恋が叶うまで
1.浅野家の姉妹
「おい、夏樹、なんでお前がこの時間にのんびり、朝メシ食ってんだよ」
リビングに入ってパジャマ姿の娘の姿を見るなり、父親の晋太郎は不機嫌な声を出した。
「やっぱり、お姉ちゃんの卵焼き、最高だよ」
晋太郎の声が聞こえない振りをしながら夏樹は箸を口に動かした。
「ありがとう、夏樹」
五歳年上の姉、美春が調理をしながらキッチンか妹にこたえる。母亡き後、彼女がこの浅野家の家事全般を一切引き受けていた。
「無視してんじゃねえ。夏樹」
電気屋を営む晋太郎は大柄な体で椅子にドスンと音をたて座った。「まさかお前、スーパーの仕事、辞めさせられたんじゃないだろうな?」
「そんなわけないだろ」
夏樹が晋太郎にニヤリとして見せた。「こっちから辞めてやったんだよ」
「はあ? 一緒だろ、長続きしないな、お前は。堪え性がないんだよ」
晋太郎はあきれた声を出したが平気な顔で夏樹は食事を続けた。辞めたのには実は事情があったのだが、あえて説明しようとは思わなかった。
「まったく女の癖にガツガツ下品な食べ方しやがって。誰に似たんだ?」
「いちいちうるせぇよ、馬鹿オヤジ」
夏樹が手を合わせた。「ご馳走様~」
「親に向かって馬鹿だと!」晋太郎が目をむいた。
「もう朝からケンカしないでよ、お父さん、ご飯よ」春美が食事を運んできた。
「夏樹もちゃんと次の仕事探してね」晴美が優しく微笑んだ。
「うん、わかってるよ」夏樹も美晴には素直だ。
「どうして姉妹でこんなに違うんだ。俺の育て方が悪いのか?」
晋太郎は箸を置いて大げさに嘆いてみせた。
「姉は美人で気立ても良くて、おまけに一流会社の受付嬢だってのに、妹の方は職なし色気なし、おまけに可愛げなしでロクデナシの親不孝者だ。美春の爪の垢でも飲みやがれ」
「もう、お父さん、何いってんの。夏樹はモテルんだよ。それに仕事を辞めたのだってきっと理由があるのよ、ねぇ、夏樹」
美春は夏樹の事がよくわかっている。いつもにフォローしてくれるのだ。
毎回の事だから晋太郎の言葉に腹も立たない夏樹だったが、父自慢の長女、美晴が思いがけない相手と恋に落ちていて、晋太郎を激怒させることになるとは、さすがに夏樹も予想できなかった。
2.不審な男と美春の恋人
ハローワークでの職探しの帰り道、夏樹は不審な学生風の男を見かけた。
道路を挟んで反対側の喫茶店の様子を伺っているように見える。雑誌でカモフラージュしているが小型ビデオのようなもので撮影しているようだ。自分と同じ位の二十代前半の年齢にみえる。
いや、それどころか高校の同級生ではないだろうか? あのスッとぼけた顔に見覚えがある。あれは確か――。
「町田公平!」
懐かしさもあり小走りで近づいて夏樹は声をかけた。
「え? いや、べ、別に怪しいものじゃないですよ」
町田は悪戯を見つかった子供のように、狼狽した様子で無意味に手をグルグル動かした。
「ほら、わたし、高校で同じクラスだった、ア・サ・ノ!」
夏樹が笑って自分を指差すと、町田は記憶が蘇ったのか驚きで目を大きく見開いた。
「浅野なのか、おーっ、久しぶり、懐かしいな、元気?」
「元気だよ、そっちは?」
「元気、元気、変わんないな」
「そっちこそ変わらないね。でさ」
夏樹は笑顔を消して尋ねた。「あんた、さっきから何してんの? 超~挙動不審なんですけど」
「い、いや、それは…・・・し、仕事だよ」町田が喫茶店を方をチラリと見る。
夏樹も釣られて見てさらに驚いた。なんと喫茶店の窓際には姉の美春がいたのだ。しかもテーブルに向かいには男性がいた。
男は三十代くらいの整った顔の優しそうな青年で笑顔を見せていた。美春も家では見せたことのないような幸福そうな表情をしていた。どこから見ても恋人同士だ。他に人影は見えないから町田が撮影していたのは美春たち二人なのだろう。
