セリブリック

[セリブリック]1996年製


 行過ぎる壁に違和感を感じ、振り返っては見たが一見いつもと変ったようには見えなかった。
実際、違和感を感じたのは壁ではなく、廊下に落ちた一輪の紫色の花であった。
妙に紫と壁の色が合っていたため、壁に違和感を感じたのだろう。
紫の花を手にすると、葉の裏に一匹の昆虫……てんとう虫がついていた。葉から私の手に移り、指先で一時とまり、飛び立つ瞬間。
「あ」
一匹のてんとう虫は飛び立ち、白い壁にへばりついた。壁には絵が飾られてあり、てんとう虫はその絵の方へ移動していく。
狭い廊下の遥か向こうは、天窓から光が差し込んでいるところもあれば、影もある。
てんとう虫は絵の額の角から飛び立ち、その薄い羽根を動かし、影から光の方へと向かう。
飛翔。
てんとう虫は天窓にへばりつき、外への出口を探している。
天窓の青空には白い雲が、白い鳥が、眩しく光る太陽が、自然があり、大気が静かに風の唄を鳴らしている。
外ではきっと、木々の木漏れ日が眩しいのだろう。
狭い廊下を左に曲がり、少し歩いた突き当たりのドアを開け、先生のアトリエに入る。
アトリエには幾つかの絵が飾ってあり、その中央には、先生の飼っている黒猫が絵具の筆で遊んでいる。アトリエは広く明るく、多くの植物がある。
私はまず、大きな窓を開き部屋の絵具の匂いを外へ出し、植物に水をやり、黒猫に餌をあげ、先生の絵の道具を片付けた。
開け放ったままのドアから、さっきのてんとう虫が入って来て、窓の方へ飛んでいき外へ出た。
私は窓から体を乗り出し、てんとう虫を目で追いかけた。上へ上へ上がって行く。
下のほうでは先生が今度の絵のデッザンを書いている。
主に、自然を対象に描くのだが、つい先日、私をモデルとした絵を描いた。
先生の絵は、繊細で色彩の綺麗な物が多いのだが、狭い廊下に飾られている物は全て、醜い顔の自我の絵ばかりなのだ。
先生自体醜いのではない。白い肌に黒い目と髪、少しやせ細って入るが黒い目は大きく、鼻は綺麗な形をしていて、唇は少し赤味かかって大きめ。要するに、美形ではあるのだ。見た目より若く見えるが。実際の所私より七歳も年が上なのだ。
先生はデッサンを描き終えたらしく、立ち上がり、館の方へ歩いてくる。
「先生。今から絵をお描きになるのですか」
先生は眩しそうに上を見て、無愛想に頷いた。
「セリブリックくん。お茶の用意をしておいてくれないか」
「はい。ただいま」
アトリエを出て、隣りの台所のドアを開けると、一匹の蝶がいた。
見かけたことの無い、大きく綺麗な蝶だ。
きっと、冷蔵庫の横に開いた隙間から迷い込んだのだろう。
私は滅多に外には出ないので、外の自然には詳しくは無い、きっと外にはこのような蝶がたくさん飛んでいるのだろう。
蝶の羽根をそっと掴み、小さな窓から外へ逃した。手を見ると、少し粉がついていた。手を布巾で拭き、お茶の用意に取り掛かった。
先生はラベンダーティーが好きなのだ。窓の外は、先生の育てているラベンダーの花が咲いていて、風の強い日は、館の内側まで花のにおいで一杯になる。
ティーポットにお湯を入れ、カップ、砂糖をお盆に乗せ、アトリエへ運んだ。
先生はもう絵に取り掛かっている。
丸い小さな木製の机の上にお茶を置き、黒猫を抱き、静かにアトリエを出た。アトリエを出ると黒猫は私の腕の中で少しもがき、ピョンと下へ降りた。そのまま黒猫は振り向きもせず、狭い廊下を暗闇の中へ消えて行く。
「飼い主に似るのかしら……」

