いづこの月花

 [いづこの月花] 2012/07/15

月下(げっか) 明の房の美しい娘。十五歳
夏花(げっか) 翠葉園の琴奏者。二十五歳
明の房駿作(あけのぼう しゅんさく) 柘植櫛職人、月下の父
夜七(やしち) 駿作の妻
翠葉園(すいようえん) 様々な習い事の屋敷
佐吉郎(さきちろう) 花道家元の末っ子。月下に憧れている。十五歳。


<一の巻> 月下


 序幕



 散り行く紅の花弁を、夕陽の中に見る。
まるで陽炎に溶けてゆく様なその美しさ。風に散ってゆく花弁の影を瞬時につくり煌かせ、そして眩しさに目を細めさせた。
豪風吹き荒れる丘に佇んだ月下(げっか)は涙を散らしながら、目前に手をかざした。夕焼けに染まる細い指に触れてゆく花弁は、甘く乱れるような香りを鼻腔に充たさせては思い知らせてくる。
愛に揺れた記憶全てが陽炎の先に消えて行ったことを。
黒髪が腕や首に巻きつき艶を受けて、一体化させる。袂に焚き染めた香の香りと花の香り。
いつぞやの冬は共に並んで崖に座り、黒髪に椿の花を付け合った。夜は美しい彫りの柘植櫛で髪を梳かし合い、雪が降れば庭に出てぽとりと落ちた紅い女の様な首を白い手にとる。そしてふと見つめあい、妖しく微笑み合った。
だが今は、月下は一人。夕陽に照らされ風に吹かれては、香りの中で泣いている。
頬は煌き照らされ、眼下の海が炎の様に燃える中へ誘わせる予感。
彼女が飛び立ったのなら、わたくしも飲み込まれてもいいのかもしれない。
月下は夕闇が迫る前に、下駄をカラリと脱ぎ捨て一歩踏み出した。
下駄の黒漆は陽を受け赤くなめらかに光り、鼻緒の色と混ざり合う。
風に乱暴にはためく衣は紫に絢爛な華が挿された美しいもので、襦袢の白がはためいた。
紅のさす唇は一瞬舞う花弁と重なり、一気に月下は背を海に向けた。両腕を広げ目を閉ざし、刹那崖から離れて行った。
その時咄嗟の手が伸び細い手首に指が届いた。

<二の巻> 夏花 

 第一幕


 翠葉の日本庭園。それは緑鮮やかに生命宿る八月の事だった。
夏花(げっか)はせせらぎの響く横、枝垂れた緑が揺れる涼やかな中で琴を掻き鳴らしている。
それを毎日楽しみにやって来る男に、明の房駿作(あけのぼう しゅんさく)がいた。彼は柘植櫛職人であって、実に素晴らしい技を見せ女子達を喜ばせた。
小川は幾つも珠の様な煌きを跳ね、滑らかな水流はアオスジアゲハのはばたきともまた相容れぬが、それも涼しげな昼下がり。
琴音は繊細で心落ち着かせるものがあり、閉ざされる駿作の瞼さえも心地良く弾く。頬を微笑ませると、彼は眼をひらいて美しい女を見た。
雅な娘、月下とはまた違い、どこか男勝りな夏花の目元は涼やかな一重。気の強そうな口許は微笑んで、だが彼女が紡ぎ出すその音は清流と相成る調べだった。
彼女は顔をあげ、ふと男を見た。彼は微笑み煙管を離し、彼女も微笑んだ。
藍色の着物に萌黄色で蝶のさされた衣。それは夏の緑によく映えて、夏花のままに自由に飛び回るふうだ。落ち着き払った物腰の中にも。
赤い布を敷いた長椅子に冷たい和菓子と茶を出した屋敷の女中が、二人を見ては微笑んだ。
「奥方が見ておられます」
ふと初めて気付いたかの様に駿作はせせらぎの向こう、岩場に座る妻夜七(やしち)を見ると、照れてはにかみ夏花に笑われた。
「ほうら。おせんが悪戯を言うものだから、旦那様が」
女中は可笑しそうに盆を持ち戻って行った。
咳払いをして駿作は石橋を渡って来る妻を見る。
夜七は静かに彼の横に腰を下ろし、旦那の耳もとに囁いた。
「やはり、夏花様は月下に」
横目で彼は美しい妻を見て、頷いた。

<三の巻> 月下


 明の房の昼下がり。
月下は陽の当らない影で褥から射す陽を見つめていた。
畳に差し込む陽は、白足袋の足許に届きそうで届かない。
団扇を仰ぐ父は向こうで風鈴の音を聞いては縁側で目を綴じていた。母は職人である父の休み時を邪魔をしない様に静かに過ごしている。
夏が苦手な月下は多少朦朧としていた。
炎天下ではいつでも倒れる彼女は滅多にこの時期は出歩けない。
外では追いの打ち水をする者が水を煌かせ桶から柄杓で巻いている。
「ごめんくださいまし」
凛とした声に、月下はゆっくりと戸を見た。
若い女性が笠を取り、そして微笑んで屋内を見渡した。
父は団扇を置いて嬉しそうに立ち上がり、奥の妻を一度手を叩き呼んでから女を迎えた。
月下も膝を付き出迎え、そしてまたちらりと彼女を見る。
笠を置いた彼女は月下をしばらく見つめ、そして優しく微笑んだ。
「美しいむすめ」
月下は頬を染め、うつむいた所で母がきては共に中へ招いた。
「よくいらっしゃりました」
「この子はひとり娘の月下。月下、彼女は翠葉(すいよう)のお屋敷からいらしたお方で、夏花様だ」
同じ名前。
月下は夏花を今度はしっかりと見つめた。静かに頷き、また顔を上げられなくする。
蝉時雨が一気に鳴き喚きはじめ、頭を朦朧とさせた。
「おや、まあ」
緊迫から月下はふらりとして、そして顔を白く気を失ってしまった。
母は彼女を支えて団扇で扇いでやり、父は井戸からくんだ水で浸した手ぬぐいをあてがった。
「沈みこむ夜は落ち着いてるんだがね」
「あら。目を開いた」
夏花はほっと安堵して月下を見た。
「わたくしはこれより貴女に様々をお教えしますね」
翠葉園は様々な慣わしを習得するお屋敷であり、柘植櫛職人である駿作は翠葉園の女達に用達される櫛を代々造って来た。
妻の夜七は和菓子問屋の末娘であり、翠葉園にそれらを卸してきたところの者だった。
「よろしいのですか?」
翠葉の者をつけてもらうなどとは、普通はできるものでは無く、いくら由緒ある問屋と柘植職人の娘といえど同じこと。
大きなお屋敷の娘が嫁入りとして様々を習えるのだが。

