吹きかけている。「初めての仕事内容としては難しいとは思ったんですけれど」
 「いや、そんな事は、ないです」と僕は言った。不快な気分が再び襲い、僕はコーヒーに目を落した。肌に湿度を与える湯気が顔面を撫で、僕は鼻元を指で拭う。すぐに水滴が鼻を覆り、顔は湯気から離した。電気の光を反射させ一部白い光を泳がせている琥珀色が、水紋を描いた。
「そうですか?」とタチバナさんは首を傾げた。「この業界は油断したら負けですからね。頑張ってくださいね」
「ありがとうございます」いい迷惑だな、と僕は耳を伏せたくなった。
「トオルさんの自らに対する自信は私は大事だと思いますよ」
「はあ」と僕は肯いた。タチバナさんも知っているのだろう。僕の今回の散々な結果を。
「けれど、その自負がときに自分の首を絞めたり、追い込んだりしたりするんですよ」とタチバナさんは言った。僕のすべてを見透かしているような口調だ。僕は自分の肌の色がぼろぼろと爛れ、詰まっている肉の赤みもすり抜けていくように薄く乾いていく気がした。目玉も髪の毛もすべてが脱色し、吐息を吹きかけ白くなった硝子のようになり、さらに扁平な白の息が解け、完全な無色透明になっていく気がした。クリスタルボーイのように僕は光すらも通り抜けてしまう虚ろな体色に変哲したのだと錯覚に陥ったのだ。
 僕は車内でカミタニさんが話していた事が脳裏を過ぎった。「超能力者っていうのは本当に僅かな存在だからね。それが自分の自惚れになって、道を踏み外してしまう人も少なくはないよ」僕が道を踏み外す?僕は思わず苦笑した。僕を自分に酔っている者たちと一緒にはしてほしくないものだ。タチバナさんも、カミタニさんも、あの男も、皆僕を新入りだからと舐めきっているのだ。いずれ、教えなければならないのだ。それは仕方のない事なのだ。
 そしてカミタニさんの言葉が止めたはずの蛇口から零れる一滴の水のように、脳に浮んだ。

『いわゆる、優越感だね』 

 僕は未だに、生え茂る雑草の広場を彷徨っているのだ。足を進めるにつれ、足元は険しくなった。


「よした方がいい」とカミタニさんは普段どおりの冷静さをまとった声で言った。「意味の無い暴力は傷を生むだけだよ」
「意味はあります」と僕は言った。
 翌日、僕はカミタニさんを外に連れ出した。それは僕の強さを解らせるためにだ。カミタニさんは黒縁眼鏡の位置を直しながら、余裕な表情をしていた。それは僕の言動に呆れてるようにも窺えた。氷のように輪郭のはっきりとした冷えた視線が、僕と対峙していた。
 「意味なんてないよ」とカミタニさんは億劫そうに言い、煙草を一本咥えた。ライターではなくマッチ箱を片方のポケットから取り出し、箱の横面に擦り当てた。火が出現し、煙草の先端を灯した。お化け煙カードのような鋭い軌跡を描いた煙を天へ上昇させた。「トオル君。俺は君を分かっているつもりで接しているよ」とカミタニさんは雲のような煙を口から放った。その煙がカミタニさんの顔を覆い隠し、靄がかかった。
「わかっていないからこうやって教えるんじゃないですか」と僕は決意を表した声で言った。
「何をさ」とカミタニさんは言った。僕に煩わしさすらも感じているだろう。
 「僕が、最強だという事をです」と僕は言い、身を構え、息を一度吐いた。身にまとっているウインドブレイカーのチャックを首元まで上げ、目を鷹のように鋭く尖らす。カミタニさんは咥えていた煙草を二本指で掴み、口元から離した。そしてまだ尺が十分に余っている煙草を地に落し、それを踏み躙った。勿体なさそうに原型を留めていない煙草を俯瞰で眺めながら、仕方ないなあという顔つきで僕を捉えた。
 僕はスニーカーの爪先を何度か弾ませ、勢い良く駆けた。飄々と風を切る音が耳元を覆い、まだ午前早い時間の冷え込んだ空気が鼻から二手に分かれて肌を撫でた。カミタニさんは首元を囲んでいるマフラーの襟を直している。腹立ちを僕は覚えた。
 カミタニさんの近くまで僕は詰め寄り、右足を横に振った。カミタニさんは左手でそれを止め、弾き返すように僕の右足を軽く押した。僕はそのまま身を回転させるように左足を振るが、それも同じように右手で弾き返された。しかしそれだけだ。カミタニさんは手を出そうとはしないのだ。
 僕はその余裕さにますます腹が立ち、舌打ちを洩らした。カミタニさんはレンズ越しに僕を見据える。僕は膝を屈して体制を低くした。カミタニさんの顎下に頭部を潜り込ませ、そこで脳内に描いたスイッチを押した。動きで捲れたカミタニさんの服の一部は、そのまま停止し、風で踊っていた髪の毛も一本ずつ針金のように固定された。
 僕は右手の拳に棘をまとい、勢いよくカミタニさんの腹に突き出した。内臓を一弾みさせるように強く叩いた拳は重みを佩びている分、伴う痺れも鋭かった。僕は右手の痺れを堪え、すぐさま地を蹴って身を離した。
 漂っていた靄が吹き飛ばされたように、時は動き出した。紐をぴんと伸ばしたように意識が再開したカミタニさんは一瞬で訪れる腹部の重みに身がたじろいた。うっ、と鈍い声を一度洩らし、足元を固定して息を吐いた。
「はあ」とカミタニさんが溜息をつく。「こりゃ参った。俺の負けだ。圧倒的だね」淡々と思い浮ぶ言葉をそのまま口元に流しているように、カミタニさんはわざとらしく腹部を摩りながら言った。
「トオル君の勝ちだ。こりゃあ。俺も痛いのは勘弁――」
「ふざけないでください」と僕は怒鳴った。さすがに舐められすぎだと、こめかみが痙攣していた。
 カミタニさんは僕の怒号など無視し、新しい煙草を咥えて事務所に戻って行った。僕はその背を据えながら、「くそ、くそ」と何度も呟いた。僕は銀色の霧が漂う深い森の中へ、足を運んでいた。飄々と、彷徨っているのだ。生え茂る雑草は僕の身長よりも高く、空は漆喰の壁のような色合いをしていた。
 僕は瞼を閉じた。瞑想がもたらす闇の海へ、高く飛び込んだ。

十一話

 分厚く空に天井を作ったような灰色の禍々しさを窺わす雲は、遠くの方で白い靄のような淡いカーテンを作っており、それが雪だと気付いたのはすぐだった。正午前だというのに、空は夜を留めているような程に闇に包まれていた。街を暗く染め上げ、雷の轟音も遠い距離から耳に流れてきた。空を洗濯しているように大量の雨が降り、気が付けば雪にへと姿を変化させ、また雨に戻った。
 事務所の二階から眺めたアスファルトの地面は、すべてを呑み込んでしまいそうな忌々しい闇を淀ませていた。辺りは自動車も人も存在せず、深夜の時間に巻き戻ったかのような錯覚に僕は陥った。蛍光灯の橙色を深めた明りが、さらに深夜を連想させた。
 この業界に入り、二週間弱が経過した。あの廃ビルの一件以来、僕の元に仕事の依頼は訪れない。この業界の人達は通常、普段は事務所に来ないらしいのだ。仕事依頼がきたと報告され、事務所に向かい内容を聞いて仕事に行く、というのが基本だった。しかし僕はまるで通勤のように、用事もないのに事務所に行き来していた。
 その理由は単純だ。自分を売り込みするためだ。仕事依頼というのはタチバナさんかカミタニさんが最初に用件を訊ね、内容を把握した後にその仕事に合った超能力者を選ぶらしかった。しかしあの一件の事でカミタニさんは僕に仕事の依頼を持ち込むなんて可能性はゼロに近いのだ。ならば自分からお願いをしなければならない。だから僕は事務所に居座っているのだ。
 今の僕は、未練に充ちていた。まことに遺憾なのだ。君一人じゃ無理だよ、とカミタニさんの言葉が僕の脳を蝕ませた。あの余裕さをまとった表情が何度も輪郭をくっきりとさせて明確に浮ぶ。その度に僕は、周りにある物すべてを破損したくなるような衝動に駆られた。腹立ちなのだ。それはカミタニさんに向いた矛先ではなく、僕自身へのものだった。
 事務所の中は、非常に緩慢な空気が循環していた。仕事依頼の電話が来なければする事もないのだ。カミタニさんは自分の眼鏡を布で磨いており、タチバナさんはコーヒーを啜りながら文庫本を読んでいた。僕はというと、受話器を長々と見据えていた。椅子の背もたれに身を任せ、まるで底に沈んで動かない金魚のようにじっとしている受話器を睨んでいた。細長い形をした結構最新的なタイプであり、日にちと時刻をパネルに示している。正方形の小さな台には隣にメモ用紙が何枚にも重ねられ置いてあった。
 電話は常に緊張を備えており、その緊迫の網が僕の喉に絡まり息苦しさを感じる事もあった。受話器を据えていると自然と視界にタチバナさんも入り込んだ。タチバナさんは本やパソコンをする時のみ眼鏡を付け、清楚な印象は変わらず放っている。文庫本は何かわからないが、その一ページ捲るだけの仕草も文学的な官能さを滲ませ、僕の視界が色を華やかに甦らした気がした。


 受話器が空間を射るような鋭い音を発したのは、三十分程経った時だった。若干眠気を目の下に育てていた僕は、それが受話器から流れる音楽だとは気付かず曖昧模糊のままだった。カミタニさんが電話を手に取り、「もしもし」と言った。そこで僕はそれが仕事依頼だと気付き、脳内にかかっていた靄を振り払った。
 タチバナさんは文章を映した目を上下に動かす事を恒常させたまま、まるで石像のように固まっていた。動いているのは目玉だけだ。カミタニさんは「はい、はい」と肯き相槌をしながらメモ用紙にボールペンを滑らせていた。慣れた手つきだった。
 僕は来たか、と笑みを洩らしそうになるが堪え、カミタニさんが電話を切るのを盲導犬のようにじっとまっていた。僕は怯んだ神経を鎖で縛るように引き締め、緊張を覆った。カミタニさんは「了解しました。それでは」と言って受話器を台に戻して立てた。「すこし早いクリスマスプレゼントが来たよタチバナ」とメモを確認しながらカミタニさんが言った。若干の高揚が表情に滲んでる。
「どんな内容ですか?」と文庫本に栞を挟み、タチバナさんが訊ねた。「〈蝶硝〉の絡みですか?」
「違う。本社からだ。しかも、社長のヤイバさんだ」とカミタニさんが言った。
「マジですか!」とタチバナさんは驚愕の声を洩らした。その驚きの声に僕は驚いた。反動のように体が弾み、え?とタチバナさんの顔を二度見した。
 「大マジだよ」とカミタニさんは言い、すぐさま受話器を手に取った。「とりあえず「アミサキ」と「クロカワ」に電話を掛けるよ」と集められた番号を押しながら言った。アミサキ?クロカワ?聞き覚えのない名前に僕は首を傾げた。タチバナさんは「わかりました」と言って文庫本を再び手に取った。
 大きい仕事とはなんだろうか。僕はいまいちわからなかった。〈蝶硝〉という組織はこの前カミタニさんに聞いた覚えがあった。確か、この業界の中で最大の権力を持っている組織だ。社長のヤイバ?何だその物騒な名前は。いまいち僕は理解出来なかった。
「あの」僕はタチバナさんの元へ近づき、小さな声で訊ねた。「社長のヤイバだとか、よくわからないんですけれど」
「ああ。まだ私も詳しく聞いていませんが、多分〈蝶硝〉で行われるパーティーの護衛の依頼です。一週間後にあの会社の社長のヤイバさんが誕生日なんですよ。誕生パーティーですよ。金持ちの」とタチバナが言った。「その仕事はとても大きなものなんですよ。だから毎年、業界の事務所では戦争なんです。それが今年は選ばれた、というやつですね。なにせ儲かるんです。だからこっちも自信のある超能力者を出さないとダメなんですよ。ヤイバ社長、なかなか恨みを買う人でしてね…」
「テロとか、ですか?」と僕は訊ねた。
「そうですね」とタチバナさんは言い、人差し指をくるくると回した。「でもたまにヤイバさんを狙うと見せかけてその場にいる他の人が目的だった、というのもありますよ。僅かですが」
 なるほど、わからない。僕は曖昧に肯いた。金持ちの世界は僕には共感できない事が多そうに思えた。多分、そうなのだろう。僕はもう一度曖昧に肯いた。しかし僕はこのチャンスを捨てる事は考えてはいなかった。これは賭けなのだ。僕が最強ならば、可能のはずなのだ。
 「はい、よろしくね」と言って電話を切ったカミタニさんに僕は詰め寄る。なんだい、と僕を見るカミタニさんの目を見据え、「僕に、やらせてください」と言った。「お願いします」
「悪いけれど」とカミタニさんが凍てつくような冷えを佩びた声を発した。「本気で言っているのかい?トオル君」それは遠回しの嫌味でもなんでもなく、ただ呆れているようだった。
「本気ですよ」と僕は答えた。「僕は自分を信じています。自負しています」
「その自負が結果を招くんじゃないか」
「廃ビルでの言動は反省してます。ですから僕にやらせてください。お願いします」
 僕はまじまじとカミタニさんを見据えた。このチャンスを逃がすわけにはいかないのだ。本当は、違うのだ。僕は脳裏で何度も「僕は最強だ僕は最強だ」と唱えた。タチバナさんは「へ?」とした顔をしており、きょとんとしていた。置いてけぼりになっていた。
「この仕事はこの事務所的にも大きい仕事なんだよ。〈蝶硝〉という組織の巨大さをトオル君は知らないから言うんだ」とカミタニさんが言った。
「やらせてください。指示は必ず聞きます」と僕は言い、腰を深く曲げた。すこし黄色を加えたクリーム色の地面が視界に広がる。汚れではなく、本来からそうなのだ。白のような黄色のパン粉に似た色合いだ。
 カミタニさんの足元だけが見えた。紺色の深く暗い色をしたジーンズに黒い革靴だ。カミタニさんはいつもダウンジャケットにジーンズなのだ。僕は顔を上げず、ただただカスタードクリームを塗りたくったような地面を睨んでいた。
 事務所の中はしんと静まり、空気が重力を増した。カミタニさんは深く考慮するかのように鎮静し、僕に緊張を伴わせた。胃が壁に囲まれたように窮屈になり、僕に余地を与える暇など毛頭となかった。
「わかった」とカミタニさんは渋々承諾し、肯いた。「これが最後のチャンスだからね」とカミタニさんが言葉を続け、言った。
「ありがとうございます」僕はその瞬間に、体の底で眠っていた莫大な高揚が覚醒した。
 人間というのは押しに弱いものだ。僕はそれを理解していた。簡単な事なのだ。僕は肌を覆う緊張をべりべりと剥すように解いた。脱皮のようだ。足元が浮き上がるような身を軽くする安堵が、僕を導いた。昂る高揚を脳裏に隠し、僕は「頑張ります」と軽々しい嘘を吐いた。頑張らなくても、僕は最強なのだ。
 いかんせん。僕は自分が一番最強だと自負しているのだ。森の中で彷徨っていると、まるで出口に導くように一本の道が続いていた。
 窓に目をやると、僕を祝うように白い綿のような雪が深々と降りだしていた。