「仕事? こそこそと人を盗撮するのの、どこが仕事なんだよ!」
「おい、あまり大きな声出すなよ」町田をまわりを気にしてキョロキョロと見回した。
「じゃあ、その隠してるカメラ、わたしに見せなよ」
「わ、わかった、浅野。と、とにかく、どこか別なところへ行こうよ」
夏樹の剣幕に押されながら町田は近くの公園で事情を話す事を約束した。
3.西園寺家
「下請けの探偵事務所? 町田が?」
公園のベンチで夏樹は町田から話を聞いていた。今日は風が冷たいせいか公園には二人以外は誰もいない。
「ああ、大手探偵事務所が仕事を元受して、人手が足りないときに下請けとして仕事を請けるんだ。一応所長なんだぜ俺。所員は俺ひとりだけど」町田を自慢げに胸を張る。
「それはどうでもいい。どうして二人を撮影してたの?」
「どうでもいいって、少し悲しいな。まあいいけど。――依頼内容は、その、ほら、守秘義務ってのがあってさ、本当は話すわけにはいかないんだけど」
「町田!」夏樹は渋る町田を睨みつけた。
「わかってるって、話すけどさ、なんといっても浅野の姉ちゃんの事だしな」
はやる夏樹を両手で制して町田は声を落とした。「誰にも内緒にしてくれよ。事務所の信用問題だからさ」
夏樹はうなずいた。「それで?」
「――お姉さんの向かいに座っていた男は西園寺光彦。陶芸家の西園寺鷹也の長男だ」
町田は周りを気にしながら小声で説明し始めた。夏樹も聞き取れるように耳を近づけた。
「依頼人はたぶんその母親。最近光彦氏に恋人ができたから探偵事務所に相手の素性を探らせていたという事のようだ。どうも可愛い息子に虫がついたとでも思っているらしい。俺の役割は二人の行動の記録を取って受元の探偵社に報告することだ」
「その恋人が姉ちゃん?」
「ああ。受付をやっている美春さんに光彦氏が一目ぼれして、浅野の姉さんも光彦氏と恋に落ち、二人の交際が始まった――」
先ほど見た姉の幸福そうな顔を思い出した。美春は母が病気で亡くなって以来、ずっと父と夏樹の面倒をみて一番苦労をしていたから、夏樹は姉には早く幸わせになってもらいたいと思っていた。
しかし、探偵まで雇い二人の様子の撮影までして、西園寺家は美春たちをどうしようというのだろうか? 夏樹は嫌な予感がした。
4.訪問者
ある日曜日の夜、夏樹が風呂上がりにドライアーで髪を乾かしていると玄関のチャイムが鳴った。
「あら、今頃誰だろう」キッチンで夕食の片付けをしていた美春が水道の蛇口を止めた。
「あ、いいよ、わたし出る」
夏樹が玄関に向かい訪問者に「どちら様ですか」と声をかける。
「夜分恐れ入ります。私、西園寺家の秘書の鮫島と申します」
太い男の声が玄関越しに聞こえた。「浅野美春さんにお話があって参りました」
「西園寺――」
まさか直接家に来るなんて。何の用だというのだ。
夏樹が振り返ると美春も来ていて虚を突かれた顔をしていたが、夏樹に頷いてドアを開けるようにいった。
ドアを開けるとそこには、気品のある婦人と厳つい顔の黒服の大男がボディガードのように寄り添って立っていた。
「私、西園寺志摩と申します」婦人は夏樹の顔を軽く一瞥した後、美春に視線を移し顔と全身を品定めするように下から上へ眺めてからいった。「あなたが美春さんね?」
「は、はい――。み、光彦さんの?」美春が答える。
「光彦の母です」志摩が目が冷たく光ったように見えた。
「はじめまして、わたし――」
「けっこう」
志摩が美春の言葉を、両手の掌を大きく広げて遮った。「自己紹介は必要ないのよ。貴方の事はよく知ってるわ。一から十までね」
志摩の言葉に美春の顔色が変わった。
「なんだなんだ、今頃お客さんか?」