<四の巻> 月花

 半分の月を一つに重ねた様なのが、二つの柘植の櫛だった。
それは鏡台に揃えて置かれ、月光が射す中にある。
椿油で充分に潤し乾燥させた柘植櫛は薫り高い椿油が香った。
それを手に取り、夏花は月下の長い黒髪を結ってあげている。実に様々な髪結い道具が並び、鬢付けの器横に置かれた油には月が小さく揺れて光っていた。
白く細い月下のうなじは弱々しく、そして透き通るかの様だ。少し夏花が首を傾げれば、彼女の麗しい目元顔立ちが覗く。
ふいに、思ってもみなかった目の光が月下から静かに発された。
「………」
夏花は口許を閉ざし、一度微笑んで見せては髪結いを続ける。月光だけを頼りに行く全ては、繊細な琴を奏でる時も同じく落ち着き払っていた。
それでも、月下から発される雰囲気は夏花のいつもの肝の据わった感情をどこか動かした。
「どうなさいました」
「ふふ。いいえ」
月下はまるで別人の様に月光に照らされると冷静であり、そして何よりも珠の様に美しい。それがまるで強固とした光が寝付く瞳と同様で。
髪結いを続けるその鮮明な影が実物と重なり畳に映写され、それらはまるで御伽噺が始まる瞬間の様な糸紬ぎの瞬間だった。
「本日は、よい夢を見られそう」
月下が透き通る声で言い、夏花を見た。
それはどこか、夏花までも幻惑へと取り込む夜鬼の様な。
簪を挿す夏花はその手元から、月下を見た。
一瞬、彼女が美しく結い上げた髪と白い額の間に、小さな角が見えた気がした……。
刹那、夏花はゆらりと倒れた。
いつも結ってはいない長い髪が畳に広がり、喜々として月下は微笑み膝を着いた。
月下もいつも長い髪の先でまとめているのみで、母の様に髪結いをしてはいない。
園内の芸を披露する者達も皆、髪は其々に結い方が違い、流しているか上部だけ八の字に結ってある事が多い。
彼女は昼の内に椿油の染み込んだ柘植櫛を手に取り、そして夏花の黒髪を梳かしはじめる。ゆっくり、ゆっくりと……。

<五の巻> 月花

 夏花は夜のせせらぎの横、濡れる若草を柔らかく踏み歩いていた。
裸足に冷たい露が染みては、夏草の香りに辺りは占められていた。
向こうでは、夜の色に染まる木々の枝垂れる下、蛍がゆっくりとした光をうつろわせている。
柔らかな木々から覗く天の川は粉の様な星を天に広げていて、屋敷でも習う難しいが愉しい数学の図式を思わせた。
それに、なんといっても美しくたゆたう長い髪に思える満天の天の川。月下の如く。
視線を落とす河のせせらぎは、琴の線のように見える。繊細であるが野太い音や甲高い音を鳴らす琴に。
透明な水は夜の黄緑の苔を鮮やかに月に照らさせ水流でゆらめかせ、そして銀の小魚達がたまに見え隠れする。
美しい夜だ。
そして滑らかな流れには天の川が映っていた。見た時から神秘の夜を思わせた月下の姿に思える天。
先ほどまで、髪結いを行なっていたというのに。
ごろん、という大きな鈴の音に夏花は身を返した。
振り向くとそこは屋敷の庭園であり、障子の閉ざされた向こうは何の明りさえともらない。
葦毛馬が静かに佇んでおり、その黒い絹手綱を持つのは月下だった。
髪は結ったはずのとても複雑な髪結いであり、翠葉園が考案したいいくつもある中から選ばれた一つの形態だ。
そして、馬の白い毛並みを静かに撫でて月下は夏花に微笑んだ。
「これは、現の事では」
「幻でしょうか」
月下は人の形はしているが、それでも目に見えて違う点があった。鋭く白い耳が毛に覆われて頭の上に二つあるとか、純白の絹毛の様な尻尾が三本も生えているとか、そういう事では無い。
「木のまやかしなのか」
月下の手腕は袂から出る皮膚は木肌で、そして顔の輪郭は頬を囲う葉だ。見え無い脚も幹のようかもしれない。
柘植の木はこの翠葉の庭園にも剪定されて配されている。
明の房家は柘植の林を育て管理してもいるので、林には大きな柘植の木も多くあり、そして他の樹木も多く生息している。
この庭園の柘植の木もその林から移植されていた。琴や他の楽器や道具の材料の為にも桐林を持つ家、黒檀林を育てる家など様々が山を有している。
松庄(まつしょう)家も庭園に松を移植し、松林を持ち、そして細工物も手がけていた。馬は黒松と赤松の間に影を落とし、首をもたげた。
「貴女様は柘植のまやかしなのか」
夏花は月下に照らされる彼女の美しさに魅せられ、いざなわれて歩みを進めた。
小さな葉が重なる頬に触れ、本物の葉が彼女の滑らかな頬から生えているのだと分った。
夜七と駿作の娘だ。妖艶に時に微笑む夜七と、時に光る駿作の悪戯な瞳を併せ持つ二人の娘である月下が夜には目覚める落ち着き払った姿は、彼等も知っての事に思える。
「夏花様」
月下がしなやかな幹腕を伸ばした途端、白く細い指先から幾重もの葉が舞い視野を埋め尽くし、あっという間に夏花を包み込んだ。
その中で月下の眼前に差し伸べられる生身の手が浮き、夏花はその手を掴んで目を閉じた。澄んだ声が葉のもつれあう音の間に、頬や肌に触れる葉の先に聴こえる。
「わたくしは貴女が気に入りました」
閉ざされる視野の先、透明な玉が大小揃えて幾つも空間に浮く中声が薄れて行った。
「………」
夏花が目を覚ますと、畳の香りがする。仄かに、椿油の香りも。
視野には畳と、そして長い長い自らの広がる黒髪。
しー、しー、と、長い音と感覚が耳と頭皮に伝わり、顔の方向を変えた。
柘植櫛で梳かされる髪が艶を受けて、まるで月光を受ける琴の線だ。
「夏花様。お美しい髪」
明の房の所の月下の髪もそれは美しい黒髪だ。
夏花は上体を起こし、先ほど見た幻惑が現であったのか、光を帯びる月下の瞳を見つめた。
「明日は、わたくしが貴女様の髪を結うさせて頂きましょう。柘植櫛処の娘だもの、早く上達させないと」
少女の様に微笑み、月下は柘植櫛を持つ手を膝に置いた。
「ええ。そうでございますね……」
夢現のままに、夏花は頷き、妖しげに頬を月に照らされる彼女の眼差しを見つづけた。