 私は一ヶ月前、この館へ来たのだが、先生といい黒猫といい、この館でさえ、少しばかり私を拒否している様に見える。
私は一年前、美術館で先生の作品を見て、魅せられ、一度この素晴らしい絵を描いた人に会い、この絵を習いたいと思っていた。
先生の初対面の人に対する礼儀は、はっきり言って最低な者だと思う。初め、本当にこの人があの素晴らしい絵を描いた人だとは信じられなかった。でも、自然の中へ入り、絵を描く姿は、別人の様に目を輝かせるのだ。
私に対してあまり好意を示さないのだから、先日、私の絵を描きたいといわれた時はびっくりした。デッサンをしただけでストップしていて、まだ完成していない。どんな時でもそうだ、一つの絵のデッサンをしたら、他の絵に取り掛かり、感性間近になると、また他の絵のデッサンをする。
ただ、自画の絵だけは、アトリエに閉じこもり、何日もその絵だけに取り組むのだ。他人にも、先生の自然の絵と、自画の絵を並べて見せてもとても同一の人が描いた物とは信じないのではないだろうか。
狭い廊下を出て、階段を降り、広い廊下を歩く。
この広い廊下には、主に、先生の気に入った絵が多く飾ってある。青空に城い月が出ている。黒猫がモンシロチョウを捕まえている。ネムの木の下で鳩が鳴いている。きらきら波立つ湖には、水鳥が。空の向こうには小さな鳥が。雲が弧を描く様に浮かぶ。そういう自然そのままの絵がたくさん飾ってある。
広い廊下を右に曲がった突き当たりに私の部屋がある。
いつもそのドアを開け、すぐ目に付くのは、先生の描いた青い鳥の絵だ。青々と茂った木に停まっている、尾の長く鮮やかな青の鳥。そのコバルトブルーの鳥は私の好きな鳥だ。
先生も気に入った絵の中のひとつなのだが、何故か、あまり陽の当らなく、暗いこの部屋に、以前から飾ってある。
先生は私に部屋を紹介した時に、こう言った。
「この部屋は以前、妹のエスベダルダが使っていたのだが、その妹も今では街のほうへ出て行ってしまったのだ。この部屋を使ってくれ」
何故か先生は、女性にもかかわらず、男の様な話し方をする。確かに風貌は顔を覗けば男性のようだ。特に私に語り掛ける時や妹の事を話す時などは、恐ろしい程、不愛想になる。妹のエスベダルダが嫌いなのだろうか。
一度、引き出しの中の妹のアルバムを拝借した事が会ったが、先生に似て、とても綺麗な子だった。優しく笑いかけ、黒猫を抱いていた妹の写真。その横に、一人の男性が写っている。下には、「エスベダルダ19、ファッタナック45」と書いてある。二人の関係は見たところ、叔父と姪、といった様子にも見えるのは、以前、自分もこのようにして伯父と写真を撮った事があったからだろうか。
ここに来て一ヶ月間、まだ先生は私に絵を教えてくれず、今の所、お手伝い程度なのだ。まあ、そういうものなのだろう。
「先生に訊いてみようかしら」
私はドアを開けて部屋を出て、二階の先生のアトリエに向かう。
ドアの外で、台所にいた蝶と同じ種類の蝶が二匹、青い色の花に停まっていて、その横で黒猫が不思議そうに見つめている。反対側の窓は、大木に囲まれた大きな湖がある。この季節は、大木も林檎の実をつける。少し前まで、白い花をつけていて、風が吹くと、暖かい空気とともに真っ白い雪が降りてくるようで、とても綺麗だった。
「………」
大木の横に人が座っていた。
影になっているし、家の中からなので、誰なのかは分からない。
「先生かしら……。でも何してらっしゃるのかしら。絵を描いているようにも見え無いし……」
ずっと見ていると、後ろからカリカリという音が聞こえて、振り返ってみると真っ白い犬が窓を齧っていた。見たことの無い犬だ。きっと大木の横にいた人の犬なのだろう。
再度、大木の方を見てみたら、その人はいなくなっていた。
「あら。おかしいわ」
そして犬の方を見てみたら、犬は黒猫に噛み付こうとしていた。
「やだ、大変!」
私は廊下を駆け、玄関を出て、外へ飛び出した。
そして必死に犬を追っ払った。黒猫の前脚から血が出て来ている。私は黒猫を抱きかかえ、館の中へ運んだ。
血は出ているが、大した傷ではなく、消毒だけで済んだ。
「さっきの犬といい、大木の人影といい、ここといい、何なのかしら……」
黒猫は治療を終えるとさっさと部屋を出て行ってしまった。
紫色の花の押し花。廊下で拾ったものだ。花の名は分からないけれど、何となく雰囲気があの黒猫に合っている。私は猫を追いかけた。
猫は意外にも私の部屋のドアの前に座っていて、ドアを開けると、一鳴きして私のほうを見た。
「この押し花、お前にあげるわ。首輪につけてあげる」
……先生、見たら怒るかしら……。でもあまりに似合っているから……。
ふいに暗くなった。
「私の妹もその花が好きだった」
猫の横にしゃがみこんでいた私はびっくりしてすっくと立ち上がった。
「あ、先生。私に何かご用でしょうか」
私は慌てて猫の首輪につけようとした押し花を隠した。
「私の妹もその……セリブリックくんの隠した紫の花が好きだったと言ったんだ」
初めて先生の笑った顔を見た気がする。
私が必死に隠そうとしたため、先生に噴出されてしまったのだ。
「妹さんも」
私は紫の花をじっと見詰めた。
黒猫は先生の足許を旋回している。先生は黒猫を抱きかかえ、私に問い掛けた。
「この傷は」
「庭に真っ白い犬がいてその犬に……」
「犬? それで猫を治療してくれたのか。すまないな。セリブリックくん」
「いえ、消毒しただけですので……」
先生はあの犬に思い当たる節は無さそうだ。ただの散歩中の犬がこの館の庭に迷い込んで来たのだろう。きっとあの人影もそうに違い無い。
私はふと、先生への質問がある事を思い出した。なんとなく、今の状況からいって訊き易いのかもしれない。
「あの……先生。いつ私は絵を習えるのでしょうか」
「今仕上げに掛かっている絵をまず完成させてからになると思うが、その事を言いに来たのだ」
今の絵が……。
「ほ、本当ですか!」
嬉しさのあまり大声を出してしまった。
そんな私を見て先生は幾分、機嫌を悪くしたように見えた。
「……あ。ごめんなさい。つい、嬉しくて……」
「いや。いい」
性威勢はそう言い残して、どんどん廊下の奥の暗闇に消えて行く黒猫に続いた。もう空は暗くなって来て、白い月が黄色く変化してきている。
「……とにかく、もうすぐ絵を習えるんだもん。元気出さなきゃ」
その言葉は、素っ気無く去って行った先生の後姿を見て虚しくなった私への励ましの言葉となった。
そう、今、先生の描いているという絵は、一人の黒い服を着た、まるで黒猫の様な女の子の絵。
かなり時間を要していたらしかった。私が来る前からアトリエに未完成のまま飾ってあった物だ。初めてこの屋敷に来てアトリエを案内された時に、その絵を一目見て、じっと見入ってしまった。「素晴らしい絵ですね」と思わず言ったら、先生は「まだ完成していない。その絵とはあまり相性が合わないらしい。kなり時間を要している」と言った。一見完成されたように見えた絵も未完成だったのだ。
その絵もどうやら完成するらしい。
わたしは今日も休む前に描く日記に手を付ける。
この屋敷に来てから書き始めた日記だ。いつもの様にニ、三行書きおえてベッドに横になる。先ほどから少し顔がほころんでいる。
嬉しいのだ。もう少しで絵を習える……。


 夜は暑かった。私は外に出て体を冷やす事にした。
私は時々、夜の庭を歩く。窓の外に広がる昼の庭とは全然違う。何もかもが静かで、落ち着く。風も、花も、鳥も、いろいろな物が静かに眠っている。
時々、夜行性でもある黒猫と遭遇する。でも、私を見るとすぐに夜の暗闇の中に消えて行ってしまう。
「今日はあの黒猫もいないのね……」
少しの間、湖の横にある大きな平らな岩の上に座って木々のあいだに見え隠れする月を眺めた。月は満月に近い形だ。後二日ぐらい先には満月になるのではないだろうか。雲はゆっくり移動して、時々月を隠す。そのせいであたりは暗くなるが、また明るくなる。
私が昼時に庭に出なくなったのには理由があったように思える。でも、もう何故だったのか思い出せない。本の小さなきっかけだったように思える。
「たまには明るい時に外、出ようかしら……」
私は館へ戻り自分の部屋に向かおうとした。でも足が止まった。
声が聞こえたからだ。先生ではない。
「こんな夜遅くに誰が尋ねてきたのかしら」
話し声の中に先生の声も混じっている。
「考えられないわ。それでここに逃げて来たわけ?」
いつもの喋り方と違うのにすぐ気が付いた。
私は行けないと思いながらも興味があったから、ドアの隙間から見てみることにした。
「あの子にも呆れたけど、あなたにも呆れたわ。寄りのよってあの子をですって……?」
ドアの隙間からでは見える範囲も決まって来る。冷めた目つきで先生は誰かと話していた。私は先生が長い髪を下ろしたのをはじめてみた。
相手は男性らしい。先生の髪の先を掴もうとして先生に手を払われた。顔輪見え無い。腕だけ見える。
「何もかもエスベダルダがやった事だ。分かっている筈だ。な。もう一回やり直そう」
エスベダルダ……誰だったかしら。ああ、妹さんの名前だったわ。
「都合がいいこと」
そう言って先生は腕を組んで窓の方へ歩いて行った。男も窓の方へ歩いて行った為、男の顔は見ることが出来なかったが後姿は見覚えがあった。
……あの男……、あの人だわ。お昼に木の影にいたのって……。
その内男の顔を知ることが出来た。見覚えがある。エスベダルダのアルバムで見た、確かファッタ……なんとかという人……。
その後、私はこれ以上う先生のプライベートに立ち入るのは良く無いと思い、その場を去ることにした。