その時、美春の後ろから風呂から上がったばかりの晋太郎が髪をゴシゴシとタオルで拭きながら下着姿で現れた。
「誰だい、お宅ら? セールスならお断りだぜ」
「父さん、違うよ、お姉ちゃんの知り合いだよ。まったく服ぐらい着てこいよ」と夏樹が晋太郎を奥へと押し戻す。
「どうぞ散らかってますけどお上がりください」美春は二人を招きいれた。
5.決裂
リビングでソファに座った志摩は部屋を見渡して「ひどく古いのね」とため息をついた。
「夏樹」部屋の隅で晋太郎が小声でイライラしながら囁いた。「なんなんだよ、感じ悪くねぇか、あいつら。美春とどういう関係だよ?」
夏樹は「シッ、静かに」と指を口に当てる。
「前置きなしで話させて頂くけど、今日は光彦との事で美春さんに頼みがあってきました」
志摩と向かい合って座った美春は緊張した表情だ。
「ミツヒコって美春の何なんだよ、え?」晋太郎が必死の形相で囁く。
「ああ、うるさいよ」夏樹が小声で応えた。
「鮫島、例のものを」
志摩が、召使のように立ったままの大男に命令すると、彼は膨らんだ封筒を志摩に渡した。
「何も言わず受け取ってちょうだい」
志摩を封筒をそのままテーブルの上でゆっくりと滑られせて美春に渡した。
いぶかしげに美春が封筒をあけて中身を取り出すと、それは札束だった。
「どういう意味でしょうか?」春美は硬い表情で相手を見返した。
「皆まで言わせる気?」美春を哀れむような顔でいった。「光彦はしかるべき相手と、結婚させようと思ってるの。あなたが玉の輿に乗れると喜んでいるのはわかるけどね。もう光彦には会わないで欲しいの。それだけあれば足りるでしょ」
「おい」夏樹は我慢の限界を超えて声を張り上げていた「金持ちだかなんだか知らないけど人を見下すのもいい加減に――」
「夏樹、止めなさい」美春は夏樹を鋭い声で制した。
「お姉ちゃん――」夏樹が美春を見ると彼女の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「これを持ってお帰りください」美春は封筒を志摩に戻した。
「まったく、素直じゃない――」と志摩が言い終わる前に
「このクソババア、これでも食らえ~」と晋太郎がバケツを手に持ち駆け込んできた。
「奥様っ」
鮫島が盾になるのが一歩遅く、志摩は晋太郎が投げたバケツの水をたっぷり被ってしまった。おかげでリビングまで水浸しだ。
「帰れ帰れ帰れ! 二度と来るんじゃねぇ」
晋太郎がバケツを荒々しく放り投げると、志摩と鮫島に怒鳴った。
「貴様、奥様になんという事を」目が血走った鮫島が晋太郎に詰め寄る。
「なんだ、やんのかぁ、俺はなぁ、柔道二段に空手三段、喧嘩十段、あわせて十五段だ。来るなら死ぬ気で来い」
晋太郎が、強いのか弱いのか分からない妙な構えで鮫島を挑発する。
「おやめさない、鮫島」
志摩が命令すると鮫島が晋太郎を追いかけるとを止めて振り返った。「濡れて寒いわ、さっさと帰るわよ」
引き上げていく志摩と鮫島に、晋太郎が「一昨日きやがれ、バカ野郎。塩をまいとけ、塩」と足を踏み鳴らし怒鳴りまくった。
「まったく、何も家の中に水撒くことはないだろ、親父」
夏美と美春は雑巾で部屋を拭いていた。
「美春、いいか、一つ言っておく」
夏樹の言葉を無視して晋太郎は美春に言い放った。
「あのババアの息子と付き合うことは、この俺が絶対に認めん! もう会うな。いいな、美春」
「ちょっと待って」
美春が驚いて立ち上がった。「お父さん、私の話も聞いて」
「とにかくもう会うな」
「彼のことを黙っていたことは謝る。だから一度、彼に、光彦さんに会ってほしいの、お願い」
「俺はそんな男と会う気はまったくない。俺の前に現れたらぶん殴るだけだ」
「そんな――」美春は言葉を失った。