<六の巻> 夏花

 朝霧が立ち込める翠葉の庭園。
皆が出て来て庭の掃き掃除を行なっている。熊手を持つ女や、箒を持つ女、葉をあつめる篭持ち、一輪挿しに挿す花を摘む女達、朝陽が掠める帳のもと揺れる霧の中。
夏花は小さな箒を持ち露払いを行なっていた。煌く雫が幾つも飛んでは、美しい蜘蛛の巣も繊細に光っている。
まるで、雫一つ一つは月下という蜘蛛の巣に掛かった夏花自身の心に思えた。
「どうなさったか?」
いつも勇ましい背で颯爽と朝露を払う夏花の背が本日はしおらしく思えた女達が、くすくす笑って彼女に声を掛けた。
「心はどこへ惑っている?」
夏花は切れ長の目の下の頬を珍しく紅く染め、首を振った。
「まるで女郎蜘蛛に心を虜に繭にされた様だね」
夜の内は夕餉があるから蜘蛛に恨まれるだろうものの、朝の蜘蛛ならば巣を払う役目の女がさっと払おうとして、夏花は一瞬止め様としたが手は出さなかった。
咄嗟に蜘蛛は逃げていき、柘植の木の奥へと入って行った。
夏花はその細かい葉を見て、完全に霧を貫き石砂利と置石の地面に届かせ始めた朝陽を見た。
しばらくその場を見つめてる夏花の横顔を見て、女達は顔を見合わせた。
これはどうも様子がおかしい。
「本日は坊にお琴を指南する日だね」
夏花は気付いた様に女を見て頷き、庭園を見渡した。他の女達はあらかた掃除を終らせ、朝餉のしたくの為に引いて行く。
彼等も朝の庭園を歩いていき、夏花は最後に打ち水をしている女が残るのみとなった庭園を振り返った。
朝霧が消えてゆく美しい中に、その光りさえも似合って思える月下の幻が浮んだ気がした。
本日は涼しい一日になるだろうか。月下はどうやら暑さが苦手らしいが、庭園の柘植の木はどこまでも丈夫であって緑鮮やかだ。
月下は弱々しい瞳を称えた女であって、神聖さが根付いた気がした昨夜の夢は正体さえも不明にさせた。
朝餉も終えれば坊を迎えて琴の間で教授に入り、彼は正午を過ぎれば香道に入る。
なので、午後に夏花は明の房へ向かう事になる。
「はい。なので、次はこの線を押さえて」
「はい」
坊達は本日は三名。五歳と八歳と十五歳の齢で、十五才の佐吉郎は月下と同じ齢。花道の家元の坊で、武骨で武骨で仕方無いから父が琴を習わせていた。
夏花は二十四の齢であり、姉が江戸に奉公に出ている。姉は佐吉郎の兄、将来の花道家元、華継(はなつぐ)の妻でもあるが、三十になるまでは旦那と息子から離れて家督も彼等に任せ江戸にいることになっている。
夏花は琴だが、姉は鬢付け師でもあった。なので夏花も髪結いには明るい。
「先生。うまくいきませぬ」
八歳の坊が手を上げ、そちらへ向かう。丁寧に指導していき、薬屋の坊は頭はいいので頭で要領はわかっていても形に出来ずに根気良くがんばっていた。
いつも天秤と粉や薬の原料ばかり見ている坊だから、雅な音の羅列は数に見えているのかもしれなかった。
夏花は気が逸っていた。
心なしか、明の房へ早く向かいたい。
それが出ているはずも無いが、子供の目にはごまかしきれないのか、五歳の坊が言った。
「夏様は佐吉殿に惚れておられる」
「こら鞍の助」
本当に夏花に惚れている佐吉郎の方が耳を赤く鞍の助を叱り、いつも大人しい幼子は琴を弾き続けた。
佐吉郎は分かっている。夏花はいつも鞍の助の所の駿馬達を原で乗り回す爽やかな夏花が殿方に興味など無いことを。
勇ましく鞭払う姿を慕っても、年が追いつかない佐吉朗に見向きもしなければ、殿方どころか琴や趣味以外に興味は示さない。
流鏑馬を行なう鞍の助の父でさえ案じていた。彼が見る彼女が持つものといえば鞭や弓矢、女らしい姿は琴を弾く時の姿であるが、何も粗暴な性格などでは無い。冷静である。
そんな夏花の事を明の房が呼び寄せた事は佐吉朗は知っていた。
深窓の娘、滅多に見かけない月下に髪結いや琴、裁縫を教えさせるらしく、いつでもどんと構えた明の房の二人の微笑んだ顔が浮かんだ。
何か考えがあっての事だろうか。
分からなかった。
それでも、きっとあの美しい月下の虜になるのではないかという事は佐吉朗にも分かっていた。
昼は見かけなくても月夜出歩く月下は、団扇を下げては下駄をからから鳴らしゆっくり柳の横を歩いて行く姿を見かける。
どこか霧も無い先の幻を見る様で、屋敷の前を通る時は気付けばしばらくは要らぬものに襲われぬ様に佐吉朗は彼女を見ていた。
いつでも立ち並ぶ柳横から橋に立ち、町を流れる河を見つめている月下。佐吉朗は夜は屋敷を出てふらついているので、気付き易かったのだ。
夏花を見ると、また薬屋の坊を見ている。
あいつはわざと分からない振りをして佐吉朗の気に入りの先生を独り占めしているのでは無いかと思えてしょうが無い。子供相手に嫉妬など見苦しいからしないのだか、相手があの妖しげな雰囲気を持つ月下ならどうだろうか?
分からなかった……。