 翌朝の事だった。
先生はいきなり二、三日家を空けるといって屋敷を出て行った。男の人は夜のうちにでも帰ったのだろうか。
「悪いが君に絵を教えるのが遅くなりそうだ」
「いいえ。また後日お教えくだされば……」
「二、三日、留守を頼む。猫は自分で何か食べているらしいから何も気を遣う事は無い。では」
不愛想に素っ気無く話を打ち切って行った。
私は先生のアトリエに行った。
脅迫持っていてアトリエまでの廊下も一段と暗さを増している。
アトリエのドアは少し開いていた。
中には例の女の子の絵が飾られていた。完成したのだ。
先生は絵が完成すると左下に名前を書く。改めて完成品を見て、初めて見た時と明らかに違いがあるのに気付く。
「この女の子誰なのかしら……」
約四歳ぐらいの女の子の絵だ。どことなく目のあたりが先生に似ている。少し寂しい雰囲気を漂わせる絵だ。
 昼になってすっかりくもは風で東のほうへ去っていき、青空が広がった。
「外に出ようかしら……」
風が気持ちよかった。絵に描かれた場所を間近に見ているうち、自分が先生の描いたあの素晴らしい絵の中にいる様な気がして心地良かった。
少し歩いて庭の野原に行ってみた。そこに、台所で見かけた蝶が飛んでいて、淡いピンク色の花の蜜を吸っていた。
野原の中央にある三本の樫の木の上に黒猫がいて、こっちを見ていた。
「おいで。黒猫」
黒猫は私の呼び掛けにも応じず、そっぽを向いて眠り込んでしまったらしい。
「本当、私のこと嫌いなのかしら。動物には好かれる方なのに……」
私は突然木に登って黒猫を捕まえてやろうと考えた。そっちがその気ならこっちだって……。
「結構木登りできるのよ」
その内やっとの事で登りつめた。Sッそれまで黒猫はずっと私の行動を青い目で見ていた。そして私が登りつめて、黒猫を捕まえようとしたとき……。
「よーし。静かにしてなさいよー」
ピョンッ
あっさり身を翻して機から降り、私の木の上に残してさっさと行ってしまった。
「………」
木の上は風が涼しくて気持ち良かった。
木の上からはいろいろな物が一望できた。遠くへ行ってしまった黒猫は湖のほとりの、夜私が座っていた大きな(平らの)岩の上で寝そべっている。
「ああ、そっか。私、昼寝の邪魔しちゃった。こんな気持ち良かったのに」
私は少し指摘から降りて、屋敷へ向かった。
先生がいた時は何かとやる事もあったのに、今となって何もやる事が無い。
「ああ、そうだわ」
実はこの屋敷に来てからという物、どうもまだ屋敷内やその周辺の庭の構造を理解出来ないでいた。こんなに広いんだもの。ここで今の私みたいに先生一人でいたのよね……。
……と、いうことで私は屋敷内の掃除も兼ねて、探検をしてみる事にした。
「掃除となると大掛かりね……」
実際掃除をしている内に、ほとほと諦めが出て来た。
「このドアは何の部屋かしら」
だからといって先生の部屋だったり、開けてはならない部屋などなったら困る……。
「やめとこう」
一度は通り過ぎたものの、また戻って来て鍵穴から中を覗いてみた。真っ暗だった。
ガチャ
地下に続くと思われる階段があった。降りてみるとそこは物置だった。
古いソファ。古い本や本棚。骨董品。キャンバス。筆。木箱。いろいろな物が目に飛び込んでくる。
古い机の上においてあった本に目が行った。
「アルバム……」
幸せそうな顔の写真。全てがそうだった。
「あ……この人先生? この人妹さん。この人、この前の……」
皆幸せそう。
布を被った木箱の中にはスケッチブックが入っていた。
「このデッサン知ってる……。展示会で飾られてた絵のだわ」
三冊目ぐらいのスケッチブックをめくって行くうち、目にとまったページがあった。
「……これ……あの女の子の絵……のデッサン?」
間違い無く女の子の顔のデッサンや、そのバックの風景のスケッチが数枚に渡って描かれていた。
デッサンした陽は「78’2’4」。六年も前からあの絵に取り掛かっていたことになる。
女の子の名前もちゃんと記されていた。「マチルダ。四歳」。「マチルダ」という女の子がモデルだったのだ。
「今なら十歳よね。今は何処で何をしているのかしら……」
私はスケッチブックの入っていた木箱を肘で小突いて倒してしまった。
「やだ、大変っ」
……あら。何かしら。日記……? スケッチブックの下に一枚の板切れが敷かれていて、その下に三冊の日記が入っていた。私は一先ずスケッチブックを整理して日記を開いた。
「本当なら隠してある位だから見ちゃいけないのよね……。きっと……」
それはエスベダルダのものだった。
日付は七十年十二月から、三冊目は七十八年三月までの八年間の物だった。どれも厚いノートで、五、六行に毎日書かれてあるものだった。かなり几帳面だったのだろう。
『72’2’13/姉さんが珍しく家に男性をつれて来た。ファッタナックという名前。姉さんとはかなり年が離れている』
『72’5’30/姉さんの絵が新人賞を取った』
『72’9’18/姉さんは私がファッタナックにこの頃色目をつけて来ていることに気付いたみたい。でも』
『72’10’4/姉さんはファッタナックとの子を妊娠。私への見せしめって顔を』
『73’5’8/ファッタナックが事故に遭った。でも軽い怪我ですんで安心したわ……』
『73’9’10/姉さんはついにファッタナックの子を出産。ファッタナックのあの幸せそうな顔……。今に私が姉さんの幸せを奪って』
『75’3’3/姉さんのあの顔ったら無かったわ。そうよね。私がファッタナックを』
『77’11’4/マチルダは事故で死んだ。姉さんは』
『78’2’2/ファッタナックは私と街へ行くと決めた。姉さんを裏切る』
『78’2’4/姉さんはマチルダの死の悲しみから立ち直って、あの子の絵を描き始めた。私は姉さんの子が絵として飾られるのなんて見てられない。なんてったって姉さんとファッタナックとの子だもの……』
『78’3’9/姉さんはファッタナックが私のものとわかった事から、醜い自画を描くように』
『78’3’13/三日後、私達は荷を整理して街に行く事にした』
見てはいけないと分かっていたけど、先生の事が分かってしまった。
見なかった事にしなくちゃ……。
私は再び来た時と同じ様にして地下から出た。
四日後、先生は帰って来た。