十二話

「あの」その声に僕は覚えがなかった。女性という事はすぐに確信できた。しかし聞き覚えがないのだ。「トオル君、だよね?」と、その見知らぬ女性は僕に訊ねた。
「そうですが」と僕は言った。女性の顔を僕は見たが、何も浮ぶ事はなかった。本当に見覚えがないのだ。ところで名前も知らない人に名前を知られているというのは、とても気味の悪いものだ。
「やっぱり!」と彼女は言った。なにがやっぱりなのか僕にはわからない。「覚えて、ないよねえ」
 彼女は一人で騒がしく顔の筋肉を動かしていた。若手俳優の練習風景のようだった。または新人声優の発声練習のようだ。ところで誰だろうか。僕は正直に「覚えてないです」と言った。「すみません」
「いや、いいの」と彼女は言った。「あたしね、アミサキっていうの。よろしく」
「はあ」と僕は肯いた。
 アミサキという名前の彼女は、やけに僕に親しかった。コーヒーのようなすこし茶色を佩びた髪は肩まで伸びており、美容室をこまめに通っているのか髪の毛の一本一本が整っていた。身軽さを優先しているのか、髪は淡いカーテンのように梳かれていて、風が飄々と通り抜けでるようだった。輪郭はそれぞれのパーツがどれも決められた位置に留まっており、美人の類だった。特別、というわけではない。黒いカチューシャで髪を固定させている。晴れた空のような清楚な淡い水色のデニムジャケットを身に纏い、下もデニムのスカートだった。丈が短く、太股の肌が露になっていた。黒いニーソックスに身動きができやすそうな茶色いスニーカーを履いていた。僕が全身黒ならば、彼女は全身青かった。しかし、お互い靴は除く。
「アミサキさんも、業界の方で?」と僕は聞いた事のある名前だな、と思いつつ訊ねた。
「そうだよ。トオル君もやっぱり超能力者だったんだね」
 「やっぱり?」と僕は再び訊ねた。先程から彼女は僕を存じているような喋り方だった。学生の時に同じ学校だったのだろうか?しかし僕は友人というものはゼロに等しかった。小学校五年生の時から僕は他人と関わりを作る事を停止させたのだ。僕は逸材なのだ。他人と止め処なく下らない話題で盛り上がるような人間ではないのだ。そんな自分がましてや異性なんかと、会話をするはずがないのだ。もし何処かで会っているなら、僕はすぐに思い出せるはずだ。数少ない面識のある顔から同定させるのは、一桁の足し算をするのと同じくらい簡単な事だった。もう一度僕は記憶を探った。脳を弄くるようにいろいろな霞んだ記憶を引っ張り出す。駄目だ。まったくもって見当もつかない。
 アミサキさんは懐かしき友人との再会のように親しみを表情に滲ませていた。僕は知らぬ間に一部分の記憶を失っているのかもしれないという錯覚に陥った。記憶を整理している棚のどこかの段が、空虚になっているのかもしれないのだ。しかし、そんな覚えはない。事故に遭った事もなければ、頭を強く打ち付けた事もなかった。僕は本当にこの人の正体を確信する事ができなかったのだ。できれば「あーあの時の!」と座布団にカバーをするかのように言い返したいのだが、毛の先程も思い出す事ができないのだから言うに言えないのだ。諦め悪く脳を嬲っている自分に苦笑した。
「あの」と僕は恐縮しながら言った。「どこかで会った事ありましたっけ?」
「まあ、そうだよね」とアミサキさんは言った。とくに失望しているようながっかりさは窺えなかった。覚えてなくて当然、という顔をしているのだ。
「はい」と僕は言った。なんとか会話を続けようと僕は脳裏で話題を勘案した。なぜ会話を続けようなんて下らない使命感を感じたのかは自分でもわからない。けれども、なぜか僕は努めた。
「小学五年生の時」とアミサキさんは一呼吸を置いて言った。「失礼だけれどトオル君、いじめられていたじゃん?」
「ま、まあ」と僕は肯いた。
「あたしのせいなの。ごめんなさい。結局最後まで言えずに卒業しちゃったから、あたしも後悔してたの」
「どういう意味ですか?」と僕は訊ねた。いまいち理解できず、僕の脳内は火が出ないライターのようにぽかん、としていた。
「あたしが、消しゴムを割ったの」とアミサキさんは吐いた。僕は「は」としか返す事ができず、首を傾げた。一瞬「消しゴム」がなんなの事かすら忘れていたのだ。「ほら。トオル君がその、いじめられた原因って友達の消しゴムを割っちゃったからじゃん?実はね、あたしその時見てたの。その時にあたしの超能力が開花したんだと思う。そのトオル君が触っていた消しゴムを見つめたら、奇麗に割れたの。包丁で切ったみたいに」
「意味がわからないです」と僕は言った。整理しようと試みるがすぐに散らかった。
「それで一瞬あたしはわからなかったの。自分がやったって事に。でもそれからいろいろやってみたの。あたしの消しゴムを机に置いてずっと見つめたら、勝手に割れたの。黒髭危機一髪みたいに半分から上が飛んだの」
 突然そんな事を言われても僕は困るだけだ。けれども、曖昧ながら掴めるものはあった。簡単に言ってしまえば、
「いじめの原因、という事ですか」と僕は言った。オブラートに包む事もなく素直に声に出した。
「ごめんなさい!あたしが悪いんです!」とアミサキさんは深く頭を下げてきた。「あれからトオル君、いろんな人に嫌な事されたり、とても苦しそうだった」
 最後の方は完全にアミサキさんの想像にすぎなかった。勝手に謝罪され、苦しそうだとかの同情の声を軽々しく言われた。僕は不愉快だった。僕はそういう同情の声が嫌いなのだ。「なにを謝っているのかはわかりませんが、僕はこの話を聞いたところで、アミサキさんを恨んだりはしませんよ」と僕は言った。
「え?」とアミサキさんは下げていた頭を上げ、そう声を洩らした。
「むしろ感謝させていただきたいものです。あなたのお陰で僕は自分が特別だという事に気付いたんですから」
 なぜ今思い出したのかはしらないが、僕はカミタニさんがアミサキさんの名を言っていた事を思い出した。確かもう一人いたはずだ。クロカワ、という名前の人だ。そうだった、と僕は脳を擽るものを取り出す事ができ、安堵に似た感覚を覚えた。ところで僕のいじめの原因というのは改めて耳にすると教師の顔真似をする生徒のように下らなく思え、鼻で笑った。
「特別?」とアミサキさんは訊ねた。
「はい」と僕は言った。笑みを隠す事をせずにアミサキさんに目をやった。「僕は自分が逸材だという事に気付いたんです。ありがとうございました」
「それは自分で言う台詞じゃないと思うんだけれど…」とアミサキさんは言った。僕は無視した。


 まるで僕を挑発してくるかのように、〈蝶硝〉の社長「ヤイバ」の誕生日パーティーに、脅迫状が届いた。それも超能力者だという話だ。超能力者の男二人組、という事らしい。僕はまた二人組かよ、とこの業界にはコンビというものが多い事を知った。
 しかしそのコンビは本当に「二人組」かどうかは曖昧のままらしかった。何故だかはわからない。確かに「二人組」という形になっているが、辻褄の合わない点が幾つも現れるのらしい。話を聞いているだけでは、大袈裟に作られた都市伝説を聞かされているような感覚にしかならない。嘘か本当だとか、その前にわからないのだ。
 カミタニさんの連絡で、僕達は事務所に集合した。僕「達」というのはアミサキさんとクロカワ、という人の事だ。僕は椅子に腰を渡し、背もたれに堂々と身を沈めた。アミサキさんも以前会った時と同じ服装で事務所に訪れ、椅子に腰掛けた。どうやらあれが仕事服「的」なのらしい。太股が肌寒そうに思えた。すこし考えるだけで幻の冷えた空気が足にまとわり、ウインドブレイカー越しに手で摩った。アミサキさんが僕に視線を送ってきたので軽く会釈した。目で「どうも」と挨拶を済ませる。
 窓を見ると雨から殆どの重みを奪ったような雪が、紙切れのようにゆっくりと舞っていた。深々と呼吸音すらも出さず悠々と街を見下ろしながら、儚い命を楽しんでいるようだった。空は淡い水蒸気のようなものが漂っており、それすべてが雪だと思うと世界を侵略しようと襲来してきた星人だとも思えた。
 クロカワさんが事務所に現れたのはそれから三十分程経過した頃だった。獣のような輝きのない金色のファーが支配したフードを深く被り、目元が濃い隈のような影に覆われていた。ポケットが無駄に付着した紺色のカーゴパンツを履き、身を包む深緑のコートはチャックもボタンも全部閉めていた。顎が隠れ、目元も隠れ、輪郭自体も狐の尻尾のような太いファーに囲まれているので、白かったら雪男と勘違いしてしまいそうだった。茶色い革生地の厚いブーツを持ち上げるように歩き、靴底が地面と当る度にシャーベットを踏みつける音がした。溶けた雪だ。
 クロカワさんは喉に何重にも肉を巻いたような太く低い声で「遅れました」と言った。その僅かに覗ける口元も腹話術だったかのように著しい動きを見せていなかった。そのまま金属すらも簡単に潰してしまいそうな厚く太い手で椅子を引き、パイプ椅子に尻を乗せた。油が乾いた扉がゆっくり動くような、鈍い軋み音を椅子が上げた。悲鳴にも似ていた。僕はクロカワさんに一捻りで首をへし折られる光景を脳裏に浮かべた。肌に潜り、高速で駆け抜けるような身震いが弾むように走った。
「全員揃ったね」とカミタニさんが前に立って言った。「これから仕事に向かうわけだけれども」
 「武器確認」とカミタニさんの呼び声で、アミサキさんとクロカワさんはポケットに手を挿入し、手探りをしはじめた。僕は予め机に置いてある小型ナイフに目をやった。アミサキさんは小型ナイフと拳銃を並べ、前に差し出した。クロカワさんも同じ武器だ。僕は拳銃を必要とはしなかった。そんなもの持っていても使わないと思ったからだ。さらに言えばナイフも使わないのだろう。
 カミタニさんは並べられた武器を見終え、「それじゃ、仕事服に着替えて」と言った。といっても二人は席を立たない。立ったのは僕だけだった。なにか気恥ずかしさを覚えた。
 僕はウインドブレイカーを脱ぎ、黒いタートルネックを着て、最初から履いていた黒のコーデュロイを露にさせた。ウインドブレイカーを畳んでパイプ椅子の背もたれに掛け、ポケットの少ない黒のコートを上から羽織った。盛り上がりが大人しい栗色のファーが肌を撫で、指でそれを払った。
「それじゃあ行こう」とカミタニさんの呼び声と共に、タチバナさんを含め僕達は足を向けた。