<七の巻> 月下

 月下は過ごし易い本日は翠葉様からお借りした琴を早々に確かめていた。
昨日までの暑さでいきなりの涼しさは体を崩す事も多かったのだが、今日はどうやら大丈夫。
向こうの床では父が柘植を彫っていて、横顔が鋭く真剣そのものだ。いつもは冷笑な風でも、仕事の時は声さえ掛けられない。
彼は午後から柘植林に出て木の管理に出かけるので、今の所は琴は鳴らさずに静かにしていた。
「月下」
「はい」
彼女は琴から顔をあげた。
「夏様はどうだ」
ええ、とすぐに返しかけた。
光る鋭い目元をちらりと月下へ向け、目元を細めて彼は微笑んだ。
あの美しい雅な方を、連れて行く。
顔を戻した父の額に、すうっと、白く鋭利な角が二本現れては、消えて行った。
柘植櫛に彫刻を施すそれは、彫刻刀ですっすっと彫り進められそして黒の靄が渦を巻きふつふつとあがって行く。通常見えはしない。
彫られている龍が櫛からゆっくり立ち昇っていき眼光を開き覗かせ、昇って行く。父の周りをゆっくり回り、そして昇っていき靄で出来た雲の中、渦巻くように旋回し始めた。
母がお茶を持ち進んできては、それを見て黒靄の雲に滑るように乗る睡蓮に指をスッと沿わせ、花は湖面の上の様にくるくる回る。
彼女は微笑し旋回する龍にふうっと息を吹きかけ龍は目を開け見ては駿作は彫っている龍から魅力的な上目でちらりと靄の中の龍と、そして妻夜七を見ては微笑んだ。
柘植櫛から顕れた龍は物に宿る霊である。完成すればそれは艶を発する黒龍の姿になり物に宿り、そして主になった者の髪に縫うように取り巻いた。
これは龍だが、他に山百合などは可憐に主になる女の周りに咲き誇り、彫刻が天女ならば雅楽を奏でながら神々しく背後につく様になる。
それは彼等にしか普段は見え無いのだが、ふと悪戯な時に櫛の霊は鏡の中に映りこみ、髪を梳かす女の目をふと釘付けにしては夢幻かと思わせた。
彼女はこげ茶色の旦那の視線にふと微笑み、お茶を台に置き身を返して娘の横にも置いた。
「夏様が恋しかろう」
流し目で母は微笑み、途端に頬を染めた昼のしおらしい月下は小さく頷いた。
「いすれは、命を頂くお方」
妖しげな光が彼女の瞳に宿り、一瞬蛇の目になり母の顔に戻っては彼女は扇子をゆるく煽いだ。
夏花様は今頃、こちらへ向かっている頃だろう。

<八の巻> 夏花

 動く事など出来なかった。
息を吐き出し夏花は目をおぼろげに開くと、そこは冷たい風が頬を掠める夜の庭。
遠くから声が聴こえる。密やかな声が。
濡れる岩に苔がはり、その濃い緑の先には川辺に蛍がしんみり光を広げている。
「蛍や 蛍」
駿作の妻、夜七の声に夏花は体をゆっくり起こした。
黒髪は、夜に月下と共にきれいに遊んだものだった。ゆるやかな髪形に可憐な飾りが揺れる。
「こちらへおいで 清い水はこちら」
「……夜七殿」
姿は見えずに月下を探すが彼女の声はしない。
「!」
岩場の影、草の横から蛇が這い、夏花は口をつぐんで立ち上がった。
「夏様」
咄嗟に振り返り、佇んでいた月下を見た。
彼女が夏花の頬に手の甲を触れさせ、言った。
「琴の弦がおかしゅうございます。お直しいただけない」
「ええ」
月下はゆっくり身を返し、夜の庭を歩いて行く。
既に、腕は幹であって見え無い足はなめらかに進んで行く。頬は葉に囲われ、美しい顔立ちは引き立っていた。
「白昼夢を観たのよ。あなたの。朝方よ……」
「夏様」
止めるように肩越しに静かに言って来たが止めなかった。
「白い天道様まで似合ったあなたの影を」
月下の胸がやはり締め付けられ、五年前女の魂を頂いた時とはやはり心は違った。
彼女は女の魂があって続く身だ。
柘植の櫛に女の魂を込め、そして夜に月光の元髪を梳かす鏡の中なら女の魂は現れた。
月下を静かに見つめ、その目元は暗くとも彼女は妖艶に微笑んだ。
その女は本物の和菓子職人の娘夜七だった。ずっと十年間を人知れず病床に伏していた。蛇女が夜七を見初めてから。
蛇の彫刻の柘植櫛は彼女が夜に手に取る瞬間、一瞬を鱗を光らせ彫刻に戻る。
夜七の魂を受取った母蛇は、いつでも金の目を光らせた。
夏花の魂を持っていけるだろうか。
そんな事はしたく無くなっていることを、両親は知らない。
柘植の分身である駿作は柘植に宿り、十五年前に蛇の這った幹は月下という精霊の娘を産んだ。
蛇の母は庭の柘植の幹にするすると螺旋を描き昇っていき、舌をちろちろと出し娘を鋭い目で見つめた。
月下は恐れなど見せぬ様、夏花の手を取り飛び石を進んでゆく。
翠葉のお屋敷へあがり、彼等の目の届かぬ内へ行く。
障子を閉めると、青い月光は格子の形で畳に降り、そしてその先に琴がある。
「こちら」
月下は進み、夏花を引き寄せた。
途端に彼女は月光の届かない中で人の姿に戻り、麗しい瞳で夏花を見つめた。
大きな黒の瞳は濡れ、夏花は困惑する前に背に手を当てていた。
互いに柘植櫛を通しあった黒髪は背にしっとりと落ち着き、そして椿油の薫りが心を落ち着かせる。
いつかは魂を? そんなことなどは出来ない。
お逃げください。
それが言えたのならば。
「琴をお教えくださいな」
月下は微笑み、身を一歩引いて夏花もこくりと頷いた。
しなだれるようにすわり、夏花が始めに奏でる琴を聴き目を綴じる。
そして、唄った。
月の光の様な唄。夏花様の琴に合わせてうたう。

「夏の静か
 夜の雫
 一見の妖
 試みるは花のとき

 九重の花
 月の路を
 声を惑わし聴く
 奏でられるは指先のご大切」

ご大切……。
ご大切……。
月下は目を開き、最後の消え入った詞に夏花の指に指を重ねて目を見た。
彼女は月下の目をはっと見て、髪が流れていった。
「お逃げください」
囁く様に言う言葉に月下を見ては、首を横にきっぱりと振った。
「私は貴女を好いている。その様な事はしたくは無い。貴女の父君と母君は許してくれているのでは?」
「そうでは無いのです」
「何故?]
じれったくて夏花は目を閉じた。月下も目を閉じ、涙を流した。白い頬に零れていきしっかと目を開く。
獲物を狙う母蛇の目はあの時と同じ。五年前寝床の夜七の魂を食べる瞬間の眼と同じ。
それをこの夏花にも向けていた。
足音に障子の先を見た。
青白い輪郭の影は母であり、幽玄の影は美しくこちらをキッと見た。
夏花は「何者、」と床の間の日本刀を取り構え、鋭い目になり影を見た。
「母上にございます」
咄嗟に月下は言い、彼女の腕に手を掛けた。
今宵、それが命を頂く日だ。それは出来ない。共にいたい。
母が障子を開ける前に、月下は夏花の手を引いた。
「お早く」
駆け出し、襖を開けて廊下を駆けた。
「逃げるのです」
シンッと蛇女は千里眼でそちらを見ては、一気に大蛇に戻りシュッと這って行った。
柘植の横、駿作は煙管をくゆりながら岩場にすわり、組んだ足を揺らしてはそちらを静かに見つめた。
これは、どうやらどちらかがどうなるか。
夜を走ってゆく二人は息を切らし黒髪を揺らしては、月光に照らされる今の月下は父の離れている時は人だった。
夏花は屋敷の裏手に回り、馬を出しては共にまたがり一気に胴を蹴って走らせた。
激しい蹄の音を響かせ走って行く。