 「お帰りが予定より遅かったですね」
「……色々と面倒な事があったものだからな」
そう言ってアトリエに篭ってしまった。少し調子が悪いように見えた。
この夜から外は嵐になっていた。
 翌朝になっても先生はアトリエにずっと篭りっぱなしのようだった。アトリエのドアの前で黒猫が座っていた。ドアをカリカリ爪で齧っている。こっちを見てニャオと短く鳴いて私の足許に来た。
「あら。何の気紛れ? 私の所に来るなんて」
私はアトリエのドアをノックした。
「先生。開けてよろしいですか?」
また自画の絵でも描いているのかしら……。返事が無い。いTもなら一声返って来るはず。
ドアノブはくるっと回った。ドアを開けた。
「きゃっ」
ものすごい風と共にデッサンされた絵が飛び込んでくる。窓は全開。この嵐の日に……。
黒猫はびっくりして私の肩まで駆け上って来た。先生はいなかった。
私はとりあえず窓を締めようとアトリエに入った。窓を締めて散らかった者を片付ける。黒猫はまた何も無かったかのようにアトリエを出て暗い廊下へ姿を消した。
「……先生……」
黒猫と入れ替えに先生が廊下から歩いて来た。
「何処に行ってらしたんですか? アトリエの窓も開け放したままで」
先生はいつもの無愛想な顔で通り過ぎて行った。
「すまないが厚いラベンダーティーを淹れてくれ。すまない」
ドアを開ける前に先生はそう言ってアトリエに入って行った。
「はい」
私にはあの男が来てから先生がおかしいのが分かる。きっと何かあったのだろう……。
私はお茶を用意してアトリエのドアをノックした。
「先生。お茶の用意出来ました」
カチャ
「?!」
私はお茶を机の上において駆け寄った。
「先生っ 大丈夫ですか?!」
先生は顔が真っ青で椅子に座ってうつぶせていた。床に筆が落ちてバケツもひっくり返っている。
先生に手を差し伸べるとバシッと払われたから触れない様に先生に尋ねた。
「……休んだ方がいいんじゃないですか? この頃お疲れのようですよ……」
様子がおかしい。どうしたのだろう。先生はゆっくり立ち上がってドアまで歩いて行ったがふらついて倒れそうになった所を、間一髪私が支えた。ドアの横の机の上のお茶を見て先生は言った。
「悪いな。淹れてくれたのに」
「いいえ。それよりも、お部屋に行って休んで下さい」
私は肩を貸して一つのドアの前まで来た。
「ここでいい」
先生はドアを開けて素早く締めてしまった。中ではドサッという音がした。
「先生、大丈夫ですか」
「ああ……」
どうやらベッドに横になったらしかった。
私はアトリエに戻って片付ける事にした。
アトリエではバケツの零れた水を黒猫が嘗めていた。
「全くダメよ。絵具混じってるのよ?」
黒猫を抱き上げるとピョンとジャンプして出て行った。私は散らかった者とお茶を片付けてから、部屋へ戻った。
その日は日記を付けてすぐに眠りについてしまったようだった。

 昨日の夜中に風が雲を何処かへ吹き飛ばしたらしかった。アトリエに向かう廊下の天窓からは明るい光が差し込んできている。一つも雲の無い青い空は、私がはじめて屋敷に来た時と同じだった。
アトリエで先生は窓の外を見ていた。今日は気分がいいらしい。
「あ……」
先生はピョンと窓から外へ飛び出した。私は窓の所に駆け寄った。
「せ、先生!」
先生は上を見上げて何かを探している様だった。
「セリブリックくん。私がテラスに干してあったスケッチが風で飛ばされた。探してくれ」
「いつ干したんですか」
「ついさっき、一時間程前だ」
私は窓から離れてしたの階へ向かった。
玄関にあの女の子の絵が飾られていた。
明るい日の刺す場所で見るその絵は悲しそうではなく、とても幸せそうな女の子の絵に見えて私は嬉しくなった。
「先生、マチルダが大切だったのね……」
私は外へ出て先生の所へ行った。
「先生も無理をしますね。びっくりしました。いきなりあの高さから……」
「それよりも探してくれ。大切なデッサンだ」
「はい。何枚ですか?」
「二枚」
数分してデッサンの紙は見つかった。結局二枚とも先生が見つけた。
「これ……街のデッサンですね……」
今まで自然や自画、人物の絵しか見たことが無かった。
「この前、ついでにデッザンしてきた」
街に行ってたんだ……。男の人……ファッタナックさんも一緒だったのかしら。
先生は屋敷の中に入って行った。
遠くの方でずっと前の白い犬が歩いていた。先生は私が犬を見ているのに気付いて自分も犬を見た。
「……あの犬……」
犬を見て先生はすぐに屋敷の中に姿を消して行った。
「……どうなさったのかしら」
屋敷の中から猫が出て来た。犬には気付かないらしく、屋敷に沿って湖の方へ行った。
昼、先生は私に絵を教え始めた。

 「今日はここまでにしておこう」
「はい」
私は外へ出て湖に行く事にした。
今日は少し気温が暑い。ここら辺では珍しい。
湖の水面はきらきらしていて、綺麗に澄んでいる。水草や小魚が気持ち良さそう……。
「……そういえばここも先生の絵にあったな……」
澄み切った水、藻や小魚が鮮明に描かれていた。
その時、いっきなり後ろから押された。
「きゃ、きゃ、や、」
もう少しで湖におちそうになった所を大きく手をばたつかせて助かった。後ろを見ると例の白い犬がいた。
「お、お前……。危ないじゃない」
犬は私に擦り寄って懐いてくる。
「可愛いやつ」
私が犬と戯れていると木の間から人が現れた。
「……あなた……」
ファッタナックだ。犬はファッタナックの犬だったようだ。
「君は……?」
「セリブリック。この屋敷で……」
「ああ、絵を習ってるのかい。シュータから」
「……あなたは……」
知っていたけど訊いた。
「彼女の元……恋人というのかな」
「随分年が離れていますね」
「美術学校で知り合ってね。彼女の先生の友人が私だった」
「先生を訪ねてらしたんですか」
私は屋敷の方を見て言った。そうしたら先生がこっちに歩いてくるのが見えた。
「彼女は私を嫌っているからな」
そう言い残してフォッ多ナックは犬と共に敷地内から出て行った。結局なんだったのだろう。
「セリブリックくん。彼と何を?」
黒猫を抱きかかえて先生は歩きながら私に尋ねた。ファッタナックとは正反対の印象の人だ。ファッタナックはどちらかというと爽やかだ。先生は神秘的な雰囲気がある。
「犬と遊んでたらさっきの人が来て……。別に大したことは話しませんでしたよ」
先生は数回頷いて離れて行った。先生は振り向いて私に言った。
「あの男にはあまり近付かない方がいい」
そういって野原の方に歩いて行った。