十三話

 タチバナさんに僕は「クロカワさんの超能力、てどんなのですか?」と聊かな興味を訊ねた。僕が予想するに、あのがたいから連想するに、あの服装から想像するに、いろいろ考慮し想像しているとアミサキさんの「すべての物を真っ二つに割る」超能力が脳裏に過ぎった。割る事が可能なのだから、壊す事もできるだろう、と僕は「あらゆるものを粉砕させる」という結論に至った。タチバナさんは僕の耳に顔を近付け、手で口元を隠す影を作りながら「「投げたものは何かに当るまで飛ぶ」という超能力になっています。詳しくは私もわかりません」と言った。息が僕の耳元を撫で、僕は水をぶるぶると払う猫のように震えた。「すみません」とタチバナさんは慌てて謝った。僕は苦笑いをするしかできなかった。ところで僕はよく分からない超能力だな、と感想を抱いた。
 パーティー会場となるドームらしき建物は、まるで頭上の雲を下ろしたかのように巨大な建物だった。俯瞰に見ると円状の輪郭をしており、天井は中心になるにつれて高くなっていく形をしていた。雪が積ろうがすぐに滑り落ちるだろう、と僕は思った。
 このドームの中にあるホールには、東西南北に出入り口があるようだった。その内の僕は西口を任せられ、アミサキさんは東口に向かった。クロカワさんは北口を受け持ち、カミタニさんはヤイバさんのまじかでSPのようにいるらしい。南入り口は自衛隊や警備員などの者達が男達の出現に備え、待機していた。
 僕は頼まれた西口の扉に寄りかかり、腕を組みながら二人組を待った。扉の方に耳を澄ますと、大勢の上品さに満ちた声が漏れていた。ざわざわと声がし、すべてを聞き取ろうとしたが可能なはずがなかった。僕は聖徳太子ではないのだ。
 延々と扉の奥で賑やかな声に耳を澄ましていると、テレビなどでの雑音にも思えた。僕は扉から耳を離し、再び建物内を見回した。円形の空間に一回り小さな円状の空間がある、というのはすこし奇妙だった。右に首を曲げると、湾曲を描いてクロカワさんが見張っている場所まで続いていた。左も同様にどこまでも曲りくねっていた。まるで土星を囲む輪の中にいるようだった。その輪は広く、いわゆるロビーが一周しているのだ。一回り小さいホールを囲むように、ロビーも輪を描いているのだ。
 僕はコートのポケットに手を挿入し、折りたたみナイフの持ち手を指先で触れた。硬く木製ですべすべとした手触りだった。僕は手を引き抜き、爪先を悠々と見つめた。それは何となくだ。爪が何センチ伸びたかなんて僕はわからないし、寿命線が伸びたかもしれない、何て事もさっぱりわからない。何となくの気まぐれなのだ。ようするに、退屈なのだ。
 〈蝶硝〉の社長、ヤイバという男を僕は一目だけ目にしたが、見た限りだと中年の男に過ぎなかった。すこし白髪が混ざった髪を掻き上げており、耳元にはピアス穴が開いていた。一重で目が細く、髭を若干蓄えていた。そして今にも髭と一体化しそう、というくらいにもみ上げが長かった。確かに傲慢そうな印象は抱いたが、巨大な組織の社長、という程の貫禄は備えていない気がした。ところで超能力者二人組はまだ現れない。
 僕は正直、二人組の登場を望んでいた。カミタニさんとの一戦以来、僕は不調が続いていた。以前の冷静的な判断が衰えはじめているのだ。カミタニさんが僕を唆した言葉は、僕の優越感を葬り、冷静さを消滅させ、ゲシュタルト崩壊のように、僕の中に雪崩を起こした。だから僕は望んでいるのだ。男二人組の登場を、心待ちしているのだ。
 僕はひたすら待った。壁に背を密着させて虎視眈々と以前の自分の復帰を図っているのだ。僕は壁に走っているへりを指先でなぞった。大理石の壁に指を滑らせると薄い氷膜が指先を覆った。大理石の壁は黄色と白の迷彩柄のようになっており、水のりを表面から満面なく塗りたくって乾かしたようにてかてかと眩しくない光を放っていた。地面も大理石だとは思うが、赤いカーペットが敷かれていてわからない。背を密着させ足を伸ばそうが、地面と踵が張り付いたように滑る事はなかった。伸ばしている足を固定するかのように、がっちりと押えている。僕は顎を引き、タートルネックの首元に顎を当てた。 
 僕は先程から違和感が覆っている耳元に手を伸ばした。乾電池程の大きさをしたイヤホンマイクを右耳に僕は命令で付けていた。これは皆と別れる際、タチバナさんが全員に配った物だ。「これは何ですか」と僕が訊ねると、タチバナさんは「通信機です」と原稿用紙一行も埋まらない淡白とした声で言った。
「わかりません」と僕は言った。
「私のこのパソコンと繋がっている通信機です」とタチバナさんは脇に挟んでいたノートパソコンを見せた。「みなさんが護衛をしている間、私は車内で男二人組の事を調べます。それで判明した事を言います。私の声がみなさんのそれに繋がる、という事です」
「自分達からは言えないんですか?」と僕は訊ねた。
「はい」とタチバナさんは肯いた。「一方的ではありますが、私の方からしかできません」
 とはいっても、違和感そのものが耳に被さっているようで僕は慣れなかった。イヤホンというのが僕は苦手なのだ。僕は片耳を飾っているイヤホンマイクを人差し指でこんこんと叩いた。プラスティックの軽やかな音が耳に直接流れた。南口には、このパーティーに呼ばれた人達が並んでいた。清楚なスーツ姿の人達が目立っていた。パーティーの招待状を片手で持ち、白髪頭の老人にそれを渡してホール内にへと進んでいった。
 僕は再び背を壁に合わせ、コートに手を挿入した。辺りはしんと静まり、分厚い扉の方から上品な喧騒が流れてきていた。僕はロビーの巨大な窓に広がる芝生の景色を眺めていた。パーティーが始まるまでロビーでくつろぐ者も存在した。ロビーには巨大な液晶テレビと自動販売機が何台か並んでおり、三つほど白い革生地のソファーもあった。赤紫色のドレスを着た女性や縞柄のグレーのスーツを着た男性がソファに腰掛けたりとしていた。ソファの隣には丸テーブルがあり、その上にはシガレットケースと灰皿が何枚か積んであった。グレーのスーツを着た男がそのシガレットケースの蓋を開け、煙草を一本取り出して一緒に置いてあったマッチに火を点けた。煙草の先に灯し、細長く蛇行した灰色の煙を立ち昇った。赤紫色のドレスの女性は窓をじっと見据え、広がっている芝生を眺めていた。他にも人はいた。メロンソーダを連想させる青っぽい緑色をしたドレスを着た女性や丈が丁度の黒いスーツを纏った男性と僕を合わせ五人ほど西口のロビーに存在した。
 僕はその中の、黒いスーツを身に纏った男性を気にかけていた。確信はできないが、どこか怪しい雰囲気を伴侶しているのだ。前髪を中心部から左右に分け、鼻が若干尖っている。睫毛も著しく長かった。ソファに抱かれたまま、延々と天井を見上げていた。
 「時間です」という老人の声と共に、ロビーにいた人達は立ち上がり、僕の隣にある扉の方へと足を向けた。僕は西口の扉を引く。赤紫色のドレスの女性は僕の顔を一度見、軽く頭を下げた。僕も釣られて顎を引いた。その女性が確認のためにと僕に招待状を見せ、後に続く人達も僕の招待状を目に通した。訝しげの男も遅れて立ち、僕の方へと近づいてきた。
「招待状、をお見せください」と僕は身に緊張をまとい、訊ねた。
「ああ」と彼はそう言い、スーツのポケットに手を挿した。僕は全身を強張らせ、身を構えた。険悪とした空気が走った。
 男は慌しくポケットの中の冒険していた。「ありますか?」と僕が一歩足を出した瞬間――男の拳が僕の鼻を突いた。視界が吹き飛んだかのように一変する。男はすかさず手を入れていたポケットから果物ナイフを引き抜き、僕の顔を裂くように振った。僕は殴られた弾みで体重が後ろにかかっていた事もあり、間一髪でナイフからは逃れた。しかし鋭く宙を切り裂く刃の先端部分が、鼻先を摩った。それは切られたかどうかも判断が難しい程度だが、粒のような手の滴が視界を舞っていた。
 僕は地面に背中から横転した。男が僕を跨ぎ、ホールにへと大股で足を広げる。僕は男に這い蹲る覚悟で両足を起立させた。男の胸元に僕の踵が届き、そのまま押し倒す勢いで僕は足を振り下ろした。男は足を軽やかに避け、僕の腰を蹴りつけた。僕は弾みで身を起こし、仕舞っていたナイフを男の顔へ投げた。刃も開いてなく、ただの持ち手部分なだけだったが効果はあった。それが男の目に当たったのだ。僕は急いで足を地に付け、身体を起こした。そして男に詰め寄り、右手で男の顎を殴った。男がよろめき、僕は右足を振った。男の腹を蹴り押し、そのまま自分も前へ倒れた。押さえつけようと試みたのだ。しかし、倒れたのは僕のみだった。地に腹が弾み、内臓が圧縮したように呼吸が詰まった。避けたのか?いや、ありえない。僕は腕立ての姿勢になりながら体制を戻そうと試みる。しかし男のナイフは顔の真横を通り過ぎていた。
 ナイフが僕の左肩に侵入した。衣類をまとめて貫き、皮を突き破り、肉に穴を深めていく。僕は口を押さえつけていたゴムホースが破裂し、膿のように膨大していた水が飛び散らかったような、悪い開放感が襲った。血液が思いのまま自由の身となり、騒いでいるように肩から血が吹き出た。
 僕は笑い声にも似た悲鳴が体内を逆流に走った。それを食い止めるように男が僕の首を掴み、ナイフを引き抜いて左足の膝で僕の喉辺りを潰した。鈍く汚らしい噎び声を漏らし、地に倒れた。声が出ないのだ。男は僕の胸元を掴み、無理やり足で立たせた。血は止まらず、脇を伝って地面に垂れた。赤いカーペットに染み込み、わからなくなった。男は僕の顔を覗きながら、一度肯いた。僕にはそれが何の合図かはわからない。見当もつかない。僕は男から離れ、よろめく足を動かして西口の会場に繋がる扉をもたれかかるように閉めた。足元を強張らせ、「ビンゴ」と僕は言った。そして血と痰が混ざったような薄汚い塊を地に飛ばした。
 男は鋭い視線を僕に刺しながら無言で歩みを始めた。僕はそこで、脳内に作ったスイッチを押した。