<九の巻> 月下 <二>

第二幕



 夏花は琴で生計を立てていた。
月下は貧しいながらも琴にあわせ唄を歌い、ひっそりと隠れて二人暮らしている。
夜は菜種油の灯火の下、二人で静かに髪を梳かしたり、お香を楽しんだり、唄を歌ったり、琴を習ったり、幸せだった。
駿作の様に竹の横笛を吹くときの月下はどこか似て思えた。
都から離れたところに住む二人を、時々訪ねる者があった。
夏花の姉と、そしてその旦那の弟である。
夏花は昼は男勝りにせいを出して畑を耕し、月下は夜を絹糸を紡いで生計の足しにしていた。
夏花の姉はそろそろ江戸から生家へ戻るので、滅多には彼等に会いにこれなくなる。
毬をつく月下を見ているのは佐吉朗で、稀にそれを知ると夏花はクワを肩に担いで佐吉朗を見た。
それには気付かない彼はずっと影で毬をつく美しい月下を見つめていた。
夕餉は畑でとれた野菜と、それといつも琴を聴いてくれる農家が今季もくれたお米と野菜をあげている所でくれたこうじ味噌。
「駿作様と夜七様のお子はどう?」
一年前、新しい子供が産まれたと聴いていた。月下の下の兄弟だ。
男息子なら妖魔は無い。柘植の山を護り管理する役目と、職人の技を仕込まれることになる。
「目鼻立ちがしっかりしてきた」
佐吉朗の言葉に二人は頷き、夏花の姉は続けた。
「お二人の子だから、きっと利口でしょう」
「ええ」
月下は父と母に居場所は悟られてはいないから大丈夫と思いながら、それでも両親に会いたかった。父が管理する柘植の山も久し振りに歩きたかった。
小さな時は肩に乗せてもらい、母も共に山道を三人で進んだ。夏、とても爽やかな山は素晴らしい。
夏様もいきなり都を出て二年目。
寂しそうな顔など一度も見せずにいてくれる。
琴を弾くとき幸せに微笑んだ。まだ馬は高くて手にもてないが、近くの馬を借りて二人で散策をするときも幸せ。
月下は夕餉の片づけをしながら肩越しに見た。
夏花は昼に拾ってきたまきばを佐吉朗と運んでいる。
この生活が、続くのならいいのに。
 佐吉朗も夏花の姉も、小屋を離れていくときにその影には気付かなかった。
男が上目で影から様子を窺い、そして戸から月下が出て来た。
そして夏花も続いた。
男は口端を上げ、去っていった。
夏花の姉は笠を頭にかけ、そして杖をつき佐吉朗と共に歩いて行く。
二人は見送り、ゆったり手を振り続けた。
男の存在に気付かないまま、小屋へと引き戻って行く。
桶を出して来ると夏花は洗濯物を持って来て、横の井戸から水を汲み洗濯を始めた。
月下は五羽のニワトリに粟を蒔き始めている。
翠葉園の男は夏花を見つけたことを伝える為に都へ急いだ。
そして夏花を連れて逃げ出した張本人の月下も共にいた事を。

<十の巻> 月花

 翠葉園の男は驚き崖から海を見下ろした。
「夏花様!」
馬はいななき逃げていき、男は息を飲んで夜の暗がりの中、ひやりとした感触に立ち止まった。
「………許さない……」
ぞっとするほどの声に、男は身を返した。
巨大な月を背に、美しい女が佇んでいる。
月下には思えない。
男は後じさり、崖前に来て停まった。
幹の腕がそろりと上がり、そして白い手は葉を生やした。
それが伸び、男の頬に触れる。
途端に男が叫ぶと彼は密集した葉にぐるりと囲まれて、刹那逃げて行った。
だがまた枝が伸びて葉が彼を包み転んでは立ち上がって、途端、そして柘植の木になった。
「………」
新しい柘植の木のところへ歩き、月下は静かな手で男だった木の葉を撫でては、微笑んだ。
そして、崖を振り返った。
ゆっくり歩いていきながら、馬も逃げた中、ポロポロ涙が零れていく。
涙の雫はたくさん地に落ちると共に柘植の芽になり月光の下、成長して木になって行く。
何本もの柘植の木の路が出来ていき、そして涙を拭って駆け寄った。
崖縁に手を掛け、震える声で呼ぶ。
「夏様……?」
飛沫が夜にうねるだけだ。白く砕けて、他に海以外に波が見えようか。
「夏様」
雲が月を隠し月下を人にして、彼女は崩れて泣いた。
崖から離れてとぼとぼ歩いていき、木の幹に泣きついた。
静かに、静かに。

<十一の巻> 夏花

 「目覚めなされ」
彼女はうっすらと意識が目覚め始めた。
感覚は流れるようだった。水に包まれていたのだから。
夏花は瞼をこじ開けると眉を潜めて全身にまとまりつく長い黒髪の腕を上げた。
頬に砂がつき、ぱらぱらと音を立てる。ゆっくりおきあがり、砂を掴んで力を込め腕を立てた。
「此処は」
衝撃はあった。ゆるやかに覚えているだけだが。あっと思った時は気が遠のいてそしてしたたか肩に衝撃が走ると完全に分からなくなった。
見回すと、驚いて真っ赤な夕日を見た。
闇に落ちた砂浜は既に黒い帯を引いたようだ。波が音を一定にあげつづけ、そしてその先の海は、自分が落ちた海。
魔が宿るような澄んだ赤い夕暮は、彼女を一瞬にして震え上がらせた。
髪を引き寄せ腕を抱え、ガタガタふるえると声を掛けて来た人物を思い出して顔をあげた。
「ここは貴女様のおった世じゃない」
「?」
彼女はぼろを着た老人を見上げ首を傾げた。
「どういう……。早く帰らなければ、月下がどうなるか。男に連れ去られる」
一気に鼻腔に甘い薫りが占領し、夏花は立ち上がって見回した。
「無駄じゃ」
「いかにございます? ご老体、あなたは人であって心が違うと申しますか」
視野の横を、赤い花弁が流れていった。香りの素。
それは、月下が時季に咲かせる柘植の花とはまた違った。舞う赤の花弁などはじめてみた。
夏花は一歩踏み出す。
周りを見回す。
向こうに崖がそそり立ち、波がはじけている。同じ形を作ることなく、凶暴な態で。
夏花は笑顔に成り浜辺を駆けて行った。
「月下!」
だが聴こえるはずも無いのか、崖淵の月下は全くこちらを見ない。
夏花は辺りを見て、走って行った。木々が生い茂る方からあがっていき、崖上へ行くのだ。
「待ちなされや! あちらへはいけぬ」
老人が言うが彼女は聞き入れずに走って行った。
夏花は枝で白い腕を切りながらも夢中で駆けていき、ふと思い出して腰元を探った。
あった。
竹笛だ。崖から海を見ながら二人、自分は笛、彼女は唄をという時間が尊かった。
笛を片手に森を走って行き、夏花は息を切らし走った。