 夕方頃、私宛に手紙が届いた。
「母さんからだわ」
私は急いで部屋に行き、わくわくしながら手紙の封を開けた。
 セリブリック
 元気でやってる?
 便りが無いものだから
 少し心配してるのよ
三枚に書かれた手紙を読んでいるうちに、目にした文章は私をびっくりさせた。
 画家の妹が何者かに殺された新聞の記事
 知ってるかい?
 あんたの慕っている画家の名前と確か同じだったようだったけど……。
 切抜きをいれるね
私は封筒の中をもう一回確かめた。新聞の切抜きが入っていた。きっと新聞の隅の方の小さな記事だろう。ここでは新聞を取っていない。
「この頃人気の出て来た画家、シュータ・D・ゼリルの妹エスベダルダ・D・ゼリルがコリトルホテルの一室で絞殺死体で……」
……エスベダルダが殺された……?
私は数日前の夜を思い出した。先生とファッタナックとの会話。その後の先生は街に行き、その時はきっとファッタナックも一緒だった。そして帰ったときは気分が悪いようだった……。
「やだな。やーめた。何も考えないことにしよ」
私は部屋を出て広い廊下を歩く。
玄関の女の子の絵はこの夕方の時刻見ると、あの時の様にどこか(優しげな哀愁じみて)悲しげだった。
「………」
「その絵、好き?」
「え」
振り返ると先生がいた。
「はい。好きです」
「ありがとう」
「………」
先生は絵を見上げて少し悲しそうに力無く微笑んで見つめていた。
初めて先生のそんな表情を見て、私まで悲しくなって来た。
「この女の子はマチルダっていってね。四歳の時事故で死んだ。私の大切な子だった……」
先生は私に背を向けて外に出て行った。
スケッチブックを持っている。見覚えがあった。あの時、地下で見た女の子、マチルダのデッサンがしてあるものだった。
「先生、どこへ……?」
先生は何も答えず歩いていった。
「先生……」

 数日後、ずっと涼しい日が続いた。猫もご機嫌がいいらしい。でもそんな中でも変化をして来ているのは、先生の心情だ。
この頃私に絵は教えてくれるものの、まともに絵を描かない。描くとしても駄作に終ってしまうという。今まで平常心を保っていた先生。あのファッタナックに再会し始めて先生の何かが動かされている。
廊下を歩いていた。
コツコツと音がした。振り返るとファッタナックがいた。
「なんですか」
「君の先生はいるかい」
「先生、この頃様子が変なんです。もしかしてあなたが原因じゃないんですか? 困ります。先生、元気無いし……。先生を訪ねるの止めて下さい」
私はそう言うと、そそくさとその場から立ち去った。


 シュータ

 シュータは気晴らしにスケッチをする為、野原に向かった。
この季節は、名の解らない小さな赤い花が咲き始める。
シュータは途中でスケッチを終え、辺りを見回した。
その内、湖のほとりでセリブリックが歩いているのを見かける。
シュータはセリブリックのデッサンを始めた。
いつだったか途中までデッサンしたが、そのままだった。
絵の構図は、セリブリックが湖のほとりの平らな岩に腰掛け、木の上の黒猫と見詰め合っているものだ。
どのぐらいかして描き終え、アトリエに向かった。
アトリエはセリブリックが片付けたらしく、綺麗になっていたが、初めから手をつけるなといっておいた絵具には手をつけてはいなかったが、その絵具で黒猫が足をべたべたにして遊んでいるのを見てギョッとした。
「何をしている、お前」
布巾で黒猫の足を拭き、足跡を拭き取った。
「あんなにアトリエの戸は閉めておけと言ったのに……」
この黒猫は元々この家の飼い猫ではなく、ただいつの間にかこの家に住み着いている野良猫のような物だ。
躾がされていなくて困る。
「この悪戯者」
幸い、絵具の色の分量は覚えていた。
三日前から描き途中の街の絵を夕方頃まで仕上げた。
コンコン
「先生。夕食の支度できました」
夕食の後からセリブリックに絵を教えた後、セリブリックの顔のデッサンをしなおした。
その後、キャンバスに描き始める。

 この頃どうも気が乗らなかったが、彼女の時は不思議と筆が進んだ。
この頃ファッタナックが尋ねてこない。
スッキリしている。
今日も涼しい。デッサンに出かけた。空のスケッチだ。
野原に寝ころがり空を見上げる。
淡い空で、薄く小さな雲がゆっくり動く。
にわかに暗くなった。
ファッタナックの犬が寝ている私に擦り寄って来た。
私は驚いて上半身を上げ、犬を避けた。
「……ファッタナック……」
「君が犬が苦手だったな」
屋敷に帰ろうとしてスケッチブックを取ろうとしたら、ファッタナックが先に拾った。
ファッタナックはペラペラと捲り、言った。
「セリブリックという女の子だったな。この子は」
そう言ってまたペラペラと捲って言った。
「返して」
手を差し伸べるとファッタナックは私に手渡した。
私は立ち上がろうとしたら、ファッタナックが髪をぴんと引っ張った。
私の横に座り、ズボンポケットから新聞を出して言った。
「何?」
「エスベダルダの記事だ」
私は新聞に目を通した。
「……だから? もう関係無いわ。それにあなたの犯行と判らないよう、証拠となる物はこの前全て処分した筈よ」
ファッタナックは再び立ち上がろうとした私を取り押さえて動けなくした。
逃れられない。
「エスベダルダの後はまた私に戻るわけ?」
ファッタナックは髪の紐を取っていった。
蹴ろうと思っても取り押さえられている。腕も手の痕がつくほど強く押さえつけられている。
「あなたにはうんざりよ。あなたなんて嫌い」
「なんとでも言うがいいさ。静かにしろシュータ。エスベダルダのようになるぞ」
ファッタナックが囁いた。
どうにかしようとしても力に差があった。
その時だった。
犬がワンワン鳴いていた。黒猫を抱えたセリブリックがいた。
「セリブリック」
ファッタナックもセリブリックに気付きスッと開放した。
セリブリックは間髪をいれずに目を吊り上げた顔でファッタナックにビンタした。
猫はびっくりして犬側に飛び降りたが犬に吠えられ、セリブリックの足許に隠れた。
「先生嫌がってます。年甲斐も無いわ。帰って下さい。先生から離れて。でないと警察呼ぶわ」
ファッタナックは打たれた頬を軽く押さえた。
「勇ましいな。セリブリックくん」
そう言って新聞を拾って犬と一緒に歩いて行った。セリブリックは新聞を見て少し表情を変えたように見えた。
「……大丈夫……ですか。先生」
何もいう事が出来なかった。
頷き、その場にいられなくなってスケッチブックを持って歩き出した。
少し歩いて、お礼を言って屋敷に向かった。
部屋で休んでいるうちに、やりきれなくなった。シャワールームへ向かい、体の感覚がなくなる程強く洗った。
その後、疲れきった体で部屋に向かい、そのまま眠りに就いた。