十四話

 超能力の発動を失敗したのだろうか、と僕は焦りを覚えた。僕に緊張とおぞましさを与えながらゆっくりと詰め寄ってきていたはずの男が、いないのだ。それは地面に穴が空いて、すっぽりと落ちていったかのようだった。僕は肩を片手で押さえつけながら辺りを見渡した。そして僕は思わず「わっ」と驚きの声を上げてしまった。
 前にいたはずの男が僕の隣にいるのだ。身が透けて見えるようなほど存在を薄め、僕の隣に一瞬の内に移動してナイフを今にも振り下ろそうとしていた。ナイフの鋭く尖った先端は、僕の額から左の目玉を削って顎まで深く切り裂く事を精密に計算された位置だった。しかし時は止まっていた。僕の超能力の発動は成功していたのだ。しかし時間はあと一秒もないので、僕は足を二歩、三歩と下がっただけだった。時間が再び動き刻み始める。
 男は軽快に宙を割った。ナイフが獅子落としのように振り下り、空気を一刀した。僕があのまま漠然として立っていたならば、間違いなく顔半分失っていた。そう考えると背筋に氷が這い上るように身の毛がよだった。男は想定内のごとく、すぐにナイフを戻して僕を睨み付けた。僕は肩から手を離し、身構えた。
 男はナイフを右手で握り、足を前に出した。直後。男が一瞬にして僕の視界を覆った。互いの鼻が当たるほどまでに、距離を詰まれたのだ。僕は「え?」としか言えなかった。僕にはそれが「駆けてきた」とは思えなかったのだ。かといい、歩いた風にも窺えない。忌わしさが僕を襲った。それはまるで「瞬間移動」したかのようだった。もしかすると、いやあまり考えたくない可能性だが、僕は奴も「時を止める」事ができるのでは?、と脳裏が過ぎった。だから僕が攻撃を交わそうが冷静沈着なまま体制を戻し、僕を再び据える事ができたのだろうか。僕は冷や汗を額に浮かべた。刃が、焦る僕を笑うように鋭い光を視界に差したのだ。僕は紙一重に、ナイフの刃を避ける事ができた。ナイフは僕の脇腹があった空間を鋭く射ていた。僕はCカーブ描くように身体を曲げており、すこしでも腹を揺らせば刃は粘度を切るように肉を蹂躙していくだろう。
 僕はそのまま足を絡めるようにして男から離れ、やや距離を広げて、脳内にスイッチを作り上げた。次こそ、と僕は男の方へ駆けた。一度瞬きをした。それは無意識に行う行為だ。瞬きを意識的にする者など、0に近いだろう。しかし僕は、その一瞬の瞬きという今の行為に激しく後悔した。瞬きの時間など一秒も要しないものだ。その一秒も経っていない時間の中で、男は僕の死角に回り込んでいたのだ。
 その背後に突如として出現した気配に、その忌々しく嫌な気配に、僕は驚きと同時にスイッチを押した。僕はつんのめり、地面に顎を打つところだった。すぐに立ち直し、男を見据える。男は僕を抱くように両手を横に広げた体制で停止していた。僕はすかさず男に近づき、ナイフを取り上げた。そして男の腹部を膝で蹴った。意味はあったかどうかはわからない。多分、ないだろうとは思った。そして男の横に身体を移した瞬間に、男は動きを再開した。
 男の反応は早かった。自分が今ナイフを持っていない、とすぐに悟ったのだ。その繊細さに僕は逼迫した。男はその長い足を僕に振った。それは僕の腹部を蹴り付ける事が目的ではなく、僕が取り上げたナイフを奪い返す事が目標に見えた。しかし僕はそう予測しただけで、行動に移す事ができなかった。まるでダンスでも踊っているかのように軽快に伸びたその足は僕の右手を捉え、自分の足を切らないようにと計算された向きでナイフだけを蹴飛ばした。
 僕の右手からひゅん、と重みが消えた。ナイフがないのだ。ナイフは真っ直ぐ飛び、遠い位置へと転がった。素早い、と感想が浮かんだ時にはすでに男の姿はなかった。僕は咄嗟的に背後を振り向いた。男はいた。遠く離れていたナイフの箇所に当然のようにいたのだ。男はナイフを拾い、僕に目をやった。男の素早さに僕は目が眩む事しかできなかった。翻弄されているのだ。頭での収集が微塵と追いつかず、熱膨張のように重みを増して頭痛を引き起こしそうだった。
 僕は男を瞬きもせずに見据えた。これは僕の便宜的な推測に過ぎないが、奴は簡単に言えば「瞬間移動」をしているはずだ。僕のように「時を止めた」わけではない。そう信じたい。僕はそれを「瞬間移動」だと決め付け、その詳細を予測した。勘案した。
 僕はまず、「瞬間移動」の概念を考えた。文字通りだ。瞬間に移動するのだ。まるで元からその場所にいましたよ、というようにだ。どこでも時間を要せず移動でき、それまでの距離を省くのだ。僕はそこで頭にぴん、とくるものがあった。
 距離を省く?
 距離を省くとはなんだ。百メートルの道があったとして、そのスタート時点とゴールの位置までの長さを省略する、という事だろう。似ている。そう男は距離を省略しているのだ。走る時間を飛ばしたのだ。僕は何かを掴めそうな気がした。気がしたのではない。概念を掴んだのだ。ならばそれに伴う弱点は何か?僕は再び頭を捻った。
 男に殴られた時間まで遡り、曖昧な記憶を再生させた。男の行動にすべて通じる何かが存在するはずなのだ。瞬間移動、距離を省略、あらゆるワードを放り込み、便宜的ではあるが答えを作った。
 男は拾ったナイフを掬い取るように拾い、そのまま前屈みとなりながら姿が消えた。僕は「空気と共に入れ替わる」超能力を持った男が浮かんだ。どこか似ている気がしたからだ。男は僕の前に詰め寄ってきた。それを見計うように僕は左足の膝を上げたが、男はそれを悉くかわし、ナイフを前へと突き出した。空気を射ち、僕の心臓部分に赴く。僕は上げていた膝を伸ばし、力はないが左足で男の脇腹を押すように蹴った。ナイフと僕の胸元の幅が広がり、そのナイフを免れた。しかし、代償として尻餅をついてしまった。男は僕の前にへとすぐに詰め寄りナイフを振った。僕は尻餅をついたまま「ストップ、ストップ!」と訴えた。そこで地面の上に何かが置ってある事に気づいた。それを確認せず左手で拾い、弾むように手を振った。すこし重みのある細長い物体だ。僕はその瞬間、自分の左手が巨大な腕力を持つ怪物に握り潰されたような痛みが走った。ナイフで刺された肩に負担が圧し掛かったのだ。
 僕が投げたそれは男の目に直撃し、男は目元を手で覆った。僕はそれがナイフだと確信した。先程僕が投げた刃部分を出していない折りたたみナイフだ。これは幸運だ、と僕は自分を褒めた。男は声も発さず、目を瞑りながらナイフを振り下ろした。再び刃が宙を走る。僕の頭上を突き刺す勢いで空間を滑った。
 僕は左肩の痛みを堪えて、尻で転がるように移動してナイフを避けた。ここまで何とか避けてはこれたが、どれも危機一髪だ。彼の素早い行動は僕の焦りを吹雪のように靡かせながら積もらせていった。しかし、それは僕だけではない事に気づいた。
 男の息が、異常に上がっているのだ。呼吸を整えるような息が何度も口元から漏れており、僕よりも息が切れているのだ。それはナイフを振るだけの動作だけでは起きない程の息の上がりようだった。僕は未だに立つ事ができないまま、確信の笑みを零した。血管をが綱引きのように引っ張られているような鋭い痛みに呻きながらも、僕は発見した。
 あれは男の超能力の代償だ。距離を省略できる代わりに、通常走ったよりも深い疲労をもたらすのだ。僕は笑みを浮かべる余裕を作る事ができた。男のナイフを振る速度が、徐々に衰え始めていると思ったからだ。僕はナイフが視界を突き刺してくるのを、ナイフの矢先をまじまじと見詰めながら、スイッチを押した。
 ナイフの刃が、今にも僕の鼻筋を貫くような近さだった。あと一センチもないだろう。すこし首を前へ曲げればナイフは僕の鼻先を射る距離だ。僕は悠々とその場から立ち、右手の拳を強く握って男の顔を殴った。殴られた弾みで男は強制的に首を右に捻り、殴られた事に気づかず停止している。僕は男からナイフを取り上げ、僕と同じように肩を突き刺してやろう、と試みた。しかし、その時すでに二秒が経過しており、男は殴られた弾みで尻餅をついた。僕は見事なほどにナイフを空振り、そのまま振り下ろした腕の勢いでつんのめり、体制を崩した。
 寝たままの体制で男が右足を上げた。その爪先が僕の鼻を捉え、僕はアッパーを食らったかのように後ろにへと舞った。そのまま一回転しそうな勢いだ。
 僕は背中を地に強打し、視界を眩暈が埋め尽くした。朦朧と揺れる脳は酔いを伴い、男の立ち上がった影がぼんやりとシルエットになって浮かんでいた。水面に反射され映る世界のように、その影は歪んでいた。僕は背中を地面に密着させたまま、足を曲げて立ち上がる事を試みた。しかし、身体全身に走る痺れが僕の力を吸い込んでいった。まるで響いた音が余韻を残しつつその音を吸い込んでいく静寂の部屋のようだ。
 僕は辛うじて立ち上がろうと努力する。足が震えながらも、地面に立つ事はできた。しかし、麻痺したかのように身体は軽やかに動かない。男はゆっくりと僕の傍に近づいてくるのだ。僕は焦りと朦朧の意識に襲われながらも、その二つを格闘した。
 スイッチを浮かべた。触れれば灰になってしまうようなほどに脆い構造ではではあるが、輪郭を描き、色を与え、僕の手を作った。男は僕が投げた折りたたみナイフを拾い、刃部分を開いた。僕は男から取り上げたナイフを握り締め、不恰好な歩き方で後ろへ何歩か下がり、その度に炒飯を作っているフライパンのように揺れる歪む脳に酔った。とても気分が悪い。足元がずっしりと重みをまとっており、蛙か何かを飲み込んだような感覚だ。食べた事はないが、そんな気がするのだ。
 僕は男の超能力を見切った。能力の詳細と伴うリスク。すべてを把握した。あとは勝利するだけなのだ。勝つ事は簡単だ。僕はそう脳裏で唱え続けた。僕は右手で握ったナイフを男に目掛け、投げた。野球選手が野球ボールを投げるのと同様にだ。男は予想外の行動だったのか、僕から奪ったナイフを構え、僕の方にへと駆け出した。
 僕の投げたナイフが男の頭部辺りの高さを保って一直線に宙を走る。男はそのナイフを軽々しく、頭を左に傾けてナイフを避けようとした。しかし、僕はそれを見計っていた。
 スイッチを押した。時間が停止し、耳が痛くなるほどの静止が始まった。それは地の底で眠っていた怪物が、合図と共に地上に上がってきたかのように、辺りは沈静に包まれた。男はナイフを避けるため、首をすこし傾けたまま電池が切れたかのように停止し、僕の投げたナイフは、糸で釣られているように浮いたまま固まった。
 僕は投げたナイフの軌跡を指で曲げて逸らし、ナイフが男の肩に刺さるようにと固定した。殺してしまうのは業界では禁止なのだ。当たり前だ。僕も殺人犯にはなりたくないし、ましてや殺す気も毛頭と浮かばない。僕は右手の拳を構えた。男をノックアウトさせる覚悟で殴ってやるのだ。
 この時僕は気付いていた。超能力はメリットよりもデミリットの方が多い、とあの男も言っていた事を僕は思い出した。そのとおりだ、と僕は苦笑した。今、目の前で停止している男の超能力にはもう一つ弱点があったのだ。
 止まっていた時間が、動き出した。

十五話

 「距離を省く」なんていう超能力があるのなら、ホールの中には簡単に侵入できたはずなのだ。しかし男はホールに入る事をしなかった。そんな事が可能なら、多少息切れが酷くなってでも侵入するのは容易い事だろう。僕は疑問をパン生地を伸ばすかのように脳へ広げていった。大量の水が溢れ出し、枯れたような乾き切った地面の上を走り、急激な速度で街を大洪水にしていくように、疑問を溢れさせた。今までの行動を繰り返しと想像し続けた。
 僕の拳は、まるで見切られていたかのように避けられた。男からすれば僕は瞬きの刹那に視界の前に現れ、拳が飛んできた風に見えたはずだ。それを瞬時に反射のごとく男は体勢を下に屈め、僕の拳を空振りさせたのだ。僕は男のその素早さに脳が追いつかずそのまま体勢を崩した。男はナイフを持っていない方を地につけながら、蜘蛛のように足を横長く広げて前へと詰め寄った。そして体を屈めたまま、ナイフを横にへと振った。空間に切れ筋を作りながら、ナイフの刃は僕の右足の太股を突き刺した。突如として体内に侵入したその異物に僕は喉の蓋をこじ開けてでも発声させたい喚き声が込み上げた。 
 そのまま僕は倒れ、ナイフを引き抜きながら歯を強く噛み締めた。口内にへばりつくように苦味と臭みが篭り、額から汗を霧状に吹き出す。その痛みが乱暴に掴み、無理矢理引っ張り出したかのように涙も目元に浮び、辛いと知らずにガムを噛んだ時のような特殊な呼吸を歯と歯の隙間から漏らした。男は体制を戻し、すぐに地面を蹴った。僕の太股からか肉の破片のようなものをこびり付かせているナイフを拾い上げ、フェイシング選手のようにナイフを僕に突き出した。
 ナイフの刃は僕の左耳を襲った。そのまま顔を傾けずにしていたら、僕の鼻は突き破られていただろう。左耳に切り込み線を描くように切り裂き、耳の縁側は刃がいとも簡単に貫通していた。僕は下唇に上の歯を食い込ませ、呻き声を殴るように堪えた。刃が風を削る音がまじかで耳元に響き、僕の額からは血が引き、その代役をするかのように嫌な汗が大量に滲んだ。刃は画用紙二、三枚分程度の厚さで蒼白く細い光の反射が刃の表面を滑るのがわかった。とても鋭く、よくこんなものを躊躇なく振り回せるな、と僕はいささかな関心すらも抱いた。刺された太股はその場の冷え切った空気を吸収し、より痛みを増した。切り裂かれた耳は摩擦から生じたような熱を佩び始め、その切れ筋を刃と共に冷えた空気が通り抜けた。一瞬痛覚すらも吹き飛び、熱だけが耳元を覆った。追いかけるように痛みが走り、僕は食い縛っていた歯がどれか欠けたような空気が急速に漏れていく開放感がした。
 男はさらに僕に蹂躙を試みた。手を頭上に上げ、刃は下に向いていた。僕は頭上から徐々に感覚が失せていく錯覚を催した。何もかも考える事ができなくなり、徐々に頭が透けて消えていくのだ。空間が僕を食らうのだ。空間に頭上から呑み込まれていき、僕は硝子のように色を無くすのだ。食われて呑まれる。脳を齧り、血管も骨も咀嚼する間も作らずに体内に流し込む。堂々巡りだ。繰り返され、僕は消えていくのだ。
 いつか僕の体は空間と一体になり、ナイフすらも透き抜けるのだ。そして男も呑み込んでいくのだ。――僕は死ぬのか?そんな気がした。ナイフはきわめて緩慢な動きで宙を降っていた。それは野球中継などでスローで流されるリプレイ映像のようにだ。視界に靄がかかっていた。それは冷え込んだ朝に街を覆う白い霧のようにだ。
 青褪めている、と気付いたのはすぐだった。ナイフの速度がとてつもなくゆっくりなのだ。姿の見えない、それこそ「空間」が男の手を押えつけているようだった。しかし男は黙々とキャベツか何かを千切りしているような冷静沈着に澄ました表情で慣れた手つきでナイフを振り下ろしているのだ。
 それが幻影だと気付くのは簡単な事だった。僕は今幻覚に囚われているのだ。それは何者かの超能力でもなんでもなく、自分自身が発生しているものだ。夢の中でこれは夢だ、と気づく時と同じだと僕は思った。僕を翻弄していた幻影は、木っ端微塵にやられた悪役が「覚えておけよ」と喚きながら逃げるように、そそくさと消え去っていった。やがて視界は正確な光を取り戻した。それはまるで暗く闇が沁み込んだ洞窟に延々と点けていた懐中電灯の光から、洞窟の出口が見えてき、遠くから日光の光が差し込むようだった。作り物ではなく、自然な色が浮かび上がったのだ。僕は元に戻る事ができたのだ。
 ナイフを振り下ろそうとしていた男は、僕の前で膝を付けて息を切らしていた。四百メートルを全力で駆けた後のような巨大な疲労の塊を宙へと吐いており、さらにバケツを被ったような大量の汗がぐっしょりと肌を濡らしていた。
 僕は雨が沁み込んで軋み音を轟かす木材のように痛む身体を持ち上げ、男の前へと立った。足元が震え、太股がずきずきと痛みを生んでいった。僕は太股の傷から、肉の塊がずり落ちていっているような、錯覚を覚えた。足が徐々に軽みを佩びていくにつれ、その釈放されていく肉が身に貼り付いた痛みを投げて足の中に残していくかのように激痛が覆うのだ。
 僕は刺された足を荷物と変わらない扱いで持ち上げながら進み、男の持っていたナイフを拾い上げた。先程まで軽快に僕を虐めていた男は自分のこの状況を怪訝そうに皺を顔に寄せていた。苦痛そうに息を上げながら手を床につけて僕を睨んでいた。男の超能力は、僕の想像する以上に、疲労を伴うようだ。その疲労を無視してあれだけ動いたらジェンガを積んでいくように疲労が蓄積されていき、抑え切れずに一気に身を襲うはずなのだ。ナイフの切り裂く位置は賢く計算されていても、自分の超能力の使い方を計算できていない、という事だ。
 僕はすこしだけ、高揚した。刃に蹂躙されて確かに拷問に似た屈辱を覚えたが、それでも許せる程度には高揚が甦った。男は今、僕の前で膝まついているのだ。男の睨みつきが僕には許してください、と訴えるような同情を求めるものに見えた。優越感、ではなくとも僕は今悪い心地はしなかった。
「残念でしたね」と僕は息を荒くしながら言った。僕も相当参っているのだ。「僕を殺せなくて」
 それでも凄かったですよ、と僕は余裕の笑みを作ろうと口角を上げた。「………ああ」と男はそれだけ声を出し、鋭い視線を僕を見据えていた。ところで僕は男の声を「ああ」としか聞いていない気がした。
「死にはしませんよ。僕は優しいですからね」と僕は自然と笑みを浮かべた。あくまで見せ掛けだ。
 僕は久々に余裕さを取り戻していた。この状態が続けばいいのだ。脳裏にカミタニさんの顔が浮び、僕は舌打ちを零し、そしてスイッチを想像した。
 これが最後だ。辛うじてではあったが、僕はやはり最強なのだ。笑い声を上げようとしたが身体のあちこちが笑いの分だけ悲鳴を上げそうなので躊躇した。ナイフを握り締め、呼吸を整えた。スイッチに親指を沿える。僕は『ゲーテのファウスト』のフレーズが脳裏を過ぎったのだった。
 時よ止まれ――お前は美しい。