<十二の巻> 月下

 月下は目を開き、痛い程に掴まれる手首をそろそろと振り返った。
視野端にぱらぱらと小石が落ちていき、夕暮の赤い空を背景にした月下は顔をあげた。
そこにいたのは、怖い顔をして目を吊り上げた青年だった。
「佐吉朗さん……」
赤い花弁が舞いつづけ、涙の頬に触れては風で離れて行った。
佐吉朗は月下をきつく抱き締めると離し、淵から引っ張っていった。
「!」
月下は驚いて腕を振り払おうとしても適わない。
「放っておいて!」
「駄目だ!」
佐吉朗が怒鳴り、柘植の幹に背をつけさせた。
「夏花がいる海に私も」
「まだ見つかって無い。どこかに流されて生きているかも知れないんだぞ」
有無を言わせずに連れて行き、月下は涙をぼたぼたと零しながら顔を歪め泣き引っ張っていかれ歩き、佐吉朗はふと立ち止まった。
足横から何本もの木が伸びていき、緑の葉が視野にまで……。
「………」
佐吉朗は振り返った。
その瞬間、いつの間にか柘植の木が何本も立つ中に月下が根を地にはり緑の葉が繁り始めていた。
「月下?」
幹に覆われ泣きそぼる白い顔立ちは涙を流し、それが落ちるごとに芽が生えてどんどん木になって行く。
「………」
佐吉朗は月下の顔が幹で隠れる寸前腕を伸ばし、竹笛が聴こえた。
月下は葉に覆われた頬上の目を開き、僅かに残る唇が象った。
「夏」
佐吉朗は月下を見た。
夕暮は既に暗い色。自棄に強い光りの月は葉陰にいる彼等や光沢ある葉、幹を照らし、そして月下の白い微笑みも照らした。
影から見守り続けた月下が微笑み続けるなら、夏花様を欠いてはいけない。佐吉朗は竹笛の方へ声を上げた。
「夏様か! こちらです!」
だが、佐吉朗の声は響くばかり、不気味に徐々に暗くなって行く中、竹笛も聞こえるだけで一向に近づける様子も無い。
月下はすっと幹から袂と真っ白い足を出し、ぬっと柘植から出て来ては佐吉朗はどうやら夢を見ているのか、なんなのか前後不覚になりかけるままにぼうっと彼女の横顔を見た。
こんなに妖しげな美しさだったろうか? 昔、夜に出歩く繊細な顔立ちの月下よりも、崇高な何かが嗅ぎ取れる。
月下がゆらゆらと裾を引き釣りながら歩いていく。
「夏様……。夏様」
おぼろげな声が響く。
柘植林の先は暗がりで、どこからが元からの森なのか、そしてどこからが危ない崖なのか分からなくなっていた。
「夏花」
竹笛は遠のくばかり。
でも彼女が生きている。確信して、もどかしさを抱えながら焦り小走りで進む。
「佐吉さん」
「はい」
「わたくしは幻聴を?」
「俺にも聴こえた」
まるで幽霊の様にゆらめき聴こえる竹笛が、月下の心を安らかにさせた。
せっかく父と母の元から家を出て夏花と過ごせている。美しい髪の代償はいらない。愛がそのままで欲しい……。
「夏!!」
「月下……どこ月下!」
「夏!!」
相手には声が聴こえていないみたいだ。
なのに、まるですぐそこに竹笛の音を感じた。
「いるの? ここに、いるの……? まさか、闇になったんじゃあるまい」
月下は月を見上げた。
彼女を照らし、それでも夏花を照らさないまま。
「どこへいきなさった」
老人の声が闇の遠くから聞こえる。それに、蝋燭のあかりもかすかに揺れている。
「どこじゃ」
「どなた?」
「夏様。どちらへ」
「月下!」
闇はまやかしだろうか。誰もが通じれない。
「どこへ行ったの……」
「夏……」
月下はうつむいた。
「!」
いきなり肩をぐんっと引かれ、月下は驚き咄嗟に振り返った。
そこには灯篭を下げた父の顔があった。
「……父上」
表情は無く、その背後には柘植の木に母蛇が絡まりこうべを上げそろりと月下を見ている。
灯篭が父の顔も、そして薄闇の中の蛇の鱗や葉の光沢を映していた。
表情無く静かに見おろして来る父の頬や首下、下腕には赤の花弁がついている。
あの薫りが高い赤の花弁が舞った時点で追いつかれることは分かっていたのだ。
彼等は花弁に乗せ夢を辿って長距離を移動できる。
両親がそれを出来なかったのは彼女達が逃げていた周辺に柘植の木は配されていなかった為だ。
母蛇が赤い花弁と同じ様な色の細い舌を出し、するすると幹を移動している。
「驚いた。駿作様」
横目から顔を向けると彼は佐吉朗に頷き、声のする闇を一通り見渡した。
「いけません」
夏花をまだ狙っているのかもしれない。息子が生まれて将来の後継ぎが出来たとしても。
月下の黒髪を梳かすべく櫛の心にするべく夏花の魂を。
闇を見る父の横顔を見上げ、月下は言った。
「どうか」
「シ、静かに」
駿作が指を当て、そして月下を見た。
「この闇は二つの夜を重ねた世界だ」
「え?」
「海に落ちたのでしょう?」
ぬっと蛇が動いたと同時に、黒髪の蛇顔女が鋭い目を剥き微笑み言い、着物の袂を出て来た白く細い手で引き寄せ顔立ちも夜七になった。
「な、なん、」
驚いた佐吉朗は駿作の横に微笑み並んだ夜七を見た。
彼女は美しい手をそっと駿作の肩に乗せ、蛇の様な美しい顔で青年を見た。
「夏様はどういう」
今も、月下を探す夏花の声がする。
「夏様は今まやかしによって魂を縛られている。彼に見初められるとちょっと厄介でね。こちらが手にいれずとも、あの珠の様な魂を持ってかれちまう。それを夏様は気づいてるやらねえ……」
「え?」
「ふふ」と母が微笑み、腕を組む袂から扇子を出すとゆっくり煽いだ。
「夏様のいつもの勇ましさでなんとかできりゃいいんだけれど、老人の姿をしたものには優しかろうてね」
やはり、夏花のことを探す男の声が響いていた。
「あのまやかしはね、本来は小さな体をした女の子のまやかしで、綺麗な魂をあつめて壷の中に収集して楽しんでいるんだ。そしてそれを食べて生きている」
その話を聴き、月下がふらついた。すっと駿作が支え、久し振りのしっかりした腕の感覚に今のときだと言うのに体の弱く何度となく倒れてきた月下は涙を流して顔を覆った。
「今は弱くなってはいけないよ。こちらに気付いてやってくる」
「この闇はその女の子が作り出しているもの?」
「ええ。気に入りを持ってかれない様にね。ただ、自分も探せなくなるから今のうちが見つけ時」
「今だけは夏様をどうか」
「案ずるな」
父が微笑し言い、しゅっと蛇に戻った母蛇は地面をうねり進んでいった。