「親父~。何カッカしてんだよ」夏樹が抗議したが、晋太郎は譲らなかった。
「春美、もしお前がそれでも付き合うつもりなら親子の縁を断ち切るつもりでいろ。わかったか」
「あのなぁ、親父」つかむ夏樹の手を振りほどき、晋太郎はドスンドスンと大きな足音を立てて自分の部屋に引っ込んでしまった。
美春を見ると、悲しい顔で左手首を右手で強くギュッと握り、必死で感情を堪えていた。
「姉ちゃん――」夏樹は美春の気持ちを思い胸が苦しくなった。
6.光彦と美春の恋の行方
町田公平の探偵事務所はあるコンビニエンスストアの地下一階にあった。
もとは家主が防音設備がついた部屋でバンド練習をするためとつくったということで、町田が家主の問題を解決してお礼にと、この地下室を安く貸してくれてるらしい。
窓もないから、まだ外は明るいというのに電気がついている部屋で、美春と光彦、それに夏樹がソファに座ってこれからの事を話していた。公平は熱いコーヒーを人数分用意していた。
「美春ちゃんと、それと家族の皆さんには本当に迷惑をかけました。母は私を自分が決めた相手と結婚させたいと思ってるんです。その邪魔になるものは排除しようと考えてるんです。息子の僕の気持ちは無視して――。恥ずかしい限りです。本当にすいませんでした」
光彦は夏樹に深く頭を上げた。
「いえ、いいんです、ウチの父も失礼な事をしました。お詫びします」
夏樹も頭をさげた。「でも、それより大切なのは二人の事です。光彦さんは姉とどうなりたいんですか?」
「僕は美春ちゃんを誰よりも愛しています」
光彦は顔をあげ美春を顔を一度見た後、夏樹に向き直り断言した。「一生、一緒にいたい大切な人っだと思っています」
「光彦さん、――ありがとう」美春は光彦の言葉に思わず目を押さえていた。
「その言葉が聞けてよかったです」夏樹はほっと安心した。この人ならきっと大丈夫だ。姉ちゃんをまかせられる。
「僕は西園寺の家を出ようと思います」
「え? それって」
コーヒーを人数分テーブルに配っていた公平が思わず口を出した。「駆け落ちですか?」
「はい、美春とも話しあってそれしかないと思っています」
「ウチの親父も言い出したら聞かない頑固者だからな。」
夏樹が頭をおさえた「一度お互いの家族の頭を冷やした方がいいかもね」
「お父さんなら、いつか、きっとわかってくれると思う」美春は静かにいった。
「親父の面倒はわたしがみるから、まかせて。料理の腕はまったく自信ないけどね」と美春。
「ロミオとジュリエットみたいですね」と公平。「俺に応援できることがあったら何でもいってくださいね。学生時代には夏樹に色々助けてもらったからね」
「ありがとな、町田」夏樹は町田に握手を求めた。
「いやぁ、照れるなぁ」なぜかデレデレする町田。
「町田君、夏樹の事、これからもよろしくね」美春がそんな町田に夏樹の事を頼んだ。
夏樹は光彦の顔と姉の顔を交互に見ていった。
「よしっ、光彦さん、姉ちゃん、駆け落ち作戦会議開始だ」
7.ロミオは来なかった
昨夜、美春は荷物をまとめ家を出て行った。
黙って出て行くことはせず父親に自分の決意を告げると、晋太郎は何もいわず部屋に閉じこもった。美春が別れの言葉を部屋の外からかけたが晋太郎は何も返事しなかったようだ。
待ち合わせ場所まで美春を見送ろうと思ったが、美春が「お父さんのそばにいてあげて」といいったので玄関で別れた。
そして翌朝、夏樹は目覚ましの音で目が覚めた。
そうか、姉ちゃんの美味い料理はもう食べられないんだ。今日からわたしが姉に替って浅野家の家事をしなければ。晋太郎のヤツ、絶対、味に文句いうんだろうなと考えながら、キッチンに向かう。
包丁でまな板を使う音がした。まさか晋太郎が朝食を作ってる?