 男は地面に呑まれそうなほどに、張り付いて倒れていた。脇腹を両手で押さえつけ、身を縛る痛みに疼いていた。頬から胸部、太股から脛、すべてが食パンにバターを塗りたくられるように、密着していた。脇腹に苦痛を訴えながら蹲っている姿は出産寸前の女性も連想された。ところでナイフを人肌に刺す、という行為は僕には罪悪感が大きすぎた。
 時を停止させた後、僕は男の脇腹にナイフの矢先を突きたてた。ナイフなんてものを料理以外で使った事なんてないものだから、僕はついつい手が震えた。ナイフの先端は男の脇腹辺りを忙しなく揺れており、僕は手汗を滲ませながら緊張していた。認めたくはないけれども、ここが僕の甘いところだろうと思った。
 しかし渡された僅かな時間は刻々と刻まれていた。脳に時計の針が一定のリズムで刻む映像が浮ぶ。僕はさらに油を被ったように手汗を滲ませた。勝手に踊る自分の手を見据え、刃で男の脇腹を触れた。時間は残り一秒、よりも少ないはずだ。
 僕は強く目を瞑り、自分の震えに委ねるように刃を練りこませた。未体験の感覚だった。刃は皮膚を貫き、弾力のあるクッションのようなものに潜った。指で触れればそのまま押し込まれ、指を離した瞬間優しく凹みが戻っていく感触が、そのまま凹みを作らずに入り込んでいくのだ。鋭く尖った異物が、ぶちぶちと耳障りな音を漏らしながら侵入していくのだ。ナイフ越しにその生々しい感触は指先へと伝わってきた。内臓を突き破る感触だ。僕は男と同じ脇腹に傷を共有するかのように幻の痛みが篭った。激しい吐き気が喉を覆い、息が詰まっていくのがわかった。
 刃の中間辺りまで潜った時に、世界は動き出した。男は突然の腹部を襲った違和感に身がよじれた。僕はその身体のくねりで驚き、ナイフを引き抜いて腰を浮かせた。尻を滑らしながら男から離れ、殴りかかってくる嘔吐を必死に堪えた。僕は人を殺す事はできないのだ。殺すつもりは必然とないが、ナイフを持つだけでも恐怖心を覚えそうだ。僕はひとしきり呼吸を強く吐いては吸っては、と繰り返した。
 「ほらな」と僕は脳内に映るカミタニさんに呟いた。「僕は最強だろう?」右手の指を口元に当て、醜く爪を噛んでいた。
 僕はやはり最強だった。超能力の弱点を推測し、見事的中する事ができたのだ。しかしその弱点を見切って戦う事は、まだ難しい。しかし弱点を推測できただけでも大きな進歩ではないだろうか。
 僕が男を退治した。この事実は変わらないのだ。僕はやはり最強だ。笑みが零れた。胸元が何度も弾み、傷が悲鳴を上げた。僕は顔を手で覆い、ひぃひぃと気味の悪い笑い声を洩らしていた。その声は呼吸が詰まって咽び泣くようにも聴こえた。
 しかし僕は再びミスを犯していたのだ。まだ気付いていない。その時、僕は正直自分という生き物に嫌悪を抱いた。それはカミタニさんからかかってきた電話が原因だった。

 
 

十六話

 電話越しからは、氷の膜が張ったような声が洩れてきた。その声は吹雪のようでもあり、僕の耳に一直線に入り込んできた。カミタニさんだ。『君のせいだよ』その言葉の意味を、僕は推測できなかった。まるで見当もつかない。この現状で、僕が犯したミスなどないはずなのだ。やれやれ、僕のこの成績を認めたくないのか、と僕は呆れの笑みを洩らしそうになった。
 電話を耳に挟みながら僕はコートを脱いだ。蒸れたような空気がコートの中身を覆い、日陰の砂漠に埋められたような水分を奪う熱が煩わしかったのだ。脱いだコートをソファに掛けた後、僕はタートルネックの袖も折り、肘辺りまで上げた。コロッケのようなざらざらとしていた感触が肌から剥がれ、一瞬にして冷えた粒子が飛びかかってくるようだった。
「どうしたんですか」と僕は訊ねた。「僕が何かしましたか?」
『そうさ。トオル君が招いた事態だ』とカミタニさんは自分の判断に後悔をしているような、口調で言った。淡々としている。
 僕にはカミタニさんがわからなかった。カミタニさん自身、僕はわからない。彼は何を日頃考えているのだろうか? 僕には爪先程もわからない。ぼんやりとした形すらも浮ばなかった。
「意味がわかりませんね」と僕は呆然としたまま訊ねた。こめかみに手を伸ばし、ぽりぽりと掻いた。
『よくそんな白を切る事ができるね。トオル君』
「人違いじゃないんですか」と僕は少々怒りを覚えた。ただ単にカミタニさんは僕の事が嫌いなだけだろう? と、僕は電話を早く切りたくて苛立った。「なんでも悪い事は僕ですか?」
『だってそうじゃないか』とカミタニさんはきわめて冷静さの中に嫌味を混ぜて吐いた。水を一度氷にし、その氷を再び水に溶かしたような声だった。
 僕はもう一度、自分の行動を振り返ってみた。何か失態をしていたのかもしれない。けれどもどれだけ考えを巡らせても思い当たるものはなかった。月を覆い隠す雲が流れるように、僕の辺りにそこはかとない寒気がした。僕は上げていた袖を元に戻し、ソファの背もたれに掛けてあったコートを手に取った。「僕には微塵とわからないです」と僕は言った。見られていないだろう、という事で僕はつでに肩もすくめた。


 男が二人組、という情報を思い出したのは肩をすくめた直後だった。さらにそれを追うように、僕は男と対峙したときに、男がした謎の肯きを思い出した。あれはなんだったのだろうか? そこで僕は自分の不注意さに気づいた。どうやら僕は、またやってしまったのだ。
『君が護衛をしているところの入り口から、二人のうちの一人がホール内に侵入した』
 何も学習していないな君は、と誰かが僕の耳の奥で言ってるのがわかった。幻聴かと疑ったが、違う。これは僕自身の声だった。僕は、自分にかつてない憎悪を抱いたのだ。今まで僕は、逃げ道を無理矢理作っていたのだと気づいた。全身を舐められたように、僕の身体が不安定に歪むように強張むのがわかった。
 身震いが走ったのだ。
 何も訊き返すことができず、僕は逃げるように電話を切った。その場を漂う空気すらも強張っているようだった。猫の舌のようにざらつきを佩びていた。振り返ってみれば、前回も僕は二人組、という情報を忘れていて、カミタニさんの手を借りる事となったのだ。反省と同時に、徐々に僕は自分の今までの行動に羞恥心が沸いてきた。
 僕の言動にタチバナさんは笑いを堪えていたのだろう。アミサキさんも同様で、僕の発言に噴出しそうになっていたのだろう。
 そう考えた瞬間、僕は自分の愚かさに笑いたくなった。なんて痛々しいのだろうか、と僕は顔中を紅潮が覆った。自分は自惚れていたのだ。やっと気づいたか、と僕を揶揄するようにタチバナさんの言葉が脳裏に浮んだ。続いてその言葉に重ねるように、カミタニさんの発言も現れた。
 体がずきずきと痛んだ。まるで足を一歩のせる度に軋む階段のようだった。体を縛るその痛みは、湖に広がる波紋のように脳に伸び、キャリーケースに無理矢理詰め込む服のように叩きつける僕の羞恥心を和らいだ。痛みの方にも神経を分けたのだ。僕はさらなる痛みを求めた。自分の体に傷をつけ、再び逃げることを試みたのだ。
 折りたたみナイフを取り出し、刃を開いた。刃部分を自分の手首に這わせ、歯を食い縛った。躊躇いはまるでなかった。銀色の鋭い刃は僕の皮膚をぷちぷちと音を立てて毛を逆立てるように皮膚を引っ張った。冷えた異物が皮膚を破き、そこに氷水を流し込むように僕の手は痛みを佩びた。それが僕には爽快に思えた。自分でも愚かだと思う。しかし止める事ができなかった。
 ひぃひぃと僕は不気味な声を歯の隙から洩らしていた。ここで死んでしまえばどうだろう? そんな案が浮んだ。所詮僕は逃げることしかできないのだ。最後まで逃げる事だけで生涯に終焉を迎えるのだ。実に、くだらない。僕は太宰治の『人間失格』を思い出した。それを読んだのは中学を迎えた頃だったと思う。当時の僕は主人公の言動にも何一つ共感できず、さらに言えば苛立ちを覚えていた。何故自分を滑稽だと決め付けるのだ? 何故自殺なんてしようと思うのだ? ただの自己憐憫なだけだ。滑稽になりたいのなら笑ってやるよ、と当時の僕は文章を眺めながら憫笑をしていた記憶があった。
 その過去の僕に、現在の僕は笑っていた。下品な言葉で大笑いする低学年生のようにくだらないのだ。腹を抱えて笑った。笑い声を口元から発しながら、僕の肌は強張っていった。ナイフの刃が僕の腹部を据えているのだ。指に力を込め、ナイフを強く握った。
――馬鹿みたいだな。と誰かが言った。その声の主が僕だという事に気づいたのはすぐだった。――お前ほど滑稽なやつもいないよ。
 僕は口角を上げて肯いた。
「全くだ。僕ほど痛々しいやつもいないな」
 僕は暗闇の中にいた。そこは一切の光の存在も認めず、垂れ幕を何枚にも重ねたような厚い闇だった。出口がなく、一面壁に囲まれている。天井も影を被ったような深い闇が覆っており、自分が今どの方向に向いているのかも見当がつかなかった。手を上げても、感覚があるというだけでそれが実在するものかはわからなかった。首を上に曲げても、光の線すら許さない暗闇だった。僕は本当に上を向いているのだろうか? まるでわからない。その前に天井や壁があるのか? わからない。この空間は延々とそこはかとなく広がっているのではないか、と僕は思った。
 ――開き直りとはかっこ悪いな。と僕の声と共に、視界の前に現れたのは自分だった。暗闇の中で淡い光を身にまとっているように姿はありありと僕の瞳に映った。細部まで明晰に描かれ、しかしどこか儚げが窺えた。それはまるで遠い彼方から現れた幻のようだった。
「かっこ悪いさ」と僕は言った。「今までもそうだったはずだ」
――お前は迷惑をかけすぎた。と幻の僕が言った。その言葉は雹のように僕の肌を叩き、凍えだけをべったりと肌に残して溶けた。
「そうだ」
――反省の気持から、自分を殺すのか? と、彼は訊いた。
 僕は肯いた。
――それは傑作だな。と、彼はひとしきり笑った。雄叫びのように声を張り上げた。
 ――でもな。と、幻覚の僕は笑いを止めて言葉を続けた。――それはお前、都合が良すぎるぞ。
 いいじゃないか、と僕は苦笑した。「これから先も迷惑をかけるだけだし、どうせ黒歴史となって僕を苦しめるさ」自分の首を絞め続けるだけなのだ。タチバナさんはそう僕に言ったのだ。
――やれやれ。と彼は首を振った。――ほんとお前は腹の立つ奴だな。まるで屑だ。
「わかっている」と僕は肯いた。
――それと俺は茶番が嫌いだ。傍から見れば俺とお前の会話なんて茶番でしかない。
「そうだな」僕は苦笑した。
――せめてもの罪滅ぼしはどうだ? と彼が僕に訊ねた。
「その罪滅ぼしは悲惨な結果を招くかもしれない」
――逆だ。と彼は言った。彼は僕の顔を見据え、今の僕の発言を噛み締めるように咀嚼した。――そうじゃない。
「じゃあ何さ」
 そう僕は訊ね、こう彼は言った。

――その罪滅ぼしは、お前の活躍で報われる結果を招く。お前は「時間を止められる」からな。
 

十七話

 品の良い穏やかなパーティーの裏で、辺りは騒然としていた。それぞれの出入り口を護衛していたクロカワやアミサキ達はカミタニさんからの報告を受け、すぐに行動に移った。それは気配を感じてほとばしるように飛び散らかる敏感な鳥の群れのようだった。
 アミサキは拳銃を手に持ち、自分が見張っていた門からホールに潜入しようとした。空気に肌を合わせるように身の気配を薄め、壁をすり抜けるようなイメージで扉をゆっくりと押した。無駄な行動はしない、とアミサキは肝に銘じていた。アミサキは仕事でミスを犯す可能性が低いことが取り柄だった。アミサキは油断という事が嫌いなのだ。常に身を緊張に包ませ、些細な事にも注意をめぐらせていた。それは自分の特別に気づいた時からだった。