 二日経ったが先生は部屋から顔を出さない。
先生の事が心配で数度、様子を窺いに行ったが何の応答も無い。本当にこの部屋にいるのかしら。知らない内に違う場所に行っているのかしら……。
この日は雨が降り続いて外に出られない。アトリエは二日前のまま、何の変化も無い。
玄関の方で呼び鈴が鳴った。
玄関のドアを開けると見知らぬ男達が三人、立っていた。
「君は? ここはゼリルさんの家だね。私はアスターズ署の者だ」
……刑事……。
「セリブリック……。ここで絵を習っています……。あなた達こそ何なんですか」
はっきり言って検討はついていた。妹のエスベダルダの事件についてだろう。男達は揃って屋敷の中へ入って来た。
「お待ちください」
立ち止まって男は言った。
「シュータ・D・ゼリルは在宅中かね。彼女に用があるのだが、いるのなら呼んで来てもらえたら嬉しい」
その後、先生は漸く出て来て、応接室で取調べという者を受けているようだった。
どれぐらいかして私はお茶を用意した。その際に、私も取調べを受けるように男達に強いられた。
男達はここでは何の情報も得られないと思ったのか、引き下がって帰って行った。
「先生……」
「セリブリックくん。お茶の片づけを頼む」
そう言って先生は何も無かったかのようにその場から離れて行った。
「大丈夫ですか。先生」
色々な意味も含めてだった。エスベダルダの事件のことや、先生とファッタナックとのこの前のことや、ここ数日の先生の様子……。
一回溜息をついて先生は振り返った。
「君が心配するような事は無い。大丈夫だ」
大丈夫ではなさそうに見えるのは天気のせいだろうか。
この頃姿を見せない猫。ファッタナックや白い犬。……とにかく先生が早く元のように戻ってくれるのを祈るばかり……。

 一週間後、先生は今までがまるで嘘のように、元の先生に戻った。
警察の男達が来てから、すぐ翌日、先生はどこかに出かけ、五日後帰って来た。その後、二日間アトリエに入っていた。でもアトリエから出て来た時には、機嫌がいいらしかった。
「セリブリックくん。たまには実家に帰るといい」
私は実家に帰ることにした。
どれぐらい振りだろう。懐かしい。
家では母さん、弟のディータ、姉さん、姉さんの幼い息子のレンが私を温かく迎えてくれた。
「どうだい。絵の方は」
母さんはテラスの円卓に得意のニシンの包み焼きを運びながら言った。姉さんはキッチンの方にいる。姉さんは私に休んでゆっくりしているように進めてくれた。
紅茶を飲みながら母さんを見た。
「ええ。結構いいところまで行ってる」
「そう。私も姉さんもいろいろ心配してたのよ」
「大丈夫よ。それに私子供じゃないもの」
ニシンの包み焼きの懐かしい味と、久し振りの家族との会話が私を心から安心させた。
朝、母さんに早く起こされ、久し振りに教会に行った。大きくなってから行く事も極稀になっていた私にとって、ずっと変らない教会や修道女達は、過ぎてゆくゆったりとしていく時間の中、神に祈りを捧げて生きているんだな……と改めて思った。
いろいろな事があった私の、心休まる第二の場所だ。築二百年余りと言われるこの教会。今まで何人の人の心を和ませたんだろう。
私はスケッチを取り出した。教会、私の家、懐かしい風景……私の心休まる場所を書き写した。
美術学校などは特に出ていない私。思った以上に構図がめちゃくちゃなのに内心がっかりした。こんなんでいいのかしら……。


 シュータ

 「お断りする。私は弟子を取らんことにしている。帰ってもらえないか」
午後の涼しい頃になって、館に弟子志願者が来た。
弟子になりたいといって、ここへ来たのはこれで六人目だった。今まで悉く断っていたが、セリブリックくんは今、この屋敷で私から絵を習っている。
あの時、何故かセリブリックくんを受け入れた。
弟子志願者はその後帰って行った。
予定ではセリブリックくんは今日の夕方頃には館に着くといっていた。
私は庭を一望して、ドアを締め、玄関に飾られた絵を見た。
「………」
生きていたら……生きてくれていれば三日後の子のこの十一歳の誕生日には、この子の為に苦手な料理だけど大きなケーキを作ってあげて、この子の好きな物を贈ってやれた……。生きていてくれたら……。
私は涙をおさえ、二階のアトリエに入り、絵に取り掛かった。
昼頃からまた姿を現し始めた黒猫も、陽に当りながらのんびりと昼寝をしていた。
いきなり玄関の呼び鈴が鳴った。
私は切りのいい所まで描かなくては気がすまない。客を二分ぐらいか待たせて、玄関へ向かった。
「重要参考人として、署にご同行願おう」


 館に着いたのは予定通り夕方頃だった。
先生はいない。庭にも、部屋にも……。
私はアトリエに向かった。この胸騒ぎはなんだろう。アトリエのドアを開けた。
「……いないわ……」
描き途中と思われる絵は……。
「これ……私……」
私だった。先生は私の絵を描いてくれていたのだ。でも今、どこにもいない。
黒猫が足許に来た。じっと私を見上げている。
「お前、先生の居場所わからないわよね」
そう言って抱きかかえると後足で私の頭を突き、ぴょんっと飛び降り、身を翻してトンッと着地してどっかへ行ってしまった。私は軽く頭を押え、自分の部屋へ向かった。
この胸騒ぎは何だろう。
私は机の上の紙に気がついた。
 アスタード署
 取調べに行く
 館を頼む
警察が先生を連れて行ってしまった。
私はいても立ってもいられない。館の鍵を全て掛け、門の鍵も掛けてアスタード署に向かった。


 警察の男達は私を釈放した。
その後、車で館に送られたが、門の鍵が閉まっていた。
夜遅くなってセリブリックくんは、帰って来た。
「せ……先生!」
セリブリックくんは急いで門の鍵を開けようとした。暗くて手間取っていたが、ようやく開けることが出来たらしい。
「アスタード署に向かったら、もう入れ替えに釈放されたって聞いて……。ごめんなさい。屋敷を空にしてしまって……。先生まで入れなくなって……」
息切れをしながら言った。
「いや。いい」
館へ戻ってセリブリックくんにお茶の用意をした。お茶だけは淹れるのは得意だ。
「ありがとうございます。本当なら私が淹れるのに……」
寒い体をラベンダーティーが温める。


 二日後、届いた電報に私は驚いた。
「先生! これ見てください。この電報……」
アトリエのドアを開けると先生は新聞を見ていた。いつから取ってたのだろう。
「……すまないがしばらく一人にしてくれ」
そう言って先生はドアの所まで来て、ドアを締めてしまった。
その痕、すぐにまたドアを開け、私に新聞を渡した。
「これを処分してくれ」
「……はい……」
新聞はエスベダルダの事件の事で、ファッタナックが正式に逮捕されたという事だった。電報もその様な事が書いてあった。
言いつけどおり、新聞は捨て、電報も一緒に捨てた。
その後、警察も、もちろんファッタナックも姿は二度と見せなかった。あの白い犬は一体どうなったのかしら……。
静かなときが過ぎて行った。
二回目の先生の展示会が開かれる事に決まり、少しずつ慌しくなっていった。
出典作品は五十点に絞られ、その後、会場の打ち合わせを重ねて行った。
展示会は、あの新聞の事件も関与せず、無事に済んだ。
「事件が影響されはし無いかと内心どきどき物だった。いや、無事に済んだな」
開催者は先生と私にそう言った。