「おはよう」
キッチンには美春がいた。いつものように朝食の準備をしていて、笑顔でいった。「もうすぐできるからね、それと、お父さん、起こしてきて」
「お、お姉ちゃん、どうして?」
夏樹は普段通りに振舞ってる美春の目が腫れぼったいことに気がついた。無理をして平静を装っていることに気がついた。何があったというのだ。
「光彦さんは?」
「――彼、来なかった」美春は何かを吹っ切ったような笑顔でいった「わたし、振られたちゃったみたい」
8.婚約パーティー
「光彦君、婚約本当におめでとう」来賓の一人が祝辞を述べる。
「ありがとうございます」ひな壇の光彦が笑顔で答えた。「これからも、西園寺家と近いうちに妻となる涼子をよろしくお願いします」
光彦の隣にはその婚約者が微笑んでいた。
「すごい、パーティっすね、先輩」ホテルのパーティにウェイターとしてして紛れ込んでいた公平が隣の男にこっそり聞いた。
「ああ、財産家の陶芸家の長男と経済界の実力者の孫娘との婚約パーティなんだと。しっかし婚約者の女、いい女だよな、色っぽいよな」
「そうスね~」公平は話を適当にあわながら、目を前を横切っていくウィトレスの格好をした夏樹に目配せした。夏樹は水割りをトレイに乗せて来客者にごく自然に配っていた。うまいものだ。普段の夏樹とはまるで別人だ。
公平は探偵としての情報網やコネを使ってこのホテルでのパーティーをキャッチし、夏樹と二人ここに変装してこっそり乗り込んでたが、夏樹の度胸の良さや、なりすましのうまさに正直驚いていた。自分より探偵業が向いてるのかもと思った。
「飲み物ありがとう、きみ、なかなか可愛い娘だね」
若い男性客の一人が夏樹に声をかけたが、彼女は軽くいなして客たちの会話から光彦のことを情報収集しているようだった。
公平もそれとなく客たちの言葉を拾うことで、光彦が若い女性を口説きまわっては後始末を母親や家族がしていることをわかってきた。
9.ホテルの部屋
「光彦様、大丈夫ですか」あの家に来た鮫島の声だ。
「ああ、大丈夫だ、少し飲みすぎたかな」
光彦がホテルの部屋に入ってきた。
「おやすみなさいませ」鮫島が出て行ったようだ。
光彦が服を脱いでいる音が聞こえる。やがて寝室の布団のふくらみに気づいたようだ。
「涼子――ちゃん?」
「うん」甘えた声を出してみせる。
「なあんだ、来てたのか~」光彦のだらしない声が聞こえてベットに乗ってくる気配がした。
「パーティつまんかったよね~、僕は涼子ちゃんとエッチしてる方が楽しいな~」
布団がめくられ、夏樹の目に好色そうな光彦の顔が見えた。
「あっ、お、お、おまえ――」
夏樹は右手で光彦の頬を強く握り締めて声が出ないようにした。「久しぶりだな、色男さん。大変な女たらしらしいな、お坊ちゃん、え?」
「立てよ」夏樹は光彦にいった。
「なんだよ、しようがないだろ、所詮、美春と俺では釣り合いがとれないんだよ」
ふて腐れたように立ち上がった光彦に夏樹はいった。
「一つだけ聞くから答えろ。あの時姉ちゃんを愛してるといった言葉はまったく嘘だったのか?」
光彦が夏樹の質問に黙りこみ下を向いた時、ドアがノックされる音がした。
形勢が逆転したと考えたのか、光彦は急に強気な表情に変わった。
「望みどおり答えてやるよ、愛してたさ。美春の肉体をな。いい声出してたよ」
夏樹の拳が光彦の顔面にのめり込み、白目をむいた光彦は糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
合鍵でドアを開けて入ってきた公平は鼻血を出して倒れている光彦をみてあわてた。
「ゲッ、やりすぎだろ、逃げるぞ、浅野」
10.夏樹の就職
あれから、美春はかわらず浅野家の家事を切り盛りしている。
夏樹は光彦の本性を話す気にはなれなかったからずっと黙っていることにした。
「なあ、美春」
晋太郎が洗濯物を干す美春に声をかけた。「この前な町内会の旅行券が当たったんだ。北海道二人分三泊四日。お前にやるよ。その誰かと友達といってこいよ」
「あら、だったらお父さんが誰かといってきたら」
「一緒に行くやつなんかいねえよ」
「夏樹と二人でいってきたら」
「馬鹿いうじゃねぇよ。こんなヤツとどうして俺が」
夏樹は知っていた。旅行券は晋太郎が自分で購入したということを。晋太郎は晋太郎で美春のことをそれなりに心配しているのだろう。
「わたしだって、ごめんだよ、こんな中年親父と誰がいくもんか」夏樹は言い返した。
「そうそう」美春がいった。「さっき、夏樹に電話あったよ、三原みどりさんって娘。セクハラした店長に謝罪するように文句いってくれたって、お礼をいってわよ」
「おまえ、もしかして、スーパー辞めた理由はそれか?」晋太郎が目を見開いた。
「まあ、いいじゃんか、過ぎたことだからさ」夏樹は笑った。「それと、わたし就職先決まったから。正社員だよ」
「本当?」「いつのまに?」
美春と晋太郎が同時に声をあげた。
「町田探偵事務所。所長と私のたった二人しかいないけどね」
(了)
恋が叶うまで
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