 それはアミサキが小学五年生の時にまで遡る。その日はミステリードラマの冒頭で人が殺害されるシーンにでてくるような豪雨だった。アミサキは友人達と机を囲むようにして止め処ない会話をしていた。それは昨日入ったテレビの内容であったり、男性アイドルグループのメンバーだったり、行為を抱く異性だったり、様々な事だ。毎回のように同じ事しか話題にならないことにアミサキは、悠々と空に浮ぶ雲のように退屈していた。
 アミサキは皆が笑い声を上げるところだけ便乗して笑みを浮べ、新たな話題に移り変わったらまた相槌だけを打っていた。雑談の内容などアミサキには何を話しているかもわからない。アミサキは意味のない文章をただ読むように、友人の声を耳に溜めていた。適当に肯きをし、たまにいささかの笑みを浮かべる繰り返しだった。
 話の話題が一度滞った時だった。そこまで容姿の優れていない女子が、まるで教師にでもなったように恋愛について語っているときだった。アミサキはその話に共感など微塵と感じられなかったが、適当に肯きだけしていた。他の友人達もトランプのキングのようなつまらない顔をしながら、話を聞いていた。正確にいえば聞く仕草をしていた。
 彼女の話が退屈で仕方なくなり、億劫になったのでアミサキは後ろに首を曲げた。視界の先には一人で消しゴムを触っているトオルという少年がいた。トオルはまるで窓から雨の景色を眺めている暇そうな顔で、ひたすら消しゴムを弄んでいた。アミサキにはその行為の何が楽しいのだろうか? と脳裏で首を傾けた。よくわからない。すぐに視界を元に戻した。
 特に優れた部分があるわけでもない彼女が懇々と恋愛を語っているのを眺めていると、退屈どころか苛立ちまで湧いてくるようだったので、アミサキはもう一度トオルの方にへと首を向けた。彼女の雄弁に語っている声は、遠い向こうから響いてくる余韻のように思えた。脳の奥で雑音のように、ひたすらなり続けているのだ。
 特に好意を抱いているわけでも何でもないのだが、アミサキにはその姿のほうが余程面白みがあると思えた。トオルの指にからかわれている消しゴムは、されるがままにされて喜んでいる風にも見えた。それは私の特殊なフェチシズムかなにかが反応したのかもしれない、とアミサキは自分に呆れた。小五にして自分の性癖についてなど論じたくないものだ。
 アミサキは昆虫の交尾を観察でもするかのように、その消しゴムに視線を向けていた。トオルは片手でその消しゴムを弓矢のように曲げたりと、いろいろな事を試みていた。すこし力の加減を誤れば勢いよく割れてしまうのではないかと思えるほどだった。
 アミサキはあの消しゴムが割れる事を望んだ。それはトオルの反応というものが見たかったわけではなく、消しゴムが割れる瞬間を目で留めておきたかったのだ。アミサキは自分のその望みの理由がわからなかった。なぜ目に留めたいのだろう。不思議に思えたが、興味は覚えなかった。それはまるでお湯から上がる湯気のように、淡いものだ。脳裏の中で「割れろ」とアミサキは呟いた。
 その瞬間、アミサキは自分の眼を疑った。そして、自分の意識を訝った。
 長方形の形が、奇麗に四角になった。大きさを失い、人間で例えれば上半身から上が一瞬で消えたのだ。アミサキは自分の目が真実を映しているのかわからなくなり、目を擦りたくなった。しかしその前にアミサキは反射的に友人の輪のほうにへと体勢を戻していた。気がつくと先程まで恋愛を論じていた女子は消えていた。話題は部屋を移動したかのようにきっぱりと変更しており、それは先程まで恋を語っていた女子の愚痴になっていた。


 その日、アミサキは自分の部屋で昼間の事を考えていた。まるで自分の命令を承知したように、消しゴムは腹部の中心から勢い良く折れたのだ。アミサキは便宜的に考慮した。俯瞰になったつもりで考えてみると、自分は悪くないはずなのだ。しかし、あの現象は私の意志で起きたことではないか? とアミサキはこめかみを掻きながら自分の筆箱を取り出し、消しゴムを取り出した。世界中の青を集め、その中から一番王道な青をチョイスしたような、辺りを見渡せば必ずどこかにはある青の色をしたプラスティックのケースを被った、消しゴムだった。アミサキは青色がなぜか気に入っていた。色分けで選べるものがあればそれは必ず青色だし、関係があるかはわからないが空というものを見続けているのも好きだった。趣味といってもいいほどだ。アミサキはこれまでに様々な空模様を見てきた。アミサキは空にそこはかとなく浪漫というものを感じているのだ。
 アミサキは消しゴムのケースを外し、自分の勉強机に消しゴムをまるでサラダにミニトマトを添えるように、何も置いておらず扁平が広がっている虚無な板に立てて置いた。
 アミサキは自分の消しゴムをまじまじと見つめた。消しゴムに変哲は訪れないまま、二分ほどが経った。時計の針が一定の間隔で律動を奏でている音だけが部屋内に響いた。アミサキは中央に置いた消しゴムの輪郭、色合い――といっても白一色なのだが――そして消しゴムの面の中心辺り、とそこを長く見据えた。
 「割れろ」と脳裏で呟いた声と共に、その消しゴムは見据えていた中心点から線を引くように真っ二つとなった。まるで豆腐を包丁で切ったように軽やかなものだった。中心線から上の面が、宙をいささか舞って倒れた。アミサキは必死に弁解を脳裏に作った。偶然、ということはありえない。じゃあどうすればいい? アミサキは弁解を一度諦め、その夜は暫定的な結論で終えた。一度眠った方がいい、とアミサキは自分の部屋に篭るように視界を闇で閉ざした。
 次の日、トオルは消しゴムを割ったことでいじめの的になっていた。アミサキはその日から、陰で罪悪感が身に浸透していった。友人達の会話でもトオルは話題となった。アミサキは久々に、その友人達の会話を真剣に耳を傾けていた。意見は当然のように様々だった。「消しゴム割っただけでやりすぎ」という味方的意見を言うものもいれば、「なぜ消しゴム割るようなことをして謝りもしない」と反対の事を吐く女子もいた。アミサキはそのどちらの意見とも不快に思ったが、同時にどちらともに同感できた。
 アミサキは「どっちも悪いところはあるよね」と都合の良いことだけを一丁前に言い、まるで他人事のように笑みを浮かべた。人間というものは、自分に害があると思うとすぐに便宜的に考慮してしまうものなのだ。
 何をされようが謝らないことが原因で、トオルのいじめは酷くなっていった。アミサキはそのいじめが酷くなりにつれ、罪悪感も重く深いものにへと成長していった。しかしトオルは謝罪のひとつも言わないものだから、アミサキは「なんで?」としか思えなかった。アミサキはトオルの考えている事が、毛頭と理解できなかった。
 それからもアミサキは自分の机に消しゴムを置き、何度か現象を確かめてみた。あれはポルターガイスト的な何らかの現象だと、無理のある口実をしていたが、アミサキは自分の起こせる現象を認めざる終えないと思い始めていた。まるで禁煙者が暇さえあれば煙草を咥えるように、アミサキの消しゴムは消化が早くなっていった。
 結局、トオルには謝罪できずに小学校生活を終えた。消化不良に似た、とてもやるせないものだった。


 それからのアミサキは、すべてのことに緊張を忘れないようにしていた。睡眠中以外の迂闊さと油断は忘却の彼方に消し飛ばし、すべての事に意識を払った。アミサキはジャケットのポケットに忍ばせている拳銃の持ち手を掴み、高級な革製のバッグのように神経を強張らせた。しんと静まった路地裏のように、敏感な意識に切り替えた。
 アミサキはゆっくりと扉を開けた。僅かな隙間から忍ぶように身をホール内に淹れようと右足を踏み入れた瞬間、自分の登場を待っていたかのような身長の高い男の姿がうっすらと見えた。その気配の方へ視線を向けようとした瞬間、男のグローブをはめているように広い手の平が視界の前に襲った。何事だ、とアミサキは瞬時に対応できずそう脳に浮んだだけだった。何がこの数秒で起きたのか、アミサキには見当もつかなかった。

  

十八話

 会場内は蒸れた空気で充ちていた。品のいい声が飛び舞い、前にあるステージ台にはヤイバ社長がワインの注がれたグラスを持って客たちを見下ろしていた。カミタニさんはステージの端側にオセロの角を収めるようにいた。カーテンが作り上げた影に半身が浸かっており、どこか不気味だった。
 僕は結局、死ぬ事はできなかった。幻となって現れた僕が消えた後も、その僕は余韻となって僕にまとわりついているようだった。ナイフを握り、刃を腹部に添えると、鋭利に尖った矢先は僕に恐怖感を煽いだ。冷や汗がグラスに張り付いた水滴のように垂れ流れ、僕は小刻みに震える手からナイフを離して躊躇した。死ぬ事もできないのだ。自分を匿っていたはずの逃げ道すらも、僕を見捨てたように思えた。いや、多分そうなのだろう、と僕は思った。
 ここまで自分に呆れると清々しさすらも感じた。僕は逸材でもなんでもないのだ。たまたまであり、偶然なだけだ。誰かが気まぐれで飛ばした紙飛行機がたまたま僕の足元に落ちたみたいなものなのだ。そう考えると僕は紅潮を覚えた。男に勝利したのも、この超能力に目覚めたのも、すべて偶然がお互いに糸を引っ張って繋がっただけなのだ。
 分厚く墨を含んだような雲が光を遮るように、僕の心は陰鬱となっていた。罪悪感が僕の足元から煽いでいた。足が地に埋もれた石のように、硬く重みを佩びていくのがわかった。一刻もはやく男を見つけ出さなくてはならない。僕は首を像の鼻のように忙しなく曲げ、室内を見渡した。しかし、それらしい男は微塵とわからなかった。僕はその男の体格や特徴などを教えてもらっていないのだ。何一つとして情報を知らない僕たちに、男を捜せという方が無理があると思えた。
 室内は暖房が効きすぎているのか、川の淀みのように乾いた空気が溜まっていた。僕は、自分の頬が熱を伝わるのがわかった。多分僕の顔は今、風邪で寝込んでいる子供のように頬を桃色に染めているだろう。僕はコートを脱いだ。コートのポケットからナイフだけ取り出し、それをコーデュロイパンツのポケットにつっ込んだ。コートを壁の端側に投げ、僕は辺りを捜索するために足を前へと出した。
 男の姿は見当たらなかった。正確にいえば、わからなかった。怪しい気配を放つ男はいないか、と意識に加えるとパーティー会場にいる客は皆が怪しく何か企んでいるようにも思えた。とりあえず僕はヤイバ社長の周辺を注意していた。男はこの大勢の人の中で、どうヤイバ社長を殺害するつもりなのだろうか。
 間違いなく怪しい男を見つけた、と僕の中で確信したのはそれからすぐだった。深緑色のコートをフードも深く被っており、森林の木のように大きい。熊のような体格のその男は――僕はその男がクロカワさんだと気づいた。ややこしいものだ。「おい」とクロカワさんは僕を見据えたまま言った。見据えているのかはわからなかった。一部だけいち早い夜を迎えてしまったような影が、目元を覆っていてわからないのだ。「侵入したという男は見つかったか?」
「わかりません」と僕は言った。「特徴も何も知らないものを探せなんて、逆立ちで生活するより難しいです」
「俺にはお前のそれがわからない」とクロカワさんは言った。全くだ。僕も自分で言っていて途中でわからなくなった。
 「とりあえずだ」とクロカワさんは僕との幅を詰めた。僕の目の前に壁が立ち塞がったように、僕は薄暗い影に覆われた。クロカワさんは声の音量を落し、小声に近い声で「俺には見当のつく奴が一人いる」と囁いた。僕は「本当ですか?」と同じように小声で訊ねた。人間というのはその流れに呑まれる生き物なのだ。
「あいつだ」とクロカワさんは僕が護衛していた門の近くの壁に寄りかかっている男を指差した。男は身長が高く、輪郭を挟むように長い黒髪が薄い壁を作っていた。その髪に僕は不潔な印象を覚えた。クロカワさんはあの男を見据えながら「奴に違いない」と自信を裸子植物のように露にした声で言っていた。
「ですけれど………」と僕は口を挟んだ。まだ何も証拠もないのに、決め付けるのはどうだろうか、と僕は思ったのだ。「まだ決定的な証拠もわかりませんし――」
「いや、奴だ」とクロカワさんは僕の反対意見を言う余地も与えずに言った。「俺の勘は矢のように鋭い」
「仮にそうだったとしても、奴はどんな超能力を持っているかわかりませんよ?」
「そんなもの気にしていたらきりがない」とクロカワさんは言った。僕のたしなみなど、受け付けないそうだ。
 僕はクロカワさんの見当を渋々暫定し、男に注目した。確かに怪しさが窺えた。しかし、それは僕が意識を鎧のようにまとったからかもしれない。いや、そちらの方が可能性は大きいのだ。僕は実にわかりやすく、阿呆な人間なのだ。けれども、クロカワさんの声質には明確とした自信がありありと篭められていた。
 僕はもう一度男に目をやった。男はまるで喫煙所で煙草の煙を宙に散らしているように、背を壁に掛けてゆったりとしていた。ワインが入ったグラスも持っておらず、栗色のコートに両手を挿入して退屈しているようだった。僕はいまいち信じれなかった。クロカワさんの勘は矢のように鋭いのかはわからないが、勘だけで決め付けているのは本当なのだ。「あの」僕はもう一度クロカワさんに口を開いた。「最初は確認から――」
 隣にいたはずのクロカワさんの姿は、その漠然とした空気だけを残して消えていた。まさか、と僕は首を男の方へ戻した。「やれやれ」と僕は息を洩らした。そして下に俯いて、首を左右に何度か振った。「遅かったか」その勘が正解していたかはわからないけれども、クロカワさんは男と対峙していた。僕もその場へ近づこうと足を前に出す――やれやれ――僕はもう一度呟いた。
 しかし、それが正解だったという事に僕は理解できた。クロカワさんの勘は確かに矢のように鋭かった。リュウグウノツカイのように細身で身長の高い男は、隠す事もせずに拳銃を手に持っていたのだ。姿を空気に晒していた。
 「やれやれ」僕はもう一度、息を吐いた。それは自分の犯したミスは大きく広がらずに済んだ、という安堵感からだった。