 早いものだ。もう三年になる。
この館に来て先生の弟子になった。
ずっと変らず、無愛想な先生と、私にあまり懐かない黒猫。巡る季節。
絵も上達が見られるし、そろそろ本題に入るのもいいだろうと先生は言っている。
もうそろそろ春。
また暖かい季節が来る。
静かな生活にもこの屋敷にも慣れ、私は毎日を心地良く過ごしている。
何も無く、静かな日々がこれからも続く事を願っている。

 「西へ行く」
私はトランクに荷物を詰め込んだ。車に自分と先生のトランクを乗せる。
当分、これからは屋敷をあけて西へ行く。先生が西へ行くと言い出したのは四日前の事だった。絵を描く為の新天地だ。
「画材道具は詰め終わりました」
「屋敷の鍵は」
「ここです」
車に乗って西へ向かった。
西の地域には行った事が無い。話に寄ると、マングローブの林、遠くには雪の積もる険しい山、平野が広がり、丘からは大きな湖が見える。ポプラの木に囲まれた牧場。何処までも続く森。西にしか無い樹木。花々。生き物。動物。強い風は石造りの家でなくては耐えられない。森に入れば大きな滝があり、どこまでも続く崖、霧の多い神秘的な森……。
そう言う場所らしい。これといって名称の無い地域だ。
でも時として西地域はほぼ全体が深い霧に閉ざされる事があるらしい。それにともなって西の地域に幻の場所、と私には思えていた。

 遠くではゆっくりと走る電車。眼下には街が広がる。しばらくここから離れる。
石段の上でホットドックを食べて、遠くを眺めている先生。風が心地良く吹いて気持ちいい。
しばらくして再び車に乗って西へ出発した。
「夜は寒くなる」
毛布を二枚取り出して、前座席に先生、後部座席に私は横に丸まって眠った。
 朝日が昇ると共に目が醒めて、再び出発した。
昼は牧場の農夫が親切に声を掛けてくれた。
「西地区は今が一番良いそうだからねえ」
「ええ。とても神秘的になりますから」
ラムステーキをご馳走になった。
「いい絵が描けるといいね」
私達は農夫と別れて西へ向かう。あと二山越えれば西地区だ。

 美しい草原が何処までも続き、この時期を実に爽やかな物にしていた。
時期によって湿原になるこの地帯は、動物達も移動を繰り返している。豊かな大地は全てが今、芽吹いていた。
温かな風は気流にのってやってきて、もしかしたら空の高みにまで届くのかもしれない。それは、はるかな命を乗せた雲の上。
輝く太陽の光に充たされたのは、空の上も、そしてこの地上も同じだった。
この地の美しさに圧倒されて私は笑顔が止まらない。


 [2012年新規追加]

 早速デッサンを始めた先生はやはりとても美しい横顔をしていた。
実は昨夜、宿で眠っていると先生が夢を見ているようで心配していたのだ。「マチルダ」と言いながら眠りながらにして涙を流していたからだ。
今の先生、大丈夫そう。夢を覚えていないのかもしれないし、西風の心地良さがその記憶を優しくつつんで天まで連れて行ってくれたのかもしれない。
あのマチルダの水彩画。
黒いきれいな膝丈のワンピースドレス、風に黒髪も、腰元の黒いリボンもなびいている崖先の女の子。マチルダは目をつぶり優しく微笑んでいて、両手を広げている。周りには、淡い水色の空と彼女を彩る様に浮んでいるたくさんの風船。パールパステルカラーの色とりどりな風船の絵画だ。三年前の絵画展でも、一番よく陽の当る場所に飾られた先生の愛情の絵画。
この三年間は、やはり先生の気持ちがずっと安定して済むことは無かった。時々酷く落ち込んでしまう時期はとても心配で、いつもエスメラルダの好きだったという青い鳥の絵を抱えながら見つめていたり、無意識にずっと黒猫の背中を撫で続けて何時間もぼうっとしていたり、稀にファッタナックも含めてマチルダと先生が写った写真を見つめている事もあった。夜は眠れない時期もあると、夜の庭で私と鉢合わせてはまるで旧来の親友かのように、昼の彼女では見せない、実に女性らしく神秘的な雰囲気で何時間も話をし続けた。まるで夢の中にいるような幻想的な話を。湖面に映る枝垂れる木々は夜に啼く鳥の姿を隠し、そして時々先生、夜は全てをさらにしたシュータを驚かせる事も、そして微笑ませる事もあった。
この西地区は館がある東側とは違い温かな気候で気持ちをどこまでも穏やかにさせた。私は南地区に実家があるので、家族とは連休時にピクニックのためにこの西地区へ訪れていたが、こうやってデッサンの為に訪れたことは初めて。
なので、改めて素晴らしい場所であることを再確認できる。
「デッサン……ですか?」
私達は顔をあげ、青年の声のした方向を見る。
爽やかな金髪の男の人がいて、笑顔でこちらに来ている。風が吹く西地区の草原は青年の金髪も白く眩しいシャツも翻し、太陽はその笑顔を美しくしていた。私は耳を赤くして立ち上がった。まさかの一目惚れだろうか。
先生を見た。
彼女は素っ気無く「ああ」とだけ言って、また背を向けてデッサンを始めた。いつもの事だった。
青年は歩いて来ると横まで来て、微笑んで私にウインクをしてから草原を見渡した。私も笑顔で青年を見上げてから緑の蒸せる大地を見渡す。
先生はちらりと横目で私を見上げて、くすりと可笑しそうに笑った。その顔に書いてあった。顔が真っ赤で青年に一目惚れしましたと書いてあるわよ。と。私もつい照れて耳をセミボブの髪で隠し、頬まで熱かった為に西風に当っていいように吹かせた。
「僕はオルウェ。あなた方は? この辺りでは見かけないね」
「東地区から来たの。彼女は私の絵の先生、シュータ・ジゼル。私は唯一の愛弟子オリビア・セリブリック」
唯一の愛弟子の所で先生が可笑しそうに笑い、青年も笑顔で彼女を見た。
「本当? ジゼル先生? 僕は二週間前に北欧から来ました。あなたの水彩画はとても透明感があって大好きです。まさかこんな偶然があるなんて」
嬉しそうに青年が手を出しだした。先生はその手を見て無表情になり、視線をそらしてデッサンを続けた。
「ごめんなさい。先生はとても気難しい方なんです。打解けるまでは三年かかるだけで」
「セリブリックくん」
「だって先生」
青年も笑い、野鳥の鳴き声で私達はそちらの方向を共に見た。
もしかしたら、まだ男性に対する大きな不安感があるのかもしれない。青年は無理に彼女に声は掛けずに私の横に座った。
「この一週間、毎日来ています。僕は絵画はめっきりだけですが、音楽を作ってるのでこの場所を題材にね」
「素敵」
青年は私たちを見た。
「いい事、思いつきました。僕のレコードの盤面の絵をお願いしてもいいですか? ジゼル先生」
先生は横顔から顔をあげ、しばらく青年を見た。
私は先生と青年、オルウェを交互に見た。
「いいでしょう。承ります」