<十三の巻> 夏花

 夏花は甘い香りに包まれながら、柘植の木に手を当てた。
遠くからは潮騒が轟いている。竹笛を下げ、耳を闇に澄ませた。
柘植の森はどこかしら安心感があり、そしてそこはかとない「逢いたい」という願望にうずまかれていて彼女自身の心と密接に繋がっていた。
ふと目を向けると、赤い花弁が風も無いのにひらりと降りて来て、そして濃密に香る。
見たことの無い不思議な花弁で、彼女はふと、顔をあげた。
蛇が地を這いやってくる。人間である夏花のところへ来ては、いきなり事に驚いた。
夜七になったからだ。
彼女は紅の唇に指を当て、夏花を喋らせなかった。
彼女は袂を返し、夏花の周りを身を返し回り姿を見た。美しい大人の娘になったものだ。目には今の生活で培った優雅だけではもう済まされない頼もしい光があった。上品であった仕草もきっぱりとしている。
そして夜七は肩越しに微笑しては歩いて行く。
夏花はここがどこの世であるか不明な内は、月下の母があやかしであるのか、案内人であるのか判別も難しいままについていった。
いまだに老人の声は近付いては遠ざかっていく。
夏花は彼女の横に並び、そして歩きながら囁いた。
「貴女様は」
「蛇の目は闇に慣れている。これしきの靄でなにが隠せるものか」
彼女の肩越しに艶の目を上げ、黒髪がうりざねの輪郭を艶めかせて飾り、いつでも不敵な唇が闇を背に溶け込んで進んでいった。
「わたくしをお怒りでしょう。月下を浚いましたゆえに」
「はは、娘の涙を喜ぶ親はいまい。あたくしはね、彼女が悦ぶ為に夏様を選んだの」
ああ、思い出した。
あの障子の先に一瞬浮んだあの大蛇の影を。
それは、夜七様だったのだ。
「もし。どちらへ行きなさった。闇は危険だというものを、こちらへいらっしゃい」
「ご老体が呼んでいる。助けてくださった恩人だ」
「彼は稚児だ。姿を変えているだけでね。そら」
いきなり夜七が大蛇に変わり、咄嗟に叫び掛けたが胴をするすると巻かれて木の幹をあがっていき、木の上に出た。
胴を大蛇がうねり一気に視界に広がった夜空は天の川を幾つもの流れ星が流れて行く。潮風はうねる音であって、そして月光が大蛇のうろこを光らせていた。
ゆらゆらと風で夏花の黒髪が揺れ、下方を見る。
柘植の森は緑が濃くひろがり、そして向こうにはここまで来た時に馬を走らせた森がどこまでも続いていた。
「崖の丘が森になっている」
細かい葉は月光の光沢を受けていた。自分達の影がうねりうつっている。
夏花は竹笛を構え、そっと唇に当てた。
温かみのある音色がそっと響き始める。
とたんに、高い子供の声が聴こえた。
「見つけた!」
「!」
夏花は、大蛇に飛びしがみついた稚児とも思えない体力の女の子を見て竹笛を取り落としそうになった。見開かれたその目は笑顔を夏花に向けている。
「ほら出て来た」
「わ!」
稚児が夏花の足首を掴んで、同時に向こうに柘植の木が一本高くなった。
それが月下だと夏花には瞬時に分かった。
その枝には駿作が乗り、風を受けてはふっと、こちらに微笑んだ。
「魂の蜜にこの香りが似合おう」
駿作の声に稚児はそちらを振り返り、手の平から夜の空に赤の花弁が流れていった。
それは崖の上にいた美しい女の頬を優しく撫でた赤の花弁だった。
稚児はその甘い香りの元に吸い寄せられるようにトントンと跳び進んでいく。
「それを頂戴」
月下の柘植の木まで来て下の枝から上の枝の駿作の見上げ腕を伸ばしている。
その腰元には壷が掛けられていた。夏花の魂を入れるための壷だ。
月下はすっと父の背後に姿を現し、稚児はその魂が欲しくなり浮かれはしゃいで幹を登って来る。
そこまでつくと、駿作と月下を見上げ、にこにこと笑った。
「欲しい。夜七殿はいじわるをしてあのおなごをくれぬ。彼女が食べてしまう気だ。目をみれば分かるから」
月下が上目で母である大蛇を見て、夏花はやはり捉えられていた。
「駿作殿は稚児の味方じゃ」
彼等の葉にうつる影は角が浮びあがっている。
月下は目を綴じ、耳をそばだてた。
紡がれた記憶を読み解いているのだ。
多くの柘植たちの中から、聴こえてくるのは様々な記憶の面影。
涙を流した時の月下の脳裏に埋め尽くされた美しい記憶たち。
クワを肩に担ぎ太陽の様に微笑む夏花。琴の線を張り替える穏やかな顔の夏花。夜は竹笛を構え凛とした横顔で月光に瞳を光らせた夏花。月下の夕餉を喜んで食べる夏花。馬に乗る夏花の背に頬を寄せて安堵する自分。柘植の櫛で梳かしながら語った両親との思い出。星に願いを掛け合った瞬間の微笑みなど……。
月下は夏花との尊い思い出と記憶の優しさの中で抱かれながら風にそよがれ、そして見つけた。
美しい黄緑の木々に囲まれた場所を。
多くの女達の駆け回る声がする。美しい庭園の舞台には。政の舞いを踊る女達、それを愉しげに見ている粋な者達、その彼等に茶菓子をもてなし駆け回る女達、せせらぎは輝き、小鳥達が囀り光の中を行く。琴、三味線、竹笛、鈴、それらが鳴らされ、色とりどりの衣裳を着て白粉に紅をさした顔、面をつけた者たちが舞う。
美しい記憶は、あの翠葉園の男の記憶だった。
月下は迷った。まだ木の中で男は生きている。夏花を追い詰めた男の魂をと思っていたが、分ってしまった。
男の視線はいつでも夏花を見ていた。だから身を張って取り返しにきたのだろう。彼女を奪い美しい翠葉の場から連れ出した自分から。
月下は様々な美しい記憶が交差する中、天の川を見上げた。
煌く星が物事をささやかにさせる。
柘植の森の上で。
「!」
月下は顔を下げ、稚児を見た。稚児は月下の腕の中で丸まり微笑んで眠っていた。
「おやおや」
駿作は微笑んで稚児の頬をなで月下を見た。
「珍しい。お前の生きた記憶に惚れこんだらしい」
「美しい物が好きなこと」
安堵として稚児は眠っていて、微笑んでいた。
月下は視線をやり、翠葉園の輝きの綴られる方向を見た。
すると、あちらで柘植の木が一本高くなって行く。そして葉枝に包まれたあの男が現れた。
その彼を枝はその地面に降ろしてやった。
上の状況を葉陰から見ていた佐吉朗は走って行き、翠葉園の男が横たわる所へ来た。
「おい」
頬を叩くと、はっと目を覚ました男は佐吉朗を見た。
そして、その後ろにそろりと大きなこうべを垂れて舌をちらつかせて木に絡み下がる大蛇も……。
「わあっ」
男は叫び、闇の消えた柘植の森の中を無我夢中で走って行った。
そして叫ばれた佐吉朗は瞬きし、首を傾げた。
向こうから皆が歩いてくる。
佐吉朗が振り返る前に、大蛇は夜七に戻って彼の横にいた。
「その稚児は」
「あたしらが連れ帰る事にする。この魂取り稚児は飼い慣らせば、使えるからねえ」
同じく魂を取るまやかしである彼等だ。それを月下以外は知らない。
「一人子が増えるぐらい、良い遊び相手さ」
駿作は片腕に稚児を抱え稚児は肩に頬を乗せ眠っており、そして夫婦の周りに真っ赤な花弁がうずまいた。
甘い香りに包まれて、螺旋を描いて彼等夫婦が囲まれ葉陰向こうの夜空へ上がって行った。
俊作が涼やかな目を向こうへやり、人々の眠り見る夢の紡がれる方向へ赤い花弁の河に乗り飛んでいった。
「じゃあ、またな」
駿作は娘に微笑し、夜七も扇子で笑んだ紅を隠し彼女を見ては、顔を戻し一気に流れていった。
赤い花弁が嵐の様に舞う。
「父上! 母上!」
優しく泣き濡った崖上の自分の頬を撫でた赤の花弁の記憶に、両親の心の香りに抱かれたことを思い出す。あの絶望の瞬間に。急いで駆けつけてくれたのだ。
花の渦も天の川へ吸い込まれ、月下は夏花と佐吉朗にしがみついた。
夏花は彼女の艶の黒髪をなで、頬を寄せた。
あの稚児は分かっていたのだろう。美しい記憶で埋め尽くされた魂の屍を好むまやかしだ。
「駿作様に言い、父のところへあの見たことの無い不思議な花を用達できないものか。うーん」
花道家元の息子であるが何の繊細な心も持ち合わせて居ない佐吉朗が言い、月下は笑った。
あれは全て柘植の彫刻を施してきた中で削られてきたもので、それを幻惑で赤い花弁にしているものだ。それに乗り彼等は夢を伝い移動している。いつでも土間の横に溜められたその削り代は様々な用途がある。甘い香りは幻覚だ。
月下はそれを言わずに、夏花を見た。
「佐吉朗さんが助けてくださったの」
「君が」
「たいしたことは」
「本当よ夏花。彼がいなければきっと。どうもありがとうございます佐吉さん」
佐吉朗は頬を赤くし、照れたように歯を見せ微笑んだ。
「わたしからも礼を言います。駆けつけてくれてありがとう。佐吉」
夏花が、随分男前になった青年を見て力強く手を取った。夏花に惚れている佐吉郎は耳まで赤くし、勇ましい顔で強く頷いた。
小さい頃から佐吉朗を知っているが、随分顔つきもしっかりしてきた。まだ花道の関係は不器用かもしれないが、二人のところへ来た彼が野山で摘んできた草花で女二人の小屋に時々生けてくれる花は、野性味と共に男としての優しさがあり、佐吉郎らしい趣があった。
「俺は急いで町へ帰ります。翠葉園の者がどうなってるか。また様子、見に来ます」
二人が何か言う前に佐吉郎は走って行った。
「佐吉さん!」
木々の先に消えていき、月下は手を下げた。