 クロカワさんは拳銃にさえ、一切の動じも見せずに冷静沈着とした眼差しを男に向けていた。そこには虎の威嚇のような迫力があった。男の身長が高いとはいえ、クロカワさんと比べるとさほどでもないように思えた。いや、クロカワさんが異様なほどに大きいのだ。すぐにないない、と僕は首を振った。男は拳銃をクロカワさんに突き出し、引き金に指を回していた。クロカワさんはまるでそれをバナナか何かかと勘違いしているように、いけしゃあしゃあとしている。その余裕な表情に僕は先程の自分と反応を比べたくなった。
 ペーティー会場の騒がしさは、遠く余韻のように聴こえた。その遠い方から聴こえてくる幻のような雑音が、さらに二人の間の沈黙を逼迫とさせていた。クロカワさんと男との間は、まるでその空間を切り取って別の空間と交換させたように静まっていた。その鎮静は僕の喉を絞め上げ、息苦しさを配っていた。僕はそれを余計に貰い過ぎているのだ。
 クロカワさんはまるで一瞬だった。隙を狙ったかのように男の持っていた拳銃の横腹を左手の甲で叩いて拳銃を飛ばし、そのまま身を詰め寄って足を男の左足に絡めて右手の拳で腹を強く重みをぶつけた。男が唾を吐きながらうろたえ、足を絡め取られて地面に荒く叩きつけられた。そのままクロカワさんが男に馬乗りになり、指を真っ直ぐのばした腕を横にスウィングし、男の首を叩いて崩した。
 男は一瞬の技術で、気絶まで運ばれた。僕は呆然としていた。口は間抜けに開いていたと思う。その手際に、唖然としたまま唾だけが口元に溜まっていった。それは湖に波紋が描かれ、それが再び落ち着きを戻して扁平な水面に戻るまでの時間よりも早いのだ。
 クロカワさんは拳銃を辺りに気づかれないように拾い、そっとコートの中に隠した。上品なカーペットの敷かれた上に伸びている男を壁の隅に運ぼうとした時、タチバナさんからの連絡がきた。耳に付いていたイヤホンマイクから、ごそごそと耳掻き棒を入れられているような雑音が流れ始めたのだ。
『男二人組の超能力の詳細がわかりました』とタチバナさんは言った。
 僕とクロカワさんは作業を止め、タチバナさんの声に耳を澄ませた。
「もう終わった事ですがね」と僕は苦笑しながら言った。クロカワさんは溝を打ったかのような顔のままだった。
『一人は「瞬間移動」のようなものです』とタチバナさんは文章を読みながら声に出しているような丁寧な口調で大雑把な表現で説明しだした。今気絶させた男の超能力が早く知りたかった。
「おい、ちょっと待て。今気絶させた男がいないぞ!」そこでクロカワさんはふと気づいたような声を張り上げた。「え?」僕も思わず首を曲げた。
『もう一人が「あらゆるものを増やす」というものらしいです』
 そのタチバナさんの言葉で、僕はあらゆる事を脳にめぐらせた。「超能力のあらゆる可能性を推測しろ」と、男の言っていた事を思い出す。僕は雨降りの一粒一粒を確認するかのように細かく、繊細にあらゆる可能性を脳裏で推測させた。まさか、と僕はふと思い当たった事に、恐怖を抱いた。
『――それと』とタチバナさんが言った。それはどこか焦りを覚えていた。
 上品な喧騒も、胸を詰まらせる静寂をも弾き飛ばすような巨大な咆哮が会場内に響いた。僕は咄嗟にカミタニさんの方にへと視線をやる。グラスからワインが零れ、宙を舞っていた。僕は目を見張った。クロカワさんも素早く行動に移った。僕も後を追うように、会場を走る。
 違った。
 あれはワインではない。血だ。それはヤイバ社長が撃たれたのではなかった。それはすぐにわかった。僕は地面を強く蹴った。撃たれたのはカミタニさんだった。
『男二人の目的は、カミタニさんです!』
 ほんの僅か、遅い情報だった。僕は脳内にスイッチを浮かべた。「まだだ!」と男の大声がした。クロカワさんだ。クロカワさんと僕はステージ台の方にへと全力で駆けていた。「まだ能力を使うな!」
 そしてもう一度――あの巨大な咆哮は僕の耳元を襲った。姿が見えた。アミサキさんだった。

  

十九話

 これらの事態を作り上げた原因は、全てが僕のせいだ。僕はできれば瞑想に浸りたかった。一度整理したくてたまらなかったのだ。しかし、自体は逼迫としすぎていた。扉に寄りかかりながら、疲労を溜め込んだような顔をしているアミサキさんがいた。そこで僕は気づいた。――アミサキさんが今、男の拳銃を割った。だから銃弾の狙いが狂い、カミタニさんの肩に当ったのだ。本来なら、もう死んでいたかもしれないのだ。
 そして二発目の咆哮の行く先は、アミサキさんの脇腹だった。銃弾が脇腹を貫き、アミサキさんが前へと体勢が屈む。その背後から、もう一人の男が姿を現した――僕は男の超能力の可能性で、「自分の体も増やせる」という推測に至っていたのだ――「偽者」の男は銃口を僕たちの方へと向け、定めを調整していた。
 このままじゃまずい、と僕は焦りの汗を額に滲ませていた。パーティー会場は、思った以上に広かった。カミタニさんたちの一番近い席にいる「本物」の男は割れた拳銃を捨てて、ポケットからどこからとなく新たな拳銃の姿を現していた。
 まだだ。まだ超能力は発動するべきではない。僕はとにかく駆けた。パーティー会場にいた客たちは僕たちと反対方向に走り、悲鳴をまるで設定されていた機械のように上げていた。前だけを見据え、僕はその悲鳴を気に留めないでただただ必死に駆けた。クロカワさんも、同じように走っていた。
 僕のせいだ。何度も僕は自分を責めた。そうすればそうするほど僕の足は速度を増している風に思えた。地面に爪先を叩きつけ、頬に風が切るのがわかった。まだだ。まだ時間を止めるべきではないのだ。僕はいま、必要なのだ。幻の僕は、そう言っていたのだ。
 男は拳銃の銃口を再びカミタニさんに捉えていた。カミタニさんは肩を押えて疼いており、呻き声を洩らしていた。僕は勢いよく駆けている。クロカワさんも同じだ。そこはかとなく、室内に篭っている空気は強張っているふうに思えた。しかし、気づいたところでそんなもの、確認する余地など雫一滴ほどもないのだ。
 ヤイバ社長は、カミタニさんを気にしながら恐怖に溺れていた。男の構えた銃口はそんなヤイバ社長のことなど一切の考慮もしておらず、ただカミタニさんを睨んでいた。男は狙いが定まったらしく、人差し指を曲げて引き金に設置していた。まずい、だが、まだだ。僕はクロカワさんの方へ幾度か視線を送り、「偽者」の男に警戒を配った。「まだ使うんじゃないぞ!」とクロカワさんが走りながら叫んだ。僕は何も返さずにただ地面を蹴った。
 男との距離は、あと僅かだった。しかし、だからといって時を止めたとしても発砲を阻止することはできないという中途半端な距離だ。背後を見れば「偽者」の男が僕たちを狙い、前を見据えれば「本物」の男がカミタニさんを捉えていた。
 駄目かもしれない、と僕は思った。意味がないのを承知の上で、僕は超能力を発動させようと試みた。「まだだ!」という大声と共に、クロカワさんは立ち止まって客がいたテーブルに置いてあるフォークを掴んで、男に投げつけた。それは野球選手のように見事な素振りだったが、そのフォークに何ができるのかと諦めが可能性の大半を占めていた。――違う。僕はタチバナさんに教えてもらった、クロカワさんの超能力を思い出した。あれはとても大雑把で曖昧な説明ではあったが、確か「投げたものは何かに当るまで飛び続ける」というものだったはずだ。僕は曖昧な記憶を引っ張り出し、それを何度も反芻した。
 クロカワさんの投げたフォークは速度が落ちる気配すら滲ませず、一直線に男の肩へと赴いた。僕は立ち止まることなく、走りを続けていた。そのフォークの槍をみて、希望が差し込んだ気がした。
 フォークは男の肩に突き刺さり、突然の違和感に男は拳銃を手から滑らせた。クロカワさんはそれを一瞥してにやりと笑い、「後は任せた」といわんばかりに「偽者」の男が発砲した銃弾に身を捧げた。耳を突き破るような銃声を僕は堪え、歯茎すらも向き出しで前へと駆けた。
 男は肩からフォークを引き抜き、それを乱暴に投げて落した拳銃をすぐに構えた。カミタニさんの方へと腕を振り、銃口がカミタニさんを睨みつけた。今だ! と僕は声に出して言った。右手を前に突き出しながら、スイッチを強く押した。


 僕は男に追いつき、すぐに右足を振った。男の首筋を強く蹴りつけ、男は首を不自然に屈していた。さらに僕は足を踏ん張り、男の拳銃を奪い取ろうと試みた。既に「二秒」時間は経過していた。三秒も持たないのか、と僕は自分の弱さを恨んだ。男の肩からすりこむように手を伸ばし、銃弾の頭部だけがすこし姿を現している銃口に右手の平で壁を作った。そして強く目を瞑り、歯を食い縛った。
 電灯に明りが点くように、時間は再び動き出した。
 突然首が捻り、男は目を泳がせながら身がよろめいた。しかし、銃口から放った銃弾は空間を射て、僕の右手の平を突き破った。力任せに鉄の細長い棒を貫通させたれたような痛みが一瞬で右手を覆った。僕は噛み締めた悲鳴を唾をほとばしながら呻き、地面に身を預けて転がった。けれども、発砲を僕は阻止できたのだ。
 男は気絶してくれている事を僕は祈った。僕は右手を左手で押さえながら、歯を食い縛ってのたうちまわっていた。右手からは出血が止め処なく放出しており、口内は堪らなく苦かった。鼻の穴をこれでもかと拡張させ、身を蹂躙する痛みを必死に堪えた。鼻息が荒くなり、唾液が口の中を浸食していった。
 あの時、男が言っていた「蹴りが伸びきっていないし、力も出し切れていない」という言葉は、今になって僕を苦しめた。僕の蹴りは、男を気絶させるには足りなかったのだ。朦朧とした顔つきで男は立ち上がり、拳銃を拾った。気持ちよく陶酔している中年男性のように身をふらつかせ、不安定な足を踏み締めていた――もう駄目だ、と僕は諦めを覚えた。体に浸食する巨大な痛みに溺れ、僕は目を見開くことしかできなかった。天井を豪華に――まるでウエディングケーキのデコレーションのように盛り付いて――彩っている電飾がもの凄く眩しく思えた。強い輝きは瞼をすり抜け、視界を橙色に染めた。煙が身を包むような眠気が、脳に浸透してきた。血液が枯渇し、渇きを訴えているようだった。
 男は拳銃を構えた。銃口をカミタニさんに突き出し、引き金に指を回した。僕は目を閉じた。視界を遮り、闇の海に飛び込んだのだ。光を一切許可しない真底まで潜り、鼓膜を叩き割るような咆哮にびくびくと怯えながら待った。
 ――しかし、銃声はいつまで経過しても発しないようだった。硝煙がまだ銃口をくすぐっている拳銃は、もう一生銃弾を放つ事はないと思えたのだ。何故かはわからない。けれども何故かそう思えた。辺りはきりきりとした緊張を漂わせながら、沈黙がまるでビニールラップを何枚も引くかのようにしんと静まっていた。音という概念は、とっくに忘却の彼方に飛ばされたようだった。その場には行く先に迷った緊張だけが虚空に彷徨っていた。
 僕は身を閉じ込めていた闇を剥し、目をうっすらと開いた。靄を蓄え、ぼんやりとしている視界には、まるで閉館した映画館の室内のような空しさが強く漂っていた。何がおきたのだ? その場には、よろめいていた男の姿がなかったのだ。
 再び幻影を見ているのではないか、と僕は疑った。男の存在はまるでどこかに「飛ばされた」ように消えていたのだ。瞼を何度か擦り、静寂に僕は浸かっていった。それはなぜ消えたのか、僕にはまるで見当がつかなかった。その前に僕は、相当な疲労を釈放していたのだ。なぜ男が消えたのか、考える気力も湧かなかった。そして僕は再び闇に沈んだ。
 何とももどかしい終り方だった。右手の痛みは眠気に包まり、和らいでいった。意識が砂のように麻痺していき、疲れが穴という穴から無防備に解放していくような感覚だった。実に眠い。そう思ったときには、すでに僕は眠りについていた。