 私はショックを受け、ドアの前から走って行った。
この二ヶ月間をずっと舘で小型のハープを持ち込み音楽つくりをさせてもらっていたオルウェ。
彼がリビングでまたぼうっとしていた先生の座るリクライニングソファーの横に膝を付き、そして彼女の手を取って言ったからだ。
「僕はあなたと共にいられたらと思う」
そんな言葉に驚いて私は走り出して舘から夕暮の野原に出た。
広い敷地に舘がぽつんとあって、私も今ぽつんと取り残された感覚だった。
小高い野原の樫の木の横から、見渡す。
草木が埋め尽くす敷地内、向こうに門から私道で繋がった舘があり、今は白い壁が夕焼けに染まっていた。西側は林に囲まれた湖があり、今は明るい色味も深い色合いで心情を写すだろう湖は見え無い。東側は森が続き、遥か向こうには海がまだ西の空に浮ぶ夕陽で赤く煌いていた。
屋敷がある北側の遥か先は、此処からでは街並みは今は闇色に落ち着いている。
二ヶ月前の西区の草原では幸せな情景が浮かんだ。でも、今は悲しかった。
「先生」
私は扉から走って出て来た先生に驚いた。遠くなので、今にも小さく見える先生が舘の北側にある方の草花の庭陰に隠れてしまいそうだった。オルウェが追いかけた後姿まで、見えなくなってしまった。
心配になって走って行くけれど、夕陽に染まる北の庭園に来ると足を止めた。
きっと、この二ヶ月間彼なりにずっと彼女を見守りつづけて来て、感慨深い事も多かったのだろう。
優しく背を抱き締める彼の腕が頼りあるものに思えた。女の私では、先生の親友にしかなれない。
私はうつむいて目を綴じ、引き返した。
猫の声で顔をあげた。眩しい西日に目を細め、暗がりに紛れていた黒猫が足元にやって来た。
林の輪郭を眩い紅が染め上げ、一瞬、幻想を見た。
マチルダの笑顔だ。腕を広げて赤い陽を背に降りてくるような。
何故か、私は涙を流していた。
一瞬のことで陽炎だったのかマチルダは姿を隠したように見えなくなり、咄嗟に庭の方へ戻った。
「先生!」
驚いて私は走って行った。
オルウェは倒れた先生を腕に抱えて顔を覗き見ていた。彼の肩に手を当て、先生の顔を見つめた。
「何で?」
「夕陽を見た瞬間にふらついて……」
先生にもマチルダが?
私は不安になり、彼女の肩をゆすった。
「先生」
「マチルダ」
夜、夢でうなされた時と同じ声だ。彼女は目を開くと、黒い瞳にきらきらと赤い夕陽が眩く跳ね返っていた。そして、涙が溢れて一気に流れた。
先生が私の腕にしがみついて肩を震わせて泣き、私は彼女の肩や頭をなでてあげることしか出来なかった。オルウェは心配そうに彼女に声を掛けなだめ続けている。
しばらくはずっと彼女を見守り続けた。
先生は気分が落ち着いた頃に館へ戻り、彼女を一人にすることは今は避けたかったからオルウェをリビングにいさせて彼女の部屋のドアをノックした。
「はい」
意外にドアが開き、私を見ると「先ほどはありがとう」と言って引き返して行った。
「入ってもよろしいですか?」
「どうぞ」
「失礼します」
「オルウェにも申し訳なかったな」
「彼も察してくれています」
先生は小さく頷き、床から私を見た。
「すまないな。君が好意を寄せている相手だ」
「………」
私は彼女の顔をみてしばらく声が出せなくなり、黙ってしまっていた。この数年の事で分かる。先生ももしかしたら優しいオルウェに徐々に好意を寄せ始めているのかもしれないことを。
「いいんです。彼が誰を好きになるか、誰を選ぶかは私には決められません」
この二ヶ月間、先生はレコード盤のラベルにプリントされる絵を描いている。そのデッサンが壁に貼られていて、細かいメモが黒板にチョークで記されていた。絵はまだ一部しか出来上がっていないけれど、西地区のあの鮮やかな風が夏場の今でもさらに輝いている。
もう少しで本格的な夏が訪れて、この場所は避暑地として遠方から数組が自分達の別荘にやってくる。
初夏の風と共にやってきたオルウェは夏を越えたら、音楽も作り終えて帰ってしまうのだろうか。先生へのプロポーズが何を意味した言葉だったのか、私はまだ知りたくは無かった。
でも、先生には絶対に彼女の支えになってくれる男性は必要だ。やはりオルウェの様に。


 その日から、徐々に先生とオルウェの視線が合う様になって行く事が分った。食事のときや、彼がハープを奏でている時、先生が猫の背を撫でているとき。でも、先生はすぐに目を反らして横顔は一瞬躊躇いを掠めさせた。
時々アトリエでハープを聴きながら彼女は絵を描く。私はゆったりと時の流れを感じながら彼等をデッサンして、稀に二人にした方がいいのだろうかと思う事もあった。
いずれ、先生は誰かのものになるだろうし、一人でずっとマチルダやエスメラルダの事を抱え続ける事も出来ない。
いつかは私も彼女から独立する日も来た方がいいだろう。その時には、オルウェが彼女の横にいれくれるといいのに。
今日も私はオルウェを目で追ってしまうままに、そして反らしてはサラダを口に運んだ。
夜の星は窓から夏の星座を光らせている。
静かな夏夜は、まるで先生の絵画の中でまどろんでいるかのようだった。一年前に開かれた彼女の展示会で私は林の中にいた。その時の用に。ひんやりとした平たい石に腰掛け、黒猫を見上げ、その時は、まだ私の先生は私だけの先生だった。夜の親友めいた時間も、窓の先に閉じ込められた透明な時間だった様に、これからも保管されるのだろう。
それでいいのかもしれない。彼女が大切なマチルダを失い、そしてオルウェと出会えるまでを私が時を繋ぎとめてあげられたなら、絵を教えていただいた大きな感謝の変わりにどんな時間だって差し出せる。
彼女の絵画が大好きだから。彼女が生きて来たこの舘と敷地の自然世界が愛しいから、その世界と共にいられたから。
だから、いずれはオルウェに任せられるときが出来て、先生自身の心が整ったときが来たら私はここから外へ出よう……。
それは今のような夏の時季か、それとも凍て付く冬の時期か、新たな愛を探したくなる春なのか、どうなのか……。

セリブリック

セリブリック

平成8年……1996年、中学二年生時の作品。 草原に到着後は未完成のままだったのですが、2012年についに草原到着後から新規執筆完成。 16年の月日の経過であたし本人の文章の表し方や恋愛価値観など違いが現れているかもしれません。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-03-14

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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