<十四の巻> 月花

 終幕



 しばらく、月下と夏花は二人佇んで柘植の森の中、風の音を聴くように目を閉ざした。
「竹笛……吹いて」
夏花は目を開き、白い瞼の月下の横顔を見た。月光と葉陰に描かれる美しい顔。
夏花は微笑み、彼女の柔らかい手を持ち歩いていった。
木々の間を行き、崖に出た。
潮風に吹かれながら、髪が舞う。袂や裾がはためく中を潮騒に混じって竹笛が夜をうねるように奏でられた。
天の川は空に大河を描き、そして海原に沈んでいく巨大な月はいつでも幻影のような風景だ。
飛沫は崖の下で細かく砕かれた雪のようで、しばし恐怖を覚えさせたものだが、今は怖くなど無かった。
泣き崩れた崖淵はうねるようにそそり立つ何本もの柘植が不思議な形でたっている。
夏花の竹笛を聴きながら、柘植の森を見渡した。不思議な形の柘植の幹に手を当て、こめかみを当てながら。
風に黒髪がそよがれ、そして崖から吹き上げる風が月下の背や黒髪を撫でて行く。
夏花は海原から横目でその美しい月下の風情を見つめながら奏で、そしてそっと唇から竹笛を離した。
月下の肩を引き寄せ共に彼女の見ている方向を見る。
柘植の木々は立派に立ち、葉に月の光を受けていた。
「わたくし、とても幸せです」
夏花も頷き、潮騒を背に目を閉じた。
二人を優しく包む潮騒は、今静かな気持ちを森の中へと送っていった。
柘植の櫛で美しく梳かされた月下の黒髪に指を通しながら、夏花はずっとここにいたいと思った。
二人、此処にい続けたい。
袂から柘植の櫛を出し、月下は夏花の海水にやられた髪を梳かそうとした。
「いいんだ。風にあおられた月下の髪を梳かして差し上げる」
月下は頷き微笑んだ。
すー、すー、と音を立て、波の音も紛れて更なる艶が走る。
風にさらさらと長い髪が流れていき、夏花を幸せにさせた。
このまま、ここに二人根を張っても構わないと夏花には思えた。
柘植の木になって、大好きなこの美しい場所で……。
月下は美しい声で唄い目を綴じ、夏花は微笑んで彼女の髪を梳かしつづけた。
そんな二人を、沈み行く月が照らしている。
優しく。厳かに。
波の音はかるで自然の奏でる琴の音の如く続く。

いづこの月花

いづこの月花

江戸時代を舞台にした不可思議な物語です。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-03-14

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