二十話

 結局、あの事件は「成功」という結果で幕を閉じた。二人いたはずの――クロカワさんが気絶させたのを含めると三人だが――男は、どれだけ探索しても見つかることはなかった。僕もいろいろ考えをめぐらせてはみたのだが、まるでわからなかった。見当つくことといえば、あの会場にはまだ僕が把握していない超能力者がいたかもしれない――という事だ。しかし、わからない。
 カミタニさんは肩を負傷したものの、僕の右手と比べれば軽症の方だったらしい。僕は安堵した。銃弾が貫通した僕の右手は、未だに麻痺に近かい状態だった。いや、いつかは治るとは言われたが、まるで骨と肉以外の中身はすべて捥ぎ取られたような感覚だった。包帯がぐるぐると巻かれており、指を曲げようと試みるとずきずきと痛んだ。
 それからの僕は、謝罪の日々だった。それは自分自身の存在意味すべてを関しての謝罪だった。僕は自分の「存在意義」に対して、考えをめぐらせてみた。考えたところで、どうせ他愛もない事なのだ。その度に自分に憎悪を覚えるので、僕はそれに対して考えるのをやめた。そのまま僕は、過去の自分の失態を振り返ることも憚った。巨大な羞恥心が襲うのだ。そしてこれからは、自分に自信の持てる「存在意義」に変えていこうと、決意めいたものを僕はした。それも、他愛のないことなのだろうと思う。


 仕事をしようにも右手が痛くてできない――その前に仕事依頼が来ないけれども――僕は毎晩のように、男の消えた現象について考えていた。結局「わからない」で完結してしまうのだが、僕には諦めがたい何かがあった。その現象の答えを見つけたとしても、僕には意味がないことだ。けれども、自分でもわからない何かが騒いでいたのだ。
 クロカワさんとアミサキさんも、とても仕事ができるという体ではなかった。アミサキさんは脇腹を撃たれ、クロカワさんは太股だった。しかし、意味もなく事務所に毎日来ているのだ――そのことを知っている僕も来ている――理由も訊ねてはみたが、特に意味はないらしい。それは僕もだった。事務所の中は、小学生が道徳の授業で決まって言う「平和」そのものだった。実に平凡な空気が止め処なく流れていた。カミタニさんは眼鏡を拭っており、タチバナさんは文庫本を読んでいた。アミサキさんは携帯を見つめ、クロカワさんは多分、寝ているのだろう――事務所に入ってもクロカワさんはコートを脱がないのだ。フードすらも取らない――そんな僕も、ただただ座椅子に腰を沈ませて天井を眺めたり、辺りを見渡したりしているだけだった。おもにタチバナさんの魅力に惹かれているだけだ。
 僕の気のせいなのかもしれないが、最近はよくアミサキさんと目が合う。それから僕はアミサキさんのことを考えてみた。あまり実感というものが湧かないが、一応同級生という関係があるのだ。しかし、僕にはそう思えなかった。先輩に思えてくるのだ。次に僕はなぜアミサキさんが先輩に見えるのかについて、思索してみた。
 僕はアミサキさんに目をやった。やはり先輩のようなイメージが湧いた。アミサキさんは携帯越しに僕の視線に気づいたらしく、顔を覗かせた。見たこともない文字を見たような、きょとんとした表情をしていた。僕は一度顎を引き、逃げるように窓を見た。
 空は洗いたてのシャツのように、清潔で清澄な水色をしていた。そこに複雑な形を作った雲が一部空を覆っていた。その雲はまるで龍のような、非現実なものを連想させた。丸くして掬ったおびただしい数のアイスクリームを淡々と積んでいったように盛り上がった雲は、虚空な広原な空に突如として現れた神殿のようにも思えた。
 その雲に見捨てられた切れ端の雲は、千切れた綿菓子のように淡く空間に呑まれていきそうな儚さを感じさせた。その雲はまるでクラゲに見えた。空を軽々しく泳いでおり、身を委ねるように細かく分散していって消えた。
 僕は腰を持ち上げ、窓の方へと向かった。空をもっと見ていたくなったのだ。窓越しから、空の景色が視界に広がった。雲は様々な形を作り、その空はまるで海のようだった。腹部に林檎のような丸みを佩びたものや、大雑把で適当に描いたハイヒールのような形のものもあった。そんなものが広々とこの広原に浮んでいるのに、どれも形が異なると思うと、とても不思議な気分になった。
 雲という存在だけを切り取り、意識を注いで見ると、実に不思議だった。なぜこんなものが浮いているのだろう? という答えは知りたくない浪漫のようなものを感じた。まるで神秘そのものを目に映しているような、僕はあの空と一体化になっていくような感覚だった。心が弾むような、僕はすこし興奮していた。日常で見られる景色なのに、もう二度と見られないものに思えたのだ。
 僕は嫌々ながら、自分の過去の行為を甦らしてみた。僕は自分に期待しすぎたのだと思う。「時間を追加できる」という概念を開花させ、おまけのように優越感が伴侶した。その優越感はまるで麻薬のようなものだった。僕はさらなる優越感を求めてしまったのだ。
 この業界に入り、僕は様々な人間と出会った。その人たちも僕と同じ「特別」を抱いており、そして僕よりも強かったものばかりだった。その特別は「瞬間移動」や「物を増やす」などといろいろなものだったが、電卓で打ち込んだ計算のように正確なものとして、どれも僕の力よりも優れていたのだ。
 僕は先程の切り離された切れ端の雲のような人間だ。アミサキさんが先輩に思えてくるのは、自分の言動が幼いからなのだろう。空はどこまでも広く続いていた。雲を作り、光を浴びさせている。僕はもう一度自分の「存在意義」について考えをめぐらせてみた。この空を見ていると、全ての事に気づけそうな気がしたからだ。



「冬の訪れを感じるね」とカミタニさんはまるで役者のように気取ったことを言った。「今に雪が降るだろうね」
「そうですね」と僕は言い、肯いた。
 確かに事務所の外はまるで死体が息を吹いているように、冷えを佩びていた。僕はコートの中に手を挿入し、肌を冷気から守った。カミタニさんは白い吐息を宙に晒し、煙草を一本口に咥えた。マッチの箱をどこからか取り出し、火を灯して煙草に触れさせた。まるで荒い作業で作った合成のような煙が、カミタニさんの白い息と重なった。
 空は黒々とした黄昏が包み、冬の予兆のように冷え込んでいた。僕はカミタニさんを事務所の外に呼び出していた。そういえば以前もこんな風にカミタニさんを呼び出した事があった。あまり甦らしたくない記憶なので、僕は考えないことにした。
「それで、何の用だい?」とカミタニさんは煙草の煙を吐きながら訊ねた。「寒いし、早く済ましたいのだけれど」
「大丈夫です」と僕は言った。白い霧が口元から現れた。「早く終わるはずです。質問に答えてくれるなら」
「質問?」とカミタニさんは首を傾げた。
「事件の件は、申し訳ございませんでした」と僕は腰を曲げて言った。
「もう謝罪は何度も聞いたさ。さらに言えば、僕たちも悪いところはある」とカミタニさんは言った。「百パーセント、というものはこの世にないんだよ」
 僕は肯いた。
「ところで、質問はなんだったかな?」
「はい」僕は一度呼吸を整えた。べつに乱れているわけではないが、一度整理した。――大丈夫だ。僕の思索は間違っていない。「その事件のこと――なんですけれど」
 カミタニさんは質問のすべてを見透かしたように余裕な笑みを浮べ、「ああ」と肯いた。あれから僕は、いろいろと思索をしたのだ。雲を見つめながらあの謎を考えていると、カミタニさんの言っていた言葉がすこしずつ辻褄が合っていく事に気づいた。
 僕はカミタニさんの顔を見据えた。カミタニさんは笑みを浮かべていた。
「この前、「業界最強」と呼ばれていた超能力をカミタニさん、教えてくれましたよね?」
 カミタニさんは何も言わず、沈黙を顔に覆っていた。「それで僕、気づいたんです」僕はあの事件の状況を、脳裏に再生させていた。アミサキさんを撃ち、クロカワさんも食い止めたのに、なぜ僕だけは撃たれなかったのか? 飛ばされたからだ。朦朧になりながらも銃口を定めていた男は、なぜ発砲しなかったのか? 飛ばされたのだ。僕は疑問に思っていたことがあった。カミタニさんの超能力――のことだ。

「あの時――男が消えたのは、カミタニさんがやったからですよね」

 僕は訊ねた。カミタニさんは鎮静を被ったまま、一度苦笑した。     END

時よ止まれ――お前は美しい 後編

 僕が小学生の頃だ。僕は友人のシャープペンを損失してしまい、その友人と仲違いになった。それから僕はその友人とは「元友人」となった。それをなぜ今思い出したのかは僕はわからない。けれど思い出したのだ。僕はその原因について考えてみた。なぜそんな過去の記憶を思い出したのだろう? それは今通り過ぎていった男の姿がどこか僕に似ていたからだと思った。
 どこが似ているかははっきりとは言えないが、似ていると僕は印象を抱いたのだ。僕は頭部を一度掻いた。その後に、雨が上がっていることに気づいた。頭上に屋根を作っていた傘を萎ませ、僕は空を見た。不吉な雲が覆っていた天は、見事に真っ二つに割れていた。
 その雲の天井に入ったひびは、その隙間から久しく姿を現していなかった光を覗かせ、濡らしたアスファルトや、地面にできた凸や窪みに作った水溜りを鏡のように反射させていた。水面には、灰色の巨大な雲と僅かに覗く白い雲が映りこんだ。そして洗いたての青色を輝かせた、空の広原が映し出された。
 僕は雨を搾り出し終えた空に、目をやった。それは久々の青空だった。人間の憎悪や愚痴をすべて凝縮したような灰色の雲は徐々に姿を淡くしていき、光に呑みこまれていった。その雲が殻を脱いだように現れた白い雲は、まるで一晩で積った大雪のように白く純白としていた。
 そして美しく可憐な女性の瞳のように、奥の方にまで澄んだ潤いが続いている青い空は、僕には神秘そのものを目に映しているような感覚だった。僕は体の芯をぶるっと弾ませ、軽い興奮を覚えていた。実に不思議な景色だった。頭上にはもう一つ別の世界が存在するのだ、と言われても信じてしまいそうだった。
 気がつけば水で極度に薄めた淡い絵の具で線を重ねたような虹が、まるでその別の世界に繋がる門のように聳え立っていた。その虹は僕を歓迎しているように思えた。僕は先程通り過ぎた男と女のことについて考えてみた。当然のように、何も浮ばなかった。何の関わりもまるでないし――僕は関わりがある人ならすぐに思い出せるはずなのだ――気がかりすらも脳裏には浮ばなかった。
 しかし僕にはその男女がどうしても気になった。誰だろうか? そんなものわかるはずがないのだ。そして僕はこの身を包む謎の違和感のことにも、脳を働かせてみた。まるで空気を一度片付け、新しく新鮮そのものの空気を注入したような、肌が慣れない――まるで久々に着たタートルネックのように――違和感が身を覆っていた。
 しかしこの謎についても、僕にはわからなかった。まるで見当もつかない。傘にへばりついていた手強い雨粒は、屋根が萎んだことによって樹木の葉が耐え切れず頭に乗せていた雪を薙ぎ払うようにさばさばと垂れ落ちていった。傘の中央棒を何度かとんとんと地面を叩くと、その水はさらに数を増やして降り落ちた。
 僕は哲学者でもなければ、超能力者でもない。だが、どこかで僕は人を見下しているのかもしれないな、と僕は思った。なぜそんなことが浮んだのだろうか。僕は思索してみた。打ち出された答えは「何となく」だった。そこはかとなく、そんなものが浮んだのだ。
 なぜだろうか? 僕はもう一度考えてみた。しかし明確とした答えは頭すら姿を現さなかった。だから僕は「空を見上げているから」ということにした。漠然としすぎていたが、そんな曖昧なものでいいんじゃないだろうか? と僕は思ったのだ。その仲違いした友人の口癖は、「曖昧です」と急に余所余所しい口調でいうのが好きだった。
 僕はもう一度、頭部を掻いた。雨が上がった。僕はその小学生の時に仲違いした友人の元へ、向かおうと思った。その友人は今なにをしているのか、どこに住んでいるか、なんてことは僕はまるで知らなかった。けれどもなぜか会いたくなったのだ。
 僕はその友人と会いたくなった理由を考えてみようとしたが、億劫になったので中断した。結局、考えても答えは見つからないのだ。僕には先程の眼鏡を掛けた不気味な男も、通り過ぎていった男女の正体も、毛頭と見当もつかないのだ。それでいいじゃないか、と僕は思った。そして空を見た。
 気づいた時には、身を覆う違和感は爛れるように解けていた。空は変わらず神秘さを輝かせていた。気のせい――いや、多分そうなのだろうが――以前も僕は、このような空を眺めて感動したような気がした。
 考えることは億劫だから僕はやめた。             終

レゾンデートル

まとめて出させていただきました。 でも僕の作品は、自分でいうのもおこがましいですが、一気見した方がいいとおもうので……。

レゾンデートル

「いかんせん僕は自分が一番最強だと思っていますよ」人を見下す事で快楽を覚え、嘲笑う青年「トオル」。ある些細な事を原因に、孤立してしまう彼はある日、「時を停止出来る」という超能力を持っている事に気が付く。それを機に、他人とは違う優越感が招く自惚れへと溺れて行くトオル。そんな彼は、超能力者が集まる裏業界の存在を知る。

  • 小説
  • 中編
  • アクション
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-03-16

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 時よ止まれ――お前は美しい 前編
  2. 一話
  3. 二話
  4. 三話
  5. 四話
  6. 五話
  7. 六話
  8. 七話
  9. 八話
  10. 九話
  11. 十話
  12. 十一話
  13. 十二話
  14. 十三話
  15. 十四話
  16. 十五話
  17. 十六話
  18. 十七話
  19. 十八話
  20. 十九話
  21. 二十話
  22. 時よ止まれ――お前は美しい 後編